はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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どっちでもいい母娘?

失敗続きである。
生協で届いた、初物のアスパラガスを、嬉しくいただいた。
「北海道の、よなろ産だって」と、わたし。
「よなろ? そんな地名聞いたことないけど」と、夫。
「あ、なよろ(名寄)だった」夫は、呆れ果て、苦笑するのみだ。
「漢字で、かいてよ、漢字でさぁ」と、八つ当たりするしかない、わたし。

また、中華料理を食べた時のこと。
「あ、美味しそうな、しんてん!」と、わたし。
「てんしん(点心)だろ!」今度ばかりは、笑いをこらえられずに夫。
ウエイターさんも、笑いをこらえている。
「ほらー、わたしのひと言で、場が和むじゃん」苦笑しつつ、わたし。
和ませる必要もない、夫とふたりの食事だったが。

空港と航空も、よく間違える。羽田こうくう、と言ったりする。
カルボナーラをカルボラーナと言ったりもする。今こうして、かいていても、どちらが正解なのか判らなかったりもする。
原因は、はっきりしている。
「判ればいいじゃん、どっちだって」という、性格から来ているのだ。

「全く、あいつの母親だよなぁ」と、夫が上の娘の名を口にする。
「一緒に、しないでよ」と言いつつ、
「全く最近、彼女に、似てきちゃったよなぁ」と、こっそり思う。
外科を「がいか」と読んでいたのも、破傷風を「はふうしょう」と読んでいたのも、上の娘24歳。昨年23歳の時である。
そして、考える。これって、わたしが娘に似ているんじゃなく、娘がわたしに似ているのか、と。まあ、それこそ、どっちでもいいことなんだけど、と。

硬めに茹でて、マヨネーズで食べました。日本酒にも合います。

いただき物の秋田の日本酒『福小町』だって、ひらがなでかいてあったら、
『ふくこまち』いや・・・読み違えようがないかも(笑)

点心って、なかの熱々スープが美味しいんですよねぇ ♪
下のオレンジ色、タレのように見えるでしょ?
これが、人参の薄切りを、柔らかく茹でたもの。
まず目で味わうために、手をかける大切さ、感じました。

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静けさに静けさを塗りたくったような夜

道路を挟んだ南側の別荘だった場所に、ソーラーパネルが設置されることになり、半月ほど前、突然工事が始まった。
我が家の土地ではないのだから、もちろん文句は言えない。別荘のおじいちゃんとは懇意にしていたが何年か前に亡くなってからは覚悟していたことでもある。マンションが建つよりマシだとも言える。(こんな田舎に建つ訳ないが)

おじいちゃんは、赤松林だった土地を『松原農園』と名づけ、ひとり黙々と植物園を作っていた。外見は全く違うのだが、わたしのなかでのイメージは『赤毛のアン』に登場する寡黙で働き者でアンを誰よりも愛したマシュウだった。

赤松も、もみじも、百日紅も、山桜も、椿も、花梨も、銀杏も、梅も、みんなみんな切り倒されていった。その騒音は、耳にうるさいだけではなく、胸に響く。外出する日が増えたのもそのせいで、旅した初島では眠ってばかりいた。

業者さんは、夕方5時きっかりに仕事を切り上げる。きちんと挨拶をしてくれる気持ちのいい人達だ。その後は、いつもの静けさが戻るのだが、それがいつもの、とは思えない。身体のなかに音と振動が残っている。いつもよりも、静かなのだ。静けさに静けさを塗りたくったような夜に、変な夢ばかり見るようになった。豆腐を大事に抱えて人ごみのなかエレベーターに乗ったり、終電もとっくに過ぎた真夜中の駅をひとり高架下から見上げていたり、たった今自分で焼いたばかりの出汁巻き卵に触れると氷のように冷たかったり。

此処、北杜市には、次々にソーラーパネルが設置されている。大抵は、林や農地だった場所だ。此処だけじゃない。たいしたことじゃない。と、思ってみる。おじいちゃんにいただいた、もみじも、雪柳も、南天も、庭で元気に育っている。原発再稼働には、絶対反対だ。太陽光発電が、必要だということも判る。それでも、思ってしまう。
「人間は、いったい何をやっているんだろう」と。

空が、やたらと広くなりました。秋の空のように見えるなぁ。

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28℃の視線

林を挟んだ向こう側、お隣にお住いのイラストレーター、小林さちこさんの個展を観に、小淵沢のギャラリーを訪ねた。
いただいた葉書きには『小林さちこ天使展 ―天使のメッセージ―』とある。天使が何か、白くふわふわしたものを大事そうに抱え、祈るように目を閉じている絵が、葉書きにはプリントしてあって『想いの力を信じて』というタイトルに目を魅かれた。

絵を観ていると、さちこさんが現れた。廃材や漆喰に出会い、表現方法が広がっていったことなどを興味深く聞いた。そして、
「最近、とても嬉しいことを知ったの」と聞かせてくれた。
「祈る視線って、伏し目がちで下を向いているでしょう?」
さちこさんが描いた天使達も、下を向いている。
「仏様の視線もそうなんだけど、それが28℃の角度なんですって」
「28℃?」数字が出て来たことに驚き、相槌を打つ。
「そう、28℃。それがね、地面にあたって跳ね返ってね、空に向かうと北極星に行きつくんですって。星空に広がると思うと、祈るってことが腑に落ちてね。それが、最近知った嬉しいこと」
さちこさんの笑顔は、少年のようだ。我が家の前をウォーキングしている姿を見ても、遠目では少年にしか見えない。ヨガの先生であり、空手の段を持ち、日々身体を鍛える姿勢からして真似できない先輩なのである。

観せてもらった天使達に、東日本大震災で被害にあった人々を思わずにはいられなかった。『想いの力を信じて』祈ることの方角を見た気がした。

いただいた葉書きを、アップにした写真です。
廃材の木を彫り、漆喰を塗ったり、紙を貼ったりしているそうです。
ペーパークラフトの作家さんですが、変化、進化を感じます。

小淵沢のギャルリーアビアント。1Fには、カフェもあります。

建物は、不思議な曲線。とても静かな場所にあります。

庭は手入れが行き届き、様々なハーブや花達が咲きほころんでいました。

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『あつあつを召し上がれ』

「誰にだって 忘れられない味がある。」
小川糸の短編集『あつあつを召し上がれ』(新潮文庫)の帯に掲げられたコピーだ。その下には「身も心も温まる、食卓をめぐる7つの物語」とある。
『食堂かたつむり』の作者による、食が主役の短編集となれば、手にとらない手はない。もともと、小説に登場する食卓でのシーンを、こよなく愛している。手にとった途端、ランランランとスキップしたくなるほどだ。

目次を開くと、それぞれのタイトルに、食べ物が入っていた。かき氷、ぶたばら飯、松茸、おみそ汁、ハートコロリット(?)ポルク(?)きりたんぽ。
1話から丁寧に読み進め、2話目の『親父のぶたばら飯』を読み、ごくりと、つばを飲み込んだ。食卓での描写の巧妙さは『食堂かたつむり』で判っていたにもかかわらず、驚かされる。例えば。

ふかひれのスープは、優しく優しく、まるで野原に降り積もる雪のように、私の胃袋を満たしていった。地面に舞い降りた瞬間すーっと姿を消してしまうかのように、胃から身体の隅々へ行き渡っていく。儚い夢を見ているようだった。美味しい物を食べている時が、一番幸せなのだ。嫌なこととか、苦しいこととか、その時だけは全部忘れることができる。

「中華街で一番汚い店なんだけど」と言う恋人に連れて行ってもらった主人公、珠美の感想だ。最初は焼売で、その描写も秀逸。その後もちろん、ぶたばら飯が待っている。そして、ふたりのドラマも展開していくのだ。

食に対するこだわりが人物を表している部分にも、とても魅かれた。
「熱い食べ物は、熱いうちに。私達が食事を共にする時の鉄則である」
「この人は、絶対にカラザを取り除く。少しでも白身と黄身が混ざっていないと、不機嫌になるのだ」
「お父さん、ほんとにうるさかったの。料理全般に口出ししたけど、こと、きりたんぽに関してはね。ご飯粒が残り過ぎていても文句を言うし、かと言ってつぶしすぎると餅じゃあるまいしって不機嫌になるし」などなど。

この短編の多くは、人生のターニングポイントでの食卓を描いていて「食を描くことって人を描くことなんだ」と、すとんと胸に落ちた。温かな涙がところどころプラスされ、塩味、ちょっと効いてるかも。

庭のラベンダーが、咲きそろいました。

少し切って一輪挿しに。その後キッチンで、長さを切りそろえ落とした茎に、
うっかりお湯を、かけてしまいました。
キッチンじゅうが、ラベンダーの強い香りに包まれ、びっくり ♪
キッチンでの小さなドラマは、日々繰り広げられているんだよなぁ。

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助手席の役割り

「助手席に座る人には、役割りと責任がある」
とは、夫の言葉である。ふたりのんびり初島の旅は、熱海まで車で行った。
土砂降りの雨のなか  ♪ 運転手は、夫  車掌は、僕だ ♪
「運転中、運転手が退屈して眠らないように、助手席に座る者は、常に気を配り、しゃべり続けなくてはならない」と言うのだ。「助手」なのであるから。

という訳で、がんばる。しゃべり続けることは難しい。しかし、それより何より、乗り物に乗り眠らないことは、わたしにとっては、ものすごく難しいことなのだ。何しろ、あずさで1時間半眠って乗り過ごし、松本まで行ったことはあるわ、イタリア行きの飛行機では、6時間眠ったといまだ語り草。座った途端に眠る。それは特技と言ってもいい。だが助手席では、その特技は決して使ってはならない。夫もそれを知っているから、わたしが眠らないようサポートしてくれる。話しかけては笑わせたり、外を見るように注意を引いたり。
これって、いつのまにか立場が逆転しているのでは? と、気づいた。
「運転手には、役割りと責任がある。助手席に座る人が眠らないよう、退屈させないようにしゃべり続けなくてはならない」に、なっちゃってるかも、と。

今回もふたりの努力空しく、箱根の山越え辺りで、わたしは眠ってしまった。
「全くきみが口空けて、眠ってる顔見てると、百年の恋も冷めるよ」
夫婦も30年近く一緒にいると、自然とたがいの役割りを判りあえるようになるのである。ほんと、いつも眠っちゃって、ごめん。でもまあ、百年の恋にはまだ時間は足りない。冷めた恋を、温めるチャンスもあるだろう。多分。

雨は横殴りで、霧も出ていました。バスが遅くて、前の車はイライラ。

途中でお昼ご飯を食べると、眠気も倍増してしまいます。

初島では、雨のなか、ツツジが満開でした。

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熊の胆を飲み、海老のように背中を丸めて

熱海から船に乗って、初島に来ている。
土砂降りであるが、それはいい。庭に残して来た植えたばかりのドクダミを思うと、雨を見つめる目も優しいものとなる。人の心理とは不思議なものだ。

だが、そんな心持ちと身体とは連携していない部分も多く、船酔いした。たった23分の船旅。何度か訪ねた初島行きの船で、これまで酔ったことはない。波は高く揺れも激しく外を見てもつまらないので夫のスマホをいじっていた。
「スマホなんか、いじってるから」と、夫。「スマホの、ばか」
返す言葉も、無意味で弱々しい。ホテルに着いた途端、ベッドに横になった。横を向き、海老のように背中を丸める。

「海老みたいに、背中を丸めて寝ていればだいじょうぶ」
とは、幼い頃、よく聞かされ元看護婦だった母の言葉だ。
小学生の頃、原因不明の胃痛によく悩まされた。お腹をこわしている訳ではなく、ただただ、胃が痛いのである。
そんなわたしに、母は、決まって漢方薬『熊の胆(くまのい)』を飲ませた。富山の薬屋が持ってくる胃薬で、黒く四角く匂いのきつい錠剤だ。
『熊の胆』を飲み、海老のように丸くなり、半日眠る。すると翌日にはもう、すっかり元気になっている。
中学に上がってからは、それもなくなった。いったい何だったのか今でも判らない。煎餅布団に横になり、胃は熊で、背中は海老になった自分を、静かに受け入れる時間。そういう時間が必要だったのかも知れない。ストレスだとか、学校で何かあったとか、今の時代なら原因究明をするだろう。そんな詮索もなく、ただ眠ることで回復した。いい時代だったとも言える。
価値観の違いに反発することが多く、影響を受けまいと思ってきた母。だが、大人になった今でも自分のなかに母の言葉が残っていることを感じる瞬間は少なくない。家族とは、否が応でもたがいに影響し合う存在なのだ。
25歳で母親になった時、子どもが自分などの影響を受けることに、突然恐怖を感じ、途方に暮れたことを思い出す。その途方に暮れた日々さえ、どうやって超えて来たのか思い出すこともできないほど、遠くなってしまった。

海老になり1時間眠ると、夫が風呂から上がってきた。
気分はすっかりよく、ゆったり風呂につかり、夕食には美味しくビールの飲んだのだった。めでたしめでたし。

前菜盛り合わせは、海の味、いっぱいでした ♪

刺し盛りいろいろに、生芝海老がのっていました。
「丸まってるなぁ」と思いつつ、いただきました。

あわびが効いた熱々海鮮グラタンと、さわらの西京焼き。
ちょっと日にちは過ぎたけど、夫の誕生日を祝って、乾杯!
夫は日本酒、わたしはビール。お酒も、ほろほろと進みました。

初島でもドクダミが、しっとり雨に濡れていました。

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『チョコレートドーナツ』

映画『チョコレートドーナツ』は、甘くなかった。
1970年代、ニューヨークで起こった実話を、映画化したものだ。

母親に育児放棄された、ダウン症の少年、マルコは、施設に馴染めず隣人でゲイのルディと暮らすようになる。ルディは出会ったばかりのポールと恋に落ち、3人は一緒に暮らし始めた。マルコは、学校に通い始め、よく笑うようになり、ルディは毎晩ベッドで、お話を聞かせ、ポールは勉強を教えた。マルコは、チョコレートドーナツが好きだった。3人は家族になっていった。だが、その頃のアメリカでは、ゲイに対する差別意識が強く、親として失格だと、ふたりはマルコと引き離されてしまう。

印象的だったのは、差別することが正しいと思い込み、疑う気持ちを持とうとしない検察官の姿と、ただ愛する者と一緒に居たいと願う3人の対比だった。

自分が正しいと思い込み過ぎないこと。いつも自分を疑ってみること。
それは、とても難しい。しかし、夢中で走り過ぎているときこそ立ち止まり、考えたいと思っている。自分の胸の奥に潜んでいるかもしれない差別や、人を見下す気持ちや、自分を棚に上げるずるさなどが、浮上して来ていないか。

「母親が薬物依存症なのも、ダウン症に生まれたことも、彼のせいじゃない」
そんなルディの言葉で始まった3人の暮らしは、理不尽極まりない理由で、壊されてしまった。3人の繋がりが、これ以上ないほどに温かく、それだけに、ひどく胸が痛む映画だった。
  
ひとり映画の後、余韻を味わいつつ、ひとりビールを飲む幸せ。
ひとりを楽しめるのも、家族がいるからこそ感じられる幸せですね。

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ドクダミには、毒はない

ドクダミには、毒があるものだとばかり思っていた。
名前に「ドク」と、あるからだ。表に出ているものに騙されやすい単細胞だということが、ことあるごとに証明される。
だいたい毒があるのなら、ドクダミ茶など、在る訳がない。ところが、思い込みというものはやっかいで、その種は、芽を出せば、すぐさま成長し、どこまででも伸びていく。渋柿を干すと甘くなるように、ドクダミも太陽にあてれば毒は消えるのかも知れないと、曖昧で自分勝手で適当な自己判断を経て、子どもの頃から今に至るまで、その蔓は太く空高く伸びていたのだ。

その思い込みを、一瞬にして消し去ったのは、友人の写真だった。
「ドクダミって、なんて綺麗なんだろう」
見とれること、しばし。呆然とし、頭からドクダミが離れず、近隣の林に咲いていないか、ふらふら歩きまわった。
それを友人に言うと、彼女はすぐに、庭のドクダミを送ってくれた。
ドクダミには、毒を抑えるという意味があるのだという。漢方では解毒剤に使われるそうだ。全く逆の意味だったのである。

今、いちばん好きな花は、迷うことなくドクダミだ。
日陰の湿った場所を好むドクダミのために、早く梅雨が来ればいいなと、空を見上げる日々である。

ポットの土は、たっぷり湿っていました。送り主の優しさ、感じます。

それでも土に植え、水をあげると、のびのび深呼吸していました。

木漏れ陽を反射して、まぶしそうにしています。元気に根づいてね!

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本との出会い

以前読んだ小説に、再び出会うことがある。
読み始めは気づかなくとも、何故かストーリーの流れやラストが、不意に思い浮かび、ああ、これ読んだことある、と気づく。

中田永一の短編集『百瀬、こっちを向いて。』(祥伝社文庫)に収められた『なみうちぎわ』が、そうだった。この短編の初出、おなじく祥伝社の男性作家6人による恋愛アンソロジー『LOVE or LIKE』は、読んだ記憶がある。だが、タイトルも作家名も覚えていなかったし、中田永一に注目したことは、これまでなかった。覆面作家だということも、今回初めて知った。

さて『なみうちぎわ』
海で溺れ、5年間、意識が戻らなかった姫子は、嵐の夜、目を覚ました。
一つ年上の姉は、赤ん坊を抱いていて、眠りにつく前、高校生だった姫子が、今は21歳であることを告げる。そして、見たことのない高校生男子が、すぐに駆けつけた。彼、小太郎は、姫子が家庭教師をしていた小学生だった。姫子は、彼を助けるために海に飛び込んだのだ。

印象的な設定では、ある。それだけに、逆にありがちなものに見えたのかも知れない。根っこのところで印象に残っていても、大きな興味は湧かなかったとも言える。そして、再びこうして出会った不思議にハッとさせられる。
「恋する胸の痛みを、ちょっとは思い出してみたら?」
とでも言っているような、淡く焦がれる恋心を、キュンキュン感じる短編ばかりが4編、揃っていた。

本との出会いは、人との出会いと似ている。
図書館や本屋で、いつも背表紙のみ見ていて、気になりつつ何年も手にしない本。それをふと手にとってみたら、思いもよらぬ大きな出会いに発展していった、という経験はないだろうか。
人との出会いも、また、巨大な迷路のなかで、何故か何度も出くわしてしまうような偶然と必然との繰り返しに思える。
手にとることのない多くの本。すれ違うだけのたくさんの人。考えると、出会ったものの大切さが、心に沁みてくる。

お気に入りの孔雀模様の帽子を、今年初めて使いました。
野外で読書にいい季節。のはずが、何故にこんなに暑いの?

田んぼに映った案山子は、涼しげに笑っているんだけどなぁ。

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みりんは、年齢確認が必要な商品か?

末娘は、かたくなに「みりんは、買えない」と言い張っている。
まだ19歳。未成年である自分は、アルコールが多く含まれるみりんを、買うことはできないのだと。
故に「みりん送ってー」とメールをよこすのだ。
19歳。大学2年。ひとり暮らしの女子が、肉じゃがやら鳥の照り焼きを作るのに、みりんを買って、咎められる訳がない。もちろん、レジに持ち込んだ途端、警官に取り囲まれ手錠をかけられるなんてことは、起こるはずもない。
「ためしに、買ってみればいいじゃない」
そう言って聞かせるのだが、彼女は、断固として「みりん購入は、できない」と言い張るのだ。

そして「スパゲッティとハヤシライスのルーもほしい」と、メールは続く。
みりんのみ送るのはばかばかしいので、リクエストの他にも、菓子やら紅茶やらドレッシングやら読み終えた本やら、箱いっぱいに詰めて送ることになる。
「さすが、さは! ほしいものばっかり! ありがとー」
久々に彼女が小学生の時につけたニックネームで呼ばれ、嬉しくなる。

しばらくすると、今度は「お米送ってー」と、メール。
米は家族の1年分、玄米で買ってあるので精米し、また送るのだが、ついつい他のものも入れてしまう。それを繰り返して、1年と少し経つ。10月には彼女も二十歳になり、晴れてみりん購入が可能になるのだ。感慨である。
「でもさ、どう考えても、みりん買えるでしょ」
そう思いつつ、甘え上手の末娘に、してやられている。うーむ。
  
みりんのアルコール分は、9.5% 赤ワイン、14.5%
まじまじ見て、笑っちゃいました。『こってりん』このネーミング!

夫が最近飲んでいる、スーパードライプレミアムは、6%
わたしの、のどごし生は、5% うーん。みりんより少ないぞ。
みりんは、そのまま飲まないけどね。

我が家の肉じゃが味つけ比率は、砂糖2みりん2薄口醬油4です。
末娘は、味つけ、どうしてるのかな?

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『本日は、お日柄もよく』

友人からすすめられたのは、無闇矢鱈と、ぼろぼろ泣ける小説だった。
原田マハ『本日は、お日柄もよく』(徳間文庫)装幀やタイトルから、結婚式モノ? と思いきや「スピーチライター」が主役のお仕事小説だ。

物語は、主人公のOL、こと葉が出席した幼馴染み、厚志の結婚式から始まる。仕事関係者の祝辞があまりに退屈で、こと葉は舟を漕ぎ、冷めたスープに頭をぶつけてしまう。そこで出会ったのが、伝説のスピーチライター、久遠久美だった。言葉が持つ魔力に呆然とし、そしてその魅力に目覚め、こと葉は、久美の事務所に修行に通うようになる。やがて、政治になど興味を持たぬ彼女は、新人議員候補、厚志のスピーチを担当することになった。

何故、これほどまでに泣けるのか?
それはやはり、言葉が持つ魔力、魅力を最大限に活かしてかかれた文章だからだと思う。よく知っている何でもない言葉が、使われるシーンにより、突然、特別なものとなって輝きを放つ。それが琴線に触れるのだろう。例えば。

厚志君はおかしくてたまらないようだった。くすくす笑いながら「でも何になろうと、おれら、友だちだから」と言った。そのひと言は、乾いた砂浜にすうっと寄せる波のようだった。
政権交代、国民目線の政治、マニフェスト、完全なる勝利―それらの言葉はとてつもなく強く、胸にも耳にもずっしりと響くものばかりだ。それらの文言は、繋がれ、語られ、受け入れなければならないものだった。私と厚志君は、重い使命を帯びた言葉達に向かい合い、それらを武器に今、闘っているのだ。
そんな中で、ぽつんと聞いた言葉。友だち。そんな単純なひと言に、なぜだか私の心は震えた。

久美が、ある人にもらったという、言葉もいい。
「困難に向かい合ったとき、もうだめだ、と思ったとき、想像してみるといい。三時間後の君、涙がとまっている。二十四時間後の君、涙は乾いている。二日後の君、顔を上げている。三日後の君、歩き出している」

人前でしゃべるのは苦手なわたしだが、スピーチ、こんな風にできたらかっこいいだろうなぁと思わずにはいられなかった。スピーチの極意、十箇条つき。
話すこと、そして聞くことの大切さをも、描いた小説だ。

自分では選びそうにない本を、教えてくれた友人に感謝です。
帯の「入学・就職・結婚のお祝いに!」を見て、完全にひいていました(笑)
言葉の選び方ひとつで、人を魅きつけ、また、離れさせてしまう、帯。
そのコピーを読むのも、本好きにはかかせない、本の魅力の一つです。

昨日、義母から、夫のバースディプレゼントが届きました。穴子です。
それをつまみつつ、夕方ウッドデッキで、近所のお二人と夫と4人、
ビールタイム。他愛ない話一つ一つに、聞くことの大切さを思いました。
これまで、しゃべることばかりに夢中になっていた自分を、恥じつつ。

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バジルを植えた庭

庭に、バジルを植えた。毎年、ハーブで買って来て植えるのはバジルだけだ。
イタリアンパセリは、種が強く必ず芽を出すし、アップルミントは、強すぎて雑草扱い。ワイルドマジョラムや、ローズマリーなども、放りっぱなしで、すくすく育っていく。

1ポット百円のバジルを2つ、購入。スーパーの食品売り場、ハーブコーナーで買えば、一袋200円以上する。庭に植えれば秋まで食べられるのだから、かなりお得である。トマトとモツァレラチーズのサラダなど、アクセントにバジルがあるのとないのとでは雲泥の差。今年も、料理にバジルを楽しめると思うと、浮き浮きする。

夫が、ウッドデッキの下に溜まった落ち葉を掃出し、わたしは、スズランに侵略された茗荷のスペースを広げた。小さな虫達を見て、微笑む。抜いた雑草の根の長さに、また微笑む。去年広がり過ぎたマーガレットを、雑草と一緒に捨てた場所で咲いているのを見て、また微笑む。

日に焼け、汗をかき、虫に刺され、それでも庭仕事をすることですっきりしている自分を見つける。インドア派のわたしなのに。不思議だ。

もうちょっと伸びたら、少しずつ食べさせてね。

双葉の間に出てくる小さな葉が、可愛い ♪

マーガレットって、清楚な雰囲気だけど、ものすごく繁殖力強いんです。

茗荷は、対立していたスズランを抜いてあげると、のびのび深呼吸。

イタリアンパセリには、あおむしくんが、忙しく歩いていました。

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ドラマのなかの料理

池井戸潤原作ドラマ『花咲舞が黙ってない』を、毎週見ている。
『半沢直樹』の女性版ともうたわれた、銀行モノだ。ドラマは1回ずつ完結の水戸黄門的、正義はスカッと勝つしかないぞストーリーで『半沢』よりも軽く、コメディタッチで描かれている。
臨店勤務となった主人公、花咲舞(杏)と、出世コースを外れたベテラン行員相馬(上川達也)は、問題の起こった支店に足を運び、指導するのが仕事だが、行く先々で問題の根源となる隠された事件を解決していく。出世や金にしか頭にない支店のトップ達を斬っていく訳だから、爽快だ。

「でも、ちょっと飽きたかな」と言ったのは、夫だった。
まあ毎回、同じようなストーリーだとも言えるわけだから、彼がそういうのも判らないでもない。だがわたしが、このドラマで一番好きなシーンは、ストーリーとはまるで別のところにある。

舞の父親(大杉漣)は、男手ひとつで舞を育て上げ、脱サラ後、小料理屋を営んでいる。大杉漣の優しい笑顔もいいが、料理がいい。高級なものではなく、カブの煮物や、海老しんじょなど、手をかけ、食材を厳選したという感じの日本の家庭料理だ。上司の相馬はバツイチの独り者。支店へ向かう際にも、昼食の店を調べて出かけるほどの食通だ。彼は、舞の父親の店の常連客でもあり、料理をつまみながら、3人で会話するシーンが当然多くなる。そのシーンが大好きなのだ。

「豚肉の塩麹漬け、山椒風味だよ。花咲舞の料理見てアレンジしてみた」
「そんなん、ドラマに出て来たっけ?」夫とは、やはり目線が違うようだ。
『ごちそうさん』は終わったが、杏と料理はドラマのなかで、いまだ共演している。ただし舞は、料理は、からっきしダメという設定だが。

しっかり塩麹に漬かった肉に、山椒のぴりり。
肉の塩味だけで、オニオンスライスもたくさん食べられました。

もう茎はかたくなって口に残るので、葉を千切ってパラパラとのせて。
千切る時に、食卓じゅうに、香りが広がります。

庭の山椒の葉はのびのびと大きくなり、たくさん実をつけています。

今年は、嬉しいことに、新しい芽を2つ発見しました ♪

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音を立てて弾けるほどの強い思い

昨日、キアゲハが飛んでいるのを見かけ、イタリアンパセリに卵を産みに来たのかなと、去年幼虫を見つけたことを思い出した。
庭のイタリアンパセリが、花を咲かせ始めている。緑そのままの色で、蕾か花か判別が難しいほどジミーな花だが、花火のように丸く散らばって小さな花をたくさんつけるのが可愛く、わたしは大好きだ。多くの種を落とすためにたくさんの花を咲かせる強さにまた、けなげさを感じる。

春の花が、咲き乱れる季節。だが今、蕾を膨らませている花も多い。
イタリアンパセリに花火を連想し、パンッ、と音を立てて咲いていくところを思い浮かべた。蓮の花は早朝、本当に、パンッに近い音を立てて咲くという。
他の花達も、音を立てて咲いているのかも知れない。と、考えてみる。人には、聞こえない音。仲間にしか聞こえない音かも知れないし、動物達、虫達には聞こえる音かも知れない。
花を咲かせるパワーみたいなものって、そんな、音を立てて弾けるほどのものがないと、生み出すことができないんじゃないかと、思うのだ。パンッと弾けるほどの強い思いを、花達は、胸に抱えて咲いていくんじゃないのかな、と。

花が咲いて、種を落として、芽を出して、を繰り返して、
春夏秋冬、食卓に上る、イタリアンパセリです。
気がついた。花火って、花のように夜空に咲くから花火なんですよね。
花をみて、花火みたいっていうのは、さかさまかな(笑)

ナデシコも、咲き始めました。蕾がいっぱいで、楽しみ♪

姫シャラは、木の立ち姿も、葉の艶も、丸い蕾も、大好き。

ラベンダーも、すこーしだけ、色づいてきました。

今年は大雪の被害か、紫陽花は、ほとんど蕾をつけていません。
悲しいけど、少しだけでも咲いてくれそうで、よかった。

紫陽花といえば、蛙くん。もうすぐ、きみ達にはいい季節が来るよねぇ。

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『百瀬、こっちを向いて。』

「かるく死にたくなったよ」
中田永一『百瀬、こっちを向いて。』(祥伝社文庫)に出て来た、主人公、相原(高校一年、男子)のセリフだ。相原の何処がよくてつきあってるのかと、百瀬(同級生、女子)は女子達に聞かれ、返答に困りこう答えたという。
「しょうがないから、ナメクジみたいなところがいいってこたえておいたよ」
そりゃあ、かるく死にたくもなるよなぁと、読んでいて笑った。
それも、彼らは本当につきあっている訳じゃないのだ。相原は、尊敬する先輩に頼まれ、やむなく、百瀬が彼女だという芝居をしている。誰が見ても、不釣り合いな、ふたりなのに。

野生動物のようなシンプルな格好よさを持ち、躍動するように歩く、野良猫のように挑戦的な目つきの少女、百瀬。
一方、相原は、自分自身を「人間レベル2」と客観視する。10のうちの2ではなく、100のうちの2だ。一生女の子と縁がなく、手を握ることさえできない人々の一員だと、自覚する。
自覚していたのに、好きになってしまった。百瀬に恋をした。相原は、その抱えたことのない心にともった温かな灯りを持て余し、苦しむ。そんな恋する切なさが、あわあわと描かれた短編小説だ。

ところで、最近、気づいたのだが「かるく死にたくなった」は「死にたくなった」とは、全く違う言葉だ。「ちょっと変」と「変」が違うように。だから「ちょっと変。かなり」なんて日本語として「かなり変」なようにも思うが「ちょっと変」をひとつの単語として考えると、ありかな、とも思う。「変」より「ちょっと変。かなり」の方が、言葉として軽い感じもする。柔らかく伝えること、つまりは誤魔化すことに慣れ言葉が一体化してしまったのだろう。

などと関係ないことを考えつつ、今公開中の映画『百瀬、こっちを向いて。』を観に行こうかと、検索した。
「うそ! 山梨でやってないの? なんで? 向井理が出てるのに?」
全くもう。しょうがないから『オー!ファーザー』を観に行くかと再び検索。
「うそでしょ! これもやってないの? 岡田将生、主演のエンタメだよ。なんで! ひどい! 武田信玄にいまだ恨みを持つ、東京もんの仕業か?」
独り言では、八つ当たりも空しく、空を仰ぐ。もう、かるく、そう。もう、かるく絶望するしかなかった。

アイビーの上で撮影。最初に『百瀬』を知ったのは『I LOVE YOU』でした。
伊坂幸太郎目当てで読んだ、男性作家6人による恋愛小説アンソロジーです。

庭のアイビーは、山になっています。何故か? 意味もなく置いておいた、
丸太に根付いてしまいました。いい加減な庭造りが顕著に表れています(笑)
若葉の季節の木洩れ陽は、15歳の恋を思わせますね。

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季節外れの蓮池

季節外れの蓮池を訪れたのは、夢を見たせいだ。

夢のなかで、わたしは無口な女子高生だった。友達もなく、窓際で校庭を眺めながら本を読むのが好きだった。教室は、さして居心地は悪くなく、みなが適当に距離を置き、マイペースに過ごしているようだった。
突然話しかけてきたのは、クラスメイトの妹で、あどけなさ残る小学生だった。彼女は、わたしが制服のポケットで飼っていた蛙と、友達になりたいと言う。彼女の姉であるクラスメイトは、毎日学校に妹を連れて来ていた。
何故、わたしの蛙のことを知っているのだろう。誰にも話していないのに。不思議に思いつつ、わたしはポケットから蛙を出し、彼女の手のひらに乗せた。
(どうして、学校に妹を連れて来てるの?)
クラスメイトに聞きたかったが、聞いてはいけないような気がしてやめた。

次の瞬間、わたしは蛙を彼女の手のひらからポケットに戻すと、逃げた。追手が来たのだ。生活指導の目つきが鋭い男性体育教師だ。
蛙を池に、放さなくては。走って階段を下り、校庭を突っ切る。蛙はその池が好きで、放課後、そこで餌を捕らせるのが習慣になっていた。
走って、走って、走って。ようやく池にたどり着いた。なのに、そこに池はなかった。ポケットを探ると、蛙もいない。追手の教師も、消えた。クラスメイトも、その妹も、消えたのだと判る。呆然と立ち尽くし、後悔した。
(どうして、学校に妹を連れて来てるの?)
あの時、彼女に聞かなくては、いけなかったのだと。一歩近づいて、距離を縮めていれば、こんなことにはならなかったのにと。
渇いた校庭の砂を見つめたまま、目が覚めた。

久しぶりに行った蓮池に、蛙はいなかったが、池はそこにあった。
今度同じことが起こったら、彼女達に、一歩近づくことができるだろうか。

前夜の雨が、蓮の葉の上で、宝石のように光っていました。

紫陽花も、たくさん植えられていて、梅雨の季節が楽しみです。

桜の木の下で、1時間ほど読書しました。誰も現れませんでした。

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マイブームは、お茶漬け

「びっくりした?」とは、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』に登場する殺し屋キルオの決めゼリフだが、それとは全く関係なく、びっくりした。

「こ、これは!」お茶漬けを、久しぶりに食べ、頭の上に、びっくりマークがポンッと3つほど、浮かんだのである。
感動すらしていたのだが、新宿でのランチ。声には出せない。
「確かに『さらさら』この擬音を表現するには『さらさら』しかない!」
『お茶漬けを、さらさら食べる』
この言い回しを、最初に思いついた人は、うーん、偉大だ。

ランチはお茶漬け膳で、しっかりおかずがついていて、まず、ご飯を普通に食べ、2杯目はお茶漬けでどうぞ、との説明を受けた。茶漬けにする際のトッピングも、6種類から2種類選べ、鰹節、焼き海苔、あられ、わさびはテーブルにあって、使い放題というお茶漬け中心の店。
そこで、蛸わさびと高菜漬けをのせ、お茶ではなくポットの熱い鰹だし汁を注ぎ、食べた茶漬けが、まさに『さらさら』だったのだ。

それから、おうちランチは、お茶漬けがマイブーム。インスタントだが鰹だしをかけ、最初はあるもので適当に作っていたが、だんだん凝って来て、買い物中も頭の片隅にはいつもお茶漬けが、でんと居座っている状態だ。
「オクラ入れたら、美味しそう。昆布とシジミの佃煮もいいな」
浮かれて、夕食のカレーの肉を買い忘れるほどの、力の入れようである。
♪ さーさのーは さーらさら ♪
季節を先取りして歌いつつ、ひとり茶漬けの準備をする幸せ。
春の小川の季節は、さらさらと駆け足で、いつのまにか過ぎて行った。

新宿ルミネエスト『こめらく 贅沢なお茶漬け日和。』にて。
メニューは、種類も豊富でしたが、茄子好きのわたしは、当然、茄子。

使い放題と言われると、たくさんのせたくなります。貧乏性?

あるもので、簡単茶漬け。梅干し、紫蘇、茗荷、鰹節、焼き海苔、木の芽。
庭の木の芽は、一番美味しい季節は過ぎたけど、まだまだ毎日食べています。

お茶漬け用に買った、しらす干しと桜海老を入れた、豪華バージョン。
オクラを入れると、粘り気が出て、それはそれで美味しいんだけど、
さらさら、という擬音とは違った感じになりますね。
わさびは、お刺身についているものを、いつも保存してあって、
思い切って一袋入れちゃいます。辛さも風味もほどよく魚類と相性ぴったり。

お昼、お茶漬け一杯で済ませると、4時頃もうお腹減っちゃって、
じゃあ、おやつにお茶漬けを、ってこれ、太りそう(笑)
超簡単バージョン。昆布とシジミの佃煮に、三つ葉と煎り胡麻のみで。

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窓にぶつかったメジロ

ごつん、という嫌な音がした。
ウッドデッキに出ると、メジロが脳震盪を起こしていた。微かだが動いているし、目も開けている。首も折れていないようだ。様子を見て、ウッドデッキの隙間から落ちないよう、少しずらしてしっかり木の上に乗せた。
触られても、何が起こっているのか判らないのか、ぼんやりしたままだ。あまり動かないので心配になったが、ちょうど帰ってきた夫に見せると、心配ないだろうと言う。窓に鳥がぶつかることにも、14年間で、少しは慣れてきたが、そのまま死なれると、やはり切ない。
バードセイバーを北側と西側に貼り、予防することでかなり減ってはいるが、なかにはぶつかる鳥もいる。天気のいい日は特に、窓に空が映るのだろう。気持ちよく飛んでいて、ごつん、とぶつかるのだから、鳥の方も可哀想だ。
「メジロォ。しっかりしろ! だいじょうぶかぁ。飛べるかぁ」
聞いているのか判らないが、正気に戻るように話しかけてみる。夫は、興味もないようで、庭のウドを掘っている。

メジロは、10分ほど休み、飛んだ。だが、庭のヤマボウシの枝まで飛び、また5分ほど休んでいた。そしてようやく頭のくらくらも治ったのか、何処かへ飛んで行った。やれやれ、である。

ほんのひと時、一緒にいただけだったが、急にメジロが可愛くなった。
野鳥図鑑で鳴き方を調べ「ちーちー」と鳴いていると、さっきのメジロかなと思ったり、好物だというオレンジを切って枝に刺したりした。当のメジロの方は、わたしのことなど、すっかり忘れているのだろうが。
「まあとにかく何処かで、とりあえず元気に、飛んでくれていたらいいか」
そう思って、気がついた。大人になって家を出た子ども達に対する感情と、何処か似ている。「ただ、元気でいてくれたら、それでいい」と。
何故『巣立つ』という、鳥になぞった言葉を使うのか、判った気がした。

じっとしたまま、ぼんやりしています。くらくらしてる感じ。
メジロって、クチバシ、細くて尖ってるんですね。

メジロがとまった、ヤマボウシは、今年たくさんの花を咲かせました。

ハナミズキよりも、花びらがスマートで、すましているかのよう。

モミジは、花を終わらせ、プロペラ型の種をつけています。
風に乗って、遠くへ遠くへ種を飛ばすためだそうです。

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ラオス、モン族の刺繍に思う

代々木公園に、ひとりふらりと出かけた。
『ラオスフェスティバル』が、昨日今日と開催中なのだ。
ラオスに、特別興味があった訳ではない。
「せっかく東京に一泊するんだから、ゆっくりしてきたら?」
という夫の言葉に甘え、何処に行こうかなぁと、ホテルでパソコンを開き、目に入った。Facebookで友人が紹介していたのだ。天気もいいし、露店を見て回るのは大好きだ。紹介されていた刺繍も見てみたい。

週末の代々木公園は、すごい人だった。
会場を一回りして、刺繍の店を見つけた。大きなタペストリーに、目を魅かれた。小さなポーチなどの細かい刺繍は、ひとつひとつ色や模様が違っている。
ラオスのなかでも山岳地帯に住む山の民、モン族の刺繍だそうだ。ポスターには十歳に満たないような女の子が、無心に布に向かっている姿が映っている。購入したポーチと文庫カバーのなかに、モン族のことがかかれた紙が入っていた。「畑仕事の合間に、小さな女の子からおばあさんまで、女たちが一針一針一生懸命作った刺繍です。刺繍がノートになり薬代の助けになっています」

わたしが昨日、代々木公園に行ったのは、偶然度が高いような気がするが、果たして本当に偶然だったのだろうかと、考えてみる。
今、手元にある、たくさんのなかから気に入って買ったポーチと文庫カバー。この刺繍をしたのは、少女だろうか。あるいは、お婆さんだろうか。もしかすると、お腹に赤ちゃんがいるお母さんかも知れない。
そう思うと、昨日まで全く知らなかった『ラオス』が、急に近しく思えてくる。そしてまた、考える。これらが、わたしの手元にやって来たのは、偶然だろうか。必然なのだろうかと。

帰り際、水を買った店で、ラオス語を教えてもらった。「thank you」と言ったわたしに、彼は笑顔とジェスチャーで教えてくれた。
「ありがとう、thank you = コーブチャイ」
「コーブチャイ」わたしも、笑顔で返した。
その国の人と、その国の言葉を交わし合うのは、とても素敵だ。

ポーチのように全体を埋め尽くされた刺繍柄が多いなか、
文庫カバーの鳥の刺繍が、新鮮に映りました。

これは、別のお店ですが、日本人がデザインして、ラオスの布で、
ラオスの人が作ったバッグ(右上)が、とてもお洒落でした。
  
アジアのもの全般を扱ったお店や、フルーツや缶詰などのお店も。

夏日の代々木公園で、ラオスビール。飲みたかったぁ。
残念ながら、運転があるので、がまん!

スパイシーなフランク『サイ・ウア』と、水でランチ(笑)
麺類や、もち米とチキンのセットランチなど、いろいろありました。

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ミッション『秘密』

この1週間、くよくよしていた。
庭で草取りをしていて虫に刺されたのである。痒みが十日以上続く、刺されたくないタイプの虫だ。刺されたのは、主に首周辺で、このあいだまでタートルネックを着て保護されていただけに、皮膚の抵抗力がなくなっていたのだろう。そこを、狙われたのかも知れない。痒い上に、湿疹のように赤いボツボツが20ほどもでき、けっこう目立つ。首を出すのがためらわれ、スカーフなどで隠して出かける有様である。悲しい。

普段なら、このくらいのことは、まあ気にしない訳だが、昨日は「おお! 久しぶり」と懐かしく会う人が多い集まりに出かけた。普段着ではあるが、お洒落もしたい。黒のチュニックに赤を効かせたビーズのペンダントと、赤い腕時計をつけよう、などと計画していたのだ。それなのに、全く、こういう時に限っての出来事。ペンダントは隠れるが、スカーフを巻くしかないと、やむなく予定変更した。予定変更を決めつつ、くよくよしていたのだ。

くだらないと思いながらも、日々、小さなことにくよくよしているわたし。
「人間、小さいなぁ」でもまあ、それが器だと、すっかりあきらめているわたし。どちらもわたしだが、開き直って、どうせなら楽しんじゃおうというのも、またわたしだ。決心した。わたしは「秘密」を持っている。その「秘密」は誰にも知られてはならない。だから「秘密」を隠すために、スカーフを巻いている。これは、大切なミッションだ。何も考えずに遂行せよ。

ミッション・イン・ポッシブルのメロディを頭のなかで流しつつ、会場に向かう。ところが。友人達に会った途端、全部忘れた。もうすっかり忘れて、ただ、楽しんだ。「そのスカーフ、素敵」と褒められ、嬉しくなって、バカみたいにくすくす笑った。
そして、薦めていただいた九州から持参したと言う焼酎『千鶴』をお湯割りで美味しく呑み、酒が進むうちに暑くなって、スカーフを外した。
「草取りしてて、虫に刺されちゃってさぁ」
ミッション「秘密」は、いともあっけなく失敗に終わったのだった。
     
before すっきりした感じでしょう? → after もったりした感じ・・・。
他に合いそうなのも持ってないし、このチュニックには、やっぱ無地だよね。

たまに気に入ったアクセサリーを、つけるのって楽しいですよね。
何歳になったって、お洒落を楽しむ気持ち、持ち続けたいなぁ。

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『WOOD JOB!~神去なあなあ日常~』

本を読んでから映画を観るか、映画を観てから本を読むか。
意見が分かれるところだと思うが、わたしは「まず本、そして映画」派だ。
映画を観てしまうと原作本を読まずに終わることも多く、もったいない、という気持ちもあり、映画化に合わせ、本を読むこともある。まあ、読まなくってもいいかと思い、映画を観る場合もある。

三浦しをん『神去(かむさり)なあなあ日常』(徳間文庫)は、夫が読んだ文庫が本棚にある。だが、手に取る気になれず、スルーしていた。なので、読まなくってもいいか → 映画観ちゃおう、となり、ふらりと出かけた。
『WOOD JOB!~神去なあなあ日常~』

笑って泣いて、楽しんだ。だが、何だろう。この不完全燃焼な感覚。
主人公、勇気は、大学受験に失敗。浪人するのも面倒だし「なんとなく」手に取ったチラシを頼りに、三重県の山奥、神去村に林業修行に行く。その1年間を描いた映画だ。
不完全燃焼感は、この「なんとなく」が、最初から最後まで、勇気から離れなかったせいかも知れない。
「なんとなく」高校卒業したけどやりたいこともなく「なんとなく」林業修行を始め「なんとなく」仕事を覚え「なんとなく」1年が過ぎた。そんな感じ。

映画館を出て、歩きながら考えた。
この「なんとなく」と「なあなあ」は繋がってるのかな、と。タイトルにもなっている「なあなあ」は、神去村の方言で「ゆっくり行こう」「まあ、落ち着いて」などの様々な意味を持つ。スローライフにも通じる鍵になる言葉だ。映画では、そこを前面に出し過ぎて、林業の過酷さも、必死さも、コメディのなかに閉じ込めて、きっちり蓋をしてしまった感が、あった。多分そこが意識下で気になって、不完全燃焼を起こしてしまったのだろう。

でもさ。現実って、実は不完全燃焼なものなのかも、と疑問を持つ。
「なんとなく」働き「なんとなく」恋をし「なんとなく」歳をとるような生き方だって、そう悪くはないんじゃないか。
「わたしだって、なんとなく、生きてるよなぁ」自分をも、振り返る。
「うーむ。やっぱ、読むか」本は、2年後を描いた続編も、発売中だそうだ。

続編は『神去なあなあ夜話』です。

ちょうど、我が家の隣の林で、伐採をしていました。

映画に出てきたように、倒す方にまず、くさび形に切り口を入れ、
反対側から切っていき、少し切り残してそこを蝶つがいにし、
くさびを入れて叩き、切り口を広げ、倒してあります。
ギザギザになっているところが、切り残した蝶つがい部分です。

新しく植えた苗には、ピンクのリボンが結んでありました。
きちんと根付くまで、大切に育てるためです。

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『この道はいつか来た道』

町内に信号は4つしかないが、ニセアカシアの木は、いったい何本あるのだろうか。お田植えのこの季節、満開になる花である。百本は下らないだろう。千本? もっと? うーん。数の概念についていけず、推測するのをあきらめる。
いつも通る道にも、これでもかというほど咲いている。美味しい蜂蜜のもととなる花だそうだから、放っておかれているようで大切にされているのかも知れない。食べたことはないが、房ごと天麩羅にすれば、ほのかな蜜の甘みが効いた季節の味を楽しめるそうだ。

もとは『アカシア』と呼ばれていた『ニセアカシア』だが、海外から来た『アカシア』と種類が違っていたため、区別する意味で『ニセアカシア』と呼ばれることになったとか。『アカシア』の方が黄色っぽいらしい。それなら『ホワイトアカシア』とか『アカシア・ブラン』とか、いくらでも呼び方はありそうなものだけど、『偽(ニセ)』をつけられちゃった訳だ。だが日本でスタンダードなのは『ニセアカシア』の方。名前に負けず、堂々と咲いている。

北原白秋の『この道』で歌われたアカシアも『ニセアカシア』だそうだ。

♪ この道はいつか来た道 ああ そうだよ アカシアの花が咲いてる ♪

アカシアとは関係なく『この道はいつか来た道』というフレーズに、参ってしまう。ふと何かを、そして誰かを思い出す瞬間を感じ、泣きたくなる歌だ。
夕暮れ時、山々がかすんでシルエットになった散歩道。「ああ、東山魁夷の絵みたいだぁ」と思った瞬間、今はもういない魁夷が好きだった友人を思い出す。道を、歩く。単純にも思えるその行為に隠されたいくつものトラップに、人は、つまずきつつ歩いていくものなのかも知れない。
晴れた日には、家のなかに居てさえ、ニセアカシアの匂いがふわりと舞いこんでくる。『この道』のメロディと共に。

数えきれないほど咲いています。香りも強く、むせるよう。

アップで見ることはあまりありませんが、清楚な花。
『アカシア』とは『房』の意味だそうです。

背の高い木が、ほとんどですが、手が届く所まで花が咲いています。

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『星間商事株式会社 社史編纂室』

三浦しをん『星間商事株式会社 社史編纂室』(ちくま文庫)を読んだ。
本屋のPOPに、ついつい買ってしまったのだ。その内容は。
「恋愛あり、友情あり、一風変わった趣味もあり。おまけにミステリー要素ありのてんこ盛りお仕事小説。三浦しをんワールド全開!」
早い話が、エンターテイメント・コメディだ。
くつくつ笑いながら読みつつ、時に切なく胸を痛めた。登場人物達のキャラがまた、やたら可笑しく、なのに、みな何処か真面目で、共感さえでき、雲の上を歩いているようなふわふわ感のなかに、血の通った現実が見え隠れする。
不思議な小説だった。以下、本文から、社史編纂室、4人の様子。

「きみは腐女子なんだな、川田くん」
幸代に背広の襟を摑まれつつ、本間課長はなおも念押しした。幸代はもうヤケになって、わたしは腐女子と自称したことは一度もないんですけどねと思いながら「ええ、ええ、そうですよ」と怒鳴った。
「エロい同人誌作ってますよ。ここ十年、抽選落ちしないかぎり夏冬のコミケに参加し続けてますよ、いけないですか?」
「ふじょしって?」みっこちゃんが目をぱちくりさせ、
「朝からなんの騒ぎなんすか、課長」と矢田がソファから身を起こした。

主人公、幸代は29歳。いつふらりと旅に出てしまうか判らない彼と同棲中。高校時代からの女友達3人で同人誌(サラリーマン男同士の恋愛がテーマ)を作ってコミケに出すのが趣味。上手くいってるのか判らない恋に、夢中になって来た趣味に、微かな波紋が広がり始め、会社では、社史を調査中に秘められた過去に気づいてしまう。迷いながらもたどり着いた先に、見えたものは。

強く魅かれた、一文があった。

そうだ。紙に記されたひとの思いは、時間を越えていつか誰かに届く。燃やしつくすことも、粉砕しつくすこともできない、輝く記憶の結晶となって。

「紡がれる言葉」は「誰かの思い」なのだと、再確認した。

「えっ、先輩の彼氏さん、いまおうちにいるんですか?」
と、みっこが話に割りこんだ。幸代は優しく教え諭す。
「彼氏にさんづけするの、やめようね」「なんでですかー」
尻の座りが悪いからだよ、と内心では考えていた。
「氏」ってのがすでに敬称なのに、さらに「さん」をつけたらおかしいだろ。「川田氏さん」って言わないだろ。(社史編纂室での会話より)

月と星の国旗が、物語の鍵になります。小説では架空の国が登場しますが、
実際、月、星、太陽をモチーフにした国旗、けっこう多いんですね。

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めんどうくさきが、人生かな

♪ かえるが なくから かーえろ ♪
わらべ歌にも歌われているが、蛙は夕方から鳴き始める。
田んぼに水が入ると共に、毎晩の大合唱が始まるのだ。それは、歌というよりも、地響きに近い。だが、低音だからだろうか。心地よく響く。
キジが発する高音に起こされる朝が続いていたせいもあり、ホッとする。水がなみなみと田んぼを満たしている風景にもまた、心静かになる。いい季節だ。

山梨も明野、標高600メートルの我が家では、朝夕、まだ「寒い」と表現するにふさわしい日が続いている。日中は、庭に出れば汗ばむほどで、初夏を思わせる。緑濃くなり、陽射しは強く、春と夏の境目に立っていることを、日々いく度も感じいる頃だ。
『蛙』は、俳句の季語で、春。だが『雨蛙』は、夏の季語である。その雨蛙で、好きな句がある。

『雨蛙 めんどうくさき 余生かな』 永田耕衣(ながたこうい)

場所に合わせて色を変える蛙達に、相手に合わせて自分を変えていく人の世のわずらわしさを詠んだと言われている。
生きていれば、確かに面倒なことも多い。だが思う。面倒で、いいじゃないか。面倒なのが、いいんじゃないか、と。そんな心持ちで詠まれた句だろうと勝手に解釈し、蛙の合唱に合わせて、歌う様につぶやいてみる。
「めんどうくさきが、人生かな」と。

竹ぼうきの柄を歩いていた、アマガエルくん。

雪もほとんど解けた、八ヶ岳。田んぼが青々としてくるのも、すぐです。

南アルプスは、鳳凰三山。お田植えが終わった田んぼも、ちらほら。

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タラの芽のクリームパスタ

タラの芽を、大皿に一杯いただいた。家庭菜園を趣味とする近所の方からだ。
タラの芽に種類があることすら知らなかったが、我が家の棘があるものと違い、棘なしのタラの芽だ。だが、灰汁(あく)も苦みも濃く、天麩羅にするとこの上なく美味い。味が濃いのだ。

しかし、天麩羅では、こんなにたくさん食べられない。試しに味噌汁に入れてみたが、夫には不評だった。
「苦いね。好んで食べたいと思う味じゃないな」
そこで、今度は湯がいて水にさらし灰汁を抜き、マヨネーズと胡麻しゃぶのタレで食べてみた。
「うーん。やっぱり苦みが強すぎる」好評、とまではいかなかった。

すると、夫が思い出したという。
「前にイタリアンの店で食べた、タラの芽のパスタ、美味かったんだよね」
クリームソースだそうだ。こういう時こそ、頼みはネット。だが検索するも、タラの芽のパスタでヒットするのは、ペペロンチーノ味ばかり。
どうしたものかと迷ったが、こういう時こそ、いつもの口癖が出る。
「まぁ、いっか。タラの芽のクリームパスタ。作ってみようじゃないの」
鶏肉も食べたいという夫の提案も取り入れ、鶏肉とシメジとタラの芽で、クリームパスタを作った。だが、仕上げに灰汁抜きしたタラの芽を入れようとした、その時。夫が「あっ!」と声を上げた。
「ごめん。あれ、ふきのとうのクリームパスタだった」
「えーっ、どうするよ」ふたり、顔を見合わせるが、お腹も減っていた。
「えーい、ままよ」(これは、死語でしょうか)
刻んだタラの芽を入れ、ひと煮立ち。かくして、タラの芽のクリームパスタは完成した。そしてワインを開け、恐る恐る食べてみると。
「美味い! イメージ通りだ」と、夫。
クリームソースに苦みは緩和され、主張のやわらかい旨味となっていた。
「きみって、すごいね! リクエスト通りに、何でも作れちゃうなんて!」
パスタを頬張りつつ、夫。大げさだなと思いつつも、嬉しくなる。
彼は、こと料理に関しては、褒め上手上級者だ。嘘はつかず、本当に美味しいと思った時にだけ、必ず「美味しい」と言う。それもオーバーアクションで何度も言う。実は、わたしの料理の腕は、彼のこの姿勢と言葉に育てられているのではないかと思うほどに。
たかが『タラの芽パスタ』されど『タラの芽パスタ』
美味しいものは、食卓に平和と笑顔をもたらすのだ。

味噌汁などに使っても、まだこんなにありました。
「いただいたタラの芽、すごーく美味しかったです」と、
わたしも夫を真似て、ご近所さんに言った結果が、これ(笑)

マヨネーズも胡麻しゃぶのタレも、合いますが、苦味は強いです。
日本酒の肴としては、いい感じかも。

クリームソースは、レンジでチンの栗原はるみレシピです。
手軽に作れて、シンプルな美味しさ。タラの芽にぴったりでした。
固めに茹でれば、ワインを開けた頃、ちょうどアルデンテ ♪

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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