はりねずみが眠るとき
昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
『ただ、そこに居てくれればいいだけの存在』の不確かさを知る
体調を崩し、2日間寝込んでいた。
もう3週間ほど、胃の調子がおかしいと気づいていたのだが、食べられるし飲めるしで、ちょっと疲れているだけだろうと軽く見ていたのが、災いした。
胃の重さが半端じゃなく、横になっていないと辛いので、横になると、いくらでも眠れるのだ。必ず病院に行くようにと、夫にも叱られた。
そんな浅い眠りのなかで、夢を見た。
トイレに置いてあるサボテンの形をした蝋燭が、失くなってしまったのだ。
「えっ、どうして? なんでないの?」
わたしは、慌てふためき探し回る。そこでふと考えた。彼女を蝋燭として頼りにしている訳ではない。わたしにとって、ただ、そこに居てくれればいいだけの存在なのだ。わたしは、サボテン型の蝋燭が失くなったトイレで、気づく。
その『ただ、そこに居てくれればいいだけの存在』の何と大きいことか、と。
目覚めても、悲しい気持ちは晴れなかった。トイレにサボテンがいることを確認しても、もの悲しく泣きたい気持ちのままだった。
『ただ、そこに居てくれればいいだけの存在』の不確かさを、夢が物語っているかのように思えたのだ。
考え募れば、健康であることの不確かさ、大切さにもまた思い至り、2日間禁酒した。(当然ですね)今日は、内科で診てもらいます。

今年は、お仲間のカレンダーを買ってあげました。仲良くしてるみたい。
はりねずみの表紙の、アイディアメモ用ノート。
失くさないようにしようと、誓いました。
何故か、はりねずみとかサボテンとか、棘ものに魅かれるわたし。
そうですね。確かなものは、今、目の前にあるものだけかもしれません。
そして、目の前にあるものこそ、失くさないよう大切にしたいものですね。
まあ僕は今、目に見えない場所にいますが、おとーさんもおかーさんも姫も、
帰宅時には僕の小屋に向かって「びっきー、ただいま!」って言うんですよ。
目には見えない大切なものも、たくさんあるんだろうなと、今は思います。
あ、この写真、決して、えらそーにしている訳ではありませんよ。
「えっ? 写真撮るの?」と、頭を持ち上げたところなんですからね。

もう3週間ほど、胃の調子がおかしいと気づいていたのだが、食べられるし飲めるしで、ちょっと疲れているだけだろうと軽く見ていたのが、災いした。
胃の重さが半端じゃなく、横になっていないと辛いので、横になると、いくらでも眠れるのだ。必ず病院に行くようにと、夫にも叱られた。
そんな浅い眠りのなかで、夢を見た。
トイレに置いてあるサボテンの形をした蝋燭が、失くなってしまったのだ。
「えっ、どうして? なんでないの?」
わたしは、慌てふためき探し回る。そこでふと考えた。彼女を蝋燭として頼りにしている訳ではない。わたしにとって、ただ、そこに居てくれればいいだけの存在なのだ。わたしは、サボテン型の蝋燭が失くなったトイレで、気づく。
その『ただ、そこに居てくれればいいだけの存在』の何と大きいことか、と。
目覚めても、悲しい気持ちは晴れなかった。トイレにサボテンがいることを確認しても、もの悲しく泣きたい気持ちのままだった。
『ただ、そこに居てくれればいいだけの存在』の不確かさを、夢が物語っているかのように思えたのだ。
考え募れば、健康であることの不確かさ、大切さにもまた思い至り、2日間禁酒した。(当然ですね)今日は、内科で診てもらいます。
今年は、お仲間のカレンダーを買ってあげました。仲良くしてるみたい。
はりねずみの表紙の、アイディアメモ用ノート。
失くさないようにしようと、誓いました。
何故か、はりねずみとかサボテンとか、棘ものに魅かれるわたし。
そうですね。確かなものは、今、目の前にあるものだけかもしれません。
そして、目の前にあるものこそ、失くさないよう大切にしたいものですね。
まあ僕は今、目に見えない場所にいますが、おとーさんもおかーさんも姫も、
帰宅時には僕の小屋に向かって「びっきー、ただいま!」って言うんですよ。
目には見えない大切なものも、たくさんあるんだろうなと、今は思います。
あ、この写真、決して、えらそーにしている訳ではありませんよ。
「えっ? 写真撮るの?」と、頭を持ち上げたところなんですからね。


『最後のコイン』のなかに見た悪意
朝日新聞『天声人語』に、少なくなった公衆電話が見直されているという内容が、かかれていた。(1月30日掲載)震災などが起こった時に、ケータイの電波がダウンし、公衆電話の方が繋がりやすい場合も起こり得るという。
「活躍の日が来ないことを祈れば、箱形の電話機がどこか、お地蔵様に思えてくる」との結びが印象的な文章だった。
そのなかに「『最後のコイン』は70年代から携帯電話普及までが、言葉としての旬だった」という文章があり、
♪ 最後のコインが今落ちたから、今までのすべてがあと3分ね ♪
という、さだまさしの『加速度』が引用されていた。
わたし達の世代なら、多くの人が実際に経験した『最後のコイン』
それは、懐かしくもほろ苦い思い出のなかにある。
だがわたしはそれを読み、あまり愉快ではない記憶が不意に甦った。
彼女のことは、中学だったか高校だったか同じクラスだったか違ったか、名前どころか顔も思い出せない。出来事のみが、わたしのなかに残っている。
ある日、廊下ですれ違った時に、彼女が困り顔で近寄って来て言ったのだ。
「電話かけたいんだけど、お金持ってなくて。10円貸してくれない?」
「いいよ」わたしは、すぐに財布から10円玉を取り出し、手渡した。
「ありがとう」彼女は、満面の笑みで礼を言った。
しかしその後、何日経っても彼女は10円を返そうとしなかった。廊下などですれ違うと、笑顔で挨拶を交わしているにもかかわらず。
1週間経って、わたしは痺れを切らし催促した。
「10円、貸したよね。返して」
すると、彼女は満面の笑みのなかに悪意を忍ばせ、言った。
「えっ? 借りてないよ。証拠とかあるの?」
返す言葉もなかった。あるいはそれが、千円だったら喧嘩にもなったかもしれない。だが、10円玉1個であれこれ言うなどとは、自分の方が卑しい様な気分にもなり、まぁいっかと、忘れることにしてしまった。それでも、こうも思ったものだ。人の悪意というものは、こうして10円くらいと思う心理を利用し、堂々と歩いていくものなのだと。後に、彼女に貸したお金は返ってこないのだと、噂で聞くこととなる。
あの時の彼女は今も、小さな悪意を育てつつ生きているのだろうか。わたしにはもう、知る由もないが、悪意をポケットに入れて生きるより、そんなものどっかに捨てちゃってさぁ、心の底から笑って生きていこうよと、今度、廊下ですれ違った折には、言ってあげたいなと、ふと思った。
町内にいくつ、公衆電話が残ってるのかな。もしかしたら、これ一つ?
多分一番使われている、明野中学校前の公衆電話。
えっ? 今、音量とか調節できるの?
公衆電話から見た、明野中学校越しの八ヶ岳。

公衆電話から見える、二宮少年。 相変わらず読書してるんだねぇ。

「活躍の日が来ないことを祈れば、箱形の電話機がどこか、お地蔵様に思えてくる」との結びが印象的な文章だった。
そのなかに「『最後のコイン』は70年代から携帯電話普及までが、言葉としての旬だった」という文章があり、
♪ 最後のコインが今落ちたから、今までのすべてがあと3分ね ♪
という、さだまさしの『加速度』が引用されていた。
わたし達の世代なら、多くの人が実際に経験した『最後のコイン』
それは、懐かしくもほろ苦い思い出のなかにある。
だがわたしはそれを読み、あまり愉快ではない記憶が不意に甦った。
彼女のことは、中学だったか高校だったか同じクラスだったか違ったか、名前どころか顔も思い出せない。出来事のみが、わたしのなかに残っている。
ある日、廊下ですれ違った時に、彼女が困り顔で近寄って来て言ったのだ。
「電話かけたいんだけど、お金持ってなくて。10円貸してくれない?」
「いいよ」わたしは、すぐに財布から10円玉を取り出し、手渡した。
「ありがとう」彼女は、満面の笑みで礼を言った。
しかしその後、何日経っても彼女は10円を返そうとしなかった。廊下などですれ違うと、笑顔で挨拶を交わしているにもかかわらず。
1週間経って、わたしは痺れを切らし催促した。
「10円、貸したよね。返して」
すると、彼女は満面の笑みのなかに悪意を忍ばせ、言った。
「えっ? 借りてないよ。証拠とかあるの?」
返す言葉もなかった。あるいはそれが、千円だったら喧嘩にもなったかもしれない。だが、10円玉1個であれこれ言うなどとは、自分の方が卑しい様な気分にもなり、まぁいっかと、忘れることにしてしまった。それでも、こうも思ったものだ。人の悪意というものは、こうして10円くらいと思う心理を利用し、堂々と歩いていくものなのだと。後に、彼女に貸したお金は返ってこないのだと、噂で聞くこととなる。
あの時の彼女は今も、小さな悪意を育てつつ生きているのだろうか。わたしにはもう、知る由もないが、悪意をポケットに入れて生きるより、そんなものどっかに捨てちゃってさぁ、心の底から笑って生きていこうよと、今度、廊下ですれ違った折には、言ってあげたいなと、ふと思った。
町内にいくつ、公衆電話が残ってるのかな。もしかしたら、これ一つ?
多分一番使われている、明野中学校前の公衆電話。
えっ? 今、音量とか調節できるの?
公衆電話から見た、明野中学校越しの八ヶ岳。
公衆電話から見える、二宮少年。 相変わらず読書してるんだねぇ。


『半袖半ズボン少年』のこだわりが溶けた瞬間
息子は、小学校卒業まで『半袖半ズボン少年』だった。もちろん、薄着が丈夫な身体を作るなどと、母親であるわたしが推奨した訳ではない。妹達は、冬にはセーターやコートを着て、雪が降れば手袋だって喜んでしていた。
彼のこだわりのなかに見て取れるものは、決めてしまえば楽だという思いだ。常に何枚かあるTシャツと半ズボンを使いまわすのみで、何を着ようかと考えずに済む。確かに楽ちんである。周囲も、彼が1年生の頃から変わらず通しているポリシーだと自然と納得していて、何を言われることもない。逆に、突然セーターなど着ようものなら、友人達の驚きとリアクションへの対応に丸1日費やすことになるだろうとも、容易に推測できる。それでも、寒い時には温かい服を着たいと思うのが、自然である。
まあそれも、中学で学ランを着るようになるまでだったが、中学に通う時にも忘れ物をしないようにと時間割を揃えるのが面倒で、徒歩50分の道程を、全科目の教科書とノートを入れた鞄を背負って歩いていたのだから、その面倒くさがりでストイックとも思える性格に変わりはなかったのかもしれないが。
さて。その中学の頃の話。彼の私服は冬でもやはり半袖半ズボンだった。その彼がパーカーなどを着てジーンズを履くきっかけとなったのは、ふと思い出したようにたまに聞かされる親の小言ではなく、真冬に路線バスで出かけた時の出来事だった。本屋に行こうと、明るい時間に出掛けた時には、まだ太陽の陽射しがあったが、帰る頃には雪が舞い、真っ暗になっていた。そこで同じバス停で降りた高校生男子に、呼び止められたという。
「ちょっとだけ、待ってて」
彼は、急いで自動販売機にコインを入れ、温かい紅茶を買い、息子に手渡してくれたそうだ。余りに寒そうで、見ていられなかったのだろう。
「自分の季節外れの格好が、人に迷惑をかけることもあるって判った」
缶紅茶の温かさと、人の温かさに触れ、息子のこだわりはようやく溶けた。親がいくら言っても聞く耳持たなかったのに、である。
昨日、小雪舞うバス停を通り過ぎ、そんなことをふと思い出した。

最寄り『浅尾新田』のバス停まで、我が家から、行きは下り坂。
ジェットコースターかスキー場か、というほど急な坂です。
そして帰りは上り坂。最寄りの(?)自動販売機も此処です。
韮崎から走って来て、この木を見ると帰ってきたなと思います。
絵本『モチモチの木』の切り絵を連想してしまう、怪しげな雰囲気。
韮崎行きが1日6本、折り返しは5本。〇印は土日運休。
この本数に、びっくりですが、なくなると困る人もたくさんいるはず。
田舎ならではなのは、バス停以外でも乗り降り出来ることと、
標識ポールが停留所に1つしか無い(反対車線に無い)ことです。

彼のこだわりのなかに見て取れるものは、決めてしまえば楽だという思いだ。常に何枚かあるTシャツと半ズボンを使いまわすのみで、何を着ようかと考えずに済む。確かに楽ちんである。周囲も、彼が1年生の頃から変わらず通しているポリシーだと自然と納得していて、何を言われることもない。逆に、突然セーターなど着ようものなら、友人達の驚きとリアクションへの対応に丸1日費やすことになるだろうとも、容易に推測できる。それでも、寒い時には温かい服を着たいと思うのが、自然である。
まあそれも、中学で学ランを着るようになるまでだったが、中学に通う時にも忘れ物をしないようにと時間割を揃えるのが面倒で、徒歩50分の道程を、全科目の教科書とノートを入れた鞄を背負って歩いていたのだから、その面倒くさがりでストイックとも思える性格に変わりはなかったのかもしれないが。
さて。その中学の頃の話。彼の私服は冬でもやはり半袖半ズボンだった。その彼がパーカーなどを着てジーンズを履くきっかけとなったのは、ふと思い出したようにたまに聞かされる親の小言ではなく、真冬に路線バスで出かけた時の出来事だった。本屋に行こうと、明るい時間に出掛けた時には、まだ太陽の陽射しがあったが、帰る頃には雪が舞い、真っ暗になっていた。そこで同じバス停で降りた高校生男子に、呼び止められたという。
「ちょっとだけ、待ってて」
彼は、急いで自動販売機にコインを入れ、温かい紅茶を買い、息子に手渡してくれたそうだ。余りに寒そうで、見ていられなかったのだろう。
「自分の季節外れの格好が、人に迷惑をかけることもあるって判った」
缶紅茶の温かさと、人の温かさに触れ、息子のこだわりはようやく溶けた。親がいくら言っても聞く耳持たなかったのに、である。
昨日、小雪舞うバス停を通り過ぎ、そんなことをふと思い出した。
最寄り『浅尾新田』のバス停まで、我が家から、行きは下り坂。
ジェットコースターかスキー場か、というほど急な坂です。
そして帰りは上り坂。最寄りの(?)自動販売機も此処です。
韮崎から走って来て、この木を見ると帰ってきたなと思います。
絵本『モチモチの木』の切り絵を連想してしまう、怪しげな雰囲気。
韮崎行きが1日6本、折り返しは5本。〇印は土日運休。
この本数に、びっくりですが、なくなると困る人もたくさんいるはず。
田舎ならではなのは、バス停以外でも乗り降り出来ることと、
標識ポールが停留所に1つしか無い(反対車線に無い)ことです。


霜が降りた朝
昨日の朝、霜が降りていた。地面の落ち葉も、枯草も、真っ白。畑など、うっすらと雪が降ったのかと思ってしまうほど白かった。
「霜が降りる」という表現が、好きだ。
霜は、空から降ってきた訳でも降りてきた訳でもないので、正しくないとも言えるが、朝、外に出て、うっすらと白くなっている地面を見ると、ふんわり着地した霜達を想像してしまう。
大人になった今では、霜は空気中の水分が、水になることなく凍る現象だと知っている。それでも「霜が降りる」という言葉を使うだけで、メルヘンの扉が開き、空からふわりふわりと舞い降りた白い結晶達を、霜のなかに見てしまう。正しくない表現が創りだした、幼い頃から膨らませただけのそんな想像が、今も不意に顔を見せる瞬間が、好きなのかもしれない。
百人一首のなか、冬の歌の一つにある。
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜も更けにける」
この季節、夜空を見上げれば、息を飲まずにはいられぬほど星が瞬いていることが多い。この歌は、天の川に輝く星の美しさを、霜の白さに例えたものだ。空から降ったと表現する霜を、また、天の星に返した様な不思議を感じる。
霜には、雪ほどの眩しくハッとするようなは美しさはないが、冬の朝に着地したささやかな造形美に、しばし見入った。

落ち葉も、心なしか身を寄せ合っているよう。
ドングリは、ひとり凍っていました。
雨に倒された猫じゃらし。霜で飾るとブラシみたいに見えます。
寒さに負けず、葉を開いたアップルミントも、凍えていました。

「霜が降りる」という表現が、好きだ。
霜は、空から降ってきた訳でも降りてきた訳でもないので、正しくないとも言えるが、朝、外に出て、うっすらと白くなっている地面を見ると、ふんわり着地した霜達を想像してしまう。
大人になった今では、霜は空気中の水分が、水になることなく凍る現象だと知っている。それでも「霜が降りる」という言葉を使うだけで、メルヘンの扉が開き、空からふわりふわりと舞い降りた白い結晶達を、霜のなかに見てしまう。正しくない表現が創りだした、幼い頃から膨らませただけのそんな想像が、今も不意に顔を見せる瞬間が、好きなのかもしれない。
百人一首のなか、冬の歌の一つにある。
「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜も更けにける」
この季節、夜空を見上げれば、息を飲まずにはいられぬほど星が瞬いていることが多い。この歌は、天の川に輝く星の美しさを、霜の白さに例えたものだ。空から降ったと表現する霜を、また、天の星に返した様な不思議を感じる。
霜には、雪ほどの眩しくハッとするようなは美しさはないが、冬の朝に着地したささやかな造形美に、しばし見入った。
落ち葉も、心なしか身を寄せ合っているよう。
ドングリは、ひとり凍っていました。
雨に倒された猫じゃらし。霜で飾るとブラシみたいに見えます。
寒さに負けず、葉を開いたアップルミントも、凍えていました。


ウサギとカメにも似た、ちぐはぐさ
考えていることと、行動がちぐはぐで、最近よく「全く、いったい何やってるんだろう?」と、愕然とする。
いちばん多いのは、紅茶を淹れる時。ヤカンで湯を沸かし、ヤカンがぴーぴー沸騰を知らせてからの行動だ。沸騰したての湯で淹れた美味しい紅茶を飲もうと、わざわざ新しく湯を沸かしているというのに、沸騰したことに安心し、何故か魔法瓶から朝沸かした湯を注ぐ自分にハッとして思う。
「全く、いったい何やってるんだろう?」
他には、前夜磨いた靴を、玄関に用意していたにもかかわらず、普段履きを履いて東京まで出掛けてしまったり、それもそのことに気づかず、帰って来てから、玄関で呆然としたり。また、東京に出掛けると、電車が頻繁に来るので、緊張が切れていることもあるが(我が家の最寄り中央線『穴山駅』では、平均1時間に1本くらい)電車に乗ったことに安心し、降りるのを忘れてしまったり。(二駅とかで乗り換えることが、山梨ではないので)
本当に「全く、何やってるんだろう?」である。
しかし夫も、昨日、薬局での買い物途中で言った。
「あー俺、いったい何やってるんだろう?」
彼は、スマホでサプリメントについて検索していたのだが、
「今、一瞬、ポケット探って、やばいっ、スマホ忘れたって青くなった」
それを聞き、くすりと笑うわたしだが、買い物を終え車に向かいつつ、夫の車で来ているというのに、自分の車のキーを何故かポケットから出している。
全く、笑えない。笑えないどころか、ふたりして、娘の部屋の蛍光灯が切れたからと買いに来たのに、蛍光灯の型番を控えて来るのを忘れ、一度戻って出直してきての出来事だったのだ。
うーむ。全く、いったい何をやっているのやら。
頭では、きちんと考えているつもりなのに、身体にはしっかりいつもの習慣が染みついている。考える前に、行動? いや、考えずに行動していることが、何と多いことか。その脳内で考えることと身体がとる行動の差は、何かウサギとカメに似通っているとも思えるほど、ちぐはぐだ。いや、そもそも、向かっていく方向すら違っているのか。

買い物に出た日中、長い時間、雨が降っていました。
けれど、どちらを見ても、青空が広がっています。
夫は、いつもアールグレイのミルクティ。
とっても美味しい(とは、夫)バームクーヘンを頂きました。
上の娘の部屋の蛍光灯。この型番のものは、もう生産数が少ないみたい。
何でも新しくなっていっちゃうんだなぁ。

いちばん多いのは、紅茶を淹れる時。ヤカンで湯を沸かし、ヤカンがぴーぴー沸騰を知らせてからの行動だ。沸騰したての湯で淹れた美味しい紅茶を飲もうと、わざわざ新しく湯を沸かしているというのに、沸騰したことに安心し、何故か魔法瓶から朝沸かした湯を注ぐ自分にハッとして思う。
「全く、いったい何やってるんだろう?」
他には、前夜磨いた靴を、玄関に用意していたにもかかわらず、普段履きを履いて東京まで出掛けてしまったり、それもそのことに気づかず、帰って来てから、玄関で呆然としたり。また、東京に出掛けると、電車が頻繁に来るので、緊張が切れていることもあるが(我が家の最寄り中央線『穴山駅』では、平均1時間に1本くらい)電車に乗ったことに安心し、降りるのを忘れてしまったり。(二駅とかで乗り換えることが、山梨ではないので)
本当に「全く、何やってるんだろう?」である。
しかし夫も、昨日、薬局での買い物途中で言った。
「あー俺、いったい何やってるんだろう?」
彼は、スマホでサプリメントについて検索していたのだが、
「今、一瞬、ポケット探って、やばいっ、スマホ忘れたって青くなった」
それを聞き、くすりと笑うわたしだが、買い物を終え車に向かいつつ、夫の車で来ているというのに、自分の車のキーを何故かポケットから出している。
全く、笑えない。笑えないどころか、ふたりして、娘の部屋の蛍光灯が切れたからと買いに来たのに、蛍光灯の型番を控えて来るのを忘れ、一度戻って出直してきての出来事だったのだ。
うーむ。全く、いったい何をやっているのやら。
頭では、きちんと考えているつもりなのに、身体にはしっかりいつもの習慣が染みついている。考える前に、行動? いや、考えずに行動していることが、何と多いことか。その脳内で考えることと身体がとる行動の差は、何かウサギとカメに似通っているとも思えるほど、ちぐはぐだ。いや、そもそも、向かっていく方向すら違っているのか。
買い物に出た日中、長い時間、雨が降っていました。
けれど、どちらを見ても、青空が広がっています。
夫は、いつもアールグレイのミルクティ。
とっても美味しい(とは、夫)バームクーヘンを頂きました。
上の娘の部屋の蛍光灯。この型番のものは、もう生産数が少ないみたい。
何でも新しくなっていっちゃうんだなぁ。


必死に、そしてくよくよと
わくわくしつつ、読み切った。
伊坂幸太郎の新刊『首折り男のための協奏曲』(新潮社)連作短編集だ。
ファンクラブ(在籍2名)の仲間から「買った!」という写メを受け取ってから、買いに行きたくてうずうずし、落ち着かなかった。発売日は一昨日だったが、誕生日だった昨日ようやく入手した。
本屋に寄った際、夫が「誕生日に、何もあげてないし」と買ってくれたのだ。
彼はそのまま出掛け、折しも、ひとりの休日。思いっきりのんびりと、洗濯以外は何もせず、ただただページをめくった。
『首折り男』というから、てっきり『マリア・ビートル』(角川文庫)に登場した七尾かと思ったが別人だった。伊坂小説では、様々な登場人物がリンクして、あちらこちらの小説に登場する。七尾が出てきても可笑しくなかったが、七尾の性格では、彼の役回りはムリだと読み終えて納得した。
そんな風にこの連作短編のなかでも、何人もの人物がリンクし登場する。伊坂小説ファンの大きな楽しみの一つだ。
そして、いくつもシーンやセリフもリンクしていて、それが繋がった時のしびれる様な快感は言葉に出来ない。
『首切り男のための協奏曲』でも、その感覚をたっぷりと味わった。
ストーリーは、かいつまめない。なのでラストに収録してあった『合コンの話』で合コンメンバーの一人が引用したある作曲家の台詞をちょっと紹介。
「人はそれぞれ、与えられた譜面を必死に、演奏することしかできないし、そうするしかない。隣の人の譜面を覗く余裕もない。自分の譜面を演奏しながら、他人もうまく演奏できればいいな、と祈るだけだ」
その引用した彼は、言った。世界中で悲しみを抱えた人々を考える時、
「どうすればいいのかは分からないので、いろんなことにくよくよしていくしかないです」
必死に、そしてくよくよと。そう言えばわたしもそんな風にして生きている。

グローブを持った野球少年の人形と、ナイフの表紙。
一目で、伊坂の小説だと、ファンには判る装丁です。
タイトルに『協奏曲』とあるだけあり、カバーを外すと、
うっすらと楽譜が描かれていました。こういうこだわりが素敵。
伊坂小説ではお馴染み、影絵仕立ての章マーク。
夫婦の方は、目線が登場人物ごとに変わっていくタイプ。
泥棒『黒澤』の影絵は、月曜日から曜日ごとに描かれています。

伊坂幸太郎の新刊『首折り男のための協奏曲』(新潮社)連作短編集だ。
ファンクラブ(在籍2名)の仲間から「買った!」という写メを受け取ってから、買いに行きたくてうずうずし、落ち着かなかった。発売日は一昨日だったが、誕生日だった昨日ようやく入手した。
本屋に寄った際、夫が「誕生日に、何もあげてないし」と買ってくれたのだ。
彼はそのまま出掛け、折しも、ひとりの休日。思いっきりのんびりと、洗濯以外は何もせず、ただただページをめくった。
『首折り男』というから、てっきり『マリア・ビートル』(角川文庫)に登場した七尾かと思ったが別人だった。伊坂小説では、様々な登場人物がリンクして、あちらこちらの小説に登場する。七尾が出てきても可笑しくなかったが、七尾の性格では、彼の役回りはムリだと読み終えて納得した。
そんな風にこの連作短編のなかでも、何人もの人物がリンクし登場する。伊坂小説ファンの大きな楽しみの一つだ。
そして、いくつもシーンやセリフもリンクしていて、それが繋がった時のしびれる様な快感は言葉に出来ない。
『首切り男のための協奏曲』でも、その感覚をたっぷりと味わった。
ストーリーは、かいつまめない。なのでラストに収録してあった『合コンの話』で合コンメンバーの一人が引用したある作曲家の台詞をちょっと紹介。
「人はそれぞれ、与えられた譜面を必死に、演奏することしかできないし、そうするしかない。隣の人の譜面を覗く余裕もない。自分の譜面を演奏しながら、他人もうまく演奏できればいいな、と祈るだけだ」
その引用した彼は、言った。世界中で悲しみを抱えた人々を考える時、
「どうすればいいのかは分からないので、いろんなことにくよくよしていくしかないです」
必死に、そしてくよくよと。そう言えばわたしもそんな風にして生きている。
グローブを持った野球少年の人形と、ナイフの表紙。
一目で、伊坂の小説だと、ファンには判る装丁です。
タイトルに『協奏曲』とあるだけあり、カバーを外すと、
うっすらと楽譜が描かれていました。こういうこだわりが素敵。
伊坂小説ではお馴染み、影絵仕立ての章マーク。
夫婦の方は、目線が登場人物ごとに変わっていくタイプ。
泥棒『黒澤』の影絵は、月曜日から曜日ごとに描かれています。


転ばぬ先の?
『二度あることは三度ある』と言うが、三度目は勘弁してほしい。
一昨日は、雨が降るなか歩いていて側溝に被せた鉄格子(?)を踏み、滑って転びそうになり、昨日は強風のなか、よせばいいのに八ヶ岳を撮っていてその風の強さに吹き飛ばされ、1mの石段の上から転んで落ちそうになった。
『三度目の正直』などと、本当に転んで怪我でもしたら情けない。
ひざを痛めた時も、テニス肘も、骨折も、五十肩でさえ、びっきーに引っ張られたのが原因だったのだ。
「どうしたんですか?」と聞かれ「転んじゃって」と言うのは如何にもかっこ悪いが「エアワンコに、引っ張られちゃって」と言えるはずもない。
『二度あることは三度ある』という諺は、物事は繰り返し起こるものだから注意せよとの戒めだ。注意するに越したことはない。
「絶対に、転ばないぞ!」との誓いを立てた。
だが考えれば、このところその他にも、小さな失敗が多い。
ストーブに薪を入れれば火傷するし、爪を切れば深爪するし、靴下を履けば、その深爪したところで、すねを引っ掻くという在り様。
「絶対に、火傷しないぞ!」とか「深爪しない!」「引っ掻き傷を作らない!」はたまた「ドアに指を挟まない」「包丁を落っことさない」とかとか、日に日に立てなきゃならない誓いが、増えていく気がする。
そのうちに、最初の誓いを忘れ、転んで怪我して「はははは」と自虐的に笑う自分を、たやすく思い描くことができた。
転びそうになりつつ撮った(笑)木枯らし吹き下ろす八ヶ岳。
午後、所用で出かけた際、八ヶ岳大橋を通りました。
雲たちは、北風に吹き飛ばされて、すっかりいなくなっていました。
『犬も歩けば棒にあたる』帰りに珈琲屋さんを見つけました。
『豆玄』1週間前にオープンしたばかりだそうです。
エチオピアのモカ、浅煎り珈琲を試飲させてもらいました。
檸檬を感じさせるフルーティな酸味! うーん、わたし好み。
お洒落な雰囲気。作りたてだと言わんばかりの木材が綺麗でした。
自家焙煎珈琲を、100gずつ購入しました。
今のところまだ、転んでいません(笑)

一昨日は、雨が降るなか歩いていて側溝に被せた鉄格子(?)を踏み、滑って転びそうになり、昨日は強風のなか、よせばいいのに八ヶ岳を撮っていてその風の強さに吹き飛ばされ、1mの石段の上から転んで落ちそうになった。
『三度目の正直』などと、本当に転んで怪我でもしたら情けない。
ひざを痛めた時も、テニス肘も、骨折も、五十肩でさえ、びっきーに引っ張られたのが原因だったのだ。
「どうしたんですか?」と聞かれ「転んじゃって」と言うのは如何にもかっこ悪いが「エアワンコに、引っ張られちゃって」と言えるはずもない。
『二度あることは三度ある』という諺は、物事は繰り返し起こるものだから注意せよとの戒めだ。注意するに越したことはない。
「絶対に、転ばないぞ!」との誓いを立てた。
だが考えれば、このところその他にも、小さな失敗が多い。
ストーブに薪を入れれば火傷するし、爪を切れば深爪するし、靴下を履けば、その深爪したところで、すねを引っ掻くという在り様。
「絶対に、火傷しないぞ!」とか「深爪しない!」「引っ掻き傷を作らない!」はたまた「ドアに指を挟まない」「包丁を落っことさない」とかとか、日に日に立てなきゃならない誓いが、増えていく気がする。
そのうちに、最初の誓いを忘れ、転んで怪我して「はははは」と自虐的に笑う自分を、たやすく思い描くことができた。
転びそうになりつつ撮った(笑)木枯らし吹き下ろす八ヶ岳。
午後、所用で出かけた際、八ヶ岳大橋を通りました。
雲たちは、北風に吹き飛ばされて、すっかりいなくなっていました。
『犬も歩けば棒にあたる』帰りに珈琲屋さんを見つけました。
『豆玄』1週間前にオープンしたばかりだそうです。
エチオピアのモカ、浅煎り珈琲を試飲させてもらいました。
檸檬を感じさせるフルーティな酸味! うーん、わたし好み。
お洒落な雰囲気。作りたてだと言わんばかりの木材が綺麗でした。
自家焙煎珈琲を、100gずつ購入しました。
今のところまだ、転んでいません(笑)


幸福をもたらすラスク
「ちょっと早いけど、お誕生日に」
友人から、プレゼントを貰った。
「最近、ご主人とワインを飲むことが、多いみたいだから」
見ると『ワインに合うラスク』とある。嬉しく頂いた。
デザインが洒落ているのもさることながら、箱にある『幸福のマリアージュ』という言葉に、目を魅かれた。『マリアージュ』は、フランス語で『結婚』を意味する言葉だが、相性のいい二人という意味が転じて、ワイン用語では、互いに香りや味を高め合う最高の組み合わせを『素晴らしいマリアージュ』と呼ぶようになったのだとか。
ワインと組み合わせて、親しい人との幸せなひとときを作り出せるようにと、『幸福なマリアージュ』の片方を届けたいと、作られたラスクだそうだ。
『結婚』という言葉は、重く大きい。それをワインと料理の組み合わせに、すり替える面白さ。そんなものを感じつつ、ラスクを味わい、玉葱やトリュフなど、様々なものが混じり合うラスクの味わいに、『結婚』どころか『人生』を感じ、ワインを楽しんだ。
「コングラチュレーション!」
今宵、結ばれる人々と、我が家のワインな夕餉を、パリポリと祝いつつ。

ワイングラスの形に切り抜いた箱のデザインが素敵です。
このままでも美味しいけど、チーズをのせてもいいな。
クリスマスに、娘がプレゼントしてくれたワインと。
生協で注文した芽キャベツが届き、春を感じるスープに。
まるまる芽キャベツ、玉葱、じゃが芋、黒胡椒とセロリ。
柔らかく煮て温かく、娘と夫との楽しい食卓になりました。

友人から、プレゼントを貰った。
「最近、ご主人とワインを飲むことが、多いみたいだから」
見ると『ワインに合うラスク』とある。嬉しく頂いた。
デザインが洒落ているのもさることながら、箱にある『幸福のマリアージュ』という言葉に、目を魅かれた。『マリアージュ』は、フランス語で『結婚』を意味する言葉だが、相性のいい二人という意味が転じて、ワイン用語では、互いに香りや味を高め合う最高の組み合わせを『素晴らしいマリアージュ』と呼ぶようになったのだとか。
ワインと組み合わせて、親しい人との幸せなひとときを作り出せるようにと、『幸福なマリアージュ』の片方を届けたいと、作られたラスクだそうだ。
『結婚』という言葉は、重く大きい。それをワインと料理の組み合わせに、すり替える面白さ。そんなものを感じつつ、ラスクを味わい、玉葱やトリュフなど、様々なものが混じり合うラスクの味わいに、『結婚』どころか『人生』を感じ、ワインを楽しんだ。
「コングラチュレーション!」
今宵、結ばれる人々と、我が家のワインな夕餉を、パリポリと祝いつつ。
ワイングラスの形に切り抜いた箱のデザインが素敵です。
このままでも美味しいけど、チーズをのせてもいいな。
クリスマスに、娘がプレゼントしてくれたワインと。
生協で注文した芽キャベツが届き、春を感じるスープに。
まるまる芽キャベツ、玉葱、じゃが芋、黒胡椒とセロリ。
柔らかく煮て温かく、娘と夫との楽しい食卓になりました。


エアワンコと一緒に
夕方まで座りっぱなしで仕事をして、身体ががちがちに固まってしまったこともあり、一段落ついたところで、思い切ってウォーキングに出かけた。
昨日は、このまま春が来るのかと勘違いしそうなほど暖かく、夕暮れが近づいても気温は下がることがなかった。
びっきーがいない手持無沙汰感を振り払うように、早足で歩く。すると、一つ目の十字路で、犬の散歩をする近所の人と会った。
「お、びっきーは?」と、彼は言いかけ、もういないことに気づいたようだ。
「少し、歩こうかと思って」と、わたし。すると、
「ああ、エアワンコと、散歩かぁ」と、笑った。
「いってらっしゃい」と、後ろを歩く奥様も励ますように声を掛けてくれた。
「エアワンコ、かぁ」
何故か、そう言われた途端、足元に、小さかった頃のびっきーがちょろちょろしているような気分になる。かと思うと、急に大きくなって走り出したり、立ち止まって土の匂いをくんくん嗅いだり。
それからは、エアワンコと一緒に歩いた。何しろ、びっきーとよく散歩した道だ。あちらこちらにエアワンコが居るのを感じる。だがその犬は、びっきーではないのだと判る。びっきーによく似た、びっきーではない犬。
ほどなくして、まだ別の近所のご夫婦と会った。彼らもウォーキング中で、びっきーを連れていた時はペースが合わず、挨拶して別れるのみだったが、昨日は一緒に歩いた。びっきーが死んだことや、おたがいの子ども達のことなどをしゃべりつつ、歩く。
そうして歩くうちに、エアワンコは、何処かへ行ってしまった。
「明日も、歩こうかな」
びっきーがいないのは淋しいが、外の空気を吸ったせいか、身体を動かしたからか、思いのほか、気分はすっきりしていた。

梅はもう、蕾が膨らんでいました。
枯れススキも、春を待って種を落としています。
八ヶ岳の雪も、昨日はずいぶん溶けました。
畑が、綺麗に耕してあります。何を植えるんでしょうか。
この写真は、8歳の初夏ですね。隣が林だったから、毎日が森林浴でした。
おかーさん。写真ばかり撮っていては、有酸素運動になりませんよ。
ほら、もっと腕を振って。足は高く上げて。汗、かかなくっちゃ。

昨日は、このまま春が来るのかと勘違いしそうなほど暖かく、夕暮れが近づいても気温は下がることがなかった。
びっきーがいない手持無沙汰感を振り払うように、早足で歩く。すると、一つ目の十字路で、犬の散歩をする近所の人と会った。
「お、びっきーは?」と、彼は言いかけ、もういないことに気づいたようだ。
「少し、歩こうかと思って」と、わたし。すると、
「ああ、エアワンコと、散歩かぁ」と、笑った。
「いってらっしゃい」と、後ろを歩く奥様も励ますように声を掛けてくれた。
「エアワンコ、かぁ」
何故か、そう言われた途端、足元に、小さかった頃のびっきーがちょろちょろしているような気分になる。かと思うと、急に大きくなって走り出したり、立ち止まって土の匂いをくんくん嗅いだり。
それからは、エアワンコと一緒に歩いた。何しろ、びっきーとよく散歩した道だ。あちらこちらにエアワンコが居るのを感じる。だがその犬は、びっきーではないのだと判る。びっきーによく似た、びっきーではない犬。
ほどなくして、まだ別の近所のご夫婦と会った。彼らもウォーキング中で、びっきーを連れていた時はペースが合わず、挨拶して別れるのみだったが、昨日は一緒に歩いた。びっきーが死んだことや、おたがいの子ども達のことなどをしゃべりつつ、歩く。
そうして歩くうちに、エアワンコは、何処かへ行ってしまった。
「明日も、歩こうかな」
びっきーがいないのは淋しいが、外の空気を吸ったせいか、身体を動かしたからか、思いのほか、気分はすっきりしていた。
梅はもう、蕾が膨らんでいました。
枯れススキも、春を待って種を落としています。
八ヶ岳の雪も、昨日はずいぶん溶けました。
畑が、綺麗に耕してあります。何を植えるんでしょうか。
この写真は、8歳の初夏ですね。隣が林だったから、毎日が森林浴でした。
おかーさん。写真ばかり撮っていては、有酸素運動になりませんよ。
ほら、もっと腕を振って。足は高く上げて。汗、かかなくっちゃ。


イタリアの魔法のランプ
神戸から東京に戻り、夕食は目黒にあるトラットリア『ランテルナ・マジカ』(イタリア語で、魔法のランプ)に、食事に行った。
トラットリアとは、リストランテほどかしこまらず、ピッツェリアほどラフではなく、イタリアでも、家族や友人と気軽に、しかしきちんとしたイタリア料理を楽しむことが出来る店を、大抵はそう呼ぶ。
末娘と夫と3人でイタリアを旅してから、もう3年半が経つ。あの頃は、イタリアに夢中で、イタリア料理も図書館で料理本を借りよく作っては食べたし、毎日『テレビでイタリア語』を観て、自己流だがイタリア語も勉強した。今や和製外国語となったイタリア風サンドイッチ『パニーニ』は、実は『パニーノ』の複数形であることも知っているし、『ビッラ(ビール)』は女性名詞だから、助詞であり数を表す『ウノ(1)』を『ウナ』に変換することも覚えている。ところがである。あれだけイタリアで使った「すいませーん。生ビールくださーい!」が、もうすでに思い出せなくなっていた。ショックだ。
そんな脳のなかに絡まったまま仕舞い込んだ思い出を夫と引っ張り出しつつ、懐かしくも気取らず素朴な、だがやたらと美味しいイタリアンを堪能した。
料理も美味しいが、何しろ雰囲気がいい。ふたりともにすっかりくつろいで、気持ちよく酔っぱらった。
「末娘にグラッパを勧められたよねぇ」と、酔って思い出話に浸る、わたし。
「そうそう。ヴェネツィアの川沿いの店ね」と、こちらも酔っぱらって、夫。
グラッパは、ワインの絞りかすの葡萄の皮で作った強い酒だ。
「まだ16歳だから、って断ったら」と、思い出し笑いで、わたし。
「16歳なら、全然オッケーだって、出してくれたよねぇ」と、夫。
娘はひと口舐めて顔をしかめ、グラスを置いていたっけ。
程よく酔いが回った頃、メインの魚料理がサーブされた。それを食べた夫が「あれ、何だっけ?」と、いきなり小声で歌いだした。
「♪ふふーんふ・・・2時間待ってたとぉ♪ ってやつ」
「♪わりと元気よく出て行ったよと♪ ってやつだよね」
「そうそう」「何で今、それ思い出したの?」「この魚のハーブが」
「ローズマリー?」「それそれ。 ♪マリーが来たなら伝えてよ♪」
「それ、マリーじゃない。男だった。でもジュリーじゃあないね」
「えーっ、じゃあ何だよ」「ジョニーだ!」「ジョニーは、アリスでしょ」
「アリスじゃなくてさ、あ! 『 ジョニーへの伝言』だ」
「おー、そうだ。アリスは『ジョニーの子守唄』だ!」
夫はそこでスマホを取り出し『 ジョニーへの伝言』はペトロ&カプリシャスが歌っていたと判明した。そしてまた『ジョニーの子守唄』の歌詞を検索し
「♪おー! ジョニー♪」と、懐かしさにくつくつ笑いつつ、小声で歌いだす。
忘れて困ることも多いけど、忘れるのもなかなかいいかもと、ほろほろ酔いつつ考える。そんなわたし達に、ランプの精から魔法の声がかかった。
「食後酒は、いかがですか? グラッパ、いいのが揃ってますよ」
ふたりさらにほろほろと酔い、くつくつ笑い、さらに様々忘れていく。楽しい食事に欠かせないのは、居心地のいい雰囲気だ。それが満ち満ちた店だった。

『モレッティ』は、久しぶり。ライトなイタリアビールです。
前菜は『鯖の酢漬け』と『チコリのアンチョビソース』をシェア。
夫は『ラビオリ』わたしは『牡蠣のリゾット』
白をグラスで飲んでから、赤ワインをボトルでオーダーして。
この辺りで、ふたりともすでに酔っぱらっていました。
ローズマリーが効いていた『むつの香草焼き』
えーっ! グラッパ、こんなに種類があるの?
『ブルネロ・ディ・モンタルチーノ』のグラッパにしました。
「ガッサータ」と、口をついて出た夫のにわかイタリア語も、
「ガス水を」と言い直す前に、判ってくれました。
イタリアの炭酸水、泡が固くて大好きです。
イタリア語、勉強し直そうかなぁ。

トラットリアとは、リストランテほどかしこまらず、ピッツェリアほどラフではなく、イタリアでも、家族や友人と気軽に、しかしきちんとしたイタリア料理を楽しむことが出来る店を、大抵はそう呼ぶ。
末娘と夫と3人でイタリアを旅してから、もう3年半が経つ。あの頃は、イタリアに夢中で、イタリア料理も図書館で料理本を借りよく作っては食べたし、毎日『テレビでイタリア語』を観て、自己流だがイタリア語も勉強した。今や和製外国語となったイタリア風サンドイッチ『パニーニ』は、実は『パニーノ』の複数形であることも知っているし、『ビッラ(ビール)』は女性名詞だから、助詞であり数を表す『ウノ(1)』を『ウナ』に変換することも覚えている。ところがである。あれだけイタリアで使った「すいませーん。生ビールくださーい!」が、もうすでに思い出せなくなっていた。ショックだ。
そんな脳のなかに絡まったまま仕舞い込んだ思い出を夫と引っ張り出しつつ、懐かしくも気取らず素朴な、だがやたらと美味しいイタリアンを堪能した。
料理も美味しいが、何しろ雰囲気がいい。ふたりともにすっかりくつろいで、気持ちよく酔っぱらった。
「末娘にグラッパを勧められたよねぇ」と、酔って思い出話に浸る、わたし。
「そうそう。ヴェネツィアの川沿いの店ね」と、こちらも酔っぱらって、夫。
グラッパは、ワインの絞りかすの葡萄の皮で作った強い酒だ。
「まだ16歳だから、って断ったら」と、思い出し笑いで、わたし。
「16歳なら、全然オッケーだって、出してくれたよねぇ」と、夫。
娘はひと口舐めて顔をしかめ、グラスを置いていたっけ。
程よく酔いが回った頃、メインの魚料理がサーブされた。それを食べた夫が「あれ、何だっけ?」と、いきなり小声で歌いだした。
「♪ふふーんふ・・・2時間待ってたとぉ♪ ってやつ」
「♪わりと元気よく出て行ったよと♪ ってやつだよね」
「そうそう」「何で今、それ思い出したの?」「この魚のハーブが」
「ローズマリー?」「それそれ。 ♪マリーが来たなら伝えてよ♪」
「それ、マリーじゃない。男だった。でもジュリーじゃあないね」
「えーっ、じゃあ何だよ」「ジョニーだ!」「ジョニーは、アリスでしょ」
「アリスじゃなくてさ、あ! 『 ジョニーへの伝言』だ」
「おー、そうだ。アリスは『ジョニーの子守唄』だ!」
夫はそこでスマホを取り出し『 ジョニーへの伝言』はペトロ&カプリシャスが歌っていたと判明した。そしてまた『ジョニーの子守唄』の歌詞を検索し
「♪おー! ジョニー♪」と、懐かしさにくつくつ笑いつつ、小声で歌いだす。
忘れて困ることも多いけど、忘れるのもなかなかいいかもと、ほろほろ酔いつつ考える。そんなわたし達に、ランプの精から魔法の声がかかった。
「食後酒は、いかがですか? グラッパ、いいのが揃ってますよ」
ふたりさらにほろほろと酔い、くつくつ笑い、さらに様々忘れていく。楽しい食事に欠かせないのは、居心地のいい雰囲気だ。それが満ち満ちた店だった。
『モレッティ』は、久しぶり。ライトなイタリアビールです。
前菜は『鯖の酢漬け』と『チコリのアンチョビソース』をシェア。
夫は『ラビオリ』わたしは『牡蠣のリゾット』
白をグラスで飲んでから、赤ワインをボトルでオーダーして。
この辺りで、ふたりともすでに酔っぱらっていました。
ローズマリーが効いていた『むつの香草焼き』
えーっ! グラッパ、こんなに種類があるの?
『ブルネロ・ディ・モンタルチーノ』のグラッパにしました。
「ガッサータ」と、口をついて出た夫のにわかイタリア語も、
「ガス水を」と言い直す前に、判ってくれました。
イタリアの炭酸水、泡が固くて大好きです。
イタリア語、勉強し直そうかなぁ。


長田を歩いて
夫に誘われるまま『長田』を歩いた。
阪神・淡路大震災で、大規模な火災が発生した町『長田』だ。
その長田に『鉄人28号』のモニュメントが出来ているから、行ってみようと出かけたのだ。わたしは長田は初めて。彼は幼い頃住んでいたが就学前に今の東灘区に越し、その後行くこともなかったので、あまり記憶にはないと言う。
震災のあった19年前、テレビで観た『長田』の火災の映像はショッキングで、今も忘れられない。わたしは末娘を10月に出産したばかりだった。
東灘区に住む夫の両親に幸い怪我はなく、家は半壊したものの住みながら修理ができ、夫は何度も出かけて行った。
18mの『鉄人28号』は、予想を遥かに超える大きさだった。火災で焼けた長田の商店街の方を向き、力強く腕を突き出している。
『鉄人28号』の作者、故横山光輝は神戸出身であり、復興のシンボルとして多くの人の思いを込めて企画制作したと聞いた。同じ作者が漫画『三国志』を描いていたことから『KOBE三国志ガーデン』も作られ、商店街のあちらこちらに三国志の登場人物の石像や絵などを設置され、ギャラリーでは簡単にストーリーを追うことが出来たり、横山光輝の漫画なども展示されている。
鉄人にちなんで、長田名物『そばめし』が食べられるお好み焼き屋を『ザ・コテ鉄人』と呼んだ、人気店紹介の小冊子もあった。
先週、上の娘と話したばかりだ。彼女は今『きっかけバス』(47都道府県2000人の学生を東北へ)というボランティアに関わっていて、福島の学生の話を聞き、意識の違いに傷ついたり悩んだりしていることを知ったと言う。
わたしも山梨に越して来た時に、山梨で知り合った友人達が「阪神大震災って、冬だったっけ、夏だったっけ?」と話しているのを聞き、まだ5年しか経ってないのに、もう忘れちゃったんだと驚いたことがあった。
『3.11』という数字は忘れられることはないと思うが、東に住む人で、『1.17』を覚えている人は、少ないのではないか。
『鉄人28号』は大きく『三国志』は興味深く、お好み焼きは美味しかった。『長田』の町を、半日歩き、楽しみ、思った。こうしてその場所に来ることが、そこに住む人の気持ちに寄り添う、初めの1歩なんじゃないかと。

地下鉄『新長田駅』は、鉄人こちらの矢印と、マップだらけ。
いたー! ビューッと飛んでく『鉄人28号』♪ 大きい!!
ホームページはこちら→『KOBE鉄人PROJECT』
外灯も、鉄人の頭部。 こちらは三国志『関羽』等身大石像。
三国志入門的なアニメーションも流れていて、これまで本を、
手に取ることもなかったけど、読んだら面白いかもと思ったり。
長田名物『そばめし』がある、お好み焼き屋『ゆき』
結局『そばめし』ではなく『すじ焼き』と『モダン焼き』に。
キンキンに冷えた生ビールで乾杯。美味しかったです!

阪神・淡路大震災で、大規模な火災が発生した町『長田』だ。
その長田に『鉄人28号』のモニュメントが出来ているから、行ってみようと出かけたのだ。わたしは長田は初めて。彼は幼い頃住んでいたが就学前に今の東灘区に越し、その後行くこともなかったので、あまり記憶にはないと言う。
震災のあった19年前、テレビで観た『長田』の火災の映像はショッキングで、今も忘れられない。わたしは末娘を10月に出産したばかりだった。
東灘区に住む夫の両親に幸い怪我はなく、家は半壊したものの住みながら修理ができ、夫は何度も出かけて行った。
18mの『鉄人28号』は、予想を遥かに超える大きさだった。火災で焼けた長田の商店街の方を向き、力強く腕を突き出している。
『鉄人28号』の作者、故横山光輝は神戸出身であり、復興のシンボルとして多くの人の思いを込めて企画制作したと聞いた。同じ作者が漫画『三国志』を描いていたことから『KOBE三国志ガーデン』も作られ、商店街のあちらこちらに三国志の登場人物の石像や絵などを設置され、ギャラリーでは簡単にストーリーを追うことが出来たり、横山光輝の漫画なども展示されている。
鉄人にちなんで、長田名物『そばめし』が食べられるお好み焼き屋を『ザ・コテ鉄人』と呼んだ、人気店紹介の小冊子もあった。
先週、上の娘と話したばかりだ。彼女は今『きっかけバス』(47都道府県2000人の学生を東北へ)というボランティアに関わっていて、福島の学生の話を聞き、意識の違いに傷ついたり悩んだりしていることを知ったと言う。
わたしも山梨に越して来た時に、山梨で知り合った友人達が「阪神大震災って、冬だったっけ、夏だったっけ?」と話しているのを聞き、まだ5年しか経ってないのに、もう忘れちゃったんだと驚いたことがあった。
『3.11』という数字は忘れられることはないと思うが、東に住む人で、『1.17』を覚えている人は、少ないのではないか。
『鉄人28号』は大きく『三国志』は興味深く、お好み焼きは美味しかった。『長田』の町を、半日歩き、楽しみ、思った。こうしてその場所に来ることが、そこに住む人の気持ちに寄り添う、初めの1歩なんじゃないかと。
地下鉄『新長田駅』は、鉄人こちらの矢印と、マップだらけ。
いたー! ビューッと飛んでく『鉄人28号』♪ 大きい!!
ホームページはこちら→『KOBE鉄人PROJECT』
外灯も、鉄人の頭部。 こちらは三国志『関羽』等身大石像。
三国志入門的なアニメーションも流れていて、これまで本を、
手に取ることもなかったけど、読んだら面白いかもと思ったり。
長田名物『そばめし』がある、お好み焼き屋『ゆき』
結局『そばめし』ではなく『すじ焼き』と『モダン焼き』に。
キンキンに冷えた生ビールで乾杯。美味しかったです!


時計さえも一秒を丁寧に刻む場所で
神戸は夫の実家で、一日ゆっくり両親と過ごし、夜、彼の高校時代からの友人がやっている『IVY Bar』に飲みに行った。
カウンターに座り、夫はスコッチをロックで、わたしは生ビールをオーダーした。疲れもあり、注文したものを入れる様子を、ただじっと眺めた。
生ビールは入れる前に、サーバーの泡を他のグラスに2、3度注ぎ、ビールの感じを確かめてから冷えたグラスに注ぎ始める。注いでいったんいっぱいになったグラスに、再び泡の具合を見ながらまた2、3度小さく注ぐ。それで完成かをプロのこだわりで確認し、ようやく出来上がりだ。
スコッチのロックは、シンプルなロックグラスに大きな四角い氷を二つ入れ、しばらく置いておき、慎重に氷をかき混ぜてから、きっちり水を切り、スコッチボトルを一度逆さにして均一に調えてから、計って注ぐ。
カウンターの向こう側では、一つ一つのことが丁寧極まりなく、行われていた。しかしもちろん、ここではそれが当然なのである。時計さえも一秒一秒丁寧に、時を刻んでいく場所なのだ。
冷蔵庫から缶ビールを出し、シュパッと開けて缶から飲み、グラスを冷やすこともせず、ロックグラスに氷を入れ、ただウィスキーを注ぐのみの、今の生活。ああ、わたしいったい、何やってるんだろうと思わずにはいられなかった。もっと、もっと丁寧に暮らせるのに。
2杯目に頼んだマティーニも、然りである。自分で作ろうと買ったベルガモットはまだ冷蔵庫にあるが、潔くあきらめた。
「だいたいマティーニなんて、こうやって出してもらって飲むものなんだよ」
夫の、言う通りである。マティーニは、オリーブもしっかり食べ、最後の一滴まで美味しく飲んだ。そして時計は、何処でもない『IVY Bar』のペースで、丁寧に丁寧に、時を刻んでいった。

三ノ宮駅北側にある『IVY Bar』入口。
生ビールの泡が、きめ細やかでこんもり。嬉しい!
マティーニのオリーブには、神戸らしい風見鶏のピックが。

カウンターに座り、夫はスコッチをロックで、わたしは生ビールをオーダーした。疲れもあり、注文したものを入れる様子を、ただじっと眺めた。
生ビールは入れる前に、サーバーの泡を他のグラスに2、3度注ぎ、ビールの感じを確かめてから冷えたグラスに注ぎ始める。注いでいったんいっぱいになったグラスに、再び泡の具合を見ながらまた2、3度小さく注ぐ。それで完成かをプロのこだわりで確認し、ようやく出来上がりだ。
スコッチのロックは、シンプルなロックグラスに大きな四角い氷を二つ入れ、しばらく置いておき、慎重に氷をかき混ぜてから、きっちり水を切り、スコッチボトルを一度逆さにして均一に調えてから、計って注ぐ。
カウンターの向こう側では、一つ一つのことが丁寧極まりなく、行われていた。しかしもちろん、ここではそれが当然なのである。時計さえも一秒一秒丁寧に、時を刻んでいく場所なのだ。
冷蔵庫から缶ビールを出し、シュパッと開けて缶から飲み、グラスを冷やすこともせず、ロックグラスに氷を入れ、ただウィスキーを注ぐのみの、今の生活。ああ、わたしいったい、何やってるんだろうと思わずにはいられなかった。もっと、もっと丁寧に暮らせるのに。
2杯目に頼んだマティーニも、然りである。自分で作ろうと買ったベルガモットはまだ冷蔵庫にあるが、潔くあきらめた。
「だいたいマティーニなんて、こうやって出してもらって飲むものなんだよ」
夫の、言う通りである。マティーニは、オリーブもしっかり食べ、最後の一滴まで美味しく飲んだ。そして時計は、何処でもない『IVY Bar』のペースで、丁寧に丁寧に、時を刻んでいった。
三ノ宮駅北側にある『IVY Bar』入口。
生ビールの泡が、きめ細やかでこんもり。嬉しい!
マティーニのオリーブには、神戸らしい風見鶏のピックが。


凍った半月と朝陽とディズニーランド
夜明け前、凍った半月が空に浮かんでいた。
「手に取ったら、ぱりんと割れそうだな」
そんなことを考えつつ、フィットにエンジンをかける。夫を韮崎駅まで送る途中、陽が昇り始めた。半月は、ぱりんとは割れず、主役を太陽に譲った。雲達の演出で、いつになく神々しい日の出だ。
夫を送り出してから、フィットを駐車できるところに停め、写真を撮った。
「撮りたいものを中心に置くより、左右どっちかにずらして撮る方が、面白い写真が撮れるんだ」と、夫に教わったばかり。左に太陽を置いて撮ってみる。
ふと、背中に月の視線を感じるが、見当たらない。
「常に、すれ違いなんだな」などと、考える。
昼に、場違いですみませんって恐縮した感じで浮かぶ月も可愛いけれど、月はやはり夜空に似合う。そう言えば、夏目漱石は英語教師時代『I love you』を『月がきれいだね』と訳し生徒に教えたと言う。では漱石は、朝陽をどんな心持ちで眺めたのだろうか。
久しぶりに夫と、東京駅で待ち合わせた。彼の実家、神戸に帰省するためだ。今はケータイがあり、待ち合わせのすれ違いも、ほとんどない。その上、彼は待つのが苦手だし、わたしは待たせるのが苦手。太陽と月のように、性格はすれ違っているふたりだが、待ち合わせに関して言えば、相性抜群である。
新宿から乗った快速東京行は、車両すべてをディズニーキャラクターに乗っ取られたかのように、ディズニーランド祝30周年広告で埋め尽くされていた。
「30年かぁ」人並みに、開園した年に遊びに行ったっけ。
我々夫婦も先日、結婚して28年を過ぎた。兄と妹のように永遠に追いつくことのない年の差でディズニーランドを追いつつ、わたし達はわたし達なりに毎日を過ごして来たのだよなぁと考える。考え募れば、陽が昇ることも月が浮かぶことも、30年の時が過ぎていくことも、たいそう不思議なことに思えた。

韮崎駅近くで。あっという間に、陽は昇っていき……。

家に帰るともう、すっかり明るくなっていました。
ケータイで写真を撮っている人が、大勢いました。
ディズニーランド、30周年記念、おめでとうございます!

などと思いつつ神戸に着いたら、宝塚は100周年!
夫が生まれた頃に開業したという、阪急岡本駅前にある喫茶店
『ユニーク』は、変わらず営業していました。

「手に取ったら、ぱりんと割れそうだな」
そんなことを考えつつ、フィットにエンジンをかける。夫を韮崎駅まで送る途中、陽が昇り始めた。半月は、ぱりんとは割れず、主役を太陽に譲った。雲達の演出で、いつになく神々しい日の出だ。
夫を送り出してから、フィットを駐車できるところに停め、写真を撮った。
「撮りたいものを中心に置くより、左右どっちかにずらして撮る方が、面白い写真が撮れるんだ」と、夫に教わったばかり。左に太陽を置いて撮ってみる。
ふと、背中に月の視線を感じるが、見当たらない。
「常に、すれ違いなんだな」などと、考える。
昼に、場違いですみませんって恐縮した感じで浮かぶ月も可愛いけれど、月はやはり夜空に似合う。そう言えば、夏目漱石は英語教師時代『I love you』を『月がきれいだね』と訳し生徒に教えたと言う。では漱石は、朝陽をどんな心持ちで眺めたのだろうか。
久しぶりに夫と、東京駅で待ち合わせた。彼の実家、神戸に帰省するためだ。今はケータイがあり、待ち合わせのすれ違いも、ほとんどない。その上、彼は待つのが苦手だし、わたしは待たせるのが苦手。太陽と月のように、性格はすれ違っているふたりだが、待ち合わせに関して言えば、相性抜群である。
新宿から乗った快速東京行は、車両すべてをディズニーキャラクターに乗っ取られたかのように、ディズニーランド祝30周年広告で埋め尽くされていた。
「30年かぁ」人並みに、開園した年に遊びに行ったっけ。
我々夫婦も先日、結婚して28年を過ぎた。兄と妹のように永遠に追いつくことのない年の差でディズニーランドを追いつつ、わたし達はわたし達なりに毎日を過ごして来たのだよなぁと考える。考え募れば、陽が昇ることも月が浮かぶことも、30年の時が過ぎていくことも、たいそう不思議なことに思えた。
韮崎駅近くで。あっという間に、陽は昇っていき……。
家に帰るともう、すっかり明るくなっていました。
ケータイで写真を撮っている人が、大勢いました。
ディズニーランド、30周年記念、おめでとうございます!
などと思いつつ神戸に着いたら、宝塚は100周年!
夫が生まれた頃に開業したという、阪急岡本駅前にある喫茶店
『ユニーク』は、変わらず営業していました。


記憶の隙間
久しぶりに、夫婦で映画を観に出かけた。
50歳以上の夫婦なら、いつでもふたりで二千円。映画もお得に観られる。
だが、ふたりで観に行ったのはそれだけではない。昨夏夫婦で読んだ文庫本『永遠の0』(講談社文庫)は、やはり夫婦で観に行こうと決めていた。
夫が買った本だが、わたしもノンストップ一気読み。文句なく面白かった。
実は、戦争モノ、歴史モノは苦手である。難しい人名、地名がつらつら並べられ、記憶が追いつかないことや、目を覆いたくなるような残酷なシーンを外せないこともあり、気合いを入れないと読み始められない。
だが、『永遠の0』は違った。現代の若者が、特攻隊員だった自分の祖父の人となりを戦友達に取材して回るという設定がよかったのだと思う。
映画は、本よりもさらりと綺麗に撮られていた。悪くなかった。
「あのシーン、土砂降りの設定にしたんだね」と、わたしは、本との違いを楽しみつつ、映画の作り手が苦心して撮ったであろうシーンなどを、ふむふむと観ていた。だが、夫は違ったようだ。
「うそ。よく覚えてるね。本では、何処だったっけ?」
「部屋だよ。普通に」即答するわたしに、彼は首を傾げる。
「全く覚えてない。っていうか、ストーリー自体ほぼ忘れてた」
彼はなんと、最もキーになるドラマをも、すっかり忘れていたのだ。かいてしまうと完全ネタバレになるので、やめておくが。
「それ、逆にすごい! まるまる、2度楽しめたってことじゃん」
「ま、まあね。それにしても、きみはよく覚えてるねぇ、細かいとこまで」
それだけ印象深い本だった、というのはある。しかし、忘却能力については、人より勝ると自負している。なのに何故?
考えて、気がついた。苦手と思って避けてきた分、記憶の隙間が出来ていたのかもしれないと。夫は、小学生の頃から戦争について興味を持ち、多くの本を読んだと言っていた。わたしとは正反対。彼には隙間がなかったのだ。
難しいからとか、残酷な話だからとか言って、避けてばかりいてはいけない。自分や愛する人のために、戦争について考える時だよと、映画に教えられた。

映画館と同じモール内の『ルピシア』でローズヒップティーを購入。
スタバのハイビスカス・ブレンドより柔らかい酸味でした。
ローズヒップ、ハイビスカス、紅茶が入っているそうです。
紅茶一つとっても、数多くの種類から選べることに贅沢、実感します。
夫の文庫本は「戦争のことが知りたい」と言う上の娘に貸出中。
海外に行くと、戦争に限らず日本のことをよく聞かれるので、
英語だけじゃなく、いろいろ勉強しているようです。

50歳以上の夫婦なら、いつでもふたりで二千円。映画もお得に観られる。
だが、ふたりで観に行ったのはそれだけではない。昨夏夫婦で読んだ文庫本『永遠の0』(講談社文庫)は、やはり夫婦で観に行こうと決めていた。
夫が買った本だが、わたしもノンストップ一気読み。文句なく面白かった。
実は、戦争モノ、歴史モノは苦手である。難しい人名、地名がつらつら並べられ、記憶が追いつかないことや、目を覆いたくなるような残酷なシーンを外せないこともあり、気合いを入れないと読み始められない。
だが、『永遠の0』は違った。現代の若者が、特攻隊員だった自分の祖父の人となりを戦友達に取材して回るという設定がよかったのだと思う。
映画は、本よりもさらりと綺麗に撮られていた。悪くなかった。
「あのシーン、土砂降りの設定にしたんだね」と、わたしは、本との違いを楽しみつつ、映画の作り手が苦心して撮ったであろうシーンなどを、ふむふむと観ていた。だが、夫は違ったようだ。
「うそ。よく覚えてるね。本では、何処だったっけ?」
「部屋だよ。普通に」即答するわたしに、彼は首を傾げる。
「全く覚えてない。っていうか、ストーリー自体ほぼ忘れてた」
彼はなんと、最もキーになるドラマをも、すっかり忘れていたのだ。かいてしまうと完全ネタバレになるので、やめておくが。
「それ、逆にすごい! まるまる、2度楽しめたってことじゃん」
「ま、まあね。それにしても、きみはよく覚えてるねぇ、細かいとこまで」
それだけ印象深い本だった、というのはある。しかし、忘却能力については、人より勝ると自負している。なのに何故?
考えて、気がついた。苦手と思って避けてきた分、記憶の隙間が出来ていたのかもしれないと。夫は、小学生の頃から戦争について興味を持ち、多くの本を読んだと言っていた。わたしとは正反対。彼には隙間がなかったのだ。
難しいからとか、残酷な話だからとか言って、避けてばかりいてはいけない。自分や愛する人のために、戦争について考える時だよと、映画に教えられた。
映画館と同じモール内の『ルピシア』でローズヒップティーを購入。
スタバのハイビスカス・ブレンドより柔らかい酸味でした。
ローズヒップ、ハイビスカス、紅茶が入っているそうです。
紅茶一つとっても、数多くの種類から選べることに贅沢、実感します。
夫の文庫本は「戦争のことが知りたい」と言う上の娘に貸出中。
海外に行くと、戦争に限らず日本のことをよく聞かれるので、
英語だけじゃなく、いろいろ勉強しているようです。


和からし、本からし、洋がらし、木枯らし?
野菜をたくさん食べたくて、八宝菜を作った。
キャベツ、玉葱、人参、ピーマン、椎茸、豚肉、シーフードミックス。たくさん食べたいと作ったものだから、たくさん野菜を切りすぎた。
「あー、フライパンに入らない」
切っている途中で判りそうなものだが、判ったところで、たくさん食べたい気持ちの方が勝っていただろう。フライパンを二つ使い、たっぷり作り、たっぷり辛子をつけ、たっぷり食べた。
「辛子とって」と、夫に言われ、チューブの辛子を手渡す。彼も、わたしほどではないが、辛子たっぷり派だ。
途端に記憶は、10年ほど前に、さかのぼった。
食卓でのことである。何を食べていたかはもう、記憶の外だ。
「洋がらし、とって」と、向かい側に座る中学生の息子に、夫が言った。
息子は、何か戸惑いのような表情を見せたが、彼はもともとポーカーフェイスを信条にしている。返事もしなかった。
夫はテレビにでも気をとられて、気づかないと思ったのか、繰り返し言った。
「とってよ。そこにあるじゃん、洋がらし」
息子は、戸惑うばかりだ。夫は、そんな息子の様子にイライラし始めた。
「だから、それ、とってよ!」
息子は、ようやく辛子を手に取り、じっと父親の顔を見つめた。
「これ、『和からし』なんだけど」
彼は、あくまで真面目に戸惑い、考えていたのだ。食卓は、爆笑の渦に包まれ、夫はぶじ辛子を手に入れた。
そしてわたしは、辛子に『和』『洋』があることと、相手の言葉を柔軟に受け入れることの難しさは、人により大きく違うのだということを知った。
木枯らし(小がらし?)吹く東京で、彼もたまには野菜たっぷり八宝菜、食べているのだろうか。あの『洋がらし事件』を思い出したりするのだろうか。

これだけ入っていると、炒めものとは言えないかも。
ツーンとくるほど、つけるのが好きです。
表示を見ると『洋がらし』ではなく『本からし』と『和からし』
用途は、かいてある順番と数が微妙に違う不思議(笑)
S&Bのホームページを見ると、和より洋の方が柔らかい辛みで、
『和からし』は和からしのみを使い、辛みが強く、
『本からし』は和&洋がらしを合わせたマイルドな味だそうです。

キャベツ、玉葱、人参、ピーマン、椎茸、豚肉、シーフードミックス。たくさん食べたいと作ったものだから、たくさん野菜を切りすぎた。
「あー、フライパンに入らない」
切っている途中で判りそうなものだが、判ったところで、たくさん食べたい気持ちの方が勝っていただろう。フライパンを二つ使い、たっぷり作り、たっぷり辛子をつけ、たっぷり食べた。
「辛子とって」と、夫に言われ、チューブの辛子を手渡す。彼も、わたしほどではないが、辛子たっぷり派だ。
途端に記憶は、10年ほど前に、さかのぼった。
食卓でのことである。何を食べていたかはもう、記憶の外だ。
「洋がらし、とって」と、向かい側に座る中学生の息子に、夫が言った。
息子は、何か戸惑いのような表情を見せたが、彼はもともとポーカーフェイスを信条にしている。返事もしなかった。
夫はテレビにでも気をとられて、気づかないと思ったのか、繰り返し言った。
「とってよ。そこにあるじゃん、洋がらし」
息子は、戸惑うばかりだ。夫は、そんな息子の様子にイライラし始めた。
「だから、それ、とってよ!」
息子は、ようやく辛子を手に取り、じっと父親の顔を見つめた。
「これ、『和からし』なんだけど」
彼は、あくまで真面目に戸惑い、考えていたのだ。食卓は、爆笑の渦に包まれ、夫はぶじ辛子を手に入れた。
そしてわたしは、辛子に『和』『洋』があることと、相手の言葉を柔軟に受け入れることの難しさは、人により大きく違うのだということを知った。
木枯らし(小がらし?)吹く東京で、彼もたまには野菜たっぷり八宝菜、食べているのだろうか。あの『洋がらし事件』を思い出したりするのだろうか。
これだけ入っていると、炒めものとは言えないかも。
ツーンとくるほど、つけるのが好きです。
表示を見ると『洋がらし』ではなく『本からし』と『和からし』
用途は、かいてある順番と数が微妙に違う不思議(笑)
S&Bのホームページを見ると、和より洋の方が柔らかい辛みで、
『和からし』は和からしのみを使い、辛みが強く、
『本からし』は和&洋がらしを合わせたマイルドな味だそうです。


灰をかぶった2週間前の新聞
引っ越しでもないのに、2、3週間前の新聞に見入ってしまうことがある。
薪ストーブに、火を入れ直す時に使う、新聞である。
特にスポーツ欄などは、見出しが面白く「そうだった、そうだった」と手に取ってしまうことが多い。夫のように、スポーツ欄を細部まで読むことはほとんどないのに、だ。
昨日も「ああ、箱根駅伝かぁ」とか「高校サッカーの準決勝のPK合戦は、夫と観たなぁ」などと思いつつ新聞を破き、焚き付けにした。
「お、本田だ。そう言えば夫が、話してたっけ」と、読み始める。
10日の新聞には、サッカーのイタリア1部リーグ、セリエAのACミランに移籍し、背番号10番をもらった本田圭佑の記者会見が載っていた。
本田が小学校の卒業文集に「セリエAで、10番をつけて活躍する」とかいていたことを、夫から聞いてはいたが、読んではいなかったので目を通した。
「夢に向かって、まっしぐらに歩いて来たんだ」と、感心したのは、2週間ほど前のことだったか。
その後2試合目で初ゴールを決めた本田も、言葉の壁など、まだまだ試練のなかに居るようだ。長い長い2週間を過ごして来たかも知れない。
たった2週間だが、世の中、動いているんだなぁと実感する。そして、繰り返しの毎日のなか、わたしも少しは動いているのだろうかと、突然、不安になる。そんな不安に冷たく浸かりつつ、灰をかぶり取り残された2週間前の新聞のような自分を見つめ、また、静かに揺らめく炎を見つめた。
夫のグローブはかなり年季が入っていますが、大切に使っているようです。
冬の日差しのなか、ようやく機嫌を直して、燃え始めた薪ストーブ。
周りは、灰だらけ。「灰かぶり」は「シンデレラ」の語源ですね。
彼女が常に灰だらけになって働き「灰かぶり」と呼ばれたとはグリム版。
日本で有名なストーリーは、フランスのペロー作のものだとか。

薪ストーブに、火を入れ直す時に使う、新聞である。
特にスポーツ欄などは、見出しが面白く「そうだった、そうだった」と手に取ってしまうことが多い。夫のように、スポーツ欄を細部まで読むことはほとんどないのに、だ。
昨日も「ああ、箱根駅伝かぁ」とか「高校サッカーの準決勝のPK合戦は、夫と観たなぁ」などと思いつつ新聞を破き、焚き付けにした。
「お、本田だ。そう言えば夫が、話してたっけ」と、読み始める。
10日の新聞には、サッカーのイタリア1部リーグ、セリエAのACミランに移籍し、背番号10番をもらった本田圭佑の記者会見が載っていた。
本田が小学校の卒業文集に「セリエAで、10番をつけて活躍する」とかいていたことを、夫から聞いてはいたが、読んではいなかったので目を通した。
「夢に向かって、まっしぐらに歩いて来たんだ」と、感心したのは、2週間ほど前のことだったか。
その後2試合目で初ゴールを決めた本田も、言葉の壁など、まだまだ試練のなかに居るようだ。長い長い2週間を過ごして来たかも知れない。
たった2週間だが、世の中、動いているんだなぁと実感する。そして、繰り返しの毎日のなか、わたしも少しは動いているのだろうかと、突然、不安になる。そんな不安に冷たく浸かりつつ、灰をかぶり取り残された2週間前の新聞のような自分を見つめ、また、静かに揺らめく炎を見つめた。
夫のグローブはかなり年季が入っていますが、大切に使っているようです。
冬の日差しのなか、ようやく機嫌を直して、燃え始めた薪ストーブ。
周りは、灰だらけ。「灰かぶり」は「シンデレラ」の語源ですね。
彼女が常に灰だらけになって働き「灰かぶり」と呼ばれたとはグリム版。
日本で有名なストーリーは、フランスのペロー作のものだとか。


the クッション
フォアグラが、決してダチョウの肝臓ではないように、クッションもまた決して座布団ではない。週末、夫と上の娘が揉めていた。
「クッションつぶれるから、座布団にするのやめてくれる?」と、夫。
「えっ? だってこれ、座布団でしょ?」と、娘。
彼女は、ダイニングのテーブルにつく時に、ソファに置いてあるクッションを座布団代わりにしていたのだ。
「クッションと座布団は、違うでしょ?」と、夫。
「おんなじじゃん。何処が違うの?」と、娘。
「だから、クッションは背中にあてたり、もたれたりするもので、座るものじゃないんだよ。座布団は座るものでしょ?」と、夫。
「ふうん。でもいいじゃん、座ったって」と、娘。
「だ、か、ら、つぶれるからやめてって言ってんの」と、夫。
「だって、これで座りたいんだもん」と、娘。堂々巡りである。
所用で甲府に出た際、甲斐市のアジアン雑貨屋『ヤヤパプス』で、椅子用クッションを見繕った。750円也。
あれ?と疑問がムクムク湧いた。 椅子用クッションとは言うが、椅子用座布団とは言わない。これ如何に! 椅子用クッションは、座るのにクッションと呼ばれている。うーむ。座布団とクッションの違いを解明するには、つぶれたクッションが元に戻るくらいの時間が必要になるかも知れない。とりあえずは新しい椅子用クッション、『the クッション』とでも呼ぶことにするか。

安価の買い物しかしていないのに、快く写真を撮らせてくださいました。
この赤いライト欲しいなぁ。背の高いキリンも!
アクセサリーも、手に取ってみたいものばかり。
クッションはサイズも形も、いろいろ置いてありました。
before「何か落ち着きませんねぇ」 → after「ぴったりくる感じ」

「クッションつぶれるから、座布団にするのやめてくれる?」と、夫。
「えっ? だってこれ、座布団でしょ?」と、娘。
彼女は、ダイニングのテーブルにつく時に、ソファに置いてあるクッションを座布団代わりにしていたのだ。
「クッションと座布団は、違うでしょ?」と、夫。
「おんなじじゃん。何処が違うの?」と、娘。
「だから、クッションは背中にあてたり、もたれたりするもので、座るものじゃないんだよ。座布団は座るものでしょ?」と、夫。
「ふうん。でもいいじゃん、座ったって」と、娘。
「だ、か、ら、つぶれるからやめてって言ってんの」と、夫。
「だって、これで座りたいんだもん」と、娘。堂々巡りである。
所用で甲府に出た際、甲斐市のアジアン雑貨屋『ヤヤパプス』で、椅子用クッションを見繕った。750円也。
あれ?と疑問がムクムク湧いた。 椅子用クッションとは言うが、椅子用座布団とは言わない。これ如何に! 椅子用クッションは、座るのにクッションと呼ばれている。うーむ。座布団とクッションの違いを解明するには、つぶれたクッションが元に戻るくらいの時間が必要になるかも知れない。とりあえずは新しい椅子用クッション、『the クッション』とでも呼ぶことにするか。
安価の買い物しかしていないのに、快く写真を撮らせてくださいました。
この赤いライト欲しいなぁ。背の高いキリンも!
アクセサリーも、手に取ってみたいものばかり。
クッションはサイズも形も、いろいろ置いてありました。
before「何か落ち着きませんねぇ」 → after「ぴったりくる感じ」


観覧車みたいな木
埼玉の大学に通う末娘が、正月に帰省し、再び埼玉に帰る道で、つぶやいた。
「あの木、観覧車みたいだねぇ」
枝を丸く綺麗に伸ばした木が、運転席からも見える。しかし、見飽きるほど通った道でのことである。これまで彼女の目には、あの木は『観覧車みたい』ではなかったのだろう。それが都会に出て、大きく枝を伸ばした木を見ることよりも、観覧車を見かけることの方が多くなったのかも知れない。
少し淋しい気持ちで「そう言われれば、そうだねぇ」と答えた。
山や森や木を見て育った彼女は、もしかすると観覧車を初めて見た時『大きな木みたい』だと思ったかも知れない。それが今、逆転したということか。いや、彼女の『センス・オブ・ワンダー』は、きっと彼女のなかに残っている。木を見て『観覧車みたい』と思う感性もまた、面白いではないか。
帰省した際「貸して」と言い、彼女はわたしと夫の本棚から村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『1Q84』を持ち出した。そして『世界の終り』は、ほぼ1日で読了し「ありがとう」と、本棚に収めた。それを久しぶりに開いてみると、素敵に面白い比喩達が歓迎してくれた。
「入院したことはある?」「ない」と私は言った。私はだいたいにおいて『春の熊のように』健康なのだ。
誰も私の眠りをさまたげることはできない。私はトラブルの衣にくるまれた絶望の王子なのだ。『フォルクスワーゲン・ゴルフくらいの大きさの』ひきがえるがやってきて私に口づけするまで、私はこんこんと眠りつづけるのだ。
聴いているだけで神経が擦り減ってしまいそうだった。私は首をぐるぐるとまわしてから、ビールを喉の奥に流しこんだ。胃は『外まわりの銀行員の皮かばんみたいに』固くなっている。
まさかとは思ったが、私が二本食べた他は彼女がたいらげた。『重機関銃で納屋をなぎ倒すような』すさまじい勢いの食欲だった。
村上春樹的に言うとすれば『木のような観覧車』より断然『観覧車みたいな木』の方が、ぴったりくる。彼女のこの何気なくつぶやいた比喩は、村上春樹に影響されただけだったのかも、とふと考えた。
国道141号を韮崎に向かう道、左側の木のことです。
昨日は、所用の帰りに通った道で、野焼きをしていました。

野焼き。村上春樹なら、どんな比喩で表現するんでしょう。

「あの木、観覧車みたいだねぇ」
枝を丸く綺麗に伸ばした木が、運転席からも見える。しかし、見飽きるほど通った道でのことである。これまで彼女の目には、あの木は『観覧車みたい』ではなかったのだろう。それが都会に出て、大きく枝を伸ばした木を見ることよりも、観覧車を見かけることの方が多くなったのかも知れない。
少し淋しい気持ちで「そう言われれば、そうだねぇ」と答えた。
山や森や木を見て育った彼女は、もしかすると観覧車を初めて見た時『大きな木みたい』だと思ったかも知れない。それが今、逆転したということか。いや、彼女の『センス・オブ・ワンダー』は、きっと彼女のなかに残っている。木を見て『観覧車みたい』と思う感性もまた、面白いではないか。
帰省した際「貸して」と言い、彼女はわたしと夫の本棚から村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『1Q84』を持ち出した。そして『世界の終り』は、ほぼ1日で読了し「ありがとう」と、本棚に収めた。それを久しぶりに開いてみると、素敵に面白い比喩達が歓迎してくれた。
「入院したことはある?」「ない」と私は言った。私はだいたいにおいて『春の熊のように』健康なのだ。
誰も私の眠りをさまたげることはできない。私はトラブルの衣にくるまれた絶望の王子なのだ。『フォルクスワーゲン・ゴルフくらいの大きさの』ひきがえるがやってきて私に口づけするまで、私はこんこんと眠りつづけるのだ。
聴いているだけで神経が擦り減ってしまいそうだった。私は首をぐるぐるとまわしてから、ビールを喉の奥に流しこんだ。胃は『外まわりの銀行員の皮かばんみたいに』固くなっている。
まさかとは思ったが、私が二本食べた他は彼女がたいらげた。『重機関銃で納屋をなぎ倒すような』すさまじい勢いの食欲だった。
村上春樹的に言うとすれば『木のような観覧車』より断然『観覧車みたいな木』の方が、ぴったりくる。彼女のこの何気なくつぶやいた比喩は、村上春樹に影響されただけだったのかも、とふと考えた。
国道141号を韮崎に向かう道、左側の木のことです。
昨日は、所用の帰りに通った道で、野焼きをしていました。
野焼き。村上春樹なら、どんな比喩で表現するんでしょう。


フォアグラって、何だっけ?
上の娘が、友人からフォアグラをもらって来た。
最近、国際交流のイベントなどで県内の国立大学に行くことが増えた彼女は、そこでも留学している外国人と出会い、親しくなることが多くなったそうだ。
「山梨じゅう、みんな友達って感じ」と、笑って言う。
都会に比べれば大学数も知れている。大学の枠にとらわれず、国籍を越えコミュニケーションをとる術を学んでいくのはいいことだと思う。
さて、フォアグラだ。その国立大学にフランスから留学中の友人からもらったのだと言う。ツナ缶くらいの大きさかと思えば、それが5、6倍はある。
「こんなに、大きいのもらったの? 高価なんじゃないの?」と、わたし。
「フランスの実家から、送って来たんだって」と、娘。
「フランスじゃ、米じゃなくて、フォアグラ送るんだぁ」と、わたし。
「そうかもね」と、夫。「フランスじゃ、毎日食べるってこと?」
などと話しつつ、缶を開ける。缶は両側が開くようになっていて、両方開けて、片方から押し出すのだそうだ。
「おー、出た出た」「この黄色いの油だね」「そりゃ、フォアグラだもん」
大騒ぎである。
「で、フォアグラって、何だっけ?」と、包丁でフォアグラを切り、わたし。
「ガチョウの肝臓、かな」と、じっと見つめながら、娘。
「キャビアが、チョウザメの卵だもんね」と、ワインを開けつつ、夫。
「美味しい!」「あんまりアクの強い味は、しないんだね」
「アン肝より、ぜんぜん生臭くない!」食べてはまた、大騒ぎである。
「やっぱ、高価なんじゃない? だって、ガチョウの卵ってすごく高いけど栄養あるって言うもんね」と、わたし。
「えっ? ガチョウって、どんな鳥だっけ?」と、夫。
「ほら、あの大きいやつでしょ。高速で走るって言う」と、わたし。
すると、娘が吹きだした。「それ、ダチョウじゃん! これはガ、チョウ!」
「えーっ! ダチョウじゃなかったの?」と、わたし。
「ガチョウって、どんな鳥だよ」と、笑いつつ、夫。
娘がケータイで調べると、白い鳥の写真が出て来た。
「それ、アヒルじゃん!」「まさに、アヒル」「これが、ガチョウなの!」
「で、ファオグラって、ダチョウの肝臓じゃないの?」と、しつこくわたし。
「ガ、チョウ!です」と、娘。
こうして、フォアグラの晩餐は愉快に過ぎていったのだ。いやぁ、ずっとフォアグラを、ダチョウの肝臓だと思い込んでいたわたしも、娘の国際交流のおかげで、またひとつ利口になったかな。ならないか。

大きな缶に、ぎっしり詰まっていました。缶の表示はフランス語。
缶の両側を開けて、スプーンで押し出しているところ。なかなか出ない。

癖が無くて、意外とさっぱりした味。フォアグラのパテですね。
でもカロリーは、ばっちり高そう。食べすぎ注意です。

最近、国際交流のイベントなどで県内の国立大学に行くことが増えた彼女は、そこでも留学している外国人と出会い、親しくなることが多くなったそうだ。
「山梨じゅう、みんな友達って感じ」と、笑って言う。
都会に比べれば大学数も知れている。大学の枠にとらわれず、国籍を越えコミュニケーションをとる術を学んでいくのはいいことだと思う。
さて、フォアグラだ。その国立大学にフランスから留学中の友人からもらったのだと言う。ツナ缶くらいの大きさかと思えば、それが5、6倍はある。
「こんなに、大きいのもらったの? 高価なんじゃないの?」と、わたし。
「フランスの実家から、送って来たんだって」と、娘。
「フランスじゃ、米じゃなくて、フォアグラ送るんだぁ」と、わたし。
「そうかもね」と、夫。「フランスじゃ、毎日食べるってこと?」
などと話しつつ、缶を開ける。缶は両側が開くようになっていて、両方開けて、片方から押し出すのだそうだ。
「おー、出た出た」「この黄色いの油だね」「そりゃ、フォアグラだもん」
大騒ぎである。
「で、フォアグラって、何だっけ?」と、包丁でフォアグラを切り、わたし。
「ガチョウの肝臓、かな」と、じっと見つめながら、娘。
「キャビアが、チョウザメの卵だもんね」と、ワインを開けつつ、夫。
「美味しい!」「あんまりアクの強い味は、しないんだね」
「アン肝より、ぜんぜん生臭くない!」食べてはまた、大騒ぎである。
「やっぱ、高価なんじゃない? だって、ガチョウの卵ってすごく高いけど栄養あるって言うもんね」と、わたし。
「えっ? ガチョウって、どんな鳥だっけ?」と、夫。
「ほら、あの大きいやつでしょ。高速で走るって言う」と、わたし。
すると、娘が吹きだした。「それ、ダチョウじゃん! これはガ、チョウ!」
「えーっ! ダチョウじゃなかったの?」と、わたし。
「ガチョウって、どんな鳥だよ」と、笑いつつ、夫。
娘がケータイで調べると、白い鳥の写真が出て来た。
「それ、アヒルじゃん!」「まさに、アヒル」「これが、ガチョウなの!」
「で、ファオグラって、ダチョウの肝臓じゃないの?」と、しつこくわたし。
「ガ、チョウ!です」と、娘。
こうして、フォアグラの晩餐は愉快に過ぎていったのだ。いやぁ、ずっとフォアグラを、ダチョウの肝臓だと思い込んでいたわたしも、娘の国際交流のおかげで、またひとつ利口になったかな。ならないか。
大きな缶に、ぎっしり詰まっていました。缶の表示はフランス語。
缶の両側を開けて、スプーンで押し出しているところ。なかなか出ない。
癖が無くて、意外とさっぱりした味。フォアグラのパテですね。
でもカロリーは、ばっちり高そう。食べすぎ注意です。


無口な冬の庭の住人達
木枯らしも、何処かで昼寝でもしているのかと思うほど、静かな週末。
夫と薪を運び、その後のんびりと庭を歩いた。
物言わぬ植物達をじっと見つめていると、童話などに登場するおしゃべりな花や木を思い出す。『不思議の国のアリス』もそうだが、宮沢賢治の『ひのきとひなげし』のひなげし達も、小さな花やら、黒斑が入ったもの、一番美しいと羨まれるひなげしなど、花畑は彼女達の声でにぎやかだった。
「おまえ達はみんなまっ赤な帆船でね、いまが嵐のとこなんだ」
けやきの木は、ひなげしを愛しいものを眺めるように見下ろしている。
「あたしら、帆船やなんかじゃないわ。背だけ高くて、ばかあなひのき」
だがそのひなげし達は、美しくなりスターになりたいと自分のことばかり。
「風がいっそう激しくなってひのきもまるで青黒馬(あおうま)の尻尾のよう、ひなげしどもはみな熱病にかかったよう、てんでに何かうわ言を、南の風に云ったのですが風はてんから相手にせずどしどし向うへ駆け抜けます」
青黒馬の尻尾とのひのきの描写が素敵で、ひなげしを熱病というのも麻薬であるアヘンを作る花だとの伏線に思え面白く、宮沢賢治の魅力を感じる掌編だ。
(宮沢賢治を「賢治」と呼ぶほどのファンではありませんが)
冬の庭におしゃべりなひなげしは不在だが、ふと見せる植物の表情に、ああ、生きているんだなと思う瞬間はある。春のような日差しのなか、ほんの少しだけ伸びをしたような、ホッとして欠伸をしたかのような表情が見え隠れするのを感じ、無口な彼らの声を聞きとれそうな気配に、じっと耳を澄ませた。

枯葉で埋もれた足元で、ドングリが根付いていました。可愛い!
見上げると夏には昆虫酒場だったクヌギも、店を閉めています。
山桜の木肌は、とっても綺麗。
『ハーブ園』?のローズマリーは木枯らしにも負けていません。
ニラは、朝顔のような種を落とした後の形が、花のよう。
ヒイラギは緑を失わず、 薔薇は、棘を北風で磨いています。
ヘクソカズラの実。実も花も可愛いのに、哀れ過ぎるネーミング。
それだけに、強く生息しているのかも知れません。
テッポウユリは種をすっかり飛ばし、ドライフラワー状態です。

夫と薪を運び、その後のんびりと庭を歩いた。
物言わぬ植物達をじっと見つめていると、童話などに登場するおしゃべりな花や木を思い出す。『不思議の国のアリス』もそうだが、宮沢賢治の『ひのきとひなげし』のひなげし達も、小さな花やら、黒斑が入ったもの、一番美しいと羨まれるひなげしなど、花畑は彼女達の声でにぎやかだった。
「おまえ達はみんなまっ赤な帆船でね、いまが嵐のとこなんだ」
けやきの木は、ひなげしを愛しいものを眺めるように見下ろしている。
「あたしら、帆船やなんかじゃないわ。背だけ高くて、ばかあなひのき」
だがそのひなげし達は、美しくなりスターになりたいと自分のことばかり。
「風がいっそう激しくなってひのきもまるで青黒馬(あおうま)の尻尾のよう、ひなげしどもはみな熱病にかかったよう、てんでに何かうわ言を、南の風に云ったのですが風はてんから相手にせずどしどし向うへ駆け抜けます」
青黒馬の尻尾とのひのきの描写が素敵で、ひなげしを熱病というのも麻薬であるアヘンを作る花だとの伏線に思え面白く、宮沢賢治の魅力を感じる掌編だ。
(宮沢賢治を「賢治」と呼ぶほどのファンではありませんが)
冬の庭におしゃべりなひなげしは不在だが、ふと見せる植物の表情に、ああ、生きているんだなと思う瞬間はある。春のような日差しのなか、ほんの少しだけ伸びをしたような、ホッとして欠伸をしたかのような表情が見え隠れするのを感じ、無口な彼らの声を聞きとれそうな気配に、じっと耳を澄ませた。
枯葉で埋もれた足元で、ドングリが根付いていました。可愛い!
見上げると夏には昆虫酒場だったクヌギも、店を閉めています。
山桜の木肌は、とっても綺麗。
『ハーブ園』?のローズマリーは木枯らしにも負けていません。
ニラは、朝顔のような種を落とした後の形が、花のよう。
ヒイラギは緑を失わず、 薔薇は、棘を北風で磨いています。
ヘクソカズラの実。実も花も可愛いのに、哀れ過ぎるネーミング。
それだけに、強く生息しているのかも知れません。
テッポウユリは種をすっかり飛ばし、ドライフラワー状態です。


牡蠣との再会
勇気を出して、解禁にした。牡蠣である。
何年か前に牡蠣に中り、消化器系はビクともしなかったが、身体じゅうにジンマシンが出て1週間痒い思いをし、2カ月以上痕が残り、温泉に行くのもはばかられる状態が続いた。それから恐くなり、ずっと食べていなかったのだが、牡蠣は大好きだ。美味しそうに食べる家族を横目に我慢するのも、そろそろ嫌毛がさしてきた。ジンマシンが出たら出たで、その時はその時だ。まあ、こういうのをまさに「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」と言うのだが。
先週上京した際、風邪をひいたと自覚したその昼食、熱い蕎麦でも食べようと蕎麦屋の暖簾をくぐった。メニューを見ると『牡蠣の卵とじ蕎麦』の項目が、光り輝いている。これはもう、牡蠣を食べて栄養を取り、身体を温めて風邪を治すべし、とのお告げだと思われた。
一口食べて「美味しい!」と人目もはばからずつぶやいてしまうほど、何年かぶりの牡蠣との再会は感動ものだった。潮の匂いがして、目の前に日本海の荒波が押し寄せて来た。喉元過ぎても、もうその美味しさは忘れられるものではない。幸い、何事も起こらず風邪も治った。
さて。毎日零下、木枯らし吹く明野で温かく過ごすには、鍋に限る。夫が東京から帰る日には、鍋にした。生食用の牡蠣を買い、生で食べ、また鍋に入れて食べた。ふたりで動けなくなるほど食べに食べ「食べ過ぎた」「動けない」と、炬燵で寝転び、日本酒を呑んだ。
牡蠣が食べられる。それだけのことだが、「今年は牡蠣を、思う存分食べるぞー!」と、夕陽に向かって叫びたくなるほど嬉しい。わたしにとっては、小さな幸せと呼ぶには、あまりある喜びだ。
もしかすると、ビールも何年か絶ち、再び飲むときにはこの美味しさを味わえるのかも。まあ、ビールを絶つことはありえないけれど。
解禁のきっかけとなった『牡蠣の卵とじ蕎麦』太めの麺でこしがありました。
カウンター席が素敵な、お蕎麦屋さんでした。
食べ始めたら、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)
「娘、帰ってくるのかな?」「さあ?」と言いつつ、ふたりでほぼ完食。

何年か前に牡蠣に中り、消化器系はビクともしなかったが、身体じゅうにジンマシンが出て1週間痒い思いをし、2カ月以上痕が残り、温泉に行くのもはばかられる状態が続いた。それから恐くなり、ずっと食べていなかったのだが、牡蠣は大好きだ。美味しそうに食べる家族を横目に我慢するのも、そろそろ嫌毛がさしてきた。ジンマシンが出たら出たで、その時はその時だ。まあ、こういうのをまさに「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」と言うのだが。
先週上京した際、風邪をひいたと自覚したその昼食、熱い蕎麦でも食べようと蕎麦屋の暖簾をくぐった。メニューを見ると『牡蠣の卵とじ蕎麦』の項目が、光り輝いている。これはもう、牡蠣を食べて栄養を取り、身体を温めて風邪を治すべし、とのお告げだと思われた。
一口食べて「美味しい!」と人目もはばからずつぶやいてしまうほど、何年かぶりの牡蠣との再会は感動ものだった。潮の匂いがして、目の前に日本海の荒波が押し寄せて来た。喉元過ぎても、もうその美味しさは忘れられるものではない。幸い、何事も起こらず風邪も治った。
さて。毎日零下、木枯らし吹く明野で温かく過ごすには、鍋に限る。夫が東京から帰る日には、鍋にした。生食用の牡蠣を買い、生で食べ、また鍋に入れて食べた。ふたりで動けなくなるほど食べに食べ「食べ過ぎた」「動けない」と、炬燵で寝転び、日本酒を呑んだ。
牡蠣が食べられる。それだけのことだが、「今年は牡蠣を、思う存分食べるぞー!」と、夕陽に向かって叫びたくなるほど嬉しい。わたしにとっては、小さな幸せと呼ぶには、あまりある喜びだ。
もしかすると、ビールも何年か絶ち、再び飲むときにはこの美味しさを味わえるのかも。まあ、ビールを絶つことはありえないけれど。
解禁のきっかけとなった『牡蠣の卵とじ蕎麦』太めの麺でこしがありました。
カウンター席が素敵な、お蕎麦屋さんでした。
食べ始めたら、写真を撮るのを忘れてしまいました(笑)
「娘、帰ってくるのかな?」「さあ?」と言いつつ、ふたりでほぼ完食。


目に見えない努力?
昨日は1日、眼鏡をかけて仕事をした。近視の眼鏡である。
書類を確認するのも、パソコンを叩くのも、眼鏡の方が楽なのだ。10年前から老眼が始まり、コンタクトをしたままでは近くのものが読みにくくなった。
だが、ドライアイでもありワンデイコンタクトを使っている以上、つけたら外せない。眼鏡をちょっと上にずらして見るような、気軽さはないのだ。その眼鏡は度が弱く、仕事をするには丁度いい。ただ、運転するには不安だ。だいたい、眼鏡に慣れていないので、目と眼鏡との距離に微妙にずれていく世界がつかめず、我が家の階段でさえつまずく始末。運転など出来るものではない。万事が万事は、上手くいかないものである。
運転しなければならない日は、コンタクトをつけ1日過ごす。末娘が高校に通うために送り迎えしていた昨年までは、朝起きて、コンタクトをつけるのが当然の習慣だった。今はそれがなくなり、多少自由に使い分けている。
そんな調子でいられるのも、老眼が始まってから10年、ほぼ進行していないからだ。老眼という沼に片足をとられながらも、なんとか近視のコンタクトで過ごしている。
コンタクトで過ごすことにより、日中は近くのものもがんばって見るしかない。疲れる。疲れるが、これがいいリハビリになっているようなのだ。知らず知らず目の筋肉体操をしているらしい。
「わたしの目、目に見えない努力をしているんだなぁ」
などと感心することしきり。しかし。
五十肩がよくなり、夫にストレッチをするように言われるが、なかなかやる気が起きない。毎日かかさず入念にストレッチする夫を眺め、目の筋肉のように自然にストレッチ出来ないものかと怠惰に考えつつ、ちょっと肩と首を回しては「おっ、気持ちいい」と言って「それは、ストレッチじゃない」と、呆れ果てた夫に指摘されるのである。目に見える努力もまた、必要なようだ。
常時眼鏡をかけている夫は、眼鏡を拭くのもマメです。
わたしが、着ているフリースとかで眼鏡を拭いていると呆れられます。

おかーさん、僕が誘わないからって、少しは歩かないとダメですよ。
ウォーキングシューズ、プレゼントしてもらったんでしょ。
ほらほら、外はいいお天気ですよ。気持ちいいですよー。
これは11歳の夏の写真です。「笑うびっきー」とは、おとーさん。

書類を確認するのも、パソコンを叩くのも、眼鏡の方が楽なのだ。10年前から老眼が始まり、コンタクトをしたままでは近くのものが読みにくくなった。
だが、ドライアイでもありワンデイコンタクトを使っている以上、つけたら外せない。眼鏡をちょっと上にずらして見るような、気軽さはないのだ。その眼鏡は度が弱く、仕事をするには丁度いい。ただ、運転するには不安だ。だいたい、眼鏡に慣れていないので、目と眼鏡との距離に微妙にずれていく世界がつかめず、我が家の階段でさえつまずく始末。運転など出来るものではない。万事が万事は、上手くいかないものである。
運転しなければならない日は、コンタクトをつけ1日過ごす。末娘が高校に通うために送り迎えしていた昨年までは、朝起きて、コンタクトをつけるのが当然の習慣だった。今はそれがなくなり、多少自由に使い分けている。
そんな調子でいられるのも、老眼が始まってから10年、ほぼ進行していないからだ。老眼という沼に片足をとられながらも、なんとか近視のコンタクトで過ごしている。
コンタクトで過ごすことにより、日中は近くのものもがんばって見るしかない。疲れる。疲れるが、これがいいリハビリになっているようなのだ。知らず知らず目の筋肉体操をしているらしい。
「わたしの目、目に見えない努力をしているんだなぁ」
などと感心することしきり。しかし。
五十肩がよくなり、夫にストレッチをするように言われるが、なかなかやる気が起きない。毎日かかさず入念にストレッチする夫を眺め、目の筋肉のように自然にストレッチ出来ないものかと怠惰に考えつつ、ちょっと肩と首を回しては「おっ、気持ちいい」と言って「それは、ストレッチじゃない」と、呆れ果てた夫に指摘されるのである。目に見える努力もまた、必要なようだ。
常時眼鏡をかけている夫は、眼鏡を拭くのもマメです。
わたしが、着ているフリースとかで眼鏡を拭いていると呆れられます。
おかーさん、僕が誘わないからって、少しは歩かないとダメですよ。
ウォーキングシューズ、プレゼントしてもらったんでしょ。
ほらほら、外はいいお天気ですよ。気持ちいいですよー。
これは11歳の夏の写真です。「笑うびっきー」とは、おとーさん。


彼女の『センス・オブ・ワンダー』
実家の父から、電話があった。昨日まで上の娘が世話になっていたことは判っていたので、礼を言ったが、肝心の娘はまだ帰っていない。今夜は友人カロリナの家に泊まるとメールがあった。飲み会だそうだ。
「忙しい子だねぇ」父は、目を細めるように言った。
「今朝、握り飯、持たせてやったんだ」とも。
TOEICの試験で、上京していたのだ。そのついでに友人と会い「二日酔い~」とfacebookにアップしていた。連チャンということか。
学友カロリナは、ポーランドから将棋を学びに来ている女子で、英会話サークルで仲良くなったという。「ベッドは貸さないよ」と言われても、娘は寝袋を持って「気にしなくていいから」と、泊まりに行く。たこ焼きやお好み焼きパーティも、カロリナの部屋で娘が企画し楽しんだらしい。
家族5人分の寝袋は、今、和室の押し入れにしまってある。娘はいつ寝袋を出したんだか。だいたい、寝袋持参の女子大生ってどうよ?
寝袋から、家族でよくキャンプした頃を思い出し、レイチェル・カーソンの遺作『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)を思い出した。タイトルは文中で「神秘さや不思議さに目を見はる感性」と訳され、子どもにとって「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと、レイチェルはかいている。
「もし、あなた自身は自然への知識をほんの少ししか持っていないと感じていたとしても、親としてたくさんのことを子どもにしてあげることが出来ます。たとえば、子どもと一緒に空を見上げてみましょう。そこには夜明けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空に瞬く星があります」
幼い頃いく度もキャンプし山のなかを走り回ったことや、田舎で暮らし毎日1時間近く歩いて学校に通ったことや、晴れた空の下八ヶ岳から吹き降ろす雪を見た瞬間や、そんないろいろが、今の彼女を形成するパズルの1ピースとなっているのかもしれないな、と考えた。
「ヨーロッパを自転車で回るなんて、無茶なんじゃないの?」
と思いつつ、彼女が借りた自転車と、忙しく走り回る娘を眺める日々である。

玄関を占領している、2台の自転車と、キック・スクーター。
久しぶりに読みましたが、新しい発見を、そこ此処に感じました。
娘が小学校の頃、嬉しそうにバリバリ踏んで歩いていた凍った堰。
凍っては溶けてを繰り返している、堰沿いの朽ちた木に生息する苔達。
そして僕と過ごした毎日が何より、姫にとってワンダーでしたよね。
「びっきー、散歩行くよー」と言われると、嬉しくてついつい、
はしゃいで逃げ回って、姫はリードを付けられず困っていましたね。
僕も、子どもだったなぁ。
ちい姫には最近まで、そうやって遊んであげていましたけれどね。
左の写真を、おとーさんが部屋に飾ってくれました。
おかーさんは「反省びっきー」なんて言うんですよ。ひどいなぁ。

「忙しい子だねぇ」父は、目を細めるように言った。
「今朝、握り飯、持たせてやったんだ」とも。
TOEICの試験で、上京していたのだ。そのついでに友人と会い「二日酔い~」とfacebookにアップしていた。連チャンということか。
学友カロリナは、ポーランドから将棋を学びに来ている女子で、英会話サークルで仲良くなったという。「ベッドは貸さないよ」と言われても、娘は寝袋を持って「気にしなくていいから」と、泊まりに行く。たこ焼きやお好み焼きパーティも、カロリナの部屋で娘が企画し楽しんだらしい。
家族5人分の寝袋は、今、和室の押し入れにしまってある。娘はいつ寝袋を出したんだか。だいたい、寝袋持参の女子大生ってどうよ?
寝袋から、家族でよくキャンプした頃を思い出し、レイチェル・カーソンの遺作『センス・オブ・ワンダー』(新潮社)を思い出した。タイトルは文中で「神秘さや不思議さに目を見はる感性」と訳され、子どもにとって「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと、レイチェルはかいている。
「もし、あなた自身は自然への知識をほんの少ししか持っていないと感じていたとしても、親としてたくさんのことを子どもにしてあげることが出来ます。たとえば、子どもと一緒に空を見上げてみましょう。そこには夜明けや黄昏の美しさがあり、流れる雲、夜空に瞬く星があります」
幼い頃いく度もキャンプし山のなかを走り回ったことや、田舎で暮らし毎日1時間近く歩いて学校に通ったことや、晴れた空の下八ヶ岳から吹き降ろす雪を見た瞬間や、そんないろいろが、今の彼女を形成するパズルの1ピースとなっているのかもしれないな、と考えた。
「ヨーロッパを自転車で回るなんて、無茶なんじゃないの?」
と思いつつ、彼女が借りた自転車と、忙しく走り回る娘を眺める日々である。
玄関を占領している、2台の自転車と、キック・スクーター。
久しぶりに読みましたが、新しい発見を、そこ此処に感じました。
娘が小学校の頃、嬉しそうにバリバリ踏んで歩いていた凍った堰。
凍っては溶けてを繰り返している、堰沿いの朽ちた木に生息する苔達。
そして僕と過ごした毎日が何より、姫にとってワンダーでしたよね。
「びっきー、散歩行くよー」と言われると、嬉しくてついつい、
はしゃいで逃げ回って、姫はリードを付けられず困っていましたね。
僕も、子どもだったなぁ。
ちい姫には最近まで、そうやって遊んであげていましたけれどね。
左の写真を、おとーさんが部屋に飾ってくれました。
おかーさんは「反省びっきー」なんて言うんですよ。ひどいなぁ。


ラーメン屋の暖簾
ラーメン屋で、カウンターに座ると、面白い暖簾を掛けていた。
「笑顔、挑戦、喜、福、感謝、真心、幸、絆、愛、元気」などの文字が、赤地に白でかかれている。普段は、あらためて対峙することのない言葉ばかりだ。その文字達は、生き生きとして見えたが、少し眩しすぎるようにも感じた。
「笑う門には、福来たる」という言葉は好きだが「笑顔で」などとストレートに言葉にすることは、照れ臭くもあり、家族にだって最近では言わなくなった。それだけ、満ち足りた毎日を過ごしているということなのかもしれないが、ポジティブな言葉が持つそのパワーも、時にはマイナスに動くことがあると、知ってもいる。
びっきーが死に、ひと月経った。小さな喜びや、人の温かさや、ご飯を美味しく食べられる幸せを感じつつも、心の底から笑うことは難しかった。そんなわたしに「笑顔で」と声を掛ける人は、もちろんいなかった。
笑顔になれない人には「笑顔」という言葉は重い。不幸せだと感じている人には「幸」という文字は辛い。ひとりぼっちの人は「絆」と聞くだけで苦しい。
そんな時、いいなと思ったのは歌だ。愛や恋や笑顔や幸せや絆だって真心だって、オブラートに包んだかのように、眩し過ぎないよう柔らかく届けてくれる。運転中、ビートルズばかり聴いているわたしが、年末年始に一番よく聴いたのは、竹内まりやの『元気を出して』だった。
♪ 幸せになりたい気持ちがあるなら
明日を見つけることは とても簡単 ♪

面白い暖簾があるものですねぇ。ラーメン屋さんに似合ってます。
今年初めての辛味噌葱ラーメンは、大辛にしました。
これでもう、風邪も治るでしょう!

「笑顔、挑戦、喜、福、感謝、真心、幸、絆、愛、元気」などの文字が、赤地に白でかかれている。普段は、あらためて対峙することのない言葉ばかりだ。その文字達は、生き生きとして見えたが、少し眩しすぎるようにも感じた。
「笑う門には、福来たる」という言葉は好きだが「笑顔で」などとストレートに言葉にすることは、照れ臭くもあり、家族にだって最近では言わなくなった。それだけ、満ち足りた毎日を過ごしているということなのかもしれないが、ポジティブな言葉が持つそのパワーも、時にはマイナスに動くことがあると、知ってもいる。
びっきーが死に、ひと月経った。小さな喜びや、人の温かさや、ご飯を美味しく食べられる幸せを感じつつも、心の底から笑うことは難しかった。そんなわたしに「笑顔で」と声を掛ける人は、もちろんいなかった。
笑顔になれない人には「笑顔」という言葉は重い。不幸せだと感じている人には「幸」という文字は辛い。ひとりぼっちの人は「絆」と聞くだけで苦しい。
そんな時、いいなと思ったのは歌だ。愛や恋や笑顔や幸せや絆だって真心だって、オブラートに包んだかのように、眩し過ぎないよう柔らかく届けてくれる。運転中、ビートルズばかり聴いているわたしが、年末年始に一番よく聴いたのは、竹内まりやの『元気を出して』だった。
♪ 幸せになりたい気持ちがあるなら
明日を見つけることは とても簡単 ♪
面白い暖簾があるものですねぇ。ラーメン屋さんに似合ってます。
今年初めての辛味噌葱ラーメンは、大辛にしました。
これでもう、風邪も治るでしょう!


料理マンネリ化の原因
『スペインバルブック』なるものを、夫が買って来た。
「正月に、パラパラ見るのに、丁度いいかと思って」と、夫。
スペイン料理の写真が数えきれないほど載ったその本は、確かに丁度よく、ふたりめくっては、昨夏旅したスペインの話をしたりした。
すると、当然のようにスペイン料理が食べたくなり、先週、四谷のスペイン料理店『MAMAS&PAPAS』に、ふたり出掛け、生ビールと赤ワインで乾杯し、「美味しいねぇ」と、舌鼓を打った。
スペインはバルセロナから入り、グラナダ、コルドバ、マドリッドをのんびりペースで回った。グラナダでは、ビールをオーダーする度に、タパスという酒の肴が無料で出て来るのが楽しく、バルを梯子し夕食にした日もあった。生ハムのハモン・セラーノが有名ではあるが、シーフードや野菜のメニューも多く、日本人の舌に合っていることを実感した。
だが、美食の都と呼ばれるバスク地方に、行っていない。
「また、行きたいねぇ。スペイン」と、わたし。
「北に、行きたいよねぇ」と、夫。バスク地方はスペイン北部にある。
スペイン北部へ行く日を夢見て、とりあえずは『スペインバルブック』とスペイン料理店の味を参考に、スペイン料理の腕を磨くことにしようか。
初めの一歩は『MAMAS&PAPAS』の海老のアヒージョだ。忘れないうちに再現してみなくてはと、冷凍の海老を生協で注文した。その後、2歩3歩と続くかどうかは、霧のなかだが。
そう言えば、と頭の中に引っ掛かったものを引っ張り出した。友人に教わったパエリヤを作ったのは11月のことだったっけ。美味しく出来たことに気をよくし、我が家の定番にしよう! とまで思ったのに、それきり作っていない。我が家の料理マンネリ化の原因は、この忘れっぽさにあったのか。しんとした心持ちで推測する。初めの2歩目、すでに深い霧のなかかも。
中身は、写真もお洒落なのにカタカナで『スペインバルブック』
そのアンバランスさが、ちょっと笑えます。
写真のページは、バスク地方のスタンダードなタパス『ピンチョス』

雰囲気のある、四谷のスペイン料理屋さん。
生ハムとチーズのコロッケが、驚くほど美味しかった!
ガンバス・アル・アヒージョは、外せません。ガンバスとは芝海老。
でも、此処では車海老を使った、贅沢なオリーブオイル煮でした。
ニンニクの効いたオイルに、パンをつけて食べるのが粋なんです。
鱈とアサリの煮込み。スパイシーだけど優しい味で温まりました。
でも、何のスパイスか、さっぱり判りませんでした(笑)

「正月に、パラパラ見るのに、丁度いいかと思って」と、夫。
スペイン料理の写真が数えきれないほど載ったその本は、確かに丁度よく、ふたりめくっては、昨夏旅したスペインの話をしたりした。
すると、当然のようにスペイン料理が食べたくなり、先週、四谷のスペイン料理店『MAMAS&PAPAS』に、ふたり出掛け、生ビールと赤ワインで乾杯し、「美味しいねぇ」と、舌鼓を打った。
スペインはバルセロナから入り、グラナダ、コルドバ、マドリッドをのんびりペースで回った。グラナダでは、ビールをオーダーする度に、タパスという酒の肴が無料で出て来るのが楽しく、バルを梯子し夕食にした日もあった。生ハムのハモン・セラーノが有名ではあるが、シーフードや野菜のメニューも多く、日本人の舌に合っていることを実感した。
だが、美食の都と呼ばれるバスク地方に、行っていない。
「また、行きたいねぇ。スペイン」と、わたし。
「北に、行きたいよねぇ」と、夫。バスク地方はスペイン北部にある。
スペイン北部へ行く日を夢見て、とりあえずは『スペインバルブック』とスペイン料理店の味を参考に、スペイン料理の腕を磨くことにしようか。
初めの一歩は『MAMAS&PAPAS』の海老のアヒージョだ。忘れないうちに再現してみなくてはと、冷凍の海老を生協で注文した。その後、2歩3歩と続くかどうかは、霧のなかだが。
そう言えば、と頭の中に引っ掛かったものを引っ張り出した。友人に教わったパエリヤを作ったのは11月のことだったっけ。美味しく出来たことに気をよくし、我が家の定番にしよう! とまで思ったのに、それきり作っていない。我が家の料理マンネリ化の原因は、この忘れっぽさにあったのか。しんとした心持ちで推測する。初めの2歩目、すでに深い霧のなかかも。
中身は、写真もお洒落なのにカタカナで『スペインバルブック』
そのアンバランスさが、ちょっと笑えます。
写真のページは、バスク地方のスタンダードなタパス『ピンチョス』
雰囲気のある、四谷のスペイン料理屋さん。
生ハムとチーズのコロッケが、驚くほど美味しかった!
ガンバス・アル・アヒージョは、外せません。ガンバスとは芝海老。
でも、此処では車海老を使った、贅沢なオリーブオイル煮でした。
ニンニクの効いたオイルに、パンをつけて食べるのが粋なんです。
鱈とアサリの煮込み。スパイシーだけど優しい味で温まりました。
でも、何のスパイスか、さっぱり判りませんでした(笑)


HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
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