はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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冷たい朝にやさしい卵雑炊

冷たい雨が降る、ひとりの朝。
卵雑炊が食べたくなった。温まるやさしい味が恋しくなったのだ。

冷凍しておいたご飯をチンして、鶏がらスープを溶いた鍋に放り込む。
そこで、逡巡した。溶き卵雑炊にするか、丸ごと卵半熟雑炊にするか。
誰かと一緒なら、迷わず「どっちにする?」と聞く。
しかし、ひとりご飯だ。自由とは、逡巡の種も増えるということ。
溶き卵の黄色い色合いと、やわらかさ。丸ごと卵の半熟の黄身を、レンゲで割る魅力。どちらも捨てがたい。
逡巡の結果、卵2個で両方楽しむことにした。自由とは、選択肢の幅が広がるということでもある。

卵料理っておもしろい。混ぜるか混ぜないか、生で食べるか加熱するか、半熟にするかしっかり熱を通すか。冷凍卵という選択肢もある。このあいだ読んだ重松清の『ファミレス』には、卵料理が嫌というほど登場する。そのなかに、卵についてなるほどと得心するような会話もあった。以下本文から。

「黄身だけでもダメ、白身だけでもダメ。卵ってすごいと思わない? 黄身と白身っていう全然違うものが一つの殻に入ってて、それぞれにおいしいんだけど、でも二つ合わさったときのおいしさっていうのは最高なんじゃない?」
ドンは素直に「はいっ」と応えた。直立不動である。目もまっすぐにエリカ先生に向けている。まさに人生の師と向き合う態度なのだ。
「ねえ、それって、家族と似てない?」「・・・家族、ですか」
「別々のものが一緒になっておいしくなるのは、まさに家族でしょう? しかも、卵には殻が必要なの。殻がないと黄身も白身も外に流れちゃうんだから。家族にも、うっとうしいかもしれないけど、殻みたいな存在が必要なの。それが、厳しいおばあちゃんだったりするわけよ」

ひとりご飯で卵雑炊を食べ、家族を思う梅雨の朝。
わたしは、殻でも黄身でもない、たぶん白身のような母であり妻なのだろうと考えてみる。けれど、スポンジケーキが膨らむのは白身のおかげだ。家族に空気を含ませ風通しを良くするのが、白身の役目ってことかな。

丸ごと卵と、溶き卵。やさしい気持ちになる色合いですね。

葱は、雑炊には必須です。食欲も、そそられます。

丸ごと卵の黄身を、ご飯に絡めて食べる瞬間が好きなんです。

おかわりは、丸ごと卵がないので淋しくて、つい京七味を。
優しい味を求めつつ、いつも辛さの誘惑に勝てないわたし・・・。

これは、また別の日に作った『ファミレス』に出てくる卵かけご飯。
中学生男子ドンが、初めて料理に挑戦するシーンで作りました。
食べるラー油をご飯にざっと混ぜ、生卵をじかに割り入れます。

「オレ、前からずーっと思ってたんスよ。日本語の意味、違うじゃんって」
今世の中で食べられているのは、ほんとうに「卵かけご飯」なのか?
正しく表現するなら、あれは「卵混ぜご飯」と呼ぶべきではないのか?
「だからオレ、ここは一発、基本に戻って『混ぜない』ことにこだわってみようと思って」・・・ドンタマを作ったシーンより。

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新しいぞぞさんが来て

十年働いてくれた「ぞぞさん」が引退することになり、我が家に新しい「ぞぞさん」がやってきた。「ぞぞさん」とは冷蔵庫のことである。
川上弘美の連作短編集『ニシノユキヒコの恋と冒険』で登場人物が冷蔵庫をそう呼んでいるのを読んでから、それ以上にぴったりしたネーミングを思いつかない。以来、わたしのなかで冷蔵庫は「ぞぞさん」という名になっている。

入れ替えの際、古いぞぞさんの下にたまった埃を掃除機で吸った。もちろんルンバではなく普通の掃除機だ。よし、きれいになったとふとルンバに目をやると「僕がやるー」「僕も吸いたいのに」と言っているかのように見える。
そんなこと思っている訳もなかろうに、そう思えてしまうのはこちらの感覚で勝手に考えているからだ。ぞぞさんだって、デーンと構えているように見えて、じつは新しい居場所に馴染めず心細い思いをしているのかも知れない。ルンバにつんつん突かれこっそり涙を流しているということだって考えられる。

ある朝車中で、田んぼを悠々と飛ぶ白鷲に、つい言葉がこぼれた。
「のんびりと、飛んでるなあ」
しかし、夫曰く。「鷺だって餌を探して、じつは真剣なんだよ」
こちらの感覚で捉えると、のんびりしているように見えるだけなのだろう。

庭で見かけたカマキリにも、逆パターンで思う。
「餌を探して、目を光らせているのかな?」
カマキリだって、花の上でゆったりしているかも知れないのに、その姿かたちから受ける印象で、そう思ってしまう。

ルンバもぞぞさんも、白鷲もカマキリも、何を思っているのだろう。たぶん、わたしには想像もつかないことなのだろうな。

エコ重視で選んだぞぞさんは、日立の冷蔵庫です。

開け閉めしたときに、こんな表示が出てすぐに消えます。

こちらは、庭で見かけた若いカマキリ。
赤ちゃんっていうほど小さくないけれど、まだ透き通った黄緑色。
鎌も、やわらかそうです。
ここにじっとしていたのですが、カメラを向けると・・・。

気配に気づいたのか、あわてて動き出しました。可愛い。
ちゃんと気配を察知して、生き残る能力を備えた子のようです。
がんばって、生きろよ!

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持てる分だけ

夏糸で、自分用のレッグウォーマーを編んだ。
編み物をしたのは、四か月ぶりになるだろうか。冬の初めに何年かぶりに再開したのだが、二月に義母が心臓弁膜症で手術入院した頃、ぱたりと手につかなくなってしまった。
急に編みたくなって、自己流で気ままに編んでいただけだったので、手につかなくなったとて誰に迷惑をかける訳でもない。そのままやめてしまった。

編みたいと思って始めて、編みたくなくなったとやめた。
この気持ちの変化を自分なりに分析すると、キャパシティーの問題かな、というところで落ち着く。義母を心配する気持ちや、度重なる帰省での身体の疲れ。精神的にも体力的にも、わたしのキャパを超えていたのだろう。
荷物を持ちすぎて歩けなくなったら、どれか捨てるなり置くなりしなくてはならない。わたしはまず、編み物を置いたのだ。自分が持てる分を、意識せずとも知っていたということか。
それでも、持てる以上のものを背負わなくてはならない時期もあったし、これからもあるかも知れない。そんな時期を経て、捨てられる荷物を選別すべきお年頃になってきたのかな、とも思う。

そんなことを思い巡らせていた折り、退院した義母が、見舞ってくれた方々へのお礼状に自筆で一言ずつ添え書きしなくてはならず、それがしんどいしんどいと言っているのを聞いた。
「病後のお礼状に、自筆の添え書きがなくても誰も失礼だとは思いませんよ」
 やんわりとたしなめたのだが、義母は、頑固に言い張る。
「そうは言っても、これまでずっとそうしてきたから」
 それを聞き、つい言ってしまった。
「これまでと同じという訳には、いかないと思いますよ。減らしていくことを覚えていかなくちゃ」
 すると義母は、ハッとしたようにしばらく口をつぐみ、静かに言った。
「ほんとにそうねえ。あなたを負ぶったことはないけれど、負うた子に教わるとはこのことよねえ」

義母がぶじ退院し、戻ってきた編みたいという気持ち。消えてしまわないように、大切にしている。大切に、というのは、ひとまず簡単なモノから編むということ。小さなモノで自分のモノ。編み方に凝らず、手軽なかぎ針編み。編み針をいったん置き、知ったのだ。失くしたくないものなら、きちんと荷物に加えられるようになるまで大きくなり過ぎないよう注意を払っていくべきだと。

紺とうすーい水色を、二本どりで編みました。
長編みと鎖編みを交互に編んでいく、超簡単模様編みです。

フットネイルは明るいブルーにしたので、青系の糸を選びました。
涼しげに見えるけど、足首はちゃんとあったかいんです。
首がつくところは、冷やさない方がいいそうですよ。

スニーカーに合わせて、くしゃっとして履いてもいいですね。
神戸に帰省した際、三宮の高架下で気に入って買った靴です。
スニーカーというと思いだすのは、長嶋茂雄さんのインタビュー。
「スニーカー? なにそれ。へえ、運動靴のことなの?」
何気ないインタビューだけど、新しい言葉なんて知らなくても、
ちっとも恥ずかしくないんだと、ちょっとうれしくなりました。

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拉麺ファーストプライオリティ

山梨ラーメン食べ歩き紀行は、のんびりペースで続いている。
南アルプス市の『一代元』は、あっさり鶏がらスープとこってり豚骨スープが売りのチェーンらしい。
あっさり鶏がら塩、とだいだい見当をつけ、暖簾をくぐった。

メニューに一通り目を通したつもりだったが、メニューと同じ大きさのチラシが、まるで誘惑するかのように目に飛び込んできた。「塩海鮮ワンタン麺」とある。ふらふらっとそれを注文した。「塩」だし「海鮮」「たっぷり」「ワンタン」の文字に、くらくらっときてしまったのだ。
注文してからの待ち時間、メニューを見直し「あー、塩葱ラーメンもあったんだ」「わ、葱トッピングすればよかった」「海苔のトッピングもいいな」などと、もちろん声には出さず思考を巡らす。

ラーメンを注文するときのファーストプライオリティは、たっぷり葱が入っていること。だがその他となると、もういろいろあって迷っちゃう! というのが正直なところ。しかし今回の紀行で、はっきり判ったことがある。意外にも自分は「海鮮たっぷり」というワードに弱かったということだ。

「どれにしようかな」などと迷っているときって、あれこれ考えすぎて、いちばん大切なことを忘れてしまうことがある。夫とワインを買いに行ったとき「イタリアワインを買おう」と出かけたのに、値段はもちろんのこと、肉料理に合う、魚料理に合う、辛口、甘口、フルボディ、ミディアム、葡萄の種類は? などと見ていくうちに、フランスワインを買っていた、ということがあった。ファーストプライオリティはイタリアワインだったっていうのに。

さて。ふらふらっとオーダーした「塩海鮮ワンタン麺」は、予想を超えて美味かった。注文するときには、ファーストプライオリティを忘れずに。で、あとは直感なのかな。こと、ラーメンに関しては。

塩海鮮ワンタン麺です。あっさりしてるのにしっかりした味でした。
もちろん、ワンタンの海鮮の旨味ばっちり。次も頼んじゃいそう。

これが迷いを招いたメニュー。たくさんあるのはいいことなんだけど。

決定打の「海鮮」の文字。海鮮たっぷりワンタンにはもう勝てない。

国道52号沿いの飾り気のない外観です。
ネットで調べてなかったら、一人じゃ暖簾、くぐれなかったかも。

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記憶を呼び覚ます味

日曜のお昼。夫とワインを買いに出かけた。
「昼ご飯は、昨日のカレーでいいよね。夕飯の食材もあるし」
そう話していたので食材は買わず、酒屋でたっぷりとワインだけを買い、帰ってきた。だが、我が家が見えるか見えないかという段になって、夫が言った。
「急に、オープンサンドが食べたくなってきた」
「えーっ! パン、ないよ」
夫の気まぐれに呆れつつも、そのまま家の前を素通りし、パン屋に向かった。気ままなふたり暮らしである。

買ってきたパンを開け、胡瓜とトマトを切り、スクランブルエッグとウインナーを焼き、ふたり昼からビールを空けた。
「この食パン、美味いね」「焼き立て、ふわふわだ」
「食パンってそのままでも美味しいけど、何かと合わせてこそのパンだよね」
そんな気まぐれに気ままを載せたようなオープンサンドの昼食だったが、胡瓜とトマトだけのサンドイッチをかじった途端ふっと昔の記憶がよみがえった。
「この味、なつかしい。十代の頃バイトしてた喫茶店で、よく食べた」
口のなかに広がる味に、いくつものシーンが押し寄せてくる。バイト仲間がサンドイッチ用のパンにバターを塗るシーン。チーフに「塗り過ぎだ。コストを考えろ」と注意されるシーン。バイト仲間が「たくさん塗った方が美味しいじゃん」と陰で文句を言うシーン。そしてその、バターをたっぷり塗った美味しい胡瓜とトマトのサンドイッチをわたしがかじるシーン。

味、味覚ってすごいな、と驚いた。すっかり忘れていたことなのに、こんなふうに記憶を呼び覚ます力があるんだ、と。あのときのチーフもバイト仲間も、どうしているだろう。こんなふうに思いだすこと、あるのかな。

町内のパン屋さん『やまに』のパン、初めて購入しました。
昨年オープンしたそうです。

食パンと、細長いクランベリーチョコと、丸いココナッツパン。

あるもので、セルフオープンサンドの昼食になりました。

記憶を呼び覚ます味がした、胡瓜とトマトのオープンサンドです。

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ブレンド珈琲の香り

クラシフィカドール(珈琲鑑定士)による珈琲セミナーに、参加した。
場所は、市内の大泉町『森のHealing Space CHESHIRE(チェシャ)』
カッピング(珈琲の味比べ)を体験し、その後、自分好みのオリジナルブレンドを作ろうという3時間半の講座だった。

まずは産地別の6種類の珈琲、ブラジル、モカ、マンデリン、コロンビア、タンザニア、ジャバブロスタWIB-1を挽いた状態での香りを味わう。次に湯を注ぎ、また香りを嗅ぐ。さらに少し冷まし、かき混ぜて香りをたたせ、香りを嗅ぐ。そしてようやく口に含み、口腔内で香りと味を感じる。冷めた状態でさらに味見をする。これを、カッピングというのだそうだ。
そしてその6種類に深煎りのブラジルとコロンビアを足した8種類のなかから、自分なりのブレンドを作った。まずはスプーンで紙コップに目分量でブレンドし、気に入ったらそれを実際にブレンドして淹れてもらい味わってみる。

少しは珈琲の味が判ると自負していたのだが、これまでいちばん好きだと思っていたタンザニア(キリマンジャロ)よりもブラジルに魅かれたり、そもそもそれぞれの特徴がよく判らなかったり。これはもう判らないなりに素直に感じた通りブレンドするしかないと、モカベースでブレンドした。普通に美味しい珈琲にはなったが、難しいというのがいちばんにくる感想だった。
講座もラスト、参加者7名のブレンドを、少しずつ味見させてもらった。そのなかの一人がおっしゃった言葉がすとんと胸に落ちた。
「今まで苦手だと思っていたモカも、ブレンドすることで美味しく味わえるんだと知ることができました」
苦手なものも、何かと合わせることで好きになれることがある。それは、苦手なものを加えるからこそ、出会える味もあるということだ。
苦手なものと対峙したとき、ふっと、ブレンド珈琲の香りを思いだせたら、苦手なものに対する捉え方も変わるかも知れない。そう思うと、自分の持つ狭い世界が、少しだけ広がっていくように感じた。

お土産にいただいた珈琲豆。マイブレンドの他、アビシニアン モカ、
ルワンダのキヌヌ ブルボン、インドネシアのカロシがありました。
薪を燃やし石窯で焙煎した珈琲豆を、販売しているそうです。

マイブレンドは、モカとブラジルとマンデリンを合わせました。

教えていただいた基礎知識から、たぶんですが、
3つ並べた豆は、左からブラジル、モカ、マンデリンです。

いつものミルでゆっくり挽いて。いい香りが広がりました。

新鮮な豆は、膨らむなあ。一緒に気持ちも膨らんでいきます。

いつものカップにふたり分。美味しくいただきました。

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『二重生活』

小池真理子のサスペンス『二重生活』(角川文庫)を、読んだ。
大学院生の珠(たま)は、大学時代のゼミで「何の目的もない、見ず知らずの人の尾行」を題材にした本に出会った。珠は、ある日唐突に実行を思いつき、近所に住む男性、石坂の後をつける。一点の曇りもない幸せを絵に描いたように妻と娘と暮らす石坂だったが、待ち合わせ場所に現れた若い女に、聞いている方が恥ずかしくなるような愛の言葉をささやくのだった。

「理由なき尾行」に焦点を当てて描かれているが、読んでいくとすぐに、珠という女性の内面へと深く深く沈んでいくような感覚に陥る。珠は、尾行し他人の秘密を垣間見ることで、自分の内面を深く見つめざるを得ない心理に導かれていくのだ。以下本文から。

いつもは「桃子さん」と呼んでいるのに、メールの中でだけ、何故「桃っち」になるのか、ということについても、珠は、その本当の理由を質そうとはしなかった。卓也がメールの中で桃子のことを「桃っち」と書いてきたとしても、その真の理由など書いた本人ですらはっきりわかっていないに違いないのだ。
それなのに、と珠は思う。石坂史郎を「文学的・哲学的」に尾行し始めて以来、いつからともなく、自分が卓也と桃子のことで、理由のはっきりしない猜疑心を抱くようになっている。何か具体的、現実的な出来事があったのならまだしも、卓也はこれまでと何ひとつ変わらない。彼を疑わねばならない理由など、本当に毛筋ほどもないというのに。
やはり、石坂史郎を尾行することによって知った一連の秘密が、自分自身にも影響を及ぼしているのだろう、と珠は考えた。不思議だった。
結局のところ、人は秘密が好きなのだ。それを抱え込むことによって、どれだけ自分自身が苦しむか、知り尽くしていても、秘密は怪しい媚薬のように、人を惑わせる。秘密を抱えて生きている石坂史郎の気持ちの何分の一かが、珠にはわかるような気がしてならない。

尾行で垣間見た他人の秘密により、思いがけず自らのなかへと深く落ちていく珠。人は普段、自ら落ちそうな穴に蓋をして、うまく生きているのかも知れない。自分の心の奥底を覗くことは、たぶんいいことばかりではないのだろう。

映画『二重生活』は、今週末から公開されています。
山梨ではやらないんだけど、どうしてくれよう。

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二日目の南蛮漬け

「あーあ。やっぱりひと味もふた味も、違うなあ」
我が家の定番になりつつある鮭の南蛮漬けを作ったのだが、柚子が手に入らなかった。この季節だ。しょうがないかと、レモンをたっぷり半分絞ったのだが、やはり違う。柚子のあの味が、鮭の南蛮漬けにはぴったりくるのだ。
「柚子がなくってさあ」
夫との食卓でも、言い訳めいた言い方になる。
「いや。美味しいよ」
夫は、全く気にしない様子で食べてくれたのだが、やっぱり柚子のない季節に作るのはやめようかな、などと考えていた。

さて、翌日。
夕飯は、スペイン風オムレツと大根サラダでワインかなと話していたときのこと。夫がとてもうれしそうに言ったのだ。
「昨日の鮭も、まだあるよね。美味いんだよな、これが」
びっくりした。ひと味もふた味も違うと思っていた南蛮漬けを、彼はそれほどまでに美味しいと思ってくれていたのだ。
翌日食べた南蛮漬けは確かに美味かった。味が浸みて余計に美味しくなっていたのもあるかも知れないが、夫のひと言でわたしの見方が変わったのだろう。
「柚子のは柚子ので美味しいけど、レモンもいけるじゃん」

翌日残った分です。よーく味が浸みていました。

写真がなかったので、これは以前作った柚子入りの方。
いつも鮭5切れ分くらい、たっぷり作ります。

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ウイークエンドギャラリー『夢宇』

陶器を見るのが、大好きだ。
市内の大泉町にあるウイークエンドギャラリー『夢宇(むう)』は、数多くの陶器を扱っている店で、店内を歩いているだけで胸がしんとしてくる。わくわくとは違う、とても静かなよろこびのようなものが胸に広がる。
『夢宇』の周辺は『夢宇谷(むうだに)』と名づけられていて『ムーミン谷』を連想する。そのせいか、現実とは違う世界に足を踏み入れたような感覚になる。雪深い冬の間店を閉めるのも、冬眠するムーミン達の谷と似ている。

『夢宇』には、たくさんの陶器がある。雑貨もある。
しかし、そこに足を踏み入れたときに感じるのは、大好きなモノに出会える予感が起こす高揚とはまた、違った感覚だ。
『夢宇』は、とても広い。
空間の大きさ、広がりがあることって大切だ。けれど、ただ広ければいいというものではない。狭さが何ともいえず落ち着く空間を造り出しているカフェだってある。人がしっくりくるような空間の使い方って、大切なのだと思う。広い広い空間が広がる『夢宇』には、陶器や雑貨のほかに、しっかりと存在を感じるモノがある。それは、いくつもの上質な空白だ。たぶん普段、家には置いていない種類の空白。
陶器を手にとり、染め物に触れ、漆器を撫で、空白に心を寄せる。定期的に訪ねたくなるのは、そんな上質な空白を求めているからなのかも知れない。

文字、一字一字の力を感じさせるような看板です。

石臼のような鉢が、庭じゅうに並んでいます。

入口を入ってすぐ目に入るのは、大きな瓶。1mくらいあるのかな。

外廊下がずっと続いていて、シーサーもあちらこちらに。

室内が見える窓。こんなディスプレイにも遊び心が感じられます。

まだまだ廊下が続いて、廊下にも器、器、器。

吹き抜けの2階建てになっている店内も、とても広いです。
撮影はご自由に、とのこと。写真を撮らせてもらいました。

壁に展示されていたお皿。展示のしかたもいろいろです。

ヤマボウシの花をこんなふうに活けるなんて、思いつかなかった。

レトロなポスターも、コレクションに加えたようです。

陶芸家、森下真吾さんの器を、夫が気に入って購入しました。
我が家の真吾ちゃんコレクションは → こちら

オクラのお浸しで、食卓デビュー。小鉢として重宝しそうです。

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左手くん、ふたたびトリガーについて語る

「読んだばっかりの『エッセンシャル思考』にさ、トリガーを作るっていうのが出てきたじゃない?」と、左手くん。
「それって、前に左手くんが教えてくれたトリガーポイントのトリガーのこと? 確か、英語で引き鉄のことだったよね」と、右手くん。
「そうそう。身体にも心にも、実際の痛みや感情とは別のところに引き鉄になるポイントがあるって話したねえ」
「で、トリガーを作るって、引き鉄を作るってこと?」
「うん。知らず知らずのうちに引かれてしまう引き鉄も多いんだけど、それを自分で作ることで、いい習慣を作っていこうって作戦なんだ」
「『エッセンシャル思考』では、ここのところかな。以下本文から」

会社帰りのケーキ屋がお菓子を買うトリガーになっているなら、その店を見た瞬間に向かいの惣菜屋でサラダを買うようにすればいい。目覚ましの音がメールチェックのトリガーになっているなら、目覚ましが鳴った瞬間に本を手にとって読みはじめるといい。最初はかなり抵抗があると思う。それでも新しい行動をやりつづけていれば、トリガーと行動の新しい結びつきがだんだん脳に定着していく。やがて新しい行動が習慣化し、無意識のうちに新しい行動が引き起こされるようになるはずだ。

「で、僕は手としてね、もっと大切にしてもらうためのトリガーを作ろうと思うんだ。最近、ハンドクリーム塗ってもらえなくなったと思わない?」
「うん。確かに冬場と違って、なかなかハンドクリーム塗ってもらえなくなった。でも、何処にどうやってトリガー作るつもり?」
「そうだなあ、ねえ、いちばん塗ってほしいときはいつだと思う?」
「うーん。洗い物をしたあとかな」
「よし。じゃあ、キッチンにトリガーを作ろう」
「ハンドクリームをさ、目立つところに置いておくとか?」
「それいいんだけど、キッチンごちゃごちゃしてて、目立つかな?」
「だよねえ。しょうがない。片づけるか」
「そうだね。ハンドクリームだけ、ぽつねんと置いてあったら、いくら何でもも気づくでしょ」
いそいそと、左手くんと右手くんはキッチンにハンドクリーム・トリガーを作っていった。果たして、彼らの目論見は成功するのだろうか。こうご期待!

左手くんが、トリガーポイントを作る前のキッチン。
オリーブオイルやビネガーの他、買ってきた食品の袋もあります。

トリガー完成図。ロクシタンのヴァ―ベナ・アイスハンドクリーム。
小さいだけに、しっかり自己主張してくれそうです。
あとは、またモノを置かないっていうのが、むずかしいんだよね。
そして、いい習慣を作るためには片づけが不可欠だと学習・・・。

初夏の庭です。ヒメシャラの白い花、大好き。
別名、夏椿。咲いては、ぽとりと落ちています。

木苺が、あちらこちらに真っ赤な実をつけています。

ブルーベリーは、少しずつ熟していく途中。

ガク紫陽花が、ようやく色づきました。

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ないものとあるもの

我が町、山梨県北杜市明野町には、「ない」ものがたくさんある。
スーパーがない。コンビニもない。ファミレスも、マックももちろんない。(マックは北杜市内にない)銀行も、本屋も、酒屋もない。高校もないし、大学は当然ない。電車が通って「ない」から線路も、駅も、踏切もない。信号は4つしか「ない」し、路線バスは2時間に1本くらいしか「ない」上、夜7時以降は運行し「ない」

けれど他の町には、ないであろうものがある。
さくらんぼ農園も、そのひとつ。今の季節、農園には大型バスが何台もやってきて、さくらんぼ狩りを楽しむ人でにぎやかだ。佐藤錦と紅秀峰。明野のさくらんぼは、じつはものすごく美味しい。採れたてを食べるのだから当然かもしれないが、スーパーで売っている山形ブランドよりも、ずっと瑞々しいのだ。

神戸で暮らす義母と、叔母に、そのさくらんぼを送った。
「綺麗ねえ。宝石みたいねえ」と、とても喜んでくれた。

よくある絵柄のような2つくっついたさくらんぼに、天秤を連想した。甘みと酸味のバランスが絶妙で人気トップを誇る佐藤錦。バランスって大切だ。
さて。「ない」と「ある」を天秤に載せたら、どちらに傾くのだろう。
「ない」の重みは、意外とずっしりくるんじゃないだろうか。さくらんぼの甘みと酸味を味わいながら、考えるともなしに考えた。

木に生っている姿も、可愛らしい。

ビニールハウスには、青々とした葉がのびのびと茂っています。
ここを歩いて、さくらんぼ摘みができます。

まさに宝石の輝きです。紅秀峰、初めて聞く名でした。

よーく冷やして。冷やすと自然の酸味が味わい深くなるようです。

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『エッセンシャル思考』

社内で流行っているビジネス書を、読んだ。
『エッセンシャル思考 最小の時間で成果を最大にする』(かんき出版)
著者はグレッグ・マキューン。シリコンバレーのコンサルティング会社 のトップだ。ビジネス書として全米でベストセラーになった本だが、ビジネスだけではなく、生き方を見直すためのアドバイスがかかれている。エッセンシャルとは「欠くことのできない」「本質的な」などの意味を持つ。

第11章『拒否 断固として断る』にあったエピソードが印象的だった。
12歳のシンシアは父親とのデートを数カ月前から楽しみにしていた。ふたりでプランを完璧に練り上げ、わくわくしながら父親の仕事が終わるのを待っていた。以下本文から。

ところが当日、講演会場を出ようとしたとき、父親の仕事仲間にばったり出くわした。学生時代からの友人だが、会うのは数年ぶりだ。興奮して再会を喜ぶふたりを、シンシアは横で眺めていた。父親の友人はこう言った。
「われわれの会社と仕事をしてくれるなんて、うれしいよ。ルイスも僕も完璧な人選だと確信しているんだ。ところで、埠頭に最高のシーフードを食わせる店があるんだが、よかったら一緒にどうだい。もちろんシンシアも一緒にね」
父親はそれを聞くと、勢いよく言った。
「それはいいね。埠頭でディナーとは、最高だろうな!」
シンシアは意気消沈した。楽しみにしていたケーブルカーも映画もおやつも、これでおじゃんだ。シーフードは好きじゃないし、大人たちの会話を聞きつづけるなんて退屈すぎる。だがそのとき、父親はこうつづけた。
「でも今夜は駄目なんだ。シンシアと特別なデートの約束をしているものでね。そうだろう?」
父親はシンシアにウインクし、そっと手をとって歩き出した。会場をあとにしたふたりは、サンフランシスコで一生忘れられない夜を過ごしたのだった。

「本当に重要なのは何か?」
人生の分かれ道に直面したら、自分にこう問いかけてほしい。
そう、グレッグ・マキューンは、この本の随所で言っている。

夫が購入した Kindle 版です。

これは、どちらも同じだけのエネルギーを使っている図。
左は、あらゆる方向に努力が引き裂かれてしまい、どの方向にも
ほんの少しずつしか進めない。右は、努力の方向が絞られているから、
とても遠くまで進むことができる。

エッセンシャル思考モデルの表です。
非エッセンシャル思考では「みんな・すべて・・・やらなくては。どれも
大事だ。全部こなす方法は?」と考え、エッセンシャル思考では、
「より少なく、しかしより良く・・・これをやろう。大事なことは少ない。
何を捨てるべきか?」と考える、とあります。

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時間という概念

自分のなかで時間というモノの捉え方が変わったのは、いつの頃からだろう。
若い頃は、一日と一週間と一カ月と一年と、それから一生を、それぞれ楕円が広がるイメージを抱いていた。その楕円は次の楕円につながり、延々と楕円を描き続けていく。その楕円には、予定やすでに過ぎ去った出来事が点在している。子どもの頃に遊んだ人生ゲームのイメージなのかも知れない。

それが、あるとき大きく変わった。わたしが今、捉えている時間は、今日と明日とそれ以降。大まかにいうとその3つだけ。今日やるべきことをやる。明日やるべきことを知っておく。それ以降はカレンダーに記憶させる。昨日以前のことは、覚えていたいことだけ覚えていればいい。

時間の捉え方を変えたことで、毎日が楽になり、楽しくなった。
それは、多くを抱えすぎるのをやめたことで、今やるべきこと、今日やるべきことに集中できるようになったからなのだと思う。
経理事務の仕事は、ルーティンだ。月初め、月中、月末を繰り返していく。
延々と続く楕円を把握していないと落ち着かなかった不器用なわたしだが、月ごとのルーティンワークを20年以上続けてようやく得た感覚だと言える。

楕円は、今もわたしのなかに漠然と残っている。
セロリの千切りサラダを作るとき、その楕円のイメージをなつかしく思い出す。延々と続く楕円のなかに居たならば、セロリを一株千切りにしようなどとは思わなかっただろう。ゆっくりと包丁を動かしながら、今やるべきことに集中できる幸せを噛みしめる。あさって以降、どんな風が吹くかは判らなくても生きていけるのだ。

鶏ささみのニンニク焼きとセロリの千切りサラダは、我が家の定番。
山葵マヨネーズが、やめられないとまらない味です。

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小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在

夫がとうとう、ルンバを「びっきー」と呼んだ。

「びっきー」というのは我が家の愛犬。13歳で彼が死んでから2年半経つ。上の娘の10歳のバースデイプレゼントだったから飼い主は娘だ。里親の会のイベントで捨て犬だったびっきーを選んだのも、名前をつけたのも娘である。
その頃、末娘はまだ5歳。小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在だった末娘。そこにもっと小さなびっきーが来て、わたしはちょっと混乱した。ついつい、呼んでしまうのだ。「びっきー」と呼ぶところ、末娘の名を。「あ、そこは危ないよ」とか、とっさのときに。
末娘からしたら、それはかなりおもしろくないことだったようだ。「小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在である」という共通点が招く混乱なのだが、若干5歳の彼女にそんな大人の都合が理解できるはずもない。

そんなことが記憶にあったので、感慨深いのだ。
「ふーむ。とうとう呼んだか。ルンバを、びっきーと」
しかし彼は「小さくて可愛らしくて守ってあげるべき存在」なのだろうか。ベッドの下に入ろうとして挟まって動けなくなったりしていると、ちょっと可愛いなと思ったりもするのだが。

びっきーは、生後2カ月で我が家にやってきました。
自分の家に、ちょっと慣れた頃の写真です。

飼い主である上の娘と、嬉しそうに散歩するびっきー。

夏毛に生えかわって、元気いっぱい走り回っていたびっきー。

冬毛がふさふさ生えていて、ちょっとだけ強そうに見えるびっきー。
「ごぶさたしています。びっきーです。ちょっとおとーさん、
ルンバと僕が一緒っていうのは、ひどいんじゃないでしょうか。
えっ? なかなか可愛いやつだから、友達になってくれって?
2階から落ちないように見張ってくれないかって?
責任は持てませんけど。そう言うんなら。犬が好いなあ、僕も」

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森のなかの蕎麦屋で

先週末、市内は大泉町の『豪蕎麦』に夫婦でお昼を食べに寄ったときのこと。
暑い日だったが大泉の森のなかにある蕎麦屋は気持ちよく涼しく、テラス席に座ろうということになった。すでに2時近く、先客は女性グループ4人のみ。そのかしましさに苦笑したが、自分だって友人達と飲みに行けば輪をかけてかしましいのだと思い至る。元気なおばちゃん達がいてこそ元気な世の中になる訳だし。女が三人集まって「姦しい」という漢字にはちょっと笑えるが。

比較する訳ではないが、わたし達夫婦は蕎麦を待つ間、ぽつり、ぽつりとしゃべるだけ。静かだ。夫婦ふたりの生活になり、ふたりでの食事があたりまえになり、家ではテレビを観ながらだったり、朝は夫が新聞を読みながらだったりと、たいして話らしい話もせずに食事を終えることも多くなった。
蕎麦屋でもそれに変わりはない。
「今年は、ウグイスの声、あんまり聞かなかったね」と、ぽつり。
「ちゃんと鳴いてるの、一度も聞いてないかも」と、ぽつり。
「太陽光発電が、あっちこっちにできてるせいかな」と、ぽつり。
「そうかも知れないね。そう言えばさ」と、思いだしたようにぽつり。
このあいだ上の娘が帰ってきたときに、言っていたと夫がいう。
「久しぶりに帰ってくると、鳥の声に癒されるねえ」と。
毎日聞いていると、癒されるどころか鳴いているのがあたりまえになり、耳に入ってこないことの方が多くなる。
夫とふたりの食事も、そうかも知れないなあと思った。あたりまえになりすぎて意識することのなくなった大切なモノや、大切にするべき時間達。たぶん、他にもたくさんあるのだろう。

『豪蕎麦』の看板。インパクトのある文字ですね。

階段を上ると、ウッドデッキの広がるお店があります。

山菜きのこぶっかけ蕎麦を、いただきました。

夫は、にしん蕎麦を食べていました。にしん一口もらいました。
やわらかく煮えていて、蕎麦つゆににしんの出汁がしみて美味でした。

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『ふたつめの月』

近藤史恵の連作短編集『ふたつめの月』(文春文庫)を、読んだ。
老人が探偵役をするコージーミステリー『賢者はベンチで思索する』の続編だ。主人公、久里子は少し成長し23歳になっていたが、就職したばかりの会社を突然クビになり、途方に暮れているシーンからのスタートである。
1話目。久しぶりにあった会社の友人は、解雇されて辞めたはずの久里子が自ら辞めたような口ぶりで話す。「何かがおかしい」久里子は赤坂老人に、もやもやした気持ちを聞いてもらうのだが。
2話目。料理修業でイタリア留学中の弓田が、一時帰国した。気持ちは伝え合っていなくても恋人だと思っていた久里子に、弓田は年下の幼馴染み、明日香の相談役を頼むのだった。
表題作の3話目。赤坂老人が、久里子の目の前で自動車事故に遭う。入院した赤坂は、久里子に頼みごとをした。街灯をひとつ壊してほしいと。本当にやりたい仕事。大好きな弓田の気持ち。謎だらけの赤坂の真意。刑事が追う真相。久里子の頭のなかは、未完成のパーツがばらばらに散らばっているようだった。以下本文から。

「自分がどうしたいかわからなかったら、どうすればいいんですか?」
自然に抗議するような口調になってしまった。
「そうだね。簡単に決められる人の方が世の中には少ないだろう。でもそれなら、自分の心が決まるまで、待てばいい」
それならば、今と一緒だ。久里子の表情に気づいて、赤坂は笑った。
「不幸になる人の多くは、相手がなにかをしてくれるのを待っているんだ。相手がなにかしてくれれば、今の状況も変わるかもしれないと思って待っている。でも、そうではなくて、自分の心が決まるのを待ちなさい。そのふたつは、大きく違うよ」
赤坂は飲み終えたカップを、ベッドの脇に置いた。久里子も黙って赤坂の話を聞いていた。赤坂は弓田のことだけではなく、自分のことについて、話しているような気がした。
「もし間違っても、しくじっても、自分の選んだ方向なら、それなりに歩くことができるものだよ。自分で選ばずに、嫌々歩く道がいちばんつらいはずだ」

待つことがいけないのではない。自分の人生を誰かに委ね、何もせず待ってばかりいて、挙句不幸だと嘆くのは、もう他の誰のせいでもなく自分自身が選んだ道、選んだ不幸だ、ということなのだろう。
赤坂じいさんのこういう、ちょっと厳しい、けれどフェアだと思えるような考え方、好きだなあ。

『賢者』は、飼い犬たちの事件から始まりますが、
『月』では、久里子の愛犬アンとトモは、愛すべき脇役に徹します。
続き、出ないかなあ。かいてほしいなあ。読みたいなあ。
『月』の解説は表紙のイラストを描いた、松尾たいこです。

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だらだらダイエットのススメ

5年ほど前に体重が3kg増えてから、ダイエットと称し様々やってみた。
しかし一度として1kgたりとも減ることはなかった。それがここへきて、ようやく1kg減った。やった! うれしい。でも、どうして?
ダイエットが成功しないことのいちばん大きな原因は、判っている。真剣にとりくんでいないからだ。突如として本気を出した、という訳ではない。変わらずのだらだらぶりは、自分がいちんばんよく知っている。じゃあ、なんで?

冷えとり靴下を履き始めて3週間ほど。ダイエットにも効果はあるらしいが、まさかねえ。ふくらはぎの張りが緩和され楽になったので続けているだけだ。
何年か前に流行ったという野菜スープダイエットを試してみた。野菜スープ、鍋2杯分だけだけど。
夕飯を食べ過ぎたら朝食を抜く、という方法もたまにやっている。
禁酒も試みた。3日でギブアップした。
もずくはスープにもずく酢と、よく食べるようになったが、ただ好きだから。
腰を痛めてから、腰痛体操と腰を回す体操をときどきやっている。
姿勢矯正のヨガ、ひめトレを、1時間体験した。
蒟蒻ラーメンなるものを、購入し楽しんでもいる。

かき連ねてみれば、いろいろやっている。これだけやっていれば、ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たるというもの。問題は、何が有効だったのかが不明だという点だ。まあ、全部合わせて1kgだったのかも知れないし、だらだらダイエットのススメとでも銘打って、このままだらだら続けるか。
それはそうと、蒟蒻ラーメンは、いける。

6種類入って1000円のお試しセットを、購入しました。

まずは味噌ラーメンから。量的には普通のラーメンの3分の2くらい?
スープまですべてたいらげて、79kCal だそうです。
でもスープ全部は、塩分の方が気になるから飲みませんが。

麺は茹でません。ザルに上げて熱湯を注ぐだけ。温めるだけ。
スープも、丼ぶりに入れて熱湯を注ぐだけ。
麺の主成分は、蒟蒻と大豆だそうです。身体によさそう。
開封時に蒟蒻の匂いがしますが、食べる時にはぜーんぜん。

白髪葱と豆板醤、胡麻油を和えたかんたん辛葱を作って。
これはダイエットとも身体のためとも関係なく、好きだから。

辛葱味噌ラーメンのできあがり。辛葱のせいかお味少し濃い目。
熱湯で薄め、美味しくいただいて、満腹になりました。

あくる日は、塩ラーメン。なんと31kCal です。
小口切りの葱と茗荷と半熟卵で、優しい味に。

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落とし物は、いったい何?

とあるJRの駅のホームで、電車を待っていたときのこと。
アナウンスが流れた。
「改札付近に落ちていた、落とし物を預かっています。お心あたりのある方は、改札口までお越しください」
えっ? 落とし物? 途端に不安になり、バッグのなかを探る。財布ある。スイカある。ケータイある。ハンカチもある。
ふと周りを見回すと、老若男女みな一様に不安げな面持ちでバッグを探ったり、ポケットに手を入れたりしている。通り過ぎた年上のご婦人二人は、顔を見合わせて話していた。
「落としたものはないと思うけど、不安になるわねえ」
「そもそも何が落とし物なのか判らないんじゃ、心あたりも何もねえ」
まさにその通り。何か判らないから、誰もが不安になってしまったのだ。

電車に乗ってからも、想像を膨らませた。落とし物、いったい何だったんだろう。判らないからこそ想像は膨らんでいく。傘や財布やケータイではない、何か。構内放送で言えないようなもの? それとも、例えば「財布」などと特定しない方が安全と考えたのか。

一輪の真っ赤な薔薇。生まれたての真っ白い子猫。オーブンから出したばかりのサックサクのクロワッサン。貝のなかで眠る真珠。木から転げた椰子の実。片目だけ入っただるま。チョークの粉だらけの黒板消し。ネバーエンディングストーリーに出てきた空飛ぶ竜ファルコン。
考えるほどに改札口はにぎやかになっていく。そんな在らぬ想像を膨らませているうちに車中珍しく本を開くことなく時間はあっという間に過ぎていった。

駅のホームに置かれていた、鉢植えの花です。

花達は何色であれ、放送に動揺することはありませんでした。

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「どうして」と「どうしたら」の違い

何を勘違いしたのか、完璧だと思っていた。
いや。実際には思っていたわけではない。常に自分が完璧なはずはあるまいと疑ってはいるのだ。それなのに、意識下でそんな妄想を抱いてしまっていた。
朝6時。炊き立てのご飯。味噌汁は油揚げ、大根、椎茸、ワカメ、薬味に茗荷をのせた。鯵のひらきには大根もおろし、納豆には新鮮な葱を刻んだ。庭で生った山椒の実をちりめん雑魚と佃煮にしたものもある。
心の何処かで、思っていたに違いない。完璧だ!

しかし、それを写真に撮ろうとカメラを探したが見当たらない。
「あっ!」夫が、声をあげた。
「昨日、庭でカメラ置いたまま、草取りしてたでしょ」
「あーっ!」今度はわたしが、声をあげた。
一晩中降り続いた雨。土砂降りとはいかずとも、本降りの雨だった。カメラはずぶぬれになり、電源を入れようとしても沈黙したまま。大失敗である。
「うつむいて咲くホタルブクロを、下から撮ろうなんてことしたから、ばちが当たったのかな」
ぽつりとつぶやくも、ばちとかそういう問題じゃないことは、自分がいちばんよく知っている。自らの不注意以外の何ものでもないのだ。

そう言えば、と末娘が自分で作った土鈴を落としてわってしまったときのことを思い出した。彼女は5歳くらいだっただろうか。失敗した本人がいちばんショックで、いちばん辛い。それなのに親は、つい「どうして、しっかり持ってなかったの!」などと叱ってしまうことも多い。この場合の「どうして」は問いかけではなく、責めの言葉に他ならない。わたしは喉まで出かかったその言葉をごくりと飲み込んだ。そして瞬間接着剤で土鈴を修理しながら、どうしたら落とさずにしっかりとモノを持てるのか、ふたりで話したのだった。片手で持たないとか、指を全部使うとか、そんな些細なことだったと思う。
「どうして」と自分を責めず「どうしたら」いいか考えよう。カメラは、決して外には置かない。今のところ考えつくのはこのくらいなのだが。

庭のイチイの木の下に咲いたホタルブクロ達。あっちこっち向いてる。

アップにして。小さな蕾が大きく膨らむ姿に、毎年驚かされます。

下から覗き込むようにして撮りました。恥ずかしかったかな。
カメラは修理に出しました。2週間ほどかかるそうです。
とりあえずデータはぶじでした。このホタルブクロも。とほほ。

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鉄のやわらかさを知る

気持ちよく晴れた土曜日。夫婦で、清里に出かけた。
夫の友人が『萌木の村』で鉄細工のワークショップをやっていて、それを見に行ったのだ。彼、三井亮さんは『鉄刻屋』さん。鉄細工のアーティストだ。

鉄細工体験でキーホルダーかペンダントを作れるというので、三日月の形のペンダントを作らせてもらうことにした。
皮の手袋をはめ、金槌を握る。まずは練習だ。鉄の台を叩く。
「もっと強く叩いてください」
アドバイスに従い叩くが、なかなか思うような場所に振り下せない。
それからバーナーで細い鉄の棒を熱した先を、実際に叩いた。
それをペンチで、三日月のカーブに曲げてもらう。
「三日月の形にするには、カーブの外側を叩いてくださいね」
叩いた場所が伸びるのだという。内側を叩いてしまうと、カーブが広がってしまうらしい。少し緊張しながら叩く。
そのあと、紐を通す部分を輪にするために熱をあて、彼が細く伸ばしていく。そして、鉄の棒からカットするのをやらせてもらった。片方が平たくなった金槌をカットする部分にあてて、金槌の平らな方を叩いていく。カットが終わると、そこからはプロの仕事。紐が通せるようにお洒落な輪っかを作り、ワックスを塗ってからもう一度焼いて蝋をとばし、仕上げてくれた。

鉄を叩いたのは初めてのことだったが、熱すれば鉄が硬いモノではなくなることはもちろん知っていた。それなのに、たった10分ほどの体験が、とても新鮮に感じられた。自分の力で鉄が形を変えていく瞬間、たぶん鉄のやわらかさを体感したからなのだと思う。それは、新鮮であると同時に「わくわく」と「小さな驚き」がないまぜになったような、ちょっと不思議な、今までに体験したことのない感覚だった。

この週末『萌木の村』の広場で行われていたイベントです。
『鉄刻屋』さんの作品は → こちら

銀の金槌と金の金槌、どっちがあなたの金槌ですか?
言うたびに、夫に嫌な顔をされるギャグです(笑)

うわー、まさにへっぴり腰。一生懸命叩いてたんだけどなあ。

輪になる部分を細く叩くために、熱しています。
火の色に焼けていますね。「あついよ」とかかれているのは、
金槌がしっかり握れる3歳のお子さんから体験できるから。
体験コーナーのこのバーナーで600℃くらいになるそうです。

カットした端を、やすりで整えているところです。

輪っかの部分を整えるために、また焼いています。

真剣な鉄刻屋さん。やさしく感じの好い彼ですが、腕が太い!
重たい鉄を叩く仕事をしているんだなあと、実感しました。

できあがった三日月のペンダント。うれしいな。

叩いたところの凹凸がが、いい感じ。世界に一つだけのペンダント。

『鉄刻屋』さんの看板です。もちろん鉄でできています。

『萌木の村』の『萌木窯』を拠点に、活動中だそうです。

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『ファミレス』

重松清の長編小説『ファミレス』(角川文庫)を、読んだ。
夫婦モノであり、料理小説でもある。珍しいなと思ったのは、その夫婦の年齢が50歳前後。主役の夫婦は、子ども達が就職や進学を機に家を出て夫婦二人になったところ。同年代と言ってもまあいいであろうお年頃なのだ。
中学校教師、宮本陽平(48歳)は、息子を地方大学に送りだしたその日、妻、美代子の署名入りの離婚届を見つけてしまう。夫婦関係に何も問題はないと思っていただけに、愕然とする陽平。料理が唯一の趣味である彼は、キッチンに並んで料理しながらも、妻の様子を気にかける毎日となった。
料理友達で、雑誌編集長の一博と惣菜屋を営む康文も、それぞれに家庭の悩みを抱えていた。小説は、陽平、一博、康文の3視点で紡がれていて、さらに陽平は職場の中学でも心配事に追われ、物語は、彼のやるせない気持ちを置き去りにしたまま進んでいくのだった。以下本文から。

「おひとりさま」で座っている中年男性の面々も、かつてはカミさんや子どもたちとファミリーレストランのテーブルを囲んだことがあったのだろうか。
窓の外に目を移すと、雨はいつのまにか本降りになっていた。かなり強い雨脚だ。さっきまでの中途半端な降り方よりも、いっそこのほうがすっきりする。
若い連中は「あーあ、けっこう降ってきちゃったよ」「サイテー」「梅雨入りじゃね?」「まだ早えよバーカ」とぼやいている。ベンチシートにヘルメットが見えているから、バイクで来ているのかもしれない。小さな子どもを連れたママのグループも困っている様子だったし、お年寄りの皆さんも、やれやれ、と外を眺めていた。
だが、「おひとりさま」たちは嘆かない。あせらない。にわか雨ごときでおたおたするな、という達観なのか、諦念なのか、ただ無気力なだけなのか、困惑も動揺もなく、コーヒーを啜り、ハンバーグを頬張って、若い連中よりもずっとぎこちない手つきでスマホを操作する。
そんな彼らを見ていて、ふと思った。ファミリーレストランの略称「ファミレス」はほんとうは「ファミリーレス」家族なし、という意味なのではないか?

小説のなか、妻、美代子が寿司屋のカウンターで、おひとりさま体験を楽しむシーンがある。何を隠そう、わたしはおひとりさま行動が大好きだ。もちろん、家族や夫婦、友人達との食事も楽しいが、ふらりと一杯呑み屋で酒と時間を楽しめる女性に、強く憧れている。でもそれって、家族がいる、夫がいるという裏打ちがあってこそ楽しめることかも知れないなあ、とも思うのだ。
はてさて、陽平、美代子夫婦の運命や如何に。

上巻は、一人の食卓。下巻は、団欒っぽい表紙絵になっています。

来年1月映画公開だそうです。映画版タイトルは『恋妻家宮本』
監督は『家政婦のミタ』などの脚本で知られる遊川和彦。
主演は阿部寛と天海祐希。二人が夫婦を演じるのは初めてだとか。

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ずぼらな性格に胡坐をかかない

ジェルネイルをしてもらうようになって、もうすぐ1年になる。
新しいことを始めると大抵そうだが、今まで気にならなかったことが気になってしょうがなくなることがある。ネイルもそうだ。これまで頓着しなかった「手」が、気になるようになったのである。
手荒れをしないようにと、夏でもハンドクリームを塗るのは以前からの習慣だが、気になるようになったのは日焼けだ。ネイルしてもらいながら、ぼんやり眺め「黒いなあ」ついつぶやいてしまうほどに、日に焼けている。
顔や首にはUVカットのファンデーションや強めの日焼け止めを塗っているが、手はすぐに洗ってしまうし、日焼け止めのついた手でやりたくないことも多い。それで、そのまま洗濯物を干したり、運転したりして、夏を待たずしてすでに黒く焼けてしまった。

「ずぼらだから、曇りの日とか手袋せずに運転しちゃったりするんだよね」
ネイルをしてもらいながらのおしゃべりも、紫外線対策だ。
「曇りの日でも紫外線、けっこう強いんですよ」と、若い彼女。
「そうだよね。ずぼらを言い訳にしてちゃだめだよね」
今年は、指先までちゃんとあるUVカットの手袋を買った。買っただけで使わなければ意味がない。ずぼらな性格に胡坐をかかず、しっかり手袋をはめて運転するぞ。洗濯物だって干しちゃうぞ。誓いを新たにしたのだった。

夏らしい涼しげなモロッコネイルにしてもらいました。
手、焼けてる~。でも真っ白な手よりも、逆に似合うかも(笑)

愛用のクジャクの羽根模様の帽子と指先まであるUVカットの手袋。
手袋は、手のひら部分に滑り止めがついていて運転も安心です。

これも、UVカットのショール。冷房よけにも重宝します。

広げると、お花畑。お気に入りのショールです。

この紫のお花は、ホタルブクロ? いえ、リンドウでしょうか。

これはサクラソウかな? なんて考えるのも、楽しいです。

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ちょっと寄り道 その4

ちょっと寄り道する場所の一つに、コイン洗車場がある。
買い物ついでに気軽に寄れる国道沿い。最初は夫と行っていたのだが、最近は一人で寄り道するようになった。ずぼらな性格であるが、あまりに汚い車に乗るのは、そんなわたしでも気が進まないモノだ。シャンプーだけして軽く拭いて15分。ドライブスルー洗車と看板にあるだけのことはあり、お手軽だ。

ところで、何度やっても慣れないのが、停車している車の周りを機械の箱が動いていく、あれ。まるで、自分の車が動いているかのような錯覚に陥ってしまう。油断をしていると、うわっ! と声を出してしまうことさえある。
洗車機のなかでは、さすがにパニックにはならないが、駐車場でバックしているときに隣りの車が動いたりすると、自分の車が操れなくなったような感覚になり一瞬パニック状態になることがある。あれは、怖い。

特に運転しているときには、自分が動かしているという意識から、自分中心に感じてしまうのかも知れない。
些細なことである。だが、とるにたらないような感覚だけれど、これはこれで無駄じゃないとも思う。一瞬でも怖いと感じた経験が、注意深く運転することにつながっていくような気がするのだ。潜在意識に働きかけるひとつひとつのことが多々あって、ようやく普通に生きることができているような、そんな見えない力に守られているような気が、ふっとするときがあるのだ。

突き当りを右に曲がったところに、コイン投入口があります。
シャンプーだけなら400円。置いてあるタオルも使い放題です。

この赤い箱の中に入るんだけど、
停まっている車の前後を、これが微妙にゆっくりと動くんです。

わ~! 判っていても、つい顔を避けたり瞬きしたりしちゃう。

そして乾燥機。水滴を風で飛ばし、乾かしてくれます。

置いてあるタオルで窓ガラスとボディを拭いて。うん。綺麗になった。
シャンプーだけじゃピッカピカとはいかないけど、こんなもんでしょ。

寄り道ついでに大賀蓮の池に行ったけど、まだ蕾もありませんでした。

紫陽花も、まだまだこれからのようです。

今の季節、笑顔で出迎えてくれたのはアイリスだけでした。

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良い香水は小さな瓶に入っている

今年も、庭で生った山椒の実を収穫した。
小さな木なのでほんの少しだが、ちりめん雑魚と佃煮にすれば、夫婦ふたりで1週間ほどは楽しめる。
「山椒は小粒でもぴりりと辛い」とは、身体が小さくとも優れた才を持つ、侮れない者のこと。よく知られた諺だ。唐辛子などに比べると、小さな山椒の実。海外でも似たような諺があるらしい。ウクライナでは「小さな火花から大火事」ポーランドでは「小さな身体に大きな心」そしてベネズエラでは「良い香水は小さな瓶に入っている」と言われているそうだ。日本の諺も趣のあるものが多く大好きだが、香水に例えるなんて、何ともお洒落だ。

お洒落なだけじゃなく、香水の例えには「濃度」ではない「質」の大切さが読みとれて腑に落ちる。山椒の実の辛さには、ただ辛いだけじゃない、何とも言えぬ味わいがあるのだ。

小さな粒の山椒の実が、小鉢のなかでそっとささやく。
「毎日の小さな生活のなかでも、単なる贅沢とは違う『質』を高めていくことを考えるべきお年頃になったんじゃないかな」

小さな苗だったので、植えてから実が生るまで8年ほどかかりました。

山椒を思う存分楽しめるよう、ちりめん雑魚は少な目で。

熱々のご飯にのせて、いただきまーす!

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娘と雀とスマートフォン

週末帰ってきた、26歳の上の娘と過ごした時間の出来事。
のんびりとした日曜の朝だった。リビングで娘としゃべっていると、コツンと窓ガラスに何やらぶつかる音がした。
「鳥かな?」と、わたし。
「あ、落ちてる」と、娘。
見ると、窓ガラスに空を見て激突したであろう雀が、北側の窓の下でうずくまっている。すぐにふたり、様子を見に行った。
「お、動いた。生きてるね」と、娘。
「首の骨が折れてなければ、だいじょうぶだよ」と、わたし。
雀はうつろだが、瞳も開いている。羽に傷もなさそうだ。
「脳震盪を起こしてるだけみたいだね」と、わたし。
すると娘がおもむろにスマホをとりだし、操作し始めた。
「仲間の声を聴かせてあげようかと思って」と、娘。
スマホから、チュンチュンと雀らしき声が聞こえ始める。
しかし、雀に反応はない。
「じゃあ、リラックス音楽にしてみる?」と、娘。
「効果あんの? それ」と、わたし。
次の瞬間、ジャカジャカジャーンというにぎやかなメロディが。途端に雀は、慌てふためいた様子で北の空へと羽ばたいていった。羽を広げた姿もしっかりしていたから、怪我はなかったのだろう。それにしても。
「それが、リラックス音楽?」と、わたし。
「そのはずだったんだけど、CMが、流れちゃった」と、娘。
大笑いである。

短い時間だったが、久しぶりに娘と過ごし実感した。我が娘ながら、彼女の行動は全く読めない。当然のことではあるのだが、子どもというのは、母親とも父親とも全く違う独立した一個の人間なのだとしみじみと思う出来事だった。

その後また、リビングでしゃべっていると、物干し竿に野鳥がとまった。
「お、雀の恩返しかな?」と言ったわたしに、娘は笑って言った。
「恩返しじゃなくて、仕返しじゃないの?」

ここが雀が落ちたところ。苔がやわらかく守ってくれたのかも。

北側は急な斜面になっていて、その下には堰が流れています。

雀がぶつかった窓に貼ってある、フクロウのバードセイバー。
フクロウくん、もうちょっとがんばって野鳥達に威嚇してあげてよ。

西側の窓には、オオタカのバードセイバーが貼ってあります。

緑濃い初夏。蔦も『ジャックと豆の木』のような勢いで伸びています。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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