はりねずみが眠るとき
昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
雨音は、子守唄
雨音は、子守唄だ。
子ども達が幼い頃、雨の日に限って、よく眠った。昼寝を十分とっても、夜も眠る。3人目が生まれた頃、雨の日にはホッとした覚えがある。おっぱいをあげながらうとうとしているうちに、騒いでいた上のふたりも、こてんと眠っていることがよくあった。
更年期を迎え、睡眠がうまく取れないことが増えてからも、雨の日にはよく眠れる。それは夫も同じようで、彼が熟睡しているとホッとする。おたがい、疲れがなかなか取れにくいお年頃なのだ。
義母からのメールに「あなたの生まれ月の2月『如月』は更衣ともかき、一度生えたものが落ちたり枯れたりしたあと、さらに新しいものが生える「生更る(おいかわる)」という意味を持つようです」とかかれていた。
そう考えると、更年期も『如月』春を待つ時間なのだと思える。「更に」の更でもあるこの字を、更年期にあてはめた人間の思いを感じる。
そんなメールを時々くれる義母は、神戸在住の80歳。義父と二人喧嘩しつつも仲良く暮らしていて、今日5日はコンサート。ドイツリートを歌うという。
人が雨音を子守歌に熟睡するのは、植物と同じく、暗い土のなかで力を蓄えるためなのだろうか。雨音のなかに義母の澄んだ歌声を聴きながら、秋の林に降る雨を眺め、土の匂いを感じた。
ドングリが芽を出した周りには、雨で傘を閉じた松ぼっくり。
苔生す朽ちた赤松の切株に、また新しい松の芽が出ています。
桜は、葉を赤く染め始めました。
花を咲き終えた萩の葉には、雨粒が光っていました。
子ども達が幼い頃、雨の日に限って、よく眠った。昼寝を十分とっても、夜も眠る。3人目が生まれた頃、雨の日にはホッとした覚えがある。おっぱいをあげながらうとうとしているうちに、騒いでいた上のふたりも、こてんと眠っていることがよくあった。
更年期を迎え、睡眠がうまく取れないことが増えてからも、雨の日にはよく眠れる。それは夫も同じようで、彼が熟睡しているとホッとする。おたがい、疲れがなかなか取れにくいお年頃なのだ。
義母からのメールに「あなたの生まれ月の2月『如月』は更衣ともかき、一度生えたものが落ちたり枯れたりしたあと、さらに新しいものが生える「生更る(おいかわる)」という意味を持つようです」とかかれていた。
そう考えると、更年期も『如月』春を待つ時間なのだと思える。「更に」の更でもあるこの字を、更年期にあてはめた人間の思いを感じる。
そんなメールを時々くれる義母は、神戸在住の80歳。義父と二人喧嘩しつつも仲良く暮らしていて、今日5日はコンサート。ドイツリートを歌うという。
人が雨音を子守歌に熟睡するのは、植物と同じく、暗い土のなかで力を蓄えるためなのだろうか。雨音のなかに義母の澄んだ歌声を聴きながら、秋の林に降る雨を眺め、土の匂いを感じた。
ドングリが芽を出した周りには、雨で傘を閉じた松ぼっくり。
苔生す朽ちた赤松の切株に、また新しい松の芽が出ています。
桜は、葉を赤く染め始めました。
花を咲き終えた萩の葉には、雨粒が光っていました。
レタスを、破壊し創造する
この時期のレタスは、身が硬くしまっていて、春レタスとはまた違った味わいがある。生で食べるのももちろんいいが、一番好きな食べ方は、オイスターソースで作る煮びたし。1個丸々ひとりで食べられるほど、美味しいのだ。
最近、近くのスーパーで川上村のレタスが売っている。レタスでの村おこしでレタス長者がでたとかいう、一躍有名になったブランド・レタス。
その身がしまったレタスを、バリッと半分に割るのが好きだ。そして、ザルのなかでまた、バリバリバリッと千切っていく。爽快である。
人間には、破壊願望があるという。間違った願望の満たし方をすれば、非常に危険な願望だ。目をつぶり、ビルを踏みつぶすゴジラを思い浮かべ、わたしはレタスを破壊し、煮びたしを作る。定期的に食べたくなるのは、破壊願望のせいか、レタスの煮びたしが美味しいせいか。
そう言えば、料理って創るものだけど、まずは破壊から始まるのだと気づく。
人の持つ願望もその強さも人それぞれ。ストレス解消になるかどうかは疑問も在るかも知れないけれど、レタスの煮びたし、破壊し創造してみてはいかが?
店頭に並べられた川上村レタス達は、まだ破壊前。
破壊の始まり。いくぞっ! バリバリバリッ!
鍋に湯を沸騰させ、塩と胡麻油を入れます。そこに千切ったレタスを投入。
1分ほどでしんなりするので、ザルに上げ深めの皿に盛って、
白髪葱1本分、生姜千切り、オイスターソースをかけて、混ぜるだけ ♪
レタス1個分、ひとりで食べきる挑戦、してみてください。
最近、近くのスーパーで川上村のレタスが売っている。レタスでの村おこしでレタス長者がでたとかいう、一躍有名になったブランド・レタス。
その身がしまったレタスを、バリッと半分に割るのが好きだ。そして、ザルのなかでまた、バリバリバリッと千切っていく。爽快である。
人間には、破壊願望があるという。間違った願望の満たし方をすれば、非常に危険な願望だ。目をつぶり、ビルを踏みつぶすゴジラを思い浮かべ、わたしはレタスを破壊し、煮びたしを作る。定期的に食べたくなるのは、破壊願望のせいか、レタスの煮びたしが美味しいせいか。
そう言えば、料理って創るものだけど、まずは破壊から始まるのだと気づく。
人の持つ願望もその強さも人それぞれ。ストレス解消になるかどうかは疑問も在るかも知れないけれど、レタスの煮びたし、破壊し創造してみてはいかが?
店頭に並べられた川上村レタス達は、まだ破壊前。
破壊の始まり。いくぞっ! バリバリバリッ!
鍋に湯を沸騰させ、塩と胡麻油を入れます。そこに千切ったレタスを投入。
1分ほどでしんなりするので、ザルに上げ深めの皿に盛って、
白髪葱1本分、生姜千切り、オイスターソースをかけて、混ぜるだけ ♪
レタス1個分、ひとりで食べきる挑戦、してみてください。
夜の『まるげ』に
「『まるげ』に行こうよ」
娘に誘われて、浮き浮きと『まるげ』に行った。
最寄りの無人駅「穴山」近くのイタリアンバール。娘から聞いてはいたが、わたしはいちげんさん。どんなところだろうかと、想像を膨らませていたのだ。
何しろ『まるげ』で、イタリアンだというのだ。時々道路沿いに見かける道しるべも、木の立札に墨で描いたような文字。〇のなかに「げ」とひらかなでかかれている。イタリアンだとは、思いもよらなかった。
そして、店もその道しるべの雰囲気そのまま。古民家を再利用したのだろうか。黒い梁には穴山駅の時刻表が貼ってあるが、その破れ具合なども年代物だと一目で判る。アンティークなものを家具に置き、落ち着き過ぎた感じは、隠れ家と呼ぶのに相応しい。
料理はピザやパスタ、生ハムのサラダ、イベリコ豚のソテーなど、しっかりイタリアンだったが、種類豊富なメニューのなかに「おこげの茶漬け」などばりばり日本風のものもがあったりして、それも色鉛筆で手書きのイラストメニューでもあり、眺めているだけで楽しくなる。
サラダやタコス、焼き野菜や帆立などを食べ、運転は娘に任せ、気兼ねなく美味しく生ビールを飲んだ。
ふたり何でもないことをしゃべり、娘がデザートのフォンダンショコラを食べるのを眺めつつ、ギムレットも飲んだ。ゆっくりと食べる彼女に合わせ、マティーニも飲んだ。いいお酒に、気持ちよく酔っぱらった。自分的には飲み過ぎた感じはなかったが、ギムレットにマティーニは飲み過ぎだろうと、夫に水を注されるのも癪なので、黙っていようと心に決め『まるげ』を後にした。
しかし翌朝パソコンを開き、「げっ」とは言わなかったものの愕然とした。
娘が「『まるげ』に行った。美味しかったし楽しかった」とfacebookにアップしていて、そこにはわたしが飲んだものすべてが、かかれていた。夫も娘とお友達なので、もちろん見ている。
facebook、恐るべし。そういえば、娘が眠れなかったとか、金縛りにあったとか、話を聞くより先にfacebookで知ることも多いこの頃だ。家族の形も変わってきたのかなぁと考えつつ、いや、変わらないそのままのものが基本にはあるのだと、マティーニに入ったオリーブの味を思い浮かべた。そう。いつの世になろうとも、マティーニにはオリーブが入っているように。
ゲ、ゲ、まるげのげ~ ♪ と歌いたくなるような看板。
でもじつは「ピッツァ・マルゲリータ」が美味しいから付けた名だとか。
店内も暗くて、料理は撮れませんでした。
どんな時も頭上注意? どんなことがあるのやらと思わせる入口。
帰りにしっかり、頭ぶつけました。
娘に誘われて、浮き浮きと『まるげ』に行った。
最寄りの無人駅「穴山」近くのイタリアンバール。娘から聞いてはいたが、わたしはいちげんさん。どんなところだろうかと、想像を膨らませていたのだ。
何しろ『まるげ』で、イタリアンだというのだ。時々道路沿いに見かける道しるべも、木の立札に墨で描いたような文字。〇のなかに「げ」とひらかなでかかれている。イタリアンだとは、思いもよらなかった。
そして、店もその道しるべの雰囲気そのまま。古民家を再利用したのだろうか。黒い梁には穴山駅の時刻表が貼ってあるが、その破れ具合なども年代物だと一目で判る。アンティークなものを家具に置き、落ち着き過ぎた感じは、隠れ家と呼ぶのに相応しい。
料理はピザやパスタ、生ハムのサラダ、イベリコ豚のソテーなど、しっかりイタリアンだったが、種類豊富なメニューのなかに「おこげの茶漬け」などばりばり日本風のものもがあったりして、それも色鉛筆で手書きのイラストメニューでもあり、眺めているだけで楽しくなる。
サラダやタコス、焼き野菜や帆立などを食べ、運転は娘に任せ、気兼ねなく美味しく生ビールを飲んだ。
ふたり何でもないことをしゃべり、娘がデザートのフォンダンショコラを食べるのを眺めつつ、ギムレットも飲んだ。ゆっくりと食べる彼女に合わせ、マティーニも飲んだ。いいお酒に、気持ちよく酔っぱらった。自分的には飲み過ぎた感じはなかったが、ギムレットにマティーニは飲み過ぎだろうと、夫に水を注されるのも癪なので、黙っていようと心に決め『まるげ』を後にした。
しかし翌朝パソコンを開き、「げっ」とは言わなかったものの愕然とした。
娘が「『まるげ』に行った。美味しかったし楽しかった」とfacebookにアップしていて、そこにはわたしが飲んだものすべてが、かかれていた。夫も娘とお友達なので、もちろん見ている。
facebook、恐るべし。そういえば、娘が眠れなかったとか、金縛りにあったとか、話を聞くより先にfacebookで知ることも多いこの頃だ。家族の形も変わってきたのかなぁと考えつつ、いや、変わらないそのままのものが基本にはあるのだと、マティーニに入ったオリーブの味を思い浮かべた。そう。いつの世になろうとも、マティーニにはオリーブが入っているように。
ゲ、ゲ、まるげのげ~ ♪ と歌いたくなるような看板。
でもじつは「ピッツァ・マルゲリータ」が美味しいから付けた名だとか。
店内も暗くて、料理は撮れませんでした。
どんな時も頭上注意? どんなことがあるのやらと思わせる入口。
帰りにしっかり、頭ぶつけました。
地面に近づくことで見えるもの
夫が、庭のライラックを移植した。挿し木でもらった木が増えて、新しく生えてきた分を道路から見える場所に移そうと話していたのだ。
植え替えたばかりのライラックに、水やりをする時、しゃがんで根元にたっぷりあげた。その時ふと隣の金木犀が見えた。
「今年は、金木犀、咲かなかったね」
夫と話していたのだが、小さな花がいくつかついている。
「金木犀、咲いたんだぁ」
ホースを手に、金木犀に見入った。近づくと香る。気がついてよかった。ライラックのおかげだ。
しゃがんで地面に近づくことで、見えてくる風景もある。
保育士時代、立ったまま子どもを叱っていたら、先輩にアドバイスを受けた。しゃがんで子どもと同じ目線になって話してみたら? と。
そのアドバイスのおかげで、母親になってからも子ども達を上から見下ろすのではなく、同じ目線で話すことを忘れずにいられた。
今でも忘れられないシーンがある。
東京は大田区に住んでいた頃、2歳の息子と池上線の石川台駅まで義母を迎えに行った。義母は息子を見て、嬉しそうにしゃがんで「こんにちは」と神戸のイントネーションで挨拶した。すると息子は、自分の目線に合わせて義母がしゃがんだことなどもちろん理解できず、これがお婆ちゃん風の挨拶の仕方だと思ったのか、しゃがんで「こんにちは」と言ったのだ。
しゃがむどころか、芝生の上に寝っころがっていろいろと見た。いつもは見えない風景が、そこには広がっていた。
近づくと確かに金木犀の香り。思いっきり吸い込みました。
ニイニイゼミの抜け殻も、たくさん見つけました。
モミジに落ちてきて、引っ掛かったままのドングリ達。
踊るカマキリも発見。アスファルトが熱いのかと救出しようとしたら、
飛んでいきました。そうだった、きみ、飛べるんだったね。
ガクだけ残った姫シャラごしには、秋の空。
植え替えたばかりのライラックに、水やりをする時、しゃがんで根元にたっぷりあげた。その時ふと隣の金木犀が見えた。
「今年は、金木犀、咲かなかったね」
夫と話していたのだが、小さな花がいくつかついている。
「金木犀、咲いたんだぁ」
ホースを手に、金木犀に見入った。近づくと香る。気がついてよかった。ライラックのおかげだ。
しゃがんで地面に近づくことで、見えてくる風景もある。
保育士時代、立ったまま子どもを叱っていたら、先輩にアドバイスを受けた。しゃがんで子どもと同じ目線になって話してみたら? と。
そのアドバイスのおかげで、母親になってからも子ども達を上から見下ろすのではなく、同じ目線で話すことを忘れずにいられた。
今でも忘れられないシーンがある。
東京は大田区に住んでいた頃、2歳の息子と池上線の石川台駅まで義母を迎えに行った。義母は息子を見て、嬉しそうにしゃがんで「こんにちは」と神戸のイントネーションで挨拶した。すると息子は、自分の目線に合わせて義母がしゃがんだことなどもちろん理解できず、これがお婆ちゃん風の挨拶の仕方だと思ったのか、しゃがんで「こんにちは」と言ったのだ。
しゃがむどころか、芝生の上に寝っころがっていろいろと見た。いつもは見えない風景が、そこには広がっていた。
近づくと確かに金木犀の香り。思いっきり吸い込みました。
ニイニイゼミの抜け殻も、たくさん見つけました。
モミジに落ちてきて、引っ掛かったままのドングリ達。
踊るカマキリも発見。アスファルトが熱いのかと救出しようとしたら、
飛んでいきました。そうだった、きみ、飛べるんだったね。
ガクだけ残った姫シャラごしには、秋の空。
新米を、鍋で炊く
「わたしは、プロだよ」
上の娘の言葉を、ふうんと聞き流す。わたしだってプロだ。
何が? 鍋でご飯を炊くことについてである。
娘は、1年間のオーストラリアワーキングホリデーで、炊飯器を使わずにご飯を炊く技術を習得したらしい。だがわたしだって彼女の年頃には、炊飯器を買うのを節約のため断念し、毎日米を鍋で炊いていた。年季が違うよと言いたい。それでも、鍋で炊いた米の美味さを知るきっかけが、ひとり暮らし&節約だったということに、彼女にもわたしにも変わりはない。
毎日念入りに化粧し、ひらひらした服ばかり着ていた娘が、1年のワーホリを終え帰ってきた時には驚いた。拾ったというツナギに、ボロボロのシャツ。髪はロングだったが、美容室に行かなかったせいだという。
「だってせっかくオーストラリアに行ったんだから、服買うより、旅行とかもしたかったし、友達と遊びにも行きたかったし」
やりたいことに、優先してお金を使おうというスタイルも、あの頃のわたしと変わらなくなっている。全く違う人になり帰ってきたようで、胸をくすぐられたかのように可笑しくなり、内心くすくす笑った。
その娘は、貸していたワーホリの初期費用を、すぐに満額返済した。飛行機での移動にかかったお金もすべて、向こうで働いて稼いだということだ。服も買わず食べ物も節約し、旅行し、遊び、英会話教室にも通い、シェアハウスをいくつか移り、何かがそぎ落とされ、それ以上に何かがプラスされたのだろう。
「風邪とか、ひかなかったの?」というわたしの問いに、大丈夫と笑う。
「ビョウは気からって言うじゃん」「それ、病(やまい)は気からでしょう」
国語が苦手なのは、相変わらず。天然な性格も、変わってはいなかったが。
久しぶりに鍋で炊いた新米を、夫は絶賛した。何度もおかわりし、たくさん食べた。たった1年半のひとり暮らしだったが、そこで得たものが今生かされている不思議。人生って計り知れない。娘もオーストラリアでの1年で、多くのことを得たのだろうと、炊きたての新米を味わいつつ、考えた。
1年分のお米は、玄関に保存。気温、湿度など一番適しているようです。
一袋30キロを精米するときには、コイン精米機で。
まずは鍋で、と炊きました。瑞々しい!あーん、新米だぁ。
右肩frozen中のわたしに代わり、夫がむいてくれた栗で栗ごはんも。
夫は、おむすびを持って、出勤しました。
上の娘の言葉を、ふうんと聞き流す。わたしだってプロだ。
何が? 鍋でご飯を炊くことについてである。
娘は、1年間のオーストラリアワーキングホリデーで、炊飯器を使わずにご飯を炊く技術を習得したらしい。だがわたしだって彼女の年頃には、炊飯器を買うのを節約のため断念し、毎日米を鍋で炊いていた。年季が違うよと言いたい。それでも、鍋で炊いた米の美味さを知るきっかけが、ひとり暮らし&節約だったということに、彼女にもわたしにも変わりはない。
毎日念入りに化粧し、ひらひらした服ばかり着ていた娘が、1年のワーホリを終え帰ってきた時には驚いた。拾ったというツナギに、ボロボロのシャツ。髪はロングだったが、美容室に行かなかったせいだという。
「だってせっかくオーストラリアに行ったんだから、服買うより、旅行とかもしたかったし、友達と遊びにも行きたかったし」
やりたいことに、優先してお金を使おうというスタイルも、あの頃のわたしと変わらなくなっている。全く違う人になり帰ってきたようで、胸をくすぐられたかのように可笑しくなり、内心くすくす笑った。
その娘は、貸していたワーホリの初期費用を、すぐに満額返済した。飛行機での移動にかかったお金もすべて、向こうで働いて稼いだということだ。服も買わず食べ物も節約し、旅行し、遊び、英会話教室にも通い、シェアハウスをいくつか移り、何かがそぎ落とされ、それ以上に何かがプラスされたのだろう。
「風邪とか、ひかなかったの?」というわたしの問いに、大丈夫と笑う。
「ビョウは気からって言うじゃん」「それ、病(やまい)は気からでしょう」
国語が苦手なのは、相変わらず。天然な性格も、変わってはいなかったが。
久しぶりに鍋で炊いた新米を、夫は絶賛した。何度もおかわりし、たくさん食べた。たった1年半のひとり暮らしだったが、そこで得たものが今生かされている不思議。人生って計り知れない。娘もオーストラリアでの1年で、多くのことを得たのだろうと、炊きたての新米を味わいつつ、考えた。
1年分のお米は、玄関に保存。気温、湿度など一番適しているようです。
一袋30キロを精米するときには、コイン精米機で。
まずは鍋で、と炊きました。瑞々しい!あーん、新米だぁ。
右肩frozen中のわたしに代わり、夫がむいてくれた栗で栗ごはんも。
夫は、おむすびを持って、出勤しました。
煙突掃除、完了
「明野には、秋がないよね」
娘が言う通り、山梨も八ヶ岳のふもとにある我が町明野町では、猛暑の夏が終わっても、秋を楽しむ時間は短い。すぐに寒くなることを、みな知っている。
夫も慣れたもので、秋晴れの日曜日、煙突掃除を始めた。いつでも薪を燃やせるよう、年に1度、秋の行事だ。
室内の煙突を外し、庭で煙突掃除用ブラシで擦る。真っ黒いすすがもわもわと煙を立てながら出てくる。その間にわたしが、ストーブの庫内の灰を取り除き、ふたりでふたたび煙突を取り付ける。煙突は重いし、ネジとネジ穴がなかなか合わず、取り付けで手間取るのは毎年のことだったが、今年の煙突は素直に穴と穴を合わせてくれた。おたがい知れた仲になったということか。
家の外側の煙突の先には、網がかけてある。これは、鳥が巣を作るのを防止するためだ。以前一度、夏のあいだにスズメがストーブのなかに入って来て、困り果てたことがあった。その時夫は仕事で東京にいて、途方に暮れ電話すると、くすくす笑われた。「そんなことで、電話してきたの?」と。
しかたなくビニール袋をかぶせ、ひとり恐る恐るストーブの戸を開けた。だがスズメも必死だ。わずかしかない隙間から、二階に飛んで行った。必死で逃げるあまり気が動転し、二階を飛び回り、頭などをぶつけてはまた飛んでいる。お手上げだった。虫も鳥も可愛いとは思っても恐いと思わぬわたしだが、家のなかで飛ぶものには、ひどく恐怖を覚えるのだ。
もう、キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち珈琲の焙煎もできる日本野鳥の会所属の陶芸家である上に山菜にも蛇にも詳しいご近所さんに助けを求めるしかなかった。電話すると、5分と待たず来てくれた。
だが彼が到着した頃には、スズメはあっちこっち飛び回り頭をぶつけ脳震とうを起こし、動かなくなっていた。そっと抱いてデッキに下ろしてもらい、ふたりで観察した。そのうち、ぶじに意識を戻し、飛んでいったっけ。
ご近所さんが、じつはスズメよりスズメバチが好きだということは、スズメ事件より何年も後で知ることとなった。
薪ストーブで、暖を取る暮らし。日々、火を眺める生活は楽しみも大きいが、一言では片づけられない思いもよらぬことが、こまごまとあるものだ。それも、もう14回目の冬を迎える。知れた仲になっても可笑しくはない年月である。とは言えできることなら、秋が長く続いてほしいものだが。
煙突をブラシでこする夫。芝の上でやるのは、すすが栄養になるからです。
家の外の煙突と、取り付けたばかりの家のなかの煙突。当然繋がっています。
外の網はかっこ悪いけど、得体の知れない焼き鳥ができるのは、ちょっとね。
今はひんやり冷たい、石造りのストーブくんですが、
早くも、熱く熱く、燃えたがっている様子です。
娘が言う通り、山梨も八ヶ岳のふもとにある我が町明野町では、猛暑の夏が終わっても、秋を楽しむ時間は短い。すぐに寒くなることを、みな知っている。
夫も慣れたもので、秋晴れの日曜日、煙突掃除を始めた。いつでも薪を燃やせるよう、年に1度、秋の行事だ。
室内の煙突を外し、庭で煙突掃除用ブラシで擦る。真っ黒いすすがもわもわと煙を立てながら出てくる。その間にわたしが、ストーブの庫内の灰を取り除き、ふたりでふたたび煙突を取り付ける。煙突は重いし、ネジとネジ穴がなかなか合わず、取り付けで手間取るのは毎年のことだったが、今年の煙突は素直に穴と穴を合わせてくれた。おたがい知れた仲になったということか。
家の外側の煙突の先には、網がかけてある。これは、鳥が巣を作るのを防止するためだ。以前一度、夏のあいだにスズメがストーブのなかに入って来て、困り果てたことがあった。その時夫は仕事で東京にいて、途方に暮れ電話すると、くすくす笑われた。「そんなことで、電話してきたの?」と。
しかたなくビニール袋をかぶせ、ひとり恐る恐るストーブの戸を開けた。だがスズメも必死だ。わずかしかない隙間から、二階に飛んで行った。必死で逃げるあまり気が動転し、二階を飛び回り、頭などをぶつけてはまた飛んでいる。お手上げだった。虫も鳥も可愛いとは思っても恐いと思わぬわたしだが、家のなかで飛ぶものには、ひどく恐怖を覚えるのだ。
もう、キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち珈琲の焙煎もできる日本野鳥の会所属の陶芸家である上に山菜にも蛇にも詳しいご近所さんに助けを求めるしかなかった。電話すると、5分と待たず来てくれた。
だが彼が到着した頃には、スズメはあっちこっち飛び回り頭をぶつけ脳震とうを起こし、動かなくなっていた。そっと抱いてデッキに下ろしてもらい、ふたりで観察した。そのうち、ぶじに意識を戻し、飛んでいったっけ。
ご近所さんが、じつはスズメよりスズメバチが好きだということは、スズメ事件より何年も後で知ることとなった。
薪ストーブで、暖を取る暮らし。日々、火を眺める生活は楽しみも大きいが、一言では片づけられない思いもよらぬことが、こまごまとあるものだ。それも、もう14回目の冬を迎える。知れた仲になっても可笑しくはない年月である。とは言えできることなら、秋が長く続いてほしいものだが。
煙突をブラシでこする夫。芝の上でやるのは、すすが栄養になるからです。
家の外の煙突と、取り付けたばかりの家のなかの煙突。当然繋がっています。
外の網はかっこ悪いけど、得体の知れない焼き鳥ができるのは、ちょっとね。
今はひんやり冷たい、石造りのストーブくんですが、
早くも、熱く熱く、燃えたがっている様子です。
天井の木目と金縛り
上の娘が、金縛りにあったと言う。
「金縛り、こわいよねー」と、娘。「ただの疲れだと思うよ」と、わたし。
妊娠中にしか金縛りにあったことのないわたしには、やはり身体の疲れから来るもののように思える。まだまだ若い彼女にも、バイトに遊びに忙しかった夏の疲れが出たのだろう。
「ベッドから浮きそうになって、必死で浮かないようにした」と、娘。
「べつに、浮いたって、いいじゃん」と、わたし。
「そう言えばそうだね。べつにいいのに、必死でがんばった」
何故か、がんばってしまうものらしい。
「がんばって声出して、金縛りが解けることはあるよね」
「うん、あるある。人が見えたことある?」と、娘。
わたし的金縛りは、ただ動けず声が出ないと言うものだ。
「わたしもない。見る人もいるらしいよ。見えなくてよかった」と、娘。
確かに金縛り中に、実在しない誰かに、会いたくはない。
「きみが小学生の時に、高熱が続いたことあったよね?」と、わたし。
「あー、覚えてる」「あれは、恐かった」「恐いよねー」
何が恐かったかと言えば、高熱でうなされつつベッドに横たわる娘が天井を仰ぎ見て、言ったのだ。
「あの子、誰?」
思わず天井を見上げたが、誰かがいるわけもなく、わたしは強く娘の手を握り「だいじょうぶだよ」と言うしかなかった。一瞬シューベルトの『魔王』が頭をよぎったが、冷たい冬の夜で窓はしっかりと閉まっていた。娘が連れていかれなくて、本当によかった。
もう、何度も話したことがあるので、彼女にはあたかも自分の体験を記憶しているかのように、思い出すことができるらしい。
「子どもの頃は、夜寝るとき、天井の木目が恐かったなぁ」
娘は、天井を見上げ、懐かしそうに言った。
生きていれば、身動き取れないこともある。にっちもさっちもいかず動かずにいることしか出来なくなる時だってある。動くだけのパワーが出ないことだってある。そんな時には、そこでじっとしていればいい。それでもいつかは、動きたくなるものだ。そして、きっと動けるようになる。右肩はfrozen中だが、自由に動ける今を身体じゅうで感じつつ、娘と共に天井の木目を見上げた。
わたし、美人?
二階の廊下の換気窓と天井。顔、いくつ探せますか?
寝室の梁と天井。丸が二つ並んでいるだけで「目」に見えてしまう不思議。
リビングの天井です。ライトはLEDで、電球色にしています。
この天井と梁は、この土地に生えていた赤松を製材したものです。
「金縛り、こわいよねー」と、娘。「ただの疲れだと思うよ」と、わたし。
妊娠中にしか金縛りにあったことのないわたしには、やはり身体の疲れから来るもののように思える。まだまだ若い彼女にも、バイトに遊びに忙しかった夏の疲れが出たのだろう。
「ベッドから浮きそうになって、必死で浮かないようにした」と、娘。
「べつに、浮いたって、いいじゃん」と、わたし。
「そう言えばそうだね。べつにいいのに、必死でがんばった」
何故か、がんばってしまうものらしい。
「がんばって声出して、金縛りが解けることはあるよね」
「うん、あるある。人が見えたことある?」と、娘。
わたし的金縛りは、ただ動けず声が出ないと言うものだ。
「わたしもない。見る人もいるらしいよ。見えなくてよかった」と、娘。
確かに金縛り中に、実在しない誰かに、会いたくはない。
「きみが小学生の時に、高熱が続いたことあったよね?」と、わたし。
「あー、覚えてる」「あれは、恐かった」「恐いよねー」
何が恐かったかと言えば、高熱でうなされつつベッドに横たわる娘が天井を仰ぎ見て、言ったのだ。
「あの子、誰?」
思わず天井を見上げたが、誰かがいるわけもなく、わたしは強く娘の手を握り「だいじょうぶだよ」と言うしかなかった。一瞬シューベルトの『魔王』が頭をよぎったが、冷たい冬の夜で窓はしっかりと閉まっていた。娘が連れていかれなくて、本当によかった。
もう、何度も話したことがあるので、彼女にはあたかも自分の体験を記憶しているかのように、思い出すことができるらしい。
「子どもの頃は、夜寝るとき、天井の木目が恐かったなぁ」
娘は、天井を見上げ、懐かしそうに言った。
生きていれば、身動き取れないこともある。にっちもさっちもいかず動かずにいることしか出来なくなる時だってある。動くだけのパワーが出ないことだってある。そんな時には、そこでじっとしていればいい。それでもいつかは、動きたくなるものだ。そして、きっと動けるようになる。右肩はfrozen中だが、自由に動ける今を身体じゅうで感じつつ、娘と共に天井の木目を見上げた。
わたし、美人?
二階の廊下の換気窓と天井。顔、いくつ探せますか?
寝室の梁と天井。丸が二つ並んでいるだけで「目」に見えてしまう不思議。
リビングの天井です。ライトはLEDで、電球色にしています。
この天井と梁は、この土地に生えていた赤松を製材したものです。
うどん、大好き
うどんが、大好きだ。ひとり家ランチのNO.1は、何と言ってもうどんだ。
夏でも熱いうどんが好きで、よく食べた。ひとりだから「こんなに暑いのに、熱々のうどん?」と文句を言われることもなく、堂々と食べた。七味を10回振り、大汗かきながらふうふう言って食べた。うどんなら毎日だっていい。保守的と言われてもいい。よく飽きないねと呆れられてもいい。バカの一つ覚えと言われたって気にしない。わたしの身体は、うどんとビールで出来ているといっても過言ではない。
そう考えてみると、麦だらけだ。そうか、わたしの身体は、麦で出来ていたのかとあらためて考える。風に吹かれる黄金色の麦を思いつつ、いい気分になる。麦わら帽子になって宙を舞う。気持ちいいー。
あ、これ、うどんじゃなくて、ビール効果かも。
そろそろ熱いうどんが、美味しい季節。
眠れない夜にも妖怪の如く、薄暗い台所でうどんを食べる。ひとりの朝ご飯にも食べてしまう。2食続けてだって、3食続けてだってかまわない。一人暮らしをしたら、たぶん毎日毎食、うどんだ。
家族がいて、よかった。こんなズボラなわたしが、美味しいものをいろいろ食べられるのは家族のおかげだ。妖怪うどんババアに変化(へんげ)を遂げず済んでいられるのもまた、家族のおかげだと深く感謝しよう。
いつもは京七味を、たっぷりかけていただきますが、
これからの季節、生姜で温まるのもまた、いいですよね。
茹で時間6分。讃岐ざるうどんの細さが、お気に入り。
お昼ご飯第2位は、チャーハンかな。焼き豚と小女子、葱2本分入れました。
第3位、トマトソースのパスタ。あれば茄子入りで。
粉チーズとタバスコを、好きなだけかけて。
夏でも熱いうどんが好きで、よく食べた。ひとりだから「こんなに暑いのに、熱々のうどん?」と文句を言われることもなく、堂々と食べた。七味を10回振り、大汗かきながらふうふう言って食べた。うどんなら毎日だっていい。保守的と言われてもいい。よく飽きないねと呆れられてもいい。バカの一つ覚えと言われたって気にしない。わたしの身体は、うどんとビールで出来ているといっても過言ではない。
そう考えてみると、麦だらけだ。そうか、わたしの身体は、麦で出来ていたのかとあらためて考える。風に吹かれる黄金色の麦を思いつつ、いい気分になる。麦わら帽子になって宙を舞う。気持ちいいー。
あ、これ、うどんじゃなくて、ビール効果かも。
そろそろ熱いうどんが、美味しい季節。
眠れない夜にも妖怪の如く、薄暗い台所でうどんを食べる。ひとりの朝ご飯にも食べてしまう。2食続けてだって、3食続けてだってかまわない。一人暮らしをしたら、たぶん毎日毎食、うどんだ。
家族がいて、よかった。こんなズボラなわたしが、美味しいものをいろいろ食べられるのは家族のおかげだ。妖怪うどんババアに変化(へんげ)を遂げず済んでいられるのもまた、家族のおかげだと深く感謝しよう。
いつもは京七味を、たっぷりかけていただきますが、
これからの季節、生姜で温まるのもまた、いいですよね。
茹で時間6分。讃岐ざるうどんの細さが、お気に入り。
お昼ご飯第2位は、チャーハンかな。焼き豚と小女子、葱2本分入れました。
第3位、トマトソースのパスタ。あれば茄子入りで。
粉チーズとタバスコを、好きなだけかけて。
読後感の悪さを求めて
読み終えて、拍子抜けした。
「なんだよー。読後感、全然悪くないじゃん」
真夜中、ベッドの上で誰にともなく文句を言う。
完全にやられた。帯の文句に魅かれ買った新刊だ。
最近、書店員さんの推薦文を帯や広告に使われることが多くなった。
『本屋大賞』が、全国の書店員が一番売りたい本に『賞』と名が付き注目を集めるようになったのが、きっかけか。昭和初期に刊行された『蟹工船』が一書店員のかいたPOPで、平成の世にベストセラーになったのがきっかけか。
兎にも角にも、わたしはその一書店員の推薦文を読み、長岡弘樹の『教場』(小学館)を購入した。
帯には6人の書店員さんの推薦文がかかれていた。そのトップがこれだった。
「こんな爽快な読後の悪さは初めてだ!」
その言葉に魅かれ、読み進めていた。
「悔しい! マジ読後感、いいじゃん! 期待してたのにぃ」
しかし文句を言えないことも判っている。何しろこれは、たった一人の意見なのだから。
『教場』は、文句なく面白かった。警察学校の日々を、6人の視点で描いている。人間ドラマとしても、推理小説としても読める面白さがある。
「あと二か月半、我慢できるか。それとも、もう辞めたくなったか」
「いいえ」ゆっくりと首を振った。「二度は落ちません」
「落ちない? 何からだ」「篩(ふるい)からです」
教官と、4話目の視点、もとボクサーで妻子持ちの日下部との会話だ。小説全体に一貫して流れる空気は、警察学校の理不尽とも言える厳しさだった。
読後感の悪さは、わたしには味わえなかった。
だが、帯に騙されてよかったと思える小説だ。残念ながら、個人的な感想を言えば読後感はいい。それでも読もうと思う方は、ぜひどうぞ。
帯の文章を読むのも、本の楽しみの一つですよね。
好みでいえば、シンプルなコピーの帯に、魅かれます。
青山七恵『わたしの彼氏』は、装丁の可愛さにジャケ買いしました。
カバーを外すと鮮やかなグリーン。空っぽの鳥かごと鳥が、またいい!
「なんだよー。読後感、全然悪くないじゃん」
真夜中、ベッドの上で誰にともなく文句を言う。
完全にやられた。帯の文句に魅かれ買った新刊だ。
最近、書店員さんの推薦文を帯や広告に使われることが多くなった。
『本屋大賞』が、全国の書店員が一番売りたい本に『賞』と名が付き注目を集めるようになったのが、きっかけか。昭和初期に刊行された『蟹工船』が一書店員のかいたPOPで、平成の世にベストセラーになったのがきっかけか。
兎にも角にも、わたしはその一書店員の推薦文を読み、長岡弘樹の『教場』(小学館)を購入した。
帯には6人の書店員さんの推薦文がかかれていた。そのトップがこれだった。
「こんな爽快な読後の悪さは初めてだ!」
その言葉に魅かれ、読み進めていた。
「悔しい! マジ読後感、いいじゃん! 期待してたのにぃ」
しかし文句を言えないことも判っている。何しろこれは、たった一人の意見なのだから。
『教場』は、文句なく面白かった。警察学校の日々を、6人の視点で描いている。人間ドラマとしても、推理小説としても読める面白さがある。
「あと二か月半、我慢できるか。それとも、もう辞めたくなったか」
「いいえ」ゆっくりと首を振った。「二度は落ちません」
「落ちない? 何からだ」「篩(ふるい)からです」
教官と、4話目の視点、もとボクサーで妻子持ちの日下部との会話だ。小説全体に一貫して流れる空気は、警察学校の理不尽とも言える厳しさだった。
読後感の悪さは、わたしには味わえなかった。
だが、帯に騙されてよかったと思える小説だ。残念ながら、個人的な感想を言えば読後感はいい。それでも読もうと思う方は、ぜひどうぞ。
帯の文章を読むのも、本の楽しみの一つですよね。
好みでいえば、シンプルなコピーの帯に、魅かれます。
青山七恵『わたしの彼氏』は、装丁の可愛さにジャケ買いしました。
カバーを外すと鮮やかなグリーン。空っぽの鳥かごと鳥が、またいい!
記憶の整理
びっきーが、よく眠る。明らかに、去年までとは違う睡眠時間の長さだ。
心配になって調べてみた。成犬で12時間から15時間、子犬や老犬は18時間ほど眠るのが普通だとの記載を見つけた。
13歳を過ぎたびっきーは、もう老犬と呼ばれる時期に入ったのだろう。18時間眠ったら目覚めている時間は1日6時間しかない。もともとが夜行性動物なのだから、昼間ほとんどの時間、眠っていても心配することはなさそうだ。
犬の睡眠を調べていて、驚いたことがある。
犬は眠りが浅い時間が多いが、深い眠りの時間を取ることで、記憶の整理をするとかかれてた。良い記憶と悪い記憶を思い出し整理することで、プラス思考になれるのだそうだ。「おすわりしたら、頭をいっぱい撫でてもらって嬉しかった」とか「車が通った時に、吠えて叱られた」とか。褒められて嬉しいことは、またしたいなという場所に、叱られて嫌だったことは、もうやめようという場所に整理する。だから、しつけるときに褒めたり叱ったりしても、深い睡眠がとれないと効果は薄くなるというのだ。記憶をきちんと整理することで、ストレスも解消されるという。
「びっきーも、そんな小難しいことしてるのかな?」
娘に話すと「あー、わたしもおんなじだ」と言う。
「誰かに嫌なこと言われたりして落ち込んでても、眠るとすっきりするもん」
日々、深く深く眠っているわけだ。幸せなことである。
「きみの前世は、犬だったんじゃない?」「かもね」と、ふたり笑った。
犬は飼い主に似るとはよく聞くが、びっきーも娘に似たならさぞ幸せだろう。
むにゃむにゃ。今日は姫と、秋の道を走って楽しかったなぁ。
栗踏んじゃったのは、痛かった。明日は踏まないようにしようっと。
むにゃむにゃ。なーんだ、おかーさんですか。
姫じゃないんですかー。散歩ですかー。行くんですか―。
全く「秋眠暁を覚えず」とはよく言ったものですね。むにゃ。
「それ、春眠だからね。びっきー」と、わたし。
心配になって調べてみた。成犬で12時間から15時間、子犬や老犬は18時間ほど眠るのが普通だとの記載を見つけた。
13歳を過ぎたびっきーは、もう老犬と呼ばれる時期に入ったのだろう。18時間眠ったら目覚めている時間は1日6時間しかない。もともとが夜行性動物なのだから、昼間ほとんどの時間、眠っていても心配することはなさそうだ。
犬の睡眠を調べていて、驚いたことがある。
犬は眠りが浅い時間が多いが、深い眠りの時間を取ることで、記憶の整理をするとかかれてた。良い記憶と悪い記憶を思い出し整理することで、プラス思考になれるのだそうだ。「おすわりしたら、頭をいっぱい撫でてもらって嬉しかった」とか「車が通った時に、吠えて叱られた」とか。褒められて嬉しいことは、またしたいなという場所に、叱られて嫌だったことは、もうやめようという場所に整理する。だから、しつけるときに褒めたり叱ったりしても、深い睡眠がとれないと効果は薄くなるというのだ。記憶をきちんと整理することで、ストレスも解消されるという。
「びっきーも、そんな小難しいことしてるのかな?」
娘に話すと「あー、わたしもおんなじだ」と言う。
「誰かに嫌なこと言われたりして落ち込んでても、眠るとすっきりするもん」
日々、深く深く眠っているわけだ。幸せなことである。
「きみの前世は、犬だったんじゃない?」「かもね」と、ふたり笑った。
犬は飼い主に似るとはよく聞くが、びっきーも娘に似たならさぞ幸せだろう。
むにゃむにゃ。今日は姫と、秋の道を走って楽しかったなぁ。
栗踏んじゃったのは、痛かった。明日は踏まないようにしようっと。
むにゃむにゃ。なーんだ、おかーさんですか。
姫じゃないんですかー。散歩ですかー。行くんですか―。
全く「秋眠暁を覚えず」とはよく言ったものですね。むにゃ。
「それ、春眠だからね。びっきー」と、わたし。
秋色いろいろ
気温が下がり空気が澄み、霞むことなくくっきりと山々が見えてくる秋。
赤トンボや彼岸花の赤、葡萄や茄子の紫や紺、稲穂やススキの黄色、高く青い空と、何もかもが色鮮やかだ。
秋は、夢もくっきり見えるものなのだろうか。このところ目覚めてからも、はっきりと覚えている夢が多い。たとえば。
中学生のわたしは、友人達と和やかにしゃべりながら下校中。駅までの帰路、別れ別れになり、駅に着くと3人だった。中学時代の女友達、わたし、そして怪我をした男子だ。わたしは、彼に肩を貸していた。
女友達は反対車線なので、ホームの向こうで笑顔で手を振っている。現実世界で3年ほど前に会った彼女は髪を下していたが、手を振っているのは中学時代と同じく髪を二つに結わえた彼女だった。
男子は、突然わたしに告白する。「好きなんだ」
「わたしが付き合ってる人いるの、知ってるでしょ?」戸惑いつつ、わたし。
「うん、知ってる。ただ、今の正直な気持ちを伝えたいだけなんだ」と、彼。
地下鉄のホームの埃臭さ。生ぬるい風。遠く聞こえる電車の音。
わたし達は、しばし見つめ合った。
夢はそこで終わる。ちょっと切ない、セピア色した夢だった。
しかし、目覚めてから、ムクムクと湧き上がったのは疑問だった。
「夢なんだからさぁ、自分の好きなタイプ登場させようよ」
彼は目がぱっちりした丸顔で坊主頭、一言でいうとマルコメ味噌のCMに出てくるような男子だったのだ。
トヨエツでもなく、福山雅治でもなく、ジョニー・デップでもなく、マルコメ。キムタクでも、妻夫木聡でも、岡田将生くんでもなく、マルコメ。
空気澄む秋とは言え、夢、くっきりじゃなくてもよかったかも。
♪ すべてが 思うほど うまくはいかないみたいだ ♪
秋の庭で『夜空ノムコウ』を、ひとり口ずさむしかなかった。
赤トンボは、カメラを向けても逃げません。こちらをしっかり見ています。
あ、山葡萄。食べられるかな? 残念、青葛藤(あおつづらふじ)でした。
美味しそうだけど、毒があるとか。漢方には使われるみたいです。
田んぼの畔には彼岸花。鮮やかな赤に目を奪われます。
シジミチョウ。本当に貝のシジミそっくりですよね。
去年の春に植えたイチイの木も、根付いたようです。ピンクの実が可愛い。
秋の色と言えば、抜けるような青空ですよね。
日に日に山が、くっきり見えるようになってきました。
赤トンボや彼岸花の赤、葡萄や茄子の紫や紺、稲穂やススキの黄色、高く青い空と、何もかもが色鮮やかだ。
秋は、夢もくっきり見えるものなのだろうか。このところ目覚めてからも、はっきりと覚えている夢が多い。たとえば。
中学生のわたしは、友人達と和やかにしゃべりながら下校中。駅までの帰路、別れ別れになり、駅に着くと3人だった。中学時代の女友達、わたし、そして怪我をした男子だ。わたしは、彼に肩を貸していた。
女友達は反対車線なので、ホームの向こうで笑顔で手を振っている。現実世界で3年ほど前に会った彼女は髪を下していたが、手を振っているのは中学時代と同じく髪を二つに結わえた彼女だった。
男子は、突然わたしに告白する。「好きなんだ」
「わたしが付き合ってる人いるの、知ってるでしょ?」戸惑いつつ、わたし。
「うん、知ってる。ただ、今の正直な気持ちを伝えたいだけなんだ」と、彼。
地下鉄のホームの埃臭さ。生ぬるい風。遠く聞こえる電車の音。
わたし達は、しばし見つめ合った。
夢はそこで終わる。ちょっと切ない、セピア色した夢だった。
しかし、目覚めてから、ムクムクと湧き上がったのは疑問だった。
「夢なんだからさぁ、自分の好きなタイプ登場させようよ」
彼は目がぱっちりした丸顔で坊主頭、一言でいうとマルコメ味噌のCMに出てくるような男子だったのだ。
トヨエツでもなく、福山雅治でもなく、ジョニー・デップでもなく、マルコメ。キムタクでも、妻夫木聡でも、岡田将生くんでもなく、マルコメ。
空気澄む秋とは言え、夢、くっきりじゃなくてもよかったかも。
♪ すべてが 思うほど うまくはいかないみたいだ ♪
秋の庭で『夜空ノムコウ』を、ひとり口ずさむしかなかった。
赤トンボは、カメラを向けても逃げません。こちらをしっかり見ています。
あ、山葡萄。食べられるかな? 残念、青葛藤(あおつづらふじ)でした。
美味しそうだけど、毒があるとか。漢方には使われるみたいです。
田んぼの畔には彼岸花。鮮やかな赤に目を奪われます。
シジミチョウ。本当に貝のシジミそっくりですよね。
去年の春に植えたイチイの木も、根付いたようです。ピンクの実が可愛い。
秋の色と言えば、抜けるような青空ですよね。
日に日に山が、くっきり見えるようになってきました。
さんま苦いか、しょっぱいか
「週末は、秋刀魚だな」「いいねぇ」
先週から夫と話していた。我が家で「秋刀魚」と言えば、小型のバーベキューセットで焼く炭火焼と決まっている。娘は焼けたら食べに来るので、ウッドデッキで夜風に吹かれ、夫婦ふたりでのバーベキューとなるのが、最近の常だ。
「さんま、さんま、さんま苦いか、しょっぱいか」
どちらからともなしに、秋刀魚を焼きつつ口にするのは、佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』である。結婚して初めてふたりで秋刀魚を食べた時に、それはたぶんキッチンでグリルで焼いたのだと思うが、夫に教わった。友人谷崎潤一郎の妻、千代に恋した佐藤春夫の悲恋の歌だと。
大人の恋のほろ苦さを、秋刀魚に重ねた味わい深い詩だ。その後、佐藤春夫と千代は結ばれることとなったのだが。
何かを食べる度に思い出す詩や、本のワンシーンがある。それを家族で共有するのもまた楽しい。娘が聞いていたかはわからないが、たぶんこれまでにも秋刀魚を食べる度に、何度となく聞いてきたはずだ。いつか子ども達が何処かで秋刀魚を焼く時に思い出し、誰かに話すかも知れない。「さんま苦いか、しょっぱいか」と。
さて。わたしには、秋刀魚を焼くと思い出す、もう一つの詩(歌詞)がある。それは、夜風に気持ち良く吹かれ秋刀魚を焼きながら話すものではないと心得ている。佐藤春夫の大人の恋のほろ苦さとは対極に在りすぎるものだからだ。
♪ お魚食わえたドラ猫 追っかけて 裸足でかけてく 陽気なサザエさん ♪
火の色は写真にすると変わってしまいますが、綺麗な秋刀魚でした。
大根おろしが似合います。胸を張っているかのよう。
御馳走様でした。何もかも綺麗に、いただきました。
先週から夫と話していた。我が家で「秋刀魚」と言えば、小型のバーベキューセットで焼く炭火焼と決まっている。娘は焼けたら食べに来るので、ウッドデッキで夜風に吹かれ、夫婦ふたりでのバーベキューとなるのが、最近の常だ。
「さんま、さんま、さんま苦いか、しょっぱいか」
どちらからともなしに、秋刀魚を焼きつつ口にするのは、佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』である。結婚して初めてふたりで秋刀魚を食べた時に、それはたぶんキッチンでグリルで焼いたのだと思うが、夫に教わった。友人谷崎潤一郎の妻、千代に恋した佐藤春夫の悲恋の歌だと。
大人の恋のほろ苦さを、秋刀魚に重ねた味わい深い詩だ。その後、佐藤春夫と千代は結ばれることとなったのだが。
何かを食べる度に思い出す詩や、本のワンシーンがある。それを家族で共有するのもまた楽しい。娘が聞いていたかはわからないが、たぶんこれまでにも秋刀魚を食べる度に、何度となく聞いてきたはずだ。いつか子ども達が何処かで秋刀魚を焼く時に思い出し、誰かに話すかも知れない。「さんま苦いか、しょっぱいか」と。
さて。わたしには、秋刀魚を焼くと思い出す、もう一つの詩(歌詞)がある。それは、夜風に気持ち良く吹かれ秋刀魚を焼きながら話すものではないと心得ている。佐藤春夫の大人の恋のほろ苦さとは対極に在りすぎるものだからだ。
♪ お魚食わえたドラ猫 追っかけて 裸足でかけてく 陽気なサザエさん ♪
火の色は写真にすると変わってしまいますが、綺麗な秋刀魚でした。
大根おろしが似合います。胸を張っているかのよう。
御馳走様でした。何もかも綺麗に、いただきました。
生きるために必要な針がある
栗をいただいた。生の栗と、渋皮煮である。うれしい。
栗のイガは、何故あるのか。春まで動物などに食べられず、芽を出すためだそうだ。生き残るためのイガ、針なのだ。
『はりねずみが眠るとき』というブログタイトルの意味をよく聞かれる。
寒空にいる二匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいのに、針が刺さるので近づけないという『ヤマアラシのジレンマ』
そのヤマアラシより、遥かに小さな「はりねずみ」の、小さな世界。そのなかで小さなことを喜んだりくよくよしたり、またヤマアラシのジレンマの如く傷つけたり傷ついたり。そうやって生きていくこと、普通に暮らしていくということをかきたいと名付けたタイトルだ。
そんなはりねずみが目覚める日を待ち、穏やかな心持ちで眠りにつけるのか。
甘く煮た栗を口に放り込み、味わいつつ考えた。
生きるために必要な針がある。その理不尽さを。
渋皮煮、アクを全く感じない美味しさでした。
2週間ほど前に撮った写真です。台風で落ちた栗も多かったようです。
栗のイガは、何故あるのか。春まで動物などに食べられず、芽を出すためだそうだ。生き残るためのイガ、針なのだ。
『はりねずみが眠るとき』というブログタイトルの意味をよく聞かれる。
寒空にいる二匹のヤマアラシがお互いに身を寄せ合って暖め合いたいのに、針が刺さるので近づけないという『ヤマアラシのジレンマ』
そのヤマアラシより、遥かに小さな「はりねずみ」の、小さな世界。そのなかで小さなことを喜んだりくよくよしたり、またヤマアラシのジレンマの如く傷つけたり傷ついたり。そうやって生きていくこと、普通に暮らしていくということをかきたいと名付けたタイトルだ。
そんなはりねずみが目覚める日を待ち、穏やかな心持ちで眠りにつけるのか。
甘く煮た栗を口に放り込み、味わいつつ考えた。
生きるために必要な針がある。その理不尽さを。
渋皮煮、アクを全く感じない美味しさでした。
2週間ほど前に撮った写真です。台風で落ちた栗も多かったようです。
どの家にも必ずある『流しの下の骨』
その家に住む家族にしか、わからないこと。些細なことだが、我が家にもあるし、多分どんな家族にもあるものだろう。
江國香織は小説『流しの下の骨』(新潮文庫)で「流しの下に骨がある」との比喩を使い表現している。台所の流しの下に骨が置いてあることは、その家の者しか知らない。つまり外から見ても判らないことが、家族にはあるのだと。
我が家の流しの下には、もちろん骨はない。骨どころか、変わったものも何もないと思う。ごく普通の家庭だと思っている。いくつか挙げるとしても、小さなことばかりだ。
たとえば、上の娘はオーストラリアのシェアハウスで、歯磨きについてよく驚かれたという。我が家ではみな10分くらいは磨くので、洗面所を出て好きなところで磨くのだ。テレビを観ながら、パソコンを開きながら、新聞を読みながら、ベッドに寝転びながら、庭でイタリアンパセリを眺めながら、という具合いだ。よその家の人がみな洗面所で歯磨きをするのかわたしは知らない。
またたとえば「9時45分予約ね」と夫が言う。それだけで意味が分かるのは家族だけである。夏に帰省した末娘はこれを聞き「なつかしい!」と言ったものだが、これは夫が夜サッカーの練習後帰宅してすぐに風呂に入りたい、なので娘達とバッティングしないように先に入っておいてねという意味なのだ。
またたとえば「サッカーの練習用に、ポカリ買っといて」と夫に言われ、わたしが買うのはアクエリアスである。何故か我が家では、アクエリアスの短縮形がポカリになってしまっている。
またたとえば、洗濯物のポケットに何かが入っていた場合、我が家では「ポケット大賞、おめでとうございます!」と讃えられる。
またたとえば、誰かが机に足をぶつけたとか、痛いけど笑っちゃうような時「可哀想だね」を「カワウソだね」と言う。またたとえば。またたとえば。
ごくごく普通の家族にも、その家でしか通じないルールや、知りえないこと、わからないことがある。小説『流しの下の骨』を思い出すたびに、よその家のそんな部分を覗いてみたい衝動に駆られるのだ。
「久しぶりに、今夜ユッケにしようか」と、わたし。
「いいね」と、夫。我が家のユッケは、アボカド鮪イタリアンです。
安い赤身でも卵の黄身を混ぜることで、トロっぽくなります。
江國香織は小説『流しの下の骨』(新潮文庫)で「流しの下に骨がある」との比喩を使い表現している。台所の流しの下に骨が置いてあることは、その家の者しか知らない。つまり外から見ても判らないことが、家族にはあるのだと。
我が家の流しの下には、もちろん骨はない。骨どころか、変わったものも何もないと思う。ごく普通の家庭だと思っている。いくつか挙げるとしても、小さなことばかりだ。
たとえば、上の娘はオーストラリアのシェアハウスで、歯磨きについてよく驚かれたという。我が家ではみな10分くらいは磨くので、洗面所を出て好きなところで磨くのだ。テレビを観ながら、パソコンを開きながら、新聞を読みながら、ベッドに寝転びながら、庭でイタリアンパセリを眺めながら、という具合いだ。よその家の人がみな洗面所で歯磨きをするのかわたしは知らない。
またたとえば「9時45分予約ね」と夫が言う。それだけで意味が分かるのは家族だけである。夏に帰省した末娘はこれを聞き「なつかしい!」と言ったものだが、これは夫が夜サッカーの練習後帰宅してすぐに風呂に入りたい、なので娘達とバッティングしないように先に入っておいてねという意味なのだ。
またたとえば「サッカーの練習用に、ポカリ買っといて」と夫に言われ、わたしが買うのはアクエリアスである。何故か我が家では、アクエリアスの短縮形がポカリになってしまっている。
またたとえば、洗濯物のポケットに何かが入っていた場合、我が家では「ポケット大賞、おめでとうございます!」と讃えられる。
またたとえば、誰かが机に足をぶつけたとか、痛いけど笑っちゃうような時「可哀想だね」を「カワウソだね」と言う。またたとえば。またたとえば。
ごくごく普通の家族にも、その家でしか通じないルールや、知りえないこと、わからないことがある。小説『流しの下の骨』を思い出すたびに、よその家のそんな部分を覗いてみたい衝動に駆られるのだ。
「久しぶりに、今夜ユッケにしようか」と、わたし。
「いいね」と、夫。我が家のユッケは、アボカド鮪イタリアンです。
安い赤身でも卵の黄身を混ぜることで、トロっぽくなります。
大人の『いつか』は、来ないのか?
「大人の『いつか』は、実現しない」
末娘が、小学校高学年の頃の言葉である。
「これ、買って!」「いつか、買ってあげるね」
「ディズニーランド行きたい!」「いつか、行こうね」
その『いつか』は、永遠にやって来ない、実現しないものだと、ある時ふと、腑に落ちたと言う。
それは彼女が、限りなく大人に近づいた瞬間だったのかもしれない。
わたしとて、誤魔化そうという気持ちなどなく、まあいつかその時が来たらと軽い気持ちで答えただけだったのだと思うが、子どもの感性というものは厳しく、真っ直ぐだ。
「いつやるの?」「今でしょ」が、今年の流行語大賞候補らしいが、今じゃなくとも、嘘はなくやって来る『いつか』があることも、信じたい。
機が熟したのだと、感じる出来事があった。
ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』(新潮文庫)短編小説集の表題作を読んだ。何度目かのリベンジだ。というのも、この小説の良さが何度読んでも判らなかったのだ。自分の感性に合わないだけだろうと、いつもなら思うのだが、島本理生が「すごくいいですよねぇ」と角田光代との対談で恍惚感をにじませ言っているのを読み、わたしも『いつか』「すごくいいですよねぇ」と言いたい。ただそれだけで、リベンジを続けてきたのだ。今、ようやく言える。
「ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』、すごくいいですよねぇ」
わたしのささやかな『いつか』はやって来た。嬉しい。
『いつか』
遠く未来を思わせる、胸のなかに空が広がっていくような言葉である。
大人になって末娘は、この言葉をどんな風に使っていくのだろうか。
PEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、
ピューリッツァー・フィクション賞受賞の短編集です。
スタバで最近お気に入りのパッションアイスティーを、飲みながら。
停電の夜風の、写真にしてみました。
末娘が、小学校高学年の頃の言葉である。
「これ、買って!」「いつか、買ってあげるね」
「ディズニーランド行きたい!」「いつか、行こうね」
その『いつか』は、永遠にやって来ない、実現しないものだと、ある時ふと、腑に落ちたと言う。
それは彼女が、限りなく大人に近づいた瞬間だったのかもしれない。
わたしとて、誤魔化そうという気持ちなどなく、まあいつかその時が来たらと軽い気持ちで答えただけだったのだと思うが、子どもの感性というものは厳しく、真っ直ぐだ。
「いつやるの?」「今でしょ」が、今年の流行語大賞候補らしいが、今じゃなくとも、嘘はなくやって来る『いつか』があることも、信じたい。
機が熟したのだと、感じる出来事があった。
ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』(新潮文庫)短編小説集の表題作を読んだ。何度目かのリベンジだ。というのも、この小説の良さが何度読んでも判らなかったのだ。自分の感性に合わないだけだろうと、いつもなら思うのだが、島本理生が「すごくいいですよねぇ」と角田光代との対談で恍惚感をにじませ言っているのを読み、わたしも『いつか』「すごくいいですよねぇ」と言いたい。ただそれだけで、リベンジを続けてきたのだ。今、ようやく言える。
「ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』、すごくいいですよねぇ」
わたしのささやかな『いつか』はやって来た。嬉しい。
『いつか』
遠く未来を思わせる、胸のなかに空が広がっていくような言葉である。
大人になって末娘は、この言葉をどんな風に使っていくのだろうか。
PEN/ヘミングウェイ賞、ニューヨーカー新人賞、
ピューリッツァー・フィクション賞受賞の短編集です。
スタバで最近お気に入りのパッションアイスティーを、飲みながら。
停電の夜風の、写真にしてみました。
虹は、五色か六色か
「来た来た!」夫が、何やら嬉しそうに宅配便の箱を開けている。
「何買ったの?」と、怪しむわたし。
彼は不敵に笑い、答えない。答えないので、悔しいからわたしも興味を示さないフリをする。そんなわたしに、また彼も興味を示さぬフリをしつつ、それはまあ嬉しそうに、中身を取り出すべく丁寧に施された包装を解いていく。
「ほら、これこれ。面白いんだよ」
取り出したのは、小さなロボットのような形をしたものだった。ソーラーパネルが付いている。ロボットのお腹の部分には、吸盤が付いていて、夫はそれを南側の窓にペタンと張った。しばらく「あれ?」とか「動かない」とか言っていたが、ロボットの足が回転し始めた。
「えーっ?」
部屋じゅうに、プラネタリウムの星が回るかのように虹色の光が飛び始めた。
「これ、買ったの?」ちょっと呆れて、わたし。
「い、いや。楽天のポイントで。じゃないと、買わないでしょ」
「だよねー」呆れて笑いつつも、光を見てふたり和んだ。
『レインボーメイカー』だというそれは、太陽の光で回転し、無数の虹を部屋じゅうに撒き散らしていく。
「虹を機械で作るなんて、全く人間の考えることったら」
わたしなどは呆れてしまうが、七色の小さな光には、小さく微笑んでしまうだけの美しさがあることも認めざるを得ない。
ところで日本では虹は七色と相場は決まっているが、海外では、五色だという国もあれば六色だという国もあるという。虹を七色だと固定された観念で見ずに、自分の目でしっかり見たら、いったい何色に見えるのだろう。
洗濯物で太陽の光を遮られ、床の上で止まった虹を、しばしじっと見つめた。
足のようなものの先にあるガラスが回転して、虹を作り出します。
いつも不思議に思います。人間に似せた形に作るのは、何故?
部屋じゅうに、これが回ると、かなりうるさい感じはあります。
「床の塗装、ずいぶんはげて来たなぁ」と思ってしまうのは、
虹の向こう奥深くを覗いた、現実的な女の発想?
「何買ったの?」と、怪しむわたし。
彼は不敵に笑い、答えない。答えないので、悔しいからわたしも興味を示さないフリをする。そんなわたしに、また彼も興味を示さぬフリをしつつ、それはまあ嬉しそうに、中身を取り出すべく丁寧に施された包装を解いていく。
「ほら、これこれ。面白いんだよ」
取り出したのは、小さなロボットのような形をしたものだった。ソーラーパネルが付いている。ロボットのお腹の部分には、吸盤が付いていて、夫はそれを南側の窓にペタンと張った。しばらく「あれ?」とか「動かない」とか言っていたが、ロボットの足が回転し始めた。
「えーっ?」
部屋じゅうに、プラネタリウムの星が回るかのように虹色の光が飛び始めた。
「これ、買ったの?」ちょっと呆れて、わたし。
「い、いや。楽天のポイントで。じゃないと、買わないでしょ」
「だよねー」呆れて笑いつつも、光を見てふたり和んだ。
『レインボーメイカー』だというそれは、太陽の光で回転し、無数の虹を部屋じゅうに撒き散らしていく。
「虹を機械で作るなんて、全く人間の考えることったら」
わたしなどは呆れてしまうが、七色の小さな光には、小さく微笑んでしまうだけの美しさがあることも認めざるを得ない。
ところで日本では虹は七色と相場は決まっているが、海外では、五色だという国もあれば六色だという国もあるという。虹を七色だと固定された観念で見ずに、自分の目でしっかり見たら、いったい何色に見えるのだろう。
洗濯物で太陽の光を遮られ、床の上で止まった虹を、しばしじっと見つめた。
足のようなものの先にあるガラスが回転して、虹を作り出します。
いつも不思議に思います。人間に似せた形に作るのは、何故?
部屋じゅうに、これが回ると、かなりうるさい感じはあります。
「床の塗装、ずいぶんはげて来たなぁ」と思ってしまうのは、
虹の向こう奥深くを覗いた、現実的な女の発想?
コロナを『お行儀よく』飲む
夫に、コロナの飲み方を教わった。
メキシコのビール、コロナ・エキストラ。ライムを入れて飲むのがスタンダードだということは、もちろん知っていた。
だが、グラスに注ごうとすると、夫にとめられた。
「コロナの飲み方、知らないの?」
「ライム絞って、飲むんでしょ?」と、わたし。だが夫は、首を振る。
「ライムを、瓶のなかに押し込むんだよ」「ほんとに?」
「呑み屋では、必ず瓶の口にライムを半分突っ込んで出てくるよ」
それを瓶に押し込んで、グラスは使わず瓶に口をつけて飲むんだそうだ。
「そう言えば、呑み屋でコロナ、飲んだことないや」
「今度、飲んでみれば?」「ぜひとも!」
ネットで調べてみると、夫が言う通りの飲み方をするとかいてある。塩を入れると美味しいと言う意見もあり、ライムを押し込んでから指で蓋をするようにして逆さにし、ライムを馴染ませてビールを泡立たせて飲むのが正しいと言う意見もあり、自分的には檸檬が好きだと言う意見もありで、面白かった。
広告で『このビールは、立って飲むのがお行儀です』とのコピーもあったらしい。それを見て、しまった! と舌打ちした。あー座って飲んじゃった、と。
呑み屋で飲むまえに、キッチンで料理しながら飲んでみよう。
塩も檸檬も、逆さにするのも、瓶に口をつけ『お行儀よく立ったまま』ぜひともトライしよう。ビールの飲み方ひとつで、こんなにわくわくする人は、まあ多数派ではないだろうとは知りつつも、思いっきりわくわくしている。
リサイクルが難しくなるので、この飲み方、推奨されていないそうですが、
金串で簡単に取れたので、しっかりリサイクルに出しました。
メキシコのビール、コロナ・エキストラ。ライムを入れて飲むのがスタンダードだということは、もちろん知っていた。
だが、グラスに注ごうとすると、夫にとめられた。
「コロナの飲み方、知らないの?」
「ライム絞って、飲むんでしょ?」と、わたし。だが夫は、首を振る。
「ライムを、瓶のなかに押し込むんだよ」「ほんとに?」
「呑み屋では、必ず瓶の口にライムを半分突っ込んで出てくるよ」
それを瓶に押し込んで、グラスは使わず瓶に口をつけて飲むんだそうだ。
「そう言えば、呑み屋でコロナ、飲んだことないや」
「今度、飲んでみれば?」「ぜひとも!」
ネットで調べてみると、夫が言う通りの飲み方をするとかいてある。塩を入れると美味しいと言う意見もあり、ライムを押し込んでから指で蓋をするようにして逆さにし、ライムを馴染ませてビールを泡立たせて飲むのが正しいと言う意見もあり、自分的には檸檬が好きだと言う意見もありで、面白かった。
広告で『このビールは、立って飲むのがお行儀です』とのコピーもあったらしい。それを見て、しまった! と舌打ちした。あー座って飲んじゃった、と。
呑み屋で飲むまえに、キッチンで料理しながら飲んでみよう。
塩も檸檬も、逆さにするのも、瓶に口をつけ『お行儀よく立ったまま』ぜひともトライしよう。ビールの飲み方ひとつで、こんなにわくわくする人は、まあ多数派ではないだろうとは知りつつも、思いっきりわくわくしている。
リサイクルが難しくなるので、この飲み方、推奨されていないそうですが、
金串で簡単に取れたので、しっかりリサイクルに出しました。
シールドを突破して
ずっと行きたいと思っていたのに、足を踏み入れることのできない場所があった。同じ明野町内のカフェ『くじらぐも』だ。
友人とも夫とも話題にはなるが、行こうという話にはならない。ランチしやすい水・木が定休だということもあるが、他には理由などない。では、ひとりランチでとも思うのだが、何故か気が進まない。車でよく前は通るのだ。町から国道に出る3つの道の一つ。その裏道に面した場所にある。だがまるで、シールドで遮断されているかのように、敷地内に入れないのである。
「じゃあ、一緒に行こうよ」上の娘が言いだした。
彼女は最近「健康」にハマっていて、地元の野菜を使った煮物やサラダや玄米などをランチに出す『くじらぐも』には、すでに行ったことがあると言う。
「つ、連れてってください」と、わたし。
駐車場に車を停め、台風一過の空の下、歩く。
井戸がある。小学校にあるような遊具、太鼓橋がある。竹で作った丸いスペースがある。大きな釡や南瓜が置かれた物置のような場所がある。広い囲いのなかには山羊が草を食んでいる。苺畑やハーブがある。店の入口まで敷き詰めた石の道には、雑草が覆いかぶさっている。その太鼓橋も、『くじらぐも』とかかれた看板も、何十年も前からここにあるかのようにペンキが落ちている。ゆっくり歩きながら心のなかでつぶやく。「シールド突破!」
店内に入った時には、わたしのなかにあったシールドはすっかり解除されていた。骨董品とも言える足踏みミシン、ブリキの扇風機、持って帰りたいくらい素敵な珈琲ミル、天井には裸電球。ついたてを利用した手作りの棚。何度も足を運んだ店のようにくつろぎ、娘と他愛なくしゃべり美味しくご飯を食べた。
シールドを突破して判ったのは、店に入るまでのすべてが、土地に馴染みすぎているということだった。古いもの好きにはたまらなくお洒落な店内は、普段着のこの町とは確かに違っている。けれど、そこにたどり着くまでの短い通路や庭が、田舎町を凝縮した空気を見事に再現していて、わたしにとっては、それが分厚いシールドとなったのだ。
「明野の人は、あんまり来ないんだって」と、娘。
東京からわざわざ足を運ぶ人も多いという明野の観光スポットに、シールド突破を楽しむ派の娘のお陰で、ようやくたどり着けた。
井戸と「太鼓橋」のような遊具。
竹繭カフェ? なかでお茶して、落ち着くかなぁ?
入口には、小さすぎるほどに小さな看板と、野の花が。
野菜中心というより、ほぼ野菜のランチ。ハーブティー付き。
葡萄酵母のパンと玄米っぽいチャーハンは、娘と半分こ。
わたしのおごりなので、娘は遠慮なく、薩摩芋のチーズケーキも食べました。
飾ってあった、心魅かれた珈琲ミル。店内にはうさぎが1匹、
庭には3匹の山羊。山羊は、とても活発に動き回っていました。
友人とも夫とも話題にはなるが、行こうという話にはならない。ランチしやすい水・木が定休だということもあるが、他には理由などない。では、ひとりランチでとも思うのだが、何故か気が進まない。車でよく前は通るのだ。町から国道に出る3つの道の一つ。その裏道に面した場所にある。だがまるで、シールドで遮断されているかのように、敷地内に入れないのである。
「じゃあ、一緒に行こうよ」上の娘が言いだした。
彼女は最近「健康」にハマっていて、地元の野菜を使った煮物やサラダや玄米などをランチに出す『くじらぐも』には、すでに行ったことがあると言う。
「つ、連れてってください」と、わたし。
駐車場に車を停め、台風一過の空の下、歩く。
井戸がある。小学校にあるような遊具、太鼓橋がある。竹で作った丸いスペースがある。大きな釡や南瓜が置かれた物置のような場所がある。広い囲いのなかには山羊が草を食んでいる。苺畑やハーブがある。店の入口まで敷き詰めた石の道には、雑草が覆いかぶさっている。その太鼓橋も、『くじらぐも』とかかれた看板も、何十年も前からここにあるかのようにペンキが落ちている。ゆっくり歩きながら心のなかでつぶやく。「シールド突破!」
店内に入った時には、わたしのなかにあったシールドはすっかり解除されていた。骨董品とも言える足踏みミシン、ブリキの扇風機、持って帰りたいくらい素敵な珈琲ミル、天井には裸電球。ついたてを利用した手作りの棚。何度も足を運んだ店のようにくつろぎ、娘と他愛なくしゃべり美味しくご飯を食べた。
シールドを突破して判ったのは、店に入るまでのすべてが、土地に馴染みすぎているということだった。古いもの好きにはたまらなくお洒落な店内は、普段着のこの町とは確かに違っている。けれど、そこにたどり着くまでの短い通路や庭が、田舎町を凝縮した空気を見事に再現していて、わたしにとっては、それが分厚いシールドとなったのだ。
「明野の人は、あんまり来ないんだって」と、娘。
東京からわざわざ足を運ぶ人も多いという明野の観光スポットに、シールド突破を楽しむ派の娘のお陰で、ようやくたどり着けた。
井戸と「太鼓橋」のような遊具。
竹繭カフェ? なかでお茶して、落ち着くかなぁ?
入口には、小さすぎるほどに小さな看板と、野の花が。
野菜中心というより、ほぼ野菜のランチ。ハーブティー付き。
葡萄酵母のパンと玄米っぽいチャーハンは、娘と半分こ。
わたしのおごりなので、娘は遠慮なく、薩摩芋のチーズケーキも食べました。
飾ってあった、心魅かれた珈琲ミル。店内にはうさぎが1匹、
庭には3匹の山羊。山羊は、とても活発に動き回っていました。
他愛なく、つまらなく、幸せこの上ない悩み
夜中に目覚めて、ふと思い出す。
「目玉焼きにしようか、納豆にするべきか。あれ? 葱あったっけ」
「あ、味噌汁の油揚げなかった。代わりに冷凍庫の鶏肉入れようかな」
「トマトはあるけど、炒めものも欲しいし、玉葱炒めるか」
朝食についての、あれこれである。
夜中に目覚めて、他の人が何を考えるのかはわからないが、特別な悩み事がない限り、わたしのなかでは朝食についてが、第1位を占める。
もちろん仕事のことや子どものこと、家族のことなども、考える。真夜中ひとりベッドで考えを巡らせることで、違った視点からものが見えることも多く「なーんだ、こうすればいいんじゃない」とあっさり答えが出ることもある。
しかし毎日の悩みの第1位を占めるのは、朝食についてだ。
スーパーで食材を買うときに、それは「夕食の買い物」であり、朝食については、ついつい忘れがちだ。だから、あれこれ足りない食材を駆使し、真夜中に朝食の献立を立てることとなる。朝は時間も限られているし、手の込んだことはできないし、でも野菜はたくさん食べたいし、あーどうしよう、となる訳である。他愛なく、つまらなく、幸せこの上ない悩みである。子ども達の弁当を作っていた時に比べたら、その悩みも激減したけれど。
台風が通り過ぎた昨日の夕方、視点を変えて「朝食の買い物」をした。
「朝ご飯、朝ご飯」と唱えつつスーパーを闊歩しつつも「これで夕飯の食材忘れたら嫌だな」との不安を拭いきれない弱気な自分が、ふと天上から見えた。
残り物のゴーヤチャンプルーと焼き茄子があったので、ちょっと豪華。
目刺しは、たまーに登場します。頭から、がぶり!
家庭菜園の人参をたくさんいただいて、毎朝の味噌汁に入れています。
台風が通り過ぎた直後の田んぼ。稲が倒れると稲刈りが大変だそうです。
まだまだ稲刈り前の田んぼが多く、農家さんの苦労を思います。
美味しい明野のお米を、毎朝食べられることに感謝しつつ。
「目玉焼きにしようか、納豆にするべきか。あれ? 葱あったっけ」
「あ、味噌汁の油揚げなかった。代わりに冷凍庫の鶏肉入れようかな」
「トマトはあるけど、炒めものも欲しいし、玉葱炒めるか」
朝食についての、あれこれである。
夜中に目覚めて、他の人が何を考えるのかはわからないが、特別な悩み事がない限り、わたしのなかでは朝食についてが、第1位を占める。
もちろん仕事のことや子どものこと、家族のことなども、考える。真夜中ひとりベッドで考えを巡らせることで、違った視点からものが見えることも多く「なーんだ、こうすればいいんじゃない」とあっさり答えが出ることもある。
しかし毎日の悩みの第1位を占めるのは、朝食についてだ。
スーパーで食材を買うときに、それは「夕食の買い物」であり、朝食については、ついつい忘れがちだ。だから、あれこれ足りない食材を駆使し、真夜中に朝食の献立を立てることとなる。朝は時間も限られているし、手の込んだことはできないし、でも野菜はたくさん食べたいし、あーどうしよう、となる訳である。他愛なく、つまらなく、幸せこの上ない悩みである。子ども達の弁当を作っていた時に比べたら、その悩みも激減したけれど。
台風が通り過ぎた昨日の夕方、視点を変えて「朝食の買い物」をした。
「朝ご飯、朝ご飯」と唱えつつスーパーを闊歩しつつも「これで夕飯の食材忘れたら嫌だな」との不安を拭いきれない弱気な自分が、ふと天上から見えた。
残り物のゴーヤチャンプルーと焼き茄子があったので、ちょっと豪華。
目刺しは、たまーに登場します。頭から、がぶり!
家庭菜園の人参をたくさんいただいて、毎朝の味噌汁に入れています。
台風が通り過ぎた直後の田んぼ。稲が倒れると稲刈りが大変だそうです。
まだまだ稲刈り前の田んぼが多く、農家さんの苦労を思います。
美味しい明野のお米を、毎朝食べられることに感謝しつつ。
強く伸びる秋の雑草に、生まれる不思議を思う
植物が生まれる姿は、考えるほどに不思議だ。種が土のなかに埋まっていたり、根が張っていたり、球根が眠っていたりするのだろうとは思うが、何もないところからにょきっと生えてくるような印象。不可思議だ。
秋の庭を見ながら考えた。
人のなかに様々な気持ちが生まれることも、不可思議だよなぁと。
何かを、やりたいと思う気持ち。何かを、創り出そうという気持ち。
何かに、傾ける情熱。そういうものは、いったい何処から生まれるのだろう。
植物は、時が来て芽を出し伸びて花が咲き、実を生らせ、また種を落とす。凍った冬には身を枯らせ、種でさえ生きているかも判らない。季節が過ぎ芽を出すまでは、そこに何かが在ることさえ判らないのだ。
雑草が春にも増して強く伸びゆく秋の庭に立ち、考える。
自分のなかに、今何らかの種や根が在るのか。それは植物と同じく、季節が過ぎ、何かが芽を出すまで、自分自身でさえ判りようもない。
ただ植物に感じるのは、土を押しのけ芽を出すだけの強さだ。人の気持ちの発生も、種がなんなのやらも、今わたしには判りようもないが、そこに生み出すだけの強さがなければ、生まれるものも生まれはしない。冬の凍った枯野に眠る、小さな種の小さな芽を、目をつぶり、静かな秋の庭で思い浮かべた。
ニラは、白くて清楚な花を咲かせます。イヌタデは、あちらこちらに。
ツユクサ。可愛いです。キノコも勝手に生えてきました。何キノコだろう?
秋の庭を見ながら考えた。
人のなかに様々な気持ちが生まれることも、不可思議だよなぁと。
何かを、やりたいと思う気持ち。何かを、創り出そうという気持ち。
何かに、傾ける情熱。そういうものは、いったい何処から生まれるのだろう。
植物は、時が来て芽を出し伸びて花が咲き、実を生らせ、また種を落とす。凍った冬には身を枯らせ、種でさえ生きているかも判らない。季節が過ぎ芽を出すまでは、そこに何かが在ることさえ判らないのだ。
雑草が春にも増して強く伸びゆく秋の庭に立ち、考える。
自分のなかに、今何らかの種や根が在るのか。それは植物と同じく、季節が過ぎ、何かが芽を出すまで、自分自身でさえ判りようもない。
ただ植物に感じるのは、土を押しのけ芽を出すだけの強さだ。人の気持ちの発生も、種がなんなのやらも、今わたしには判りようもないが、そこに生み出すだけの強さがなければ、生まれるものも生まれはしない。冬の凍った枯野に眠る、小さな種の小さな芽を、目をつぶり、静かな秋の庭で思い浮かべた。
ニラは、白くて清楚な花を咲かせます。イヌタデは、あちらこちらに。
ツユクサ。可愛いです。キノコも勝手に生えてきました。何キノコだろう?
イタリアンパセリを眺める日々
パセリの姿が見えなくなって、わたしが開いたのは『神様』(中公文庫)に収められた『離さない』川上弘美の短編小説だった。
庭のイタリアンパセリを食べるキアゲハの幼虫を、パセリと呼び、可愛がっていた。だが5日後、パセリは行方不明となった。
その5日間のわたしの様子が、『離さない』の主人公わたしと、同じマンションに住むエノモトさんのふたりと、重なったのだ。
画家兼高校教師で礼儀正しく美味しい珈琲を淹れるエノモトさんは、2か月前、海で人魚を拾い、浴槽に放していた。いにしえの昔から、人魚は人を惹きつけて離さないものだと言うエノモトさんは、人魚のいる浴室から離れられず仕事も休みがちだと言う。頼まれ、人魚を預かったわたしだったが。
「カーテンもろくにあけず、洗濯もめったにせず、ただ浴室の中にいつづけた。椅子や毛布や食事を持ち込んで、浴室で暮らした。外に出ているときの記憶があまりなかった。誰と喋っても面白くなくなかった。電話が鳴っても出なかった。ただ人魚だけを眺めて暮らした。これではいけないとときどき思ったが、すぐに思わなくなった」
わたしを惹きつけて離さなかったパセリ。キアゲハになって舞う姿を思いつつ、何度も庭に出て、イタリアンパセリを眺める日々である。
ただただ愛らしい、うつむくパセリ。
イタリアンパセリを、無心に食べるパセリ。
このくらいまで大きく育っていれば、
何処かでさなぎになっていても可笑しくないとも思いつつ。
庭のイタリアンパセリを食べるキアゲハの幼虫を、パセリと呼び、可愛がっていた。だが5日後、パセリは行方不明となった。
その5日間のわたしの様子が、『離さない』の主人公わたしと、同じマンションに住むエノモトさんのふたりと、重なったのだ。
画家兼高校教師で礼儀正しく美味しい珈琲を淹れるエノモトさんは、2か月前、海で人魚を拾い、浴槽に放していた。いにしえの昔から、人魚は人を惹きつけて離さないものだと言うエノモトさんは、人魚のいる浴室から離れられず仕事も休みがちだと言う。頼まれ、人魚を預かったわたしだったが。
「カーテンもろくにあけず、洗濯もめったにせず、ただ浴室の中にいつづけた。椅子や毛布や食事を持ち込んで、浴室で暮らした。外に出ているときの記憶があまりなかった。誰と喋っても面白くなくなかった。電話が鳴っても出なかった。ただ人魚だけを眺めて暮らした。これではいけないとときどき思ったが、すぐに思わなくなった」
わたしを惹きつけて離さなかったパセリ。キアゲハになって舞う姿を思いつつ、何度も庭に出て、イタリアンパセリを眺める日々である。
ただただ愛らしい、うつむくパセリ。
イタリアンパセリを、無心に食べるパセリ。
このくらいまで大きく育っていれば、
何処かでさなぎになっていても可笑しくないとも思いつつ。
決して判ることではないと知っておくこと
「痛みについて考える時、思い出す女性がいるんだ」
「もしかしたら、『ねじまき鳥クロニクル』の加納クレタ?」
「うん。ありとあらゆる痛みを背負って生まれた、クレタ」
「やっぱり。僕も骨折した時には、クレタのことを考えたよ」
「痛みというのは、個の存在のなかにあるもので、誰かと比べたりはできないとは思うんだけど、もしクレタのように身体じゅうのあらゆる場所がいつも酷く痛んでそれがいつまで続くか判らないとしたら、ものすごく辛いだろうね」
「全く同感だよ。それに最近考えるんだ。きみの痛みは、僕の想像を遥かに超えているんだろうなって」
「いや、きみは僕のことを判ってくれていると思うよ、左手くん」
「だといいんだけど。まあ同じ、手ではあるからね、右手くん」
frozen shoulder(五十肩)になった右手くんは、整骨院の治療が一段落し、リハビリとマッサージの時期を迎えた。だが、またも夢のなかでソフトボールをアンダースローで思いっきり投げてしまい、よせばいいのに現実世界でも同じ動きをして、真夜中、右手くんの悲鳴に飛び起きる羽目になった。それが丸1日痛み続け、ふたりの会話と相成った訳だ。
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)「第1部 泥棒かささぎ編」に登場する加納クレタは、その痛み故に二十歳で命を絶とうとした。しかし未遂に終わった自殺が、彼女の人生を変えることになった。再度自殺を試みようとした彼女は、違和感に思い留まる。長いこと考えて彼女が気づいたのは「痛みがなくなっている」ことだった。
人の痛みというものは、簡単に想像し判ったつもりになったりできるものではない。それは、身体の痛みも、心の痛みも同様だ。人の痛みを想像することは、とても大切なことだと思う。だが、同じ傷でも、人によって痛みは違う。決して判るものではないと知っておくことも、また大切なことだと思うのだ。
半透明のカバーが付いている、美しく分厚い3部作です。
「私はいろんな人たちに、痛みについて尋ねてみました。でも誰も真の痛みがどういうものなのかなんてわかってはいませんでした」
クレタは中学の時に、他の人間には痛みがないことを初めて知り、
生きることの不公平さ、不公正さに衝撃を受けました。
☆Frozen shoulder徒然、カテゴリーに追加しました☆
「もしかしたら、『ねじまき鳥クロニクル』の加納クレタ?」
「うん。ありとあらゆる痛みを背負って生まれた、クレタ」
「やっぱり。僕も骨折した時には、クレタのことを考えたよ」
「痛みというのは、個の存在のなかにあるもので、誰かと比べたりはできないとは思うんだけど、もしクレタのように身体じゅうのあらゆる場所がいつも酷く痛んでそれがいつまで続くか判らないとしたら、ものすごく辛いだろうね」
「全く同感だよ。それに最近考えるんだ。きみの痛みは、僕の想像を遥かに超えているんだろうなって」
「いや、きみは僕のことを判ってくれていると思うよ、左手くん」
「だといいんだけど。まあ同じ、手ではあるからね、右手くん」
frozen shoulder(五十肩)になった右手くんは、整骨院の治療が一段落し、リハビリとマッサージの時期を迎えた。だが、またも夢のなかでソフトボールをアンダースローで思いっきり投げてしまい、よせばいいのに現実世界でも同じ動きをして、真夜中、右手くんの悲鳴に飛び起きる羽目になった。それが丸1日痛み続け、ふたりの会話と相成った訳だ。
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)「第1部 泥棒かささぎ編」に登場する加納クレタは、その痛み故に二十歳で命を絶とうとした。しかし未遂に終わった自殺が、彼女の人生を変えることになった。再度自殺を試みようとした彼女は、違和感に思い留まる。長いこと考えて彼女が気づいたのは「痛みがなくなっている」ことだった。
人の痛みというものは、簡単に想像し判ったつもりになったりできるものではない。それは、身体の痛みも、心の痛みも同様だ。人の痛みを想像することは、とても大切なことだと思う。だが、同じ傷でも、人によって痛みは違う。決して判るものではないと知っておくことも、また大切なことだと思うのだ。
半透明のカバーが付いている、美しく分厚い3部作です。
「私はいろんな人たちに、痛みについて尋ねてみました。でも誰も真の痛みがどういうものなのかなんてわかってはいませんでした」
クレタは中学の時に、他の人間には痛みがないことを初めて知り、
生きることの不公平さ、不公正さに衝撃を受けました。
☆Frozen shoulder徒然、カテゴリーに追加しました☆
ちょっと早めの衣替え
ソファーカバーとクッションカバーを秋仕様に変えた。それだけで、うーん、リフレッシュ。
ちょっと早いんじゃないかって? 確かに早い。まだ夏日が続いている。それにわたしの性格的に言うと、ちょっとではなく、かなり早い。というのも、在るがままを受け入れてしまいがちなわたしは、夏が終わってもそこに扇風機が在ることさえ、在るがまま受け入れてしまうのだ。つまりは、そこにあることが自然になりすぎて、空気の如く見えなくなってしまっている。
なので、季節の移り変わりによる衣替えなども、夫に指摘され「あ、そう言えば扇風機、もう使わないねぇ」と気づく。それからようやく重い腰を上げるというのが常だ。だから、今回のソファー周りの衣替えは、画期的に早く行われたと言っても過言ではない。
当然、何かしら理由がない限り、こういうことは起こらない。理由はしっかりあった。夏仕様だったクッションの上でムカデを発見した。今年はムカデが少ない夏で家で見たのは初めてだ。夫が退治したが、クッションカバーは洗おうということになる。どうせ外すんなら、もう秋仕様にしてもいいだろう。こんな流れで、我が家のソファー周りはすっかり秋である。
「ちょっと早い衣替えも、なかなかいいかも」
などと思いつつ、冬じゅうこのままだったりするんだよな。
そして、春を過ぎ夏になった頃には、すでに在るがままを受け入れ、そのまま1年が過ぎたりするのだ。
オレンジ系のなかにピンクや緑のラインが入っている、ソファーカバー。
そのラインがキーです。お蔭で、どのクッションとも相性が良くなります。
カラフルなクッションは、部屋を明るくしてくれますね。
ちょっと早いんじゃないかって? 確かに早い。まだ夏日が続いている。それにわたしの性格的に言うと、ちょっとではなく、かなり早い。というのも、在るがままを受け入れてしまいがちなわたしは、夏が終わってもそこに扇風機が在ることさえ、在るがまま受け入れてしまうのだ。つまりは、そこにあることが自然になりすぎて、空気の如く見えなくなってしまっている。
なので、季節の移り変わりによる衣替えなども、夫に指摘され「あ、そう言えば扇風機、もう使わないねぇ」と気づく。それからようやく重い腰を上げるというのが常だ。だから、今回のソファー周りの衣替えは、画期的に早く行われたと言っても過言ではない。
当然、何かしら理由がない限り、こういうことは起こらない。理由はしっかりあった。夏仕様だったクッションの上でムカデを発見した。今年はムカデが少ない夏で家で見たのは初めてだ。夫が退治したが、クッションカバーは洗おうということになる。どうせ外すんなら、もう秋仕様にしてもいいだろう。こんな流れで、我が家のソファー周りはすっかり秋である。
「ちょっと早い衣替えも、なかなかいいかも」
などと思いつつ、冬じゅうこのままだったりするんだよな。
そして、春を過ぎ夏になった頃には、すでに在るがままを受け入れ、そのまま1年が過ぎたりするのだ。
オレンジ系のなかにピンクや緑のラインが入っている、ソファーカバー。
そのラインがキーです。お蔭で、どのクッションとも相性が良くなります。
カラフルなクッションは、部屋を明るくしてくれますね。
真吾ちゃんとのご縁
購入した納豆鉢は、やはり真吾ちゃんの作品だった。
決して彼のものを選んでいる訳ではない。値段が手ごろだということもあるが、迷いに迷って決めた結果が、やはり彼の焼いた器だったということの方が多いくらいだ。
陶芸作家の名前がかかれていなくとも、彼の作品かどうか判るくらいには、いくつもの展覧会や個展などを見てきている。簡単に言うとファンなのだ。ファンであるから、勝手気ままに「真吾ちゃん」などと呼ばせてもらっている。
だが今回もいくつもの鉢のなかから選んだものは、珈琲カップの奥にひっそりとたたずんでいた器だった。レジで確認する。
「森下真吾さんの作品ですか?」「はい」
真吾ちゃんは、もう忘れているだろうが、彼は一度我が家を訪れている。
とあるグループ展で展示されていた彼のお湯呑みを買ったのだが、展示物を持ち帰るのは忍びなく、最終日にふたたび会場に受け取りに行った。しかし手違いでお湯呑みは他の客に売却されており、がっかりして帰ったのだ。すると電話が鳴り、若者が訪れた。
「申し訳ありませんでした」真吾ちゃんである。
「ひとつひとつ味わいが違うので、同じものという訳にはいきませんが」
本人自らいくつものお湯呑みを持って訪ねてくれたのだ。10年前のことだ。
作風が変わっていくのも楽しみに見守り、様々な場所で見かけて、時には買い求め、使いつつ楽しませてもらっている。
そして、今回も。
縁があるのだ。一ファンの身だが、そう思わずにいられない。
「袖すりあうも多生の縁」とは、ちょっとした縁も、前世での因縁によるものだとの意味だそうだ。真吾ちゃんと、前世でどんな出会いをしたのだろうか。
黒織部に勝利した、納豆鉢。ブルーが効いています。
お湯呑。両側のふたつが、真吾ちゃんに届けてもらったもの。
左側は、甲斐市でやっていた個展で。右側は、珈琲屋『autumn』で、
わたしの誕生日に夫に買ってもらったものです。
夫の茶碗と大きめの鉢。小さいのは夫が『夢宇谷』で見つけたぐい飲み。
決して彼のものを選んでいる訳ではない。値段が手ごろだということもあるが、迷いに迷って決めた結果が、やはり彼の焼いた器だったということの方が多いくらいだ。
陶芸作家の名前がかかれていなくとも、彼の作品かどうか判るくらいには、いくつもの展覧会や個展などを見てきている。簡単に言うとファンなのだ。ファンであるから、勝手気ままに「真吾ちゃん」などと呼ばせてもらっている。
だが今回もいくつもの鉢のなかから選んだものは、珈琲カップの奥にひっそりとたたずんでいた器だった。レジで確認する。
「森下真吾さんの作品ですか?」「はい」
真吾ちゃんは、もう忘れているだろうが、彼は一度我が家を訪れている。
とあるグループ展で展示されていた彼のお湯呑みを買ったのだが、展示物を持ち帰るのは忍びなく、最終日にふたたび会場に受け取りに行った。しかし手違いでお湯呑みは他の客に売却されており、がっかりして帰ったのだ。すると電話が鳴り、若者が訪れた。
「申し訳ありませんでした」真吾ちゃんである。
「ひとつひとつ味わいが違うので、同じものという訳にはいきませんが」
本人自らいくつものお湯呑みを持って訪ねてくれたのだ。10年前のことだ。
作風が変わっていくのも楽しみに見守り、様々な場所で見かけて、時には買い求め、使いつつ楽しませてもらっている。
そして、今回も。
縁があるのだ。一ファンの身だが、そう思わずにいられない。
「袖すりあうも多生の縁」とは、ちょっとした縁も、前世での因縁によるものだとの意味だそうだ。真吾ちゃんと、前世でどんな出会いをしたのだろうか。
黒織部に勝利した、納豆鉢。ブルーが効いています。
お湯呑。両側のふたつが、真吾ちゃんに届けてもらったもの。
左側は、甲斐市でやっていた個展で。右側は、珈琲屋『autumn』で、
わたしの誕生日に夫に買ってもらったものです。
夫の茶碗と大きめの鉢。小さいのは夫が『夢宇谷』で見つけたぐい飲み。
納豆の器を探しに
しんとした心持ちを、強く求めていることに気づく時がある。
それは、何かが上手くいかなくて落ち込んだ時でもなく、体調を崩した時でもなく、バイオリズムの波が加速しつつ落下している時でもない。負の感情ではないのだ。わたしのなかで強く求めている、真っ直ぐに前を向いた感情だ。そんな時、何処でもいいから器を見に行く。小さな店でもいい。だが、たくさんの陶器と向き合うと、よりしんとした心持ちになる。
その「しんとした心持ち」を求め、ひとり『夢宇谷』(むうだに)に行った。
同じ北杜市内の大泉町にある、陶器屋だ。雑貨屋と言ってもいい。ガラスはもちろん、染め物や絨毯、蝋燭、お香、アジアン風のワンピースやお面などもある。店内は広く多くのものが置いてあるにもかかわらず、整然としている。その空間には、埃など存在しないかのように全く持って整然としているのだ。
敷地内に入るだけで、「しん」は、やって来る。時間の流れが変わり、胸のなかの瓶に張った水は波紋を鎮める。「無の境地」とまではいかないが、無心になれる気がしてくる。
無心になるためのコツは、心得ている。目当てを定めておくことだ。
「納豆を混ぜるための器を、ひとつ」
昨年割ってしまった器の後釜を探す気持ちになれず、ずっと在り合わせを使っていたのだが、朝食の納豆率が上がるにつれ、そろそろ、と考えていた。
珈琲用のマグやお湯呑みには、つい目が行ってしまうが、納豆、納豆とゆっくりと店内を歩く。3週し、ふたつの候補が上がった。黒織部と、青が効いているベージュの器だ。黒織部にはとても魅かれたが、長く使うには少し模様が欲しかった。青の器を手にして、もう1周店内を歩いた。
いつしか「しんとした心持ち」を強く求める気持ちは満たされ、『夢宇谷』の瓶のように胸のなかには晴れた青空が映っていた。
入口までの外通路には、たくさんの瓶に水がたっぷりありました。
鬼瓦の周りには小さな鉢植えが。苔玉などもありました。
エントランスから見える、外廊下の風景。木漏れ陽が綺麗。
外廊下を抜けて、ようやく入口に近づきました。
1階のアートコーナー。素敵な屏風がたくさんあったけど、手が出ない。
1階はひんやりした涼しい雰囲気ですが、2階には陽がさしています。
帰りに外廊下から見下ろした、エントランスの風景です。
写真では伝わらない店の広さ。器、雑貨の豊富さ。ぜひ足を運んでください。
それは、何かが上手くいかなくて落ち込んだ時でもなく、体調を崩した時でもなく、バイオリズムの波が加速しつつ落下している時でもない。負の感情ではないのだ。わたしのなかで強く求めている、真っ直ぐに前を向いた感情だ。そんな時、何処でもいいから器を見に行く。小さな店でもいい。だが、たくさんの陶器と向き合うと、よりしんとした心持ちになる。
その「しんとした心持ち」を求め、ひとり『夢宇谷』(むうだに)に行った。
同じ北杜市内の大泉町にある、陶器屋だ。雑貨屋と言ってもいい。ガラスはもちろん、染め物や絨毯、蝋燭、お香、アジアン風のワンピースやお面などもある。店内は広く多くのものが置いてあるにもかかわらず、整然としている。その空間には、埃など存在しないかのように全く持って整然としているのだ。
敷地内に入るだけで、「しん」は、やって来る。時間の流れが変わり、胸のなかの瓶に張った水は波紋を鎮める。「無の境地」とまではいかないが、無心になれる気がしてくる。
無心になるためのコツは、心得ている。目当てを定めておくことだ。
「納豆を混ぜるための器を、ひとつ」
昨年割ってしまった器の後釜を探す気持ちになれず、ずっと在り合わせを使っていたのだが、朝食の納豆率が上がるにつれ、そろそろ、と考えていた。
珈琲用のマグやお湯呑みには、つい目が行ってしまうが、納豆、納豆とゆっくりと店内を歩く。3週し、ふたつの候補が上がった。黒織部と、青が効いているベージュの器だ。黒織部にはとても魅かれたが、長く使うには少し模様が欲しかった。青の器を手にして、もう1周店内を歩いた。
いつしか「しんとした心持ち」を強く求める気持ちは満たされ、『夢宇谷』の瓶のように胸のなかには晴れた青空が映っていた。
入口までの外通路には、たくさんの瓶に水がたっぷりありました。
鬼瓦の周りには小さな鉢植えが。苔玉などもありました。
エントランスから見える、外廊下の風景。木漏れ陽が綺麗。
外廊下を抜けて、ようやく入口に近づきました。
1階のアートコーナー。素敵な屏風がたくさんあったけど、手が出ない。
1階はひんやりした涼しい雰囲気ですが、2階には陽がさしています。
帰りに外廊下から見下ろした、エントランスの風景です。
写真では伝わらない店の広さ。器、雑貨の豊富さ。ぜひ足を運んでください。
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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(☆を@に変えてください)
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