はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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春待つメロディ

日曜の朝、窓から西側の林を見て、夫が言った。
「雄のキジがいる。綺麗だよ」「どれどれ」
わたしがキッチンに立つ手を休め見に行くと、彼は双眼鏡をのぞき訂正した。
「あ、キジじゃない。カケスだ! 羽根が青い」
双眼鏡を借りて見ると、確かにカケス。ドングリらしきものを無心に食わえては食べ、飛び立つ様子はない。家の中からわたし達に見られているとは、思いもよらなかったのだろう。雪が解けるまで待ち、あまりの空腹に我慢出来なかったのかも知れない。
わたしは、デジカメを思いっきり望遠モードにして、何回かシャッターを切った。青い羽根の縞々が、綺麗だ。
「カケスなんて、久しぶりに見たね」と、夫。
「うん。雪が解けて、ようやくドングリが食べられるって、張り切ってやって来た感じだよね」
すると夫は「!」という顔をした。わたしも「!」と、彼の言わんとすることが判った。そして次の瞬間、ふたり歌った。
♪ 雪がぁ解けて 川ぁになぁって 流れていきますぅ(ランちゃん!) ♪
ちなみに(ランちゃん!)は、夫のソロである。

それからずっと、頭のなかにそのメロディが流れ続けていて、止まらない。
キッチンで、お風呂でつい歌ってしまう。
♪ もうすぐ春ですねぇ 恋をしてみませんか ♪

わたしの頭にリピートされ続けるこの春待つメロディに免じて、雪にもそろそろ遠慮してもらいたいものだ。ところでカケスは、他の鳥の鳴き声を上手に真似るらしい。カケスくん。ついでに、キャンディーズも歌ってみませんか?

頭に乗せた冠と、羽根の青と縞々が特徴的。雄雌、同じ模様だそうです。

主食はドングリだとか。隣の林には、ドングリが山ほど落ちています。

雪が解けた庭を探ると、ふきのとうが一つだけ顔を出していました。

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今シーズンのジンクス

振動も鼓動も伝わって来ないまま、Jリーグ開幕戦は鹿島に4-0で完敗した。雪が残る小瀬、中銀スタジアムでの開幕戦は、中止との知らせが入った。だが急遽、東京は国立競技場を借り、ホームでの試合を行うことが決まり、夫とふたり観戦しに行くことにした。
雪の予報に、そぼ降る雨。暗雲垂れ込める天気に不安にもなったが、天気は相手とて同じ。防寒グッズで身を固めヴァンフォーレのマフラーを巻き、千駄ヶ谷から意気揚々と歩き出す。すると、すぐに誘導され長い列の後ろに並んだ。
「こんなに並んでるんだねぇ」と、わたし。
「昼は、中で買って食べるしかないか」と、夫。
国立競技場近くに昔からあるラーメン屋『ホープ軒』で食べるのもいいねと、話しつつやってきたのだ。

しかしなんと、ゲート入口まで来ると、そこは鹿島サポーターの入口で、甲府サポーターは入場できないという。
「なにそれ、早く言って欲しいよね」文句を言うわたしに、夫は慣れた様子。
誘導もバイトくんが多く、指示されたことをするのみというパターンは、大きなスタジアムではよくあることらしい。
「それよりさ、せっかくだから『ホープ軒』行こうよ」
「いいね、それ」わたしもすぐに機嫌を直し、同意した。
熱々でこしのある葱ラーメンは、大盛りで美味かった。それから、ふたり満腹でスタジアムに向かった。向かう途中笑っていた。
「今日、ぼろ勝ちしたら、これから毎週ラーメン食べなきゃならないかもね」
夫が言うと、わたしが返した。
「えっ? じゃあ負けたら、週末はラーメン食べられないってこと?」
昨シーズン、わたし達が決死のチキン断ちをして応援しJ1残留を決めたヴァンフォーレ。そのジンクスもリセットだと笑っていたのは行きだけだった。
行きはよいよい、帰りは恐い。今シーズン、金曜土曜は愛するラーメン断ちという試練が、わたし達には課せられたのだった。

「ACミランだって、3-0で、負けることだってあるんだから」
夫は、自分を励ますように言ったが、試合終了寸前ダメ押しの4点目を決められた。夫は、再び言った。
「ACミランだって、4-0で、負けることだってあるんだから」
我らがヴァンフォーレの躍進に期待する、Jリーグシーズンが始まった。
  
サッカー観戦をする人々でにぎわうという『ホープ軒』

初めて行き雑然とした雰囲気に飲まれるも、ラーメンは美味かった!

シーズンはこれからだ! がんばれ、ヴァンフォーレ☆

帰りに『ヴァンフォーレ甲府応援たまご』を、買って帰りました。
売上金の一部が、選手強化費として使われるそうです。

多くの地元スポンサーに支えられている、地元に根を張ったチームです。
そういうチームを、イタリアでは『プロビンチア』と、言うのだとか。

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振動と鼓動を感じて

吉祥寺に、芝居を観に行った。
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間に誘われたのだ。伊坂原作の『チルドレン』をやるというのだから、観に行かない手はない。
「読み直さなくてもいいよね『チルドレン』なら」と、彼女。
「10回は、読んでるから、さすがにいいね」と、わたしも受け合う。
『チルドレン』は、ふたりの間では「伊坂入門書」と呼ばれており、万人受けするであろうと思われる連作短編集。
「伊坂幸太郎って、なんて面白いんだ!」と、雷に打たれたような衝撃を、初めて感じた本でもある。

芝居では雷には打たれなかったが、いきなり始まったドラムのリズムに心臓を貫かれた。それは、音と言うより振動だ。
つい先日、夫が言っていたことを、思い出した。
「ビートルズって、やっぱすごいバンドなんだよ。昔は音響のイヤホンなんかも今みたいに精密じゃなくて、観客の声援で自分達の演奏の音が聞こえなかったんだって。で、なんとリンゴ・スターがたたくドラムの振動だけを頼りに弾いてたんだよ。なのに、全く狂わなかった」
『チルドレン』は、主人公、陣内のロックバンドが、物語のなかでも大きな役割を担っているのだが、芝居では主役級。中心に据えられていた。
ファンクラブの仲間が選んだ前から2列目、真ん中の席で、心臓に感じる振動を、演じる人達の鼓動を心地よく感じた。だから、ライブって、生の芝居っていいんだよなぁと身体じゅうで感じていた。

彼女も無論キラキラ目で見ていたが、伊坂以外の芝居も、あれこれ観に行っているらしく芝居慣れしているのもあるのか、うっとりと述べた最終的感想は、
「やっぱ、伊坂、いいわぁって、そこ此処で思いつつ観てた」
「生の芝居じゃなくて、そこかい」と突っ込みつつ、あのシーンは本と違ったとか、ビートルズのコピーバンドの設定だったのに著作権上使えなくて違う歌にしたのかとか、どの役者が好みだったなど、新宿までの中央線での話は尽きることはなかった。うーん、振動と鼓動。芝居に、ハマりそうな予感がする。

劇団『東京ハートブレイカーズ』舞台に立つのが、心底楽しいという面々。
舞台後の挨拶「ここは、大人の遊び場です」という言葉が印象的でした。

ライブハウス『STAR PINE’S CAFE』
  
「求む! 表現者かぁ」「スタッフ、やりたいなぁ」と、彼女。

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福山雅治で、冬を乗り切る

最近、福山雅治である。
彼のことはドラマ『愛はどうだ』(1992年放送)で、緒方拳の草食系っぽい部下役をやってた頃から注目しているし、NHK大河ドラマ『龍馬伝』では、やっぱ、かっこいいなと思ったが、CDを聴くほどのファンでもない。
この冬、福山に倣い、風呂で身体を洗うのに石鹸を使わない、というのを実践しているというだけだ。

彼は乾燥肌故、苦労してきたそうだが、石鹸、ボディソープ、シャンプーなどをいっさい使わず、お湯だけでゆっくり洗うというやり方にしてみたら、これがカサカサせず、痒みも出ず、いい感じなのだという記事を読んだ。全部が全部、倣うのも躊躇するところがあるので、とりあえず、毎年冬に乾燥し、かきむしってしまう足(特にすね)をお湯だけ洗いにしてみた。これが、効いている。例年ひっかき傷を作るこの時期、いまだ、すねは痒みを訴えて来ない。すごい効果だ。
しかし、友人に話すと「えっ? 毎日石鹸で洗ってたら、そりゃ乾燥するでしょ」という返事。なーんだ。福山流って訳でもなかったのね。

このところ雪かきで疲れているせいか、やたら濃い夢を見るのだが、福山がよく登場する。福山と付き合っているという設定で(なのに福山は出て来ない)同僚の江口洋介とお弁当仲間。新作メニューを見せ合うシーンに、焼きそばコロッケを自慢げに食べると、江口に「ずるい!」と非難され、勝利に歓喜しつつ、これって浮気かなと不意に思うのだ。もちろん、福山に対して。
いや、江口洋介、全然タイプじゃないんだけど。ふたりが共演していたドラマ『ひとつ屋根の下』のイメージで登場しただけだと思うんだけど。

まあ、綺麗にし過ぎるのも、よくないのかもね。身体も、心も?
  
吉祥寺の雑貨屋『 quatre saisons 』吉祥寺は、雑貨屋さんだらけ。

ナチュラルテイストなフランス製の石鹸『SAVONNIERE
店員さんおススメ乾燥肌にいい『アルガンとミツロウ』20gを購入。
左側手前の白い石鹸です。匂いは本当に微かで、それが気に入りました。

香りが強いものや、色に目を魅かれるものもたくさん。
石鹸って、なにか魅かれるものがありますよね。

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家族の絆を描いた『卵の緒』

久しぶりに、瀬尾まいこの『卵の緒』(マガジンハウス)を読んだ。
彼女のデビュー作にして、「坊ちゃん文学賞大賞」受賞作である。短い小説なので、もう1編とセットで1冊になっている。
初めて瀬尾まいこを読んだ時には、驚いた。発想の突飛さが、そこ此処に見え隠れしていて、小さな驚き満載なのだ。面白くない訳がない。

例えば、冒頭文。
「僕は捨て子だ。子どもはみんなそういうことを言いたがるものらしいけど、僕の場合は本当にそうだから深刻なのだ」
主人公で9歳の小学4年生、育生の語りで物語は進む。

育生がへその緒を見せてと頼むと、母さんが出して来たのは卵の殻だった。
「母さん、育生は卵で産んだの。だから、へその緒じゃなくて、卵の殻を置いているの」母さんは、けろりとした顔で言う。いぶかる育生に更に言う。
「育生。世は二十一世紀よ。人間が月へ飛んでいくのよ。ロボットが工場で働くのよ。コンピューターでなんでもできるこの世の中。卵で子どもを産むくらいなんでもないわよ」

発想の突飛さにまず魅かれ、そして血の繋がらない育生を育てる「母さん」の大らかさに、母であるわたしはますます魅かれた。

本との出会いは、人との出会いと似ている。本屋の店頭で「一目惚れ」したり、何度も手に取っては戻し「馴染みの顔」になっていったり、気になってはいるのに手を伸ばせない「遠慮がちな仲」だったり、それを乗り越えたら「意気投合」しちゃったり。
瀬尾まいこには、間違いなく「一目惚れ」だった。偶然にも同じ日に、中学生だった上の娘が学校で司書さんに薦められて借りて来ていたというエピソード付き。ふたりの娘達と、貸し借りして、ほぼすべての作品を読んでいる。強い繋がりを感じる作家だ。

親と子は、そういう出会いにはくくれないものがあるけれど、そう言えば、と考えた。わたしにも、血の繋がらない家族がいる。夫とその両親だ。そう考えてみれば、出会いの不思議と、その大きさに息を飲む。
『卵の緒』家族の絆を描いた、魅力あふれる小説である。

『図書館の神様』(マガジンハウス)が2作目です。
ある事件を機に故郷を離れ、中学で国語の講師をする女性の物語。

この間、神戸にある夫の実家に帰った時に、
義母のマグカップが欠けているのを見て、探していました。
カラフルで安定感があるマグを見つけて、ようやく送りました。
義母から、すぐに喜びのメールが。気に入ってもらってうれしいな。

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くだらないおしゃべりの効用

「わたしの青春は、もう終わった」
19歳の末娘が、レディボーデンをスプーンですくいつつ、言った。
「『ビバリーヒルズ青春白書』では、大きな容器からそのままアイスクリームをすくって食べてたよ」と昔、アメリカで流行ったドラマの話をしたばかり。
彼女はそれを真似て、レディボーデンを独り占めしつつ、黄昏ている。
「何言ってんの。まだまだ青春真っただ中でしょう」と、呆れ顔でわたし。
「だって、青春18きっぷって言うじゃん」と、娘。
「青春18きっぷは、何歳でも使えるんだよ」と、わたしが返す。
「知ってるよ。でも、ネーミングは18でしょ」
「ネーミングより、中身が大切なのさ」

昨日、おしゃべりな末娘は、大学のある埼玉に帰っていった。彼女を送って帰ってくると、家のなかが、しんとしている。
その昔、友人に教わった。
「反抗期の子どもに、親がしてあげられることがあるとすれば、美味しい食事を作ることと、くだらないおしゃべりをして一緒に笑うことだけ」と。
ご飯を美味しく食べながら、くだらないことをしゃべり、笑う。子ども達にとって、わたしがしてきたことは、どんな風に残っているのか判らないが、巣立ちの時を迎えつつある娘達に教えられた。「くだらないおしゃべりをして笑うこと」は、今や、子ども達にしてあげることでも何でもなく、逆にわたしが楽しんでいることだ。大雪で疲れ果てた身体には、よく効いた。娘達と、とりとめもなく、くだらないことをぐだぐだしゃべり、よく笑った効用。

「甘栗ってさぁ、脳みそと似てるよね」と、末娘。
「えっ? 似てないよ」と、いきなり否定するわたし。
「似てるじゃん、形が」「あー、見た目のこと?」「味だったら恐いよ」
「ん? だったら、脳みそじゃなくて脳でしょ」と違和感に気づき、わたし。
「脳だね。脳みその味はさすがに知らない」「食べたことあるのかと思った」
「ある訳ないじゃん」「一人暮らし初めて、多くの経験をしてるんだなって」
「それでも、脳みそは食べない」「だよねー」

くだらないおしゃべりを山ほどして、末娘は帰った。食べかけのレディボーデンと甘栗と、そこ此処に甘く明るい青春の気配を残して。

『ビバリーヒルズ青春白書』上の娘が幼稚園の頃、ハマって観ていました。
懐かしいなぁ。でも「ビバリーヒルズ」がなかなか思い出せなくて、
末娘に話す時に苦労しました。「超都会でニューヨークじゃなくって」(笑)

これが、脳かぁ。じっと見ていたら、食べられなくなった(笑)

末娘と車中で食べたたこ焼き。ソースマヨと激辛ソースマヨ。
「普通、どっちかかいてない?」「あるよね?」でも記載なし。
辛いのが苦手な彼女は、約1分迷って辛くない方を選び当てました。
それから、はふはふ言いつつ食べてる間じゅう、辛い物談議。

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雪えくぼ

『雪えくぼ』という言葉があることを、初めて知った。
雪解けは進んできたが、田んぼや畑が多い明野では、空から見下ろせば、雪で白く染まっている部分がかなり多いだろう。
その田んぼで、雪がデコボコになってへこんでいき、出来る模様を『雪えくぼ』と言うのだそうだ。へこんでいる場所は、水の降りる道になっていき、そこから雪が解けていくのだとか。
「こんなにどかどか雪降っちゃって、この雪が解けた水はいったい何処へ行くのだろう」と、ネットで検索していて出て来た言葉だ。
まあ、川を流れ、海に行くのだろうとは判ってはいたのだが。

『えくぼ』という笑顔に出来る言葉を当てたのは、深い意味があってのことではないかも知れないが、にわか雪国になってみて、今思わずにはいられない。雪解けでの災害が、出ませんように、と。
雪達のえくぼが「だいじょうぶだよ」という春待つ微笑みだと、思いたい。

昨日は気温が上がり、韮崎では雪えくぼに、地面が見える場所もありました。
でも明野では、標高も高いので、まだまだ雪解けとは、いきません。

『雪えくぼ』というネーミング、雪ん子でも出てきそうに幻想的。
雪の妖精達が、キラキラと遊びまわった足跡だったりして。

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彼女の名前は?

パスワードを忘れ、設定しておいた質問に答える羽目に陥るのは、よくあることだ。だがその質問の答も忘れてしまうことは、よくあることなのだろうか。

自分に自信がないという自信は大ありなので、かきとめておくことにしているのだが、そのメモがまた、行方不明になる。これもまた、よくあることなのだろうか。なので、いつも同じものにしようと思うのだが、例えば「好きなビールは?」に「のどごし生」と設定していたのが、気分で「カールスバーグ」にしてしまったりと、同じものにしようとすることすら、忘れてしまう。それでもまあ、ここまでは、よくあることだとしておいてもいい。ここまではいいが、これはないだろうという状況に、我ながら唖然としたことがあった。

「彼女の名前は?」
この全く記憶にない質問には、参った。
「彼女ぉ? って、いったい誰だよ?」
娘達の名前を入れてみるが、エラー。そこまで夢中になれる女優もいないし、自分、母や義母の名前、友人達の名前を入力すれど何処までもエラーが続く。
「やめた。やめた」緊急を要するパスワードではなかったので、面倒になり放置したまま何日かが過ぎた。

思い出したのは、何かの用事で末娘の本棚の前に立った時だった。そこにあったのは『破天荒遊戯』( 一迅社)という漫画だった。娘が中学の頃だろうか。それを借りて読んだ時、その主人公の少女、ラゼルのしゃべり口調が娘にそっくりで驚いた。いや、娘の方が、ラゼルのしゃべり方に影響を受け、気に入って使っていたのだろうが。それでその頃、とりとめもなくかいていた日記に、末娘の名を『ラゼル』と記していたのだ。
謎は解けた。「彼女の名前は?」「ラゼル」が正解だったのだ。
しかしいったいどうして、こんな探偵みたいなことをしないと判らない質問と答にしたのか。その謎は、いまだ解明されていない。雪が解けて、ふやけて出てきた節分の豆のように、出てくるか出てこないかも判るはずのないわたしの記憶。謎は、深く濃い霧の中だ。

2階のベランダの手すりに見つけた節分の豆を見て、
ふと思い出した、何年か前にあった出来事です。

庭に来る鳥達は、煎った豆には興味を示さず、夫が撒く向日葵の種に夢中。
シジュウカラの背中が黄緑色のタイプ。可愛い!

シメは人相(?)が悪いとか、目が怖いとか、夫と笑ったりしますが、
カワラヒワを追い出すこともせず、仲良く食べていますね。
ヤマガラのcuteなページはこちら→『飛べ! ヤマガラ』
夫の焚き火台の上に板を置いて、餌場を作っています。
この焚き火台、少人数でのバーベキューにぴったり。夏に冬に大活躍。

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日々美味しく食べられることに感謝して

仲間内でシェフと呼ばれる彼は、大人数で我が家にやって来るとき、必ず包丁を握りキッチンに立ってくれた。
白菜鍋は、その彼、夫の友人に教わった。正しくは『韓国風白菜鍋』である。
もう10年以上前になるだろうか。それ以来、我が家の冬に食卓には、何度も登場することになった。干し椎茸の出汁と鶏がらスープ、豚ばら肉に鶏もも肉、白菜に胡麻油。その匂いで、子ども達にも「あ、今夜は白菜鍋だ」と判るほど馴染みとなったメニューだ。肉汁の沁みた白菜たっぷり、身体の芯から温まる冬白菜の鍋を、昨夜は堪能した。

大雪で流通が滞り、スーパーで普段買っているものが買えない状態を目の当たりにし、毎食、思うようになった。口にもする。
「毎日、野菜が食べられるのって、幸せだよねぇ」と、わたし。
「全く。実感するよね」と、夫。
野菜中心の我が家の食卓。今更ながら、たくさんの人に支えられているのだと、毎食、思わずにはいられない。日々美味しく食べられることの感謝を、大雪に教えられ「ありがたいことだよなぁ」小さくつぶやく機会が増えた。
シェフは今、仕事で地球の真裏、暑いブラジルにいる。白菜鍋はしばらく食べていないかもしれないが、ブラジル料理の腕をあげていることだろう。

白菜をたっぷり入れて、最後に胡麻油を回しかけます。

かき混ぜると、胡麻油と豚ばら肉鶏もも肉の脂が、白菜に沁みていきます。
 
まず器に塩と七味を入れ、そこによそって食べるのが正式な食べ方だとか。

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始めよければ?

『終わりよければ、すべてよし』とは言うが、始まりも重要だ。
こと小説においての始まりは、その物語の半分を語るとも思えるほどに重要である。「つまらない」と本を閉じられてしまったら、いくら『終わりよく』ても、どうしようもない。そして、やはり始まりが決まってる小説は、終わりまでわくわくした気持ちを抱えつつ読めるものが多いと個人的には思っている。

例えば、伊坂幸太郎『重力ピエロ』(新潮社)
「春が二階から落ちてきた。私がそう言うと、聞いた相手は大抵、嫌な顔をする。気取った言い回しだと非難して来たり、奇をてらった比喩だと勘違いする。そうでなければ『四季は突然空から降ってくるものなんかじゃないよ』と哀れみの目で、教えてくれたりする。春は、弟の名前だ」
超かっこいい。洒落ている。マジ、しびれちゃう。素敵だ。

無論、伊坂は素敵だ。だが、わたしが現時点、一番好きだと思う小説の始まりは、川上弘美の短編集『神様』(中公文庫)に収められた『花野』だ。
「すすきやかるかやの繁る秋の野原を歩いていると、背中から声をかけられた。この時刻でこの場所ならばたぶんそうだと思っていたが、振り向くと、やはり叔父が立っていた。五年前に死んだ叔父である」
もう、これだけで「読んでよかった!」と思えるほどに、粋な始まりだ。驚きもあり、物語に吸い込まれるように読み進めずにはいられない魅力がある。

ところで『終わりよければ、すべてよし』というのは、日本の諺かと思えば、シェイクスピアの喜劇『All's Well That Ends Well』から来ていた。好きな人と結婚するために、手を尽くす女性のストーリーだ。なので、この『終わり』は結婚だ。うーむ。結婚こそ、始まりだと思うんだけどなぁ。
やっぱ、始まり、重要だよ。

もちろん、浅田真央ちゃんのフリーの演技は、初めから終わりまで、本当に素晴らしく、始まり終わり云々など忘れてしまうほどよかったけれど。

ようやく一部渇いたウッドデッキで、撮影しました。
ハードカバーの方は、タイトル文字がシルバー。
文庫の装幀では、虹色になっています。

『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社)の始まりは、
「腹を空かせて果物屋を襲う芸術家なら、まだ恰好がつくかもしれない
けれど、僕はモデルガンを握って、書店を見張っていた」
映画では、濱田岳くんが演じた、椎名の語りから始まっています。

「どうせなら雪かきも、遊びながら」と、夫が作った、かまくらもどき。

半分以上は、渇いてきました。板、腐らないといいけど。

八ヶ岳は、いつも雪乗っけてて肩こるだろうなぁ。
でも、これだけの大雪だったのに、あんまり変わらないような気が。

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雪かき&ガールズトーク

♪ さよならは 別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束 ♪
来生たかおの『夢の途中』は、切ない失恋の歌だが、それとは全く関係なく、雪かきの途中である。

家の前の道路も、このままでは車のすれ違いが出来ないし、プロパンガスの交換も、まだまだ雪をかかねば出来ない。水道メーターや電気メーターも雪のなか。計測不可能の場合は、過去のデータで推測し請求金額を割り出すと、防災無線で放送があった。ウッドデッキには屋根から落ちた雪が山になっている。
とりあえず、駐車場からすべての車を出せるように、家族4人でがんばった。柔らかい雪も重くなっているし、凍って歯が立たない場所も多い。3時間、ほぼ休憩なしで雪をかいた。
身体じゅうが痛く、疲れ方も半端じゃないが、家族みんなで雪かきをするのは、楽しくもある。娘達が突然雪合戦を始めたりして、キャーキャーと女の子達の声が響くのっていいなと、思ったりもした。特に末娘が帰省し、彼女のおしゃべりで家のなかは、いつもに増してにぎやかになった。
「こんな時に帰省して、口を増やしていいのかな、とも思ったんだけど」
末娘に言われた時には、一瞬食べる方ではなくしゃべる方かと思ってしまった。それほどに、彼女はしゃべり出したら止まらない口の持ち主なのである。

例えば、昨日のわたしと娘達3人のガールズ(?)トーク。
「友達が『ねぶっち』されたって、ツイッターであげててさ」と、末娘。
「『ねぶ』なに? それ、なに?」と、わたし。
「『ぶっち』って言わない?」「『ぶっち』言うよねぇ」と、娘達。
「『ぶっち』知らない」と、初めて知る言葉に喜びつつ、わたし。
「約束を反故にすることだよ。寝過ごしぶっちで『ねぶっち』」と、末娘。
「ああ、なるほど。って、おねえ、反故にするって知らないでしょ?」
「ほご? なにそれ。知らなーい」と、上の娘。
「はいはい、判りました。さはに言う時には『反故』で、おねえに言う時には『ぶっち』にすればいいのね」と、末娘。
「おねえ、よく『ねぶっち』してるよね」「うん。してる」「してないよー」
「それでね」「こないださぁ」「だからー」
女という字を3つ『姦しい』で、かしましいと読む。女3人の、まさにかしましいおしゃべりは、雪に囲まれた温かな居間で、延々と続くのであった。

末娘が、がんばって開通させた道路からウッドデッキまでの道。

わたしは、下の外倉庫とプロパンガス置き場までを。

夫は道を広げる作業を。上の娘も一緒に、融雪剤を撒いたり。

軽トラくんは、まだ出動できません。荷台にも雪がいっぱい。
月曜には、ようやくゴミ収集車が来るので、活躍してほしいのですが。

ウッドデッキの雪も下ろさないと、デッキの木がダメになってしまいます。

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「美味い」って言っちゃダメ?

「美味い!」と、夫。「うん、美味いね!」と、わたし。
得意げな顔をする、上の娘。お好み焼きである。『焼く人』は、上の娘に任せ、ビールやワインを飲みつつ、わたし達は『食べる人』に徹した。

不満げな顔をしたのは、帰省中の末娘。別に、お好み焼きを『焼く人』になりたい訳でもなく、美味しくないという訳でもない。
「全く、いつから我が家では『美味い』って言い方が、許されるようになったの?」と、末娘。
どうやらわたしは、彼女が幼い頃、躾の一環として言い聞かせていたらしい。
「美味い、じゃなくて、美味しい、って言おうね」
末娘は、いまだにその言いつけを守っているのだ。ここまで来ると、守るというより違和感から「美味い」と言えなくなってしまったという感じだ。それに対する恨み言でなのある。そう言い聞かせた母が、目の前で「美味い!」と言っているのだから、文句の一つも言いたくなるだろう。彼女の気持ちは、判る。判るが、今頃言われても、わたしとて、どうすることも出来ない。

たぶん、息子にも上の娘にも同じように言ったに違いない。ただ息子は男の子であるから、言葉使いについて、わたしもあまり頓着しなかったのかもしれない。男女で差をつけて育てた覚えはないが、自然とそうなってしまうことだってある。そして上の娘は、馬の耳に念仏的な部分があり、それをこちらも承知していて、これまたあまり頓着しなかったのだろう。
素直に受け取った末娘だけが『美味い』という言葉を使えない状況に、陥ってしまった。申し訳ないような気持になる。

それでも「美味しい」と言う彼女は自然だし、綺麗な言葉が好きで、選んで使っているように感じる。ではそれは、わたしの功績か? 否。
彼女が小学校卒業時に選んだ好きな四字熟語は『花鳥風月』自然の美しい景色などを表現する美しい言葉だった。彼女自身が、もともと持ち合わせていた日本語の美しさを好む感覚や、強いこだわりから、じつは、知らず知らず言葉を選んでいるだけなんじゃないかなと、母はにらんでいる。

豚ばら肉を、びっしり並べて。上手くひっくり返せるかな?

ちょっとズレたのは、ご愛嬌。カリカリに焼けました。

鰹節が、ゆらゆら揺れるのを見るのが好きです。食欲そそられます。

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雪に隠された地面の如く

「びっくりした?」とは、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバーに登場する殺し屋キルオの決めゼリフだが、それとは全く関係なく、びっくりした。

東京に出ると、普段と変わりなく世界は回っていた。雪はもうないし、野菜も牛乳も売っているし、山梨では、毎日のように流れるテレビの雪による情報も、東京では、取り上げられることも少なくなっている。確かに中央自動車道開通と共に、状況はいい方へ向かっているが「トンネルを抜けると、雪国であった」というくらいの別世界。
これでは、山梨の惨状は、他の地域には伝わっていなくて当然だ。

情報と現実の格差を、考えさせられた。
我が家は停電もなく、食料も備蓄があり、暖房は薪ストーブを燃やし温かく、3日閉じ込められても、問題はなかった。しかし、これがもっと長く続いたらと思うとぞっとする。まだまだ、そのなかに居る人もいるのだ。山梨のなかでも恵まれた状況にあるわたしだが、それでも雪の重さと恐さは、垣間見えた。
「もっとよく見て、考えなくちゃ」
雪に隠された地面の如く、見えているものの後ろにある、見えないものの大きさが見えてきた。そして、外からは見えないからこそ生まれる、意識の違いが。これまで他の地域に起こった災害を、外からだけ見て、情報をかいつまみ、判ったつもりになっていたんじゃないかということが。

昨日、夫の仕事が終わるのを待ち、埼玉から帰省するという末娘とその友人と4人、中央自動車道を走り、再び雪国、山梨に帰ってきた。今日も雪かきだ。

上りは、快調に飛ばせる区間もありましたが、首都高まで、
4時間半かかりました。普段なら2時間くらいで着くところです。

一車線通行になっている区間も多く、濡れた路面から飛んでくる飛沫で、
フロントガラスは、常に曇っていました。

帰路、一車線になるところ。どう見ても2車線走行は無茶だという場所で、
無理やり左側を飛ばして追い抜きを図ったトラックがスリップ。恐かった!

談合坂サービスエリアのスタバ。
昨日は、給油もリッター制限はありませんでした。

帰ってきたぁ。我が家から徒歩3分の夕焼けスポットで。
雪だらけでも、やっぱり家に帰ってくると、ホッとしますね。

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もう雪は、写真で見るだけでいい

昨日も、雪で止まったままのJR中央線が特急運休を、前日のうちに早々決定し、予定していた東京行きが叶いそうもないので、現実逃避を決め込んだ。
昨年6月に、夫とふたり気ままにスペインを旅した写真を、見るともなく見る。どれを見ても懐かしいが、すでに忘れている出来事が多いことに驚いた。

例えばバルセロナの街角で、大道芸人よろしく巨大なシャボン玉を作るふたりを見かけ、また例えばグラナダでは、夫がアラブ風呂に入っている間、ひとり歩いたアラブ人街のカラフルさに目を見張った。夜のコルドバでは橋の上で、操り人形のギター演奏に聴き入ったし、マドリードでは、スペインの中心『おへそ』で写真を撮っている親子の笑顔を見て、思わずこちらも笑顔になった。

今更のようだが、写真ってすごい! と再確認した。一瞬のうちに記憶が甦る不思議。視覚が記憶の部屋をノックした途端、ドアは大きく開けられ、出てくること、出てくること。記憶の断片達が。
子ども達が小学生の頃、運動会で絶えずビデオを回し続ける親に「自分の目で、今しっかり見なくていいのか?」と、微かな反感を覚えた記憶もあるが、記録も大切だ。特に今さっきのことさえ、すっかり忘れ去ることを特技とした現在、なおさら大切だと実感する。

しかしどちらかと言えば、その時にしか感じられないものを、身体いっぱいに浴びる方が自分には合っているのだと知っている。だがそれでも、もう雪はいい。もう、思う存分体感した。雪国の方々のご苦労も、身に沁みた。
昨日ようやく中央自動車道が開通し、滞っていた物流が入ってき始めた。その対向車線を夫の運転で走り、予定通り東京に来ることは出来たのだが、明日には再び雪の予報。あのさぁ、もう雪は、写真で見るだけで十分なんですけど。

シャボン玉って、虹色ですよね。つかの間の美しさに魅かれるのかなぁ。
いや、子ども達には、そんな感傷は無関係。ただただ楽しんでますね。

狭い路地に、ひしめき合うかのように並べられた雑貨や衣類。
その数の多さと色遣いの明るさに、見るだけで楽しい気持ちになりました。
路地を出ると、すぐ隣にブランド店街があるのにも、驚きです。
  
演奏は、シチュエーションのせいもあるのか、とてもロマンチックでした。
おへそで笑顔! 世界中、変わらないものがあるなぁと笑いました。

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カレー、バッティングの謎

何故に、重なってしまうのだろう。カレーである。
昨日、雪に閉じ込められてから、ようやく脱出した。隣は韮崎市のスーパーまで、夫と近所の中学生男子と買い物に行った。
空になったスーパーの棚から、あるものをカゴに入れる。夕飯のカレーの食材はもともと揃っていたので、サラダ用の野菜(何故かサニーレタスとトマトはたくさんあった)やこれからに備えてパスタなどを買った。

帰りにパン屋が開いていたので寄ると、当然の如くサンドイッチなどの調理パンは売り切れ。食パンも、バゲットもない。カレーパンだけが「揚げたてですよ」とでもつぶやくように、20個以上並べられていた。
「わたし、カレーパンにする」「あ、俺も」
他にも、トマト&クリームチーズパンや、バジルソースウインナパンなどを買い、車に戻った。戻った途端に、気づいた。
「あっ、今夜カレーなのに、なんでふたりともカレーパン買ってんの?」
わたしの言葉に、夫は一瞬ハッとしたようだったが、すぐにすまして言った。
「カレーパンと、カレーは違うんだよ」「そ、それはそうだけど」
最近では、カレーは食卓にはあまり登場しなくなった。それでも、こんなバッティングはよくあることである。不思議だ。何故に、カレーばかりが、バッティングしてしまうのか。誰かに解明してほしいものだ。まあ、解明されたところで、喜ぶのは、わたしくらいのものかも知れないが。

子どもの頃、給食でカレーを食べた日に、台所の窓からカレーの匂いが漂ってきたのを懐かしく思い出す。また母親になってからも、給食のメニューを確認せずにカレーを作り「給食も、カレーだったよ」と、子ども達に、何故か嬉しそうに言われたっけ。更に、仕事を終え帰宅た夫に「昼に、カレー食った」と言われることも、1度や2度じゃなかった。
今回の場合、ふたりの潜在意識に起因するものがあったのだとも考えられる。
「夕飯は、カレーだ。久しぶりだな。楽しみ」の「夕飯は」の部分が、カレーパンを見た途端、すっかり削除され「カレーだ、久しぶりだな。美味しそう」に、なってしまったのだと。

夫と娘と3人で200m雪をかきました。かく、というより上げる作業です。
雪かきしていて、ようやく、ご近所さん達とも会えました。

前日の状態が、これ。苦労の後が見て取れると思います。腰痛い・・・。

カレーパンは、かりっと揚がっていて美味しかったです。

「辛くしてねー」と、娘。いつものルーに、チリペッパーをプラスしました。

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馬鹿がつくほど真っすぐな男

久しぶりに、奥田英朗の小説を読んだ。『純平、考え直せ』(光文社文庫)
3度、本屋で手に取り、3度目で購入した文庫本である。
帯には「この青春 おかしくて、せつない」と断言するかの如く白い文字でかかれた通りの青春小説だ。帯のその下に、心魅かれるワンフレーズがあった。「馬鹿がつくほど真っすぐな男」もちろん、主人公、純平のことだ。
人間、馬鹿がつくほど真っすぐには、なかなかなれない。だからこそ、小説に求める。この間まで読んでいた『ペテロの葬列』の杉山三郎だって、下っ端やくざの純平とは対極にあるキャラだが「馬鹿がつくほど真っすぐな男」という点に措いては、一致している。『ペテロ』は、けっこう真剣に『純平』は、ケラケラ笑いつつ読んだのだが。

21歳の純平は、組の盃を貰って2年目。歌舞伎町を歩けば30mごとに声がかかる人気者だ。凄んで見せてもベビー・フェイスで嫌でも可愛がられてしまう。そんな純平が、他の組の幹部の命(タマ)を獲って来くることになった。

『やくざモノ』ではなく、きっちり『青春小説』に仕上がっているあたり、さすが奥田英朗! と、思わずにはいられない。
純平は、決行の時までの3日間、金と自由を手にする。そこで、様々な人に出会う。仕事がつまらなくて週末ごとに遊び歩いている同い年のカナ。教授を辞めて家族を捨て、歳をとってからようやくグレたのだと笑う無銭飲食常習犯の老人、西尾。五分五分の兄弟盃を初めて交わしたテキ屋のシンヤ。
そしてカナが流した書き込みから、やくざの鉄砲玉になろうとしている純平へ、ネット上でも多種多様な声が飛び交っていく。

鉄砲玉になる予定はないが、3日間だけ、金と自由を手にして、その後何もかもを失くすとしたらと、チラッと考えてみる。3日間かぁ。自分は、いったい何をするんだろう。だが、チラッと考えただけで、すぐにやめた。雪に閉じ込められた、この3日間、雪掻きして、洗濯して料理して、家族としゃべって、笑って喧嘩して、テレビを観て本を読み、ごくごく普通に過ごした。多分そんな風に過ごすのだろうと、想像できた。それでいい。それがいい。
だいたいこの本は、ケラケラ笑って、じーんとして、純平ってほんと、いいやつだよなぁ。西尾のじいさん、いいキャラしてる。あー面白かった! と、本を閉じるべき、正真正銘のエンターテイメント小説なのである。
雪かきをしつつも、純平の真っ新な心を思ってしまう小気味いい本だった。

雪に閉じ込められて2日目。轍の上を踏んでも、腰までズボッ!
雪かきもしましたが、読書日和でもありました。

トラツグミは、薪のなかの虫を探しにやって来ました。

純平、いい顔してるなぁ。「盃を交わそう」と、純平。
「ウイスキーでなんやけど、こういうのは形やあらへん」と、シンヤ。

奥田小説のなかで、特に好きなのは『マドンナ』と『ガール』です。
『ガール』は、香里奈主演で、映画化されました。

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比率の落とし穴

夫が所望したのは、おでんだった。バレンタインの夕食メニューである。
大雪の予報に「買い物は多めに」との指示と共にのリクエスト。好判断かもと、おでんを鍋いっぱいに煮た。
夕方、駅まで夫を迎えに行き、雪道をふらふらになって帰ってくると、煮ておいたおでんのいい匂い。薪もパチパチと燃えていて、お風呂も炊けている。
「完璧だぜ!」と、心のなかでガッツポーズを決め、夫が風呂に入っている間に、バレンタインの『生チョコ』を作り始めた。
毎年作っているのだが、今年はいつも使っているレシピ本を、ひとり暮らしを始めた末娘が持っていってしまったため、ネットで検索。
「生クリーム100ccと、チョコ200gかぁ。 シンプルレシピが一番美味しかったりするんだよな」
湯煎でブラックチョコを溶かし、生クリームを計る。
「1対2だったよね。生クリーム100ccと、チョコ2枚」
ここで何かが可笑しいと気づかないのが、おっちょこちょいと言われる所以である。生クリームとチョコを混ぜてから気づく。板チョコは1枚55gだった。チョコを足そうにも娘が先に全部使ってしまっていて足すチョコはない。
「わーん、これじゃ1対1じゃん!」上の娘に泣きつくも、
「いいんじゃない、固まれば。柔らかくても」と、彼女らしい大雑把な返答。
「比率の落とし穴に、落ちた。完璧に、失敗したぜ」顔で笑って心で泣いて、ビールを空けて熱燗をつけ、家族3人熱々おでんの食卓を囲んだ。

夜も更けて、スコッチウイスキーをロックで、いただく。酒の肴にと、柔らかすぎて上手く形が作れず、不格好に崩れたチョコを出した。
「愛のチョコレート、失敗しました」と、うなだれるわたし。
「美味しいよ」と、夫。「うん、じゅうぶん美味しい」と、娘。
娘はパクパクと、5つのうち2つを、口に入れた。夫はまだ、半分をゆっくり味わっている。
「えっ? もう2つ食べちゃったの? これ、俺のなんだからね」と、夫。
「うん。美味しいね。よかったじゃん」と、娘。
夫のワインセラーから出したイタリア産の『ロッソ・ディ・モンタルチーノ』を、くるくる回しつつ、すましている。
比率2対3。と、今度は正確に推し量る。力関係は、逆かな、とも。

おでんは、とても美味しく煮えました。豪華!

大根がいちばん好き。次はじゃが芋。3位、生姜味の魚河岸揚げ。

卵の茹で方は、いまだに『伊東家の食卓』で覚えた方法。
沸騰したお湯に冷蔵庫から出したての卵を、割れないようそっと沈めて、
弱火にして茹でます。つるんと、むけますよ。

餅か、団子かという、この風貌。悲しい。

夜は、ふたりでウイスキーを。と言いたいところですが、娘と3人で(笑)
「たまに溶け残ってるのがあって、それがまた美味しい」と、ふたり。
全然、フォローになってないんですけど。

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雪の白さに映し出された心の色

雪で、イライラしている。
普段積もらない土地に住んでいると、たまの大雪はたいへんでもあるが、まあ楽しくもある。それも、続けざまに降られると、嫌にもなる。
雪国のように、除雪車が来てくれる訳でもなく、標高600メートルの我が家は、何処へ行くにも下って上って。カーブも半端じゃなく「次のヘアピンカーブ、何処までスピードを維持できるか!」と、F1レースのアナウンサーが叫びそうなカーブだってある。

だが、イライラしているのは、わたしではない。
雪道を走るドライバーに、イライラしている人が多いのだ。
「前の軽トラ、おっそいなぁ。しょうがないけどさ」
などと、思いつつ走っていると、いきなり後ろの車が「もうキレた!」と言わんばかりに、クラクションを鳴らしてきたりする。対向車もゆっくり走っている状況で追い抜きも出来ないのだから、鳴らしてもどうにもなんないんだよ、と忠告してあげたいところだが、ひとり車中でつぶやくのも空しいばかり。
また、感応式の信号が凍りついたのか作動しないでいると、3台目の車が痺れを切らし、パパパパーッ!と、派手にクラクションを鳴らし、信号無視して雪道を大きく滑りつつ、左折して行った。わたしは呆れて車から降り、歩行者用の押しボタンを押した。こういう時こそ慎重に運転しないと危ないのに。
また、コンビニで駐車場に入れようとすると、推定4歳の女の子が飛び出してきて、慌ててブレーキを踏んだ。すると、観ていた父親の方が「あぶねぇだろ!」と、なんとわたしに怒鳴っている。その親は、自分の車の雪をコンビニの駐車場に落とすことに懸命になっていて、駐車場でちょろちょろ遊んでいる自分の子どもを、観ている暇はないようだった。

そうかと思えば、見ず知らずの側溝にハマった車を、通りかかった何人かで押して助けているのもを見かけたり、地域の人のためにと、消火栓の雪掻きを欠かさない人もいる。

雪は、様々なものを、美しく眩しい白で覆い隠す。汚れた心でさえすっぽりと隠してくれるような気持にもなる。しかし、その雪の白さ故に、映し出される心の色もあるのだ。降りしきる雪を見上げ、その白に映った自分の心の色をこっそり覗き、つぶやいた。「のんびり、いこうよ」

びっきーがいた玄関側の林です。午前中の風景。綺麗だなぁ。

夫が作ってくれた、薪運び用の道も、あっけなくなくなってしまいました。

その後さらに吹雪いて、車を走らせるのも恐かったです。

前方、道なんだけど、もうこうなると見えない・・・。

夜のウッドデッキです。テーブルの上には、巨大なケーキが。

そして今朝のウッドデッキ。ケーキが富士山に。脱出不可能かな・・・。

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『ぜんぶ雪のせいだ』

映画『鍵泥棒のメソッド』を観た。ついこの間、WOWWOWで予告編がやっていて観たいと思っていたのだ。
しかし、最初のワンシーンで気づいた。「あ、これ、観たことある」と。悲しいことにラストシーンまでありありと瞼に焼き付いている。ショックである。
こんな些細な間違いは、ままあることではあるが、その度にショックを受ける。何かにすべての責任を、なすりつけたい気分にもなる。
『ぜんぶ雪のせいだ』との広告コピーを思い出した。JR東日本の広告だが、変にインパクトのあるコピーだ。

「だって、マジ雪のせいだもん」と、文句も言いたくなる。
雪で、自力で出かけられなくなった娘を迎えに行き「電車乗り遅れちゃったから、30分待ってて」と能天気なメールが来て、時間を潰そうとツタヤに行き、探そうと思ったDVDのタイトルを(雪のせいで?)忘れ、(雪のせいで)うっかり借りた映画だった。いや。ぜんぶ娘のせいだとも言えるが。
それでも、忘れているシーンもストーリーもあり『お家で映画』を楽しんだ。

今更言うのもおこがましいが、堺雅人のファンである。映画『ココニイルコト』(2001年公開)を観てからずっと注目してきたのでけっこう長いのだが、これだけ売れてしまうと、中学生の頃「俺、宇宙戦艦ヤマト、ずっと好きだったのに、みんなが観てる状況に馴染めない」と言ってた弟や「ちびまる子ちゃんの面白さは、ずっと前からわかってたんだよ」と嘆いていた友人にもシンパするものを感じ、なかなか言えない。

『鍵泥棒のメソッド』では、堺雅人は情けなさすぎる男を淡々と演じ、
「これだよ! 堺ちゃん。半沢よりこういう役の方が、断然似合ってるって」
と、思わせてくれた。
広末涼子演じる女性がまた、素敵に面白可笑しいコメディドラマだった。
「よし! ストーリーもきっぱり把握した」
3度目はないと、今は、確信しているのだが。もしこの、ままある出来事が起こったのが夏だったら、雪のせいとも言えない訳だし。

大雪が降った夜、ハイになってはしゃぐ上の娘、23歳。

夫が、薪小屋までの道を作ってくれました。

そこに、シジュウカラやヤマガラ、ジョウビタキのために向日葵の種を。

でも、山鳩が独り占め。大きな身体で睨みをきかせています。
シジュウカラ達は、隙を見てくわえては、飛んでいきました。
今日はどうか、雪、積もりませんように!

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人の弱さを、あらためて読む

宮部みゆき『ペテロの葬列』(集英社)を読み終えた。文句なく面白かった。
『彼か』『名もなき毒』に続く、杉村三郎シリーズ3作目。宮部小説のなかでも、大好きなシリーズの最新作とあって、本屋で手に取るなり、真っ直ぐレジに向かってしまった。
ミステリーとしても面白いが、主人公、杉村三郎と、妻、菜穂子、小学生の娘、桃子の家庭の様子が微笑ましく、杉村さんちのファンなのである。

1作目、2作目もそうだったが、今回も杉村三郎は事件に巻き込まれた。乗っていたバスが乗っ取られたのだ。犯人は拳銃を持った老人だった。3時間で終焉したバスジャックだったが、杉村は人質になった7人と共に、老人の本当の意図を調べていく。そこには、被害者が加害者となり次々に被害者を生んでいくネズミ講の、人を騙すことの暴力性が深く底のない闇となり見えてきた。

杉村は、書斎で画集を開き『聖ペテロの否認』のなかに、嘘をつき影に沈んだペテロの心中に胸を傷めつつも、思うのだ。
「嘘が人の心を損なうのは、遅かれ早かれいつかは終わるからだ。嘘は永遠ではない。人はそれほど強くなれない。できれば正しく生きたい、善く生きたいと思う人間であれば、どれほどのっぴきならない理由でついた嘘であっても、その重荷に堪えきれなくなって、いつかは真実を語ることになる」

読み終えて感じたのは、人の弱さだった。弱いから、嘘をつき、嘘をついたらまた、その嘘をつき通すために嘘をつく。ひとつの嘘をつき通すためには、約30の嘘をつかなければならないという言葉を思い出した。それは如何にも、ネズミ講の図式と似ている。そしてもう一つ、切に願った。続きを早く、シリーズ4作目を早く読みたいと、焦りにも似た気持ちでひとりごちた。
「杉村三郎、がんばれ!」
  
帯の『「悪」は伝染する。』と真っ赤な表紙が、印象的です。

カバーを開けてみると、なかは黒に白い線画。『葬列』のイメージ。

最初のページには、レンブラントの描いた『聖ペテロの否認』があります。

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解明されたスペイン風オムレツの謎

結婚当初からの、我が家のメニューの一つに『スペイン風オムレツ』がある。
わたしとしては「これって、ほんとにスペイン風なの?」と、微かな疑問を胸の片隅に抱えつつも、夫が迷うことなくそう呼ぶので、それに倣って来た。困った時には『スペイン風オムレツ』と頼りにしてきたメニューでもある。
卵、玉葱、じゃが芋、ウインナ、あればニンニクと、買い物に行かずとも作れる食材で成り立っているからだ。大雪だったこともあり、この機会に冷蔵庫の整理も兼ねて、買い物を控えていた。
それでまあ『スペイン風オムレツ』の出番と相成った訳だ。

その夕食の席で、夫が何気なく言った。
「うちの『スペイン風オムレツ』って、ほんと、美味いねぇ」
「うん、美味しいよねぇ。スペインで食べたトルティージャ(じゃが芋入りオムレツ)とは、全く違うけどね」
「確かに、別の料理だね」「焼き立て食べる習慣、ないみたいだったし」
「ところで、これ、何処で覚えたの?」と、夫。
「えーっ? きみに教わったんじゃん」と、驚きつつ、わたし。
「うそぉ! 俺? 作ったことないよ」
「口頭で、これとこれとこれが入ったオムレツ作って、って、多分言われた」
「じゃあ何? うちの『スペイン風オムレツ』は、俺のレシピってこと?」
「そうだよ。もちろん、わたし風に、アレンジはしたけどね」
「それは、びっくりだ」「なにそれー、今頃?」
ふたり、ひとしきり笑い、フライパンごと食卓に置いた大きなオムレツを、何度も皿に取り、豪快にケチャップをかけ、ワインを飲みつつ頬張る。
何処の家庭でもそうだと思うが『我が家の料理』のなかには、不思議とドラマが生まれていく。こんな小さなドラマとも言えないドラマが、雪のなか灯りがともる食卓ごとにあるかと思うと、温かい気持ちになる。いや。そうじゃない家族も、子ども達も、世界中にはたくさんいるんだろう。幸せなんだと、実感する。贅沢などしなくとも、こういう小さな時間が、幸せの素なのだと。

娘がサークルのイベントで、帰らない夜。これからは、ふたりの食卓になっていくのかなと、少しばかりしんみりしつつ、赤ワインをくるくる回した。

写真撮るの忘れてて、半分食べてから、パチリ(笑)
やっぱり焼き立てが、美味しいですよね。

ピクルスが、いろいろあると食卓も楽しくなります。
保存食なので、こういう時のために、集めておくのもいいかも。
何故か、バレンタインコーナーに置いてあった、ピクルス達。

茗荷のピクルスには、ほんのりとローズマリーが効いていました。
  
グラナダのバル『レオン』では、トルティージャとハモン・セラーノを、
飲み物を注文すると付いてくる、タパスとして出してくれました。
焼いたものを、店のカウンターにガラスの器に入れて置いておき、
出す時に、切るというスタイルがほとんどでした。

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手袋、履きますか? はめますか?

今でも、口をついて出てしまう時がある。
「あ、びっきーとの散歩用の手袋、履いちゃった」
雪掻き中、一息ついた時にびっきーの匂いがして、つぶやいた。玄関に置きっぱなしにしていた散歩用の手袋には、まだ、2か月前に死んだびっきーの匂いが、残っていた。いつのまにか、2か月が過ぎていることに、驚く。

『手袋を、履く』と言うのは、両親が生まれ育った北海道は森町の言葉だ。
今でこそ、方言って素敵だなという感じ方も一般的になっているが、わたしが小学生の頃には、違う言葉 = 間違った言葉、方言を使うのは恥ずかしいという意識があり、それを違うと指摘する子もいた。
それに、わたしが使う北海道の言葉は、如何にも中途半端で、東京言葉のなか、自分でも知らないところに散りばめられているという具合。指摘されるのが嫌で、話すことが億劫になり、無口だと言われた頃もあった。

だが、ある時、母に聞いてみた。
「どうして、北海道では、手袋を履くって言うんだろう?」
すると、思いもよらない答が返ってきた。
「手は、真っ直ぐ下におろすと、腰より下になる。だから、北海道では、履くって言うんだよ。でも、上にあげると、腰より上。だからきっと、東京では、はめるとか、するとか言うんだね。どっちも間違いじゃないんだよ」
なるほど。すとんと腑に落ちた。それからは、口をついて出てしまった時には「北海道では、ね」と、話すようになり、気が楽になった。
地方によって違う言葉を使うのは、間違いじゃない。もしかしたら、面白くて素敵なことかもと、小学生のわたしは、わくわくとしたものだった。

びっきーの匂いと雪の匂いに、子どもの頃遊びに帰った北海道を思い出した。夏にしか行ったことのない北海道を、何故か思い出した。

びっきーを、いっぱい撫でて、匂いが染みついている手袋。

朝7時。前日溶けた雪が滑ってくださいと言わんばかりに、凍ってました。

畑に入る人は、誰もいません。動物の足跡すらありませんでした。

雪は、大好きです。歩くとサクッサクッと音がするのが楽しいし、
綺麗なものも汚れたものも、すべてを覆い尽くし、
真っ新にしてくれる。新しい気持ちが、静かに芽生えるのを感じます。

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自分自身を俯瞰し、立ち止まって考えてみる

『綺麗な薔薇には棘がある』と言うが、綺麗な雪には、雪掻きがある。
とにかく車だけは出せるようにと、夫と娘と3人で雪掻きした。腕も肩も足も腰も、痛い。頬も雪焼けして、痛い。本格的に雪を掻いたのは、何年ぶりだろうか。ずいぶんと久しぶりに、大真面目にした雪掻きだった。

だが、その筋肉痛の半分とは言わないが、肩こりの半分以上は、雪道の運転から来ている。前日、娘が役場駐車場に置いてきたマイカー・フィットを取りに行き、そのまま韮崎のスーパーまで車を走らせたのだが、村道に出ても、国道に出ても、除雪したはずの道路には、雪がしっかりと残っていた。
「全く、モーグル用のコースじゃないんだからさぁ」
文句も言いたくなるほど、デコボコになった雪道だ。ハンドルを取られ滑りつつ修正し、2速と1速を交互に繰り返し、ようやく買い物をして帰ってきた。

帰り道、上り坂でスタックし、登れなくなり慌てる場面もあった。アクセルを踏んでもタイヤは空回りするだけだ。その時、フロントガラス越しの空に、鳥が見えた。とんびだか鷹だか判らないが、風に乗り空を切り、獲物を探している様子だ。『俯瞰』という言葉が頭に浮かぶ。あの鳥から見たら、スタックした車のアクセルを踏むわたしの状況はどう見えるんだろうか。ギアをパーキングにして、サイドブレーキを引き、対向車をやり過ごした。その間に、気持ちは落ち着き、前後を確認してゆっくりとバックし、ハンドルを切って、対向車が降りていった轍を登る。1速でゆっくりと進むと、フィットは急な坂道を、難なく登っていった。

俯瞰すること。一度止まって、落ち着いて考えてみること。その大切さを、再確認した。雪道の運転に限らず、自分自身を含めた今を俯瞰し、立ち止まって考えてから歩く。特にこれからの人生には必要なことかもしれないな。

カーテンを開けると、ウッドデッキには巨大プリンが出来ていました。

南天の赤が、真っ白い雪に映えています。がんばって起き上がれ!

軽トラくんは、しばらくお休みですね。

娘の車を出すと、周りが壁になっていました。

綺麗なんだけどなぁ、雪。我が家の前の道に、除雪車は来ません(涙)

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雪のなかに聴いた着信音

しんしんと降り積もる雪のなか、上の娘がバイトに行くと出かけて行った。それも更に北に向かってだ。何事もないだろうとは思いつつ、心配する気持ちは胸のなかに居座っている。夫と新聞の記事などについてしゃべりつつ朝食を食べていると、忘れたような気にもなるが、ラジオから流れるメロディに、不意にハッとし耳をすませる。そして、違うと判りホッとする。ケータイの着メロに似た音が、混じっていたのだ。

「あれ、電話?」と、ハッとする瞬間は、今までにも経験してきた。
実家のダイヤル式黒電話の時でも、ひとり暮らしにと選んだ真っ白なプッシュホンでも、結婚し使っていた平たい形になった電子音を奏でる電話でも。
同様に音楽のなかに、同じ音、または似た音が混じっていると、反応してしまう。何度も聴いた好きな曲なのにもかかわらず、つい同じところで、ハッとしてしまう自分を笑ったり、その電話に似た音に、わざわざ耳をすませて判別し、にやりとしたりしたのを、懐かしく思い出す。

今も、車中で新しいCDを聴いたりすると、オルゴール音にしているわたしのケータイの着メロに似た音が混じることが多い。昔の黒電話のベルより、今時の着メロの方が、多くの音楽に混じりやすいだろうし、CD化される音楽の方だって進化している。ハッとする瞬間は増えただろうが、その驚きは、昔ほどではないようにも思う。雪だってたまに積もるから大騒ぎになる訳で、雪深い地方では、驚きもせず騒ぎもしないのだろう。

1日じゅう降りしきる雪を眺め、ふと、ひとひらひとひらの雪が音を持っていたらと想像した。そしてすぐにその想像を打ち消した。しんしんという擬音に込められた静けさはなくなり、多種多様な音の応酬に、参ってしまうだろう。時代が移り変わっても、やはり雪には、しんしんと降ってほしい。
娘は、途中まで夫に迎えに行ってもらい、ぶじ帰還した。そして夜が更けても、雪はまだまだ、音もなくしんしんと降り積もるのであった。

北側の窓から見える木で、アカゲラが懸命に餌を探していました。

午後4時。見下ろした堰沿いの道。雪掻きをする人もいません。

西側の窓から。薪にするために積んだ丸太が、埋もれています。

駐車場。車達は、すっかり、かまくらの振りを決めていました。
関東甲信越では、16年ぶりの大雪だそうですね。
みなさま、どうぞお気をつけて。



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『病院って、すごいね』

「なんか、もう治った気がする」と、控えめに夫に言ってみるも、
「とりあえず行って、診てもらいなさい」と、彼は取りあってくれない。
そのうちわたしも自棄になり、ひねくれて自虐的に笑った。
「そうだね。病院行けば治るもんねぇ。今夜は酒盛りだぁ」
夫は、ため息をつき、呆れ顔をするばかりだ。
病院とは、足が遠のけば遠のくほど、行くのが億劫になる場所だ。
胃腸の調子の悪さが Maxになり、行くと決めてからも、やっぱり行きたくないなぁと、何とか行かずに済む方法を考えている自分がいる。夫が背中を押してくれなかったら、今回も行かずに済ませていただろうことは、自明の理。
家族とは偉大な存在である。

そう言えば、と思い出す。末娘が5歳の頃、車のドアに指を挟み、救急で病院に行ったことがあった。
待合室は、慌ただしい雰囲気で、1時間ほど待ったが、一向に名前を呼ばれる気配はない。比喩ではなく看護師さんが走っている。「痛い、痛い」と泣いていた娘も泣き止み、きょとんとしている。何かピリピリと張り詰めた病院の雰囲気を感じ取っているようだ。娘の指は、1時間を過ごしても腫れてくることもなく、痛みも引いたようだったので、帰って様子を見ることにしようと受付に行き、その旨話した。すると、受付の女性が申し訳なさそうに言った。
「すみませんでした。チェーンソーで足を切った人が搬送されて来て、その処置の方に医師が回っていまして」
大怪我だったのだろう。その人の回復を祈りつつ、病院を後にした。
病院を出て、その駐車場で、娘の手を引き歩きつつ「だいじょうぶ?」と何気なく聞くと、彼女はさっぱりとした笑顔で言ったものだ。
「うん。病院って、すごいね。病院に来たら、治っちゃった」
わたしも笑顔になり「うん。そうだね。よかったね」と受け合った。

健康だからこそ普段は忘れているが、それでも様々な病院に、ずいぶんとお世話になって来た。感謝の気持ちを忘れてはいけないと、自分に言い聞かせる。本当に病院って、すごいのだ。そしてまあ今回もそんな訳で、病院に行き、お腹の調子はすっかりとは言えないまでも良くなったのである。是非「よかったね」と、一笑に付してやってください。ご心配おかけしました。(ぺこり)

新しくもらった『お薬手帳』は、優しいピンク色。
「今飲んでいる『三共胃腸薬』が合ってるなら併用してもいいです」
と、いつもながら、柔軟な対応のお医者様。

庭をゆっくり歩き『ブルーソーラーウォーター』を作りました。
自分に太陽があたるのもまた、気持ちよかったです。

午前中は、町内の内科に。午後はマッサージを受けに出かけました。
マッサージに行くには、お隣は韮崎市の『日本航空学園』の前を通り、
あ、これは、オブジェの如く、学校の前に置いてあるこの飛行機です。
もちろん、わたしがこれに乗って出かけた訳では、ありません(笑)

釜無川を2度、渡り、八ヶ岳からどんどん遠ざかります。
川沿いの気持ちのいいドライブコースを、楽しみました。

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水月さえ
性別:
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本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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