はりねずみが眠るとき
昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
リースリングと白い鍋
夫は、雑誌『dancyu(だんちゅう)』を愛読している。
東京からの帰り道々、あずさのなかで読むようだ。食を楽しむための雑誌で、諺「男子厨房に入るべからず」を逆手にとった「男の厨房」的な雰囲気。美味しい店や、珍しい食材、酒などの特集を組み、レシピもいくつか載っている。
そのなかに、リースリングというドイツで好んで飲まれている白ワインの特集があり、リースリングと鍋をマッチングさせたレシピが載っていた。
「これ、美味そうじゃない?」
夫が、目をつけたのは、白い鍋だった。骨付き鶏もも肉や、里芋、蓮根などを煮て、味噌と豆乳で味つけしたものだ。
「いいね。やってみようか」
リースリングなら、冷蔵庫に冷えている。しかし、そう言いつつも、白い鍋が実現するまで、しばらく経ってしまった。そして、先週末、ようやく白い鍋が食卓に上ることとなった。
「わ、美味そうにできた」と、わたし。
夫が、冷蔵庫から、よく冷えたリースリングを出してくる。
そこで彼は「あっ」と、声を上げた。リースリングの瓶には、グラス1杯分も残っていなかったのだ。
「・・・リースリングで、白い鍋、だったのにね」と、わたし。
夫は、リースリングの最後のひと口を味わいつつ、違う白ワインを開けた。
白い鍋は、鶏肉の出汁が存分に効いていて、コクがあり、確かに白ワインにぴったりだった。
「新しい鍋のレシピを、手に入れたね」
苦笑しながら、ふたり熱々の白い鍋をつつきつつ、次はリースリングで、と誓ったのだったが、所詮、家呑みだ。何かが足りないくらいが、丁度いいのかも。例えそれが、主役であっても。
コツは、塩を振ってしばらく置いた骨付きもも肉を、水から炊くこと。
人参を入れて、真っ白ではありませんでしたが、美味しかった。
リースリング特集のページです。鍋はイメージ通りにできたんだけどなぁ。
東京からの帰り道々、あずさのなかで読むようだ。食を楽しむための雑誌で、諺「男子厨房に入るべからず」を逆手にとった「男の厨房」的な雰囲気。美味しい店や、珍しい食材、酒などの特集を組み、レシピもいくつか載っている。
そのなかに、リースリングというドイツで好んで飲まれている白ワインの特集があり、リースリングと鍋をマッチングさせたレシピが載っていた。
「これ、美味そうじゃない?」
夫が、目をつけたのは、白い鍋だった。骨付き鶏もも肉や、里芋、蓮根などを煮て、味噌と豆乳で味つけしたものだ。
「いいね。やってみようか」
リースリングなら、冷蔵庫に冷えている。しかし、そう言いつつも、白い鍋が実現するまで、しばらく経ってしまった。そして、先週末、ようやく白い鍋が食卓に上ることとなった。
「わ、美味そうにできた」と、わたし。
夫が、冷蔵庫から、よく冷えたリースリングを出してくる。
そこで彼は「あっ」と、声を上げた。リースリングの瓶には、グラス1杯分も残っていなかったのだ。
「・・・リースリングで、白い鍋、だったのにね」と、わたし。
夫は、リースリングの最後のひと口を味わいつつ、違う白ワインを開けた。
白い鍋は、鶏肉の出汁が存分に効いていて、コクがあり、確かに白ワインにぴったりだった。
「新しい鍋のレシピを、手に入れたね」
苦笑しながら、ふたり熱々の白い鍋をつつきつつ、次はリースリングで、と誓ったのだったが、所詮、家呑みだ。何かが足りないくらいが、丁度いいのかも。例えそれが、主役であっても。
コツは、塩を振ってしばらく置いた骨付きもも肉を、水から炊くこと。
人参を入れて、真っ白ではありませんでしたが、美味しかった。
リースリング特集のページです。鍋はイメージ通りにできたんだけどなぁ。
ほかほかの届け物
日曜の午後、遅めの昼食に、うどんでも茹でようかと、鶏肉を解凍していると、チャイムが鳴った。玄関に出ると、同じ町内に住む友人が立っていた。
「ベーグル、焼いてみたんだけど」と、彼女。
受け取ると、まだほかほか温かいベーグルが3つ、袋のなかに入っていた。
「わ、美味しそう! すごい! ありがとう!」
大喜びで、いただいた。
リビングに戻り、炬燵で読書をしていた夫に、自分が焼いた訳でもないのに、自慢する。
「ほら、美味しそうだよ」
「あ、あったかい!」夫は、感嘆の声を上げ、迷わずちぎって口に放り込む。
「美味い!」わたしも、ちぎって食べてみる「美味しい!」
すでに、うどんを茹でる雰囲気は、消えてなくなっている。あったかいうちに届けてくれたんだから、あったかいうちに食べなくちゃ。こういうことができる彼女は、なんて素敵なんだろうとほっこりする。ほかほかの焼き立てを届けてくれた気持ちが、嬉しかった。そして、ふたり顔を見合わせた。
「赤ワイン、だな」と、夫。「ワイン、いっちゃおうか」と、わたし。
日曜の午後である。もう、日々車で送り迎えをしていた娘も、都会へ出て行った。車に乗らなくては何処にも行けない田舎だが、何処にも行けないのなら行かなければいい。
美味しい食べ物があると、ワインも進む。ほかほかもちもちベーグルに、夫のお手製のレバーペーストを塗って「陽が長くなったねぇ」などと、窓の外を見ながら、のんびりとワインを空けた。
まあるいなかに小さな穴。弾力があるのに、やわらかかった。
写真を撮る前に、夫はひとつ目を食べ始めていました。
前日に、夫が作ったレバーペーストを塗って、赤ワインをあけて。
アップにしてみました。ベーグルのもちもち感が伝わるかな~。
「ベーグル、焼いてみたんだけど」と、彼女。
受け取ると、まだほかほか温かいベーグルが3つ、袋のなかに入っていた。
「わ、美味しそう! すごい! ありがとう!」
大喜びで、いただいた。
リビングに戻り、炬燵で読書をしていた夫に、自分が焼いた訳でもないのに、自慢する。
「ほら、美味しそうだよ」
「あ、あったかい!」夫は、感嘆の声を上げ、迷わずちぎって口に放り込む。
「美味い!」わたしも、ちぎって食べてみる「美味しい!」
すでに、うどんを茹でる雰囲気は、消えてなくなっている。あったかいうちに届けてくれたんだから、あったかいうちに食べなくちゃ。こういうことができる彼女は、なんて素敵なんだろうとほっこりする。ほかほかの焼き立てを届けてくれた気持ちが、嬉しかった。そして、ふたり顔を見合わせた。
「赤ワイン、だな」と、夫。「ワイン、いっちゃおうか」と、わたし。
日曜の午後である。もう、日々車で送り迎えをしていた娘も、都会へ出て行った。車に乗らなくては何処にも行けない田舎だが、何処にも行けないのなら行かなければいい。
美味しい食べ物があると、ワインも進む。ほかほかもちもちベーグルに、夫のお手製のレバーペーストを塗って「陽が長くなったねぇ」などと、窓の外を見ながら、のんびりとワインを空けた。
まあるいなかに小さな穴。弾力があるのに、やわらかかった。
写真を撮る前に、夫はひとつ目を食べ始めていました。
前日に、夫が作ったレバーペーストを塗って、赤ワインをあけて。
アップにしてみました。ベーグルのもちもち感が伝わるかな~。
夢のなかで羽ばたいていたフクロウ
夢を、見た。野鳥達のため、庭に撒いている向日葵の種が、グレーのゼリービーンズになっている夢だった。
「向日葵の種、買って来てって、言ったのに」と、夢のなかで夫。
「おかしいなぁ。買った時には、確かに向日葵の種だったのに」と、わたし。
それでも、そのゼリービーンズを、ウッドデッキや庭に撒いた。すると、ほどなくしてウッドデッキに鳥が、飛んで来た。大きい。顔だけでもう、シジュウカラの10倍くらいはある。フクロウだった。その横には、リスがちょろちょろと動き回っている。リスと違う様子をした動物は、ヤマネだろうか。夫が持つ袋に、顔を突っ込もうとするかのように、ゼリービーンズをねだっている。
和やかな雰囲気のようだが、実際には違う。家のなかまで入ってくるのではないかと、気が気ではなく、恐怖と焦りを感じたシーンだったのだ。
「ごめん。確かに、向日葵の種のはずだったのに」
わたしは、ただただ、夫に謝っていた。
夢に疲れて目が覚めて、リビングに降りる。あのフクロウ、やけにリアルで、はっきりとした顔つきだったなぁと思い出しつつ、白湯を飲み、カーテンを開けた。その瞬間、夢に登場したフクロウの顔が、そこにはあった。
「ああ、この顔だ!」夢のなかのフクロウは、窓に貼ったバードセイバーに、そっくりだったのだ。バードセイバーとは、野鳥が窓にぶつかる事故を防ぐために窓に貼るシールで、その顔は、もう何年も毎日見ているものだった。
「夢って、こうやって小間切れの記憶から、作られているのかなぁ」
知る由もないことを考えながら、思う。夢のなかでばたばたと羽根を動かしていたフクロウ。そして、動くことのないバードセイバーのフクロウ。もしかして、きみも、羽ばたきたかったの? と、窓を見上げた。
10年くらい前に、北側の窓に貼った、バードセイバーです。
庭では、ヒヨドリが、水場でうがいしていました。
ヒヨドリが、こんなに可愛なんて、新しい発見でした。
「向日葵の種、買って来てって、言ったのに」と、夢のなかで夫。
「おかしいなぁ。買った時には、確かに向日葵の種だったのに」と、わたし。
それでも、そのゼリービーンズを、ウッドデッキや庭に撒いた。すると、ほどなくしてウッドデッキに鳥が、飛んで来た。大きい。顔だけでもう、シジュウカラの10倍くらいはある。フクロウだった。その横には、リスがちょろちょろと動き回っている。リスと違う様子をした動物は、ヤマネだろうか。夫が持つ袋に、顔を突っ込もうとするかのように、ゼリービーンズをねだっている。
和やかな雰囲気のようだが、実際には違う。家のなかまで入ってくるのではないかと、気が気ではなく、恐怖と焦りを感じたシーンだったのだ。
「ごめん。確かに、向日葵の種のはずだったのに」
わたしは、ただただ、夫に謝っていた。
夢に疲れて目が覚めて、リビングに降りる。あのフクロウ、やけにリアルで、はっきりとした顔つきだったなぁと思い出しつつ、白湯を飲み、カーテンを開けた。その瞬間、夢に登場したフクロウの顔が、そこにはあった。
「ああ、この顔だ!」夢のなかのフクロウは、窓に貼ったバードセイバーに、そっくりだったのだ。バードセイバーとは、野鳥が窓にぶつかる事故を防ぐために窓に貼るシールで、その顔は、もう何年も毎日見ているものだった。
「夢って、こうやって小間切れの記憶から、作られているのかなぁ」
知る由もないことを考えながら、思う。夢のなかでばたばたと羽根を動かしていたフクロウ。そして、動くことのないバードセイバーのフクロウ。もしかして、きみも、羽ばたきたかったの? と、窓を見上げた。
10年くらい前に、北側の窓に貼った、バードセイバーです。
庭では、ヒヨドリが、水場でうがいしていました。
ヒヨドリが、こんなに可愛なんて、新しい発見でした。
『旅屋おかえり』
原田マハの小説『旅屋おかえり』(集英社文庫)を、読んだ。
「おかえり」というのは、主人公、丘えりかの愛称だ。旅とご当地グルメの番組「ちょびっ旅」を1本だけ持つ、鳴かず飛ばずのタレントで、32歳にもなって「おかえり、超、気になる!」なんて若い子ぶってもなぁと、自分でも思い始めていた。そこへ来て、まさかの番組打ち切り。旅に出なくなり、彼女は、タレント業よりも、自分は旅が好きなのだと気づく。そこへ依頼が来た。病気の娘の代わりに、旅をして来て欲しいと。
旅って、自分でしてナンボのものなんじゃないの?おかえりは、疑問を胸に抱えつつ、旅に出た。そして、旅屋を始めることになった。以下、本文から。
和紙を作ること、それは、真理子さんにとっては「心の旅」だったに違いない。和紙に向き合うことで、自分の心のなかへ、深く、ゆっくりと旅してきたのだ。愛する人たちに、思い出たちに手を振って、どうにか帰ってきたのだ。ひとりで生きていかなければならない現実へと。
紙の繊維はね、こうして、叩かれて叩かれて、強く、美しくなるんだよ。
作業をしながら、ヤンさんが教えてくれた。すると真理子さんが、微笑みながら言い添えた。まるで人間みたいね。
すんなりとすなおなその言葉が、やけに胸に響いた。
「おかえり」って、あったかい言葉だよなぁとあらためて考えた。そして、そう感じるのは、これまで自分が使ってきたシーンの記憶にあるんだろうなぁ、と。「おかえり」と迎えてもらうより「おかえり」と迎える方が、たぶん遥かに多かった。末娘は、小学生の頃「ただいマンモス―!」と元気に帰って来たものだったと、ふと思い出した。
帯に「感動の物語」とあるだけで引いてしまう、へそ曲がりなわたし。
それでも魅かれたのは「旅」という言葉の魔法かな。
「おかえり」というのは、主人公、丘えりかの愛称だ。旅とご当地グルメの番組「ちょびっ旅」を1本だけ持つ、鳴かず飛ばずのタレントで、32歳にもなって「おかえり、超、気になる!」なんて若い子ぶってもなぁと、自分でも思い始めていた。そこへ来て、まさかの番組打ち切り。旅に出なくなり、彼女は、タレント業よりも、自分は旅が好きなのだと気づく。そこへ依頼が来た。病気の娘の代わりに、旅をして来て欲しいと。
旅って、自分でしてナンボのものなんじゃないの?おかえりは、疑問を胸に抱えつつ、旅に出た。そして、旅屋を始めることになった。以下、本文から。
和紙を作ること、それは、真理子さんにとっては「心の旅」だったに違いない。和紙に向き合うことで、自分の心のなかへ、深く、ゆっくりと旅してきたのだ。愛する人たちに、思い出たちに手を振って、どうにか帰ってきたのだ。ひとりで生きていかなければならない現実へと。
紙の繊維はね、こうして、叩かれて叩かれて、強く、美しくなるんだよ。
作業をしながら、ヤンさんが教えてくれた。すると真理子さんが、微笑みながら言い添えた。まるで人間みたいね。
すんなりとすなおなその言葉が、やけに胸に響いた。
「おかえり」って、あったかい言葉だよなぁとあらためて考えた。そして、そう感じるのは、これまで自分が使ってきたシーンの記憶にあるんだろうなぁ、と。「おかえり」と迎えてもらうより「おかえり」と迎える方が、たぶん遥かに多かった。末娘は、小学生の頃「ただいマンモス―!」と元気に帰って来たものだったと、ふと思い出した。
帯に「感動の物語」とあるだけで引いてしまう、へそ曲がりなわたし。
それでも魅かれたのは「旅」という言葉の魔法かな。
幸せって、何だっけ?
朝目覚めると、頭のなかにメロディが流れていた。運転中によく聴くクラプトンやビートルズではない。さんまである。
♪ 幸せって、何だっけ、何だっけ ♪
それも、醤油のCMソング。もと歌は、美味い醤油があることが幸せだとは歌っていないのだが、インパクトのあるCMだったなぁと思い出す。
「幸せって、何だっけ?」
その言葉を頭の隅に放置しながら、仕事をこなし、隣りの隣り町、高根町まで行かなくてはならず、車を走らせる。
所用が済んで、空を見上げると、コッペパンみたいな雲が浮かんでいた。歌詞にもある。
♪ 幸せって、何だっけ、何だっけ 空に浮かんだ白い雲 ♪
「このまま、走って、遠くまで行こうかな」
遠くって何処よ。それは、おなじ高根町内の清里辺りだと漠然と考える。そして、いつのまにか『萌木の村』を目指して走っていた。
そこには、好きな店がある。『萌木釜』という陶器や雑貨などを置いた店だ。そこで、小一時間、ゆっくりと過ごした。そして、見つけた。一目惚れというしかないスープ皿。5客あったが、二つだけ購入した。我が家は今や、ふたり家族なのだ。
器を選ぶときには、当然、料理を盛りつける様を想像する。熱いスープ。シチューやミネストローネ、シンプルなコンソメの野菜スープ。それに、エクストラバージンオイルをたらす。いや、大根の煮物を盛りつけてもいい。アボカドのサラダさえも、似合うだろう。
幸せって、やっぱり温かい料理のある食卓ですよね、とスープ皿が言っていた。無論、美味い醤油があることも、必須ではあるけれど。
『萌木の村』トレードマークの木製トナカイ達が、入口でお出迎え。
栗のイガ製の帽子をのせた、シンプルお洒落な雪だるまくんもいました。
一目惚れしたスープ皿。焼き物の温もりを感じます。
布や糸などを扱う手作り回帰の入口になりそうな雑貨屋さんで思わず購入。
写真だと大きく見えますが、5㎝くんと2㎝さん。2つで400円也。
♪ 幸せって、何だっけ、何だっけ ♪
それも、醤油のCMソング。もと歌は、美味い醤油があることが幸せだとは歌っていないのだが、インパクトのあるCMだったなぁと思い出す。
「幸せって、何だっけ?」
その言葉を頭の隅に放置しながら、仕事をこなし、隣りの隣り町、高根町まで行かなくてはならず、車を走らせる。
所用が済んで、空を見上げると、コッペパンみたいな雲が浮かんでいた。歌詞にもある。
♪ 幸せって、何だっけ、何だっけ 空に浮かんだ白い雲 ♪
「このまま、走って、遠くまで行こうかな」
遠くって何処よ。それは、おなじ高根町内の清里辺りだと漠然と考える。そして、いつのまにか『萌木の村』を目指して走っていた。
そこには、好きな店がある。『萌木釜』という陶器や雑貨などを置いた店だ。そこで、小一時間、ゆっくりと過ごした。そして、見つけた。一目惚れというしかないスープ皿。5客あったが、二つだけ購入した。我が家は今や、ふたり家族なのだ。
器を選ぶときには、当然、料理を盛りつける様を想像する。熱いスープ。シチューやミネストローネ、シンプルなコンソメの野菜スープ。それに、エクストラバージンオイルをたらす。いや、大根の煮物を盛りつけてもいい。アボカドのサラダさえも、似合うだろう。
幸せって、やっぱり温かい料理のある食卓ですよね、とスープ皿が言っていた。無論、美味い醤油があることも、必須ではあるけれど。
『萌木の村』トレードマークの木製トナカイ達が、入口でお出迎え。
栗のイガ製の帽子をのせた、シンプルお洒落な雪だるまくんもいました。
一目惚れしたスープ皿。焼き物の温もりを感じます。
布や糸などを扱う手作り回帰の入口になりそうな雑貨屋さんで思わず購入。
写真だと大きく見えますが、5㎝くんと2㎝さん。2つで400円也。
2月の庭で
冷たい風がやんだので、久しぶりに庭仕事をした。クリスマスローズが、どうなっているか心配でもあったのだ。
しかし心配をよそに、クリスマスローズは花芽をつけていた。庭に植えた昨年は、ひとつだったのに、今年は3つ。嬉しい。植物って、すごいなぁと思わずにはいられない瞬間である。
日本で広まったクリスマスローズは、イギリスでクリスマスの頃に咲くものとは、品種が違うらしく、クリスマスの名を持ちながら、2月や3月に咲く。
日本でつけられた名は「ゆきおこし」といい、雪の季節に、その雪を持ち上げて咲くからと、名づけられたそうだ。
春が来る前、まだ冷たい北風のなか咲く花達は「咲きたい」という強い思いを持っている。春がくるから咲くのではなく、花達が咲こうと雪を持ち上げるから春が来るのだ。
「今年もがんばって、春を連れてきてね」
クリスマスローズの花芽に、陽が当たるよう、丁寧に枯れ葉を取り除いた。
クリスマスローズの花芽。うれしいな~。早く咲かないかなぁ。
初雪かずらも、ピンクが鮮やかになってきました。
イタリアンパセリも、芽を出しています。
雪柳の蕾も、だんだんと大きく膨らんできました。
しかし心配をよそに、クリスマスローズは花芽をつけていた。庭に植えた昨年は、ひとつだったのに、今年は3つ。嬉しい。植物って、すごいなぁと思わずにはいられない瞬間である。
日本で広まったクリスマスローズは、イギリスでクリスマスの頃に咲くものとは、品種が違うらしく、クリスマスの名を持ちながら、2月や3月に咲く。
日本でつけられた名は「ゆきおこし」といい、雪の季節に、その雪を持ち上げて咲くからと、名づけられたそうだ。
春が来る前、まだ冷たい北風のなか咲く花達は「咲きたい」という強い思いを持っている。春がくるから咲くのではなく、花達が咲こうと雪を持ち上げるから春が来るのだ。
「今年もがんばって、春を連れてきてね」
クリスマスローズの花芽に、陽が当たるよう、丁寧に枯れ葉を取り除いた。
クリスマスローズの花芽。うれしいな~。早く咲かないかなぁ。
初雪かずらも、ピンクが鮮やかになってきました。
イタリアンパセリも、芽を出しています。
雪柳の蕾も、だんだんと大きく膨らんできました。
マイブームは出汁巻き卵
最近のマイブームは、出汁巻き卵だ。
何年か前に、友人のお母さまに教えていただいたのだが、しばらく作らないでいたら、すっかり忘れてしまった。申し訳ないことである。
それが先日、買い物をせずに、夕飯をあるもので済ませようと、出汁巻き卵を焼くことにした。教えていただいたレシピはすっかり忘れていたので、初心に返る意味も含め、ネットレシピを検索した。砂糖が入っている甘めのものは夫もわたしも好まないので、関西風のスタンダードなものを選ぶ。
ご教授いただいたレシピには、帆立の缶詰が入っていたのは覚えていたが、まずは普通のものを焼こうと、アレンジせずに焼いてみた。
「これだよ! これ!」夫は、大げさに喜んでくれた。
神戸出身の彼には、関東風の甘い卵焼きは許せないらしく、出汁の味たっぷりの新しく検索したレシピが、お気に召したようだった。確かに、出汁がかなり多めで、しっとりふんわり焼き上がった。
それから、ひとりランチにも焼くようになった。ふんわり焼き上がるのが、快感になり、やめられないとまらない、のだ。
初心に返るとは、基本に戻ってみること。そして次は、ホップ、ステップし、帆立缶入りに挑戦してみよう。アレンジは、基本が出来てから楽しむべきものなのだと、プレーンな出汁巻き卵が、教えてくれた。
卵3個分です。お弁当に入れるには、出汁たっぷりで水分多いかも。
レシピメモ
*出汁100CC・酒大さじ1・味醂大さじ1・塩、醤油少々*
何年か前に、友人のお母さまに教えていただいたのだが、しばらく作らないでいたら、すっかり忘れてしまった。申し訳ないことである。
それが先日、買い物をせずに、夕飯をあるもので済ませようと、出汁巻き卵を焼くことにした。教えていただいたレシピはすっかり忘れていたので、初心に返る意味も含め、ネットレシピを検索した。砂糖が入っている甘めのものは夫もわたしも好まないので、関西風のスタンダードなものを選ぶ。
ご教授いただいたレシピには、帆立の缶詰が入っていたのは覚えていたが、まずは普通のものを焼こうと、アレンジせずに焼いてみた。
「これだよ! これ!」夫は、大げさに喜んでくれた。
神戸出身の彼には、関東風の甘い卵焼きは許せないらしく、出汁の味たっぷりの新しく検索したレシピが、お気に召したようだった。確かに、出汁がかなり多めで、しっとりふんわり焼き上がった。
それから、ひとりランチにも焼くようになった。ふんわり焼き上がるのが、快感になり、やめられないとまらない、のだ。
初心に返るとは、基本に戻ってみること。そして次は、ホップ、ステップし、帆立缶入りに挑戦してみよう。アレンジは、基本が出来てから楽しむべきものなのだと、プレーンな出汁巻き卵が、教えてくれた。
卵3個分です。お弁当に入れるには、出汁たっぷりで水分多いかも。
レシピメモ
*出汁100CC・酒大さじ1・味醂大さじ1・塩、醤油少々*
薪ストーブの休暇
東京に1泊し帰ってくると、家じゅうが冷たくなっていた。室温計を見ると5℃。薪ストーブも、触ると手が凍るほどひんやり冷たくなっている。
さて。と腕まくりし、まずは、ストーブのなかの灰をかき出す。毎日燃やしていると、燃え残った火が心配で、じゅうぶんに灰を出してあげることができない。残り火のない今がチャンスとばかりに、すっかりきれいになるまで、灰をバケツに移す。下の灰受け皿に落ちた分も、すべて取り除く。
それから、小さめの薪を2本ほどと小薪(こまきと、我が家では呼んでいる、枝や薪割りの際に出た木くずのことだ)を入れ、丸めた新聞紙に火をつけ、薪を燃やしていく。
もちろん、ストーブ庫内に火の粉が残っている方が燃えやすいのだが、灰をとってきれいになったストーブは、冷たくなっていても、燃えがいい。休暇をとって、リフレッシュしたかのように、勢いよく燃え始める。
それでも、室内の温度が10℃に上がるまで、3時間ほどかかり、それまで、室内用ダウンパーカーを着て、熱い珈琲を淹れ、炬燵で、わたしもひと休み。薪ストーブを真似て、何をするでもなく珈琲を飲み、リフレッシュする。誰にだって(?)リフレッシュする時間は、必要なんだよなぁと思いつつ。
そして、キッチンに立ちながら、
「いつも、ありがとう。今日からまた、よろしくね」
などと薪ストーブに声をかけつつ、夫が帰る夜までには、室温を15℃ほどに上げておこうと、薪をどんどんくべたのだった。
灰をすべて出してあげると、すっきりしたなぁと喜んでいるかのよう。
も~えろよ、燃えろ~よ。
熱い珈琲を、カップになみなみと淹れました。落ち着きますね、珈琲。
さて。と腕まくりし、まずは、ストーブのなかの灰をかき出す。毎日燃やしていると、燃え残った火が心配で、じゅうぶんに灰を出してあげることができない。残り火のない今がチャンスとばかりに、すっかりきれいになるまで、灰をバケツに移す。下の灰受け皿に落ちた分も、すべて取り除く。
それから、小さめの薪を2本ほどと小薪(こまきと、我が家では呼んでいる、枝や薪割りの際に出た木くずのことだ)を入れ、丸めた新聞紙に火をつけ、薪を燃やしていく。
もちろん、ストーブ庫内に火の粉が残っている方が燃えやすいのだが、灰をとってきれいになったストーブは、冷たくなっていても、燃えがいい。休暇をとって、リフレッシュしたかのように、勢いよく燃え始める。
それでも、室内の温度が10℃に上がるまで、3時間ほどかかり、それまで、室内用ダウンパーカーを着て、熱い珈琲を淹れ、炬燵で、わたしもひと休み。薪ストーブを真似て、何をするでもなく珈琲を飲み、リフレッシュする。誰にだって(?)リフレッシュする時間は、必要なんだよなぁと思いつつ。
そして、キッチンに立ちながら、
「いつも、ありがとう。今日からまた、よろしくね」
などと薪ストーブに声をかけつつ、夫が帰る夜までには、室温を15℃ほどに上げておこうと、薪をどんどんくべたのだった。
灰をすべて出してあげると、すっきりしたなぁと喜んでいるかのよう。
も~えろよ、燃えろ~よ。
熱い珈琲を、カップになみなみと淹れました。落ち着きますね、珈琲。
『さいごの毛布』
近藤史恵『さいごの毛布』(角川書店)を、読んだ。
小説の舞台は、老犬ホーム「ブランケット」年老いた犬達の世話をし、飼い主の代わりに最期を看取る施設だ。
様々な事情で、飼っていた犬の世話をすることができなくなった人々が、料金を払い、犬達を預けている。
主人公は、「ブランケット」で働き始めることになった智美。彼女は、犬を飼ったこともなければ、特別に興味を持っている訳でもなかった。就職試験にことごとく落ち、ダメもとで面接を受けたのだ。そんな智美は、自分を、こう分析する。以下本文から。
昔から、いつもと違う出来事が苦手だった。はじめから決まっていることならば、それなりにきちんとやることができた。毎日学校へ遅刻をしないように行き、授業を聞いて覚える。出題範囲の決まったテストでいい点を取るのはそれほど難しくない。だが、社会に出てみれば、生きることは体育の授業でやらされたドッジボールのようなものだった。どこからボールが飛んでくるかわからないのに、ボールが当たればやたらに痛い。ようやく受け止めて投げ返したかと思えば、すかさず次のボールが飛んでくる。それらをすべて受け止めて投げ返すことなんて、智美にはとてもできない。
そんな智美だが「ブランケット」の仕事だって、予期せぬことは多かった。智美には、理不尽に思えることも。
お金を払わず、施設の前に犬を捨てていく飼い主。犬との撮影時にだけ、迎えに来る女優。子どもに死ぬところを見せたくないからと老犬を預けていく若い夫婦。それでも犬達は、飼い主を恋しがる。
「ブランケット」のオーナー麻耶子は言う。
「犬は昨日を愛する生き物ね。今日も昨日と一緒であればいいと思ってる」
昨日と一緒の家族、昨日と一緒のごはん、昨日と一緒の散歩。そんなささやかな望みを絶たれた傷を、心のの真ん中に抱える犬達の施設なのだと。
読んでいて、古傷がうずくような気分を味わった。智美に、いつもと違う出来事が苦手だった自分を重ねたのだ。それでも、こうしてなんとか生きている。けっこう楽しくやっている。人間だって、犬だって、苦手なことや、触れられたくない傷を、誰もが持っているのだと、智美が気づいて顔をあげたように。
図書館で、ふと手にとった本です。昨年春に刊行されたもの。
びっきーを、思い出さずにはいられない小説でした。
お久しぶりです。僕が空にのぼって1年と2か月。お元気でしたか?
最近、おかーさんは、ちっとも散歩をしていないようですねぇ。
えっ? 春になったらするって? またそんなこと言って、春は忙しいとか、
夏は暑いとか、秋は何かととか言って、また冬になっちゃうんですよね。
まったくサボることにかけては天才的なんだから。ぶつぶつ。
小説の舞台は、老犬ホーム「ブランケット」年老いた犬達の世話をし、飼い主の代わりに最期を看取る施設だ。
様々な事情で、飼っていた犬の世話をすることができなくなった人々が、料金を払い、犬達を預けている。
主人公は、「ブランケット」で働き始めることになった智美。彼女は、犬を飼ったこともなければ、特別に興味を持っている訳でもなかった。就職試験にことごとく落ち、ダメもとで面接を受けたのだ。そんな智美は、自分を、こう分析する。以下本文から。
昔から、いつもと違う出来事が苦手だった。はじめから決まっていることならば、それなりにきちんとやることができた。毎日学校へ遅刻をしないように行き、授業を聞いて覚える。出題範囲の決まったテストでいい点を取るのはそれほど難しくない。だが、社会に出てみれば、生きることは体育の授業でやらされたドッジボールのようなものだった。どこからボールが飛んでくるかわからないのに、ボールが当たればやたらに痛い。ようやく受け止めて投げ返したかと思えば、すかさず次のボールが飛んでくる。それらをすべて受け止めて投げ返すことなんて、智美にはとてもできない。
そんな智美だが「ブランケット」の仕事だって、予期せぬことは多かった。智美には、理不尽に思えることも。
お金を払わず、施設の前に犬を捨てていく飼い主。犬との撮影時にだけ、迎えに来る女優。子どもに死ぬところを見せたくないからと老犬を預けていく若い夫婦。それでも犬達は、飼い主を恋しがる。
「ブランケット」のオーナー麻耶子は言う。
「犬は昨日を愛する生き物ね。今日も昨日と一緒であればいいと思ってる」
昨日と一緒の家族、昨日と一緒のごはん、昨日と一緒の散歩。そんなささやかな望みを絶たれた傷を、心のの真ん中に抱える犬達の施設なのだと。
読んでいて、古傷がうずくような気分を味わった。智美に、いつもと違う出来事が苦手だった自分を重ねたのだ。それでも、こうしてなんとか生きている。けっこう楽しくやっている。人間だって、犬だって、苦手なことや、触れられたくない傷を、誰もが持っているのだと、智美が気づいて顔をあげたように。
図書館で、ふと手にとった本です。昨年春に刊行されたもの。
びっきーを、思い出さずにはいられない小説でした。
お久しぶりです。僕が空にのぼって1年と2か月。お元気でしたか?
最近、おかーさんは、ちっとも散歩をしていないようですねぇ。
えっ? 春になったらするって? またそんなこと言って、春は忙しいとか、
夏は暑いとか、秋は何かととか言って、また冬になっちゃうんですよね。
まったくサボることにかけては天才的なんだから。ぶつぶつ。
凍った朝に浮かぶ三日月
昨日の朝、野鳥達のために水を替えに行った夫が、氷の輪っかをヤマボウシの枝にかけた。清里の清泉寮などで、冬の間飾っている、氷のリースだ。
もちろん、清泉寮のように、マツボックリや赤い実を入れ、わざわざ作って飾った訳ではなく、鳥の水場にはった薄氷を枝にひっかけただけだ。
それだけなのだが、美しい。自然が創った三日月に、しばし見とれ、観たばかりの映画を思い出した。
映画『しあわせのパン』は、架空の絵本『月とマーニ』が大きなモチーフとなっていた。まぶしすぎる太陽をとってしまって欲しいという月に、少年マーニは話す。「きみは照らされて、そして照らしている」と。太陽に照らされて、夜の街の人々を照らしている。それは、とても大切なことなのだと。
「照らされて、照らしていることが、大切」
人と人も、そんな風にして生きているのかも知れないなぁと、すっと腑に落ち、ヤマボウシにひっかかった氷の月を、眺めた。
ヤマボウシの枝、重い? 冷たい? 飾りをつけて、ちょっと得意げ?
しずくが落ちる瞬間を、偶然カメラが捉えていました。
野鳥の水場にしている、古いお皿。このあと、雪が降り始めました。
雪が降るなか、薪割り仲間共同所有の薪割り機も登場。
お月さまにも、雪が積もっていきました。
もちろん、清泉寮のように、マツボックリや赤い実を入れ、わざわざ作って飾った訳ではなく、鳥の水場にはった薄氷を枝にひっかけただけだ。
それだけなのだが、美しい。自然が創った三日月に、しばし見とれ、観たばかりの映画を思い出した。
映画『しあわせのパン』は、架空の絵本『月とマーニ』が大きなモチーフとなっていた。まぶしすぎる太陽をとってしまって欲しいという月に、少年マーニは話す。「きみは照らされて、そして照らしている」と。太陽に照らされて、夜の街の人々を照らしている。それは、とても大切なことなのだと。
「照らされて、照らしていることが、大切」
人と人も、そんな風にして生きているのかも知れないなぁと、すっと腑に落ち、ヤマボウシにひっかかった氷の月を、眺めた。
ヤマボウシの枝、重い? 冷たい? 飾りをつけて、ちょっと得意げ?
しずくが落ちる瞬間を、偶然カメラが捉えていました。
野鳥の水場にしている、古いお皿。このあと、雪が降り始めました。
雪が降るなか、薪割り仲間共同所有の薪割り機も登場。
お月さまにも、雪が積もっていきました。
『しあわせのパン』
映画『しあわせのパン』をDVDで、観た。
北海道の田舎町で、カフェ「マーニ」を営む、水縞くん(大泉洋)と、りえさん(原田知世)夫婦のストーリーだ。
水縞くんがパンを焼き、りえさんが美味しい珈琲を淹れ、地元の野菜で料理を作る。滞在できる部屋も少しあり、映画は、夏、秋、冬に「マーニ」を訪れた3組の人々と、水縞夫妻の心模様を優しい目線で描いている。ナレーションが少女の声だというのも、その雰囲気作りに大きく影響していると思う。
観ていると、胸のなかに渦巻いている波紋がしんと静まり、落ち着いた心持ちになっていくような映画だった。
キーになる言葉は「カンパーニュ」
それが、パンの名だということは知っていた。田舎パンと呼ばれることがあることも。だが、映画のなかでは、その語源カンパニオに触れていて、それは知らない言葉だった。「パンを分け合う人々」のことであり「仲間」であるその言葉は「家族の原点」なのではないかと、水縞くんは、思っている。
パンを半分に割って、ふたりで食べるシーンが、いく度となく繰り返され、ひとりでいることと、ふたりを感じることが、描かれている。
「こんなに美味しい珈琲を、毎日飲めるなんて、いいですね」
お客さんにそう言われ、水縞くんが、それはそれは満ち足りた顔で「はい。いいです」と答えるのが、印象的だった。
普段は忘れがちだが、パンを分け合える家族がいることは、多分とても幸せなことなのだと、波紋が静まった胸のなかで静かに考えた。
お隣りは韮崎市のパン屋さん『cornerpocket』で購入しました。
「地粉を使ったもちもちカンパーニュ」だそうです。
これはテレビの画像を写したもの。こちらの形の方がスタンダードですね。
原田知世はいい女優になったなぁと、あらためて感じた映画でもありました。
北海道の田舎町で、カフェ「マーニ」を営む、水縞くん(大泉洋)と、りえさん(原田知世)夫婦のストーリーだ。
水縞くんがパンを焼き、りえさんが美味しい珈琲を淹れ、地元の野菜で料理を作る。滞在できる部屋も少しあり、映画は、夏、秋、冬に「マーニ」を訪れた3組の人々と、水縞夫妻の心模様を優しい目線で描いている。ナレーションが少女の声だというのも、その雰囲気作りに大きく影響していると思う。
観ていると、胸のなかに渦巻いている波紋がしんと静まり、落ち着いた心持ちになっていくような映画だった。
キーになる言葉は「カンパーニュ」
それが、パンの名だということは知っていた。田舎パンと呼ばれることがあることも。だが、映画のなかでは、その語源カンパニオに触れていて、それは知らない言葉だった。「パンを分け合う人々」のことであり「仲間」であるその言葉は「家族の原点」なのではないかと、水縞くんは、思っている。
パンを半分に割って、ふたりで食べるシーンが、いく度となく繰り返され、ひとりでいることと、ふたりを感じることが、描かれている。
「こんなに美味しい珈琲を、毎日飲めるなんて、いいですね」
お客さんにそう言われ、水縞くんが、それはそれは満ち足りた顔で「はい。いいです」と答えるのが、印象的だった。
普段は忘れがちだが、パンを分け合える家族がいることは、多分とても幸せなことなのだと、波紋が静まった胸のなかで静かに考えた。
お隣りは韮崎市のパン屋さん『cornerpocket』で購入しました。
「地粉を使ったもちもちカンパーニュ」だそうです。
これはテレビの画像を写したもの。こちらの形の方がスタンダードですね。
原田知世はいい女優になったなぁと、あらためて感じた映画でもありました。
ご期待に沿えるよう
薪を運ぼうと庭に出て、驚いた。うっすらと積もった雪の上に、野鳥達の足跡が、あちらこちらについていたのだ。
一昨日。雪が舞うなか、夫は庭に向日葵の種を撒いていた。雪は午後にはやみ、カワラヒワやシジュウカラがやって来た。遠目に見ただけだからはっきりしないが、身体の大きいのはツグミだと思う。ヒヨドリもいた。
くっきりついた足跡を見ると、気温が下がった一昨日は雪もすぐに凍ったのだろうと想像してみる。小鳥の重さと足の体温で、すっと溶けるくらいは、やわらかかったのかも知れない。
「冷たいのに、歩き回って、向日葵の種を探したんだね」
期待して、飛んでくるのかと思うと、夫不在の昨日も撒かずにはいられなかった。すぐにヤマガラが来て、種をくわえて飛んでいった。
期待されると、その期待に応えようとするのが、自然な気持ちだ。
それが人と人となると、けっこうややこしくなってしまう。期待されそれに応え、また期待されそれに応えているうちに、期待する方は、応えてもらうことが当然のように思い始め、応える方は、その期待が重く感じられたりもする。
野鳥達は、いい。こちらの気持ちになど、おかまいなしだ。だから、いい。
「ご期待に沿えるよう、がんばります」
窓から、そっと鳥達を眺めつつ、つぶやいた。
アイビーも、凍っています。お日さまにあたって、嬉しそう。
こんなに足跡が、ありました。まっすぐには歩かないんですね。
陽当りのいい場所では、水仙が芽を出しています。
よく見ると、すごい数の向日葵の種の殻が。いい肥料になるかな。
昨日の一番乗りは、ヤマガラくんでした。
一昨日。雪が舞うなか、夫は庭に向日葵の種を撒いていた。雪は午後にはやみ、カワラヒワやシジュウカラがやって来た。遠目に見ただけだからはっきりしないが、身体の大きいのはツグミだと思う。ヒヨドリもいた。
くっきりついた足跡を見ると、気温が下がった一昨日は雪もすぐに凍ったのだろうと想像してみる。小鳥の重さと足の体温で、すっと溶けるくらいは、やわらかかったのかも知れない。
「冷たいのに、歩き回って、向日葵の種を探したんだね」
期待して、飛んでくるのかと思うと、夫不在の昨日も撒かずにはいられなかった。すぐにヤマガラが来て、種をくわえて飛んでいった。
期待されると、その期待に応えようとするのが、自然な気持ちだ。
それが人と人となると、けっこうややこしくなってしまう。期待されそれに応え、また期待されそれに応えているうちに、期待する方は、応えてもらうことが当然のように思い始め、応える方は、その期待が重く感じられたりもする。
野鳥達は、いい。こちらの気持ちになど、おかまいなしだ。だから、いい。
「ご期待に沿えるよう、がんばります」
窓から、そっと鳥達を眺めつつ、つぶやいた。
アイビーも、凍っています。お日さまにあたって、嬉しそう。
こんなに足跡が、ありました。まっすぐには歩かないんですね。
陽当りのいい場所では、水仙が芽を出しています。
よく見ると、すごい数の向日葵の種の殻が。いい肥料になるかな。
昨日の一番乗りは、ヤマガラくんでした。
燃え崩れる薪のなかに
薪ストーブの横で仕事をしながら、ふと火に目がいく時がある。
そんな時に偶然、ことん、と小さな音を立て、薪が燃え崩れる瞬間を目にすると、あ、さっき薪を入れてから、そんなに時間が経ったんだと気づく。
そして不意に、時間の流れを身体じゅうで感じて、時計などなくとも時間は過ぎていくのだという当然のことを思い出す。途端に感覚がずれ、時間のバランスが崩壊し、自分という宇宙のなかに放り出される。
窓の外では、砂時計で時間の経過を計るかの如く、しんしんと音もなく雪が降り積もっている。空の果てから落下してくる粉雪と、薪を燃やし煙突から立ち上る煙が、挨拶を交しすれ違っていく。どちらも、すれ違った一瞬の時間と同じく、地面や空に溶け込んで消えていく。見ていると、自分も一緒に消えてしまいそうな気がして、今こうして生きていることすら頼りなく思えてくる。
雪と同じように、音もなく流れていく時間。スケールでも、物差しでも計れないけれど、確かにそこにあるもの。緩やかに流れていく時というものが、一瞬ではあったが、燃え崩れる薪のなかに、確かに見えた。
ストーブの火は、赤々と燃え、部屋のなかは暖かです。
午前10時。うっすらという感じで積もっていました。
すでに雪掻きの跡が、ありました。堰沿いの道を通るのは、怖いです。
午後にはやんで、家も林も、霧に包まれました。
そんな時に偶然、ことん、と小さな音を立て、薪が燃え崩れる瞬間を目にすると、あ、さっき薪を入れてから、そんなに時間が経ったんだと気づく。
そして不意に、時間の流れを身体じゅうで感じて、時計などなくとも時間は過ぎていくのだという当然のことを思い出す。途端に感覚がずれ、時間のバランスが崩壊し、自分という宇宙のなかに放り出される。
窓の外では、砂時計で時間の経過を計るかの如く、しんしんと音もなく雪が降り積もっている。空の果てから落下してくる粉雪と、薪を燃やし煙突から立ち上る煙が、挨拶を交しすれ違っていく。どちらも、すれ違った一瞬の時間と同じく、地面や空に溶け込んで消えていく。見ていると、自分も一緒に消えてしまいそうな気がして、今こうして生きていることすら頼りなく思えてくる。
雪と同じように、音もなく流れていく時間。スケールでも、物差しでも計れないけれど、確かにそこにあるもの。緩やかに流れていく時というものが、一瞬ではあったが、燃え崩れる薪のなかに、確かに見えた。
ストーブの火は、赤々と燃え、部屋のなかは暖かです。
午前10時。うっすらという感じで積もっていました。
すでに雪掻きの跡が、ありました。堰沿いの道を通るのは、怖いです。
午後にはやんで、家も林も、霧に包まれました。
『キャプテンサンダーボルト』
伊坂幸太郎と阿部和重の合作小説『キャプテンサンダーボルト』(文藝春秋)を、読んだ。昨年11月に出版され、すぐに購入したにもかかわらず、ここまで積読状態だったのは「完全合作」って何? という戸惑い以外にはない。
『冷静と情熱の間』のように、かわりばんこに二人の作家がかき上げていく、というのなら理解できる。だが、全部を二人で、と言われると、どうやってかくの? との疑問が先に立ち、読んでいて気が散るのだ。しかし、救いは阿部の小説を読んだことがないことにあった。
「伊坂ひとりでかいたと思って、読むしかないな」
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)のメンバーとしては、そうでも思わないと、どうにも落ち着かず、読み進めることができそうになかったのだ。
金に困った29歳の二人の男がいる。相葉は、後輩を助けるべく一肌脱いだがために騙され、母親が住む小さな雑貨屋を売られてしまい、井ノ原は、息子の治療費で借金がかさんでいた。最初は借金を返すことができればと、それだけだった。だが彼らは、偶然なのか運命なのか、国がらみの機密に足を踏み入れてしまい、警察からもテロリストからも追われる羽目に陥る。以下、その機密に近づいて、無実の罪を着せられ、人生を台無しにされた男の台詞。
「いいか、理不尽なものは、いつだって、理不尽にやってくる。そうだろ。病気も災害も、自分の力ではどうにもならないものが、突然やってくる。俺たちは毎朝、フォーチュンクッキーを引いて、たまたまそこに『今日は死にません』と書いてあるだけの、そういう日を過ごしてるようなものだ」
しかしそれでも、相葉と井ノ原は、走る。比喩ではなく、世界を救うために。
この物語は、二人の再生のストーリーでもある。小学生の頃、無心で野球をしていた彼らは、冴えない大人になってしまったと、昔の自分に申し訳ないような気持でいたのだ。
迷いつつ進んでいる時、このままでいいのかと考え直そうとすると、邪魔になる気持ちがある。時間や金をかけ、ここまでやってきた自分を否定するのかという気持ちだ。だが、井ノ原は思う。出口の見えぬ道を歩いていくくらいなら、一度引き返すべきなのではないかと。まあ、引き返してもまた、歩きだしては更に迷うのが、人生なんだけど。
「何でも人生に譬えるような大人にだけはなりたくなかったんだけどな」
とは、相葉の台詞だ。
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間も「合作ってどうよ?」と明らかに動揺し、まだ読んでいないようです。伊坂色満載だよと、アドバイスするつもり。伊坂お得意の伏線回収も効いているし「昔のレコードも、当時の新譜」など、伊坂っぽい台詞もたくさん登場します。
『冷静と情熱の間』のように、かわりばんこに二人の作家がかき上げていく、というのなら理解できる。だが、全部を二人で、と言われると、どうやってかくの? との疑問が先に立ち、読んでいて気が散るのだ。しかし、救いは阿部の小説を読んだことがないことにあった。
「伊坂ひとりでかいたと思って、読むしかないな」
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)のメンバーとしては、そうでも思わないと、どうにも落ち着かず、読み進めることができそうになかったのだ。
金に困った29歳の二人の男がいる。相葉は、後輩を助けるべく一肌脱いだがために騙され、母親が住む小さな雑貨屋を売られてしまい、井ノ原は、息子の治療費で借金がかさんでいた。最初は借金を返すことができればと、それだけだった。だが彼らは、偶然なのか運命なのか、国がらみの機密に足を踏み入れてしまい、警察からもテロリストからも追われる羽目に陥る。以下、その機密に近づいて、無実の罪を着せられ、人生を台無しにされた男の台詞。
「いいか、理不尽なものは、いつだって、理不尽にやってくる。そうだろ。病気も災害も、自分の力ではどうにもならないものが、突然やってくる。俺たちは毎朝、フォーチュンクッキーを引いて、たまたまそこに『今日は死にません』と書いてあるだけの、そういう日を過ごしてるようなものだ」
しかしそれでも、相葉と井ノ原は、走る。比喩ではなく、世界を救うために。
この物語は、二人の再生のストーリーでもある。小学生の頃、無心で野球をしていた彼らは、冴えない大人になってしまったと、昔の自分に申し訳ないような気持でいたのだ。
迷いつつ進んでいる時、このままでいいのかと考え直そうとすると、邪魔になる気持ちがある。時間や金をかけ、ここまでやってきた自分を否定するのかという気持ちだ。だが、井ノ原は思う。出口の見えぬ道を歩いていくくらいなら、一度引き返すべきなのではないかと。まあ、引き返してもまた、歩きだしては更に迷うのが、人生なんだけど。
「何でも人生に譬えるような大人にだけはなりたくなかったんだけどな」
とは、相葉の台詞だ。
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間も「合作ってどうよ?」と明らかに動揺し、まだ読んでいないようです。伊坂色満載だよと、アドバイスするつもり。伊坂お得意の伏線回収も効いているし「昔のレコードも、当時の新譜」など、伊坂っぽい台詞もたくさん登場します。
ノックは優しく
「穴があくほど、見つめる」という比喩がある。しかしいくら見つめても、もちろん実際には、穴は開かない。そして「穴があくほど、ノックする」という比喩はない。しかし、我が家の北側の軒には、15㎝ほどの穴が実際に開いている。それほどまでに、強く根気よくノックし続けているのは、キツツキ目キツツキ科のアカゲラである。
彼らは、これまでにない大きな音で、盛大にノックし、穴を広げている。巣を作るつもりなのだろうか。
北側の軒は、地面から7mほどの高さにあり、もちろん届かない。届かないばかりか、北側は急な傾斜になっていて、梯子をかけるのも不安定だし、もし落ちたら、20mほどの高さを落下することとなり、その下には小川の如くなみなみと流れる堰(農業用水)が待ち受けている。
激しくノックを繰り返すアカゲラ達は、北側にわたしが姿を見せるや否や、飛び去って行く。何しろ奴らには、羽根があるのだ。
「ずるいだろう! こっちが飛べないと思って」
いまいましい気持ちで、つぶやいてしまうほど、腹が立つ。今更ながら、鳥は飛べて、人間は飛べないのだと実感し、空を見上げることしかできずに。
昨日の節分。子ども達も夫もいないので、豆の代わりに向日葵の種を撒いた。
「鬼は、外! 福は、内!」
可愛いシジュウカラやヤマガラ達も、家に穴をあける困ったさんのアカゲラも、みんな「外」にいるんだよなぁ。この寒空、暮らしていくのは辛いことも多かろうなぁ。それでも、ノックは優しく、お願い。などと思いつつ。
今年初めて、アトリを見ました。羽根の模様がくっきり綺麗ですね。
カワラヒワは、顔は恐いけど、集団で行動する仲良しさん達。
手前にも、一羽ちらりと写っています。
常連さんのシジュウカラ達は、ヤマボウシの木がお気に入り。
ヤマガラも、ヤマボウシの木とウッドデッキを行き来していました。
これです。軒の板に、15㎝ほどの穴をあけられてしまいました。
アカゲラの写真は、撮れませんでした。
アカゲラは西側の庭には姿を見せません。向日葵の種には興味なしです。
2年前に作られたキイロスズメバチの巣も、見るも無残。
キイロスズメバチは、同じ巣は使わないらしく、空き部屋なんですが。
彼らは、これまでにない大きな音で、盛大にノックし、穴を広げている。巣を作るつもりなのだろうか。
北側の軒は、地面から7mほどの高さにあり、もちろん届かない。届かないばかりか、北側は急な傾斜になっていて、梯子をかけるのも不安定だし、もし落ちたら、20mほどの高さを落下することとなり、その下には小川の如くなみなみと流れる堰(農業用水)が待ち受けている。
激しくノックを繰り返すアカゲラ達は、北側にわたしが姿を見せるや否や、飛び去って行く。何しろ奴らには、羽根があるのだ。
「ずるいだろう! こっちが飛べないと思って」
いまいましい気持ちで、つぶやいてしまうほど、腹が立つ。今更ながら、鳥は飛べて、人間は飛べないのだと実感し、空を見上げることしかできずに。
昨日の節分。子ども達も夫もいないので、豆の代わりに向日葵の種を撒いた。
「鬼は、外! 福は、内!」
可愛いシジュウカラやヤマガラ達も、家に穴をあける困ったさんのアカゲラも、みんな「外」にいるんだよなぁ。この寒空、暮らしていくのは辛いことも多かろうなぁ。それでも、ノックは優しく、お願い。などと思いつつ。
今年初めて、アトリを見ました。羽根の模様がくっきり綺麗ですね。
カワラヒワは、顔は恐いけど、集団で行動する仲良しさん達。
手前にも、一羽ちらりと写っています。
常連さんのシジュウカラ達は、ヤマボウシの木がお気に入り。
ヤマガラも、ヤマボウシの木とウッドデッキを行き来していました。
これです。軒の板に、15㎝ほどの穴をあけられてしまいました。
アカゲラの写真は、撮れませんでした。
アカゲラは西側の庭には姿を見せません。向日葵の種には興味なしです。
2年前に作られたキイロスズメバチの巣も、見るも無残。
キイロスズメバチは、同じ巣は使わないらしく、空き部屋なんですが。
冬には冬の野菜を
根菜ときのこの田舎汁を、煮た。
鶏肉をほんの少し入れたが、山吹の白味噌で、薄い味つけ。さっぱりしているが、これが温まる。それもそのはず。冬に作られる根菜類は、身体を温める作用があるという。逆に夏に作られるトマトやキュウリは、身体を冷やす作用があるらしい。上手くできているものだ。
大根、人参、蓮根、じゃが芋、葱、玉葱は芯も一緒に、ごろごろと大きめに切り、出汁で5分も煮たら、あとは味噌とみりんを入れて、やわらかくなるまで煮る。味噌汁と違い、味噌を入れてから煮たてることも気にしない。こっくりと味が沁みるように、途中で味噌を入れるのだ。
飲んで帰ってきた夫が、夜中に「何かない?」と言うので、これを出すと喜ばれた。日本の昔話などで、雪のなか道に迷った旅人がたどりついた家で、囲炉裏にかけてある鍋といったら、やはり田舎汁だろう。
そんなことを考えていると、カナダにいる上の娘からメールが来た。寒くて忙しくてニキビができた、とある。野菜たくさん食べてね、と返しつつ、田舎汁が、ここには温かく煮えているんだけどなぁ、と残念に思う。
カナダ、スープで検索すると、聞いたことのない豆のスープや、トマトと生クリームのスープ、チーズ入りミネストローネなどが出てきた。
冬に冬の野菜を食べるように、彼女も、カナダではカナダのものを食べ、温まっているのだろう。
娘が想像もつかないほど、遠い場所に居るのだと、不意に実感した。
きのこは、生協でセットになっていた椎茸、シメジ、トラマキ茸を入れて。
真ん中に見えるのが、玉葱の芯。これがまた、甘いんです。
鶏肉をほんの少し入れたが、山吹の白味噌で、薄い味つけ。さっぱりしているが、これが温まる。それもそのはず。冬に作られる根菜類は、身体を温める作用があるという。逆に夏に作られるトマトやキュウリは、身体を冷やす作用があるらしい。上手くできているものだ。
大根、人参、蓮根、じゃが芋、葱、玉葱は芯も一緒に、ごろごろと大きめに切り、出汁で5分も煮たら、あとは味噌とみりんを入れて、やわらかくなるまで煮る。味噌汁と違い、味噌を入れてから煮たてることも気にしない。こっくりと味が沁みるように、途中で味噌を入れるのだ。
飲んで帰ってきた夫が、夜中に「何かない?」と言うので、これを出すと喜ばれた。日本の昔話などで、雪のなか道に迷った旅人がたどりついた家で、囲炉裏にかけてある鍋といったら、やはり田舎汁だろう。
そんなことを考えていると、カナダにいる上の娘からメールが来た。寒くて忙しくてニキビができた、とある。野菜たくさん食べてね、と返しつつ、田舎汁が、ここには温かく煮えているんだけどなぁ、と残念に思う。
カナダ、スープで検索すると、聞いたことのない豆のスープや、トマトと生クリームのスープ、チーズ入りミネストローネなどが出てきた。
冬に冬の野菜を食べるように、彼女も、カナダではカナダのものを食べ、温まっているのだろう。
娘が想像もつかないほど、遠い場所に居るのだと、不意に実感した。
きのこは、生協でセットになっていた椎茸、シメジ、トラマキ茸を入れて。
真ん中に見えるのが、玉葱の芯。これがまた、甘いんです。
大雪の記憶
金曜の朝、雪は降り始めた。予報では、東京でも積もると言われ、ここ山梨北部では、積雪20㎝が予想された。
「食材、買い込んでおいた方がいいよ」と、夫。
「うん。積もる前に、買い出しに行ってくる」と、わたし。
二人共通の不安は、積雪が予報よりも大幅に上回ること。昨年2月、除雪車のない山梨に1mを超える雪が積もり、陸の孤島となった記憶が甦ったのだ。
おでん、だな。わたしが考えていると、「おでん、だな」と、夫。
ハッピーアイスクリーム! とは言わなかったが、心のなかで笑った。
昨年のその大雪に閉じ込められた時、やはり買い出しを済ませていた我が家では、熱いおでんと熱燗で温まったのだ。その時の記憶が、大雪 = おでん、の方程式を、二人のなかに創り上げたのだろう。
それ故の「おでん、だな」だったのである。
幸い積雪量は、予想を下回った。夫は、週末予定していた、木こり作業に出かけることもできた。そしてもちろん、おでんをたっぷりと食べ、温まった。
記憶というのは、思いもよらないところで結びついているものだ。何年も思い出すことのなかった恋も、鍵をかけてしまっておいたはずの出来事だって、何かの拍子に、ふと思い出すことがある。それは自分でもどうすることもできない出会いがしらの事故のようなもので、思い出したいことだけを選別することは不可能だ。おでんを思い出すくらいは、事故でもなんでもない訳だが。
冬の間に、あと何回、おでんを煮るのだろう。おでんと熱燗で温まるのは嬉しいが、大雪は嬉しくない。空の上にいる誰かが、おでんの匂いで大雪を思い出し、はりきって降らせたりしませんように。
薪ストーブでエコ調理。弱火よりもやや弱火なので5時間置いておきました。
もちろん蓋をして、じゃが芋は丸いまま途中で追加して。
練りモノは、どんどん新しいものが出てきますね。
「蓮根蒸し」と「蟹しんじょ」というのを入れてみました。
夫の木こりの様子です。ルリビタキが、飛んでいたそうです。
「食材、買い込んでおいた方がいいよ」と、夫。
「うん。積もる前に、買い出しに行ってくる」と、わたし。
二人共通の不安は、積雪が予報よりも大幅に上回ること。昨年2月、除雪車のない山梨に1mを超える雪が積もり、陸の孤島となった記憶が甦ったのだ。
おでん、だな。わたしが考えていると、「おでん、だな」と、夫。
ハッピーアイスクリーム! とは言わなかったが、心のなかで笑った。
昨年のその大雪に閉じ込められた時、やはり買い出しを済ませていた我が家では、熱いおでんと熱燗で温まったのだ。その時の記憶が、大雪 = おでん、の方程式を、二人のなかに創り上げたのだろう。
それ故の「おでん、だな」だったのである。
幸い積雪量は、予想を下回った。夫は、週末予定していた、木こり作業に出かけることもできた。そしてもちろん、おでんをたっぷりと食べ、温まった。
記憶というのは、思いもよらないところで結びついているものだ。何年も思い出すことのなかった恋も、鍵をかけてしまっておいたはずの出来事だって、何かの拍子に、ふと思い出すことがある。それは自分でもどうすることもできない出会いがしらの事故のようなもので、思い出したいことだけを選別することは不可能だ。おでんを思い出すくらいは、事故でもなんでもない訳だが。
冬の間に、あと何回、おでんを煮るのだろう。おでんと熱燗で温まるのは嬉しいが、大雪は嬉しくない。空の上にいる誰かが、おでんの匂いで大雪を思い出し、はりきって降らせたりしませんように。
薪ストーブでエコ調理。弱火よりもやや弱火なので5時間置いておきました。
もちろん蓋をして、じゃが芋は丸いまま途中で追加して。
練りモノは、どんどん新しいものが出てきますね。
「蓮根蒸し」と「蟹しんじょ」というのを入れてみました。
夫の木こりの様子です。ルリビタキが、飛んでいたそうです。
『クリスマスの思い出』
トルーマン・カポーティ『クリスマスの思い出』(文藝春秋)を、読んだ。
短編ながら、村上春樹が訳し、山本容子描くカラーの銅版画が20もついている、とても贅沢な洒落た装丁の本である。
友人の強いすすめで、手にとった。
主人公は、七歳の少年。彼には、共に暮らす無二の親友がいる。彼女は、60歳を超えたいとこで、物語は、初冬の朝に始まる。以下冒頭文。
十一月も終わりに近い朝を思い浮かべてほしい。今から、二十年以上昔の、冬の到来を告げる朝のことだ。広々とした古い田舎家の、台所のことを考えてみてほしい。黒々とした料理用ストーブがまず目につく。大きな丸いテーブルと暖炉の姿も見える。暖炉の前には、揺り椅子がふたつ並んでいる。暖炉はまさに今日から、この季節お馴染みの轟音を勢いよく轟かせ始めたばかりだ。
かっこいい。できれば、全文転記したいほど、厭味のない洗練された文章と、瞼の裏に焼きつくような描写だ。冒頭文でガツンとやられ、それを70頁も読めば、もう酔いしれてしまっても、わたしには一切、非はない。
以下、モミの木を伐りに行く朝の描写。
翌朝、凍った霜が草の葉を光らせている。太陽はオレンジのように真ん丸で、暑い季節の月のようにオレンジ色である。それは地平線にひらりと浮かび、銀白色に染まった冬の林に磨きをかけている。野生の七面鳥が啼く。群れをはぐれた野豚が下生えを鼻で漁っている。やがて、膝までの深さのある急な流れにでくわして、僕らは荷車をそこに残していかなくてはならなかった。
小説には、クリスマスを生活の真ん中に置き1年を過ごす、少年と、無二の親友と、ちび犬クイーニーの様子が描かれている。彼らは貧しく、同じ家で暮らす親戚達からも孤立した存在だったが、心はいつも満たされていた。
この小説を読んでしまうと、もう「思い出」という言葉を軽々しく使ってはいけないような気持ちになる。こんなに「思い出」という言葉に相応しいものが、他にはあるはずがないと思えてくるのだ。
だが、それはたぶん違う。すべての人が持っているべきものなのだと、読み終えて、いてもたってもいられなくなった。見ようとすれば見えるものを、見ようともせずに生きてきたんじゃないか、今もそうして生きているんじゃないのかと、呆然と目を閉じずにはいられなくなるのだ。
カバーをとると、中身は銀色に白い文字で英文のタイトルのみ。
真っ白く光る栞を、久しぶりに見ました。
ふたりは、親友のベッドに下にクリスマス資金を隠しています。
右の絵は、11月の紅葉した庭の様子です。
短編ながら、村上春樹が訳し、山本容子描くカラーの銅版画が20もついている、とても贅沢な洒落た装丁の本である。
友人の強いすすめで、手にとった。
主人公は、七歳の少年。彼には、共に暮らす無二の親友がいる。彼女は、60歳を超えたいとこで、物語は、初冬の朝に始まる。以下冒頭文。
十一月も終わりに近い朝を思い浮かべてほしい。今から、二十年以上昔の、冬の到来を告げる朝のことだ。広々とした古い田舎家の、台所のことを考えてみてほしい。黒々とした料理用ストーブがまず目につく。大きな丸いテーブルと暖炉の姿も見える。暖炉の前には、揺り椅子がふたつ並んでいる。暖炉はまさに今日から、この季節お馴染みの轟音を勢いよく轟かせ始めたばかりだ。
かっこいい。できれば、全文転記したいほど、厭味のない洗練された文章と、瞼の裏に焼きつくような描写だ。冒頭文でガツンとやられ、それを70頁も読めば、もう酔いしれてしまっても、わたしには一切、非はない。
以下、モミの木を伐りに行く朝の描写。
翌朝、凍った霜が草の葉を光らせている。太陽はオレンジのように真ん丸で、暑い季節の月のようにオレンジ色である。それは地平線にひらりと浮かび、銀白色に染まった冬の林に磨きをかけている。野生の七面鳥が啼く。群れをはぐれた野豚が下生えを鼻で漁っている。やがて、膝までの深さのある急な流れにでくわして、僕らは荷車をそこに残していかなくてはならなかった。
小説には、クリスマスを生活の真ん中に置き1年を過ごす、少年と、無二の親友と、ちび犬クイーニーの様子が描かれている。彼らは貧しく、同じ家で暮らす親戚達からも孤立した存在だったが、心はいつも満たされていた。
この小説を読んでしまうと、もう「思い出」という言葉を軽々しく使ってはいけないような気持ちになる。こんなに「思い出」という言葉に相応しいものが、他にはあるはずがないと思えてくるのだ。
だが、それはたぶん違う。すべての人が持っているべきものなのだと、読み終えて、いてもたってもいられなくなった。見ようとすれば見えるものを、見ようともせずに生きてきたんじゃないか、今もそうして生きているんじゃないのかと、呆然と目を閉じずにはいられなくなるのだ。
カバーをとると、中身は銀色に白い文字で英文のタイトルのみ。
真っ白く光る栞を、久しぶりに見ました。
ふたりは、親友のベッドに下にクリスマス資金を隠しています。
右の絵は、11月の紅葉した庭の様子です。
ガラスの手首と、あったりなかったりする時間
「ごめんね。僕をかばってくれたばっかりに」
「何、言ってんだよ。おたがいさまじゃないか。もとはと言えば、きみにばかり頼っていた僕のせいなんだし」
「薪は、重いよねぇ」
「うん、重いね。けど、運ばなくちゃ。僕らだって冷たくなっちゃうし」
「で、痛みはどう? 左手くん」「使わなければ、痛みはないよ。右手くん」
年末、右手くんの腱鞘炎が、再発した。原因は、薪運びである。そして、右手くんをかばっているうちに、今度は左手くんが、発症した。右手くんは、軽度だったようで幸いすぐに治ったが、もちろん無理はできない。両方の手に無理をさせずに薪を運ぶのは、至難の技である。
以前、右手くんも左手くんも、腱鞘炎を患った経験がある。最初は、ピアノで。そして、次は赤ん坊だった子ども達を抱っこしていた日々に。そしてここ数年は、薪運びで。腱鞘炎は一度やると、癖になりやすい。彼らは、ちょっと重いものを持つとすぐに傷めてしまう、ガラスの手首の持ち主なのだ。
「ふたりで、1本ずつ、運ぼうよ」「回数は増えるけど、重さは減るもんね」
「右足くん、左足くん、往復が倍になるけど、よろしくね」
「おう! 合点承知」右足くん、左足くんは、快諾した。
重いものが持てないというのは、不便だ。だが、歳を重ね、不便に慣れることも必要なのだと思えるようになって来た。
最近「時間がない」という言葉を耳にすると、すぐにゲシュタルト崩壊する。
「時間って、普遍的に存在するものなんじゃないの?」と、左手くん。
「あったり、なかったりするものなんだ?」と、右手くん。
単純なる疑問から崩壊した言葉は宙に舞い、その言葉の持ついとも簡単な意味合いがバラバラに砕け、スローモーションで落ちていく。
子ども達が幼かった頃、様々なシーンで「時間が」なかった。夫に子ども達を見てもらい、スーパーにいく時にはいつも走って行ったし、風呂では、湯船につかるのは赤ん坊と一緒の時だけだった。3人の子ども達と共に入浴した10年ほどは、ひとりで湯船にはつかることはなかった。「時間が」なかったのだ。だが今考えるに、本当に時間はなかったのか。たったの5分でも、湯船につかることができないほど、時間はなかったのか。いったい何をそんなに、急いていたというのだろうか。
今は、薪を両手で、1本ずつ運ぶ「時間が」ある。薪1本を両手でしか、運べなくなった、とも言えるのだが。
それでも仕事が切羽詰ると、ふと、あの頃のことを思い出す。10年も湯船につからずに、懸命に生きていた「時間が」なかった頃のことを。
昨日の朝10時。雪はまだ、それほど積もっていません。南側の薪小屋。
北側には、家の軒下(見えない場所)にたくさんの薪が積んであります。
丸太は、年末に切り出したばかりのもの。庭というより、薪置場ですね。
「右手くん、左手くん、まあ、ムリすんなよ」と、ハリー。
「雪のなかの作業、気をつけてね」と、ネリー。
「何、言ってんだよ。おたがいさまじゃないか。もとはと言えば、きみにばかり頼っていた僕のせいなんだし」
「薪は、重いよねぇ」
「うん、重いね。けど、運ばなくちゃ。僕らだって冷たくなっちゃうし」
「で、痛みはどう? 左手くん」「使わなければ、痛みはないよ。右手くん」
年末、右手くんの腱鞘炎が、再発した。原因は、薪運びである。そして、右手くんをかばっているうちに、今度は左手くんが、発症した。右手くんは、軽度だったようで幸いすぐに治ったが、もちろん無理はできない。両方の手に無理をさせずに薪を運ぶのは、至難の技である。
以前、右手くんも左手くんも、腱鞘炎を患った経験がある。最初は、ピアノで。そして、次は赤ん坊だった子ども達を抱っこしていた日々に。そしてここ数年は、薪運びで。腱鞘炎は一度やると、癖になりやすい。彼らは、ちょっと重いものを持つとすぐに傷めてしまう、ガラスの手首の持ち主なのだ。
「ふたりで、1本ずつ、運ぼうよ」「回数は増えるけど、重さは減るもんね」
「右足くん、左足くん、往復が倍になるけど、よろしくね」
「おう! 合点承知」右足くん、左足くんは、快諾した。
重いものが持てないというのは、不便だ。だが、歳を重ね、不便に慣れることも必要なのだと思えるようになって来た。
最近「時間がない」という言葉を耳にすると、すぐにゲシュタルト崩壊する。
「時間って、普遍的に存在するものなんじゃないの?」と、左手くん。
「あったり、なかったりするものなんだ?」と、右手くん。
単純なる疑問から崩壊した言葉は宙に舞い、その言葉の持ついとも簡単な意味合いがバラバラに砕け、スローモーションで落ちていく。
子ども達が幼かった頃、様々なシーンで「時間が」なかった。夫に子ども達を見てもらい、スーパーにいく時にはいつも走って行ったし、風呂では、湯船につかるのは赤ん坊と一緒の時だけだった。3人の子ども達と共に入浴した10年ほどは、ひとりで湯船にはつかることはなかった。「時間が」なかったのだ。だが今考えるに、本当に時間はなかったのか。たったの5分でも、湯船につかることができないほど、時間はなかったのか。いったい何をそんなに、急いていたというのだろうか。
今は、薪を両手で、1本ずつ運ぶ「時間が」ある。薪1本を両手でしか、運べなくなった、とも言えるのだが。
それでも仕事が切羽詰ると、ふと、あの頃のことを思い出す。10年も湯船につからずに、懸命に生きていた「時間が」なかった頃のことを。
昨日の朝10時。雪はまだ、それほど積もっていません。南側の薪小屋。
北側には、家の軒下(見えない場所)にたくさんの薪が積んであります。
丸太は、年末に切り出したばかりのもの。庭というより、薪置場ですね。
「右手くん、左手くん、まあ、ムリすんなよ」と、ハリー。
「雪のなかの作業、気をつけてね」と、ネリー。
『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』
本というものは、おもしろいもので、作者の意図とは無関係に、読み手のその時の状況や心持ちなどが、知らず知らず映されてしまうものである。
江國香織『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(朝日新聞出版)を、読んでいて、久しぶりに新しい江國作品を読んだ訳なのだが、読み始めた時には感じなかったものが、ある瞬間から文章や行間に、強く感じられるようになった。
このところ、失敗続きで落ち込んでいた。切り立った崖の淵を歩いているかの如く、あと一歩踏み外してしまえば落ちるところまで落ちるのだろうと、自分を傍観する日々に疲弊し、そうなると、もう何もかもが上手くいかなくなる。
そんな気分でページを開くと、やはりバランスを崩し、もう立っていることだけで精いっぱいであろう登場人物達の不安が、さらに自分のもののように思えてくるのだろうと思っていた。だが、予想は、全く外れた。
結婚後、他の女と恋愛を続ける耕作も、それを知りつつ別れることができない奈緒も、テレビに大声で話しかける燐家の住人、倫子も、耕作の恋人、真雪も、みな、あふれるほどの不安を抱えているにもかかわらず、常に「確信」に満ちているのだ。バランスなど崩しようもなく、しっかりと自分を見つめて立っている。その強さが、自分の心の在り方によってか、突然、際立って見えるようになった。それは、登場人物達のと言うより、作者の強さだと感じる。
「悩み苦しむことさえ、確信に満ちているんだよなぁ。江國香織は」
そうつぶやきつつも、もちろん、読み進めるのをやめることはできない。
主人公の姉弟は、7歳と5歳。育美と拓人だ。拓人は言葉こそ遅れていたが、小さな生き物達の声を聴くことができた。大人達の不穏な空気を感じることも、時には心の声を聴いてしまうこともあった。以下本文から。
たくとはただうけとめる。めやみみやはなよりもむしろ、はだのけあなやかみのけをつかって。するといっぺんにいろいろなことがわかる。あついとか、たのしい(たくとがなのか、むしたちがなのか、にわがなのかは、くべつがつかないが)とか、たのしくない(だれがかは、やはりはんだんができない)とか、いたいとか、いたくないとか、ねむいとか、ねむくないとか、どこへいくとちゅうとか、ここにいるとか、あちこちでなにかがゆれたりおちたりうごいたりせいししたりしていて、たくとはそのぜんぶがいっぺんにわかるのに、わかるのはあたりまえだからわかるというかんじがしない。わかるのではなく、あるとかんじる。いろいろなものがただある、あるいはいる、というふうに。
拓人視点の文章は、ひらかなで綴られている。視点はくるくる変わる。奈緒。育美。耕作。倫子。真雪。ピアノ教師の千波。その母、志乃。墓地で働く男、児島。そして、最後にほんの少しだけ、育美と拓人が成人した後のことが、かかれている。
小さな生き物達が大好きなわたしには、拓人と話すヤモリや蛙(葉っぱ、という名を育美がつけた)や蝶が、ことさら可愛らしく思えた。
美しい装幀の本です。春を感じます。カバーをとった中身も味があります。
そして、何と言っても栞の淡い色に、魅かれました。
蛙の「葉っぱ」金箔押しになっていました。
ヤモリの「やもりん」やもりは性格がいい、とは、育美と拓人。
シジミチョウは、ひとりで行動しないのか、とは、拓人。
江國香織『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』(朝日新聞出版)を、読んでいて、久しぶりに新しい江國作品を読んだ訳なのだが、読み始めた時には感じなかったものが、ある瞬間から文章や行間に、強く感じられるようになった。
このところ、失敗続きで落ち込んでいた。切り立った崖の淵を歩いているかの如く、あと一歩踏み外してしまえば落ちるところまで落ちるのだろうと、自分を傍観する日々に疲弊し、そうなると、もう何もかもが上手くいかなくなる。
そんな気分でページを開くと、やはりバランスを崩し、もう立っていることだけで精いっぱいであろう登場人物達の不安が、さらに自分のもののように思えてくるのだろうと思っていた。だが、予想は、全く外れた。
結婚後、他の女と恋愛を続ける耕作も、それを知りつつ別れることができない奈緒も、テレビに大声で話しかける燐家の住人、倫子も、耕作の恋人、真雪も、みな、あふれるほどの不安を抱えているにもかかわらず、常に「確信」に満ちているのだ。バランスなど崩しようもなく、しっかりと自分を見つめて立っている。その強さが、自分の心の在り方によってか、突然、際立って見えるようになった。それは、登場人物達のと言うより、作者の強さだと感じる。
「悩み苦しむことさえ、確信に満ちているんだよなぁ。江國香織は」
そうつぶやきつつも、もちろん、読み進めるのをやめることはできない。
主人公の姉弟は、7歳と5歳。育美と拓人だ。拓人は言葉こそ遅れていたが、小さな生き物達の声を聴くことができた。大人達の不穏な空気を感じることも、時には心の声を聴いてしまうこともあった。以下本文から。
たくとはただうけとめる。めやみみやはなよりもむしろ、はだのけあなやかみのけをつかって。するといっぺんにいろいろなことがわかる。あついとか、たのしい(たくとがなのか、むしたちがなのか、にわがなのかは、くべつがつかないが)とか、たのしくない(だれがかは、やはりはんだんができない)とか、いたいとか、いたくないとか、ねむいとか、ねむくないとか、どこへいくとちゅうとか、ここにいるとか、あちこちでなにかがゆれたりおちたりうごいたりせいししたりしていて、たくとはそのぜんぶがいっぺんにわかるのに、わかるのはあたりまえだからわかるというかんじがしない。わかるのではなく、あるとかんじる。いろいろなものがただある、あるいはいる、というふうに。
拓人視点の文章は、ひらかなで綴られている。視点はくるくる変わる。奈緒。育美。耕作。倫子。真雪。ピアノ教師の千波。その母、志乃。墓地で働く男、児島。そして、最後にほんの少しだけ、育美と拓人が成人した後のことが、かかれている。
小さな生き物達が大好きなわたしには、拓人と話すヤモリや蛙(葉っぱ、という名を育美がつけた)や蝶が、ことさら可愛らしく思えた。
美しい装幀の本です。春を感じます。カバーをとった中身も味があります。
そして、何と言っても栞の淡い色に、魅かれました。
蛙の「葉っぱ」金箔押しになっていました。
ヤモリの「やもりん」やもりは性格がいい、とは、育美と拓人。
シジミチョウは、ひとりで行動しないのか、とは、拓人。
心を通過していく
早朝は、零下となるこの季節。朝の楽しみは、白湯である。
薪ストーブの燃え残った火の上、まだ温かいやかんのなかの白湯。魔法瓶のなか、前日の残りの湯がゆっくりと温度を落としていった白湯。
どちらも、やわらかく温かい。
「白湯は、熱めを、ゆっくりと飲むのがいいんだって」
夫が、何処からか仕入れてきた情報だ。
熱めの白湯を、時間をかけて身体に入れていくことで、胃までの道のりの間、食道からも水分を吸収できるらしい。そして、胃に到達した時に、冷めていることもなく、お腹が冷えずに済むそうだ。ということで、毎朝、熱いくらいの白湯を、たっぷり飲むのが、習慣になっている。
たかが、水。されど、水。60%以上が水分でできた人間の身体は、常に水分を欲している。白湯を飲み、気持ちもふっと潤い和らぐのは、胃までの間に、心も通過していくんじゃないかな。多分だけど。
薪ストーブ周辺に射しこむ、陽の光。早く春が、来ないかなぁ。
薪ストーブの燃え残った火の上、まだ温かいやかんのなかの白湯。魔法瓶のなか、前日の残りの湯がゆっくりと温度を落としていった白湯。
どちらも、やわらかく温かい。
「白湯は、熱めを、ゆっくりと飲むのがいいんだって」
夫が、何処からか仕入れてきた情報だ。
熱めの白湯を、時間をかけて身体に入れていくことで、胃までの道のりの間、食道からも水分を吸収できるらしい。そして、胃に到達した時に、冷めていることもなく、お腹が冷えずに済むそうだ。ということで、毎朝、熱いくらいの白湯を、たっぷり飲むのが、習慣になっている。
たかが、水。されど、水。60%以上が水分でできた人間の身体は、常に水分を欲している。白湯を飲み、気持ちもふっと潤い和らぐのは、胃までの間に、心も通過していくんじゃないかな。多分だけど。
薪ストーブ周辺に射しこむ、陽の光。早く春が、来ないかなぁ。
ふらっと、ここに
週末は、新メニューにも挑戦したが、ランチが美味しい店も開拓した。
小淵沢をドライブした帰り。「お腹、空いたね」という話になり、車を走らせたのだ。あそこに行こうかと最初に話が出た蕎麦屋は、閉まっていた。北杜市では、珍しいことではない。雪道に阻まれ観光客が減る厳寒期には、店を開けないところも多いのだ。
「どうせなら、初めての店に行きたいよね」と、夫。
「常に挑戦する、きみの生き方には、感銘を覚えるよ」と、わたし。
だが、不安にもなる。ハングリードライブの再来かとも、思えたのだ。川崎に住んでいた頃、会社帰りにふたり、空腹で走った道を思い出す。
しかし『ふらここ食堂』は、開いていた。
陽当たりのいい店内は暖かく、まるでわたし達を待っていてくれたかのようだった。石仏の写真を撮るのに夢中になっていた夫は身体じゅう冷えきっており、ランチに珈琲がついていることが、ことのほか嬉しかったらしい。
前菜には、ひよこ豆のスープがついていて、今月から入社したアメリカ男子の話題になる。ひよこ豆のディップを作り、会社でみなにふるまったという。
「それが、美味しかったんだよ」と、夫。
「食べてみたーい!」と、わたし。
わたし達の会話は、家族のこと以外に、まるで家族のことのように、会社のことが話題になる。それから、意味のないくだらない話題も。
「ひよこ豆って、ひよこの形してるのかな?」「ンな訳ないじゃん」
「レンズ豆って、何故に、レンズ?」「透明だからでしょ」「そうなの?」「嘘」「それにしても、豆流行りだねぇ」などなど。
そして「ふらここって、イタリア語なのかな?」「さあ」
「やっぱ、ふらっとここにが、ネーミングの由来だと思うなぁ。わたし達も、ふらっとここに来ちゃった訳だし」
「ふらっと」という言葉が好きだ。バランスを崩している時に水平を感じさせてくれる言葉「flat」と「ふらふらっと」の不安定にも思える自由さを感じる。頭のなかが、何処までも駄洒落でできているのが判る発想だが。
庭には「ふらっと」ジョウビタキが飛んできて、飛び去っていた。
看板よりも、煙突に目が向くわたし達。お風呂も薪で沸かしてるのかな?
築160年の古民家だそうです。
前菜、少しずついろいろが嬉しい。ひよこ豆と里芋のスープ。
蛸のカルパッチョ。レンズ豆のトマト煮。蟹のライスコロッケ。
豚肉のリエット。野菜のバーニャカウダ。
箸置き(夫がそう言っていました)も、お洒落~ ♪
ランチパスタ。わたしは鶏と牛蒡のニンニクソース。
夫は、鹿のラグーソース。大根が入っていました。
甘いものが苦手なわたし。チョコレートムースは夫に食べてもらいました。
一口だけいただきましたが、甘さ控えめ、ビターな感じです。
珈琲 or 紅茶がついて、1600円也。お近くの方はどうぞ。
小淵沢をドライブした帰り。「お腹、空いたね」という話になり、車を走らせたのだ。あそこに行こうかと最初に話が出た蕎麦屋は、閉まっていた。北杜市では、珍しいことではない。雪道に阻まれ観光客が減る厳寒期には、店を開けないところも多いのだ。
「どうせなら、初めての店に行きたいよね」と、夫。
「常に挑戦する、きみの生き方には、感銘を覚えるよ」と、わたし。
だが、不安にもなる。ハングリードライブの再来かとも、思えたのだ。川崎に住んでいた頃、会社帰りにふたり、空腹で走った道を思い出す。
しかし『ふらここ食堂』は、開いていた。
陽当たりのいい店内は暖かく、まるでわたし達を待っていてくれたかのようだった。石仏の写真を撮るのに夢中になっていた夫は身体じゅう冷えきっており、ランチに珈琲がついていることが、ことのほか嬉しかったらしい。
前菜には、ひよこ豆のスープがついていて、今月から入社したアメリカ男子の話題になる。ひよこ豆のディップを作り、会社でみなにふるまったという。
「それが、美味しかったんだよ」と、夫。
「食べてみたーい!」と、わたし。
わたし達の会話は、家族のこと以外に、まるで家族のことのように、会社のことが話題になる。それから、意味のないくだらない話題も。
「ひよこ豆って、ひよこの形してるのかな?」「ンな訳ないじゃん」
「レンズ豆って、何故に、レンズ?」「透明だからでしょ」「そうなの?」「嘘」「それにしても、豆流行りだねぇ」などなど。
そして「ふらここって、イタリア語なのかな?」「さあ」
「やっぱ、ふらっとここにが、ネーミングの由来だと思うなぁ。わたし達も、ふらっとここに来ちゃった訳だし」
「ふらっと」という言葉が好きだ。バランスを崩している時に水平を感じさせてくれる言葉「flat」と「ふらふらっと」の不安定にも思える自由さを感じる。頭のなかが、何処までも駄洒落でできているのが判る発想だが。
庭には「ふらっと」ジョウビタキが飛んできて、飛び去っていた。
看板よりも、煙突に目が向くわたし達。お風呂も薪で沸かしてるのかな?
築160年の古民家だそうです。
前菜、少しずついろいろが嬉しい。ひよこ豆と里芋のスープ。
蛸のカルパッチョ。レンズ豆のトマト煮。蟹のライスコロッケ。
豚肉のリエット。野菜のバーニャカウダ。
箸置き(夫がそう言っていました)も、お洒落~ ♪
ランチパスタ。わたしは鶏と牛蒡のニンニクソース。
夫は、鹿のラグーソース。大根が入っていました。
甘いものが苦手なわたし。チョコレートムースは夫に食べてもらいました。
一口だけいただきましたが、甘さ控えめ、ビターな感じです。
珈琲 or 紅茶がついて、1600円也。お近くの方はどうぞ。
1+1=2ではなく
週末。最近、夕飯のメニューがマンネリ化してるから、何か新しいものを作ろうと、夫とそれぞれ、1品ずつ作ることにした。
夫は「レバーペースト」わたしは「ポークソテーonビネグレットソース」
どちらも、我が家ではけっこう活用されてきた料理本『バルめし』に載っていたのだが、彼は、昔行きつけだった今はもうないワインバーのレシピをネットで検索。わたしも「ビネグレットソース・肉」で検索し、偶然にも、二人ともが2つのレシピをもとに、作り始めた。
ネット検索し「ビネグレットソース」と呼ばれているものは、酢とオリーブオイル、野菜が入っているソースだと判った。何を入れるかは、けっこう自由。『バルめし』では、玉葱、パプリカ、エシャレット、ピーマン、トマトが入っていたが、ネットレシピは、玉葱、トマトは同じだが、あとはニンニク、パセリのみ。両方を見比べて、玉葱、トマト、パプリカ、ニンニク、それから冷蔵庫にあった、かいわれ大根を入れてみる。
夫は夫で、やはり2つのレシピを見比べて、考えながらキッチンに立っている様子。包丁を握る手をじっと見つめると「お風呂、入ってくれば」と、追い払われてしまった。
そして、出来上がった新しい味は? ふたりとも「美味しい!」と自画自賛。
2つのレシピを、経験則をもとに分析しつつ作ったのがよかったようだ。
1 + 1 = 2 ではないんだよなぁと、実感する。二人で作った2つの料理は、倍楽しめた。まあ、夫の経験則は、作るより食べる方が、かなりの割合で勝ってるかも知れないが。
「レシピ、記録しておいた方がいいよ」と、わたし。
すると夫は「ここに、入ってるから」と、頭を指さし、得意気に言う。
まあ、プロじゃないもんね。同じレシピで作っても、同じ味が出せる訳じゃなし。果てさて、我が家の新メニューの行方は、如何に。
トマトやパプリカが入ると、華やかですね。お花畑みたいです。
キャンティをあけて、イタリアンな夜でした。
*レシピメモ「ビネグレットソース」*
ニンニク1片、紫玉葱小1個、黄パプリカ半分、トマト1個、かいわれ大根少々。オリーブオイル大さじ1、白ワインビネガー大さじ2、塩胡椒。
野菜はみじん切り。ニンニクは細かく、あとは荒みじんに。
すべて混ぜ合わせて、少し置く。温かいものに使う場合は、湯煎で温めて。
この分量で2回分使えました。翌日は、鯵のソテーに。魚の方が合うかも。
夫は「レバーペースト」わたしは「ポークソテーonビネグレットソース」
どちらも、我が家ではけっこう活用されてきた料理本『バルめし』に載っていたのだが、彼は、昔行きつけだった今はもうないワインバーのレシピをネットで検索。わたしも「ビネグレットソース・肉」で検索し、偶然にも、二人ともが2つのレシピをもとに、作り始めた。
ネット検索し「ビネグレットソース」と呼ばれているものは、酢とオリーブオイル、野菜が入っているソースだと判った。何を入れるかは、けっこう自由。『バルめし』では、玉葱、パプリカ、エシャレット、ピーマン、トマトが入っていたが、ネットレシピは、玉葱、トマトは同じだが、あとはニンニク、パセリのみ。両方を見比べて、玉葱、トマト、パプリカ、ニンニク、それから冷蔵庫にあった、かいわれ大根を入れてみる。
夫は夫で、やはり2つのレシピを見比べて、考えながらキッチンに立っている様子。包丁を握る手をじっと見つめると「お風呂、入ってくれば」と、追い払われてしまった。
そして、出来上がった新しい味は? ふたりとも「美味しい!」と自画自賛。
2つのレシピを、経験則をもとに分析しつつ作ったのがよかったようだ。
1 + 1 = 2 ではないんだよなぁと、実感する。二人で作った2つの料理は、倍楽しめた。まあ、夫の経験則は、作るより食べる方が、かなりの割合で勝ってるかも知れないが。
「レシピ、記録しておいた方がいいよ」と、わたし。
すると夫は「ここに、入ってるから」と、頭を指さし、得意気に言う。
まあ、プロじゃないもんね。同じレシピで作っても、同じ味が出せる訳じゃなし。果てさて、我が家の新メニューの行方は、如何に。
トマトやパプリカが入ると、華やかですね。お花畑みたいです。
キャンティをあけて、イタリアンな夜でした。
*レシピメモ「ビネグレットソース」*
ニンニク1片、紫玉葱小1個、黄パプリカ半分、トマト1個、かいわれ大根少々。オリーブオイル大さじ1、白ワインビネガー大さじ2、塩胡椒。
野菜はみじん切り。ニンニクは細かく、あとは荒みじんに。
すべて混ぜ合わせて、少し置く。温かいものに使う場合は、湯煎で温めて。
この分量で2回分使えました。翌日は、鯵のソテーに。魚の方が合うかも。
雪の落葉松林で
日曜。先週の雪がまだ残る、同じ北杜市は小淵沢まで、ドライブした。
「雪のなかで、石仏さんを撮りたい」と、夫に誘われたのだ。
彼は3年前、武田信玄が信濃に攻め入るために作ったというまっすぐな道「棒道」を歩こうというイベント『棒道ウォーク』に参加しており、その時に出会った石仏がお目当てだったようだ。
その石仏がいる場所は、松林だった。
標高が高いだけあり雪は残っていたが、風のない穏やかな正午。明野よりも寒いとは感じなかった。夫は、車から降りるなりカメラに集中している。邪魔にならないよう、わたしはゆっくりと雪道を歩いた。
我が家の周辺と違うのは、雪の量だけではなく、同じ松林でも赤松ではないということが判る。赤松よりは、ずいぶんと小ぶりのマツボックリが、枝についたまま落ちていたからだ。落葉針葉樹の落葉松(からまつ)だそうだ。見上げると青空のなか、マツボックリたちの影が、小さく小さく見える。その下には、雪をかぶった石。雪が解けだしたところには、落ちた松葉に守られた苔が、瑞々しく光っている。
のんびりとした気持ちで歩くと、枝に巻きついたまま枯れた蔓に、種を落としたあとの実がドライフラワーのように綺麗に乾燥している姿に目を魅かれた。
そして、それを見て、突然陽が射し込んできたかのように、不意に思った。
雪のなかの、この松林には、春待つ命があふれているのだ、と。そう思った途端、何か判らぬ乾燥した蔓の実が、マツボックリが、落葉松の木肌が、陽を浴びる苔が、林全体が、美しく見えてきた。
「ああ、今、森林浴してる」
しばしの間、身体じゅうで、ただ静かに、そこにあふれる生命を感じていた。
『棒道(ぼうみち)』は、落葉松林を横切っているそうです。
松の太くて背の高い影が、雪の上に伸びていました。
足もとには、たくさん落葉松のマツボックリが落ちていました。
小さくてフリルのようにウエーブが、かかっています。
ガク紫陽花も、そのままの姿で残っていました。
種を落とした蔓の実です。何の蔓でしょうか。
苔は陽にあたり、生命の輝きを放っていました。
動物の足跡もありました。7~8㎝。鹿、でしょうか。
「雪のなかで、石仏さんを撮りたい」と、夫に誘われたのだ。
彼は3年前、武田信玄が信濃に攻め入るために作ったというまっすぐな道「棒道」を歩こうというイベント『棒道ウォーク』に参加しており、その時に出会った石仏がお目当てだったようだ。
その石仏がいる場所は、松林だった。
標高が高いだけあり雪は残っていたが、風のない穏やかな正午。明野よりも寒いとは感じなかった。夫は、車から降りるなりカメラに集中している。邪魔にならないよう、わたしはゆっくりと雪道を歩いた。
我が家の周辺と違うのは、雪の量だけではなく、同じ松林でも赤松ではないということが判る。赤松よりは、ずいぶんと小ぶりのマツボックリが、枝についたまま落ちていたからだ。落葉針葉樹の落葉松(からまつ)だそうだ。見上げると青空のなか、マツボックリたちの影が、小さく小さく見える。その下には、雪をかぶった石。雪が解けだしたところには、落ちた松葉に守られた苔が、瑞々しく光っている。
のんびりとした気持ちで歩くと、枝に巻きついたまま枯れた蔓に、種を落としたあとの実がドライフラワーのように綺麗に乾燥している姿に目を魅かれた。
そして、それを見て、突然陽が射し込んできたかのように、不意に思った。
雪のなかの、この松林には、春待つ命があふれているのだ、と。そう思った途端、何か判らぬ乾燥した蔓の実が、マツボックリが、落葉松の木肌が、陽を浴びる苔が、林全体が、美しく見えてきた。
「ああ、今、森林浴してる」
しばしの間、身体じゅうで、ただ静かに、そこにあふれる生命を感じていた。
『棒道(ぼうみち)』は、落葉松林を横切っているそうです。
松の太くて背の高い影が、雪の上に伸びていました。
足もとには、たくさん落葉松のマツボックリが落ちていました。
小さくてフリルのようにウエーブが、かかっています。
ガク紫陽花も、そのままの姿で残っていました。
種を落とした蔓の実です。何の蔓でしょうか。
苔は陽にあたり、生命の輝きを放っていました。
動物の足跡もありました。7~8㎝。鹿、でしょうか。
『オリエント急行殺人事件』
アガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』は読んだことがないが、フジテレビ開局55周年記念、三谷幸喜脚本ドラマを観た。
(フジテレビは、我が家に届かぬため、オンデマンドで)
佐藤浩市が悪役を好演し、野村萬斎の大げさな演技と、13人の魅力あふれる乗客とで、喜劇仕立てのテンポよいミステリーに仕上がっている。
昭和初期という時代設定では、女性陣のひらひら華やかな服装や、派手にカールさせ整え過ぎた髪形なども楽しめた。
情報社会の現代では起こり得ない、寝台特急という密室での事件だ。
雪で立ち往生した寝台特急の自室で、乗客の男、藤堂が殺された。胸や腹に、刺し傷が12か所。一見すると、残虐な殺人犯を思い浮かべるが、思慮深い瞳で、その傷を見つめる男がいる。その寝台車両には、名探偵、勝呂武尊(すぐろたける)が乗っていたのだ。彼は言う。
「犯人は、力の強い男であり、かよわい女であり、右利きであり、左利きの人物です」
勝呂は、12人の乗客から、個別に事情聴取を始めた。そして、意外な真実にたどり着いたのだった。
三谷幸喜の映画やドラマを観ると、いつも感じることがある。
「人間って、一所懸命やっている姿ほど、滑稽に見えるものなんだよなぁ」
殺人計画さえ、真面目に取り組む、真面目な人達。登場人物、ひとりひとりを見つめることで、その滑稽さが際立ち、更に可笑しさが倍増する。
そして観終った後、すっきりとした気持ちで、考える。もし、観客がいたとしたら、わたし達の日常は、さぞ滑稽なんだろうな、と。そしてこうも思う。滑稽でけっこう。どうせなら思いっきり笑ってくれ、と。だって、ここまで生きてきたら、もう何はともあれ、生きていくしかないんだから。
アガサ・クリスティに挑戦してみようかなと、読んでみたかった
『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ文庫)を購入しました。
息子が高校時代ハマって、彼の本棚はクリスティで、いっぱいだったなぁ。
(フジテレビは、我が家に届かぬため、オンデマンドで)
佐藤浩市が悪役を好演し、野村萬斎の大げさな演技と、13人の魅力あふれる乗客とで、喜劇仕立てのテンポよいミステリーに仕上がっている。
昭和初期という時代設定では、女性陣のひらひら華やかな服装や、派手にカールさせ整え過ぎた髪形なども楽しめた。
情報社会の現代では起こり得ない、寝台特急という密室での事件だ。
雪で立ち往生した寝台特急の自室で、乗客の男、藤堂が殺された。胸や腹に、刺し傷が12か所。一見すると、残虐な殺人犯を思い浮かべるが、思慮深い瞳で、その傷を見つめる男がいる。その寝台車両には、名探偵、勝呂武尊(すぐろたける)が乗っていたのだ。彼は言う。
「犯人は、力の強い男であり、かよわい女であり、右利きであり、左利きの人物です」
勝呂は、12人の乗客から、個別に事情聴取を始めた。そして、意外な真実にたどり着いたのだった。
三谷幸喜の映画やドラマを観ると、いつも感じることがある。
「人間って、一所懸命やっている姿ほど、滑稽に見えるものなんだよなぁ」
殺人計画さえ、真面目に取り組む、真面目な人達。登場人物、ひとりひとりを見つめることで、その滑稽さが際立ち、更に可笑しさが倍増する。
そして観終った後、すっきりとした気持ちで、考える。もし、観客がいたとしたら、わたし達の日常は、さぞ滑稽なんだろうな、と。そしてこうも思う。滑稽でけっこう。どうせなら思いっきり笑ってくれ、と。だって、ここまで生きてきたら、もう何はともあれ、生きていくしかないんだから。
アガサ・クリスティに挑戦してみようかなと、読んでみたかった
『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ文庫)を購入しました。
息子が高校時代ハマって、彼の本棚はクリスティで、いっぱいだったなぁ。
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)
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