はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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雲がかかった富士山

車で、韮崎駅へ向かう途中に、富士山が見えた。
「あ、富士山」と、上の娘、24歳。「あ、綺麗だね」と、わたし。
しかし富士山には、雲が何層にもかかっていて、すっきりと綺麗に見えているとは言えなかった。つい、口に出る。
「でも、もうちょっと、雲が流れてくれたらいいのにね」
娘は、わたしの言葉には反応せず、富士山を見ている。
その娘の顔を、チラリと見て気づく。
「そうか。今見えている富士山は、今しか見えない富士山なんだ」と。

ヨーロッパを巡る長旅に出る娘は、しばらく富士山を見ることはないだろう。わたしの言葉は、その思いから出たのだが、彼女はもう違う方向を見ていた。
「もうちょっと、こうだったら」
そんな思いは、彼女のなかにはなかった。今この時に、見えるものを、感じられることを、そのまんまに受け入れて、穴が空くほど見よう、感じよう。
それは挑戦的なものではなく、とても静かな決心のように思えた。

「で、いつ帰るのか、決めてるの?」と、わたし。
彼女は笑って言った。「いつか、帰ってくるよ」
帰り道、振り返ると、富士山は雲に埋もれていた。梅雨晴れの雲間に姿を現した富士の姿は、旅立つ彼女へのプレゼントだったのかも知れない。

わたしも受け止めよう。「もうちょっと、こうだったら」とは思わずに、毎日見える、そして見えない富士山を。

娘を送り、帰って来て、ひとりのんびり散歩しました。
散歩コースでは、今、ネムノキが花盛りです。

オカトラノオも、ちらほら見かけるようになりました。

クヌギの若い葉は、ポインセチアを連想させます。

にょきっと落ち葉のなかから顔を出した、きのこ。毒ありそう。

「ただいまぁ」と帰ると「おかえりー」と、玄関でコクワくん。
季節ごとに違う顔を見せてくれる道を散歩する幸せ、感じます。

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珈琲豆の音

朝、洗面所で顔を洗っていると、キッチンから聞きなれない音がした。
カラカラカラ、と乾いた音。朝からスナック菓子でもあるまいし、何だろう、と思っていると、上の娘が洗面所に来て、聞いた。
「珈琲豆って、一人分、何gだっけ?」
ああ、珈琲豆を計る音だったのか。「10gだよ」と、答える。

一昨日から、娘が帰って来ている。
最近、ひとり、または夫とふたりの時間がほとんどだったからか、そんな音一つにも、違和感を覚えるのだろう。いつも自分で立てている音だが、それを離れた場所で聞くことはなく、知らない音に聞こえたのも新鮮に思え、家族が家にいるって、こういう風だったっけ、と思い出した。
その彼女も、明日から、予定では1年ほどの旅に出る。もっと長くなるかもしれないが、不思議と淋しいとは思わない。何処にいたって、元気でいてさえくれれば、それでいい。
そんなことを思いつつ、彼女が珈琲豆を挽く音を、洗面所で聞いていた。
わたしはブラックで飲みますが、娘はカフェオレに砂糖たっぷり。

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定番メニュー、簡単カルパッチョ

夫が新宿からあずさに乗って、帰宅するまでに2時間以上はかかる。
駅に迎えに行くことも多く、駅前のスーパーで足りないものは買い足せるし、帰宅後、夫が風呂に入っている間に夕食を完成させればいい。
ふたりだけの食卓だし、帰るメールが来てからメニューを相談することも、自然と多くなる。基本は、ワインか、日本酒か。ワインならサラダの野菜を刻んだり、和えたり。日本酒なら肉じゃがを煮たり、青菜を茹でたり。プラスして刺身やら豆腐やらが必要なら、スーパーに寄ればいいので気楽だ。

そこで最近よく登場するのが「簡単カルパッチョ」
その日安くて新鮮そうな刺身を買い、貝割れ大根を敷いた上にのせ、粗挽き黒胡椒と柚子ポン、エクストラバージンオリーブオイルをかけるだけ。あっという間に完成する。柚子ポンが、鯵やシメ鯖などの青魚だけでなく、鰹にも蛸にもよく合う。言葉の通り、簡単であるが、美味い。魚を変えれば味も変わるので、飽きも来ない。いいことずくめだ。

ここで問題となるのは、簡単のなかに存在する「手抜き」というイメージ。自分で名づけておきながら、そこが気になるところなのだ。他にいい呼び方はないものかと「簡単」をネットで調べると「簡単服」という言葉が出てきた。
「単純な形に仕立てた婦人用ワンピース。アッパッパ」とある。
アッパッパ。聞いたことはあるが、多分使ったことのない懐かしい言葉に微笑み、どうせならカタカナ繋がりで「アッパッパカルパッチョ」と呼ぶことにしようかと考えてみる。さらに連想。簡単、愉快「あっはっはカルパッチョ」は、どうか。しかしすぐにその考えは捨てた。だいたい「アッパッパカルパッチョ」と口にするだけで舌を噛みそうな難しさ。「あっはっは」も然り。
「簡単」という言葉は、発音するのも簡単だ。うん。案外奥深い、魅力的な言葉なのかも知れない。

尾鯵の簡単カルパッチョ。サラダとカレーで野菜もいっぱいです。

これは、ちょっと手をかけた「ウド」バージョン。鰹と相性ぴったり。

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「豆」を取り除く時間

気が置けない友人とのおしゃべりに、気持ちが晴れる。それって、どうしてなんだろうかと考えて、ふと思い至った。
心の奥底に眠っていた、自分でもあることすら知らずにいた「豆」に気づいて、それを取り出すようなものかなぁ、と。
アンデルセンの、わりと知られてはいるが『おやゆび姫』や『みにくいアヒルの子』のように脚光を浴びることは少ない物語『エンドウ豆の上のお姫さま』の「豆」である。

本当の姫を探し、世界中を回ったが見つけられずにいた王子のもとに、ある日やってきたお姫さま。ずぶ濡れで、姫には見えなかったが、王子の母親が試す策を出す。ベッドの上に一粒のエンドウ豆を置き、その上に敷布団20枚、そして柔らかな羽根布団20枚を敷き、彼女を寝かせた。翌朝、眠れたかとの問いに「何か硬いものが身体にあたり眠れなかった」と、彼女は答え、王子は「本当の姫を見つけた」と妃に迎え入れる。

何十枚もの布団の下に埋もれた、気になっていること。王子とその母親は、彼女が、それを見つけられる人だと思ったのではなかろうか。

先日も、友人と目的もなく、ただただしゃべる時間のなかで、いくつかの「豆」は見つかり、それを取り出すことが出来た。気持ちはスッキリと晴れ、友人に感謝した。彼女にとっても、そういう時間であったならいいなと思う。

しかし「豆」は止め処を知らず、ベッドの上に生まれ続ける。そして、わたし達はしゃべり続けるのだ。それって、ただ楽しいからなんじゃないかって? もちろん、そうなんだけど(笑)

健康的なランチでした。おかず2品を、20種類くらいのなかから、
選びました。白身魚の甘酢あんかけが、美味しかった ♪

ショッピングモールには七夕飾り。「ぷーるがおよげるようになりたい」の
たどたどしい字を微笑ましく思いつつ、願い事を考えました。
「若者達、子ども達が、戦場に行くなんてことには、絶対なりませんように」

『エンドウ豆の上のお姫さま』は、
『アンデルセン童話集1』(岩波少年文庫)に収められています。

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オオムラサキの夏

「だからぁ、そこにはないって、言ってるじゃん」
何度も説得するが、相手は応じようとはしない。

ウッドデッキで洗濯物を干していたら、蝶が飛んできた。ミスジチョウにしては大きいなと思い、目で追うと、オオムラサキだった。
「ようこそ! 今年初めてだね」と、声をかける。
だが彼にとっては、今年初めてどころか、孵化したのが今年初めて。
見ていると、網戸にとまり、ストロー状の口を伸ばして網戸の小さな格子穴に入れた。そして、あれ? という顔をしてひっこめ、また別の穴に。
網戸であるから、穴なら数えきれないほどあるが、それを繰り返すばかりの新米オオムラサキを哀れに思い、教えてあげたくなった。
「穴はあるけど、蜜はないよ。食べ物は、花とか木の幹だよ」
しかしオオムラサキボーイは、聞く耳持たず、ただ繰り返すのみ。それで、
「だからぁ、そこにはないって、言ってるじゃん」
と、やや呆れた声を出す羽目になったのだ。

朝、孵化したオオムラサキが多かったのか、次々に飛んできた。クヌギの昆虫酒場を観に行くと1羽だけが賢くも蜜を吸っていたが、網戸にとまるオオムラサキも多く「蜜を吸う、練習かな?」と思い至り、声をかけるのをやめる。

新しい命は、美しい。ひと夏の命だが、新米オオムラサキ達の夏は、これから。すぐに蜜を吸うことも覚えるだろう。
宙を舞うオオムラサキ達の羽音は聞こえなかったが、目に映るその姿に、今この瞬間を生きる喜びに満ちた笑い声が、聞こえたような錯覚を起こした。
昆虫も、植物も、生き物は生まれながらに、生きる喜びや命の大切さを、知っている。人も、誰もが生まれた時には、考えずとも知っていたのだろう。
「いちばん大切なことを、忘れないようにね」
まるでそう言っているかのように、雲が広がり始めた日本の夏空に、国蝶オオムラサキはひらひらと舞い、消えていった。

羽根を開いている時間は短く、シャッターチャンスは少ないです。
昨日見かけたのは、色鮮やかなボーイ達ばかり。ガールは何処に?

練習にはぴったりの穴かも知れませんが・・・。

あ、そこには先客の蜂さんが。って、うちの軒下だよ、蜂さん!

その黄色く膨らんでいるのは、なあに?

なかなか羽根を見せてくれない子が多いなか、サービス精神旺盛な彼。

昆虫酒場にいた、賢いオオムラサキボーイです。

オオムラサキカラ―の桔梗が、庭で笑っていました。

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夜と酒と、埋められないと思っていた距離

サムと、飲みに出かけた。
1年前に2週間、我が家にステイしたオーストラリア男子、サムに、日本滞在中に会いたいと誘われ、上の娘と夫と4人で会う約束をしていたのだ。サムは、娘がワーキングホリデーで知り合った友人で、日本語を勉強中。今、東京にステイしている。そのサムから、たどたどしい日本語で、しかし意味はちゃんと判るメールをもらった。
「とさんとかさんといちゃんと、のみほうだいたべほうだい、いきたい!」
何故「父さんと母さん」が「とさんとかさん」で「飲み放題食べ放題」は正確にかけるのかと聞きたくなったが「いーよ」とひらかなで返事した。

魚が美味しい居酒屋で、にぎやかな時を過ごした。
「日本酒を冷やで」と注文するとクールだと、わたしはサムに教えたが「それは、クールでも何でもない」と、夫がツッコミを入れた。
これから始める旅の予定を、娘に聴き、 ―中国、フランス、イタリア、ポーランド、チェコなどを回り、そしてカナダへ行くらしいのだが― 「チェコって、人形が有名だよね?」と言うと「なかからいっぱい出てくるやつ?」と娘が言い「それは、ロシアのマトリョーシカでしょ!」と、みんなで笑った。
サムは、末娘がひとり暮らしを始め、びっきーが死んだことで、山梨でのひとりの時間が増え、淋しくないのかと、わたしを心配してくれていた。

10時を回った頃。ステイ先のお宅に迷惑なのではと切り上げようとすると、笑顔だったサムが、急に真剣な表情になり、言う。
「日本でいちばん、山梨が楽しかった。いっちゃんのお父さんとお母さんがとても好きだし、せっかく会えたんだから、もっと一緒に居たい。この時間が自分にとっては、とても大切なものだから」
そこまで言われて、無下に帰すわけにもいかない。新たに酒をオーダーし、恋愛について、夫婦について、家族についてなどなど、真剣に話した。

不思議なことが起こったのは、それからだった。
酔い始めると、サムのしゃべる言葉が判るようになった気がしてきたのだ。そして、それが日本語なのか英語なのかが、逆に判らなくなるような錯覚を起こした。全く英語が判らないわたしだが、夫がサムに話す英語が、理解できた。さらには、夫が日本語で言った言葉を英語で通訳し、サムに大笑いされた。
「いちばん英語がしゃべれないお母さんが、通訳!」
「ほんとだ!」と、自分でも気づかずに取った行動に驚いて、わたし。
「通訳するなよ!」と、笑いながら夫。「サム、ウケてる~」と、娘。
英語と日本語とは溶け合い、混ざり合い、埋められないと思っていた距離を、驚くほど近く、縮めていた。
そして「日本酒を冷やで」酌み交わしつつ、夜は更けていったのだった。

今が旬の岩牡蠣。新鮮でした。でもサムは、うーん・・・。

アユの塩焼き。「腹も美味しい!」と食べていると、
「川魚だから、内臓はやめなさい」と夫に注意されました。

刺し盛り、4人前。夫の行きつけの店ですが、
「いつもより豪華」だそうです。お腹いっぱい食べました。

〆のお茶漬けを、みんなで食べ回しました。サムいわく。
「お父さん、一口食べて、どうぞ。お母さん、一口食べて、どうぞ。
でも、いっちゃん、ずっーとひとりで、食べてる!」うん。確かに。

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花言葉は「無駄じゃない」

庭にピンクの花を咲かせたシモツケの、花言葉を調べた。
「無駄」「無益」「整然とした愛」「はかなさ」
花言葉にしては珍しい「無駄」に、驚く。「なんとかな愛」とか「はかなさ」なら在りがちだが「無駄」という花言葉は、初めて聞いた。

由来は、中国に伝わる話から来たという説があるとか。
戦国時代、少女は囚われた父を助けに敵地に行くが、すでに病死しており、父の墓のかたわらに咲いた花を持ち帰って植えると、毎年花を咲かせた。それがシモツケの花で、中国では少女の名、繍線(しゅうせん)をとって、繍線菊と名づけられたという。

「花言葉を考えた人は、彼女の行動を、無駄だと思ったのかなぁ」
シモツケに聞いても、答えはない。

50年以上生きてきて、後悔はたくさんある。だが、あれは無駄だったと思うことは、ない。悩んだり、苦しんだり、嫌な思いをしたことも、すべて含めて、今の自分だし、ああすればよかった、もっとこうすればよかったと思うことはあれど、小さな出来事一つ一つが、人を作っていくのだと信じたい。

ということで、わたしひとりの独断だが、シモツケの花言葉は「無駄じゃない」に決定した。いいよね? シモツケ。
  
シモツケは、鮮やかなピンクが可愛いです。ラベンダーも、もう終わり、
かと思えば、次々花開いています。ドライフラワーは蕾なんですね。

南天の花は、これから。蕾がいっぱいです。
  
黄色いホソバウンランは、咲き始めたばかり。桔梗は、もう開くかな。

ハナミズキは、空を眺めて、実を大きくしていきます。

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頭に生えた「サガシツヅケルダケ」

頭に、きのこが生えた。
最近 facebook で、駄洒落ジャブの嵐のなかに突撃することがあり、静かにジャブを返していたのだが、たまにはアッパーカットを狙いたいなどと、頭のなかで駄洒落をこねくり回して考えることが多くなった。

「タマゴダケ、ベニテングダケ、ワタシダケ」と来たので「ダケ、ダケ、ダケ」とつぶやくが、結局アッパーカットどころかジャブも返せず、そのままコメントはしなかったのだが、きのこだけが、頭に生えてしまったのだ。

このところ、車でよく聴く曲にGO!GO!7188の『種』があるのだが、
♪ 振り向かないで 行ける あたしはまだ 探し続けるだけ
  あるのかさえもわからない 答えを探すだけ ♪
これを聴いて「サガシツヅケルダケ」と「サガスダケ」がポンポンッとが生え
♪ 思い出だけを頼りにして この薄汚い空に 何を願えばいいの ♪
ここで「オモイデダケ」が生えるという始末である。

夫としゃべっていても「ちょっと、気になっただけだよ」と言えば、
「キニナッタダケ」が生えるし、「イッテミタダケ」や、
「クリーニングダスノコレダケ?」や「ウイスキーラストコレダケ?」
などなど、どんどん生える。
仕事の話をすれば「イチオウカクニンシタダケ」が、よく生える。

うーん。このきのこ、けっこう強い菌を持っていそうだ。

隣の赤松林。むかしは、マツタケもとれたそうですが、
これ、ナニダケ? 食べられないと思います。

足元にも、いっぱい広がっていました。

きのこを探して、ふらふら散歩しましたが、結局見つからず。
熟れた桑の実が、木漏れ陽に輝いて綺麗でした。
生えていたのは「アカマツシュウヘンダケ」

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ストレス解消法は、何ですか?

幼稚園の保護者会での出来事だったと、記憶しているから、15年以上前、川崎に住んでいた頃のことだと思う。
自己紹介と言っても、名前を言って頭を下げるだけじゃつまらないと役員さんが企画したのだろう。自分と子どもの名前を言った後、配られた紙にかかれた質問を読み上げ、それに答えるという遊び的要素が取り入れられていた。
場は和み、企画は成功を収めた。だが、わたしの記憶に残っているのは、ある質問と、その答えだけだ。

「あなたのストレス解消法は?」「ほうれん草を、湯がくことです」
一瞬そこで沈黙が広がったが、司会者が次に進めたので、つつがなく全員の自己紹介は終わった。
入園してすぐ、知らない人だらけの会だった。
「どうして、ほうれん草を湯がくことが、ストレス解消になるの?」
気軽に聞ける雰囲気ではなかった。そして、その疑問だけが、15年の時を経ていまだ解消することなく、わたしのなかに残ることとなった。今では不思議なことに「ほうれん草」=「なんとなく、気持ちが明るくなる」という方程式が、自分のなかに確立している。もし疑問をぶつけ、その場で答えを聞いていたら、もうすっかり忘れ去っているかも知れない。そう思うと、日々ぼろぼろと落とし続けている記憶のなか、何が残されるのかなど、判らないものだ。

「花が咲いちゃって、困ってるのよ」
家庭菜園をしているご近所さんに、ほうれん草を持っていってと頼まれた。もちろん、喜んでいただいた。
ひとりの夜に缶ビールを空けながら、ほうれん草を湯がいた。新鮮だし、生でも食べられるが、なにしろ「湯がく」という行為が大切だ。
1分も経たずとも、緑が濃くなり、すぐザルにあげる。水で洗って、きゅっと絞る。一連の作業をしつつ、ほうれん草って、小松菜とも春菊とも、全く違うなぁと、当たり前のことに感心した。濃い緑の綺麗な色も、きゅっと絞った手触りも、食べるだけでは感じ得ないほうれん草を、感じることができた。
そして今なら思える。こうして野菜と向き合う時間に、ふっと気持ちの和らぎを感じたんだろうなぁと。
今では顔も名前も覚えていない彼女だが、おない年の子どもが巣立った今、こんな風にひとりの夜にゆったりと、ほうれん草を湯がいているのだろうかと、考えてみたりする。いや、今はもう、ストレスもなく暮らしているのだろうか。いやいや。ストレスがなくなるなど、生きていればある訳もないか。
あなたのストレス解消法は、何ですか?

ほうれん草の他にも、いろいろいただきました。野菜って綺麗だなぁ。

スタンダードなのはお浸しですかね。柚子ポンで、さっぱりと。

昨日の朝食です。ほうれん草はバター炒めにしました。
緑の野菜をたっぷり食べると、健康になった気がします。
濃く淹れたお茶は『ふるさと万年茶』です。

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「幸せだ」って、言ってみませんか?

読み終えたばかりの中島京子『花桃実桃』(中公文庫)で、ストーリーとは関係なく、印象に残った言葉があった。以下、本文から。

人は思う以上に自分の言動に左右されるものである。須崎先輩が自分を「ワル」だと名乗ることによって、どんどん「ワル度」を増していったように。

妙に、納得した。
「楽しい ♪」と言えば、より楽しくなるように、「憎んでやる!」と言ってしまったら、より誰かへの憎しみが増すように、確かに「楽しい度」も「憎しみ度」も、言葉にした途端、それが見えない形を持ち始め、自分のなかに広がっていく気がする。そう考えると、負のオーラを持つ言葉は、口にしないでいられるなら、口にしない方がいいのではないか。
以前、友人に聞いた「言霊(ことだま)」の話を思い出す。口にした言葉は、勝手に魂を持って歩き出す、といったような話だ。

そこで「はい、はーい!」左手くんが手を挙げた。
「でもさ、痛いって言葉にすることで、楽になることもあるよね」
「うんうん。言えてる」右手くんも、同意する。
確かに、1年前 frozen shoulder(五十肩)を患った右手くんは「痛いよー」と言うことで、その痛みを四方八方に散らしていった感がある。
「痛みや苦しみは、言葉にすることも大切だと思う」と、右手くん。
「ただそれは、痛い、苦しいって言葉よりももっと重みを持った痛みや苦しみの場合に限るんじゃないかな」と、左手くん。
「そうだね。痛いの痛いの飛んでけ~で、飛んでっちゃう痛みなら、逆に痛くないって言葉に助けられるかも」と、右手くん。
「言葉って不思議だね」「口から出て消えていくだけのものではないんだね」

口を持たない右手くんと左手くんの、しみじみした会話に耳を傾けつつ、ひとり、今の気持ちを言葉にしてみた。
悩みも心配事も、多々あれど「わたし、今、幸せだ」
そして、言葉にして気づいた。かの名曲『幸せなら手をたたこう』は、小難しいことは何も言わずとも、口ずさめば「幸せ度」がアップする歌なのだと。
右手くんと左手くんが、顔を見合わせ(?)ぽんっと手をたたいた。

ウッドデッキで、けろも、幸せそうに笑っています。

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『花桃実桃』

直木賞受賞作『小さいおうち』(文藝春秋)を、手にとったことはない。
どうしても同タイトルのロングセラー絵本を、思い出してしまい、何故だか気がそがれたのだ。だから、同じく中島京子がかいた『花桃実桃(はなももみもも)』(中公文庫)を開いたのは、本屋で偶然見かけたからに過ぎない。
― 43歳シングル女子、茜が、昭和の香り漂うアパート「花桃館」で、へんてこな住人に面食らう日々が始まる ―
との、本の後ろにある紹介文に、強く魅かれたのだ。この本には、お宝が眠っていると予感させるキーワードだらけだった。
「43歳シングル女子」「昭和の香り漂う」「アパート」「へんてこな住人」「面食らう」そして最後には「ユーモアに包んで描く」ときた。
ここまで心魅かれるキーワードが揃うと、もう、出会うべくして出会ったとしか思えない。そしてこれがまた、読み終えてニヤニヤ笑いがとまらないほど、面白かったのだ。つい笑っちゃう。くすくす笑っちゃう。そんなユーモアの応酬に、本を読む幸せを感じ得ずにはいられなかった。

都心から郊外へ走る私鉄沿線、築20年の木造アパートは、全9戸のうち4戸が空き室。茜は大家としてその一室に住み始める。住人は、死んだ父親の愛人だった老婦人。20代のウクレレ弾きの青年。詩人のように上品な雰囲気を漂わせた老夫婦。ダメダメな父親と、しっかりし過ぎている中学生男子に、その弟が二人。整形マニアの女性。ハンチング帽をかぶる探偵。新しい住人も、越してくる。みな、一筋縄ではいかない人々である。

登場人物は誰もが個性的だが、一番好きだったのは、茜の高校の同級生、諺マニアの尾木くんだ。予備校講師を辞めてバーを始めたばかりの彼は、会社を辞め大家となった茜と、たがいに心許せる相談相手となっていく。
茜は諺や古文を独特に解釈する癖があり、尾木くんから聞いた諺「淵に臨みて魚をうらやむは退いて網を結ぶにしかず」=「他人の幸福をうらやむよりも、自ら幸せになるための方途をさぐるほうがいい」なのだが、考えているうちにあさっての方向へ向かってしまう。以下、本文から。

「退いて網を結ぶ」
出勤途中の満員電車でも、ぽつりとそう口に出してみたりした。
退いて。網を。結ぶ。
この「網」が、いつのまにか頭のなかで「網焼きの店」と変化してしまい「退職して、海の近くで網焼きハマグリの店を出すことによって、幸せになる」といったイメージが、茜のなかで膨らみだした。

そんな茜でさえが面食らう「花桃館」での出来事を楽しみつつ、思った。
自分も含め、人が生きていくって、なんて滑稽なんだろうかと。滑稽で、いいじゃないかと。いや、むしろ滑稽であれと。

「花桃はきれいだけど実がつかないのね。つかないわけじゃないけど、小さくて美味しくないの。美味しい桃がなるのはべつの花なの。人間もおんなじで、いろいろな人がいて、実が小さい人もいるじゃない? でもねえ。どっちがどうって話じゃないと思うのよ。花や実だけじゃなくてね、ジャガイモみたいに、重要なのは地下茎って人も、きっと人間の中にもいるわよ」

庭のワイルドマジョラムが、咲き始めました。目立たないけど可愛い。
「花桃館」では、今何が咲いているかな?

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満ち満ちた生命力が放つパワー

地下鉄で、赤ん坊が泣いているのを、ぼんやり眺めていた。
若い母親が抱いて揺らしても、いっこうに泣きやもうとしない。身体を突っ張って、力のすべてを泣くことだけに注いでいる。
「すごいなぁ。大人があんなに力一杯泣いたら、3日くらい寝込みそう」
などと、ひとり考える。
「お母さんも、たいへんだ。もう、子育てするパワーはないなぁ」
3人の幼児を抱えていた頃を思い出すが、あの頃とて、そんなパワーがあったとも思えない。どうやって育てたのか、思い出すことすらできない。

地下鉄に乗ったのは、久しぶりに東京に住む両親の家を訪ねた帰りだった。
父が「夏バテして痩せた」と電話してきて「検査してもどこも悪くなくて、ただ食欲が出ないだけ」というのだが、とりあえず見舞いに行ったのだ。
会うと確かに痩せており、病人然とした雰囲気を漂わせている。
話も暗い方に進みがちだったが、笑顔で聞くしかない。あいづちにも疲れた頃「自分に何かあったら、車は息子(わたしの弟)に」などと縁起でもないことを言うので、話を変えた。
「そう言えば、車、友達に売ったって」24歳になった上の娘のことである。
長旅に出るに当たり、10万キロ以上走った中古の軽だが、facebookで買い手を探し当て、交渉し、売却したらしい。その車のローンも大学在学中に、バイトしたお金で家に全額返金してもらったことなどを、話した。
すると父は、ぽかんとした顔をして、
「廃車にしたんじゃ、なかったのか」と言い、声を上げて笑い出した。
「全く、ぼーっとしてるようで、ちゃっかりしてるなぁ。いや、しっかりしてるところがあるってことだけど」
それからまるで人が変わったように、父は笑顔でしゃべり始めた。孫娘の活発さを、いたく面白がっているようである。
その娘から、来週泊りに来ると、電話があったと言う。
「荷物があるから、車で迎えに行くんだ」
と、80歳までタクシードライバーだった父は、心なしか嬉しそうだ。
しかし、その娘の行動に、わたしは腹を立てた。
「おじいちゃん、具合悪いんだから、面倒掛けるなって言ってあるのに! 何考えてんの? 断っていいからね」と、父にまで腹が立ってくる。
だが父も、だいじょうぶだと言って譲らない。
「全く、もう。孫娘も孫娘なら、おじいちゃんもおじいちゃんだ」
ぶつぶつ言いながらの、帰り道だったのだ。

赤ん坊は、いつのまにか眠っている。
「生命力に、満ちあふれているよなぁ」
寝顔からも見てとれるそのパワーについて、考えてみる。親は、あんなに満ち満ちた生命力と日々向き合っているんだから、そりゃあパワーも出る訳だよ、と思えてきた。自分もそうだったのかも知れないなぁ、と。
そして孫娘の話をした途端、明らかに元気になった父について、考えてみる。あんなに満ち満ちた生命力(娘)がやってきたら、やっぱパワー、出るかも、と思えてきた。とりあえず、来週のことは、彼らに任せるしかない。
雷雨だったという東京の雨も届かない地下鉄で、ゴーゴーと響く走行音を赤ん坊の寝息と重ねて聞きつつ、ひとり自分を納得させた。

帰りに、最寄駅『穴山』近くの蓮池庭園に、寄ってみました。
蓮は、まだかたい蕾でしたが、紫陽花を観に行きました。

実家の都営団地にも、紫陽花がいっぱいだったから、なんとなく。

どんな色でも、綺麗だなぁ。雨に濡れて、輝いて。

ちょっと変わり種のガク紫陽花も、咲いていました。

花達を大切に育てていることが、一目で判る庭園です。

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持ち帰ること、できますか?

「勇気は、実家に忘れてきました」と言ったのは、伊坂幸太郎『モダンタイムス』の主人公、渡辺が小学3年の夏のことだが、それとは全く関係なく、勇気を振り絞って、わたしは聞いた。
「持ち帰ること、できますか?」
中華料理屋での、ひとりランチ。何度か行ったことのあるその店は、タンメンや担担麺なら麺は少な目で上品な感じだった。それで、油断していたのかも知れない。所用で出かけた帰りで2時半を回っており、空腹だったのもある。いつもはオーダーしない五目かた焼きそばなどを選んでしまった。

テーブルに置かれるや否や「嘘!」と、声を上げそうになる。
『誘拐』で、スーザンの魅力を目の当たりにしたスペンサーが言っていたように「長く培ってきた社交上の心得で、なんとか声は上げずに済んだ」が、それくらい量が多かったのである。大盛りとは、あきらかに違う。ひとりで食べるという設定を、実家に忘れてきたのだろうと、声を荒げて問いただしたくなるほど多かった。美味しかったが、途方に暮れた。自分で頼んだ料理は、残さない。その信念がガラガラと音を立てて崩れていく。
「ムリだ・・・。ムリだ、ムリだ、ムリだ」
がんばったが、やはり無理だった。そして、勇気を振り絞って聞いた。
「持ち帰ること、できますか?」
すると、女性スタッフは笑顔で言った。「はい」
よかった。本当によかった。夕飯に、冷蔵庫の野菜と炒めて食べた。カリカリのかた焼きそばもいいが、柔らかくなってもじゅうぶん美味しかった。

勇気は、やっぱ持ち歩かなくっちゃ。

写真では、伝わらない威圧感が、もう、そこ此処に漂っていました。

しっかりした容器に入れてくれて、紙袋まで。至れり尽くせりです。

ひとりの夕飯は、冷蔵庫にあった小松菜、人参、シメジを炒めて、
辛子とお酢をたっぷり。柔らかくなった麺も、またおつなもの。

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もし世界中の時計がなくなったら

洗面所の時計が、壊れた。
電池切れかと思ったが、電池を替えても動こうとしない。15年も使っていれば、壊れもしよう。ホームセンターで千円で買った時計である。シンプルで見やすさが身上、丸く白いベースに黒い文字で数字が大きくかかれた「時計人生、ただただ正確に、時を刻むのみ」と言っているかのような時計だった。15年間、ありがとう。

歯を磨きつつ、または風呂上りに、時計のあった場所を見る。だが、取り外した時計はない。時間までもが消えたかのように、空虚さだけが漂う。
「ああ、もう。また、見ちゃった」
ぼやいては、時間確認が必要ない時まで、時計を見ている自分に気づく。

そこにようやく、新しい時計を掛けた。
これまでの時計とは、対極にある、フクロウ型の、フクロウそのものが文字盤になっている時計だ。
「針が、見えないじゃん」と、夫は言う。
だが、もうこれは買うしかない! と、気に入って購入したものである。
本当は、リビングに掛けたかったのだが、それでは夫が言う通り、針は見えそうにない。寝室も間接照明しかなく、やはり、時計として使えそうにない。
しかし、狭い洗面所なら、ばっちりだ。木の壁にも、とても似合う。

何処に掛けるか考えもせずに、購入した時計だが、定位置は決まった。もう、洗面所に空虚さはなく、テキパキと時間は動き出している。
たった1日、ひと所の時計を外し、過ごしただけなのに、時間さえもがなくなったような錯覚を起こすとは。もし世界中の時計がなくなったら、当然の如く跡形もなく、時間というものも消えるような気がしてきた。
  
フクロウなのに、可愛い ♪  購入した『マッシュノート』を紹介します。

年下の友人かよちゃんがオーナーの、ネット販売中心の雑貨屋さんです。
不定期に開く、リアルショップが、原宿にできました。

パリのデザイナー、ナタリー・レテの作品がいっぱい。
フクロウの時計も、ナタリーの作品です。

天井からつるしたバッグ達もお洒落。猫のカーテンは、かよちゃんお手製。

気に入って手放せなくなるモノ達に出会える、素敵なお店です ♪

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トリュフ塩が、腑に落ちない訳

『トリュフ塩』なるものを、いただいた。
上品な箱に入った、その塩は、瓶を開けた途端、キッチンじゅうに広がる個性強い匂いを持っていた。
「これ、少な目に使った方がよさそうだよね?」と、わたし。
「そうだね」と、夫も同意した。それだけ強烈な匂いだったのだ。

夕飯のポークソテーを、トリュフ味で楽しもうと、相談はまとまっていた。
ところが、焼いた豚肉を食べてみると、トリュフ味というには、匂いほど味がしない。匂いもかなり柔らかくなっている。ただ、肉の旨味がいつもより増し、美味しく感じた。
「うーん。美味しい! いいかも、これ」ふたりで、そう言いつつも、
「でも、ちょっと足りなかったのかも知れないね」と、
皿にトリュフ塩を少し盛り、焼いた肉につけて食べてみる。
「うーむ、やっぱ、じゅうぶん塩味足りてるし、そのままの方が美味い」
美味しいんだから、いいじゃん、と思う気持ちと、トリュフを味わいたいという気持ちが、両天秤にかけられ、揺れ動くなか、その日の夕食は終わった。

さて、リベンジ。全く違う料理に使おうと、レシピを検索した。
卵料理レシピが多く、シンプルにプレーンオムレツに使ってみる。
「美味しいね」「トリュフ塩の味だね」と、美味しくいただく。

シンプルな料理に合うのは判ったが、それにしてもこれはシンプルすぎるんじゃない? と疑問符が浮かぶようなレシピも発見した。
冷奴に、トリュフ塩をかけるだけというものだ。またこれが、美味かった。トリュフの味も、ようやく舌に馴染んできた感じがする。

しかし、何か腑に落ちない。何だろう。いったい何なんだろうか、と考え、ぽんと手を打った。
「そう言えば、トリュフ。まともに食べたことないじゃん!」
全く、腑に落ちない訳である。舌に馴染んできたのはトリュフの味ではなく、トリュフ塩の味だったのだ。世界三大珍味という、あまりに有名な食材だったため、勝手に創りあげたイメージが、自分のなかにできあがっていたが、じつはそれは未体験の味だったのだ。
これはもう、ぜひぜひ、トリュフ、食べて見なくっちゃ。

化粧品かと勘違いしそうな雰囲気の、お洒落な箱に入っていました。

ポークソテーは、蓮根やオクラなど、炒め野菜と盛り合わせました。

見た目は、ごく普通のプレーンオムレツ。が、一味違います。

山芋とオクラをのせて、わさびで、&トリュフ塩味だけのもの。
やっぱり薬味はのせたほうが、トリュフ塩バージョンも美味しかったです。

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『グランド・ブダペスト・ホテル』

映画『グランド・ブダペスト・ホテル』を、観た。
ウェス・アンダーソン監督映画は、初めて観たが、あっけにとられた。
「かっこいい!」「かっこいい!」「かっこいい!」
映画館で、大声で叫びたい衝動に、何度も駆られる。駆られるが、例え映画館が貸切だったとしても、口を開けたまま、叫ぶどころではなかっただろう。それくらい、かっこよかったのだ。

舞台は、ハンガリーの首都ブダペストかと思えば、架空の地、ズブロフカ共和国。かつて栄えた頃、そのホテルは、ピンクが基調のスイーツのような外観をしていた。物語は、グランド・ブダペスト・ホテルを仕切っていた伝説のコンシェルジュ、グスタブと、天涯孤独のベルボーイ、ゼロのストーリーだ。

グスタブは、客をもてなすプロフェッショナル。マダム達の夜の相手も仕事のうち。彼が相手に選ぶ条件は、金持ちで、年配、金髪、そして不安を抱えていて、愛を要している。
そのグスタブに、殺人容疑がかけられる。上顧客マダムDが、殺害されたのだ。冤罪で刑務所に入ったグスタブを助けたのは、彼の人柄と、ゼロと、ズブロフカ共和国一のパティスリー『メンドル』のシュークリームだった。

映画のジャンルとしては「スクリューボール・コメディ」変化球のなかでもひねり球であるその名に、一風変わったという意味合いを込めているらしい。
声を上げて、心の底から笑い転げるコメディではない。心の奥底に隠してある、自分でも忘れてしまったような部分を、何度も何度もくすぐられるような感覚といえばいいだろうか。そうして笑いつつも、生きることの悲しさが、胸いっぱいに込み上げてくる。映像の端切れとくすぐったい気持ちが、喉元の辺りにいつまでも残って消えることのない映画だった。

こんな風に、笑わせることができるものなのだと、笑うことの、そしてそれを創りあげる人間の、深く大きな可能性を感じた。

新宿シネマカリテには、模型が飾ってありました。

グスタブを演じたのは、英国人レイフ・ファインズ。
ゼロ役は新人、カリフォルニア生まれのトニー・レヴォロリ。
ズブロフカ共和国の名は、監督が、好きなウオッカ『ズブロッカ』から
連想したそうです。ポーランドのお酒です。

ゼロの恋人で『メンデル』で働くアガサ役は、シアーシャ・ローナン。
『メンデル』の箱のピンクが、映画全体に効いていました。
ウェス・アンダーソン監督作品は、これが8作目。
過去7作品、レンタルしてこようっと ♪

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ほたるぶくろの落し物

庭で、ほたるぶくろが咲いた。
多分、何年か前に、子ども達のうちの誰か判らぬが、道すがら摘んで持ち帰ったものが、種を落としたのだろう。
その淡い紫色の花を見ると、思い出す詩がある。西村佑見子『せいざのなまえ』(JULA出版局)に収められた『ほたるぶくろ』だ。

『ほたるぶくろ』

そのなかから 
どんなに だいじな 
おとしものを したのでしょう

みんなして うつむいて
ただ ためいきばかりが
きこえてきます

庭に、ほたるぶくろが咲くようになる前から、心魅かれていた詩だ。何を落としたのだろうかと、漠然とほたるぶくろを眺めていた。
だが、蕾から咲くまでを観察するようになり、一つの仮説が芽生えた。
大きく膨らみうつむくほたるぶくろも、小さな蕾のうちは、ツンと鼻先を空に向けていることを知ったのだ。その蕾は凛としていて、何一つ憂う様子はない。それを見て、多分、と推測した。花を咲かせたいと願う思いが、いつしか自分でも支えきれないほどに、重く大きく膨らんでいくのだろう、と。
そして咲いた途端、膨らんだ大切な思いを何処かに落とし、ただただ呆然とうつむくことしかできず、深くため息をついているのかも知れない、と。

蛍の季節に咲きます。なかで蛍が光っているのは見たことありません。
  
小さな小さな蕾が、こんなに大きく膨らむ不思議。

姫シャラも咲き始めました。夏椿ともいわれる爽やかな白。

オレガノ・ディングルフェアリーは、幸福のシンボルだとか。

勝手に生えてきた木苺も、真っ赤に熟し始めました。

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カーディガンに、ぽっかり空いた穴

お気に入りのカーディガンに、穴が空いた。
薄くて軽くて、合わせやすい紺色で、上下逆にすれば、ポンチョのような形にもなる夏用の七分袖だ。無印良品で、何年か前に購入したもので、洗濯ネットに入れれば、洗濯機でもガラガラ洗えて、普段使いにも、気合いを入れて出かける女子会にも気軽に羽織れる。冷房対策にはうってつけの強い味方だ。

穴は、肩甲骨の辺りで、縫うと目立つかとも思ったが、ブローチなどをつけられる場所でもないし、まだまだ着たい。お洒落して出かける時には、もう1枚あるベージュのカーディガンを羽織ることにして、普段に着ようと針を刺した。なんとか目立たないように縫いあがり、ホッとする。

これまで、くしゃくしゃにして鞄に突っ込んだり、ソファに置きっぱなしにしたり、車のドアに挟んだりしても、気にも留めなかったが、穴が空いて初めて、どれだけ、このカーディガンに助けられていたかに気づいた。
「あんまりです。ぽっかり、穴が空きました。もっと、大切にしてください」
がさつな持ち主に、そう伝えるために、空いた穴なのかも知れない。

あるいは、と考えを巡らす。
『不思議の国のアリス』は、ウサギ穴に落ち、異世界にワープした。小さな穴だが、この穴は不思議の国への通路を開くために、空いたのだろうか、とじっと見てみる。まあ、もしそうだとしても、白ウサギは此処にはいないし、不思議の国への入口は、ぶじ閉じられた。いや、もしかすると、これは出口だったのか。カーディガンに問うても、濃紺の沈黙が広がってゆくだけだ。
「すぐに穴を閉じちゃって、ちょっと惜しかったかなぁ」
そう思う自分を笑いつつ、カーディガンを丁寧にたたんだ。
  
カーディガンタイプと、ポンチョタイプ。
なかに着ている服によって変えたりして、楽しんでいます。

「不思議の国への案内役は、何も白ウサギだけじゃないよ」と、けろ。

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『きことわ』

昨日、今日の記憶よりも、子どもの頃や若い頃の記憶の方が忘れにくいと言うが、本当だろうか。確かにこの頃、今やろうと思ったことすら、立ち上がっただけで忘れてしまうことも多い。
夫に話したつもりでいたことが、話そうと思っていただけだったとか、19日にね、と話していたのに、明日が19日であることと繋がらなかったり、だとか、霧のなかに立っているかのような日々ではある。

朝吹真理子『きことわ』(新潮社)は、そんな思いを巡らせてしまうような、現実と夢と過去の記憶が入り混じり、現実のみが本当ではないのかも知れないと、不意に判らなくなってしまうような危うさをはらんだ小説だった。

夏休みごとに海辺の別荘で過ごしたふたりが、最後に会ったのは、貴子(きこ)8歳、永遠子(とわこ)15歳の時だった。それから25年後、ふたりは再会する。親戚でも何でもない年の離れたふたりだが、その繋がりは、四半世紀の時を超え、様々な記憶を絡み絡ませ、深く残っていた。以下、本文から。

「これは、とわちゃんの足だった」
にやにやと貴子が笑う。永遠子も、これはどっちの足だと、貴子の足をくすぐりかえす。貴子が永遠子の頬をかむ。永遠子が貴子の腕をかむ。たがいの歯形で頬も腕も赤らむ。素肌を合わせ、貴子の肌のうえに永遠子の肌がかさなり永遠子の肌のうえに貴子の肌がかさなる。しだいに二本ずつのたがいの腕や足、髪の毛や影までがしまいにたがいちがいにからまって、どちらがおたがいのものかわからなくなってゆく。

思い出すのは、子ども達が幼かった頃、あちこち小さな傷を作っては、軟膏を塗ってやったことだ。あ、塗らなくちゃと風呂上りに娘の膝を見るが傷はなく、すりむいていたのは自分だったと気づく。その逆もあった。くっついているうちに、どちらがどちらの身体なのか判らなくなっていくのだ。

その頃の記憶もまた、混乱し、霧のなかで絡まりあっている。本当にあったことなのか、夢だったのか、記憶違いなのか。そして今ここで過ごしている時間は、いったい本当のものなのか。目をつぶると、落下していく自分を感じた。
2011年『芥川賞』受賞作。

ビールを飲みながら、読むことに記憶が曖昧になる原因あり?

タパスセットと、ライトなハートランドビールで乾杯 ♪
何に? 年に一度の健康診断がぶじ終了。なんら異常ありませんでした。
自分的には、体重が着々と増えているのが気になるところではありますが。
待ち時間に読もうと選んだのが『きことわ』です。

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蝋燭ライト

寝室の就寝時に灯すライトが壊れているのは、もちろん知っていた。
知っていたが長い年月のうちに、その事実は空気の如く、あって当然のこととなり、新しく買い換えようなどとは思いもよらないまま、いつの間にか10年近くが経っていた。
電気がつかなくなった訳ではなく、壊れたのはシェードの方だった。なので裸電球だが使うことはできる。買い換えの必要に迫られなかったことが、長い間放置していた大きな理由だろう。

そのライトを、新しくした。
夫とふたりで、夕食後ふらりと入ったワインバーで、見つけたものだ。
「蝋燭の灯りって、いいですよね」と、ほろ酔いで、わたし。
それは、蝋燭そのままの形をしていて、火が揺れる様まで、そっくりだった。我が家に災害用にと購入した60時間蝋燭が、同じくらいの大きさであることも、それを蝋燭だと思い込んだ原因だ。
「残念ながら、LEDライトなんです」
マスターは、リモコンでライトを消して見せた。
「おーっ、すごい!」と、夫とわたし。
「一人でやってるんで、蝋燭の火を使うのは危険もあるし、お客様が席に着いた途端、このリモコンでライトをつけると、手品みたいで喜ばれるんですよ」
マスターは、ちょっと得意げに笑った。ワインを褒められた時のように。

夫は、メーカーを聴き、さっそく注文した。
リモコンは購入しなかったが、点灯してから5時間で消える設定にでき、夜明け前、静かに明るくなっていくなか、ふっと息を吹きかけたように消える。
その柔らかい明るさに、わたしもすぐに馴染んだ。心なしか、よく眠れるようになった気がする。蝋は本物で、優しく香る匂いのせいかも知れない。

変えてみたら、快適だったり便利だったり、いい感じだったりするのに、そのままを受け入れて放りっぱなしにしていることの、何と多いことか。見直してみようかな。普段の生活。

半蔵門駅近く、こだわりのワインバー『Bapapa』
大きな木製のカウンターを生かした、シンプルな雰囲気のお店です。

寝室のライト。本物の蝋燭のように温かい光が、安全に楽しめます ♪

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人間鷺(にんげんさぎ)?

田んぼの緑が、少しずつ濃く、眩しくなっていく。夫を隣りの市にある駅まで送る朝、左右に田んぼが広がる農道を走るのも、気持ちがいい。
白鷺も、よく見かけるようになった。田んぼに生息する生き物を、食べているのだろう。白く細く大きなその姿に、運転しながらも目を魅かれる。
「いるねぇ、鷺。農薬が少ない田んぼに、いるのかな?」などと夫とも話す。
すると突然、彼が突拍子もないことを言った。「あ、人間鷺!」
見ると、女性がひとり、苗を手で植えている。
「なんだー。田植えじゃん」と、わたし。
「いや、鷺ばっか見てたから、一瞬、鷺っぽく見えた」と、夫。
田植えの季節は、過ぎたが、田んぼに出ている人も多い。だが、このところ鷺の方が、より多く見かけるようになっていたのだ。

「まず、白雪姫って10回言って」という言葉遊びを思い出す。
「白雪姫、白雪姫、白雪姫、白雪姫・・・」
「では問題です。ガラスの靴を拾ったのは、だあれ?」
正解は「王子様」なのだが、つい「シンデレラ」と口をついて出てしまう仕掛けだ。
夫も「鷺、鷺、鷺、鷺、人間・・・鷺?」という感じだったのだろう。

そう言えば、ウッドデッキから入って来た客人が、リビングから玄関に出て、面白い発言をしたことがあった。
「不思議なスペースですね。ここは、何の部屋ですか?」
玄関から入れば普通に玄関に見えるのだが、反対側から見たら、不思議な部屋にしか見えなかったようだ。
思い込みというトラップは、常にそこ此処に仕掛けられているものなのだ。

仲良くしてる~ ♪ 何を食べているのかな?

軽トラに驚いて、一瞬羽ばたきましたが、またすぐに戻ってきました。

これからの季節がいちばん綺麗な、韮崎の農道。

リビングから出て、見た玄関です。お米や野菜も、置いてあります。
確かに、貯蔵室とも言えるかも。

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オー! 脳!

「ずいぶん、動くようになったね」「うん。ありがとう」
「1年前は、どうなることかと思ったけど」「ほんとだよね」
「がんばったよね、右手くん」「いやいや。きみのおかげだよ、左手くん」
右手くんが Frozen shoulder(五十肩)を患ってから、1年が経った。
今では背中で左右の手を繋ぐこともできるし、それを上にあげられる高さも少しずつ上がってきた。

「同じ手、同士だもんね」「左も右も、ねぇ」
「だけどさ」「うんうん。そうなんだよね」「そう。これ変だよね」
庭で山椒の実を収穫し、実から茎をとる作業をしていた時だ。
「きみが実を持って、ぼくが茎をとる方が、いい感じだね」と、左手くん。
「ほんとだ。ぼくが利き手だとか、先入観なしに作業してった方がいいね」
相談はまとまっていたのに、作業中、何度も中断した。
「右手くん、だから、きみが実を持つ方だって」
「左手くんこそ、茎をとる方でしょ?」
いつの間にか、逆になっている。やりにくいのに、そうなってしまってる。そればかりか、茎と実を置く場所が、逆になっていたりもする。
「なんでー?」「どうしてー?」右手くん、左手くんにも判らないようだ。

全く、脳の指令は、理解できない。オー! ノー(脳)!である。右手くんと左手くんのおかげで、美味しい山椒の佃煮はでき、文句はないんだけれど。

収穫は、摘むのは、右手くん。ボールを持つのは、左手くん。

右、茎。左、実。って唱えても、いつの間にか、逆さまに?

さくらんぼとはちょっと違うけど、カップルで、みのった実。
並べてみたら、双葉みたい。可愛いです ♪

新鮮な山椒の実と小女子を、薄味で煮た佃煮。白いご飯にぴったり。

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ブルスケッタに祈りを込めて

朝日新聞の生活欄に載っていたレシピを見て、夫が言った。
「今夜は、ブルスケッタにしよう」
新聞をのぞきこんで「いいね」と、わたし。
「ワールドカップ、日本戦の前祝いってことで」と、夫。

夫は、昨日のワールドカップ1次リーグでのスペイン大敗を気にしてか、スペインワインを何本か買い込んだ。
カリッと焼いたフランスパンに、野菜や魚などをのせるブルスケッタ。具は3種類、用意した。茹で卵はイタリアンパセリとマスタードが効いた荒みじん切り。トマトはすりおろしたニンニクと刻み玉葱を、オリーブオイルで和えて。鯛は白ワインビネガーとオリーブオイル、パセリとピンクペッパーで飾る。

自画自賛になるが、ひと手間かけた料理は美味しく、ワインも進み酔っぱらった。酔いつつ、ドラマなど観つつ話していた。何故そういう話になったのか。
「あの歌、なんだっけ?」と、夫。
♪ いつものように 幕が開き ♪
「ちあきなおみ、だよね」と、わたし。
母の十八番なのだ。わたしが小学生の頃、よく歌っていた。今年80歳になったが、最近でも歌っているのだろうか。
「うわっ、タイトル思い出せない」夫が、頭を抱え始めた。
「惜別とか? 黒い縁取りの手紙? うーん、違うな」一緒に頭を抱える。
頭を抱えつつ、ふたり歌う。
♪ あれは3年前 とめる あなた 駅に残し ♪
検索すれば、すぐに答えは出てくるだろう。だが、夫は拒んだ。ふたりあれこれ言いつつ、無駄に時間を過ごし、半時間ほど経っただろうか。
「喝采!」夫が言った。「喝采だ!」わたしも、声を上げた。

本日の日本初戦。テーマはもちろん『喝采』だ。がんばれ! 日本!

イタリアでは、トマトやレバーペーストのブルスケッタがスタンダード。
スペインではピンチョスと呼び、種類豊富な具に爪楊枝を刺したものが、
北のバスク地方で、よく出されるタパス(おつまみ)だそうです。

茹で卵には、イタリアンパセリ。トマトにはバジル。
庭のハーブ達、大活躍。昨日、オレガノの苗も買ってきました ♪

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日に日に大きくなっていく

蛙に「けろ」と名づけるのは、あまりにありきたりだが、インスピレーションで呼んでしまっては後の祭り、もう後戻りはできない。1週間ほど前から、ウッドデッキに住みついているアマガエルに、昨日ようやく命名した。

我が家のウッドデッキは、リビングと繋がっていて、そのまま庭に降りられる。洗濯物も干すし、この季節は、小雨が降っていても、ふらっと出ては庭の花を愛でたりもする。なので、初めて蛙を見かけた時にも、ああ、いるなぁ、ちっちゃいなぁ、と温かい眼差しを向けていた。

4日ほど前だろうか、太陽が照りつけているのに、動かずにいる。だいじょうぶかなぁ、干からびたりしないかなぁと心配になり、薪で影を作ってやった。だがそれが気に入らなかったのか、翌日は1日姿を見せなかった。
「あーあ。追い払ったわけじゃなかったんだよ」後悔、先に立たず。
デッキの階段に、ひとり淋しい気持ちで座り、うなだれた。

だがその翌日、蛙は再び姿を現した。日に日に大きくなり、緑濃く艶も出てきているようだ。餌になる羽虫ならこと欠かないのだろう。いないなと思ってデッキの下を探すと、冷たく湿った影で、まったりしていたりする。こそこそ動いていたりもする。私の顔も、覚えてくれたかもしれない。
それで昨日、とうとう名をつけた。大きくなったと言っても、小さな小さなやつだ。大げさな名より、その小ささに見合った名の方がいい。

「けろ」夕方、つけたばかりの名を呼ぶと、デッキ下に置いてある、コンクリを練る容器のふちにたまった雨水にお尻をつけ、気持ちよさそうにしている。
「蛇には、くれぐれも気をつけてね」
いつ何処へ行ってしまうか判らない存在だが、けろは、わたしのなかでも、日に日に大きくなっていく。

1週間ほど前には、ちっちゃくて模様もはっきりしなかったけど・・・。

昨日の、けろ。薪の上に乗っかって、ちょっと堂々として来た感じ。
写真がアップになっているだけじゃ、ないんですよ。

ウッドデッキの板の幅を見比べれば、あきらかに育っています。

デッキ下、コンクリを練る容器のふちで、喉を震わせていました。
遠い目をして、何処に思いを馳せているのやら。

ウッドデッキの下にもぐれば、晴れた日も、ひんやりしています。

14年前に家族で、トントンカチカチ作ったウッドデッキです。
右下の緑の四角い容器が、コンクリ用。立て掛けてあります。

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スペンサーシリーズ『誘拐』

ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズを、久々に読んだ。
日本語訳では7作目にあたるが、シリーズ2作目の『誘拐』(ハヤカワ文庫)
30年ほど前に夢中になって読んだ文庫達を開くと、年月を感じさせる埃臭さで歓迎してくれた。
ハードボイルド探偵モノという以外に、ストーリーは覚えていない。唯一記憶にあるのは、探偵スペンサーとその恋人、スーザンとの絡みが素敵で、だからこそ飽きることなく何冊も読んでいた、ということだ。
なので、スーザン初登場の『誘拐』から読もうと、読み始めた。
読み始めて驚いた。何とも、かっこいいのである。以下、冒頭文。

椅子を一杯に後ろへ倒して首をぐっと横に向けると、私のオフィスから空が見える。デフォルト焼きの青、雲一つなく、固形物のように輝いている。労働休日が過ぎた九月、たぶんどこかでトウモロコシが象の目ほどの高さに伸びていて、アル中が戸口で眠っても寒くないような陽気である。

スペンサーの一人称で描かれているのだが、次の一行でハッとさせられる。
「ミスタ・スペンサー、私たちの話を聞いてるの?」
一人オフィスにたたずんでいるのかと思えば、接客中だ。ここで読者は気づく。この探偵は、空も季節も、依頼人さえも、外界何もかもを、彼特有のユーモアとペーソスを散りばめた目線で見つめているのだということに。

そして読み進めて、思い出した。スペンサーは、食にこだわる料理人なのだった。以下、スーザンに初めて電話をかけ、夕食に誘う台詞。

「時間が遅いのは判ってるが、今からポーク・テンダロイン・アン・クルートを作るところだ。来て一緒に食べながら、ケヴィン・バートレットのことをもう少し話し合わないか。おれは料理がすごくうまいんだ。探偵としてはたいしたことはないかもしれない。自分の喉仏を見つけるのに苦労するし誘拐の人質捜しにさして成功していない。しかし、料理の腕は素晴らしい」

ケヴィンは誘拐された15歳の少年で、スーザンは彼の学校のカウンセラーだ。スペンサーは、自分で言う通りに料理の腕は素晴らしい。三ツ星レストランで出すような料理ではなく、一人あるいはふたりで楽しむような、家庭的な料理を得意とする。その夜スーザンが、彼のアパートを訪ねたのは、言うまでもないことだ。自分の魅力か、ポーク・テンダロイン・アン・クルートが好物なのかと量りかねるスペンサーもまた、チャーミングに描かれていた。

読み終えて「惜しいよなぁ」と、ひとりごちた。
翻訳して35年は経っているだろう文章に、馴染めないところも多かった。キスを接吻とかくようなストーリーじゃないのだ。
村上春樹さん、パーカーファンだって聞きましたが、翻訳しませんか?

文庫がたくさんあるのは、記憶にありましたが、8冊。

新刊で買った方が、9冊と上回っていました。
当時、そうとう夢中になって読んでいた様子が、うかがえます。



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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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