はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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目の前に大きく存在しつつも、見えないもの

目の前に在るものが、目に入らないことがある。
例えばキッチンで胡椒を探していて、そこに在るのがあまりに自然すぎて、逆に目に入らず、探し回ってしまったり。
そんな日常のトラップにはよくハメられるが、目の前に在るものの存在が大き過ぎて見えなくなってしまうということも、ままある。

「正月用に、徳利を新調したいね」と、夫と話していた。
陶器選びの好きなわたしが、ひとり探すのもいいが、もう10年以上は徳利を新しくしていない。たまにはふたりで選ぼうかという話になり、韮崎は『京MONO』の暖簾をくぐった。行きつけの雑貨屋だ。

暖簾をくぐるなり、見えていなかったものが視界に入ってきた。
「あ、もう、お正月が来るんだ」
何を言っているんだか、である。正月用にと、徳利を探しに来た店なのだ。
スーパーでしめ飾りや鏡餅が、一角を作り並べてあるのも日々目にしている。年末に帰省するのかと息子や末娘にメールもした。御節の材料も、そろそろ生協で注文する時期だし、義母からは、正月用にと金箔入りの純米酒が届き、実家からも北海道の数の子たっぷり松前漬けが届いた。
しかし、それらすべてが、日常というパズルのピースとしてかちりとハマり、違和感なくすっぽりと隠れてしまっていたのだ。
それが、ほんの少し日常と違う場所で、ようやく目に入ってきた。

遠い昔、ままごとをした日のワンシーンを思い出した。
「バナナ、どこ? ねぇ、バナナ、知らない?」と、わたし。
3人くらいの女の子がいて、ゴザの上に座って、小さな茶碗やら鍋やらがある。その小さなゴザの上の世界で、みんなで、本物よりもよほど色鮮やかで固く房と房がくっついた作り物のバナナを探した。
だが、ふと気づいたのだ。バナナは、わたしの小さな手のひらのなかにしっかりと納まっていることに。みんなで、大笑いした。

『京MONO』で、わたしは、手のひらのなかにあったお正月を見つけた。徳利は、夫と吟味し、飲み過ぎないようにと2合ほどの大きさのものを選んだ。

お正月が、みんなしてやってきたような雰囲気。楽しい!

徳利も、大小様々、色とりどり。たくさんあって、迷いました。

欠けた口を、金で接いだという『金接ぎ』を施したものを選びました。
熱燗を飲む楽しみがまた、一つ増えました。

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一瞬だけの贈り物

朝、6時半。
凍ったフロントガラスを溶かすため、エンジンをかけようと外に出て、息を飲んだ。突然視界に入ってきた朝焼けが、思いもよらず綺麗だったのだ。
朝焼けを見られたのは、一瞬だけ。
10分後、夫と車に乗り込んだ時には、すでに赤みは消えていた。
「赤岳が朝焼けに、染まってる」と、夫。
(朝焼け、今度は、あっちに行ったんだ)と、ひとり思うわたし。
その八ヶ岳も、夫を駅まで送った帰り道にはもう、凛と白く輝く姿を自慢げに見せていた。駅まで行く途中で、朝日が昇ったのだ。

たった一瞬だけの贈り物。空が起こす、大きな大きな不思議。
「いいもの、もらったな」と、つい笑みがこぼれ、
凍った朝が、胸に流れた微かな温かいもので溶けていく気がした。

色合いも、流れる雲のように変化していきます。

夜明け前にしか見られない、影絵です。

八ヶ岳の朝焼けは撮り損ねましたが、朝日を浴びた姿もまた、凛々しい!
これから積もったり溶けたりを繰り返し、雪化粧を濃くしていきます。

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もちもち銀杏

銀杏を(ぎんなん)を、いただいた。
自分で料理するのは初めて。外でも茶碗蒸しに入っているものか、焼き鳥屋の塩焼きくらいしか、食べたことはない。何にしようかなと、一通り考えた。
佐渡からひと月半遅れで新米が届き、ふたたび新米生活をしているというのもあり、友人のブログで美味しそうな銀杏ご飯を見たこともありで、なんとなく「銀杏ご飯にしよう!」と銀杏を割り始めた。
ところが、上手くいかない。
調べもせず、ラジオペンチで割ると、中身までぐしゃりと割れてしまった。

「銀杏(ぎんなん)と言えば、塩で煎るって相場は決まってるでしょう」
夫が、ネットで調べると、なんと「ひとつまみを、殻付きのまま紙袋に入れ、レンジで2分。パンパン破裂するのを聞きつつ、出来上がったら塩を振るだけ」との超簡単レシピが出て来た。その通りにやってみると、
「おーっ! 美味い」「もちもちして、銀杏じゃないみたい!」
酒が進むこと、この上ない肴が出来上がった。
「食べ過ぎると、よくないよ」夫が、釘を刺す。
わたしがアクの強いものが、大大大好きだと、彼はよく知っている。以前、ふきのとうの天麩羅を食べ過ぎて、瞼が腫れたこともある。そして、読むものもまた、アクが強い文章に魅かれる。
「いやいや、これは。止められない、止まらない」
翌日もキッチンにある銀杏のそばを通り過ぎる度「チンして!」と言われているようで後ろ髪引かれつつ、昨日食べすぎたことだし今夜だけはと我慢した。
灰汁(あく)って何だろう。止められなくなる薬の、入口かもしれない。

銀杏(いちょう)の種なんですよね。整った形ですね。

手加減したんだけどなぁ。真っ二つに。

紙袋から出すと、殻も半分くらいは割れていいました。
ホクホク感はありませんが、もっちもち! 熱々がおススメです。

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冬一番の木枯らしが吹いて

冬一番などという言葉はないが、これはもう造語でも何でもいいから、あえてそう呼びたくなるような北風が吹いた。
「地震?」と、何度も疑ってみるが、風である。
我が家はこの土地に生えていた赤松を、大黒柱や梁などに使い建てたせいもあってか、隣りの林の赤松のようにしなり、揺れるのだ。
「こりゃ、防風林だな。いや、防風家(ぼうふういえ)だ」
友人のおしゃべりな大工さんは、これまためちゃくちゃな造語でからかう。

薪を運ぶと、木とは見た目よりもずいぶんと重いのだと判る。それを揺らす北風の強さは並大抵のものではない。これからの季節、その風に負け、または雪の重みなども加わり、重量のある木でも倒れることがある。
「この松は、倒れるとしたら、道路側だな」とか、
「そこの松が倒れたら、周りの山桜もみんな折れるんじゃない」など、
冬が近づき林の木の葉が落葉し、見通しが良くなるにつれ、びっきーと夫と散歩をしながらの会話も自然と倒木のことになった。ついこの間のことだが、遠い昔のことのように思い出す。

「悲しさにフタをしないで、びっきーの話をたくさんしてあげてくださいね」
友人からメールをもらった。それもあってか自然にか、普通にびっきーを思い出し、家族で普通にびっきーのことを話し笑っている。

「こんな風が強い日は、誰が散歩に行くか揉めたよなぁ」と、夫。
「揉めたことないよ。いつもわたしが行ってたじゃない」と、わたし。
「そ、それは、思い出、美しすぎるんじゃない?」
「事実だ」「嘘だ、いつも俺が行ってた」「いや、わたしが行ってた」
冬一番の木枯らしのなか、軽トラでゴミを出しに行くのも、びっきーと散歩した道。ふたり笑いながら、びっきーをたっぷりと思い出した。

北風に吹かれて、同じ方向を向いたススキ野原。
  
「キー、キー」と鳴きながら、ゆーらりゆーらり、揺れる赤松。

あ、これは、おとーさんに撮ってもらった写真ですね。僕が9歳の冬かな。
この道は、おとーさんとよく歩きました。甲斐駒が、綺麗ですねぇ。
木枯らし吹くなか、おとーさんは、いつも遠くまで連れてってくれたなぁ。

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再来年の話をすると?

さすがに『来年の話をすると、鬼が笑う』という時期は過ぎたが、再来年ならどうだろう? 鬼は泣くのか怒るのか、それとも暴れるのか呆れ果てるのか。

夫がにわか木こりになり、このところ週末ごとに森に入っている。と言っても、年輪80年程はあるらしき大木を倒すのは、いくら何でも危ないので、森に薪割り機とチェーンソーを持ち込み、切ってもらった木をその場で切ったり割ったりして、軽トラに載せ運ぶ、という作業だ。
わたしや上の娘では、持ち上がらないような丸太を、大量に持ち上げるのだから、身体も痛くなるだろう。しかしわたしは「ムリしないでね」と送り出すしかない。その作業もほぼ落着き、ホッとしている。
今年は、夫がひざを痛めていて、仲間にずいぶん助けてもらったようだ。薪割り機を共有する6人のうちの3人で山に入ったと言う。その夫以外の二人が、すごいのだ。70代だというのに、元気そのもの。重たい薪も何のその。それも「この薪は割りにくいからやめよう」と夫が言うと、俄然むくむくとやる気を出すというチャレンジ精神を持ち合わせている。
なので、こっそりと、しかしもちろん尊敬の念を込めて『年寄りの冷や水ペア』と、呼ばせてもらっている。

「ひざ痛いんなら『年寄りの冷や水ペア』に任せておけば?」と、わたし。
「そういう訳に、いかないでしょう」と、夫。

それがまぁ、再来年以降に使う、薪なのだ。八ヶ岳下しに吹きさらし、よく乾いた頃に、ようやくいい薪になる。
『来年の話をすると、鬼が笑う』という言葉には、諸処由来説はあるにしろ、どうなるかも判らない先の話をしてもしょうがない、架空の存在である鬼だって笑っちゃうくらい現実味がないよ、という意味がある。
再来年の話をしたところで、鬼だって、もはや聞いてもいないだろう。人間だって、今日一日どころか、今を生きるのに精一杯なのだ。

庭の表側、道路沿いに、こんなにたくさん。

寒空の下、けなげに伸びるアップルミントも、あえなく薪の下敷きに。
あまりに強すぎて、雑草扱い。それでも負けずに、春には芽を出すでしょう。

そして、隣の林との間には、さらにこんなにもたくさんの薪が。

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小さな小さな贅沢に

新しい年を迎える準備として、タオルを新調した。
ほんのちょっとだけ贅沢し、手触りのいい物を選んだ。
びっきーの顔や身体を拭くために、古いタオルを何枚も使ったこともあり、最近買い替えていなかったこともあり、キッチン用、洗面所用、トイレ用と、すべて新しいものを選んだ。

そんなプチ贅沢は金銭的なものではなく、選ぶ時間の楽しさや、使った時に手に触れる柔らかさや、気に入った色柄を日々目にする喜びなど、いつもの毎日にわずかな彩りがプラスされるという在るか無しかのようなものである。

これまで気に入って使っていたトイレ用のシンプルなタオルは、百均で気に入って買ったものだ。ずいぶん長いこと愛用した。
何もかもがあふれ出し、何処へ向かうかも判らない今の時代だからこそ、小さな小さな贅沢に心温かく過ごせる自分でありたいと、ゆっくりと、そしてしっかりと楽しみつつタオルを選んだ。

最近自分でも意外なほど、明るい色を、選ぶようになりました。
  
お歳暮などの買い物を終えると、甲府駅前はライトアップされていました。
ずいぶんスマートだけど、富士山? いや、クリスマスツリー?

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ひとつだけ、確かなこと

子ども達が幼かった頃のことを、最近よく思い出すようになった。
玄関で、病気になったびっきーを寝かせるようになってからだ。

例えば、毛布を掛けたびっきーが玄関で寝ているのに違和感を覚えた飼い主である上の娘が言う。
「踏まないように、気をつけなくっちゃね」
「赤ん坊じゃないんだから」と、わたし。
末娘が生まれた時、6歳の息子と4歳半の娘に踏まれないように、どれだけ気をつけたことか。

また例えば、息子が2歳の頃、泣かない夜泣きを経験した。
寝ぼけているのは明らかだが、布団に入ろうとしてくれない。なだめすかし、寝かしつけるまで2時間ほど。いく晩か過ごすうちに、水を飲ませるとことんと眠ることが判明。しかしまた水を飲むよう説得するのに1時間かかるのだ。
びっきーも水を飲むと、安心するのかすっと眠った。

また例えば、瞼を閉じさせるようにおでこを撫でると、子ども達は早く寝付いた。びっきーも、おでこを撫でると気持ちよさそうに眠りに入っていった。

また例えば、びっきーが子犬だった頃、びっきーに向けて、5歳だった末娘の名を間違えて、呼んでしまうことがよくあった。仕草が似ていたのだ。

びっきーが、死んだ。一昨日の夜、いびきをかいてぐっすり眠っているのを確認し、ちょっとだけと出かけている間に、まるで誰もいなくなるのを待っていたかのように、息をひきとっていた。
「シアワセダッタ」とか「ゴネンネ」とか「アリガトウ」さえも、言葉の歯車が外れたかの如く、ゲシュタルト崩壊していく夜を過ごした。
ひとつ確かなことは、山梨の小さな田舎町に越して来た年、家族になったびっきーが、そこにいなかった13年間など、考えられないということだけだ。
安心したような、ちょっとすました様な、彼らしい死に顔をしていた。

あ、ちょっとこの写真、太って見えるからやめてくださいよ。
冬毛で、もこもこしてるだけなんですけどね。5歳の頃の僕です。

これも、臆病そうに見えて嫌だなぁ。6歳の夏ですね。
小屋にいる時は、ホッとしました。夏でもけっこう涼しいんですよ。

これ、これ。この7歳の夏に撮った写真、お気に入りなんです。
『わんわん物語』のトランプに、表情が似ていませんか?
賢さと精悍さと優しさとクールさを合わせ持つって言ったら、言い過ぎかな。
恋多き過去を持つトランプはレディと恋に落ちましたが、僕は姫一筋でした。
姫はまだまだ、一人前とは言えなくて心配です。ぼーっとしてるし。
でもこれからは、何処にいても僕が見守っていきますよ。

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「こぴっと、しろし」

葉が枯れ、落ちたこの季節でも、森林浴効果はあるのだろうか。
それは庭を歩くと、判る。絡まった気持ちが、スッとほどけるのだ。
葉が太陽を競って浴び、しきりに光合成する季節ではなくとも、植物の力は、いつでも静かにそこにあり、新たな命の準備期間である冬のあいだも、ただ一心に春を目指して生きている。

ぼんやりしていると、庭中の木達に声をかけられていた。
「こぴっと、しろし」「こぴっと、しろし」「こぴっと」「こぴっと」
甲州弁で「まあ、しっかりやんなよ」くらいの、柔らかい応援の言葉。
「こぴっと…… 、しろし」
自分でも、言ってみる。

言葉って不思議だ。覚えたての甲州弁が、ふと一人たたずむ庭で弾んでいく。
「こぴっと、しろし」「こぴっと、しろし」「こぴっと」「こぴっと」
春待つ木の芽達の影に、そう口ずさむ小人の姿を見たのは、いつ何どきでも反応してしまう駄洒落脳のせい?

白いライラックの芽は、もう準備万端という感じで冬を迎えます。
  
姫シャラは、花のガクが残っていて、まだ楽しませてくれているよう。
右は、ナナカマド。7回釜戸にくべても、燃え尽きない薪になる、
というのは、ホントか嘘か。まだまだ、薪になる太さではありません。

ピンクの花を咲かせるハナミズキ。今年、隣に白を植えました。

庭に一番たくさんある雪柳。
春、まだ冷たい空気のなか、白く眩しく咲いてくれます。

カマキリの大きな卵が、地面より50㎝ほどの高さにありました。
その年の積雪を、予測して生むのだとか。50㎝は、嫌だなぁ。

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珈琲で測る、元気度

自分の元気度を測る基準として、ひとつ、珈琲がある。
新鮮な豆を挽き、自分のためにドリップして楽しめる時は、大抵元気度が上昇気流に乗っている時だ。
だがこのところ誰かのためなら珈琲も淹れられるが自分のためとなると全くやる気が起きず、かと言ってインスタント珈琲を飲む気にもなれず、リプトンのティーバッグ、アールグレイをストレートでがぶ飲みする日々が続いている。

びっきーが、食べ物をまったく口にしなくなって1週間が過ぎた。1週間前、点滴で栄養補給をしてから、何を食べさせようとしても、顔を背けるようになってしまった。
「好きなものを食べさせてあげてください」と、獣医さんに言われ、あれやこれやと試してみたにも関わらずだ。これまで健康のためにと、ドライフードしか食べさせなかったことを悔いても、もう遅い。

一昨日までは、それでも立ち上がり、庭を歩いたり排泄したりしていた。それが昨日は1日、寝言を言いながら眠ったまま。娘とかわるがわる頭を撫で、時々スポイトで水を飲ませる。百均に買いに走ったスポイトが、5本セット百円で売っていることにさえも、八つ当たりだと知りつつ何やら憤りを感じた。

何処にも行く気になれなかったが、娘が大学に行く前に、10日期限だった会社の税金を納めに銀行と郵便局を回った。その帰り、初めてコンビニで挽きたてドリップ珈琲を買って帰った。

玄関に入ると、そこで眠っているびっきーがくうくう鳴いている。珈琲は、薄いのに苦く、飲み込むのにひどく苦労した。
飲み終えて気がつくと、まだカーテンも開けていなかった。外は、さっきまで降っていた雨がやみ、明るい陽が射していた。

レジでお金を払って、紙コップをセットし、ボタンを押すだけ。
Tカードのポイントで払ったので、ただでした。

娘が華道の花を活ける際、切りすぎたと一輪挿しに挿したガーベラと。

カーテンを開けると、昔、夫と末娘と歩いたイタリアはフィレンツェの、
小さな雑貨屋で買った時計が、1時間遅れで時を刻んでいました。

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玄関に咲いた、蓮の花

植物の持つその姿かたちは、摩訶不思議である。
その姿を、植物の持つ柔らかさ、しなやかさとは対極に在る鉄で、表現しようという人がいることも、また摩訶不思議である。
夫の友人である鉄のアーティスト『鉄刻屋』さんに、玄関のランプシェードを頼んでいた。彼の個展には夫婦で出かけたし、表札とキッチンの引き出しの取っ手36個も作ってもらい、親しくもなっていたので、ざっくばらんに相談しイメージを膨らませていった。伸びゆく葉を表現したものを見せてもらっていたこともあり、植物がいいかなとは思っていた。
だが「例えば花なら何がいいでしょう? 」と聞かれた時には考え込んだ。

考え込み、しかし30秒ほどで答えは出た。「蓮の花が、いいな」
ふと浮かんだ回答は、出来上がってみると偶然ではなく必然だったと思えた。
若い頃は黄色いスターチスが好きだった。華やか過ぎず、それでも精一杯明るく黄色に咲き、枯れてからも長く色を損なわずにドライフラワーとして飾られる。脇役で目立たない優しい花だ。スターチスを知ったきっかけは友人の恋だった。花屋の店員に恋した彼女につき合わされて、花屋に通った高校の頃。少女漫画かいなと思うような事実である。

年月が過ぎるのと共に、心のいろいろな部分が削られていく。研ぎ澄まされるという解釈もできるが、ぼろぼろ落としていくようにも感じる。その過程で好きな花もスターチスも削られていった。今わたしには、特別好きな花はない。
蓮は、末娘が好きな花だ。蓮が描かれた紅茶茶碗を彼女が持っていったので、我が家に蓮の花はなくなった。だから一つ欲しいなと、ふと思ったのである。

蓮はとても素敵に玄関に咲いた。その蓮をカメラに収め、上の娘に聞いた。
「好きな花、ある?」「ない」
即答だった。今彼女は、わたしがスターチスをまだ好きだった年齢である。
いや無論、好きな花が在っても無くてもいい。だが記憶に残るシーンに、花が添えられているというのもいい。興味を持つことも生きていく時間を豊かにしてくれる。オーストラリアで1年過ごし、日本を知りたくなった彼女は、華道のサークルに入ったばかりだ。これからの人生、彼女にたくさんの花の洗礼が降り注ぎますように。

フラッシュをたくと、実際と違って平坦な写真になってしまいますが……

暗いままで灯りを楽しむと、こういう雰囲気に。

蓮の花と、蕾の部分。試行錯誤の末、この形の蕾になったそうです。
この蓮が鉄刻屋さんにとっても、特別なワンシーンになるといいな。

まえださんちの表札。錆を活かしてのデザインです。

取っ手のデザインはわたしが。と言っても、これ↑(笑)

が、これになりました。とっても(笑)いいでしょう?

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熱燗が、美味しい季節

元来、酒飲みの夫婦である。外で飲まなければ、家で飲む。
ビールから始まり、肴が和食なら日本酒、洋食ならワイン。締めはウィスキーというのが、自然な流れだ。酒を呑まずに過ごす夜は、ほとんどない。
わたしだって、若い頃からずっと夜な夜な飲んでいた訳ではない。金もなく、趣向品である酒は、特別な時に飲むものだった。
しかし夫は、日々酒を楽しむ派だったので、もともとの能力が開花し、そろって毎晩酒を楽しむようになった。

以前は、美味しいワインは値が張り、たまにしか飲まなかった。今は千円ワインと雑誌で特集するほど、安く美味しいワインが出回っている。
なのでワインもいい。だが、熱燗が美味い季節になってきた。冷たい夜には、熱い日本酒で心根の芯から温まることだって必要になる。
お燗には温度によって粋(いき)な名前がついている。日向燗、人肌燗、ぬる燗、上燗、熱燗、とびきり燗。いちばん熱くても55℃まで。というのは山本文緒の短編集『ファースト・プライオリティー』(角川文庫)で読んだ。
日本語って素敵だと、思わずにはいられない。おまけで言えば、冷やは、涼(すず)冷え、花冷え、雪冷えと、言葉に酔いそうなほど美しい。
日向に、人肌。冬に恋しくなるものばかり。日向の方が温かそうなのに、人肌の方が温度は高い。33℃と37℃と、4℃差がある。人の体温というものは、普段感じているものよりも、実際には温かいものなのか。
能面がある日取れなくなってしまったまま表情を変えず、およそ血など通っているとも思えない居丈高な人だって、触れてみないとその温かさは、判らないものなのかもしれない。

東京は大田区、六畳一間のアパートで暮らしていた、新婚の頃。
「胃が疲れてるから、ビールは飲まない」と決意して帰ってきた夫に、
「お疲れさま。寒いねぇ、熱燗にする?」とわたし。
その不意打ちに、彼の休肝日計画は未遂に終わったと、のちのち聞いた。
美味い肴と美味い酒。それさえあれば、他に望むものはない?
何処かのCMではないが『そんな人生が、丁度いい』のかも。

鍋の湯に徳利を浸けてつける熱燗もよし。鈴の熱燗器でつけるのもよし。
黒織部のごっついぐい飲みもよし。薄い広口の盃(さかずき)もよし。
何年か前から、熱燗は甲斐男山の本醸造にしています。

叔父にいただいた茅ヶ崎の干物。塩気も薄く新鮮な肴(魚)でした。

行儀も何もなく、夫と娘と突つきつつ、飲みました。

肉豆腐には、山椒の水煮をたっぷりトッピングして。

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単純作業の効用

セロリを、千切りにするのが好きだ。
時間を気にせず、のんびりとコトンコトンと、ただ包丁を動かす。
料理にはもちろん、クリエイティブな部分が大きいが、千切りは、単純作業でもある。その単純作業を、時間を好きなだけかけて、自分なりのクリエイティブを求めつつ、心を無にして、ただ包丁を動かす。

そんな単純作業には、大きな達成感は感じられないかも知れない。
だがじっくりと没頭し、千切りが出来上がると、気持ちがスッとする。不思議な感覚だ。何か効用があるに違いない。

そして出来上がったサラダを、豪快に食べる。セロリ一株、ひとりで食べちゃうかもという勢いで食べる。動物のようにむさぼり食い、さらにスッとする。
単純作業って、じつは生きていくのに欠かせない必要不可欠なモノなのかも。日々ご飯を食べる様に、在るか無しかに思える微かな達成感。無心で没頭する時間。それって、生きていく上でものすごく大切なモノなのかも知れない。セロリを刻み、セロリを食べ、何かすっきりとした気持ちで考えた。
無論、野菜をバリバリ食べることも生きていく上で必要不可欠なんだけど。

株ごと買うようになったのは、千切りサラダを作るようになってから。

白いまな板で、一番切れる包丁で、無心に千切りしました。

水にさらすと、パリッとし、くるんと丸まるのが可愛いんです。

茗荷も千切り。微かな色味が、食欲をそそる一品に。
鶏ささみをにんにく醤油で焼いて、わさびマヨネーズで和えます。

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恐るべし『キョウミミニチヨウ』

「ようやく肩が楽になったと思ったら、これだよ」「季節到来だね」
「親指の根元って取りにくい上に、結構痛むんだよなぁ。全く」
「ほんのちょっとのことなのに、どうして出来ないんだろうね」
「2、3本だからとか、見つからないからとか、言い訳してさ」
「天性の面倒くさがり屋だから、しょうがないとは言え」
「それも自分で片づけないで、置きっぱなしにして失くすんだよ」
「片づけられない女選手権代表だから、しょうがないとは言え」
「軍手をするひと手間で、棘なんか刺さずに済むのにねぇ、左手くん」
「薪運びの季節本番、気をつけ様がないけど気をつけようね、右手くん」

まだ完治とは言えないまでも、frozen shoulder (五十肩)の痛みが引いた右手くんと、サポート役の左手くん。言いたい放題であるが、言われても仕方のない事実。軍手をせずに薪を運んで、右手くんの親指の根元には大きな棘が刺さり、チクリと痛んでいる。薪運びは苦ではないが、面倒な部分をスキップする癖が、どうにも治らない。娘達には「危ないから、軍手しなさい」と、口うるさく言っていたにもかかわらずだ。

ところで棘と言えば、子どもの頃、よく言われた。
「抜かないと血管を通って心臓まで行って、刺さって死んじゃうんだよ」
根も葉もない嘘である。こういう判りやすいくだらない嘘って、けっこう好きなんだけど、今でも子ども達の間では、言われたりしているんだろうか。
確かに棘を抜いた方が化膿したりせず治りも早いだろう。だからそんな風に言われて来たのだ。だが人間の自然治癒力は、異物を外に出そうと働くそうだ。

結局、夫が棘を抜いてくれたのだが、余りの痛さに、
「自然治癒力に任せるから、もういい」と、半泣きでわたし。
しかし、彼は最後まであきらめない。泣こうがわめこうが、彼に頼んだ時点で、棘の行方は決まっていたのだ。末娘が幼い頃、耳かきが嫌で逃げ回っていたのを思い出す。もちろん耳かきを持って追いかけていたのは夫である。
普段は人の話に耳を傾ける夫だが、棘抜きマン、または耳かきマンに変身した時には通用しない。神戸出身の彼は、末娘によく言っていた。
『キョウミミニチヨウ』何のまじないかと思えば、今日は耳は日曜で休みです。聞こえません。聴きませんという意味の関西弁だった。耳が日曜になった彼には、何を言おうが、もはや通じないのだ。
「右手くん、ごめん。今度から軍手するから」
その言葉に右手くんは答えなかった。嘘つき、と思っているのは歴然である。
  
陽当りのいいウッドデッキの薪置場と、棘刺す気満々の薪達。
薪小屋からウッドデッキまで運ぶのは、夫がやってくれます。
彼は、皮の軍手ご愛用。必ず手袋を着用します。

右手くんがよくなり、日々の薪をウッドデッキから運ぶのは、
わたしの役目となりました。

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誰かを、思い出す季節

すべては意識の外にあり、街で見かけるツリーにも無反応。子ども達の枕元に、真夜中こっそりプレゼントを運ぶ時期もとうに過ぎた。そんなわたしだが、やはり季節は平等にクリスマスを運んでくる。

電車の待ち時間、雑貨を見て歩いた。するといつにないことに思ってしまう。
「あ、これ、末娘に似合いそう」「これは、上の娘に」
「彼女(友人)は、こういうの好きそうだな」「これは、義母に」
「これなんか、お世話になった、あの方へいいかも」
プレゼントをするつもりもないくせに、俄然買う気満々になり、誰かを思い出し、また誰かを思い出し、電車を乗り過ごしてまで物色した。

けれど結局、夫は壊れたステレオを買い替えたいからクリスマスにと言っていたし、大学生の娘達には、サンタからひらりとお札が降ってくることになっている。第一母親が選んだアクセサリーやら帽子やら、喜ぶとも思えない。見るだけ見て、気に入ったミニバッグを一つ、自分に買った。

知らず知らずにクリスマス、わたしにもやって来ているのだなぁと実感した。
誰かを不意に思い出す、不思議な季節だ。そして忘れる間もなく、年賀状という仕事が待っていて、誰それは、また誰それはどうしているやらとまた思う。忘年会シーズンとは言うけれど、思い出すことの方が多いかも。

バッグは色もサイズも揃っていて、迷いました。

ペンケースや手袋、象のぬいぐるみもありました。

「きみ、新人くん? なかなかいい色じゃない」と、ハリー。
「うん。手触りもいいね。それに、ひどく軽いんだね」と、ネリー。
手袋のはりねずみ2匹が、活躍する季節になりました。
「か、かまないでぇ」と、新人くん、ややおびえている様子。

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渇きに、気づいて

いつの間に、渇いてしまったのだろう。
このところ、本を読めずにいることは、うすうす気づいていた。気持ちがざわついて、落ち着いて本を開く気持ちになれなかったのだ。

久々に本屋を闊歩し、そんな、気づかずにいた小さな渇きに気づいた。
「読みたい本が、見つからない」
突き付けられた事実に、愕然とする。小さなことと思う人も多いだろう。だがわたしにとって、海よりも空よりも、大きく大切なことなのである。
30分ほど、本屋を歩き回った。
「伊坂を再読しようか」「川上弘美の読んでいない小説もある」
考えに考え、ようやく手に取ったのは、恩田陸の『朝日のようにさわやかに』(新潮文庫)短編集なら、恩田陸なら、読めるだろう。

自分的ルールに反し、表題作のラスト1編から読み始めた。
思い出せそうで思い出せずにいた、ずっと引っかかっていたものを、不意に思い出した瞬間を描いている。ミステリー要素が微かに匂う、独り言に似た掌編だった。

それでも久しぶりに読んだ初めて読む小説は「本っていいなぁ」という気持ちを、わくわくする心持ちを思い出させてくれた。
いつの間にか渇いてしまった川に、水が流れ始めた。堰を切るというような圧はないが、水は確かに流れ始めたのである。

珈琲屋さんで読む本は、家で読むのと違う感じがします。

「オランダのビールに、グロールシュという銘柄がある」から始まる
短編でした。カルディに寄ってみましたが、並んでいるのは、
ベルギービールばかり。イングランドビールも1本買いました。

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淋しさの入口は、夕暮れ時に開いて

淋しさの迷路に迷い込む入口は何処にでもあるのだが、特別、夕暮れ時には口を大きく開け、誰も彼もを待ち受けている。
理由などいらない。さっきまで、自分は何て幸せなんだろうと満ち足りた気持ちでいた人にも同様にゲートは開き、何ものかが甘くささやいて呼び寄せ、気づいた時には、ふらふらとなかに入ってしまっているのだ。
入った途端にゲートは閉じ「幸せって、いったい何?」と誰かが言ったと思えば「涙の海で如何に滑稽に心を溺死させるかオリンピックで金メダルを取ることさ」と何処かの物語に出て来たニヤニヤ笑いの猫が言いサッと消えていく。

そんな夕暮れに、捕まった。
びっきーを検査入院させて、迎えに行く夕暮れだ。入院といっても日帰りで、昼の間彼がいないだけのことだったが、散歩に行こうと思い「あ、いないんだ」と思い、薬をあげなくちゃと思い、またも「あ、いないんだ」と思う。急にご飯を食べなくなったのは3週間ほど前だ。それから、何度か病院に通い、薬を処方してもらっていた。
息子を保育園に預け、働いていた頃を思い出した。
抱いていた子どもを、不意に誰かに手渡したような、自分の身体の一部分を持って行かれたような気分を久しぶりに味わった。

検査結果は、よくなかった。今すぐにどうこうということではないが、内臓が弱っていて治療は難しいと言う。
「好きなものを食べさせて、好きなようにさせてあげてください」
びっきーには、夕暮れの空が見えていただろうか。

写真を撮ろうとすると信号って、意外に早く変わるんだなと思いました。

家に帰ると、1番星が瞬いていました。

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ブルー・ソーラー・ウォーター

週末、林を挟んだお隣の家に、たまには飲もうよと招待していただいた。
「ポットラック・パーティーで」
夫がメールをもらったが、聞いたことのない言葉。調べてみると、一品ずつ持ち寄りで、との意味だった。語源は「ポット」のなかに何が入っているか「ラック(運)」を賭ける、お楽しみパーティだとか。
ワインとビール、鰯と茗荷の酢味噌和えを持って、出かけた。
お邪魔してみると、一品どころか懐石料理のように小鉢がたくさん並んでいて、思わず夫と歓声を上げた。ご主人お得意の蕎麦も打ってあると言う。
食にこだわっていることは知っていたが、どれも美味しくお酒も進み、楽しい時間を過ごした。

時間も随分と過ぎた頃、健康食思考の奥様が『ブルー・ソーラー・ウォーター』について話してくれた。
「ヒューレン博士が広めた『オ・ポノポノ』っていうのがあるんだけど」
「ハワイ語かな?」と、わたし。「人の関係を、整えるみたいな言葉ね」
ハワイの『オ・ポノポノ』を研究していた博士がある刑務所で「ありがとう」「ごめんなさい」を心から言うことを繰り返し薦めたことにより、その場所のぎすぎすしていた人間関係が改善され、人々に笑顔が戻ったと言う話だった。
「その言葉には、心を洗浄する効果があって、それと同じ効果を生むのが、青い入れ物に入れて太陽の光を浴びた水なんですって」
「不思議ですねぇ」「何故に、青なんだろう」「空と海も青だし、何かパワーがあっても可笑しくはない色だよね」
口々に言いつつ、ブルーのペットボトルに入った水を、ワインの合い間にいただいた。甘く柔らかい水だった。

さっそく『ブルー・ソーラー・ウォーター』やってみよう。
不可思議なことは、いくらでもあるものだ。
だが青い瓶の水よりも、わたしには「ありがとう」や「ごめんなさい」という口から出て消えていく言葉そのものに何らかの力が働くなんてことの方が不思議に思えた。調べると「愛しています」も、同じように効果があるらしい。
たくさん言わなくっちゃ。心から発する言葉じゃないと効果はないそうだが。

気づかいを見習うべき、盛り付け。綺麗!
優しい味の塩辛はご主人のお手製で、箸置きは沖縄のサンゴだそうです。

ガーリックトーストも、奥様が天然酵母から作ったパンで。
テーブルにもお庭のハーブがところどころに飾ってありました。

10歳のハナちゃんは、なかなかお顔を撮らせてくれませんでした。

青いペットボトルは、あまり売っていないことが判明。
青い瓶も、日本酒が入っているものがほとんどでした。
我が家にあったものを、並べてみました。

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休日ラーメンの魔力

ふたりで出かけると、何故かラーメンである。
昨日も、仕事部屋のホットカーペットカバーを新しく買おうと、ふたり甲府まで出かけたのだが、やはり昼食はラーメンだった。
「こんなところに、イタリアンがあるよ」「ケンタッキーにする?」
などと言いつつも、ふたり顔を見合わせる。
「ラーメンだな」「ラーメン、食べたいよねぇ」
先週も食べたような。先月も食べたような。昨年末にも食べたような。いつでも何処でも食べているような。それでもやはり、ラーメンなのである。

買い物帰り、国道20号沿い『東京豚骨ばんからラーメン』で、車を停めた。
「全く、ラーメン好きなふたりだな」と、夫。
「うん。わたしも今、考えてた。ふたりでこうしてラーメン食べるの、いったい何回目だろうかって」と、ラーメンをすすりつつわたし。
ふたり共に過ごして28年ほどになる。月一で食べたとしたら、330回。いや。月一じゃきかないだろう。500回は食べている。すごい回数だ。

夫は、山登りやサッカーが好きなアウトドア派。わたしは、読書や雑貨が好きなインドア派。買い物に行っても、彼はスポーツ用品売り場で立ち止まり、わたしは雑貨屋をうろうろするのが好きだ。彼は待つのは苦手で、わたしは待たせるのが苦手。だから別行動にしようと提案するのはわたしだが、彼は共に行動する方がいいらしい。よそがどうだか知らないが、ひどく共通点に欠ける夫婦だ。それでもふたりで、ラーメン500回食べちゃったか。
これはもう、休日ラーメンの魅力と言うより、魔力と言うほか考えられない。
「そのほぼ半分以上が、きみは辛葱ラーメンだ」と、夫。
「そしてきみは、味玉だ」「そうかな?」「そうだよ」と、わたし。
取り替えて食べた辛葱を、彼は「辛っ」と言い、ひと口食べて返して来た。休日ラーメンの魔力に屈し、千回を目指してスタートを切ったわたし達である。

辛葱とんこつは、辛さほどよく、細麺固め。
「東京と名がつくからには、海苔入れなきゃなんないのかな?」
「それで、海苔、入ってるのか」と、夫。
その海苔が、10枚くらいあってもいいかなってほど美味でした。

ニンニク搾り器が、各テーブルにあり、
ニンニクは、いくつでもトッピング自由でした。

夫は、味玉醤油とんこつ。麺は中太でした。
彼がニンニクを絞ると言うので、わたしも、負けずに搾りました。

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万能なる大根を、見習って

いただいた大根を、次々と料理している。
我が家のレシピで『柚子大根』も漬けたし、facebookで教えていただいたレシピにも挑戦した。
『牛筋と大根の煮込み』は、肉の旨味たっぷりで薄味でこっくりと柔らかく、とろっととろける牛筋と一緒に大根をたくさん食べられた。
初めてルーなしで作った『大根とインゲンと大豆のココナッツミルクカレー』
初め足りないと思った何かも、スパイスを適当に足したら(笑)程よく辛くコクのある美味しいカレーに仕上がった。
大根三昧の日々である。

大根って、すごい。調理法も数えきれないくらいあるし、ペアを組んだ相手のいいところを吸収し、自分の旨味を存分に発揮する。
お腹にも優しく、食あたりしないところから『大根役者』(当たらない役者)という言葉が生まれたとの説もある。
その上、我が家の食農庫、玄関に置いておけば煮物用なら一月は保存できる。

そんな万能なる大根を食しつつ、大根を見習い、短い人生で出会うことが出来た人、ひとり一人の素敵なところを思い浮かべてみた。

真っ赤な大根を、いただきました。

赤いのは皮だけで、皮を入れても赤く染まることもありませんでした。

写真で見た感じより、脂っこくありません。
赤ワインにも、ぴったりの一品でした。

翌朝の方が、美味しくなっていました。
次の日のカレーの魔法は、ココナッツミルクカレーでも同じかな。

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心のかたち

心のかたちは、ハート型でも心臓のかたちでもないと思う。

イメージするに、それは木のようなかたちなのではないか。いく本もの枝が張り出し、日々周りの出来事にぶつかって姿を変えていく。
その木のかたちをした心に、いろいろなものが引っ掛かり、たとえば充実した日々には生き生きと葉がしげり、嬉しいことが引っ掛かった時にはピンクの花が咲き、おしゃべりしていっぱい笑った時にはポップキャンディーがたわわに実り、怒りに震えた時には自らの葉をめらめらと燃える炎で焼きつくしてしまい、傷ついた時にはいく本もの枝を折り幹まで傷めてしまう。
そんな風にして、少しずつ空に向かっていく。

零下になった初冬の朝。凍った三日月を浮かべた青空の下、木を見上げた。
自分を見つめるような心持ちで、葉を落としてゆく木々を、ただ見上げた。

三日月は、うっすら笑っているように見えました。
  
左はすぐ隣の林の木です。  右は町内にある『穴塚古墳』の木。

向こうに見えるは、八ヶ岳。人間って、小さいなぁ。



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苦手なあいつ

「あっ、踏んじゃった!」
そーっとスリッパを持ち上げて胸を撫で下ろした。踏んづけたのは、猫柳の綿のような部分。何故に部屋のなかに猫柳? と思われるかもしれないが、今、薪ストーブの焚き付けに使っている枝が猫柳で、これがまたよく燃えるのだ。
何を踏んだと思ったのかと言えば、虫好きなわたしでも苦手な虫、独特の嫌な匂いを放つカメムシである。大きさ的に丁度同じくらいなのだ。

この季節、彼らはよく家のなかに入ってくる。洗濯物にくっつき、または、薪の隙間で眠っていたところを起こされ、部屋のなかをうろうろしたり飛び回ったりするのだ。殺すと匂いを放つので、いつも外に出す。
必殺技は、飛んでいるところに静かに箒を逆さに持ち、じっとしているというもの。すると必ずと言っていいほど、彼らは好んでそこにとまる。それを外に出て、振り落とすのみ。簡単である。

カメムシで思い出すのは、春に県外の大学に通いだした末娘だ。彼女はそんなことで思い出されていると知ったら、余りの不名誉に怒りあらわにするかも知れない。だが、普段はクールな彼女がカメムシを恐がる様子は、思い出すと微笑ましく、さいたまではカメムシ対策はどうしているのだろうかと、くつくつ笑いつつも心配にもなる。
娘はその名を呼ぶのも嫌だったらしく「あいつ」と呼んでいた。
たまに彼女が「あいつ」の悪口を言うのを耳にし、
「あ、今聞いてたかも、あいつ」そんな子どもだましな、わたしの脅しにも、
「ごめんなさい! どうか来ないでください」と、慌てふためき拝んでいた。
もう、虫程度のことじゃ、動じなくなっただろうか。否。あの嫌がり様はちっとやそっとじゃ治るまい。毎晩、拝みつつ眠っているかも知れない。

いやいや。末娘を思い出させるものは、もちろん「あいつ」だけではない。
彼女が好きな『不思議の国のアリス』(彼女は作者ルイス・キャロルの命日には黒い服を着る)や、恩田陸の小説、長芋のグレープシードオイル焼きや、プリン(高校の友人達に半嫌がらせで誕生日、教室の机に30個のプリンタワーを作られていた)、片方持って行ったペアの紅茶茶碗を見ても思い出す。
であるから「あいつ」を見てきみを思い出す母を、まあ、許してやってくれ。

猫柳の枝は、よく乾いていい焚き付けになりました。

この薪のなかに、いったい何匹の虫が眠っていることやら。

薪小屋の隣の紅葉の下は、綺麗に絨毯が敷かれていました。

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銀杏を見て、思うこと

銀杏を観に行こうと思いつつ、時を過ごしてしまった。
所用で甲府に出た際立ち寄った、銀杏スポット、山梨県立美術館の駐車場では、すでに多くの葉が散ってしまっていた。
それでも見上げる銀杏の木は、「間に合ったね」と言うように、秋の空とのコラボレーションを楽しんでいるかのように見えた。

よしもとばななの小説に『デッドエンドの思い出』(文春文庫)がある。
表紙は銀杏の葉が敷きつめられた公園のような場所で、子ども達ふたりが走っている。写真を加工したものだろうが、そのふたりが如何にも楽しげで、温かくカラフルなフリースで身をまとい、幸せを絵に描いたような雰囲気なのだ。

婚約者に裏切られボロボロになった心で、ただ時間が過ぎるのを待つように寝たり起きたりするだけの主人公、私。身を寄せたのは親戚が経営する『袋小路』という名のクラブでもバーでもないような小さな店の2階で、事情を知る雇われ店長の西山君だけが、ぽつりぽつりと話をする相手だった。
「幸せって言うと何を思い浮かべる?」と、私。
晴れた秋の日、公園の芝生でふたり座って話していた。
「私は、のび太くんとドラえもんを思いだすな」と、答えを待たず、私。
のび太の部屋で、漫画を読みながらどら焼きを食べている。そのふたりの関係性とか、折った座布団を枕に寝転がっている様子とか、中流家庭の雰囲気とか、ドラえもんが居候であるとかすべてを含め、そこに幸せを感じると話す。
それを読んだ時に、うんうん、わかるなぁと思った。

最近だと、たとえば、上の娘の英単語のテストを手伝っている。彼女がかいた連語30ほどをランダムに並べ替えてかくだけだ。順番を変えても覚えられるようにしたいのだと言う。その娘の字が、判読不可能なことが多く困る。
「きみの字、cなのかeなのか、vなのかrなのか読めないよ」と、わたし。
「えー、お母さんの字だって読めないよー」と娘。
「読めないのは適当にかいたから、スペル違ってたのあったでしょ?」
「それが、全部あってたんだよ」「うそ。それは、謎だ」「謎だ」
娘とのそんな時間にのび太とドラえもんが「私」に感じさせた幸せを重ね、あ、これかも。今、幸せかもと思ったりした。
  
銀杏は、秋の高い青空に似合う、立ち姿をしています。
西山君は空を見上げ「自由な感じかな」と答えました。
自由って、いったい何だろう。

銀杏(ぎんなん)可愛いし、美味しいのに、匂いだけ強烈ですよね。

銀杏(ぎんなん)拾いをする人の姿も、ありました。

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文具屋、大好き

思い込みの種は何処にでも眠っていて、一滴の小さな水をきっかけに、勢いよく芽を出す。芽を出し、そこで摘まれるものも多いが、ジャックが蒔いた豆の種の如くグングンと空までも伸び、他者までもを巻き込み、さらに生き生きと伸び続けるものもある。

「『インクポット』ってさぁ、山梨にしかないんだね」
久しぶりに会った埼玉は浦和に住む末娘に言われ、その事実を知った。
「うそ。東京にたくさんあるチェーンだとばっかり思ってた」
「わたしも」と彼女。引っ越して、何処にでもあるだろうとネット検索したところ、山梨の大型文具専門店と、出て来て驚いたと言う。
夫に言うと、彼は東京勤務であるにもかかわらず「えっ? そうなの」
我が家で『インクポット』といえば、東京の店で定着していたのだ。

ひとつに、山梨に越して来た後に出来た店だということがある。
「甲府にスタバ、出来たんだって」「わっ、行ってみよ」
「マツモトキヨシ、ショッピングモールに入ったんだって」「ほー」
「スイカ、韮崎まで使えるようになったんだって」「西瓜?」
と言った感じで、東京のチェーン店が山梨に来た、隣りの市に来た、などの喜びに近いものを抱き『インクポット』に出かけていたのだ。
もうひとつは、ロゴのクールさ。山梨にはないシンプルなロゴだ。そのロゴが言っているのが聞こえた。「東京から来ました。よろしくお願いします」
そして商品の豊富さと、質の良さ。外国のメーカーものも揃っている。これは山梨には今までなかったよね、と思い込みの芽は、我が家の屋根を突き破り、空高く、勢いよく伸びていったのだった。

今では『インクポット』は、山梨発の店だと知っている。それでも、大きな文具専門店に行くわくわく感は、何も変わらない。

赤と深い緑が効いている上に、インクの絵はアンティークな雰囲気。
このデザインは、山梨っぽくなーい。と、思います。

ロルバーンのノートは、カラフルでいくつも欲しくなりますが、我慢!

来年のカレンダーと、スタンプを購入しました。

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初冬の庭で

庭で種を作り終えたテッポウユリが乾燥し、ドライフラワー化している。
この花を終えた後の種の部分を「花がら」と呼び、ドライフラワーとして使うことは、庭に咲くようになってから初めて知った。
何年か前から、何処からか種が飛んで来て、自然と咲くようになったテッポウユリ。清楚で大きな白い花は、胸がすくように凛と咲く。草取り自体サボりにサボってはいるが、その際にもテッポウユリやスミレ、ホタルブクロなどは、抜かないように大事にしている。勝手に咲く花達は強く、抜きさえしなければ、水をあげることなどなくとも元気に育ち花を咲かせる。

そのユリが種ばかりになった初冬の庭で、テッポウユリの蕾を見つけた。小さく膨らんでいる。可愛い。いちばん先に咲いた花が種を落としたのだろう。1年待つことをせず芽を出し、花をつけたのだ。

木々の葉が紅葉し、そして落葉し、枯れた草も多いなか、静かに生まれている命があることを思うと、胸が温かくなる。冬の初めの静かな庭。しかし静けさとは裏腹に、植物達は忙しくしているのだ。来春のために種を大きく育てるなど冬支度をしたり、また、今のうちに花を咲かせるぞと冷たい風に負けず、小春日和に太陽の日差しをうんと浴びたりと。
『混在する』という言葉が好きだ。散らかっている方が何故か落ち着くのと同じような感覚。『整理整頓』が出来ない、わたしだからこそかな。

夕方からは雨が降り、蕾を濡らしていた。今週中には咲くかな、テッポウユリ。手のひらに収まるような、小さな楽しみがひとつ増えた。
  
咲き終えて、種を作っている百合達の脇に見つけた、小さな蕾。

南天は、これからがいちばん綺麗です。

今年いただいたニラの苗が付けた種。朝顔の種と似ています。

ブルーベリーは、実をつけなかったけれど美しく紅葉しました。
  
出産間近のカマキリ母さん発見。
イタリアンパセリは、種を落とし芽を出しを繰り返し、まだ収穫中。

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ヴァンフォーレ甲府、J1残留決定!

海鮮鍋を、食べていたはずだった。海の幸の旨味がいっぱいの熱々の鍋。
ところが、口に入れてみたら、それは鶏肉だったのだ。
「ああっ! 鶏肉食べちゃったぁ!!」
そこで目が覚めた。悪夢だった。

鶏が苦手、ということではない。逆に鶏肉は、大好きだ。なのに何故こんな夢を見たかと言えば、単純極まりない脳の構造が読み取れる。
山梨唯一のJリーグチーム・ヴァンフォーレ甲府の応援で、金曜土曜の週末2日間、わたし達夫婦は鶏肉断ちをしているのだ。
名付けて『目指せJ1残留! ヴァンフォーレ応援ジンクス、我らが甲府はチキンじゃない! チキン断ち作戦』
それなのに、食べちゃった! という土曜の朝の悪夢だった。

今期J1に昇格したも、Jリーグ史を塗り替えるまさかの8連敗を喫し、夫とふたり、考えに考えた作戦だ。それから勝ち点を着々と積み上げ、土曜のホームで迎えた大分戦。引き分け以上で自力の残留を決められるというところまで持ってきた。
「だいじょうぶ。チキンは食べてない。ただの夢だ」
わたしは自分に言い聞かせ、応援にのぞんだ。

夫が足を負傷していたため、家での観戦。ところがである。何ということであろう。契約しているにもかかわらず、スカパーが映らない。アンテナが折れていないことを確認し、スカパーに電話をかける夫。どうしても映らなければ、今からでもスタジアムに行こうかと考えつつ、それでも冷静に電話のサポートに従い、あれこれやっている。テレビにヴァンフォーレのユニフォームが映ったのは前半20分。0-0だ。
「疲れたぁ」「いっきに、疲れたね。でも試合はこれからだ」
ふたり缶ビールで乾杯し、洗濯物をたたむこともせず集中して応援した。
結果は0-0のまま。大きな勝ち点1を積み上げ、ヴァンフォーレは見事、自力でのJ1残留を勝ち取った。

「おめでとう!」ふたり、ふたたび乾杯した。
「これで、心置きなくチキンが食べられるね」「思いっきり食べよう」
その時ちらりと頭をよぎった。来期も、金土のチキン断ち、するのかな?

応援グッズ。カッパは、雨に降られた夫が購入しました。
夫は年間サポーターなので、パスポートでホームの試合はすべて観られます。

小学生だった末娘が、入場券と共に配られるくじで当てたサインボール。
記憶にありませんが、奇しくも初勝利の日だったようです。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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