はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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暖色の大皿

庭に植えたローズマリーを使って、ポークソテーを焼いた。トマトにも一緒に摘んだバジルを散らす。ハーブを料理に活かせるいい季節だ。
大皿に盛り付けしていて、その皿を買った時のことを思い出した。
ひとり暮らしを始めた22歳の頃。年下の料理が上手い友人と食器を買いに行った。彼女は美術系の大学に行っていたと記憶している。
「食器を買いたい」と言うと、喜んで付き合ってくれた。

その頃のわたしはみずがめ座の色も濃く、手に取る食器も寒色系の物が多かった。歳を重ねてからのように、ピンクのケータイやハンカチを持ってはいなかった。今も藍の皿などは好きだが、こだわりも強すぎると縛りになってしまうということが、あの頃はまだ、わからなかったのだ。いいと思ったものはどんな色であれ試してみようという余裕も、歳を重ねてから生まれたものだ。
だから、よく覚えている。
「暖色系のお皿に、しよう」そう彼女が言ったこと。
それから30年近く、この大皿に何回料理を盛り付けたことだろう。この皿のオレンジと黄色は、いつも食卓を明るくしてくれる。彼女の選択は、少なからず我が家の食卓に柔らかく明るい色を添えてくれたのだ。

今や年賀状のみの付き合いになってしまった彼女に、連絡してみようかなと、最近ふと思う。たぶん彼女にとっては、覚えているはずもない些細なことだろうが、大皿を使う度に思い出し、何故に暖色系の大皿を選んだのか問いただしてみたい衝動に駆られるのだ。

にんにくをオリーブオイルでカリカリに炒め、そのオイルで焼きました。
豚肉も野菜も、塩胡椒し、ローズマリーを散らしただけですが、
バルサミコ酢をかけると、柔らかく優しい味になりました。

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隣の芝生的に見た我が家の庭

真紅の薔薇が、咲いた。
我が家の庭は、手入れというほど手を入れていないので、薔薇も近くで見ると花びらが虫に食われている。しかし道路に出て見てみると、意外と綺麗に見えるから不思議だ。一歩と言わず10歩くらい下がって見てもらえると、緑豊かなこの季節なので、なお綺麗。隣の芝生的な感じで。

茗荷の芽が背比べをするように伸び、蕗は思い切り葉を広げ、姫シャラの木には硬い蕾。紫陽花は自分の季節になるのを今か今かと待ち構えるように日々蕾を大きくしていく。ナデシコもピンクの花を咲かせ始めた。
通り道なのに蜘蛛が巣を立派に広げていたり、防虫剤を使わないせいか様々な虫も見かける。蛙やトカゲも住処としている様子だ。鳥達もやって来る。
「イングリッシュガーデンには成り得ないね」と、葉を広げた蕗を見て、夫。
「ふきのとうの天麩羅には、変えられないでしょ?」と、わたし。
「あーっ、こんなところに向日葵の芽が!」と、芝をのぞき込み、夫。
彼は冬の間、野鳥のためにと毎日向日葵の種を撒いていた。
「それって、まさに自分で蒔いた種だねぇ」とくすくす笑いつつ、わたし。
「何でまた、茗荷増やしてんの?」と、今年植えた茗荷を見て、夫。
「茗荷は、いくら採れても困らないんだから」と、わたし。
そんな風で、野菜を育てるだけの根気も根性も持ち合わせがなく、ガーデンでも畑でもなく、庭でいいと割り切っている。取りきれない雑草が、元気に生えているくらいが丁度いいさと、開き直って、庭の真ん中で深呼吸する幸せ。

わたしよりもずいぶんと熱心に手入れをしてる夫が、どう思っているのかは聞かないことにしているが、10歩下がって隣の芝生的な感じで「なかなか綺麗じゃん」などと眺めつつ、ふと、もしかすると彼は、意図的に10歩離れてわたしを見ているのかもしれないなと考え、現実を見ないようにとかき消した。

バーラが咲いたぁ ♪ と歌いたくなるのわかりますよね。可愛い!

姫シャラは白い花を咲かせます。夏椿とも呼ばれています。
上の写真では薔薇の右側の細い木です。木肌も立ち姿も綺麗です。

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どっちでもいいこと?

「スピードラーニング」を「スピードランニング」だと思い込んでいた。
石川遼くんのCMで有名な聞き流し英会話レッスンのことだ。
「ランニングと同じく、毎日続けることが大切なんだー」と、解釈していた。
何年か前に1年間だけやって放り出したまま、上の娘が使い、夫が聞き、元は取れた感はあるが、気づいた時には愕然とした。
「もともとのところで、聴けてないじゃん」と、落ち込む。

「@ビリング」を「@リビング」だと思い込んでいた。
NTTのWebで料金明細が見られるサービスのことだ。
「リビングにいて明細が見られるんだー」と、またも勝手に解釈していた。
「ビリングって何だよ。引っかけかいな」と、文句も言いたくなる。

どうしても知っている言葉で完結したがる癖があるのだ。その癖、きちんと覚えようという気がなく、
「あれ? スパゲッティ・カルボラーナだっけ? カルボナーラだっけ?」
「パイレーツ・オブ・カビリアン? ん? カリビアン?」
などとクエスチョンマークを頭に乗せつつ、どっちでもいいやと、
「カルボラーナ」「カビリアン」と言ったりして、娘にチェックされる。

「小さなことだよ。細かいこと言うなよ」と思うのは、わたしだけだろうか。
そう言えば昔、母が「チャッカマン」のことを「チャックマン」と言っていて、指摘したのもわたしだったような気もするが。

米糠から作ったという蝋燭と、チャッカマン!
小川未明の『赤い蝋燭と人魚』を思い出しますね。

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大人になりそびれて

イタリアンパセリの葉に、芋虫を見つけた。
「ちょっと。食べないでよね」
と言いつつも、手で触ることはできず、イタリアンパセリの茎を千切り、隣の林へと移動してもらった。移動の間も動かなかったので、のんびりしたタイプだと思っていたが、林に降りた途端、チビ蟻に追いかけられ、猛スピードで逃げる、逃げる。シャクトリムシ仕様の歩き方なので、猛スピードと言っても知れてはいるのだが。

ネット検索してみたら『オオシマカラスヨトウ』という蛾の幼虫だとわかった。幼虫は黄緑色も鮮やかで美しいが、大人になると黒が勝ったモノトーンの蛾になる。お世辞にも綺麗とは言い難い姿だ。
「大人になんか、なりたくない」
芋虫も思うのだろうか。それとも早く自由に飛べるようになりたいとでも思っているのだろうか。

今月23歳になった娘は、言っていた。
「23歳って十分大人だと思ってたけど、自分がなってみると全然違った。全く大人とは言えないよ」
そうだねと、わたしも受け合った。
「お母さんだって、50歳過ぎた今でも大人になんてなれてないもん」
そうだねぇと、何故か娘も受け合った。
ここで言う大人というのは、自分が抱え育ててきた大人のイメージのことだ。ハイヒールがかっこよく履けるとか、飲み会で「生中おかわり!」と誰よりも早く言わないとか、運転中『オブラディ・オブラダ』を10回リピートして聴かないとか、「お風呂入るの面倒くさいよー」と娘に向かって駄々をこねないとか。そういった自分のなかの大人のイメージ。
大人の階段、いつ踏み外したんだろうか。わたしもいつか、大人になれる日が来るのかな? もう、ムリか。

イタリアンパセリを大事そうに抱えています。美味しいのかな?
達者で暮らせよー。玄関の外灯にお礼言いに来なくていいからねー。

イタリアンパセリの蕾です。花火のような不思議な形。
隣の林に飛んだ種が芽を出して、たくさん咲きそうです。
写真に撮った分は、ランチのサラダに入れました。

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デコポンとゲシュタルト崩壊

食後のフルーツで一番人気は、何と言っても「デコポン」だ。
何故か。わたしが好きだから。出会いから、その名に魅かれた。姿通りのネーミングは、拍手したいくらいにぴったりくる。
そして手でむけるところ、中の薄皮ごと食べられるところ。ここは重要なところだ。面倒くさがりのわたしでも、いつでも食べようという気持ちになる。ここで包丁やらまな板やが必要になってくると、それがハードルとなり食べないまま腐らせてしまったりもする。
さらに味。甘さが勝っていても柑橘類の酸っぱさがわたしを誘う。もちろんビタミンCも豊富だ。もう、言うことなし。

ということで毎朝の食後、夫に聞く。「デコポン食べる?」
「食べようかな」などと最初は答えていた彼だが、デコポンシーズンが3か月目にも入ってくると変化が現れた。飽きて食べたくないという訳ではない。
「デコポン」という名のリズミカルさも加わり、わたしの毎朝発する「デコポン食べる?」がゲシュタルト崩壊していったのだ。試しに10回言ってみて欲しい。「デコポンタベル?」「デコポンタベル?」「デコポンタベル?」と。言葉そのものが、ばらばらと崩れ、宇宙の果てへと散っていくはずだ。

ゲシュタルト崩壊と戦いつつも、わたし達は食後にデコポンを食べている。夫も戦っている。
「デコポン食べる?」と聞かれ「うるさいよ。食べるよ」と、言ったり、
「デコポン食べる?」と聞く前に「食べる」と早口で答えたりする。
わたしも負けていられず、彼が茶碗を置くや否や「デコポン食べる?」と畳み掛けるように聞いたりする。
「今日は食べない」と、夫がすねて言うこともあるが、わたしがひとり食べていると「少しだけ食べてやるよ」と、結局食べる。
そんなデコポンシーズンも、そろそろ終わり。淋しい限りだ。

デコボコな形が、何とも言えず魅力的。「デコポン食べる?」

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もみじのプロペラと少年

不意に夕立が来た、日曜の夕方4時。
「あー、フライングしてる!」と、わたし。夫が缶ビールを開けている。
「あ、バレた?」と、彼が言う前に、わたしは冷蔵庫から自分のビールを出し、プルトップを引いた。
「2階のベランダで、飲もうか」と、夫。
「いいねぇ。ヤマボウシの花見だねぇ」と、わたし。
ヤマボウシの花は上に向かって咲くので、木が大きくなるにつれ2階からしか見られなくなってしまった。
「あれ何? もみじに赤いのがくっついてる」と、わたし。
「もみじの花だよ。もみじのプロペラ」と、夫。
確かにプロペラのような形をしている。可愛い。

夫が一眼レフを持って来て、写真を撮り始めた。わたしは隣で、ゆっくりビールを空けた。雨が酷くなり、風も吹いてもみじも揺れる。撮影は難航しているようだった。しかし当然、彼には止める様子はない。もみじのプロペラの一瞬を手に入れるまで、何処までも追いかけていくのだ。わたしは静かに待つしかない。彼の背中ともみじのプロペラ。そして、夕方の薄い闇のなか浮き上がる白いヤマボウシを眺めつつ思う。
「いつまでも、少年だなぁ」
そしてまた、こうも思う。少年よ。いつまでも少年なのはいいけど、家の中でサッカーボール蹴るのは止めて欲しいんだけどな、と。
だんだんに遠くなる雷を聞きながら。

2階から見たもみじ。もみじの花が赤いとは、意外でした。

ほんとにプロペラそっくり! 一眼レフ、違うなぁ。やっぱり。
遠くへ飛んでいくためにプロペラ型の翼を持っているそうです。

ヤマボウシも雨に濡れて、白が栄えていました。

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素晴らしきかな湿布人生

夜中に寝返りを打ち、腕をひねる痛さに目が覚める。Tシャツを頭からかぶって腕を通す時、うっかりひねって痛さにしばらく動けずにいる。健康診断の際、言われるがままに右腕を血圧測定機に入れ、血圧が上がるのでは? と思うほど痛みに耐えた。(血の気が引いたのか、上が100いかなかった)
毎日湿布を貼っている。半年前にびっきーに引っ張られた右腕にだ。
何年か前に同じように左腕を痛めた時には、完治まできっかり1年かかった。まだ半年。気長に痛む腕と付き合っている。

「湿布って、かっこ悪いよね。これ、タトゥーみたいにさぁ、蝶とかにデザイン化したら売れるかも」と、夫に言うと、
「誰が買うんだよ? だいたい単価的に無理でしょう」
と、現実を突き付けられた。いいと思ったんだけどな。

だが、湿布を貼った後の快感は、痛さに勝るものがある。これからの季節は特に、このひんやり感にはうっとりさせられる。
「長めの半袖を着て、あと半年、付き合うか」
痛みも中途半端、治るという想定のもとだからこそ言えるのだと思うのだが、しばらくは覚悟を決め「素晴らしきかな湿布人生」とでも思って楽しもう。

上の娘がタトゥーを彫ろうかなと言った時には、反対しました。
(本気で彫るつもりはなかったようですが)
これは彼女が、フィリピンで描いてもらったというインド発『ヘナ』
1週間くらいで、すっかり消えました。

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くよくよの種

クールであるはずのみずがめ座にして、O型大らか大雑把なわたしだが、くよくよモードになることだって、ある。
たとえば、夫にメールしたのに返信がない時。たとえば、娘にメールしたのに返信がない時。たとえば、息子にメールしたのに返信がない時。たとえば、友人にメールしたのに返信がない時。いつも返信が早い相手ほど心配になる。
パソコンやらケータイやらは、くよくよモードの種を蒔く。時間という水を吸い、種は芽を出し勢いよく伸びていく。

何か、気に触ることかいたかな? いや、それ以前に他の理由で怒ってるのかも。熱で、寝込んでる? 生きてるんだろうか。事故? トラブル? いやいや、やっぱり何か怒ってるのかも。無神経なこと言ったかな?
「あー、どうしたらいいんだ!」

先日、そんなことを一週間繰り返し、友人に電話した。
「あ、あの、元気?」と、つかえつつわたし。
「うん、元気だよー。どうかしたの?」と、友人。
「あのさ、先週のメールだけどさ」と、思い切ってわたし。
「メール? もらったっけ? いや、来てないと思うよ」と、友人。
結局そのメールは行方不明のまま届くことはなかった。海の底深く沈んでいるのか、宇宙の果てのブラックホールに入ってしまったのか。失くなって困るメールではなかったので、ひとしきり友人としゃべりホッとして電話を切った。
また、夫からも生存確認メールの返事が来ず、仕事にかこつけて電話した。
「えっ? 返事かいたけど」と、夫。
「来てないよー」と、わたし。結局そのメールは夜、彼が家に帰って来てから着いた。「午前8時送信しました」全く、何処で迷子になっていたのやら。

メールは便利だ。だが時に、くよくよの種を蒔く。映画『ユー・ガット・メール』のトム・ハンクスとメグ・ライアンのように、一喜一憂して恋する人からのメールを待っている訳でもないのにと、自分でも呆れるのだが。

たまには、手紙をかこうかな。
筆不精だけど、封筒や便箋を、文房具屋で物色するのは大好き。

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蛙と虹と喫茶店の薄暗いカウンター

たぶん同一人物だと思われる。5日ほどでずいぶん見た目も変わったが、同じ場所にたたずんでいる姿は同一オーラを発していた。蛙を人物と言うならば。
夕方庭に水を撒こうと水道の蛇口に手を伸ばしかけ、わっと驚かされた。そこが涼しいのだろうか。蛇口にひっかけておいたホースに、如何にもホッとした様子で、うたた寝でもするかのようにじっとしていた。ニホンアマガエルだ。

餌となる羽虫などにも不自由しない、彼らの季節。太って緑も濃くなり、貫録も出て来た。田んぼではなく、我が家の庭を住処と決めたのだろうか。それともはるばる散歩に来ているのだろうか。夜そこらじゅうの田んぼからわんわんと響き渡る合唱には、彼も参加しているのだろうか。
「悪いけど、ホース貸してね」
我が家のホースだが、つい彼の物のような言い方になった。もちろん遠慮はせず、ホースに手をかける。すると彼は大きく弧を描くように跳ね、ドウダンツツジの影に消えていった。後ろ姿を見送り、料理用にと植えたばかりのバジルやローズマリー、勝手に芽を出したイタリアンパセリや友人に貰ったレモンバーム達が待つ庭に、たっぷりと水を撒きく。水しぶきに小さな虹がかかった。
明日も姿を現すだろうか。今度顔を見かけたら、名前でも付けようか。ホースがお気に入りのようだが『ホース』じゃ馬っぽい。蛙に似合う名前を考えておこう。水道水が作り出す虹を眺めつつ、考えを巡らせ思い出した。

19の頃にバイトしていた喫茶店の常連、山田くんに本を薦められた。水上勉の『ブンナよ、木からおりてこい』(新潮社)ブンナは、トノサマガエルだ。平穏な池周辺の環境から、高い木の上という外へ出ようと挑戦する若い蛙。
「山田くん、どうしてるかな」少し年下の可愛い男の子だった。
ふいに、バイトしていた喫茶店の薄暗いカウンターを思い出した。庭の蛙を見て、そんな風に今わたしが思っていることなど、彼は思いもよらないだろう。
ホースで休む蛙と小さな虹。そして、記憶のなかの喫茶店の薄暗いカウンター。我が家の庭には、様々なものがある。

5月18日 頭は日影に入っていますが尻隠さず? 

5月22日 ニホンアマガエルは、周囲の色に合わせて変色するそうですが、
青いホースの上にいても、さすがにブルーにはならないんですね。

しかし黄緑色も鮮やか! 蛇口に近づくと、ジャンプしました。
山形では蛙を『びっき』と呼ぶ地方もあるそうですが、
「そ、その名前だけは、やめましょう」と、びっきー。

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真逆なふたり旅の計画

スペイン旅行を計画している。夫とふたり、ツアーではなくのんびり旅だ。
末娘が高校を卒業し、彼女の送り迎えもようやく卒業した。同時にびっきーの飼い主である上の娘がワーキングホリデーから帰り、散歩も任せられるようになった。この機会を逃さず「サグラダ・ファミリアを観に行こう」と、話はすぐにまとまった。それも来月半ばと迫り、ようやく準備を始めている。

夫は地図大好きで、ガイドブックも隅から隅まで読むタイプ。
今回は、飛行機もホテルも一つ一つ選び、サグラダ・ファミリアやアルハンブラ宮殿の入場チケットもすべて、彼がネット予約した。
一方、わたしは地図は全く頭に入らず、食べたいものや行きたい雑貨屋などばかり見るタイプ。
「オイガ・ウナカーニャポルファボー」(すいませーん、生ビールください)など、使えもしなさそうな、あるいはそればかり使いそうなスペイン語を覚えたりしている。

わたしの年に一度の健康診断も無事終わり、オールA判定。(夫はこれから)
「それだけ毎日ビール飲んでて、どうしてまた。検査に疑惑ありだな」と夫。
「会社指定の健診センターですが」などと言い合いつつ、スペインバルで、楽しい旅行になりますようにと乾杯した。

友人からはアドバイスも。
「レンタカーはやめた方がいいよ。助手席にいてもナビできないでしょ?」
「うん。地図読めないからね、わたし」
「わかってても、イライラするんだよね、運転手は。ケンカの素だよ」
「わっ、それ、リアルにありそうでヤダねぇ」
真逆なタイプ、ふたりの旅。果てさて、どうなることやらである。

四谷のスペインバル。何故かイタリアワインが出てきました。

海老のアヒージョ。ふつふつと沸くオイルに海老が踊っています。
にんにくその他入りオイルにパンをつけると、それだけで美味しい一品に。


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素敵なラブ・ストーリーを読みました

衝動買いした本を、一気読みした。ぽろぽろと涙がこぼれ止まらなかった。
読んだのは、島本理生『よだかの片思い』(集英社)
顔のアザに悩み、自分は恋愛などできないと思っていたアイコは、24歳にして初恋をする。その恋心が、甘く切ない。
久しぶりに本を読んで思いっきり泣き、考えた。何故これほどまでに泣けるのだろうか。たぶん、と考える。アイコが恋だけじゃなく、生きていくことにがんばっている、自分を肯定しようとがんばっている姿が切なく、涙があふれてしまうのだと。
顔にアザを持って生まれたアイコの気持ちを理解できるとは思わないが、がんばってもがんばっても自分を肯定できなくなるような時が、わたしにもある。「どうせわたしなんか」と思わず生きていくことは、ことのほか難しいのだ。
しかし小難しいことはさて置き、素敵なラブ・ストーリーだった。

交差点の真ん中で、彼はいきなりこちらを振り返ると
「アイコさん、キャッチボールしよう」と言い出した。
あっけに取られているうちに、彼がコートのポケットからなにか白い包みを取り出した。夜空に揚げて長い右腕を振り上げると、月をめがけたように大きく柔らかなアーチを描きながら、白い包みが飛んできた。
私は両手を伸ばして、なんとかそれを受け取った。

アイコが恋した彼が、これまで彼女が持つことをしなかった手鏡をプレゼントするシーンだ。恋ってこんな風に始まるんだよなぁと、文章をたどりつつ、淡々(あわあわ)としたものが胸に広がっていった。

タイトルからも判るように宮沢賢治の『よだかの星』がキーとなっています。
カバー表紙を取ると、
よだかが飛んで行ったような夜の闇と星空が、隠されていました。

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おむすびと空っぽのお皿

夫からの要請があり、おむすびを握った。サッカーの試合だという。
握っていて、ずいぶん懐かしい感覚だなぁと驚いた。上の娘はお弁当が必要な時には自分で作って行くし、末娘も高校卒業まで自分で毎朝おむすびを握っていた。新米が届いた夜、自分のために握って以来かも知れない。大量に握ったのは、夏に大人数でのバーベキューで最後に焼きむすびをした時か。
おむすびって、つくづく不思議な食べ物だ。ただ握っただけなのに、茶碗によそったご飯とはまるで違う。ハンドパワーが作り出すものなのか、その塊には力の素が入っているように思える。

我が家の子ども達は、3人共に食が細かった。今思えば何のことはない。単に食が細いタイプだったのだ。それでも新米の母親は小さなことに胸を痛め、くよくよと思い悩むものだ。どうして他の子よりも食べないんだろう。何がいけないんだろう。手を変え品を変え料理に手間を掛けようとも、思うように食べてくれない彼らに、疲れてしまうことも多かった。
そんな時にはおむすびを握った。塩で握っただけの、子どもの手にすっぽり収まる小さなおむすびだ。それをただテーブルの上に置いておいた。すると、誰かが一つ食べ、また誰かが一つ食べ、終いには十ほどもあったおむすびがなくなっている。空っぽのお皿は、わたしを心底ホッとさせた。
今では3人ともスリムではあるが、極普通に育っている。好き嫌いも成長と共にあまりなくなった。何も思い悩むことなどなかったのだ。

おむすびに助けられたそんな記憶をたどりつつ、夫のために、力ではなくハンドパワーと気持ちを込め、おむすびを握った。

息子と末娘は鮭派でしたが、夫と上の娘は何でもあり派。
梅干しと、しじみ生姜昆布を入れて。

田植えが始まり、空が映った夕暮れの田んぼ。
おむすびパワーの素は、ここから生まれるんだよなぁ。

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階段には赤い絨毯を

ホームセンターで、もみじの苗が売っているのを見て驚いた。
「もみじ、買う人いるんだ?」と、わたし。
「そりゃ、いるんじゃない」と、夫。
この辺りの林には、種が飛んで芽を出したのだろう。あちらこちらでもみじの苗くらいの大きさの木を見かける。我が家の庭にも、クヌギや赤松と同じくもみじも雑草の如く芽を出し、わたしに摘み取られている。和室の前に大きく育ったもみじも、自然発生的に生えて来たものを、和室ともみじの組み合わせはいいよね、ということで摘み取られず育ったものだ。
そんな風なので、もみじを買うという感覚は、わたし達のなかにはない。売っている事実にびっくりする程に、もみじは雑草的存在になっているのだ。

もみじで思い出す。
家を建てる前に、子ども達にどんな家にしたいか聞いたことがあった。
「2階に、登り棒で登りたいな」とは、息子。
「サンタさんが入れるくらいの煉瓦の煙突は、必要だよね」と、3人顔を見合わせて。そして、上の娘が言った。「階段には、赤い絨毯を敷きたい」
彼女は、王子様とお姫様が暮らすお城のようなものを思い描いていたようだ。
それを聞き設計士さんは、階段に窓を付け、そこに紅葉するもみじを育てようと提案した。娘は階段を赤くしたい訳ではないのだと判っていたが、子どもの言葉に耳を傾けようとする彼の姿勢には共感できた。それも階段の位置の問題などもあり、実現はしなかった。
秋に、紅葉したもみじで赤く照らされた階段。見てみたかった気もする。

和室に手を伸ばしているかのように、大きく育ったもみじの木。

今年も庭には新しい芽が、顔を出しています。

赤い絨毯は、どう転んでも似合いそうにない階段です。

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静かな春の夜

絹さやをいただいた。採れすぎて困っていると、近所の家庭菜園をしているご夫婦。もちろん喜んで、たくさんいただいた。
買えば結構、値が張るものだ。味噌汁や肉じゃがの色味に使うのが一般的なのか、少量パックで売っている。せっかくたくさんいただいたので、いつもは食べない食べ方をしようと絹さやオンリーのサラダにした。これもまたいただきものの胡麻ドレッシングがあったので、絹さや胡麻風味の出来上がり。
夫も娘も帰らない夜。ひとり、絹さやでビールを飲んだ。

しんとした春の夜も、もうあとわずか。ちらほらと水が入った田んぼを見かけるようになった。すぐに田植えの季節になる。田植えが始まると一斉に鳴き出すのだ。木霊を繰り返すようにあちらからもこちらからも、夜そのものが振動しているかのようにわんわんと響き渡る、蛙達の歌。

絹さやの鮮やかな緑と静かな春の夜。ひとりほろほろと酔いながら満喫した。

胡麻ドレッシングは、酸味が爽やかで、絹さやとよく合いました。
きっかり1分、歯応えがしっかり残るように茹でました。

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春の散歩道

JUDY AND MARYの『散歩道』が好きで一時期よく聴いた。アップテンポのメロディも好きだが、歌詞もいい。
びっきーとゆっくり歩いていると、スローバージョンで覚えているところだけ口ずさんでいたりする。
♪  シアワセの形は変わってく 気づかずにのんびりと
あたしが思うよりずっと あたしの空は広がってるんだわ ♪

いつからなのか、何処からなのかわからないけれど、わたしの空も、知らないうちにずいぶんと広がっているような気がする。
森の木を眺め、山桜のさくらんぼに微笑み、足元の草花に目を留め、ゆっくりと歩く。カッコウが鳴き、今年初めて蝉の声を聴いた。
思い描いていた幸せの形も、ずいぶんと変わっているんだろうな。そしてたぶん、これからも変わっていくのだろう。

春の散歩道。ふいに感じる。ひとりで森に立っていても全く淋しく感じない不思議を。心がつながっている人達がいるという幸せを。

つい先週まで、新緑が透き通って柔らかい光が降り注いでいた森も、
すでにジャングルのように、うっそうとしています。

山桜のさくらんぼが色づいていました。可愛い!

マムシが首をたれた感じに似ていると名付けられたマムシ草。
その名に負けず、怪しい雰囲気をかもし出していますね。

「僕は、ひとりには数えられないってことですかね」と、びっきー。
「い、いや。もちろん人達の中心に入ってます」と、わたし。

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トリセツ読む派ですか?

ああ新緑だと思ったら、夏のような日差しが続いている。緑も濃くなり、あちらこちらで花が咲き、虫達が忙しく動き始めた。
今年はたくさんの花を咲かせた庭のナナカマドにも、カナブンの種類だろうか。無心に蜜を吸う姿を見かけたし、ウッドデッキでは、蜂が巣を作るのに一所懸命だ。
「どうする? これ」と、わたし。
「ここに住まわせる訳にはいかないけど、もう少し様子見ようか」と、夫。
大きくした後に巣を壊す方が可哀想だとも思うが、観察中だ。
昨年キイロスズメバチが作った立派な巣は、結局そのまま放置してある。今度は、毎日洗濯物を干す場所だし、そのまま観察することもできない。
「毒針が、なければいいのにな」ひとり、つぶやいてみる。
しかし、見るからに黒と黄色の踏切注意的な危険色。向こうにその気はなくとも、近づいて来るとやっぱり恐い。共生は難しいだろう。それにしても綺麗に巣を作っていく。誰に教わった訳でもなく、取扱説明書を読む訳でもなく。

「で、トリセツ読んだ?」とは、夫の口癖。
ナビ付きの車にした時には、彼を車に乗せる度、百万回ほど言われた。
「何でお母さんって、トリセツの3項目目から読むの?」とは息子の疑問。
「だって、1と2は大抵準備段階じゃん」と、何か組み立てつつ、わたし。
「ちゃんと読めば誰でもできるのに、読まないからできないんじゃない」
トリセツ読む派の男達には、トリセツ読まない派のわたしが理解できないようだ。わたしだって理解できない。あの難解なトリセツなるものを読み下すためにはどうすればいいのか。トリセツのトリセツが欲しいくらいなのだ。

蜂の巣を見て、勝手に仲間意識を持つ。トリセツ読まない派同士だね。
「きみはトリセツ読めない派だろ」と、天の声が聞こえたような気もするが。

秋には赤い実をつけるナナカマド。今年は秋も楽しみです。
海外では魔除けの木と言われ玄関にナナカマドの杖を置くところもあるとか。

卵を産んでいるんでしょうか。初めは女王蜂1匹で巣作りを始めるそうです。
食べようと襲ってくる敵に、危険ですと教えるための踏切注意色らしいです。
トリセツ読みつつ巣作りしてる蜂がいたら、それはそれで見てみたいなぁ。

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彼女の秀でた才能

母の日に少し遅れて、上の娘にカーネーションを貰った。嬉しい。
彼女は小さな頃からよく笑う優しい子で、誰かと一緒にいるのが好きだった。人が好きなのだ。いつも誰かと遊んでいて、勉強はあまりしなかった。そんな自分を、特に秀でるものは持ってないと彼女自身は思っているようだ。だが、わたしは違うと思っている。彼女の明るく優しく人とコミュニケーションをとるのが大好きなその性格は、特に秀でたものだ。持とうと思ったところで、誰にでも持てるものではないのだ。

カナダのホームステイでルームメイトだったフランス娘イザベルも、オーストラリアで知り合ったサムも、フィリピンでたまたま一緒に観光したマルコスも、娘を頼り日本にやってきた。彼女はそれを温かく迎え、出来る限り日本を楽しんでもらおうと、バイトや大学をやり繰りしている。だからこそ、わたしも楽しんでもらおう、歓迎しようという気持ちになる。

「マルコスを、富士山近くまで連れて行きたいから、フィット貸して」
ナビが必要だというので、マイカーフィットを貸し、しかたなくわたしは、娘のアルトを使うことにした。だが夫と密かに『リラックルマ』と呼んでいるアルトには、リラックマがあちらこちらに乗っている。
「話しかけないでね」と、わたし。
「リラックス、リラックス」とは、リラックマ。
運転中、歯を食いしばるのがわたしの癖なのだ。その度に「リラックス、リラックス」とリラックマが主張する。
郷に入れば郷に従え。『リラックルマ』に乗ればリラックマになれ?
娘といると、誰もがリラックスするのかも。彼女の秀でた才能をまた一つ発見した…… かもしれない。

花束を貰うのは、昨年、左手を骨折し入院して以来です。

みつばちリラックマは、いつもは後部座席にいます。
大学入学時の娘の自己紹介は「好きなキャラクターは、リラックマです」
小学校1年生の自己紹介のようで、笑っちゃいました。

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少しだけ大きすぎる

瓶ビールには憧れがある。
日本の大びん中びんというやつではなく、アメリカのバドワイザーやデンマークのカールスバーグのようなスマートな瓶のビールのことだ。
アメリカ映画などでよく、バーやキッチンで瓶ビールを開け、そのまま口をつけて飲むシーンがあるが、ああいうのって素敵だなと、ずっと憧れていた。
週末、夫の友人達が遊びに来た際に、ライトなビール好きのわたしのためにと、ハートランドとバドワイザーを買って来てくれた。ハートランドはグリーンの瓶ではあるが500ミリリットル。日本語で「中びん」と明記されている。だが憧れるままに、瓶に口をつけて飲みたいという衝動に駆られていた。

「とりあえずビールで」と夫がサッポロ黒生のロング缶を出し、それぞれ適当にビアグラスに注ぐ。わたしはいただいたハートランドを開け、
「じゃ、わたしはこのままいこうかな」
その時、一斉に否定の声が上がった。
「い、いや、それは」「さすがに、ちょっと」「それは、ないでしょ」
「レギュラー缶より、多いからね」
ジョークではなかったのだが、笑って誤魔化し白ワイン用グラスに注いだ。
「レギュラー缶より多いって、360ミリくらい?」
わたしの飛ばしたジョークには、誰も答えなかった。憧れるままに、瓶から飲みたかったんだけどな。ハートランドは少しだけ大きすぎる。残念だ。

メキシコのコロナは、ライムを少し絞って飲むと美味しいと言われています。
オランダのハイネケンにも、しばらくハマったことがありました。
魚の形の栓抜きは木製で、持った感じも手に馴染んで気に入っています。
娘の友人、アメリカ男子マルコスは「この家の子どもになりたかった!」と。
厳しい家庭に育ち、成人してもアルコールはタブーだったそうです。
のどごし生で、缶のまま乾杯しました。「チアーズ!」

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藤と5月の空

藤が咲いたことを知るのは、毎年足元に落ちた花を見た時だ。
今年もびっきーと散歩していて、足元に散らばった、紫に変色した花に目を留め、空を仰ぎ見るように顔を上げた。
藤の花と共に目に入ってくる。新芽を広げた木々。青く広がった空。流れる雲。悠々と空を舞う鳥。
「ああ、いい季節だ」実感する。

春はもちろんいい季節なのだが、なにかと忙しい季節でもある。ゆったりと花を愛でることさえ忘れがちになる。早足になり、伏し目がちになり、足元を見て歩くことが多くなる。
足元に散った藤の花は、毎年、そんなわたしに教えてくれる。
「見上げてごらんよ。5月の空が見えるよ。木々の新芽達が小さな手のひらに乗せた、朝露を含んだ透き通った綺麗な空だよ」
花を終わらせ紫に色を変えた小さな花びらは、ばたばたと忙しくしているわたしに、あらためて5月の空を見せてくれる。
「ほんの少しだけ立ち止まって、空を見上げてごらん」と教えてくれるのだ。

誰が植えた訳でもないと思いますが、毎年隣の林に藤が咲きます。
綺麗に整えた藤棚も素敵ですが、山に見かける藤の花も、いいですよね。
にわかに国際化が進んでいる我が家に、昨日はアメリカ男子マルコスが、
遊びに来ました。ふたり新緑の昇仙峡を歩いてきたと、ホストである上の娘。
新緑を伝えるのにふたりで四苦八苦。結局 new leaf で伝わりました。
(エキサイト翻訳では、新緑=fresh green レタスみたい?)

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何故に心魅かれるのか

じつは、セロリを千切りにするのが好きだ。
少しの間手を休め、セロリの匂いを嗅ぐ。夫の友人達が来て、ワインパーティをすると言うので、定番となったセロリの千切りサラダを作っていたのだ。

何故にセロリの千切りなどに、心魅かれるのか。言葉にできるかどうかもわからないような小さな感覚が、わたしを魅了する。
かじった時のようなシャキシャキ感が、千切りにする包丁から伝わり、セロリを切っていると感じるのだ。セロリの千切り以外では味わえない感覚を。
たとえば、気持ちがスッとほどけていくような、和らいでいくような感じ。
たとえば、まな板の裏側に隠れていて一瞬だけ顔を出してくる、あるやなしかもわからない何かが、ふっと形になって見えたような感じ。
またたとえば、目の前に大きく広がりすぎていていつもは気づかない何かに、はたと気づいた瞬間のような感じ。
さらにたとえば、キッチンの神様が、ビールを飲みつつ降りてきたような感じ。おたま片手に「料理ってさぁ、訳もなく心躍るよねぇ」とか言いながら。

肩の力を抜いて、ゆっくりと時間をかけ、一株のセロリを千切りにした。至福のときであったが、切り終えてまた、ホッともするのだった。

水にさらしてあく抜き後。綺麗ですね。見とれてしまいます。

鶏ささみを卸しにんにくと醤油で焼き、わさびマヨネーズで和えます。
アクセントに茗荷を。赤ワインにぴったりの料理です。
ビール党のわたしにと、ハートランドビールとバドワイザーを頂きました。
とっても嬉しいお土産でした。ライトなビールにもぴったりの料理です。

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見たくないものは見えないのか?

夫は運転しながら様々なものを見ることができる。薪になりそうな木はもちろんのこと、鳥の巣や新しい看板などもよく見つける。その彼に見えないものが、たったひとつある。蛇だ。
「あ、蛇!」わたしが言っても「何処? えっ、いないじゃん」
「今、通り過ぎたじゃん」「いないよ。目の錯覚じゃないの?」
同じ車に乗っていながら、わたしにだけしか蛇は見えない。常に。

「見たくないと思っている人の前には、姿を見せないんだよ」
蛇嫌いの夫は勝手なことを言うが、わたしだって蛇が見たい訳ではない。それなのに蛇はわたしの前に姿を現す。運転中ならまだしも、びっきーとの散歩中、細い道でネックに黄色いラインが印象的な蛇にばったり出会ったこともある。(多分、毒を持つヤマカガシの子ども)極めつけは、家の廊下で、にょろりにょろりとゆっくりと進んでいる縞模様も綺麗な蛇に出くわしたことだ。夫は東京に行っていて留守だった。家の外に出て行ってもらうのに苦労した。
「これって、なんか酷くない?」
だんだんと、夫が蛇全般をわたしに押し付けて逃げているように思えてくる。
わたしも蛇は見たくない。これをどう蛇達に伝えればいいのか。今後も此処で暮らす以上、大切な課題である。

今年初めての、蛇です。
シャッター音を聞くなり、頭をぐいっと上げて威嚇してきました。
その後、素早く森に入って行きました。びっきーとの散歩道で。
「多分、青大将でしょう」とは、
キイロスズメバチに一時に8か所刺された経験を持ち、珈琲の焙煎もする
多趣味で日本野鳥の会所属、山菜にも蛇にも詳しい陶芸家のご近所さん。

昨年の写真です。びっきーvs蛇。勝敗は!?
蛇の威嚇におびえ、後退りしたびっきーの鎖に蛇が叩かれ逃げたという、
引き分けですかね、という結果でした。
(メンタルでは、びっきーの負けかな?)

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財布と文庫本

サザエさんではないが、財布を忘れた。
本屋で、文庫になった伊坂幸太郎の『バイバイ、ブラックバード』(双葉文庫)をレジに持って行き、財布がないことに気がついたのだ。
「あれ? お財布忘れちゃった」
レジのお兄ちゃんは、無言だ。カウンターにはこれでもかというほど大きく「当店ではクレジットカードは使えません」とかいてある。
「す、スイカは使えますか?」と、わたし。クレジット機能付きのスイカなら、鞄に紐で付けたカードケースに入っている。しかし。
「申し訳ございませんが」と、憐れみを込め、レジのお兄ちゃん。
泣く泣く『バイバイ、ブラックバード』を取り置きしてもらい、本屋を出た。何とも、かっこ悪い。

3日ほど前に、娘が財布を忘れて帰ってきたのを「サザエさんじゃあるまいし」と呆れていたのに、まさかの同じ失敗。
だが娘に話すと、たいしたことじゃないじゃんと言われた。
「だって現金って、ほとんど使わないんだもん」
確かに、クレジットカードのポイントを貯めるために、スーパーでも薬局でもせっせとカードを使っている。実際、愛車フィットの点検も、財布無しで済ませ帰ってきた。
それでも、全くお金がない状態で外を歩くというのは、何かスカスカする感じだ。家に「安心」を忘れて来たとでも言おうか。いや、現金を使うことが少なくなった今「安心」というのも、大げさな気がする。そうだ。旅に出る時に「文庫本」を鞄に入れ忘れて家を出てしまった時のような感じ、と言った方が近いかもしれない。
本屋のお兄ちゃんは、わたしの顔を見るなり「取り置き」してあったその文庫本を、さっと出してきてくれた。だから今、わたしの鞄には『バイバイ、ブラックバード』と財布がちゃんと入っている。鞄は、さぞホッとし、満ち足りていることだろう。

使いやすさ重視の財布です。写真撮って、また鞄に入れ忘れたりして。
『バイバイ、ブラックバード』美しい文庫本ですね。
県外に出て行った、伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間は、
どうしてるかなぁ。読み終えたら、連絡してみよう。

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胡椒が振りかけた魔法

胡椒をいただいた。カンボジア産だという。これがすごく美味しいのだ。
買ってあった生姜焼きにしようと思っていた豚肉をその胡椒と塩で焼くと、娘が驚くほど食べた。彼女いわく。
「香りが違うねぇ。このまえ蕎麦屋で卸した生わさびを初めて食べたけど、うん。チューブのわさびと生わさびくらい違う」
確かに香りがいい。
「胡椒って緑の粒が生るんだね」「乾燥させると、黒くなるんだって」
ふたりの食卓も、胡椒ひとつでいつになく盛り上がり、学校の話から、世界中から戦争を失くすにはどうすればいいのかなんてことまで、とりとめもなくしゃべった。美味しい食事には、家族の思いや言葉を引き出す魔法があると、わたしは信じている。魔法の粉でも振りかけたかのように、久しぶりに娘とゆっくりしゃべることができた。

いただいた人に聞くと、カンボジアで日本人が作っている胡椒『KURATA PEPPER』だという。内戦で栽培されなくなってしまった世界一美味しいと言われたカンボジアの胡椒。それをもう一度作りたいという日本人倉田さんの思いから作られた胡椒なのだそうだ。

久しぶりに出した胡椒ミルに鼻を近づけもう一度匂いを嗅いでみる。香りを吸い込んだ、その途端クシャミした。毎朝、目玉焼きを焼いて胡椒を振り、クシャミをするように。花粉症ではないが、胡椒には異様に敏感な鼻を持っているのだ。「うん。確かにこれは違う」
世界一のクシャミかどうかは謎だが、一味違うクシャミだった。
小さな粒をさらにミルで挽き、粉々になり宙に舞い、わたしの鼻をくすぐったミクロの胡椒。その中に込められた人の思いは、宇宙ほどの大きさを持つものだろうと、目をつぶり想像した。

ローリエは、お庭でとれた日本産だそうです。
久しぶりに出した胡椒ミルは、林檎のかたち。

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ただまっすぐに伸びていく

様々なものを植えては忘れ、放置している我が家の庭に、立派なアスパラガスが伸びてきた。植物とは言え弱肉強食の我が家の庭で育っているタラの芽やうどと共に、天麩羅にした。山菜に負けず劣らず濃厚な味だ。
「美味い!」夫は絶賛。

それにしても植物は面白い。来年のためにと1本残しておいたアスパラは、いまだ天に向かって伸びている。
トイレに飾ったミントの葉も、キッチンの一輪挿しのアイビーも、窓の方に、太陽に、天に向かって背伸びをするかのように、日々わずかながらも背を反らしていく。
「生きるため」なのだなぁとあらためて考える。
ほんのわずかでも太陽の光を浴びるために背伸びをし、ほんのわずかでも水を吸うために根を伸ばす。

人は、なかなかそうはいかなよなぁと、ふたたび考える。迷い選ぶことができるから。迷子になりがちなわたしは、ただまっすぐに伸びていく植物が羨ましくもある。しかし迷い選ぶことで、人はたぶん、自分になれるのだろう。
新しく植えた花達に水をやり、春の太陽を浴びて深呼吸した。
4月18日5月8日
にょきっと音を立てて、     両手を広げるように伸びています。
出てきたような感じ。      風に吹かれて踊っているかのよう。

繁殖力が強く綺麗な葉を伸ばすアイビーを、デッキ近くに移植しました。
上手く育つといいな。

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母の思惑

高橋亮子の漫画『坂道のぼれ!』(フラワーコミックス)を読み返した。
一度高校生活に失敗した主人公、亜砂子が、全寮制の高校でルームメート3人に囲まれ、再スタートをするというストーリーだ。大人になる過程の葛藤や、淡い恋がそこ此処に描かれたこの漫画は、十代の頃、何度も読み返したものだ。実家に置きっぱなしになっていたのを、何年か前に母が送ってくれた。
「もう読まないから、処分しちゃって」
はっきりと、そう伝えたにもかかわらず、わざわざ送ってきたというのが正しいいきさつだ。「全くもう。いらないって、言ったのに」とも言えないので「ありがとう」と電話した。
そんな母に呆れつつ、自分もまた捨てられずにこうして読み返しているのだから、母の思惑は満更外れた訳ではなかったのかもしれない。もし、思惑なるものが、母にあったとしたらだが。何故にいらないと言うものを送ってくるのか、わたしとしては理解に苦しむばかりだ。

しかしだ。埼玉で一人暮らしを始めたばかりの末娘から、メールが来た。頼まれていたいくつかの物を入れた荷物が届いたというメールだ。そこには「高校の制服、いらないって言わなかったっけ?」と遠慮がちにかかれていた。最初は持って行くと言っていたのだが、その後やっぱりいらないと言われたような。だがどっちかわからなくなり、何かの時のためにと送ったのだ。
(高校の制服が必要になる何かなど、余りないような気もするが)
そういえば、オーストラリアで上の娘もfacebookにかいていた。「お母さんからの荷物にいつもリラックマが入ってて困る」と。

母の思惑は深いところに眠っていて、気まぐれに目を覚ましたりするものなのだ。娘達よ。思う存分、理解に苦しんでくれ。

くらもちふさこの『おしゃべり階段』も一緒に入っていました。

「なんで、こんなの送ったの?」と、facebookを見て、夫。
「か、緩衝剤だよ」と、わたし。
「緩衝剤ねぇ」と、夫。「緩衝剤で悪い?」と、すでに自棄になったわたし。


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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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