はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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葉っぱが美味しい季節

大根の季節。
「玄関に置いとくから」と、
びっきーとの散歩中、軽トラで通った農家さんから声をかけられる。
翌朝、玄関には大袋に入った葉つき大根がどっさり。傘地蔵を連想してしまうが、こちらはいただくばかりである。

土の付いた掘りたての大根。葉も新鮮だ。
せっせと炒め煮にして、朝食に楽しんでいる。刻んでサッと茹で、ちりめんなどと共に胡麻油で炒め、味醂と醤油を少し。薄味でも胡麻の風味が香ばしく、新鮮な葉ならではのシャキシャキ感が何とも言えず、ご飯が進む。

毎日のように食べていると、散歩中に見かける畑の大根の葉を見て、
「あ、美味しそう」と、つぶやいてしまったりする。つぶやいてしまい、考えたりする。こうして野菜が育つ様子を見て「美味しそう」だと思えるって、もしかしたら、とても幸せなことかもと。
わたしは、野菜は育てていないが、畑で育つ様子を日々見ることができる。
田んぼだって「ああ、水が入ったな」とか「緑が濃くなった」「稲が垂れてきた」などと稲刈りまでを自然と見て過ごしている。自然すぎて、感じること考えることを、忘れてしまっているのだ。
小春日和。まだ霜の降りない畑の大根の葉が、食卓の大根の葉が、小さな幸せ感じることを思い出させてくれた。

生き生きと太陽を浴びる、畑の大根達。

ざくっざっくっと切る感触が、また楽しいんです。

炒めると、緑が濃く鮮やかになります。

新米のもちもち感と、相性ぴったり!

大根の村、明野。漬物用の干し大根。初冬の風物詩です。

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「いっさら、見んずら」

北風が、吹き始めた。
まだまだ本番ではないが、八ヶ岳を覆った雲が準備している姿が見える。
冬はもう、すぐそこまで来ているのだ。
あの雲のなかで、八ヶ岳の山々は、うっすらと雪化粧していることだろう。

ここ明野町がまだ村だった13年半前、縁もゆかりもない土地に、わたし達家族は、赤松の林に家を建て、越して来た。
毎日を過ごすにつれ驚いたのは、北風の強さとその音だった。松林が奏でる風の音を、車が通過する音と聞き分けられず、歩いていて何度車を避けようと振り返ったことか。しかし、そこにはただ北風が笑って吹いているだけなのだ。
南アルプスや八ヶ岳の山々の美しさにも、圧倒された。八ヶ岳を窓から眺められる場所にと、選んだ土地だ。だが、地元の人からすれば、何故にこんなにも八ヶ岳から吹き下ろす北風にさらされる場所に家を建てるのかと、不思議がられていたようだ。

立ち話をしていて「山が綺麗ですね」と言うと「山なんか、いっさら見んずら(ちっとも見ない)」と言われた。彼らが見るのは、八ヶ岳にかかった雲なのだそうだ。雲を見て「北風が吹く」「八ヶ岳下しが来る」と判ると言う。
静かな朝でも、綿菓子で覆ったような雲が八ヶ岳全体に広がっていると、午後には必ず八ヶ岳からの冷たい北風が吹き下ろしてくる。これからの季節、晴れた空の下、小雪が混じることも増えていく。

北側の木が育ち、今は窓から眺めることはできなくなったが、散歩の度に、車で走る度に見る山々の美しさには圧倒される。10年以上経っても、山が綺麗だと思ううちは新参者なのかもしれない。しかし新参者だからこそ見えるものがあるのならば、それを失わずにもいたい。
そんなことを思いつつ、北風が強くならないうちにと薪を運び入れた。

朝は、赤岳(向かって右側)の頭が少しだけ顔を出していました。

昼、雲はふんわり乗っかってるといった感じ。

午後、形を変えつつ、だんだん分厚くなっていきました。
夕方には、強い北風が、背の高い赤松を揺らしていました。

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独特のユーモアとペーソスを、いっぱいに浴びて

東京に出た帰り、六本木で『スヌーピー展』に寄ってきた。
漫画『ピーナッツ』の個性的なキャラクター達が創りだす、独特のユーモアあふれる世界が大好きなのだ。
1万7千以上のなかから厳選したという約100点の漫画達が、テーマごとに分けられて展示されていた。
にやっと笑い、ふふふと笑い、あーあとため息をつき、なるほどーと感心したりしながらまた、くすくす笑い、ゆっくりと観て歩いた。

主人公は「おなじみいいやつ、チャーリー・ブラウン」何をやっても上手くいかない彼だが、お人よしだということだけは確か。
(GOOD OL’を「おなじみいいやつ」と訳した谷川俊太郎は、すごい!)
飼い犬スヌーピーは変装が得意な皮肉屋だし、おしゃべりでわがままなガミガミ屋女子、ルーシーや、ベートーベンマニアのピアニスト、シュローダー。安心毛布がトレードマークのライナス、「関係ないでしょ」が口癖で気が強い妹、サリー。他にもたくさんの不思議なキャラクターが、揃っている。

『ピーナッツ』このタイトルは、いつもそこにある小さな世界との意味があり、パンフには「一粒一粒毎日美味しい」とかかれていた。
キャラクターも然り。凝縮されたワンシーンも然り。
だが、キャラクターやユーモアだけじゃない。登場人物達が時折見せる大人びた顔が切なく、大人になっても共感できる部分は大きい。彼らの人生観を不意にのぞかせたような、そんなシーンに魅きつけられた人も多いはずだ。
チャーリー・ブラウンが、ベッドのなかで眠れずにいる作品に目を止めた。

 夜眠れずに問いかけることがある。「何故僕は此処にいるの?
 いったい何が目的なんだ? 僕の人生には意味があるのか?」
 すると声が聞こえる。「やめてくれ! そういう問いかけは苦手なんだ!」

自問自答である。そして彼のお腹の上では、スヌーピーが気持ちよさそうに眠っているのだ。余計なことを考えてしまうことが誰しもに在り、余計なことを考えるのはやめようと思うことも誰しもに在り、説明するのも野暮だよなぁと思うしかないほど、シンプルな絵と短い言葉でそれを見事に表現している。

短い時間だったが、独特のユーモアとペーソスを、いっぱいに浴びて、帰り道、いつになく胸がすっきりしているのを感じた。
  
最後の部屋は撮影OK。大きなフィギア(?)が並んでいました。

天井近くの壁に大きく描かれた、味わいある一コマ漫画。
  
ご先祖様の絵かな? スヌーピーが、8匹兄弟だと初めて知りました。
初期の頃の絵もまた、可愛いんです。

様々な広告にも使われています。フォード社の車、ファルコンにも。

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神楽坂散歩

ポールのコンサートの待ち合わせ時間まで、ひとりふらりと神楽坂を歩いた。
坂の途中までは何度も歩いた道だし、いつも立ち寄る陶器屋もある。お湯呑みペアの『昼の桜&夜の桜』は、そこで買い求めてもう長く使っている。
だが、行ったことのないところまで行こうと、ふらふらとウインドウショッピングと呼ぶにはカタカナ的ではない『散歩』を楽しんだ。そして、もう少し、もう少し先までと、ただただのんびり歩いた。小春日和である。

神楽坂がいいのは、真っ直ぐ歩いて面白いところだ。真っ直ぐ行って真っ直ぐ戻る。迷うことはない。方向音痴な人間には、とてもフレンドリーな場所だ。
「真っ直ぐって、いいね! 神楽坂くん」と、いいねをクリックしたくなる。

その、いつもより先に『赤城神社』はあった。
2009年に建て替えたとあり、建てたばかりの美術館のような綺麗な境内。ふらっと何故か左に逸れて進むと(ここら辺りに方向音痴の素質が、強く感じられるのだが)小さめの鳥居があった。『八耳(やつみみ)神社』とあり、小さく奉られている。
「あらゆることを聞き分ける天の耳」を持つ聖徳太子が御祭神。
「八耳さま、八耳さま、八耳さま」と3回心のなかで唱えてから願い事をすると、その天の耳で聞き、かなえてくれると言う。
お参りし、しばらく立ち止まって考えていた。
「あらゆることを聞き分ける、かぁ」
人は、そういう耳は持っていない。だから、考えるのだなぁと。
たとえ聞き分けることが上手く出来なくとも、たとえ答えは出なくとも、考えて考えて考えて、日々生きていくしかないのだ。

ふらふら歩いていたら、パッと目の前が開けて、赤城神社に出ました。

お参りして、神社の敷地内にある『あかぎカフェ』で休憩。
ランチもできる、ちょっとお洒落な空間です。
  
神楽坂は、新しいお店と古いお店が混在していて、面白いです。
広島風お好み焼き屋さんなのに、何故に野菜が並んでるの?
 
戦利品は、ハンドキーパーの梟の『ほーすけ』両羽根の後ろに穴があって、
冬の間、冷たくなった右手くんと左手くんを温めてくれそう。
これは、飯田橋の駅ビル『ラムラ』の雑貨屋で購入しました。

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ひとり一人のなかの宇宙を感じて

ポール・マッカートニーは、かっこよかった。
東京ドームで2時間半ぶっ続けで歌い続けた彼は、70歳を過ぎているなどとは、とても信じられない若々しさで、遠目(2階席、実質は3階)に見ていたこともあるが、青年そのものに見えた。歌もギターもピアノも、もちろんだが、彼特有のコミカルなパフォーマンスや、派手なことが大好きといった演出、たどたどしい日本語で笑いを取るサービス精神、本当に素敵なショーだった。何よりポール自身に、楽しくてしょうがないという気持ちがあふれていて、それが会場全体に伝わり、2回目のアンコールが終わった後には「楽しかったぁ」と、ため息とともに言葉が漏れるような時間を過ごさせてもらった。

会場には若者もいたが、同年齢以上の人が目立った。十代、二十代の頃ビートルズを毎日のように聴き、過ごしたその時を思い出しつつ聴いていた人も多いのだろう。夫も、一緒に行った夫の従弟もそうだ。だがわたしは違った。ビートルズにハマったのは2年と少し前で、この2年間を凝縮したような思いを巡らせつつ、聴いていたのだ。

ああ、あの曲。ああ、あの歌と聴きながら、気づいた。
明るくにぎやかな『オブラディ・オブラダ』や『レディ・マドンナ』は、辛い気持ちの時によく聴いた。そんなほろ苦さが、底抜けな明るさにトッピングされている。
そんな気持ちが落ち着いてくると優しいメロディラインの『ブラック・バード』や『レット・イット・ビー』を、運転しつつも泣きながら聴いたりした。涙がエッセンスとなっている。
元気いっぱいな時によく聴いたのは『ペーパーバック・ライター』や『デイ・トリッパー』そこにはただ平穏があった。

わたしは、この2年を思うが、集まった多くの人は、何年もの様々なエッセンスを振りかけた思いを抱えつつ聴いていたんだろうな。
そんなひとり一人のいくつもの思いが同じ場所に集まって、またバラバラに散っていく。そう考えると人の気持ちの不可思議さにたどりついてしまう。人というもののなかに宇宙を感じる、ファンタジックな夜だった。

ものすごい数の人いきれでした。ドームは静かに存在していますが。

会場内は、ケータイでの撮影OKでした。
わたしのケータイで2階席からでは、開演前風景はこんな感じ。
  
東京はもう、あちらこちらがクリスマスでした。

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日常に潜む、小さな謎

「何で、ここだけ椎の実が、やたらと落ちているんだろう?」と、夫。
「動物かな? 熊? は、ないか。猪もないだろうし鹿にしても獣道がないし、やっぱ猿か、栗鼠かなぁ」と、わたし。
夫とふたりでびっきーと散歩する際、秋口からその場所を通る度に、疑問を抱き、話題にしていた。椎の木もクヌギも、そこ此処に生えていて、実もあちらこちらに落ちてはいるのだが、そこに落ちた実は、不思議な集中の仕方をしているのだ。今年は、猿をこの林で見かけるようになったこともあり、多分まあ猿が木を揺らしつつ実を食べたのだろうということで話は落ち着いていた。

しかし「また何で、道路に面した此処なの? 林のなかにも椎の木はたくさんあるのに」との疑問は、胸の奥底に微かに揺れる蝋燭の炎の如く残っていた。

だが先日びっきーと歩いていて、その疑問は雲が晴れるが如く、すっきりと解けたのだ。そこは十字路の少し手前で、木が道に張り出している。丁度そこで、出会ったのだ。猿に? いや。動物などではなかった。
通り過ぎていったのは、宅配便のトラックだった。張り出した椎の木の枝に上部を当てて、椎の実を落としつつ過ぎ去っていったのだ。宅配便のトラックが、毎日のように何台も通過する場所だ。ここに、落ちた実が集まっているのも、何ら不思議ではなかったのだ。
「謎は、解けたぜ、ワトソンくん」びっきーに言うと、くうんと鳴いた。

「びっきーは、影もとぼけた感じがして可愛いね」と、おかーさん。
とぼけたっていうのは、褒め言葉なんですか? 疑問です。
姫も先日 facebook に「性格もドジで可愛い」と、かいていました。
ドジっていうのは、褒め言葉なんですか? ホント謎です。

椎の実が落ちるのも、そろそろ終わりですかね。

小春日和でいっぱい太陽に浴びたせいか、帰るなりたくさん水を飲みました。
「今、新しい水に替えてあげるから、待ってってば!」と、おかーさん。
残念ですが、待てません。ご飯は待っても、水だけは待てません。

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すべてのチーズが切れている世の中に限りなく近づいている

「えっ? みんな切れてる。これもこれも、あれも」と、わたし。
「この一番でっかい奴しかないんだ。世の中便利になりすぎたかも」と、夫。
スーパーで、スモーク用に塊のチーズを探していたのだが、5種類ほどある長四角のプロセスチーズのほとんどが『切れてるチーズ』で『切れていないチーズ』は、1種類しかなかった。

『切れてるチーズ』が発売された時には、おー便利! と感心したが、切れていないものがあって初めてその便利さは感じるもので、今では『切れてる』ことの方が当たり前になってしまったのだなぁと淋しく感じた。『切れてないチーズ』には「お好みの大きさに切ってお召し上がりください」と、これもまた、わざわざかかれている。ここまでかくなら「またはそのままがぶりとかじってお召し上がりください」くらいまでは、かいて欲しいよなぁなどと、イチャモンに近い文句も言いたくなる。(それは、イチャモンです)
だが『スローフード』や『マクロビオティック』などという言葉に関心を持ちつつも、手に取るものが便利な方向に向いていくのもしょうがないと、自分自身を振り返っても判る。便利で美味しく食べられるんなら、チーズが切れてるくらいのことで、文句を言ってはいけないのだ。

夫が作るベーコンは、文句なく美味しい。それもそのはず。1週間手作りのタレ(ピックル液)に漬け込み、1日水にさらして塩抜きし、味を落ち着かせてから、半日がかりで温度管理をしながら、ウッドデッキでのスモーク。日曜の朝、わたしが起きる前から、スタートしていた。

美味しいものを食べたいから、手間をかける。当たり前のことだ。
だが今では、当たり前だった方程式が崩れ、すべてのチーズが切れている世の中に限りなく近づいることを感じる。夫のベーコンは、そんな時代に何かメッセージでも持っているかのように、深く深くスモークの匂いを漂わせていた。

スモークチップと、肉の匂いのコラボレーション。たまりません!

「出来たかなー?」「うーん。いい感じ」
  
スモーク臭さを飛ばすために、しばらく干すそうです。豚ばら肉と沢庵。
ウッドデッキのR2-D2も、一仕事終えて、ピポピポ言っています。
言う訳、ないか(笑) ところで、C-3POは、何処行った?

ベーコンの塩味と脂のみで、ジャーマンポテトを焼きました。
イタリアワイン、モンテプルチアーノ・ダブルッツォと一緒に。

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右か左か、表か裏か

2分の1の確率で、手に取ったものに、やたらと「外れ」が多い。
たとえば毎朝つけるワンディコンタクトレンズ。左右の視力が違うので、右か左かどちらかなのだが、長年の習慣から右を先につける方がつけやすく、右用と思って手に取ると左だったというような具合だ。眼鏡をはずしてつけるわけだから、手に取って目に近づけないとわからず、どちらかなのだからと適当に手にする。それが、「あー、また今日も外れだ」と、贔屓目に見ても80%以上の確率で外れ。その上、つけるときにも表裏があり、人差し指にとった小さな薄いソフトレンズは、たいていが裏なのである。

その他にも、セーターを着る時にも背中についたタグを確かめているのに、前後ろ逆に着てしまったり、大柄の刺繍が気に入っているショールを巻く時にも、裏表逆に羽織ってしまったりする。左右もとっさに判らず「そこ、右行って」と助手席の夫に突然言われると、確実に左に行く。方向音痴だとは何度もかいたが、逆方向に歩いていることのなんと多いことか。
こうなるともう左右裏表認識能力が欠如しているか、または右脳左脳が逆になっているとか思えない。その他、考えうることとしては「どっちでもいいや、違ってたらやり直せばいいんだし」と、自分も気づかぬ心の奥深くで、いい加減さが限りなく広がり巨大な樹海を作っているという可能性くらいだ。

そんな右も左もわからないわたしだが、大人になり、仕事をして、結婚し子どもを育て、車だって運転している。なんとか人並みに生きていけるものだよなぁと、朝の洗面所でコンタクトレンズをつける度「また、外れ」と笑い、憂いつつ、2分の1以上は生きたであろう人生を振り返ってみたりするのである。

お気に入りのショールは、ベージュベースに藍色の刺繍部分がポイント。
  
買い物に行った甲斐市のショッピングモール駐車場から観た、富士山。
「横に広がったものを、縦で撮ってみるとまた面白いよ」とは、夫。
富士山の表裏問題は微妙ですが、わたしは山梨県民ですから、断然、当然!

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「称賛に値する」

「我が家の大根の煮物は、称賛に値するよなぁ」
大根を煮つつ、自分の口から出た独り言だ。その言葉に、ん? と反応した。
「『称賛に値する』って、何の本に出て来たんだっけ? あ、伊坂幸太郎だ。最近読んだ『死神の浮力』かな?」
だが、ページをめくるも『称賛に値する』は出て来ない。勘違いしていたのは『敬意を払う』だった。主人公、山野辺が言うに『敬意を払う』なんて言葉ではいくらでも言えるが、実際にやっていることは、その人のために面倒なことをするってことなんじゃないか。『敬意を払う』=『面倒なことをする』なんじゃないの? と。それが的を得ていて面白いと思ったのだ。もちろん、その言葉による小さな伏線回収も、伊坂小説のなかでは当然のようにきっちり行われていて、それが印象に残っていたというのはあるのだが。

で、調べに調べ『重力ピエロ』に出て来た印象的な言葉だと思い出した。それも、伊坂小説ナンバーワン人気の泥棒、黒澤がからんでいる。思い出した瞬間、おー! 黒澤だ! と、読んだ時の新鮮さが甦った。本音しか持たない彼の心憎いプレゼントが『称賛に値する』という花言葉を持つ「ういきょう」だったのだ。ああ『重力ピエロ』もう一回読もうかな。

ところで、最近、何年かぶりに夫がゴールを決めた。54歳で現役サッカー選手というだけでも『称賛に値する』のだが、ゴールを決め、帰ってきた彼はとてもいい顔をしていた。これこそ『称賛に値する』出来事だと思う。
もちろん『敬意を払って』洗濯をしたのは、わたしだが。

雨だったので部屋干し。薪ストーブの真上なのですぐに乾きます。
いつでも何処でも、リラックマがいる我が家。

イングランドはサッカー発祥の地。こだわりも強いようです。

リビングには、今年買ったサッカーボールが転がっています。

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右手くん、frozen heart について考える

「凍った冬が来る前に、きみの肩は溶けそうだね」
「ありがとう。今日で4回目の注射だったけど、本当に楽になったよ」
「きみの状態、五十肩を英語で frozen shoulder って言うって聞いた時に、僕が何を考えたと思う?」
「え、何だろう?」「アンデルセンの『雪の女王』なんだ」
「はいはい『雪の女王』ね。少年カイの目と心に刺さった氷の欠片を、少女ゲルダの温かい涙が解かすんだったよね」
「それが、刺さったのは女王の氷じゃなく、町に来た悪魔の鏡の欠片なんだ」
「鏡の?」「そう。そうなんだけどさ、カイの心を凍らせたのは、悪魔でも雪の女王でもないんじゃないかって、常々僕は考えていてさ」
「じゃあ、誰がカイの心を?」「鏡の欠片に映った、カイ自身だよ」
「カイが、自分自身で、自ら心を凍らせてしまったってこと?」
「うん。だから、きみが自分の心を凍らせないように助けたいと思ったんだ」
「そうかぁ。確かに僕、心まで凍りつきそうだった。frozen heart にならずに済んだのは、きみのおかげだったんだね」
「いやいや。きみが、がんばったんだよ、右手くん」
「きみが元気づけてくれて、どれだけ心強かったか。ありがとう、左手くん」

4度目の注射までこぎつけ、ほぼ痛みが引いた右手くんは、ムリをしないようにしつつもリハビリに精を出している。洗濯物も率先して干しているし、薬缶のお湯をポットに注ぐのも最後まで出来るようになった。治るまで長くて2年かかる場合もあると聞いた時には愕然としたが、注射治療を教えてくれた友人だけじゃなく、漢方を分けてくれた友人や義母、経験談を話してくれた友人、重い荷物を運んでくれた家族にも感謝の気持ちが湧き、心は frozen するどころか、ぽかぽか小春日和だ。

凍った心を溶かすのは、難しい。子ども達が幼い頃に、何度も経験したことだが、子どもが言い出したら聞かない状態になった時が、frozen heart 状態に似ていると、わたしは思っている。
小さなことで小さな心は凍る。たとえば、友達の家に迎えに行ったのに「まだ遊びたい。帰りたくない」と駄々をこねる。その時には、そう思っていたのだろうが、説得されるうち時間も経ち、お腹も減り、自分も帰りたいと思っても、心は「帰りたくない」のまま、凍りついてしまっている。子ども自身、困っているのだが、そうなると心の方がなかなか溶けてはくれないのだ。

大人になっても、自分が全く大人らしくなったとは思えない。それを考えると、大人だって子どもの時と同じく、小さなことで心が凍る時だってあるのだと判る。逆に、歳を重ね、様々な経験を積んだ心には、氷の欠片の1つや2つや30個くらいは、もともと刺さっている。その frozen した heart を溶かしてくれるのは、多分、小春日和な友人や家族、そして何よりまずは自分なのだと、右手くんと左手くんと共に日向ぼっこをしつつ考えを巡らせた。

柿をいただく機会が増えました。陽だまりを集めたような色。

びっきーの散歩用の手袋も、一緒に日向ぼっこ。

ドウダンツツジも、小春日和の太陽を浴び、真っ赤に色づきました。

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不器用なりに

基本的に、不器用である。一時に並行していくつもの仕事をこなせる人も多いが、それが出来ない性質(たち)なのだ。
だが、そうせずにはいられない時もある。そして慌ただしく忙しく、並行していくつもの仕事をしていると、必ず失敗する。家事は完璧だ!(ありえないが) と思ったら、仕事でポカミスしたりする。仕事に夢中になっていると、食事の支度を忘れていたりする。そんなんだから、子ども達が幼かった頃は、失敗だらけの人生さと、笑って忘れるしかないような日々を過ごしていた。

今は、ひとつずつ丁寧に出来るように、時間を組んでいる。
昨日も、今シーズン初おでんを煮るに当たり、frozen shoulder(五十肩)な右手くんの注射に行くのを1日伸ばした。午前中から買い物に行き、煮始めたい。だが、病院は11時まで。初おでん失敗だけは、避けたかったし、夫が帰る水曜の夜に、畑から抜いてきたばかりだといういただきものの大根で、是が非でも、熱いおでんを煮たかった。

20年前に、または10年前に比べると、のんびりと生活しているなぁと実感する。それでも忘れたり、忘れたり、忘れたり、忘れたりと、やたら失敗するのだから、嫌になってしまうが、まあもともと失敗だらけの人生さ。出来ることと出来ないことを見極めつつ、不器用なりにやっていくしかないのである。

百姓という名は、百の仕事をこなすからだとも言われています。
農家さんは、すごいなぁ。近所の畑の様子です。

重たいのに、おばあちゃんがデッキまで持ってきてくれました。

末娘が県外の大学に行き、ちくわぶを入れなくなりました。
はんぺんは、煮上がりに入れて、温める程度が好きです。
もちろん、ツーンとするくらい、辛子たっぷりで!

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階段を駆け上がっているうちは

飼い主である上の娘と、びっきーを病院に連れて行った。
右目の色が変わってきているのと、散歩の途中、歩かなくなることが増え、足も診てもらおうかということになったのだ。
13年と少し、びっきーの人生で、車に乗るのはまだ何度目か。それも、病院に行く時だけである。彼は少し不安げで「くう、くう」と微かな声を出し、何か訴えているようでもある。しかし車窓の風景を楽しんでいるようでもある。娘が後部座席で話しかけたり、頭をなでたりしている。20分ほどで病院に到着。娘が車から抱いて下ろすと、看護師の女性が「あらあら、びっきーちゃん。階段上れる?」と、びっきーに話しかけた。病院の入口の階段はなだらかなたったの2段。娘と苦笑する。我が家の玄関の階段は5段ほど。それを毎日駆け上がるびっきーなのだ。

犬の13歳という年齢は、微妙なお年頃なのだろう。歩けなくなる犬もいれば、若い頃と何ら変わりない犬もいるようだ。
確かにびっきーは、歳をとった。
知らない人や、他の犬に吠えかからなくなり、歩くのもゆっくりになった。「くう、くう」と鳴く声も微かな高音になった。黒かった顔もずいぶんと白くなり「歳とったねぇ」と会う人会う人に声をかけられるようになった。

病院では、右目は緑内障で、足は加齢とともに関節が動きにくくなっているだけだとの診断だった。目薬と、関節の潤滑油になる飲み薬を処方してもらった。体重もほとんど変わらず「食べるのは好きなのねぇ」と、看護師さんが安心したように笑った。
これからは、薬もびっきーの生活の一つに組み込まれるのかな。
しかし「まだまだ、元気ですよ」と言うかのように、家に帰ると、抱こうとする娘を上目使いに一瞥し、びっきーは軽々と車から飛び降りた。
だいじょうぶ、階段を駆け上がっているうちは心配ないと、石の階段を下りるびっきーの足元を見つめた。

車に乗るのは、久しぶりです。
姫がずっと、不安げな表情で見ていたんですけど、何か心配でも?

冬支度。新しい敷物を敷いてもらいました。うーん。温かいです。
右目がグリーンっぽく見えますが、これが緑内障だそうです。
痛くも痒くもないんです。目薬も、嫌ではありませんよ、ええ。

毎日、駆け上がる、玄関の階段。目をつぶっても上がれます。
何百回、いや何千回、上り下りしてると思ってるんですか?

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鍋のなかには

上の娘は「お腹減ったぁ」と帰って来るなり、台所の鍋のふたを開ける。

彼女の兄も、妹も、そんなことはしない。息子に関して言えば「お腹空いた」という言葉を聞いたのは、たぶん小学校に上がるくらいまで。お腹が空いても、気にせずいつも読書に夢中になっている本の虫だった。多分、今も。ただ今は、ご飯を作るのも自分なひとり暮らしなのだから、朝昼晩と規則正しくご飯が出てくる訳ではない。お腹が減ったら食べているのだろう。

下の娘は、脂っこいものを食べると調子をくずすことが多く、夜はほとんど野菜しか食べなかった。鍋の中身など、気にすることはなかった。最近会った彼女は、居酒屋で唐揚げを頬張っていたから、お腹も強くなったのだろう。ひとり暮らしで料理も楽しんでいるらしい。

で、今大学4年の共に暮らしている上の娘。彼女は、昔っからそうだった。特別好奇心が旺盛という風でもない。幼い頃、引き出しを開け、中の物を出す作業を繰り返したのは息子だった。しかし鍋のふたは、彼女のものだった。
早く帰ってくれば、まだ夕飯の支度もできていなくて、鍋は空っぽ。
「空です」と、何回言ったことか。
それでも、そこに鍋がある限り彼女はふたを開けずにはいられないのである。
そんな彼女に、わたしは特別な生命力の強さを感じる。大げさかも知れない。そして、鍋のふたを開けるのは行儀が悪いと叱るべきことなのかもしれない。だがわたしは、彼女が鍋のふたを開ける姿を見るのが好きだ。強く生きていくんだろうなと、思えるからだろうか。

さて。鍋のなかには、今日は何が入っているのやら。

いつもこんな風に、たっぷり入っていればいいんですけれど。

空っぽの鍋3兄弟。アムウェイのクイーンクックを長く愛用しています。

白菜のクリーム煮が、美味しい季節になりましたねぇ。

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空気に感謝する

同窓会に出席した。と言っても、学窓の友ではない。
19歳の頃にバイトしていた喫茶店のバイト仲間と、常連のお客さんというゆるーい同窓会。昨年声をかけてくれる友人がいて実現し、今回で2回目だ。
バイト仲間とは着かず離れず長く付き合って来たので、おたがい家族のことや近況もなんとなくは判っている。だが常連さんとは昨年30年ぶりに再会。懐かしい時間にタイムスリップしたかのような不思議な感覚を味わった。

しかし今回は、昨年の続きの女子会という趣きの方が強かった。
銀座のカラオケもできるという個室飲み放題イタリアンで、とめどなく、とりとめもなく、しゃべることしゃべること。話は尽きず、その後デニーズでお茶していたら、わっ終電! という時間になっていた。1泊の予定で出て来た遠距離のわたしは、のんびりと時間を気にせず過ごせたのが嬉しかった。

その常連さんのひとりから、胸に残る言葉を聞かせてもらった。今春、亡くなられたお父様が話していたことだと言う。
「空気は、すごい。水道や電気のようにお金を取る訳でもなく、万人に平等に呼吸をさせてくれている。感謝の気持ちを忘れないようにしたいなぁ」と。

そんな話をしてくれた彼女の口から発せられる「ありがとう」は、他の誰とも違っている。それは、同席したみんなが感じたことだと思う。この父にしてこの娘ありと、それも多分みんなが思ったことだ。
料理が、飲み物が運ばれてくる度に、お店の人に「ありがとう」と笑顔で言う。しゃべっていても、何気なく栞のように「ありがとう」が挟まれる。
彼女の言葉は、心の奥深くから自然と発せられ、胸の奥に、柔らかな新緑の木々に囲まれた美しい湖を持っているんじゃないかと疑いたくなるほど、澄んだ空気のようだ。
「ああ、わたしって何て汚れてるんだろう」
彼女に会う度に思うのだと、わたしなどより余程、心、綺麗な友人が言った。
「全く、同感」と、友人達と一緒に呼吸していることに感謝しつつ、そっと空気を吸い込んだ。その空気が普段より微かに甘く、重たさを持たない、たとえば綿菓子のようなものだと感じたのは、気のせいではない。多分。

シャンパンで、乾杯☆ グラスに入った前菜がお洒落!

サラダも、一人前ずつ大皿に盛ってあって、ケンカになりません(笑)

鮭のソテー。添えられた野菜も優しい味。

女子会っぽく(?)花束のようなフルーツが出てきました。

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おうちで、マティーニ

「おうちで、マティーニ」に挑戦してみた。
一番安いジンと、ドライベルモット、それからオリーブも買った。
買ってから作るまで、間が空いた。買ったはいいが、上手く作れる自信など毛頭なく、作り方を吟味してと考えるうちに、時間は疾風(はやて)のように過ぎて行った。買ったことさえ忘れ去るのに、そう時間も要らなくなった今、冷蔵庫で軽い冬眠状態に入っているものも少なくない。
本で言えば、積読(つんどく)というやつだ。

それが、とても簡単なマティーニの作り方を聞き、よし! と冬眠していたジンやドライベルモットを揺り起こし、始めるよーと掛け声をかけた。
飲んだのはワインバーだったが、マティーニに対するこだわりようは、嬉しくなるほどだった。
「ドライ・マティーニで、いいですか?」「はい。ドライで」
少しだけ調べていたこともあり、すんなりドライ(辛口)でと言えたし、イタリアのベルモットは甘く、フランスのものはドライだというくらいの知識は持っていた。だが見せてくれたのは、スペインのドライベルモット。それも、氷に香りを付けるのみで、あとは流し、その香りのついた氷にジンを入れステアする。(混ぜることを、そういうのだと知った)そして、よりドライにするために、オリーブはあえて入れないそうだ。

末娘が好きだった漫画『王ドロボウJING』に出て来たセリフを思い出す。
 「オリーブが入っていないマティーニなんて、
            オリーブだけのマティーニみたいなものだ」
あったぜ! オリーブが入っていない飛びきり美味しいマティーニ。
とは、口にしなかったが、我がマティーニの世界観は、一気に180度変わることとなった。何に対しても、思い込みで判断してはいけない。何事にも違った側面が、必ずと言っていいほど、あるものなのだよなぁと、腑に落ちた。
「その上、簡単じゃーん」と、作ろうという気になったのだ。で、デキは?
もちろん上手くいく訳がない。しかし辛うじてマティーニらしき味がした。
「やっぱ、いい酒と道具、揃えなくっちゃダメか」
まあ、しばらくは百均でとりあえずステアする道具だけ揃えて、安い酒で腕を磨こうかと思っている。

だいたい、カクテルグラスすらないんですよ。これじゃあねぇ。

ワインバーで使っていたジンは、鍵のマークのロンドンのもの。
値段が5倍、違いました。置いてあるだけでお洒落だなぁ、このデザイン。

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立冬、三日月、梟の声

夕闇。夜が降りてきた時間、三日月が美しかった。
その明るさに、雲達もみとれている。立冬というには、空気の冷たさは柔らかく、わたしもしばし見とれていた。

翌未明。わたしを目覚めさせたのは、梟(ふくろう)の声だった。
「ほう、ほう」と、夜の闇を壊さないようにと、そっと、しんとした声で鳴く。「ほう、ほう」羽音を聞いた気がして胸がざわざわし、やがて波は静まる。「ほう、ほう」心静かになるが、ちっとも眠くない。「ほう、ほう」覚醒のなか、違う世界から、たとえば夜からの誘いのようにも聞こえてくる。

ふいに、夜明け前の森を歩きたくなる。夜からの招待を受けたのだと言い訳し、ダウンをはおり、窓を開け、飛び出していきたくなる。
梟を探しに行くのか、三日月を追いかけていくのか、夜の闇深く入り込んでいくのか、凍っていく冬に囚われに行くのか。自分でも判らぬまま、飛び出していきたい気持ちを抑え込むように、ただただ毛布を引き上げる。

あれは、本当に梟の声なのだろうか。森の木や蔓が作り出した隙間を使い、北風の子が笛を吹く練習をしているだけなんじゃないだろうか。
探したところで梟など、何処にもいないのかもしれない。見つけたと思ったら、全く違うものに変わってしまうかもしれない。
森のなかを梟を追い、歩く自分を思ううち、ことりと静かに眠りに落ちた。

三日月の上、向こう側に、うっすら雲が見えています。

西の空には、まだ少しだけ夕焼け雲の赤さが残っていました。

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100%迷子

100%迷子になる。自分の方向音痴度を、再確認する出来事があった。

渋谷のハチ公前、スクランブル交差点で信号待ちしているところ、推定55歳、中肉中背、眼鏡使用、髪はセミロングの女性に声をかけられた。
「東急百貨店本店って、こっちですよね?」
「ああ、はい。こっちだと思います」と、わたし。
「こっちでは、ないですよね?」と、公園通りを指差して女性。
「違うと思いますよ。あっちはNHKがある方向ですね」と、わたし。
「ですよね」と、不安げに女性が言うので、それならと提案した。
「わたしも、東急本店に行くところなんで、よかったらご一緒しませんか?」
「ありがとうございます」と、女性。
しかし彼女は、信号が青になるなり、わたしから逃げるように一目散に逃げ出した。人が親切で言ってるのにと、ムッとしつつも、知らない人に声をかけられたら逃げるようにと、お母さんに教わったクチかなと考える。だがしかし、そんなにわたし、怪しく見えたのかな?
「でもさ、でもさ、声かけてきたの彼女の方だよね?」
腑に落ちないまま、わたしも彼女とは別にずんずん歩く。だが、あれ? と思った瞬間には、あるはずの東急本店が見当たらないという状況に陥っていた。
10分とかからないはずの場所に着いたのは30分後。それも交番で道を聞きようやくたどり着いたのだった。

「彼女がわたしの方向音痴を一瞬で見抜いたんだとしたら、それはそれですごいなぁ。悔しいけど」と、ひとりごち、7階のジュンク堂に向かう。
待ち合わせの1時間前に到着時間を設定して出て来たので、40分ほど早く到着したのだ。方向音痴だが、本屋で新しい本を発見する能力には自信がある。山本文緒の15年ぶりになる長編小説『なぎさ』(角川書店)が出版されたことさえ知らなかったが、発掘するのに5分とかからなかった。
だが、その後が問題だった。「レジがないよー」
キャッシャーと矢印にかかれた方向へ進めど、一向にレジが見当たらない。
「もう疲れた(泣)」
その後、落ち合った夫に呆れられたのは言うまでもない。
「東急本店に来るのに、迷ったのぉ!? すごい。信じられん」

翌日も麹町を歩いていて、道を聞かれた。
「ニューオータニは、何処ですか?」何故にみな、わたしに道を聞く!?
マタニティーマークのように『方向音痴』マークが欲しいと、本気で思った。

この看板と同じくらいの大きさの「キャッシャー」の看板がありました。
これ、わかんないでしょう!? 後ろ振り向いてもレジないんだよ!

何故同じ過ちを繰り返すのだろうとは、わたしが問いたい。
ジュンク堂に併設された『荻原珈琲』で。迷子の後はアイス珈琲が美味しい。

海の美しさのみを表現した中表紙。小説は、美しさだけで終わらない予感。

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鏡の気持ちに、寄り添って

運転中、カーブミラーを見て、気持ちが和むことがある。田んぼに映った空が見えたり、紅葉した山桜が目に眩しかったり、すれ違う車が少ない田舎町だからこそ、そんな景色もゆっくりと胸に落とし込むことができる。

我が家の近くの四つ角にも、ミラーが設置されているが、その角度が微妙にズレている。もう10年以上、直そうとする人もないが、事故も起こらず平和だ。どんなズレ方かというと、右からやって来る車が見えるはずなのに、自分が見えてしまうのだ。ボーっとしていると、あ、黒のフィットが来た、と何年経ってもとっさに、アクセルを踏むタイミングが遅れるわたしである。

最近ふと思うのだ。フィットは、ここで出会う黒のフィットのことをどう思っているのだろうかと。鏡の存在を認識し「あ、ちょっと汚れてきたなぁ。洗車して欲しいよなぁ」などと文句を言っているのか。はたまた「あ、いつもここで会うね。こんにちは。元気だった?」などと挨拶しているのか。更に想像をふくらませれば「あ、あの子だ。ポッ」などと恋心が芽生えていたりするかもしれないなどと考え、楽しんでいる。

鏡は時に、意外なものを映し出して、驚かせてくれる。そんなハッとする瞬間に出会う度、鏡がくすりと笑っているように感じる。事故を起こさず過ごさせてくれている、日本中に設置された数えきれないミラーも、様々な景色を映し出し、何かを感じたり、笑ったり、喜んだりしているといい。長い年月そこで働いて、いろいろなものを目にしてきたのだろう。感じる心が生まれても、可笑しくはないと思うのだ。
  
当然ですが、見る方向によって映る風景も変わってきます。
車からは見えない、下から覗いて撮った風景。
   
要注意人物&要注意犬? ミラーの下には、蔓が紅葉していました。

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紅葉には、気持ちを高揚させる効用がある

紅葉には、気持ちを高揚させる効用がある。って、いきなり駄洒落ネタ?
いやいや。これがけっこう的を得ているのだ。

綺麗なものを見て、ハッとする。驚きがある。気持ちが高揚する。そんな体験は誰しも持っていると思う。そのなかでも、赤と黄色に目を奪われる紅葉の美しさには、色がもたらす効用が混じっているらしい。
赤にはアドレナリンの分泌を高め、黄色にはパッと気分が明るくなる効果があるという。そして、その2色には共通して、元気が出る効果、ストレスを和らげる効果があるともかかれていた。
それって、高揚した気持ちがすとんと着地し、心を落ち着かせてくれるという至れり尽くせりの癒し効果を期待できるんじゃないかなと勝手に考えた。

何気なく、ただただ綺麗だよなぁと、歩いては見て、見ては歩いている秋の道に、ああ、わたしは、もしくは人間は、あるいは動物たちも、心癒されているのだなぁと、色の効用を調べてみて、何かがやはり、すとんと着地した。

調べたホームページには、何色だろうと好きな色がそばにあると落ち着くとあり、自分の好きな色を考えたところ、クールであるはずのみずがめ座にあるまじきことだが、『ピンク』なんじゃないかと思い至り、部屋じゅうピンクの物を置いたところを想像してみた。
「いや、絶対落ち着かないって」と、やたら落ち着かない気分になり、何処にでもある「個人差」という言葉で着地させることとした。

漆(うるし)の色の変化は、本当に面白いです。

紅葉とかいてモミジと読むくらいだから、色も形もやっぱり素敵。
「紅葉つ(もみつ)」=「葉が色づく」が、モミジの語源だとか。

山桜の赤は、深くて綺麗。ハッとさせられる赤ですね。
  
足元の白いキノコも、1週間ほどで傘が開いて色づきました。

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誰かのレシピで

夫の高校時代の友人達が、ワインを持って泊りがけでやってくるのも、恒例になった。今回は2人。ひとりは、初めての訪問だ。スペイン旅行の際、何年か向こうに住んでいた経験を持つ彼に、美味しいリストランテやバルをいくつも教えてもらい、お世話になった。
もうひとりは、もう何度も来ていて、ワインに合うイタリアン的メニューも出し尽くした。今回は日本料理にしようと、夫と計画。煮物やサラダなど、和の食材でワインを楽しめるものをと考えた。

普段使いのレシピマンネリ化もあり、facebookで募ってみると、友人が『鯵と茗荷の酢味噌和え』レシピを送ってくれた。たっぷりの白髪葱と茗荷の千切りに酢味噌で、魚が驚くほど美味しくなり、箸も進んだ。
「これは、定番になる予感だね」「うん。じつは簡単だし」
ワイン会は、気の置けない友人達らしいだらだら感で、まったりしゃべりつつ、夜更けまで続いた。レシピを教えてくれた友人に感謝である。

そんな風にして、我が家の定番になった料理がいくつかある。肉じゃがは妹の味付けだし、ラタトウィーユは、もう何年も会っていない友人に教わった。焼き茄子は義母に、レタスの煮びたしは、ご近所の健康志向な女性に教わった。ゴーヤチャンプルーも、ゴーヤを作っている農家さんに教わったレシピだ。
今回急遽、パエリヤも作った。先日友人宅のパエリヤパーティで教わったのもあり、『パエリヤフェア』との食材揃えてまっせ的なスーパーの広告を見たのもあり、やってみようかという話になった。これも定番化の予感がする。

否が応でもその料理を作る度に、教わった誰かを思い出す。長く会っていなかったりするとどうしてるかなと思ったりもする。それだけじゃなく、一緒に食べた人や、場所、会話なども、料理のスパイスになっていく。たかが料理されど料理。その心くすぐる深さと面白さを、あらためて感じさせてもらった。

夫の友人達を迎えに行った、無人駅『穴山』の夕暮れ。

鯵と茗荷の酢味噌和えを教えてもらいましたが、
鯵が手に入らず、鰯で作りました。これが、大当たり!

大根と鶏肉の煮物は、我が家の味。
大根と帆立缶のマヨネーズ和えも、定番です。

友人宅でのパエリヤパーティで教えてもらったレシピに、
初挑戦してみるも、これまた大成功! 具、欲張り過ぎたかな?

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娘の特技

23歳の上の娘は、大きな特技を持っている。
それは、様々なことを楽しむ素質だ。楽しむことにかけての情熱の傾け方は、彼女を知ってはいても、いつもながら驚かされる。どうでもいいことなど、人生において何一つないとも言うが、どうでもよさそうなことは、山ほどある。
「どうだって、いいじゃん」と娘が口にすることも多い。
血液型はA型だが、大雑把なところが目立つ性格をしている。
その彼女にとって「どうでもよくないこと」=「楽しむ要素があること」なのだ。常に全力投球。山があるから登るが如く、そこに楽しむべきものがある限り、休む暇なく楽しみ続ける。この姿勢に揺るぎはない。

大学の学園祭でもまた、わたしは驚かされることとなった。英会話サークルで『お化け屋敷』を出すことは知っていた。それに情熱を傾ける姿も「青春よ、のう」と、見守っていた。前日夜中まで、案内板ポスターを印刷しながら「恐い。恐い。眠れない」とひとり恐がっていて、それにも笑ってしまったが、驚いたのは、当日娘が帰って来てからだった。
「ただいまー。お腹空いたぁ」
そう言ったその顔は、白と赤で塗りたくられ、所々ブラックジャックさながらの傷が描かれている。
「その顔で、1時間、運転して帰ってきたの!?」
対向車線で彼女を見かけた人は、災難だったろうにと思いつつ、聞く。
「だって、疲れちゃったんだもん。顔洗う気力、なかった」
全力投球のあとは、全力で脱力。わかりやすい。『お化け屋敷』は大盛況で、恐くて泣く子も出たという。
「すっごい恐かった。お化けやってる時、ひとりでいるのが超恐くて、人が来るとまた恐いんだよー」
何もそこまで恐くしなくても。聞けば、企画も化粧も、娘が考えたという。
「だって『お化け屋敷』が恐くなくっちゃ、面白くないじゃん」
そう言いながら、その顔のまま、わたしが作った味噌ラーメンをすする娘が、わたしは恐かった。

凝った感じの看板。描くのが好きな友達の作品だとか。

右の小さい方の案内用ポスターを印刷していて、恐くなったらしい。
このポスターを、学校中に貼ったようです(笑)
オーストラリアのゾンビウォークで、覚えたという化粧。
その姿が見たい方はこちら→『23歳、旅人いぶき』

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蒟蒻の表面積

中学くらいの年頃に、数学とか理科とか、社会に出て役立つのか疑問に感じると口にする友人が多くいた。苦手だと、余計に「やりたくなーい。意味ないし、こんな勉強しても」などと愚痴もこぼしたくなる。

だが、高校に入り料理にハマったわたしは、すとんと腑に落ちる。
「料理って、数学的、理科的要素が、ものすごく大きい」と。
そう感じさせてくれたのは、蒟蒻だった。
料理人、土井勝氏に傾倒していた高校生のわたしは、日本料理の基礎を、すべて彼の料理本から得た。そこにかかれていた蒟蒻の下ごしらえの仕方を読み、感心したのだ。

そこには蒟蒻を煮物にする場合、切らずにちぎると美味しいとかかれていた。さらにちぎる前に竹串のような細いもので全体に穴を開けるのだと。その理由が、表面積を増やすためだという。包丁できれいに切るより、ちぎることで凹凸がたくさん出来て、味がしみやすくなる。穴を開けることも然りである。
もう、表面積という言葉のみで、ああここに数学がある。理科もあると、高校生のわたしは、いたく感動したものだった。

久しぶりに、蒟蒻を煮た。
もちろんちぎって煮たが、料理の基礎もすでに自分流になっている。アムウェイの鍋を使い始めてからは、落し蓋も使わなくなった。食材も食べやすいものが多くなり、大根を米のとぎ汁で茹でることもしなくなった。蒟蒻をちぎり、これまで過ごしてきたキッチンでの歴史を、ふと振り返った。

これからの季節は、ちぎる蒟蒻の冷たさが指先を凍らせますね。

乱切りにするのって、何故か楽しい。

こっくり煮込んだ、煮物はいいなぁ。蒟蒻も味がよくしみていました。

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薪ストーブの上にいる応援団

先月行った、高遠の『薪ストーブ祭』では、お目当ての薪用ラックは、売り切れていた。夫から話を聞くだけで、わたしはお目にかかることもできず、たいへん残念な思いをした。
だがそこで、小さな味方と出会った。その名も『ストーブファン』

小さいが重くて存在感がある。不思議な形にも目を魅かれた。そして、またの名を『エコファン』という。薪ストーブの上に置いておくだけで、その熱で自動的に電気が起こり、ファンが回るのだ。自然の法則に従い、上に上がってしまう温まった空気を前に送ってくれる。我が家は、薪ストーブの上が吹き抜けになっていて、暖気が2階に逃げやすい。どうやってリビングで温かく過ごすかは、毎年の課題なのだ。
「これは、すぐれものだね」「うん。すごい」ふたり即決し、購入した。

それが今、リビングの片隅、薪ストーブの上に置いてある。その羽や姿格好が、滑稽にも応援してくれているように見えるのだ。ふと見せる、モノの表情の面白さ。それに気づこうとすることで、気づこうとしないより、自分達が生きている小さな世界が少しだけ豊かになる気がする。
「本番は、これからだよ。よろしくね」小さな応援団に、声をかけた。
  
「フレー、フレー、右手くん! がんばれ、がんばれ、左手くん!」
なんて言っているように見えるのは、わたしだけ?

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思わぬお宝

はりきって掃除した。
週末、夫の友人達が1泊で遊びに来る。気持ちよく過ごしてもらいたい。という気持ちもあるが、モチベーションが上がったのは、お医者様の一言である。
「リハビリがんばってるねぇ。すごくよくなってる。画期的だ」
いくつになっても、褒められれば嬉しいものなのだと実感した。それに加え frozen 中の右手くんが、めきめきよくなっているのが自分でも判り、それがまた嬉しい。ステロイド注射も3回目。効果ありだ。
右手くんを傷めてからというもの、まともに掃除らしい掃除をしなかったこともあり、大掃除の覚悟で挑んだことも、モチベーションアップに繋がった。

まずはトイレからと、飾ってある写真立てを持ち上げ、埃を掃った。すると、写真立ての後ろに思わぬお宝が眠っていた。
夏、京都で友人が連れて行ったくれた香老舗『松榮堂』の匂い袋が入っていたビニール袋だ。そのなかには、匂い袋『誰が袖』シリーズをイメージした古今和歌集にある歌がかかれた紙が入っていた。

 
 色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖ふれし宿の梅ぞも

思い出した。ビニール袋についた香りももったいないと、トイレの見えない場所に置いたのは自分である。2か月経って、ゆっくりとこの歌を味わえるとは、思ってもみなかった。
しばらく掃除の手を止め、紙にまだ残る香りを胸に落とした。その後、掃除がはかどったことは、言うまでもない。

「ところで右手くん。さっきの独り言聞いた?」
「もちろん。心の底から発した声でしみじみ言ってたよねぇ、左手くん」
「ああ、きれい好きな、掃除上手なお嫁さんが欲しいなぁ」
「お嫁さん、もらったところで破綻するね」「性格の不一致過ぎ」

写真は夫がイタリアで撮ったものです。プリンターの調子が悪くて、
偶然こんな色合いになりました。面白いので飾ることに。
陶器のポプリケースは、結婚祝いにいただいたもの。物持ちいいなぁ。

写真立ての後ろには、この紙がビニール入って置いてありました。

掃除すると、何故か花を飾りたくなります。庭の紫式部。
花瓶に挿している間に実がポロポロ落ち、植物の儚さを感じました。
  
『9』ということは、少なくとも1~8も何処かにあったんでしょう。
和室に移動した、木製のタペストリーの下に隠してありました。
このお宝は、昨年見つけたものです。誰が隠したんだか。

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それぞれ、何処かで

「ちゃんと、ご飯食べた?」夜東京から、夫が、めずらしく電話してきた。
ひとりのわたしを、どうやら心配しているらしい。

先週、彼が1週間ベトナムに出張している間に「ヤセたんじゃない?」と言われ、食生活を問いただされた。上の娘が「健康」にハマっていることもあり、キャベツと人参のコンソメスープとか、鶏団子と春雨の白菜スープとかをたくさん煮て、それぞれ好き勝手に食べていた。朝食べずにブランチになることも多く、それでほんの1㎏ほど体重が落ちただけだ。末娘が住む浦和に遊びに行き、よく食べよく飲んだのだし。

だが、その末娘にも言われた。
「さは、ちゃんとご飯食べてる?」(末娘はわたしのことを『さは』と呼ぶ)
どうやら心配しているらしい。

今週は、わたしを心配することもなく上の娘が旅に出た。台湾に行っている。学祭の打ち上げで朝まで飲み、その足で成田に向かったようだ。
「ちょっとは、じっとしていられないのか?」
と、問わずにいられないほど、バタバタと何かしらしている娘である。

家族5人がバラバラに夕飯を食べることは、もう珍しくはない。だが、誰も帰ってこない家で食事の支度をする気にもなれず、所用で甲府に出た帰りに、スーパーで惣菜を買い込み、夕飯にした。
「ちゃんと、食べてるよ」と、夫にも娘にも言える。
東京や埼玉や台湾で、それぞれ夕飯を食べているんだなと、しみじみ考えつつ、味の濃い惣菜を口に運んだ。
ところで、わたしはダイエット中である。この夏、3㎏増えた体重を元に戻したい。家族にそれを言わないのは「なら、ビールやめなよ」と言われるのが目に見えているからだ。だからもう、わたしのことは、心配しないでください。と、言いたいところなのだけど。

山梨のなかでは、高級食材スーパーと呼べるかな。たぶん。

帰りに見た夕陽が沈むところ。車を停めて撮りました。

並べると豪華な感じです。食べきれなくても、
明日食べられるものを選ぶあたり、主婦ですよねー。
でも、自分で作ってお皿に盛った方が美味しそうに見えるよなぁ。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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