はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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待ち時間長き人生の安らぎ

胸を張って得意と言えることはあまりないが、待つことは得意分野だ。
娘の送り迎えなど、暗くなった無人駅で待たせるわけにはいかないので、早め早めに出発する。その上中央線はよく遅れるので、余計に待ち時間が長くなることも多い。読みたい本があれば持って出るし、調べようと思っていたレシピなどを検索する場合もある。
しかし本もケータイも開かずボーっと考え事をしたり、考え事をしているふりをしたりもする。ボーっとする時間が、必要不可欠な体質にできているのだ。
「時は金なりと言いますよ」と叱られそうだが、わたしの人生、半分はボーっとする時間で構成されている。これが無ければわたしではないと、今では確信する。時間がもったいないと思う時期も、とうに通り過ぎた。
ボーっと空を眺めたり、ボーっと風の音を聞いたり、ボーっと酒を飲んだりして、一日一日が過ぎて行く。豊かな時間だとも言えるし、空虚な時を過ごしているようにも思う。そしてそれは、どちらでもいいようにも思う。
昨日も一日、よく待った。免許証を紛失した娘のために運転手をし、警察署、運転免許センターで待ち、ケータイが壊れたままの彼女のためにdocomoショップでも、また待った。

そんなわたしのもっとも苦手とするところは、人を待たせることである。待っている時には安らかなる時間も、待たせていると思うと気が急いてどうにも落ち着かない。基本的に気が小さいのだ。
「やあやあ、待たせたね」と、のんびりと言えるような太っ腹な人間に、いつかはなれるのだろうか。ちょっと憧れる。

docomoショップの隣のマックで、ボーっと珈琲を飲みました。
うとうとと、すっかり眠たくなりましたが、
1年ぶりに運転する娘に冷や汗をかきつつ助手席に座り、目が覚めました。

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我が家の家訓

粉雪が舞う日、真夏のオーストラリアから娘が帰ってきた。1年間、オーストラリアでワーキングホリデーを楽しんできた娘だ。
娘の部屋は、ベッドカバーも洗い立ての冬使用に変えてあるし、ざっと掃除もした。疲れているだろうし、夕飯は茶碗蒸しと肉豆腐、紫大根の酢漬けという、お腹に優しい献立を用意した。そして午後3時、わたしは風呂に入った。
何故に風呂? と思われるかもしれない。彼の帰りを待ちわびる遠距離恋愛中の彼女じゃあるまいし、と。しかし風呂はキーである。
「お風呂、入るね」とわたしが言った場合は、すべて込々約30分で済む。ズボラなのでドライヤーもかけず、基礎化粧も簡単だ。しかし娘の場合、極普通で2時間は風呂場にいる。魚になっているんじゃないかと心配になるほどの長湯なのだ。我が家のギネスでは6時間を記録した。「風呂は、娘が帰る前に」我が家の家訓である。

帰ってきた彼女は、少しも変わっていなかった。
しかし言った。「お母さん、小さくなったんじゃない?」
娘が大きくなったのか。娘が見た世界が大きかったのか。
そしてオーストラリアでは一度も風呂につからなかったという娘の長湯は、これからも続くのだろうか。
「で、何て名前で、何歳なの?」「サムだよ。24歳くらいかな」
4月からひと月ステイする予定の、オーストラリア男子のことである。日本語を勉強中のサムに出会い、ステイを申し出たらしい。
春は静かに穏やかに近づいている……だけではなさそうだ。

お土産のアボリジニアート。カンガルーを中心に描かれたブーメランが素敵。
布に描かれたものは、草原の中ブーメランを持ち火を囲む人々だそうです。
地図マニアの夫のために地図を買ってくるところなどは、さすが娘歴22年。

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頭を振って、忘れつつ

「最近、忘れっぽくなって、やばい」夫が嘆いている。
会社を出る時に、あれやこれや忘れて取りに戻ることが多くなったそうだ。まあ、わたし達の年齢なら物忘れのひとつやふたつや30くらいは当然である。
「ほら、あれがさ」「うん、あれね」
ツーカーとも言えなくもない会話だが、ふたりして「あれ」なるものの名が思い出せず、しかし困ることもないので放っておく。まあ、わたし達の年齢なら、こんなことも当たり前だろう。だが、忙しい朝の出来事だった。
「行ってきまーす」夫が玄関で靴を履こうとしている。
「お父さん、鞄、忘れてるよ!」追いかけるわたし。
「あ」夫は二の句が継げず、ふたり苦笑いするよりなかった。財布も手帳も、パソコンだって入った七つ道具入りの鞄だ。サザエさんじゃないんだからと苦笑しつつ、しかしまあ、わたし達の年齢なら、許容範囲? だろうか。

わたしはもともと夫より遥かに忘れっぽい。だがら忘れっぽい人には寛容だ。
山本文緒の短編集『ブラック・ティー』(角川文庫)に収められた『ニワトリ』は、そんな意味合いでも大好きで、繰り返し読んだ小説。
主人公は、忘れっぽいを通り越し、様々なことを気にも留めず22歳まで暮らしてきた。それがある日、ルームシェアしている妹に言われる。子どもの頃から今までに、貸したのに返してもらってないものをあげ連ね、返してと。

「お姉ちゃんって、本当にニワトリね」
赤く染まった化粧パフをゴミ箱に放って、妹はぽつんと言った。私は湯飲みに伸ばした手を止める。
「脳みそがさ、ほんのちょっとしか入ってないんじゃないの。で、トサカ振ったとたんに、何もかも忘れちゃうのよ、きっと」
妹は今まで見せたことのない、大人の笑顔でそう言った。

落ち込んだ主人公は、恋人に会いに行こうと考えて、昨夜別れようと言われたんだったと思いだし愕然とする。しかしラストには思わぬ展開が待っていた。
頭を振って忘れつつ、生きていくくらいの方が丁度いいのかも。
「忘れることは人間の特技だ」とは何処のどなたの言葉でしたっけ。忘れた。

山本文緒、短編集コレクション。
『プラナリア』(文春文庫)は「無職」を巡る5つの短編。直木賞受賞作。

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すりこぎセンチメンタル

山梨春の市、十日市場で買ったすりこぎでアボカドを磨り潰した。
白檀の枝を使ったという枝の形そのままのすりこぎ。使い心地の程はというと、ばっちりだった。小さめのマイすり鉢には長すぎると思っていたのだが、いざする段となると、これまで使っていた短いすりこぎとは違い、力が要らない。てこの原理なのだろうか。何しろ楽にすりつぶせる。「おー!」と驚きの声を上げるほどだった。いい買い物をしたと嬉しくなる。久しぶりに作ったアボカドと鮪のユッケは、また格別だった。

市ですりこぎを見つけた時に思い出したのは、川上弘美の『センセイの鞄』(平凡社)のワンシーンだった。37歳のOLツキコは、高校時代に国語を教わっていた30以上も年上のセンセイと、飲み友達である。
ふたりは、ある日喧嘩をし、同じ店で酒を飲みつつも口をきかないという日々を送っていた。巨人とアンチ巨人の、他愛もないが根も深い喧嘩だ。そのツキコが、合羽橋で仲直りにと卸金を買う。
「光っている刃物を見ているうちに、センセイに会いたくなった。そこに肌が触れれば、すっと切れて赤い血がにじみ出るだろう鋭い刃先を見ているうちに、センセイに会いたくなった。刃物の光がなぜそんな心もちを引き出すのかそのからくりは判らない、しかし無闇矢鱈とセンセイに会いたくなった」

すりこぎに刃はなく、わたしには喧嘩している相手もないが、そのシーンを思いつつ、市で手にした。物との出会いも縁。たぶん、白檀のすりこぎを使うたびにツキコの切ない心持ちを思い出すことだろう。

白くて綺麗な、でも節がしっかり残っているすりこぎです。

鮪と紫玉葱をメッツァルーナ(半月型包丁)で一緒に叩いたら、ピンク色に。
黄身を混ぜるとコクが出ます。ざっと混ぜてから、わさびソースをかけて。
味付けは、レモンとオリーブオイル、塩、粗挽き胡椒。

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ピンクに染まった紫大根と赤紫のマフラー

いただいた紫大根で甘酢漬けを作った。
美味しい。さっぱりしていて後を引く美味さだ。ネット検索したレシピは、大根を切って調味料共に密封袋に入れて揉み1日置くだけ。簡単で美味しく、何よりピンク色に染まった大根が綺麗だ。
「これ、大根の色だけなの?」夫が驚いていた。
紫キャベツ、紫玉葱などは、時々料理の色付けに楽しんで使うが、こんな風に鮮やかなピンクに染まるのは紫大根ならでは。見とれる。目で見て楽しむ料理そのものだ。箸も進む。皮を刻んで入れた柚子も効いている。

しかし、これがスーパーで袋入りで売っていたら思うだろう。着色料が入っているのだろうと。蜜柑をオレンジ色のネットに入れて売るように、売る方も美味しく見せる工夫をする。買う方も買う方で、疑う。偽物の色に騙されているんじゃないかと。残念ながらそれが当たり前の世の中だ。消費者は自分の目でしっかりと見極めなければならない。
人の目は不思議だ。光の加減や、体調や、気持ちのあり方で、たぶん見え方も変わってくる。何年か前に夫にプレゼントしたマフラーは、売り場では綺麗な紫のラインが入ったように見えた。その年の流行りが紫で、紫がポイントのマフラーをプレゼントしたかったのだ。
しかし、夫は手に取って言った。「エンジだ」
家に帰って見てみたら、確かにポイントのラインはエンジだった。
だがわたしは、頑固にも言い張った。「紫だ」と。
「紫だよね?」と、娘に同意を求めると、彼女は、夫とわたしの顔を見比べ、笑って言った。「赤紫だね」エンジでも紫でもなく、赤紫だ。
オーストラリアを出て、今フィリピンを1週間楽しんでいる上の娘である。エンジと紫の合い間を笑ってくぐり抜け、彼女は楽しい1年間を過ごしたのであろうと、紫大根の酢漬けを味わいつつ考えた。もうすぐに、そう、2日もすれば彼女は帰ってくる。

これは、ピンクか、紫か?

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鶏の照り焼きの思い出

鶏の照り焼きと言えば、新板橋のイトーヨーカドーだ。
小学生の頃「家族でお買い物」と言うと徒歩5分の商店街や、最寄駅、常盤台の東急ストアではなく、駅ひとつ隣、新板橋のヨーカドーだった。日用雑貨、普段着の洋服や文房具、本、家電などを、父の車で買いに出かけた。その買い物帰りに必ず立ち寄ったのが、肉屋で作って店頭販売していた鶏の照り焼きコーナーだった。当時のわたしには、それはそこでしか手に入らない特別なものだった。ヨーカドー= 照り焼きと、浮き浮きしたのを覚えている。

だから高校の頃、土井勝の料理本に出会い、自分で鶏の照り焼きを作った時の驚きは大きかった。まさか自分で、まさかフライパンで作れるものだなんて、想像だにしなかったのだ。
「人生って、驚きに満ちているんだ」
小さな小さなことだけれど、わたしにとっては衝撃ともいえる大きな出来事だった。しかし、我が子ども達はデリカコーナーで思っているかもしれない。
「へぇ、照り焼きって売ってるんだ」と。
それほどに鶏の照り焼きは高頻度で食卓に登場してきたのだ。

関係ないけれど、この家に引っ越して来た時にもずいぶんと驚いた。出来たと聞いていたはずの家の玄関にドアが付いてなかったのだ。しばらくはトタンを張ってもらい、窓から出入りした。やはり思った。
「人生って驚きに満ち満ちているんだ」4月に越してきて完成は7月だった。
しかし子ども達はいつか自分の家を建て、引っ越しの日に思うかもしれない。
「へぇ、もうドア付いてるんだ」と。

いつもはキャベツの千切りを添えますが、なかったのでトマトとルッコラに。
菜の花のお浸しは、これから美味しい季節ですね。

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小説「カフェ・ド・C」25. すっと馴染んだり、ようやく馴染んだり

すっと手に馴染む、ということがある。新しく仕入れたカップのことだ。しかしそれは、僕の手に馴染むだけかもしれず、万人の手に馴染むわけではないだろう。ひとりひとり違う手でカップを持ち、好みの珈琲を味わいたいと訪れてくれる。それがまだ、人間を相手にする商売の面白みでもある。常連さんの中には、そっと耳打ちするように、気に入ったカップでと注文する人もいる。今カウンターに座る常連のニシさんも、そのひとり。彼が以前言っていたのだ。
「このカップは、すっと手に馴染む。ちょうどぴったりくる。大きくもなく小さくもなく。丸過ぎずごつごつし過ぎず。まるでずっと前から知り合いだったかのように、初対面で意気投合したよ」
僕と歳の頃も変わらない彼が話すのが、以外でもあり、そういうものかと、感心もした。それで覚えている。そして僕もようやく出会った。初対面で意気投合できるカップに。

「美味いねぇ」
ニシさんは、両手でカップを抱えるようにしてマンデリンの深煎りを一口飲んだ。僕は一礼し、世間話のつもりで言った。
「珍しくスーツですね。今日は何かあるんですか?」
「送別会がね」「もう、そういう季節ですか」
「ああ。俺の送別会だがね。転勤だよ。金沢に行く。一応は栄転だ」
「そうなんですか。それは……、おめでとうございます。淋しくなります」
「向こうでも、いい珈琲屋を探すよ」
「初対面で、意気投合できるカップに出会えるといいですね」
「ああ。ほんとに。ご馳走様。美味しかったよ」
ニシさんは、静かにドアをくぐり、カフェ・ド・Cを後にした。
新しく仕入れたカップのことを話そうと思っていたが、話せなかった。もっと他のことも話せるかもしれないとも思っていた。僕はニシさんと、初対面で意気投合はできなかったが、もっともっと話を聞きたいと、何度か会ううちに思うようになっていたのだ。
今一番、好きなカップに、自分のために珈琲を淹れた。ケニアの中煎り。それは、新しく仕入れたカップでではなく、古参とも言える店を始めた頃から置いてあるものだ。すっと馴染むものもあり、時を経てようやく馴染むものもある。物も、人も。
いつかニシさんが帰ってきたら、そんな話をしたいと思いつつ、彼を真似て両手でカップを抱え、ケニアを飲んだ。
春待つ2月の柔らかな陽射しを思わせる味がした。

バレンタイン、いかがお過ごしでしたか?
洋菓子シエナの期間限定で置いたマカロンは、大好評でした。

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ピンクペッパーのつぶやき

「ピンクペッパー」という名を持ってはいるが、じつは胡椒ではない。
胡椒の味を期待したそのスパイスには、全く辛みはなかった。料理の邪魔をしない柔らかな苦みを持ち、ピンクというには赤に近く、パッと目を引く鮮やかさで料理を彩ってくれる。
カルパッチョの飾りに使いたいと思い、ネットで購入した。
胡椒はつる性植物「こしょう」の実で、ピンクペッパーは「こしょうぼく」という木に生るそうだ。違う植物であるのに、木の名にまで「こしょう」と名付けられている。
それもこれも、胡椒の粒と同じ大きさの食用の実が生るというだけで。
ピンクペッパーに文句はないのだろうか。自分は胡椒じゃないと言い張ってみたりしたいんじゃないだろうか。誰かに似ているねと言われることも、その名で呼ばれることも、あまり嬉しいことじゃないと思うんだけどな。たとえそれが、大好きな美人女優だったりしても。(言われもしないけれど)

ピンクペッパーは、帆立とピンクグレープフルーツのカルパッチョの上で、「見て見て。あたし、胡椒なんかよりずっと綺麗でしょう?」と笑っているようにも見えた。そういえばグレープフルーツも、葡萄のような房で実をつけるからと名付けられた果実だ。彼らは一つの皿の中で出会い、意気投合していたかもしれない。

「ピンク」と「ペッパー」をシャッフルして、
ピンクレディーの『ペッパー警部』などと、変換しちゃうのはわたしだけ?

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雑草も、うつむいて何かに思いを馳せる

ふきのとうが顔を出したんならと、水仙の咲く花壇の落ち葉の絨毯をめくってみた。やはり顔を出していた。水仙の芽がいっぱい。可愛い。何年か前にご近所さんにいただいてから、毎年咲く。花は薄めの黄色だ。
「そろそろ、落ち葉、片づけなくちゃなぁ」
毎年そう思いながらも、寒さに負け、億劫でもあり、落ち葉の絨毯は放りっぱなし。それでも強い植物は生き残る。その強さが、顔をのぞかせた緑の芽に感じられて愛おしくなる。

水仙の花言葉は「うぬぼれ」「自己愛」など、あまり好ましい言葉ではないが、ギリシャ神話に登場する美少年「ナルキッソス」(ナルシスト?)に由来すると言われている。ナルキッソスは、たくさんの女性から言い寄られるも、相手にせず恨みを買う。その噂を耳にした義憤の女神「ネメシス」は、水面に映る自分の姿に恋するよう魔法をかけた。彼はその片恋に憔悴して死に、水辺で水面をのぞくように咲く水仙になったという。
落ち葉に埋もれたうちの庭に芽を出す水仙には、そんな神話は似合わない。ただ力強く太陽を目指す雑草そのものだ。雑草だって、うつむいて何かに思いを馳せることもあるのだ。極々普通に生きているわたし達だって、そうであるように。うつむきがちに水仙が花を咲かせる時が待ち遠しい。

陽の光を浴びる緑に、うっとり見とれます。ついつい、時間を忘れて。
冷たい庭にも、春は一歩一歩、歩み寄って来ています。

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変化を受け入れて

山梨の春を呼ぶ市、十日市場に出かけた。木工品を集めた市。
夫が蕎麦打ちに使う、こま板を見繕うためだ。蕎麦を切るときに包丁にあてて使う、そのこま板の端が欠けてしまったのだ。
南アルプス市まで1時間ドライブし、誘導されるに任せフィットを駐車場に停め、のんびりと歩いた。お好み焼き。綿あめ。焼きそば。チョコバナナ。露店が並び人が溢れている。しかし、目当ての木工品は見当たらない。歩きに歩き市の端まで行ったが木工を扱った店は5つほどしかなかった。食べ物の露店は百件以上は出ているというのに。

市の始まりの頃は、蕎麦打ち用品やザル、包丁にまな板、臼や杵などを職人さんが買いに来たと聞く。しかし今歩いた市にはその頃の雰囲気はなかった。活気はあるが、祭りの質が変わっているのだとわかった。市も変わっていく。自然の流れなのだろう。変わったことを受け入れつつ、活気を保っていくその祭りの在りように魅かれた。それは、空に浮かぶ雲が形を変えて流れに身を任せているかのようでもあり、自分自身のなかにある心の形さえもが知らぬ間に変わっていくようでもあり。
変わっていくのを受け入れるのもまた、文化なのだろう。
木工品の店ですりこぎを買った。消費税込みで800円。木は白檀だそうだ。

臼は立派でしたが、値が張りました。
すりこぎはごつごつした山椒もありましたが使いやすそうな白檀にしました。
アボカドディップ、早くごりごりしたいです。


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夫が打った蕎麦

夫は、気が向くと蕎麦を打つ。
何処にも出かけずに、のんびり過ごした3連休のなか日。
「昼は、蕎麦にしようか」と言い、用意を始めた。
「いいね。葱もわさびもあるよ」わたしも、浮き浮きと返す。
ステンレスの直径40cmのボールに入れた蕎麦粉に、慎重に水を入れつつこねていく。蕎麦粉は、秋に収穫したという新蕎麦をネットで買ったものだ。米松(べいまつ)の丸太を半分に切って合わせた6人掛けの大きなテーブルに板を敷き、こねた蕎麦を伸ばす。こういう時、大きなテーブルはいい。蕎麦も、のびのびと何処までも平らに伸びていく。
「そろそろ、準備して」
夫から声がかかるのは、伸ばした蕎麦を切り始める頃だ。大鍋に湯を沸かし、葱を切り、麺つゆを作り、こまごまとしたものをテーブルに用意する。
1時間と待たずに、蕎麦は出来上がった。
「つやつやだね!」と、わたし。「今日のは美味いよ」と、夫。
「美味しい!」「茹で加減もばっちりだ」「最高の出来じゃん?」
夫が言うに、最近、湯の中で踊る蕎麦の表情が見えてきたらしい。手打ちの蕎麦は、切り方によってまたは伸ばした厚さによって、太さがまちまちになる。茹で時間も太さによって変えなくてはならない。1分か。1分10秒か。それだけで味も、歯ごたえも変わってくる。それを目で見て、今だという蕎麦の表情が見えてきたというのだ。確かに茹で加減にバラつきはなく、8回ほど茹でたどの蕎麦も美味かった。
繰り返しは感覚を育てる。50歳を過ぎたわたし達だが、その感覚はまだ育っているのだ。何故か、中学時代にテニス部で苦手なサーブ練習を繰り返したことを思い出した。あの頃は、下手くそでも練習だけは人一倍する子どもだったなぁと、振り返った。
夫が打ったつやつやの蕎麦を食べ、今の自分を少し反省した。

包丁は重い方がよく、ストンストンと重力で切っていくのがコツだとか。

このつやつや感は、打ち立てならではのものです。

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オオタカ効果?

バードセイバーを窓に貼った。デザインは、この辺りにも生息し、空を舞う姿もたまに見かける絶滅危惧種、オオタカだ。
一番大きな北側の窓には、何年か前にフクロウのシールを貼った。その時にはバードセイバーという名前すら知らなかった。赤松の林だった場所に家を建てたせいもあるのか、越してきてすぐの頃、野鳥が窓に衝突する事故が相次いだ。窓に木や空が映り、そこへ行こうとして衝突してしまうのだ。
茶色の三日月斑が美しいトラツグミや、大きめの黄色いクチバシが特徴的なイカルなどが、衝突のショックで死んでいるのを見つけた。可哀想だし、もともとは彼らの場所だったところに家を建てた負い目もある。何とかならないかと思っている時にフクロウシールに出会った。効果テキメンだった。窓にシールを貼ってからは一度も事故が起こらなくなったのだ。

それがこの冬、ふたたび事故が起こった。
庭に水場を作り、向日葵の種を撒くようになったせいか。隣の林の赤松が松食い虫の影響もあって少なくなり、空が広く窓に映るようになったせいか。
それで、林側の窓にも一枚貼ることにした。フクロウシールは顔だけだが、大きく開いた目がポイントだ。睨みを利かせているらしい。新しく貼ったオオタカは全身が描かれ、如何にも飛びかかってきそうな雰囲気を漂わせている。向かって行く鳥もいないだろうと思わせる迫力がある。
「期待してるよ、オオタカ」と、わたし。
しかし夫の胸には別の心配が、ふくらみ始めていた。
「鳥達、来なくなるんじゃないかな? シール貼ってから全然来ないよ」
午後、いつになく2度目の向日葵を撒き、淋しそうな背中をこちらに向けて窓の外を眺めている。
「だいじょうぶだよ。来るって」わたしは、根拠なく言った。

日本野鳥の会オリジナルデザインのバードセイバー。
最近よく来るのは、シジュウカラ、ヤマガラ、カワラヒワ、エナガ、ツグミ、シロハラ、ヒヨドリ、山鳩など。ジョウビタキも、たまに見かけます。

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おしゃべりが過ぎそうな時に

「お母さんは、口が軽い」と娘に言われる。
自分では、口は堅い方だと思っているのだが、
「まあこのくらいは、しゃべってもいいだろう」の「このくらい」に温度差があるようだ。気を付けてはいるが、特に酒が入るとしゃべりすぎる傾向にある。「まあこのくらいは、ご愛嬌さ」と、わたしは思っているのだが。

さて、口が堅い植物と言えば?  正解は、クチナシ。
クチナシは、果実が熟しても割れない。なので口を割らない「口無し」と名付けられたという説がある。そのクチナシの実を友人にもらい、きんとんを作る時に楽しんで使っている。薩摩芋が、綺麗な黄色に染まる。それが不思議で楽しい。花は純白なのに、実は様々なものを染めるのに使われているというのも面白い。パエリアにサフランの代わりに使っても良しという記述を見つけたので、今度挑戦してみよう。

クチナシの実は、半分に切って使っているが、無理やり割ってもやはり無言である。黄色く染まった薩摩芋に、何かメッセージが隠されているのだろうか。
おしゃべりが過ぎそうな時には、クチナシの実をそっとポケットに忍ばせて出かけようか。効果のほどは如何に。

お正月に食べたきんとんが忘れられないと、娘が言うので作りました。
裏漉しはサボりました。それでも、じゅうぶん美味しく食べられます。

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自分を信じてみる

久しぶりに映画館で映画を観た。久保田健彦原作『みなさん、さようなら』
伊坂幸太郎原作の『アヒルと鴨のコインロッカー』『ゴールデンスランバー』『ポテチ』などを監督した中村義洋監督作品。そして主演は濱田岳。『アヒルと―』と『ポテチ』では主役『ゴールデンスランバー』では殺し屋を演じた、中村作品お馴染みの役者だ。

主人公、悟(さとる)は「僕は一生、団地の中だけで生きていく」と12歳の春に決めた。1980年代。大型団地には何でも揃った商店街が栄え、その中でだけ生きていくこともできなくはなかった。恋も、就職も、結婚だって。
その悟の団地の中での青春、12歳から30歳を濱田岳が演じている。
濱田くんはもちろんいい味出してたが、秀逸だったのは、大塚寧々演じる悟の母親だ。団地から出ないと決めた悟に向き合い、信頼し、認めて応援した。
もし本当だったら、もし自分の子どもがこの場所から出ないで生きていくと言ったら、心配で心配で放っておけないだろう。しかし悟の母親は、放っておくのではなく、自分の目でしっかりと見つめ、彼を信じて認めた。すごいなぁと思った。そしてそれって何より悟が、自分を信じているからなんだよなぁと。いい映画だった。

わたしはもう、すっかりすぎるほど大人の年齢だが、なかなか自分を信頼できない。飽きっぽく忘れっぽく、うっかりの失敗も数知れず。不器用で人一倍努力しないと人並みにできないくせに、その努力も得意じゃない。それでも少しずつは成長もしてるはず。不覚なやつではあるけれど、そろそろ少しは自分を信じてみてもいいかも。そんな気持ちで映画館から出ると、ビルの狭間に晴れた冬の空が広がっていた。

テアトル新宿は、人もまばらでゆったりとしていました。
小さな映画館でひとりで観るには、最適の映画でした。

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食の記憶の不思議

「夕飯リクエストある?」休日は、よく夫に聞く。
これが食べたいと言ってもらった方が、作り甲斐もあるし外れも少ない。しかし食べる段になって「あ、これ昨日食べたんだった」と、夫が言うこともよくある。食の記憶というのだろうか。最近食べたものが頭の片隅にあり、それを食べたいと思ってしまうのだが、食べる段になって我に返る。昨日食べたじゃないかと。
このあいだ、山盛りのコールスローサラダを作った。キャベツは半分使った。それをふたりして食べきってしまった。なのに、翌日夫に聞くと、キャベツのサラダが食べたいと言う。
「夕べ食べたでしょ?」と言っても「キャベツが食べたい」と言うばかり。
何度か繰り返し説得する。そして彼は、ようやく山ほどのキャベツを食べたことを思い出した。そして夕飯のカレーに添えられたサラダは、レタス。シーザーサラダを平和に美味しく食べたのだった。

で、わたしの記憶には、色濃くトマトラーメンがあった。誕生日にひとり食べたトマトラーメン。
娘の私立受験の前日は、コンビニ夕飯のホテル泊まりだった。そこでわたしが買って来たのは、はるさめパスタ・トマトクリーム味。
「あれ? 何処かで食べた味?」「トマトラーメンだよ!」
娘とは別部屋で、シングル。ボケもツッコミも、ひとり演じる他なかった。
食の記憶の不思議。しかしインスタントのはるさめパスタは、想像を遥かに超える美味さだった。

ひとりなので、聞いてくれる相手もなく、静かに意味もなく歌いました。
「春雨さんから、お手紙着いた。春雨さんたら、読まずに食べた。
しーかたがないのでお手紙かーいた。さっきのトマトのご用事なあに?」

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話すこと、聞くことがあってこそ

宮部みゆきの時代物は、これまで手を付けなかった。現代ミステリーのみ読んでいた。ファンタジーには挑戦はしたものの、読み終えることはなかった。時代物は完全に食わず嫌い。しかし、友人にオススメをセレクトしてもらい、初めてその敷居をまたいだ。
読んだのは『おそろし―三島屋変調百物語事始』(角川書店)曼珠沙華の赤で鮮やかに彩られた表紙をめくると、花や手毬の和紙に目を魅かれる。装丁からもこだわりにこだわって作られた本だとわかる。

江戸は神田三島町の袋物屋、三島屋(みしまや)が舞台。17歳のおちかは、ある事件があってから心を閉ざし、実家を出て叔父の店、三島屋で働くことになった。他人に心を閉じたおちかを案ずる叔父の計らいで、人々はおちかに語り始める。胸の奥に秘めた不可思議な自分の物語を。「百物語を聞く」それが、三島屋でのおちかの仕事となったのだ。
百物語とは、日本の怪談会のスタイルで、百本の蝋燭を灯し、代わる代わる怪談や不思議話、因縁話などを語る。百の話を語り終え百本目の蝋燭を消すと本物の怪が現れるという言い伝えがある。おちかが聞くのは1対1で明るい昼間だが。一人目は曼珠沙華の花に人の顔を見る老人。二人目は屋敷にたたられた美しい女。三人目は、おちか本人。四人目は、悲恋の末、亡くなった姉の手鏡の話をする女。
おちかは、語りに心を傾けるうち、自分の傷とも向きあうようになっていく。
そしておちかに語った人々も、それぞれ自分のわだかまっていたものに向き合おうとしていく。
話すことの力、聞くことの力。その大切さを再認識した。
わたしには百物語と呼ぶような類の物語はないが、小さな出来事を家族や友人と、あーでもないこーでもないと話すこと聞くことがなければ、どんなにか無味乾燥な毎日になるだろうと改めて考えた。考えて、ぞっとした。読んだばかりの怪談よりも、余程の恐怖を覚えた。それがあってこそ生きているんだと実感した。小さな幸せをまた、見つけた。

町の洋裁教室で教わって作ったパッチワークの巾着袋。
三島屋の袋物とは、全く違うとは思いますが、一応披露します。
内側は違う布で、ポケットも付けました。

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ふふふ、ふきのとう

庭のふきのとうが、顔を出した。
まだ2月初め。早いかなと思いつつ、落ち葉を除けて土を浅く探ってみた。すぐに十ほどの小さいやつを見つけた。
「あった!」「わっ、こっちにも」
見つけると、胸の中に花が咲いたように嬉しくなる。ふふふ、ふきのとう。
「まだ、小さいね」と、夫。「来週が食べごろかな」と、わたし。
「でも、これ美味しそう。少しだけ天麩羅する?」
「散歩のついでに、堰沿いに行こうか」
ふきのとうスポットがあるのだ。びっきーを連れて熊手を持ち、ふたり繰り出した。スポットを2、3当たってみる。ふきのとうは、探し始めると止められない。不思議な魔力に取りつかれたように探し続けてしまう。楽しい。楽しくて止められない。まるで宝探しをする子どもそのものだ。しかし、うちの庭以外の何処にも、ふきのとうは顔を出していなかった。
「やっぱり来週だね」

そして、庭の大きめのものを4つだけ採って天麩羅にした。
「美味しい!」と、わたし。「にがっ!」と、夫。
確かに苦かった。しかし、美味かった。だがものすごく苦みが強い。
「まだ早いってことじゃないの?」と、夫。
そうかなぁと思いつつ、お初のふきのとうをじっくり味わった。節分、立春と暦はめくられ、これから、あちこちでふきのとうが顔を出す。楽しみだ。

左右に顔を出す、ふきのとう。
植物が芽を出す姿って素敵。命の息吹き、感じます。

天麩羅にすると緑濃く食欲がそそられます。ふきのとうには塩ですね。

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笑う門には

節分の3日。娘のリクエストを受け、恵方巻きを作った。
お弁当に持って行きたいと言うので、前日、椎茸を煮て、朝5時から出汁巻き卵を焼いた。日曜も学校へ行く彼女へのエールのつもりで海苔巻を巻く。
しかし海苔巻作りはほとんどしたことがないので、巻きすで巻く手つきも危うい。なんとか1本目が完成かと思ったが、思わぬアクシデント。
「できた。あれ? わー、海苔が2枚だったよー」と、わたし。
「まったくお母さんって、オチを付けなきゃ気が済まないの?」
娘が横で、朝食を食べながら笑っている。
「海苔のバカ」「海苔さんのせいではありません」
などと娘と笑いつつ、1枚はがし巻き直す。2本目、3本目も、きつく巻いたつもりでも端がゆるくなっていたり、会心の作はできなかった。
「端、切れば?」と、娘。「切ってもご利益あるの?」と、わたし。
「だって1本食べられないもん。南南東向いて黙って食べればだいじょうぶだよ。友達に邪魔されそうだけどねー」「黙って食べるんだ?」
「福が逃げないようにね」「淋しいね、それ」「絶対、邪魔されるよ」
早朝からにぎやかしくしゃべりつつ、小食の娘用特製ご飯少な目中太巻きの恵方巻きが完成した。
朝からふたりよく笑った。これだけ笑えば、福も来るというものだろう。
そして、娘が出かけてから気がついた。「あーっ! デンブ、入れ忘れた!」

出汁巻き卵は、友人のお母様に教わった特製。
帆立缶を入れるのが美味しさの秘けつです。
出汁巻きのまま食べる時には、中は半熟。お弁当用には中まで火を通します。

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新しい鞄を持って

新しい鞄を買った。1週間前に見つけ、買おうか迷っていた鞄だ。
ひとつには、今使っている茶革の鞄がまだ現役で頑張っていること。さらには、値段が安くはないこと。そして、持ち手がもう少し長かったらな、という希望は叶えられないこと。それでもしかし、一目惚れしたわくわく感は7日経っても忘れられなかった。

今使っている茶革の鞄は、東京駅で買った。おととしのクリスマス、夫と初島に行こうと熱海行きの電車に乗るべく東京駅で待ち合わせた。そこで、気に入って使っていた鞄の持ち手が突然取れてしまった。だが突然と思っていたのはわたしだけのようで、よくよく見れば外れた持ち手以外の場所もかなり傷んでいた。修理が有効な様子ではないとすぐにわかった。突然訪れた別れに淋しさも大きかったが、新しく鞄を買うことに迷いはなかった。それから普段使いにも仕事にも、その鞄を使っている。A4の書類も入るし、普段着にもスーツにも合う。とても重宝している。

しかし、時は春待つ2月。末娘の大学入学と共に訪れる春は、わたしにとっても特別な春だ。そう思い鞄を買った。春になったら娘の新しい下宿先に何度も行かなくてはならないだろう。焼き物の里を巡るひとり旅もしたい。夫とイタリアに行きたいねと話してもいる。仕事以外にも出かけることが増えそうだ。
新しい鞄を抱え、考える。その鞄と行く場所について。その場所で出会う人々について。新しく訪れる時間について。

持ち手は革で、全体は布。中のポケットは、茶革です。
パッチワークと刺し子の中間的雰囲気が気に入ってます。


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何でもある日?

ティーパーティは「何でもない日」に任せ、誕生日の昨日、いつもならしないことをした。「何でもない日」とは『不思議の国のアリス』ディズニー版。いかれ帽子屋と眠りネズミ、三月ウサギのティーパーティで、3人が祝っている日のことだ。誕生日は年に1度だが、誕生日じゃない「何でもない日」は年に364日。だったら何でもない日の方を祝って毎日パーティをしようじゃないかという、何とも可笑しく素敵でめちゃくちゃなシーンだ。
(ちなみに原作では、『鏡の国のアリス』でハンプティダンプティが「誕生日じゃない日にプレゼントをもらう方が得だ」とアリスに話すだけ)
で、その何でもない日じゃなかった昨日は、何でもない日にはしないことをしようと考えた。夫は仕事で東京泊だし、娘は夜9時まで勉強会だと言う。たっぷりと1日ある。いつもしないこと。いつもしないこと。考えたあげく大掃除を始めた。掃除はもともと苦手だが、右手を痛めて言い訳もでき、さらにサボっていたのだ。幸い間違えて春が来たかのようなぽかぽか陽気。窓を開け放ち、あちこちの部屋を回り、埃を落とし、丁寧に掃除機をかけた。ガスコンロとシンクも磨く。腰と腕は怠くなったが、さっぱりしたこともあり疲れも気持ちいい。炭酸水を飲みつつ休憩し、思いつく。
「ついでに、初めての体験にも挑戦しようか」
そう。何でもない日の反対は「何でもある日」だ。
「初めてと言ったら、トマトラーメンだな」一瞬で決まった。
東京本社近くに店はあるが、山梨では甲府に1件あることしか知らない。食べたことのないその味を体験するため、フィットを飛ばした。
甲府市昭和の『あかなす屋』メニューを見ると、トマトラーメンと、それをアレンジしたものの他に、如何にも辛そうなトマト酸辣湯麺(サンラータンメン)もある。一瞬迷うが初志貫徹。初めて食べたトマトラーメンだが「あれ? この味知ってる」というのが一口目、スープを飲んでの感想だった。以前、和風のパスタ屋で食べた京野菜のミネストローネスープパスタととてもよく似ていた。蓮根や茄子、水菜、柔らかく煮た九条葱などがトマトスープに合い、とても美味しかったので覚えていたのだ。好きな味だ。で、トマトラーメン初体験。硬めの細麺はこしがあり、スープは塩味控えめだがトマトの酸味で濃厚さも感じられ、ほんのり香るニンニクが効いている。癖になりそうな味だった。
さて。明日は「何でもない日」何が起こることやら。

ミネストローネとラタトウィユの中間くらいの味付けかなと思っています。
作るんなら、でも、京野菜のパスタかな。挑戦してみます。

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飛べ! ヤマガラ

今まさに、珈琲を飲もうかというその時だった。
こつん、と音がして、窓に何かが当たった。野鳥だとすぐにわかる。わたしは夫とふたり外に出て、ぶつかった鳥が落ちていないか探した。
いた。ヤマガラだ。オレンジのエプロンが特徴的で、夫が庭に撒く向日葵の種を食べに、いつもやってくる可愛いやつ。
首を少し傾げている。首の骨が折れていたらアウトだ。ヤマガラは、ゆっくりと何度も瞬きを繰り返している。脳震とうを起こしているらしい。羽根は右翼が開いたまま。着地するどころではなかったようだ。
「瞬き、してるね」と、わたし。「うん。首、どうかな」と、夫。
するとヤマガラは、確かめるようにそっと首をまっすぐにした。
「折れてないね」「うん。よかった」
空はよく晴れていて風もなく、冬の日差しがやわらかい。
ヤマガラは、また確かめるようにそっと右翼を閉じた。
「……だいじょうぶだ。飛べ! ヤマガラ」
わたしは声をかけた。しかしヤマガラは動かない。わたし達は、リビングで珈琲(グァテマラの中煎り)が冷めていくことも忘れ、ヤマガラと一緒にいた。しばらくして、夫が言った。
「飛べないんじゃないの? こいつ」
その瞬間、ヤマガラは飛んだ。ふたりヤマガラを目で追いつつ歓声を上げる。
「今の聞いてたんじゃない?」「飛べるさ! って言ったみたいだったな」
ヤマガラは、くぬぎの木の枝にとまり、もう一度羽根を確かめるようにして何度か小さく広げ、それから空に飛んで行った。
「あれじゃ、ぶつかってもしょうがないな」
夫が一緒に立っている庭の一段下がった場所から、リビングの窓を見上げた。見上げると、窓には隣の林が映っている。林の木々の間には空が広がっている。ヤマガラは、そこへ飛んで行こうとしたのだ。
「鳥避けのフクロウシール、窓に貼るか」「うん。必要だね」
わたし達は、やれやれとリビングに戻り、珈琲を飲んだ。
珈琲もう熱くはなかったが、ヤマガラの小さな命に触れた時間のおかげで、冬の日差しのようにホットでマイルドでとても美味しく感じた。

近づいて見ると、意外とぽてっとしていました。
いつも見ている颯爽と飛び回るヤマガラとは、ふんいきが違っています。

夫が撮ったカメラ目線のヤマガラ。So cute!

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いつものペースで、いつもの道を

散歩拒否だ。びっきーが小屋から出て来ないのだ。狐のように丸まり、尻尾に顔を埋めている。
「びっきー、散歩行こうよ」
声をかけると、怠そうに顔を上げるが、動こうとはしない。いつもは声などかけずとも、「わおっ、散歩ですか? 散歩ですよね、GO!」といったフットワークの軽さで飛び出して、それでまあ、わたしの左手の甲には骨折した骨を留めるチタンのネジが2本入っている訳なんだけれども。
「どうしても、行きます?」と言うようにのろのろと小屋から出て「嫌だなぁ」と恨めしそうに振り返りつつ、それでも何とか散歩に出かけた。しかし、すぐにびっきーは立ち止まった。歩きたくないのだとわかる。
「わかった。帰ろう」わたしの言葉に着いてくるも、短い距離を立ち止まりつつ、時間をかけ、何とか縮めていく。
ご飯をあげると吐き、下痢もした。
「明日、病院に連れて行った方がいいな」と夫。
「うん。今の状態が明日も続くようなら、そうする」と、わたし。
満月の夜、何度となく目覚め、夢を大量に見ながら、寝汗をかき朝を迎えた。
「おはよう。びっきー」
しかし翌日は、元気に散歩に出かけた。いつものペースでいつもの道を歩く。枯れた笹の匂いを十分に確かめ、考え、思い巡らすびっきー。急かすことなく、びっきーの調子に合わせ、それでもタイムログはそんなになかった。
いつものペースで、いつもの道を。それがどんなに大切なことなのか考えつつ、わたしは歩く。びっきーは、何を思っているのやらだが。

僕だって、ご飯を食べたくない時も、散歩に行きたくない時も、ありますよ。
これでも日々、懸命に生きているんですから。それをすぐに病院って。
だいたい、おかーさん、僕が小屋で丸まっているからと言って「狐くん」と呼ぶのは止めてください。ビキオとかビキスケとか呼ぶのも。失礼極まりない。

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小説「カフェ・ド・C」 24. 必然から生まれた偶然

大学時代の友人にメールをした。一年ぶりくらいだろうか。特に用があるわけではなかったが、急にやつのことを思い出したのだ。
開店前の準備時間、ラジオから、地域の店を紹介する3分間コーナーで、聞いたことのある声が流れた。
「看板は親子丼。小さな店だけどランチにゃ五十食は出るね。そら美味いよ」
学生時代よく飲みに通った焼き鳥屋「ひなた」の親父の声だった。
「なつかしいなぁ」それで急に、やつのことを思い出し誘った。
「たまには、ひなたの親父の顔でも見に行かないか」と。

やつ、クサカは、閉店間際、メールの返事もなしにさっそくやってきた。
「おう、いらっしゃい。久しぶり」
「元気そうだな。年賀状見たよ。女の子が生まれたんだって? 可愛いだろ」
「可愛いなんてもんじゃないよ」
クサカには、すでに娘が3人いる。
「どんどん可愛くなるから、覚悟してろ」
一瞬で一年の時間は埋められていく。
「今夜、暇?」「ひなた、行くか?」「いいねぇ」
話しはすぐにまとまった。
「あ、俺さ、今日家にケータイ忘れて来ちゃって。電話貸してくれる?」
クサカは、カウンターに十円玉を置いた。店の電話を渡すと、奥さんに夕飯はいらない、へーすけと飲みに行くと簡単に伝え、切った。
僕は何かが引っ掛かり、やつに尋ねた。
「おまえさ、メール見て来てくれたんじゃないの?」「メール?」
「今朝、ケータイにメールしたんだよ」「なんて?」
「ひなたに飲みに行こうって」「なんだよ、それ。見てねーよ」
「偶然来たのか?」「その通り」「もしかして、ラジオ聞いて?」
「ああ。親父の声聞いたら、焼き鳥食いたくなった」
「まったく、単純なのも同じってことか」
僕らはひとしきり笑い、店を閉めて「ひなた」に向かった。

同じものを聞き、同じことを考える。これは偶然ではないのかもしれない。必然から生まれた偶然とでも言おうか。時間を飛び越え、急に懐かしく思ったり、誰かに会いたくなったり。「ひなた」は今夜、そういう客でにぎわっているんじゃないかな。タイムマシンで、突然未来に送り込まれたような親父の顔が目に浮かんだ。

いつも〆には親子丼を食べてしまう。これは親父の魔法なのだろうか。

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ぴーすけの受難

ぴーすけは、調子が悪いんだと思い込んでいた。これまでクリアな高音を発していたのに、か細い声でまるで助けを求めているかのように鳴く。ぴーすけとは、沸騰すると音を鳴らすぴーぴーヤカンのことだ。
前任者が水漏れを起こし、買い換えたのは去年の春。壊れるには早いんじゃないかとは思ったが、何か詰まっているのか思いつつも、そのまま使っていた。形あるものは壊れる。頭にはその言葉が浮かび、早かれ遅かれ壊れるものを使っているんだなぁと儚い思いに浸っていたのだ。しかし何のことはない。蓋がきちんと閉まっていなかっただけだった。
「ぴーすけ、ごめん」
彼は出ない音を鳴らし、必死に訴えていたのだ。
「蓋を閉めてよー。もう沸騰してるったら!」と。
横着なわたしは、毎日洗うこともせず、更には蓋を開ける手間を惜しみ、注ぎ口から水を入れている。その上ぴーすけの悲痛な訴えにも耳を貸さず、形あるものは壊れるものよと感傷に浸っていた。ぴーすけ受難の1週間だった。
「あるがまま」を受け入れるこの性格は、いい時もあるが悪い時もある。こういったことも何度も経験済み。自分のことながら呆れ、呆れつつもまた忘れる。困ったものだ。

ヤカンにまつわる思い出に、ひとり暮らしを始めた時のことがある。友人が引っ越しの手伝いに花束持参で駆けつけてくれた。
「ありがとう」と、わたし。「花瓶ある?」と、彼女。
「残念ながらないけど、これでいいや」わたしはヤカンに花を活けた。
4つ年下の女の子だったが(その頃は。いや、今でも4つ年下なのは変わらないのだが……)その頃とても親しくしていて、ふたり無言で六畳一間のアパートを掃除していても息も詰まらず、小さな荷物はすぐに部屋に収まった。
「ありがとう。お茶でも飲もうか」
しかし、わたしの言葉に無言で答えたのは、テーブルの上の花を活けたヤカンだった。堂々としていて、いかにも花瓶らしく振舞っている。
「お湯は鍋で沸かすか」と、わたし。「そうだね」と、彼女。
わたし達は、掃除したばかりの新しい部屋で笑い、初めてのお茶を鍋で沸かし、ゆっくりと飲んだのだった。「あるがまま」を受け入れるわたしの性格は、若い頃とさして変わってはいないようだ。

22歳のわたしが使っていたヤカンも、白いヤカンでした。
でもあの頃は、ぴーぴーヤカンに何故か嫌悪感を持っていました。
家庭的過ぎる物に対する嫌悪だったのかも。
若さとは、いろいろな物を嫌悪することなのかもしれません。

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蕾、秘めたるパワー

最近、料理にケッパーを使うことを覚えた。
瓶詰になった酢漬けで、いつも行くスーパーでも手に入る。塩漬けも扱っている所では売っているみたいだが、まだ見たことはない。しかしその酢漬けの酸味と柔らかさが気に入っているので、困ってはいない。
この柔らかさは、木の実じゃないなとは思っていたが、やはり蕾だった。花が咲く前の蕾特有の歯触りが、ふきのとうと少し似ている。
花が咲く前に摘み取って、小さな蕾のうちに料理されちゃうのは、ちょっと可哀想な気もするが、蕾だからこそ、凝縮された旨味が秘められているのかもしれない。草冠に雷(かみなり)とかく蕾(つぼみ)という漢字にも、蕾が秘めるパワーが表わされている。漢字の由来は「ライ」という音から来ているみたいだが、ふきのとうに舌がしびれる感覚とか、かみなりと通づるものを感じる。ケッパーはふきのとうほど大きくないし、苦みも強くないが、蕾、秘めたるパワーは充分感じさせてくれる。

そのケッパーの酸味と合わせ、ワインビネガー、塩、オリーブオイルで味つけし、玉葱のみじん切りを混ぜたポテトサラダにハマっている。たくさん作って、朝な夕なに食卓に出し、たくさん食べている。夫の評判も上々だ。
パスタやマリネにも使えるし、ネットを検索したら、混ぜご飯に入れても美味しい、なんてレシピも見つかった。酸っぱいもの好きなわたしには、もう、なくてはならない食材だ。

混ぜご飯に挑戦もしてみますが、ケッパーはやっぱりワインに合いますね。
カルパッチョソースも研究中。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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