はりねずみが眠るとき
昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
新参者のぐい飲み
行きつけの雑貨屋『京MONO』で、夫がぐい飲みを買った。
「違うタイプのぐい飲みが、欲しい」
そう言って選んだのは、古九谷焼き。といっても、その写しだ。何万円もする高価なものではない。
わたしは、どうしても土をこねて焼いた感じのものが好きで、そちらに手を伸ばしがち。そのたびに、夫が言う。
「似たようなのが、あるでしょう」
織部に手を伸ばした時も、然り。すると『京MONO』の店主が、言った。
「以前お買い求めになられた、黒織部と同じ作家さんの作品ですよ」
「ああ、あれ!」
やはりわたしが、気に入って買ったものだった。しかしもう、10年近く前になるのではないだろうか。
彼が覚えていたことに、驚いた。そして嬉しくなった。
「覚えてるなんて、びっくり」と、帰りの道で、わたし。
「それだけ一つ一つの物へのこだわりと愛着があるってことだよな」と、夫。
そのこだわりと愛着に包まれ、店頭で育まれた器達。新しいぐい飲みも、大切に使わせてもらおう。そう思い、食卓に出した古九谷を写したというぐい飲みは、店頭に並んでいる時よりも、ずいぶんと存在感を増していた。
「大切にされてきたモノは、生き生きと輝く場所を心得ているのさ」
新参者のぐい飲みが、つぶやいた気がした。
釣り人が描かれています。周りのエンジが濃いところが、好きです。
木箱のなかには、写した人の略歴が入っていました。
photo by my husband.
黒織部と並べて。対照的な雰囲気ですが、似合いの二つのようにも見えます。
「違うタイプのぐい飲みが、欲しい」
そう言って選んだのは、古九谷焼き。といっても、その写しだ。何万円もする高価なものではない。
わたしは、どうしても土をこねて焼いた感じのものが好きで、そちらに手を伸ばしがち。そのたびに、夫が言う。
「似たようなのが、あるでしょう」
織部に手を伸ばした時も、然り。すると『京MONO』の店主が、言った。
「以前お買い求めになられた、黒織部と同じ作家さんの作品ですよ」
「ああ、あれ!」
やはりわたしが、気に入って買ったものだった。しかしもう、10年近く前になるのではないだろうか。
彼が覚えていたことに、驚いた。そして嬉しくなった。
「覚えてるなんて、びっくり」と、帰りの道で、わたし。
「それだけ一つ一つの物へのこだわりと愛着があるってことだよな」と、夫。
そのこだわりと愛着に包まれ、店頭で育まれた器達。新しいぐい飲みも、大切に使わせてもらおう。そう思い、食卓に出した古九谷を写したというぐい飲みは、店頭に並んでいる時よりも、ずいぶんと存在感を増していた。
「大切にされてきたモノは、生き生きと輝く場所を心得ているのさ」
新参者のぐい飲みが、つぶやいた気がした。
釣り人が描かれています。周りのエンジが濃いところが、好きです。
木箱のなかには、写した人の略歴が入っていました。
photo by my husband.
黒織部と並べて。対照的な雰囲気ですが、似合いの二つのようにも見えます。
言葉として認識されない言葉
「わたしって、案外、せっかちなのかも」
時に、そう思う。例えば駅ナカの立ち食い蕎麦屋で。
大抵、券売機でチケットを買い、カウンターに置き、蕎麦かうどんかを告げるのだが、わたしの発する「お蕎麦で」は、聞き流されることが多い。チケットを置いた瞬間に告げるからか「蕎麦とうどん、どちらになさいますか?」と、聞き直されてしまうのだ。
またか、と思いつつ「お蕎麦で、お願いします」とふたたび告げる。
また例えば、日々買い物するスーパーのレジで。
レジ打ちが終わり「いくらいくらです」と言われ、クレジットカードを出す時に「一括で」と告げる。だが、やはりその言葉も聞き流されることが多い。大抵は、カードを機械に通した後「ご一括になさいますか?」と、聞かれる。そしてわたしは、うなずくのだ。
仕事の流れがあるのは、判る。聞かれるまで待つ方が、いいのかも知れない。何も言わず、カード置く人が多いのだろうとも思う。流れのなかでの言葉のやり取りは、言葉として認識されず流されていく。
ただ、立ち食い蕎麦屋でも、スーパーのレジでも、こちらから何かを伝えることも大切なんじゃないかなと、何処かで思っている自分がいるのだ。
いつものスーパーで、実習中という名札を付けた女性がいる。彼女はレジ打ちが遅い。慣れていないこともあるのだろうが、一つ一つの動作が丁寧なのである。「いくらいくらになります」という彼女に、やはりわたしは言う。「一括で」機械を通した後、彼女は「ご一括ですね」と微笑んだ。彼女は、わたしの言葉を言葉として聞いていた。年末の、ちょっと嬉しい出来事だった。
甲府の駅ナカの蕎麦屋で。とろろ蕎麦にも葱たっぷりで嬉しかったです。
秋に訪ねた同じ北杜市の三分一湧水の蕎麦屋で。ここはおススメです。
今年も、蕎麦、たくさん食べたなぁ。
年越し蕎麦は夫が打つのが恒例。楽しみです。
時に、そう思う。例えば駅ナカの立ち食い蕎麦屋で。
大抵、券売機でチケットを買い、カウンターに置き、蕎麦かうどんかを告げるのだが、わたしの発する「お蕎麦で」は、聞き流されることが多い。チケットを置いた瞬間に告げるからか「蕎麦とうどん、どちらになさいますか?」と、聞き直されてしまうのだ。
またか、と思いつつ「お蕎麦で、お願いします」とふたたび告げる。
また例えば、日々買い物するスーパーのレジで。
レジ打ちが終わり「いくらいくらです」と言われ、クレジットカードを出す時に「一括で」と告げる。だが、やはりその言葉も聞き流されることが多い。大抵は、カードを機械に通した後「ご一括になさいますか?」と、聞かれる。そしてわたしは、うなずくのだ。
仕事の流れがあるのは、判る。聞かれるまで待つ方が、いいのかも知れない。何も言わず、カード置く人が多いのだろうとも思う。流れのなかでの言葉のやり取りは、言葉として認識されず流されていく。
ただ、立ち食い蕎麦屋でも、スーパーのレジでも、こちらから何かを伝えることも大切なんじゃないかなと、何処かで思っている自分がいるのだ。
いつものスーパーで、実習中という名札を付けた女性がいる。彼女はレジ打ちが遅い。慣れていないこともあるのだろうが、一つ一つの動作が丁寧なのである。「いくらいくらになります」という彼女に、やはりわたしは言う。「一括で」機械を通した後、彼女は「ご一括ですね」と微笑んだ。彼女は、わたしの言葉を言葉として聞いていた。年末の、ちょっと嬉しい出来事だった。
甲府の駅ナカの蕎麦屋で。とろろ蕎麦にも葱たっぷりで嬉しかったです。
秋に訪ねた同じ北杜市の三分一湧水の蕎麦屋で。ここはおススメです。
今年も、蕎麦、たくさん食べたなぁ。
年越し蕎麦は夫が打つのが恒例。楽しみです。
父が漬けた白菜
東京は板橋に住む父から、手製の白菜の漬物が届いた。
毎年のこと、楽しみに待っている荷物である。何年、いや何十年前から覚えたかも判らぬが、年季が入っているのは判る。毎年心待ちにするほどに、毎年、期待を裏切らず、美味いのだ。白菜といえば、鍋。という生活していると、瑞々しく生でジューシーな白菜の漬物を食べ、ハッとする。毎年のことなのに、嬉しい驚きが、そこにはある。
漬け方を教えてもらおうと思いつつ、教わらないまま、父は今年、86歳になった。元気である。生まれ育った北海道まで、ひとり鼻歌混じりに運転して行ってしまうほどに元気だ。何しろ80の歳まで、タクシードライバーだったのだ。母とふたりケンカしながら暮らしているのも、いいのかも知れない。
そんな風に元気だというのがベースにあるのだが、わたしと実家との距離は、かなり離れている。東京と山梨という距離以前に、昔から親子にしては、ずいぶんとパーソナルスペースの取り方が大きかったのだ。たがいに立ち入らずに暮らしてきたと言ってもいい。会わずとも、元気でいれば、それでいいと思ってきた。顔を合わせるのは1年に一度、正月くらいのものだ。
それが今年は、3度になった。正月の他に、夏バテした父を見舞った時と、親戚の葬儀と。2年前に妹を亡くした父からの電話が鳴ることも多くなり、距離はわずかだが、縮まっているような気がする。これからは、少しずつ縮まっていくのだろうか。それが、自然なことなのかも知れない。
父が漬けた白菜を食べながら、親子の距離を思う。
上の娘が、ヨーロッパを旅した後、カナダで働き始め、来年の秋までは帰らないつもりだと言った時にも、淋しいとは思わなかった。まさに「元気でいれば、それでいい」だ。わたしと彼女のパーソナルスペースは、やはり親子にしては大きい方なのだろう。
だがその距離は、両親とわたしより、ずっと近いとも感じている。彼女はカナダで、わたしのブログを読んでいるという。わたしも彼女のブログを読み、facebook で写真を見る。そこには、面と向かって会話するのとはまた違った面白さがある。新しい発見もある。だがそれも、顔をつき合わせて暮らした20年以上の日々があってこそのものだとは、判っている。
親子でも、大人になればひとりの人と人。しかし離れていても、親子は親子である。だっこしていた日々を思えば、パーソナルスペースは大きくなっていく方が自然だ。だがこればかりは、どのくらいが普通ということはないのだろう。多分、それぞれにちょうどいい距離を、見つけていくしかないのだ。
ニンニクと唐辛子が効いています。ちょうどいい漬かりぐあいでした。
塩味薄めで、いくらでも食べられます。お茶にもビールにもぴったり。
毎年のこと、楽しみに待っている荷物である。何年、いや何十年前から覚えたかも判らぬが、年季が入っているのは判る。毎年心待ちにするほどに、毎年、期待を裏切らず、美味いのだ。白菜といえば、鍋。という生活していると、瑞々しく生でジューシーな白菜の漬物を食べ、ハッとする。毎年のことなのに、嬉しい驚きが、そこにはある。
漬け方を教えてもらおうと思いつつ、教わらないまま、父は今年、86歳になった。元気である。生まれ育った北海道まで、ひとり鼻歌混じりに運転して行ってしまうほどに元気だ。何しろ80の歳まで、タクシードライバーだったのだ。母とふたりケンカしながら暮らしているのも、いいのかも知れない。
そんな風に元気だというのがベースにあるのだが、わたしと実家との距離は、かなり離れている。東京と山梨という距離以前に、昔から親子にしては、ずいぶんとパーソナルスペースの取り方が大きかったのだ。たがいに立ち入らずに暮らしてきたと言ってもいい。会わずとも、元気でいれば、それでいいと思ってきた。顔を合わせるのは1年に一度、正月くらいのものだ。
それが今年は、3度になった。正月の他に、夏バテした父を見舞った時と、親戚の葬儀と。2年前に妹を亡くした父からの電話が鳴ることも多くなり、距離はわずかだが、縮まっているような気がする。これからは、少しずつ縮まっていくのだろうか。それが、自然なことなのかも知れない。
父が漬けた白菜を食べながら、親子の距離を思う。
上の娘が、ヨーロッパを旅した後、カナダで働き始め、来年の秋までは帰らないつもりだと言った時にも、淋しいとは思わなかった。まさに「元気でいれば、それでいい」だ。わたしと彼女のパーソナルスペースは、やはり親子にしては大きい方なのだろう。
だがその距離は、両親とわたしより、ずっと近いとも感じている。彼女はカナダで、わたしのブログを読んでいるという。わたしも彼女のブログを読み、facebook で写真を見る。そこには、面と向かって会話するのとはまた違った面白さがある。新しい発見もある。だがそれも、顔をつき合わせて暮らした20年以上の日々があってこそのものだとは、判っている。
親子でも、大人になればひとりの人と人。しかし離れていても、親子は親子である。だっこしていた日々を思えば、パーソナルスペースは大きくなっていく方が自然だ。だがこればかりは、どのくらいが普通ということはないのだろう。多分、それぞれにちょうどいい距離を、見つけていくしかないのだ。
ニンニクと唐辛子が効いています。ちょうどいい漬かりぐあいでした。
塩味薄めで、いくらでも食べられます。お茶にもビールにもぴったり。
来年の手帳
本屋で、新刊を衝動買いをし、来年のカレンダーをもらった。
いや「カレンダー」と堂々とかいてあるが、これは「手帳」ではないのか? との疑念が湧く。そう。もらったのは、来年の手帳だ。
中身は、週めくりカレンダーになっていて、そのページごとに俳句が載せてあるところが、如何にも本屋っぽい。
春夏秋冬の俳句を、読むともなくめくっていき、来年の今週のページを見てみた。そこには、久保田万太郎の冬らしい俳句が、あった。
さびしさは 木をつむあそび つもる雪
積んでいく淋しさが、積もっていく淋しさが、しんと胸に伝わってくる。
このところ、多くのモノを持たずに生活していきたいと、考えるようになっていた。捨てられなかったものも捨てようと、抽斗の整理をしたりもした。少しばかりのモノを捨て、すっきりした気持ちにもなっていた。
しかしこうしてまた、新たにモノをもらい手元に置こうとしていることに、少し笑い、多くのモノを、淋しさのように積んでいく自分を連想する。
何度挑戦しても、手帳をつけられないわたしだ。手帳として使うのは難しい。だが、思い出した時に好きな本のページをめくるように、気が向いた時に俳句を読んでいくのもいいかも知れないと掃除を終えたトイレに置くことにした。
ちなみに年の初めの句は、高浜虚子の句。
一月や 去年の日記 尚机辺
デザインがお洒落だと、栞を気に入って使っていた戸田書店。さすがだ。なかなかに、洒落が効いている。
太い線画が魅力的。栞は、他の色もあります。
来年のカレンダー、トイレ用。動物と花? いえ、季節の風景と植物です。
いや「カレンダー」と堂々とかいてあるが、これは「手帳」ではないのか? との疑念が湧く。そう。もらったのは、来年の手帳だ。
中身は、週めくりカレンダーになっていて、そのページごとに俳句が載せてあるところが、如何にも本屋っぽい。
春夏秋冬の俳句を、読むともなくめくっていき、来年の今週のページを見てみた。そこには、久保田万太郎の冬らしい俳句が、あった。
さびしさは 木をつむあそび つもる雪
積んでいく淋しさが、積もっていく淋しさが、しんと胸に伝わってくる。
このところ、多くのモノを持たずに生活していきたいと、考えるようになっていた。捨てられなかったものも捨てようと、抽斗の整理をしたりもした。少しばかりのモノを捨て、すっきりした気持ちにもなっていた。
しかしこうしてまた、新たにモノをもらい手元に置こうとしていることに、少し笑い、多くのモノを、淋しさのように積んでいく自分を連想する。
何度挑戦しても、手帳をつけられないわたしだ。手帳として使うのは難しい。だが、思い出した時に好きな本のページをめくるように、気が向いた時に俳句を読んでいくのもいいかも知れないと掃除を終えたトイレに置くことにした。
ちなみに年の初めの句は、高浜虚子の句。
一月や 去年の日記 尚机辺
デザインがお洒落だと、栞を気に入って使っていた戸田書店。さすがだ。なかなかに、洒落が効いている。
太い線画が魅力的。栞は、他の色もあります。
来年のカレンダー、トイレ用。動物と花? いえ、季節の風景と植物です。
ハジメちゃんに教わったことと教わっていないこと
毎朝のことであるが、胡椒でクシャミをする。
漫画じゃあるまいしと自虐的笑いをもらしつつ、毎朝のことであるので気にも留めなかったのだが、冬になり、クシャミをする際に身構えている自分に気づいた。頭の記憶というよりも、身体が覚えているのだ。昨年の冬、胡椒でクシャミをし、ぎっくり腰をやってから、冬の朝のクシャミには自然と注意深くなっているから不思議だ。腰を落とし体制を整え、クシャミをする。中学の頃、テニス部で「腰を落として構えろ」と言われた姿勢である。これが三つ子の魂百まで、のうちに入るのかは疑問だが。
考えてみると、夜も胡椒をふんだんに使うことが多いのに、クシャミをすることは少ない。何故か。推測であるが、粗挽き黒胡椒を使うことが多いのだ。朝は、というと、優しい味の細かく挽いた白胡椒を使い、もやしや、玉葱や、ほうれん草を炒める。定番の目玉焼きも、夫の好みで、醤油派でもソース派でもなく、塩胡椒派なので、そこでも使う。そのたびに、クシャミをする。
玉葱を刻んでも涙は出ない体質なのに、白胡椒にはめっぽう弱いらしい。
玉葱は、半分に切ってから水でよく洗うと、涙が出ない。子どもの頃に見たアニメ『天才バカボン』で、ハジメちゃんが論理的に説明していて、それ以来、実行している。漫画は、真実を語るのだ! それでいいのだ!
しかし。と、ふと気づいた。ラーメンを食べる際、辛葱ラーメンでない限り、胡椒をたっぷりとかける。ラーメン屋に置いてあるのは、大抵が細かく挽いた白胡椒。なのにラーメン屋でクシャミをすることは、まれだ。火にかけたフライパンの上で、塩胡椒をすることで、空気中に胡椒が拡散するのか。
空気中の見えない胡椒に、翻弄される朝が続いているが、原因は究明されてきた。ハジメちゃんなら、何かいい方法を教えてくれるだろうか。
一昨日の朝食です。もやしは、切らずに炒められるので忙しい朝にぴったり。
味噌汁には、油揚げと椎茸、長葱、豆苗を入れました。
朝の残りの味噌汁に、バターを落として胡椒していただくのが好きです。
北海道の牧場の出である両親の影響かも知れません。味噌汁&バターらぶ。
漫画じゃあるまいしと自虐的笑いをもらしつつ、毎朝のことであるので気にも留めなかったのだが、冬になり、クシャミをする際に身構えている自分に気づいた。頭の記憶というよりも、身体が覚えているのだ。昨年の冬、胡椒でクシャミをし、ぎっくり腰をやってから、冬の朝のクシャミには自然と注意深くなっているから不思議だ。腰を落とし体制を整え、クシャミをする。中学の頃、テニス部で「腰を落として構えろ」と言われた姿勢である。これが三つ子の魂百まで、のうちに入るのかは疑問だが。
考えてみると、夜も胡椒をふんだんに使うことが多いのに、クシャミをすることは少ない。何故か。推測であるが、粗挽き黒胡椒を使うことが多いのだ。朝は、というと、優しい味の細かく挽いた白胡椒を使い、もやしや、玉葱や、ほうれん草を炒める。定番の目玉焼きも、夫の好みで、醤油派でもソース派でもなく、塩胡椒派なので、そこでも使う。そのたびに、クシャミをする。
玉葱を刻んでも涙は出ない体質なのに、白胡椒にはめっぽう弱いらしい。
玉葱は、半分に切ってから水でよく洗うと、涙が出ない。子どもの頃に見たアニメ『天才バカボン』で、ハジメちゃんが論理的に説明していて、それ以来、実行している。漫画は、真実を語るのだ! それでいいのだ!
しかし。と、ふと気づいた。ラーメンを食べる際、辛葱ラーメンでない限り、胡椒をたっぷりとかける。ラーメン屋に置いてあるのは、大抵が細かく挽いた白胡椒。なのにラーメン屋でクシャミをすることは、まれだ。火にかけたフライパンの上で、塩胡椒をすることで、空気中に胡椒が拡散するのか。
空気中の見えない胡椒に、翻弄される朝が続いているが、原因は究明されてきた。ハジメちゃんなら、何かいい方法を教えてくれるだろうか。
一昨日の朝食です。もやしは、切らずに炒められるので忙しい朝にぴったり。
味噌汁には、油揚げと椎茸、長葱、豆苗を入れました。
朝の残りの味噌汁に、バターを落として胡椒していただくのが好きです。
北海道の牧場の出である両親の影響かも知れません。味噌汁&バターらぶ。
入口は出口
昨日のイブ。お隣りは韮崎市の図書館に行くと、クリスマスツリーが飾ってあった。イブなので、それはもちろん事件というほどのことではなく、ごく自然な風景だったのだが、そのツリーの装飾が、ブルーに統一されていて「おっ」と目を留めた。
ツリーの横には、立札がある。
「ブルーツリー ブルーに秘められたパワー」
精神を落ち着かせる色、などと説明書きもかかれている。
そしてその横には、さらに、金色に光るツリーがあり「ゴールドツリー」との立札。さらに「シルバーツリー」「ピンクツリー」「レッドツリー」と続く。
説明書きは、サンタさんが言っている風にかかれているのだが、どれも最後に「らしい」とあり、自信なさげなところが、笑えた。
そして、5本目のレッドツリーの立札の横には、さらに立札が。
「あなたの気持ちに合う色のツリーに、飾りつけをしましょう」
その下に「受付に5色の飾りがあります」そして続く。
「歳末助け合い運動に、ご協力を」
なるほど、そういうことだったのかとうなずいた。
私が入った入口は、出口だったのだ。その最後の立札こそが、スタートラインなのだった。だが、最初に募金の立札を見ていたら、こんなにしげしげと6つの立札を見ていただろうか。いや。素通りしていた可能性が高いと思われる。
「おっ」と目を留めた、その瞬間の小さなクエスチョンマークが、わたしに6つの立札を読ませ、じっくり逡巡させ、受付でブルーの飾りをもらい、募金箱にチャリンと音を立てるくらいの気持ちだが、募金をさせたのだ。
順路と反対に、回るのもまたよし。ちょっぴり楽しい気持ちで、予期せず募金をさせてもらった。それが嬉しかった。
いや、もしかすると。わたしの入口を出口にさせたのは、サンタの魔法だったのかも知れない。2つの入口は10メートルと離れていないが、車を降りて歩く途中、木枯らしに吹かれ、その10メートルを温かくと近くの出口から入ったのだ。サンタめ、木枯らし吹かせたな。そう思うとまた、嬉しくなった。
手前が入口で、向こうが出口でした。最後まで気づかない自分にも???
ブルーを選んだのは、穏やかな雰囲気が好きだから。
シルバーにも、ずいぶんと魅かれました。
ツリーの横には、立札がある。
「ブルーツリー ブルーに秘められたパワー」
精神を落ち着かせる色、などと説明書きもかかれている。
そしてその横には、さらに、金色に光るツリーがあり「ゴールドツリー」との立札。さらに「シルバーツリー」「ピンクツリー」「レッドツリー」と続く。
説明書きは、サンタさんが言っている風にかかれているのだが、どれも最後に「らしい」とあり、自信なさげなところが、笑えた。
そして、5本目のレッドツリーの立札の横には、さらに立札が。
「あなたの気持ちに合う色のツリーに、飾りつけをしましょう」
その下に「受付に5色の飾りがあります」そして続く。
「歳末助け合い運動に、ご協力を」
なるほど、そういうことだったのかとうなずいた。
私が入った入口は、出口だったのだ。その最後の立札こそが、スタートラインなのだった。だが、最初に募金の立札を見ていたら、こんなにしげしげと6つの立札を見ていただろうか。いや。素通りしていた可能性が高いと思われる。
「おっ」と目を留めた、その瞬間の小さなクエスチョンマークが、わたしに6つの立札を読ませ、じっくり逡巡させ、受付でブルーの飾りをもらい、募金箱にチャリンと音を立てるくらいの気持ちだが、募金をさせたのだ。
順路と反対に、回るのもまたよし。ちょっぴり楽しい気持ちで、予期せず募金をさせてもらった。それが嬉しかった。
いや、もしかすると。わたしの入口を出口にさせたのは、サンタの魔法だったのかも知れない。2つの入口は10メートルと離れていないが、車を降りて歩く途中、木枯らしに吹かれ、その10メートルを温かくと近くの出口から入ったのだ。サンタめ、木枯らし吹かせたな。そう思うとまた、嬉しくなった。
手前が入口で、向こうが出口でした。最後まで気づかない自分にも???
ブルーを選んだのは、穏やかな雰囲気が好きだから。
シルバーにも、ずいぶんと魅かれました。
『田村はまだか』
朝倉かすみ『田村はまだか』(光文社文庫)を、再読した。
雪が降ると読みたくなる小説は多々あれど、この冬真っ先に開いたのは、これだった。舞台は、北海道、札幌。
「札幌である。ススキノである。一杯呑み屋やスタンドが重なるように軒をつらねる狭っ苦しい小路である」からスタートする。
季節は3月。小学校の同窓会から流れてきた5人が集う、スナックのカウンター。年の頃は40だ。
「田村はまだか」繰り返されるのは、その言葉。
どうやら彼らは、同級生だった田村を待って飲んでいるらしいと、齢44のマスター花輪は、静かに酒を淹れるのだった。
ひと言でいえばいいやつ永田。腕白小僧の面影を残す池内。むかし田村が好きだった千夏。要領よく立ち回り過ぎて人生の要領を見失っている坪田。浮気がばれ離婚したばかりの祥子。5人はみな、田村を待っていた。
「ほんとうはなにもないんだ」「どうせ死ぬんだ」
ぶつけるように言い、泣きじゃくる大人びた女子、理香に彼は言った。
「どうせ死ぬから、今、生きてるんじゃないのか」
小6の教室で、田村が言った言葉は、それぞれに衝撃的だったのだ。
小説は、田村を語り、5人それぞれとマスター花輪の事情を、明らかにしていく。みなもう、小学生ではない。田村と過ごした時間より、その後の時間の方が遥かに長い。だがみな、卒業以来会っていない田村を待っていた。花輪も、会ったこともない田村を、彼らと共に待ちかねるような気持になっていた。
春まだ遠い3月のススキノ。寒さから遮断された小さなスナック。
その場所を連想しつつ、真冬の温かな部屋でページをめくりながら、正反対とも同じとも思えるふたつのことを考えた。
「人はいずれ、死ぬんだ」そして「わたしは今、生きているんだ」と。
読み終えると、最後のページに、レシートが挟まっていました。
4年前のちょうど今頃の日付け。やはり、冬に読みたくなる小説なんですね。
あの時、書店の壁いっぱいに立てて並べてあったのも冬おススメだからかな。
雪が降る冷たい夜に、どうぞ。
雪が降ると読みたくなる小説は多々あれど、この冬真っ先に開いたのは、これだった。舞台は、北海道、札幌。
「札幌である。ススキノである。一杯呑み屋やスタンドが重なるように軒をつらねる狭っ苦しい小路である」からスタートする。
季節は3月。小学校の同窓会から流れてきた5人が集う、スナックのカウンター。年の頃は40だ。
「田村はまだか」繰り返されるのは、その言葉。
どうやら彼らは、同級生だった田村を待って飲んでいるらしいと、齢44のマスター花輪は、静かに酒を淹れるのだった。
ひと言でいえばいいやつ永田。腕白小僧の面影を残す池内。むかし田村が好きだった千夏。要領よく立ち回り過ぎて人生の要領を見失っている坪田。浮気がばれ離婚したばかりの祥子。5人はみな、田村を待っていた。
「ほんとうはなにもないんだ」「どうせ死ぬんだ」
ぶつけるように言い、泣きじゃくる大人びた女子、理香に彼は言った。
「どうせ死ぬから、今、生きてるんじゃないのか」
小6の教室で、田村が言った言葉は、それぞれに衝撃的だったのだ。
小説は、田村を語り、5人それぞれとマスター花輪の事情を、明らかにしていく。みなもう、小学生ではない。田村と過ごした時間より、その後の時間の方が遥かに長い。だがみな、卒業以来会っていない田村を待っていた。花輪も、会ったこともない田村を、彼らと共に待ちかねるような気持になっていた。
春まだ遠い3月のススキノ。寒さから遮断された小さなスナック。
その場所を連想しつつ、真冬の温かな部屋でページをめくりながら、正反対とも同じとも思えるふたつのことを考えた。
「人はいずれ、死ぬんだ」そして「わたしは今、生きているんだ」と。
読み終えると、最後のページに、レシートが挟まっていました。
4年前のちょうど今頃の日付け。やはり、冬に読みたくなる小説なんですね。
あの時、書店の壁いっぱいに立てて並べてあったのも冬おススメだからかな。
雪が降る冷たい夜に、どうぞ。
『ひょうたん』から餃子
神戸に住む夫のいとこから、餃子が届いた。
知る人ぞ知る神戸名物『ひょうたん』の味噌ダレ餃子である。
夏に帰省した際、その『ひょうたん』に、餃子を食べにいこうと言いつつも、実現しなかった。方向音痴は、わたしの領分であるが、地図マニアである夫が、以前食べにいったにもかかわらず、たどり着けなかったのだ。
「『ひょうたん』の味噌ダレ餃子が、食べたかった」
いとこくんは、淋しげに言う夫の言葉を、覚えていてくれたのだろう。
届いた時には、その気持ちが嬉しく、ふたり歓声を上げた。そしてまた、それが餃子であることをしみじみ嬉しく思い、さっそく焼いてたらふく食べた。
熱々の餃子を、頬張る。そこに、写真を撮るという余地は、存在し得なかった。夫は、しかたなくお礼のメールに、完食した空になった皿の写真を添付し、送ったのだった。
それから10日ほど経った昨日、ふたたび冷凍庫で眠っている餃子を、起こすこととなった。14個入りを、5箱も送ってくれたのだ。
焼き方は素人だが、それを補ってくれるのが『ひょうたん』独自の味噌ダレ。餃子自体の味は薄く、赤味噌ダレをたっぷりつけて食べるのが、ひょうたん流だ。味噌ダレには、醤油や酢、ラー油などを好みで混ぜて作るよう注意書きがあり、夫が辛めに作ってくれた。
ご飯にも、あう。もちろんビールにも、あう。皿の上にのっているのは、餃子というより、もう幸せそのものだ。
中国では、縁起がいいと祝いの席にも並べられる餃子。食べた数を数えるのは、タブーだそうだ。幸せの数など数えるのは野暮というもの。頬張った数は数えずに、いとこくんに感謝し、ただただ美味しくいただいた。
赤黒のロゴが、お洒落! この箱だけでも、魅かれますねぇ。
2度目とあって、焼き方もマスターしました。中はジューシー、皮はパリッ。
知る人ぞ知る神戸名物『ひょうたん』の味噌ダレ餃子である。
夏に帰省した際、その『ひょうたん』に、餃子を食べにいこうと言いつつも、実現しなかった。方向音痴は、わたしの領分であるが、地図マニアである夫が、以前食べにいったにもかかわらず、たどり着けなかったのだ。
「『ひょうたん』の味噌ダレ餃子が、食べたかった」
いとこくんは、淋しげに言う夫の言葉を、覚えていてくれたのだろう。
届いた時には、その気持ちが嬉しく、ふたり歓声を上げた。そしてまた、それが餃子であることをしみじみ嬉しく思い、さっそく焼いてたらふく食べた。
熱々の餃子を、頬張る。そこに、写真を撮るという余地は、存在し得なかった。夫は、しかたなくお礼のメールに、完食した空になった皿の写真を添付し、送ったのだった。
それから10日ほど経った昨日、ふたたび冷凍庫で眠っている餃子を、起こすこととなった。14個入りを、5箱も送ってくれたのだ。
焼き方は素人だが、それを補ってくれるのが『ひょうたん』独自の味噌ダレ。餃子自体の味は薄く、赤味噌ダレをたっぷりつけて食べるのが、ひょうたん流だ。味噌ダレには、醤油や酢、ラー油などを好みで混ぜて作るよう注意書きがあり、夫が辛めに作ってくれた。
ご飯にも、あう。もちろんビールにも、あう。皿の上にのっているのは、餃子というより、もう幸せそのものだ。
中国では、縁起がいいと祝いの席にも並べられる餃子。食べた数を数えるのは、タブーだそうだ。幸せの数など数えるのは野暮というもの。頬張った数は数えずに、いとこくんに感謝し、ただただ美味しくいただいた。
赤黒のロゴが、お洒落! この箱だけでも、魅かれますねぇ。
2度目とあって、焼き方もマスターしました。中はジューシー、皮はパリッ。
おまけは笑顔
郵便局で年賀状を買った際、おまけをもらった。
「どれでもいいですよ。2つくらいどうぞ」
気前よく言われ、段ボールいっぱいに入っている様々なモノから選ばせてもらう。「迷うなぁ」と言いつつ真剣に厳選していて笑われたが、抗ウィルスティッシュひと箱と、キッチン用品から折りたためるザルを選んだ。
何の気なしに選んだザルだった。だが、使ってみて「おっ」と目を留めた。
ザルの穴が、笑顔の形に繰り抜かれているのだ。よくよく見ると、真ん中は太陽がサンサンと輝いているデザイン。その周りに笑顔マークがたくさん並んでいる。忙しくキッチンに立ったのだが、思わずこちらも笑顔になった。
「笑顔って、伝染するんだな」
ほんの小さな、まさにザルの穴ほどの小さな小さな出来事だが、ずいぶんとホッとした気持ちになり、鼻歌混じりに料理を始めたのだった。
こんな感じに、にこにこしています。
裏返してもまた、にこにこ。
折りたたんでもまた、にこにこ。
これもいただいた、大きな株のブロッコリーを茹でました。
ブロッコリーって、この時期にもできるんですね。
「どれでもいいですよ。2つくらいどうぞ」
気前よく言われ、段ボールいっぱいに入っている様々なモノから選ばせてもらう。「迷うなぁ」と言いつつ真剣に厳選していて笑われたが、抗ウィルスティッシュひと箱と、キッチン用品から折りたためるザルを選んだ。
何の気なしに選んだザルだった。だが、使ってみて「おっ」と目を留めた。
ザルの穴が、笑顔の形に繰り抜かれているのだ。よくよく見ると、真ん中は太陽がサンサンと輝いているデザイン。その周りに笑顔マークがたくさん並んでいる。忙しくキッチンに立ったのだが、思わずこちらも笑顔になった。
「笑顔って、伝染するんだな」
ほんの小さな、まさにザルの穴ほどの小さな小さな出来事だが、ずいぶんとホッとした気持ちになり、鼻歌混じりに料理を始めたのだった。
こんな感じに、にこにこしています。
裏返してもまた、にこにこ。
折りたたんでもまた、にこにこ。
これもいただいた、大きな株のブロッコリーを茹でました。
ブロッコリーって、この時期にもできるんですね。
ひとつひとつ、あるいはふたつ、着実に
買い物をしていて、失敗することがよくある。
先日も、いつもの歯ブラシを、いつもの薬局で購入した際、失敗した。
使っているのは、歯周病専門医が設計したという、デントウェルのやわらかめ。「ふつう」「やわらかめ」は掛けてある列が違う。だからそれを確認し「やわらかめ」の列に手を伸ばす。
ここまでは、大抵順調に事が運ぶ。だがそれから、歯ブラシの色を選ぶ段になって、失敗するのだ。夫のコップはグリーンなので、それに合わせてグリーンを選ぶ。「やわらかめ」の列にグリーンがない時には、「ふつう」の列に「やわらかめ」のグリーンがまぎれこんでいないか探すことになる。それでもない時には、ブルーにする。ブルーもない時にはピンクにする。この辺りで、すでに「やわらかめ」が頭から飛び「あ、グリーンあったじゃん」などと「ふつう」の歯ブラシをカゴに入れてしまうのだ。
気づくのは、夫に指摘されてから。
「新しいの使おうとしたら、ふつうの歯ブラシが、あったけど?」
硬さに気持ちを向ければ色が、色に気持ちを向ければ硬さが。最初に注意していたことが、頭から飛んでしまう。
「ひとつひとつ、着実に」とは言うけれど、ふたつのことを一度に注意しなければならなくなると、それは「ひとつひとつ」ではなく「ふたつ」だ。
自分には「ふたつ」のことを一度にすることが、すでに難しくなっているのを実感する今日この頃。しかし。
「次回は、何としても、このふたつの注意項目をクリアするぞ!」
硬さ「ふつう」の歯ブラシをいまいましく見つめ、心に決めた。
年の瀬も押し迫っているが、多くのことをいっぺんにやろうとするのは、早々にあきらめた。年をまたごうと季節をまたごうと、何も気にすることはない。「ひとつひとつ、あるいはふたつ、着実に」が、目下の目標だ。
「ふつう」「やわらかめ」の他に「超コンパクト」「コンパクト」の違いも。
選択肢が多いのは、いいことだとは思いますが、ちょっと多すぎるかも。
薬局の割引き日に、まとめ買いしなくっちゃという気合いが、空回り~。
先日も、いつもの歯ブラシを、いつもの薬局で購入した際、失敗した。
使っているのは、歯周病専門医が設計したという、デントウェルのやわらかめ。「ふつう」「やわらかめ」は掛けてある列が違う。だからそれを確認し「やわらかめ」の列に手を伸ばす。
ここまでは、大抵順調に事が運ぶ。だがそれから、歯ブラシの色を選ぶ段になって、失敗するのだ。夫のコップはグリーンなので、それに合わせてグリーンを選ぶ。「やわらかめ」の列にグリーンがない時には、「ふつう」の列に「やわらかめ」のグリーンがまぎれこんでいないか探すことになる。それでもない時には、ブルーにする。ブルーもない時にはピンクにする。この辺りで、すでに「やわらかめ」が頭から飛び「あ、グリーンあったじゃん」などと「ふつう」の歯ブラシをカゴに入れてしまうのだ。
気づくのは、夫に指摘されてから。
「新しいの使おうとしたら、ふつうの歯ブラシが、あったけど?」
硬さに気持ちを向ければ色が、色に気持ちを向ければ硬さが。最初に注意していたことが、頭から飛んでしまう。
「ひとつひとつ、着実に」とは言うけれど、ふたつのことを一度に注意しなければならなくなると、それは「ひとつひとつ」ではなく「ふたつ」だ。
自分には「ふたつ」のことを一度にすることが、すでに難しくなっているのを実感する今日この頃。しかし。
「次回は、何としても、このふたつの注意項目をクリアするぞ!」
硬さ「ふつう」の歯ブラシをいまいましく見つめ、心に決めた。
年の瀬も押し迫っているが、多くのことをいっぺんにやろうとするのは、早々にあきらめた。年をまたごうと季節をまたごうと、何も気にすることはない。「ひとつひとつ、あるいはふたつ、着実に」が、目下の目標だ。
「ふつう」「やわらかめ」の他に「超コンパクト」「コンパクト」の違いも。
選択肢が多いのは、いいことだとは思いますが、ちょっと多すぎるかも。
薬局の割引き日に、まとめ買いしなくっちゃという気合いが、空回り~。
野菜&オイルで温まろう
韓国風白菜鍋で温まり、感じたことがある。
温まるのに大切な鍵は、オイルだ。白菜鍋には、鶏もも肉と豚バラ肉の脂がたっぷり入っている上に、胡麻油を更に入れる。白菜に沁みたその油達が、身体を芯から温めてくれているように思ったのだ。
なので野菜スープを煮た際、新しい試みに挑戦してみた。
煮上がりに、エクストラバージンオリーブオイルを回しかけてみたのだ。
これが何ともジューシーで美味しかった! そして期待したように、身体がほかほかと温まった。
オイルが、鍋や器に膜を張る役目をしてくれて、料理自体冷めにくくなることもあると聞くが、じつは胃のなかでもおなじように冷めにくいそうだ。
「温まる訳だよなぁ」
エクストラバージンオリーブオイルは、さっと回しかけるだけで、あっさりしている割には味わいも深くなる。寒い朝、味噌汁に入れるという人もいる。
野菜&オイル効果で、身体の芯から温まれば、気持ちもほっこりして、喧嘩している相手にさえ優しくできそうな気がしてきた。
鍋に入れて煮ればいいんでしょ的な雑さ(笑)でも美味しいんですよ~。
野菜スープというより、キャベツの丸ままスープ。
『野菜スープのウインナにはマスタードがないと食べられないで症』発症中。
もしも世界から辛いものがなくなったら、と思うと恐怖を感じるわたし。
温まるのに大切な鍵は、オイルだ。白菜鍋には、鶏もも肉と豚バラ肉の脂がたっぷり入っている上に、胡麻油を更に入れる。白菜に沁みたその油達が、身体を芯から温めてくれているように思ったのだ。
なので野菜スープを煮た際、新しい試みに挑戦してみた。
煮上がりに、エクストラバージンオリーブオイルを回しかけてみたのだ。
これが何ともジューシーで美味しかった! そして期待したように、身体がほかほかと温まった。
オイルが、鍋や器に膜を張る役目をしてくれて、料理自体冷めにくくなることもあると聞くが、じつは胃のなかでもおなじように冷めにくいそうだ。
「温まる訳だよなぁ」
エクストラバージンオリーブオイルは、さっと回しかけるだけで、あっさりしている割には味わいも深くなる。寒い朝、味噌汁に入れるという人もいる。
野菜&オイル効果で、身体の芯から温まれば、気持ちもほっこりして、喧嘩している相手にさえ優しくできそうな気がしてきた。
鍋に入れて煮ればいいんでしょ的な雑さ(笑)でも美味しいんですよ~。
野菜スープというより、キャベツの丸ままスープ。
『野菜スープのウインナにはマスタードがないと食べられないで症』発症中。
もしも世界から辛いものがなくなったら、と思うと恐怖を感じるわたし。
カナダにレンゲはあるのか
夫が、おそるおそるカレーを食べる娘に、声をかけた。
「あの、それ、スプーンじゃなくて、レンゲなんだけど」
すると娘は、すました顔で言った。
「いいじゃん。自分がよければ、何で食べたって」
私も、夫に加勢した。
「いや、レンゲっていうのはラーメンとかうどんとか、汁物を食べるときに」
「だから、いいじゃん。美味しく食べてるんだから」
昨年のこと。今はカナダでワーキングホリデー中の上の娘との会話である。
末娘によると「自分で考えなさい」または「お好きなように」というのが、わたしの口癖であり育児の方針だそうだ。それによりレンゲでカレーを食べる娘が出来上がったのかと思うと、何かが違ったのかも知れないとの疑念が湧いてくる。湧いてくるが、子育てに正解なし。精一杯やったことに変わりはない。
この冬初、韓国風白菜鍋を煮て、翌日は雑炊にして温まった。その雑炊を食べるときに、久しぶりにレンゲを使い、思い出したエピソードだ。
自分で考えて、好きなようにカナダに渡った彼女だが、向こうはマイナス20度の寒さだという。
「カナダに、レンゲはあるのかな」ふと心配になった。
*我が家の韓国風白菜鍋の作り方*
干し椎茸の戻し汁に戻した椎茸と鶏がらスープの素を入れ、沸騰させる。
鶏もも肉、豚ばらスライスを入れ、灰汁を丁寧にとる。
刻んで洗った白菜を鍋いっぱいに入れ、胡麻油を回しかけ混ぜ、20分煮る。
食卓で、塩、七味唐辛子をまず器に入れ、熱々をよそう。
好みでコチュジャンを使ってもいい。(夫は、コチュジャン派)
翌日、白菜を足したもの。さっぱりした感じになります。
2杯目からは皿に塩と七味ルールは、守られていません。
卵雑炊、温まりますね~。いつでも、七味は必需品!
問題のレンゲです。わたしも気に入ってるけど、カレーには・・・。
「あの、それ、スプーンじゃなくて、レンゲなんだけど」
すると娘は、すました顔で言った。
「いいじゃん。自分がよければ、何で食べたって」
私も、夫に加勢した。
「いや、レンゲっていうのはラーメンとかうどんとか、汁物を食べるときに」
「だから、いいじゃん。美味しく食べてるんだから」
昨年のこと。今はカナダでワーキングホリデー中の上の娘との会話である。
末娘によると「自分で考えなさい」または「お好きなように」というのが、わたしの口癖であり育児の方針だそうだ。それによりレンゲでカレーを食べる娘が出来上がったのかと思うと、何かが違ったのかも知れないとの疑念が湧いてくる。湧いてくるが、子育てに正解なし。精一杯やったことに変わりはない。
この冬初、韓国風白菜鍋を煮て、翌日は雑炊にして温まった。その雑炊を食べるときに、久しぶりにレンゲを使い、思い出したエピソードだ。
自分で考えて、好きなようにカナダに渡った彼女だが、向こうはマイナス20度の寒さだという。
「カナダに、レンゲはあるのかな」ふと心配になった。
*我が家の韓国風白菜鍋の作り方*
干し椎茸の戻し汁に戻した椎茸と鶏がらスープの素を入れ、沸騰させる。
鶏もも肉、豚ばらスライスを入れ、灰汁を丁寧にとる。
刻んで洗った白菜を鍋いっぱいに入れ、胡麻油を回しかけ混ぜ、20分煮る。
食卓で、塩、七味唐辛子をまず器に入れ、熱々をよそう。
好みでコチュジャンを使ってもいい。(夫は、コチュジャン派)
翌日、白菜を足したもの。さっぱりした感じになります。
2杯目からは皿に塩と七味ルールは、守られていません。
卵雑炊、温まりますね~。いつでも、七味は必需品!
問題のレンゲです。わたしも気に入ってるけど、カレーには・・・。
木枯らし吹きすさぶ夜
木枯らし吹きすさぶ夜、隣りの林の赤松が倒れた。
我が家から50mほどの場所で、道路をふさぐように垂直に倒れている。近所の友人が、危ないからと、わざわざ夜の8時過ぎに知らせに来てくれた。
その日は、夫も東京に泊まりで、ひとりの夜。強風と呼ぶには、言葉が足りないだろうと思われるほどの風に家が揺れ、竜巻などの災害を連想し、怖いなぁと思っていたのだ。風の音がごうごうと鳴り響き、家も揺れていたので、多分そのせいで、倒木の音や揺れには気づかずにいて、知らせてもらい助かった。車で出る予定はなかったが、もし気が変わって何処かに行こうとしていたら、うっかり倒木に突っ込んでいたかも知れない。
見上げると、残された隣の赤松がキィと揺れ、とても淋しそうに見えた。ちょっと離れた、向かい側の赤松と、何やら話しているかのようにも見える。
「すぐ近くにいても、支えてやることはできないんだ」
ふと親と子の距離を、思った。
木々達にないとは言わないが、人間には、言葉がある。離れていても、支え合うことだってできる。たがいに近づこうとさえしていれば。
ただ隣りの松が倒れるのをじっと見ているのは、辛かっただろうにと、凍った空気のなか、空にも届くほど背の高い赤松を見上げた。
倒れた状態です。完全に、道をふさいでいました。
夜、真っ暗ななか知らずに車で走っていたら、危なかった。
翌朝には、きれいに片づけてくださっていました。
周囲の人々に助けられて生きているのだと、実感します。
左手奥に、折れた松が写っています。
やはり強風に勝てず、途中で折れたようです。
石仏さんの上じゃなくて、よかった。
残された赤松達が、
淋しそうに見えるのは、人間の感傷ですね。
我が家から50mほどの場所で、道路をふさぐように垂直に倒れている。近所の友人が、危ないからと、わざわざ夜の8時過ぎに知らせに来てくれた。
その日は、夫も東京に泊まりで、ひとりの夜。強風と呼ぶには、言葉が足りないだろうと思われるほどの風に家が揺れ、竜巻などの災害を連想し、怖いなぁと思っていたのだ。風の音がごうごうと鳴り響き、家も揺れていたので、多分そのせいで、倒木の音や揺れには気づかずにいて、知らせてもらい助かった。車で出る予定はなかったが、もし気が変わって何処かに行こうとしていたら、うっかり倒木に突っ込んでいたかも知れない。
見上げると、残された隣の赤松がキィと揺れ、とても淋しそうに見えた。ちょっと離れた、向かい側の赤松と、何やら話しているかのようにも見える。
「すぐ近くにいても、支えてやることはできないんだ」
ふと親と子の距離を、思った。
木々達にないとは言わないが、人間には、言葉がある。離れていても、支え合うことだってできる。たがいに近づこうとさえしていれば。
ただ隣りの松が倒れるのをじっと見ているのは、辛かっただろうにと、凍った空気のなか、空にも届くほど背の高い赤松を見上げた。
倒れた状態です。完全に、道をふさいでいました。
夜、真っ暗ななか知らずに車で走っていたら、危なかった。
翌朝には、きれいに片づけてくださっていました。
周囲の人々に助けられて生きているのだと、実感します。
左手奥に、折れた松が写っています。
やはり強風に勝てず、途中で折れたようです。
石仏さんの上じゃなくて、よかった。
残された赤松達が、
淋しそうに見えるのは、人間の感傷ですね。
負のスパイラルから抜け出して
師走。このところ忙しいせいか、気がつくと負のスパイラルに陥っている。
夜中に目覚めた時、月明かりがひどくまぶしかったり、丁寧にドリップした珈琲が、マグの底に1㎝ほど残っているのを見つけたり、ずっと見つからなかったキッチンバサミが、所定の位置にあることに気づいたり、雪が降りだしたのを見て、綺麗だなとか大変だとか思う前に、自分のくしゃみに驚いたり。
そんな小さなズレが、何かを狂わせていくのを感じる。
「あの時、こうしていたら、何かが変わっていたかもしれない」
「あの人は何故、あんなことを言ったのか」
「あの頃、どうして、あんな風に思えたんだろう」
「こうしていたら」「何故」「どうして」
頭のなかにできた螺旋階段は、上っていると思ったら下っていて、下っていると思ったら上っている。くねくねと続く螺旋に、終わりはない。
と思っていたら、驚いた。螺旋には、終わりがあったのだ。
「なんか、疲れちゃった」
負のスパイラルの終わりは、悩みごとにも長続きしない体力低下に起因していた。笑っちゃうほどあっさりと気持ちは晴れ、積雪に雨降る冷たい夕刻、丁寧にドリップした珈琲を最後の一滴までゆっくりと飲み干し、ひとりごちた。
「うーん。歳をとるのも、案外いいかも」
イチイの垣根。道路の雪は、すぐに解けてしまいましたが、朝は凍りそう。
南天も、凍えていました。赤い実が、雪うさぎ連想させますね。
ポストと鉄製の表札です。ポスト、ペンキはがれてきたなぁ。
夜中に目覚めた時、月明かりがひどくまぶしかったり、丁寧にドリップした珈琲が、マグの底に1㎝ほど残っているのを見つけたり、ずっと見つからなかったキッチンバサミが、所定の位置にあることに気づいたり、雪が降りだしたのを見て、綺麗だなとか大変だとか思う前に、自分のくしゃみに驚いたり。
そんな小さなズレが、何かを狂わせていくのを感じる。
「あの時、こうしていたら、何かが変わっていたかもしれない」
「あの人は何故、あんなことを言ったのか」
「あの頃、どうして、あんな風に思えたんだろう」
「こうしていたら」「何故」「どうして」
頭のなかにできた螺旋階段は、上っていると思ったら下っていて、下っていると思ったら上っている。くねくねと続く螺旋に、終わりはない。
と思っていたら、驚いた。螺旋には、終わりがあったのだ。
「なんか、疲れちゃった」
負のスパイラルの終わりは、悩みごとにも長続きしない体力低下に起因していた。笑っちゃうほどあっさりと気持ちは晴れ、積雪に雨降る冷たい夕刻、丁寧にドリップした珈琲を最後の一滴までゆっくりと飲み干し、ひとりごちた。
「うーん。歳をとるのも、案外いいかも」
イチイの垣根。道路の雪は、すぐに解けてしまいましたが、朝は凍りそう。
南天も、凍えていました。赤い実が、雪うさぎ連想させますね。
ポストと鉄製の表札です。ポスト、ペンキはがれてきたなぁ。
片思いが実った途端
「えっ? フジテレビ、観られないの?」
越して来て15年。何度、驚かれたことか。
「そうだよ。山梨には、フジテレビないからね」
まあ、これは事実である。山梨には、フジテレビ系列のテレビ局は存在しない。だが、大抵の家では、フジテレビが映る。ケーブルテレビの配線が届いていれば、山梨には存在しないフジテレビもテレ朝も、テレビ東京だって、ちゃあんと観られるのだ。
だが、田舎な我が家には、その配線は届いていなかった。何度か交渉したが、この15年間、ケーブルテレビが振り向いてくれる気配すら感じなかった。
さて、ところが。先週、ようやく配線工事が終わったとの報告。長い長いフジテレビへの片思いも、成就の時を迎えたかに見える事件である。
しかし、時すでに遅し。フジテレビが観られないと嘆いていた子ども達も県外に出て行き、見たいドラマはオンデマンドで観られる時代へと移行している。
長い片思いで気持ちが冷めただけなら、いざ知らず、状況も大きく変化しているのだ。今は冷静に「どうしようかな」と、加入を逡巡している。逡巡できる幸せを、しばらく味わうのもよかろうと、15年の月日を、振り返っている。
不意に思い出したのは、子どもの頃に何かで読んだ童話の記憶だ。
悪事を働いた魔法使いが、ビンに閉じ込められ、海に流されてしまう。最初の百年は、助けてくれた人に、金貨をたんまり出してやろうと考えていた。だが、助けられることはなかった。次の百年は、どんな願いでも叶えてやろうと待っていた。だが、手は差し伸べられなかった。そして、次の百年目、ビンの蓋を開けた男がいた。
「次の百年、俺が何を考えて、ビンのなかにいたと思う?」
魔法使いをビンから出した男は、期待に胸を膨らませる。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「殺してやろうと、決めていたのさ」
その後、男が殺されたのか、知恵を絞って助かったのかは、記憶にはない。
時と共に、気持ちは変わる。状況も変わっていく。
片思いが実った途端、すっと気持ちが冷めることだって、ままあるのだ。
山を見上げて、そのふもと、小さなことに一喜一憂している、
小さな小さな人間を、つまりは自分を思います。
我が家の前から見た、朝焼けに染まる、南アルプスは鳳凰三山。
越して来て15年。何度、驚かれたことか。
「そうだよ。山梨には、フジテレビないからね」
まあ、これは事実である。山梨には、フジテレビ系列のテレビ局は存在しない。だが、大抵の家では、フジテレビが映る。ケーブルテレビの配線が届いていれば、山梨には存在しないフジテレビもテレ朝も、テレビ東京だって、ちゃあんと観られるのだ。
だが、田舎な我が家には、その配線は届いていなかった。何度か交渉したが、この15年間、ケーブルテレビが振り向いてくれる気配すら感じなかった。
さて、ところが。先週、ようやく配線工事が終わったとの報告。長い長いフジテレビへの片思いも、成就の時を迎えたかに見える事件である。
しかし、時すでに遅し。フジテレビが観られないと嘆いていた子ども達も県外に出て行き、見たいドラマはオンデマンドで観られる時代へと移行している。
長い片思いで気持ちが冷めただけなら、いざ知らず、状況も大きく変化しているのだ。今は冷静に「どうしようかな」と、加入を逡巡している。逡巡できる幸せを、しばらく味わうのもよかろうと、15年の月日を、振り返っている。
不意に思い出したのは、子どもの頃に何かで読んだ童話の記憶だ。
悪事を働いた魔法使いが、ビンに閉じ込められ、海に流されてしまう。最初の百年は、助けてくれた人に、金貨をたんまり出してやろうと考えていた。だが、助けられることはなかった。次の百年は、どんな願いでも叶えてやろうと待っていた。だが、手は差し伸べられなかった。そして、次の百年目、ビンの蓋を開けた男がいた。
「次の百年、俺が何を考えて、ビンのなかにいたと思う?」
魔法使いをビンから出した男は、期待に胸を膨らませる。だが、返ってきたのは意外な言葉だった。
「殺してやろうと、決めていたのさ」
その後、男が殺されたのか、知恵を絞って助かったのかは、記憶にはない。
時と共に、気持ちは変わる。状況も変わっていく。
片思いが実った途端、すっと気持ちが冷めることだって、ままあるのだ。
山を見上げて、そのふもと、小さなことに一喜一憂している、
小さな小さな人間を、つまりは自分を思います。
我が家の前から見た、朝焼けに染まる、南アルプスは鳳凰三山。
『すべてがFになる』
その話をすると、末娘は、顔をしかめた。
「知ってるよ。観ないけど」ぶっきらぼうに、言う。
森博嗣の推理小説『すべてがFになる』(講談社文庫)ドラマ化の話である。
彼女は、高校時代から、この『すべてがFになる』から始まるシリーズのファンだったのだ。
主人公、犀川創平と西之園萌絵のイニシャルから名づけられたS&Mシリーズは10冊あり、その他にシリーズの関連人物が登場するVシリーズも10冊。Fで登場する天才、真賀田四季を主人公としたものが春夏秋冬、4冊ある。
そのすべてを読み、心酔していた。彼女の話のなかには、まるで友人の話でもするかのように「犀川先生がね」「萌絵がね」と、二人の名が登場するので、ついにわたしも、シリーズ1冊目『すべてはFになる』を読んだのだった。娘と同じ本を読み、その話をするのは楽しいものだ。
主人公達は、工学部建築学科の助教授と、その学生。理系な二人である。
萌絵が16歳の時、彼女の両親は死んだ。飛行機が着陸寸前に墜落し、空港で待っていた萌絵は、目の前で両親を亡くしたのだ。そのせいか彼女は人の死に鈍感になっていて、様々な殺人事件に首を突っ込み、理系的な発想を効かせ、推理を重ねるという設定。その萌絵の推理も、犀川にはかなわないのだが。
末娘が特に気に入っていて、何度も話してくれたエピソードがある。
萌絵の父親が大学教授だった頃、犀川は学生で、その授業をとっていた。
初めて西之園教授の授業を受けた時「予習をしてきたか?」と聞かれ、犀川が代表する形で「していない」と答えた。すると「じゃあ、来週までに1章の予習をしてくること」と言って、教授は教室から出て行った。次の週、予習をしていくと「わからないところはなかったか」と聞かれたが、誰も質問をしなかった。教授は「わかっているのなら、私にできることはもうない」と、教室を出て行った。犀川は、必死に予習をして、次の週、質問した。すると教授は、4週分の授業をかけて、犀川に質問に答え、4週目に学生達に向け「次の質問はないか」と言ったのだという。
「こんな先生が、いたらいいのになぁ」
文系に進んだが、数学が得意であり好きだった彼女は、うっとりと言ったものだった。そんな彼女にしたら、売れ線俳優起用のドラマ化に、いい顔できる訳がない。しかし、1冊しか読んでいないわたしは、ドラマ化の恩恵に預かり、S&Mシリーズを楽しんでいる。娘と同じ本を読むのは楽しいが、何しろ、森博嗣の本は分厚い。文庫のくせして、どうしてこんなに重いの? と文句を言われる作家の一人だろう。それで、手が出せなかったのだ。もう一人の分厚い文庫代表である京極夏彦も、娘はやはり読んでいて、わたしはそれを遠くから眺め、まあこっちはドラマ化しないでやってくださいと、ただ祈っている。
ドラマ仕様のカバーが、上に被せてありました。
主演の二人は、わたし的には、適役だと思います。
レゴブロックの装幀、シンプルでかっこいいですね。
読み直してみて、あらためて人物描写の面白さに、気づきました。
「知ってるよ。観ないけど」ぶっきらぼうに、言う。
森博嗣の推理小説『すべてがFになる』(講談社文庫)ドラマ化の話である。
彼女は、高校時代から、この『すべてがFになる』から始まるシリーズのファンだったのだ。
主人公、犀川創平と西之園萌絵のイニシャルから名づけられたS&Mシリーズは10冊あり、その他にシリーズの関連人物が登場するVシリーズも10冊。Fで登場する天才、真賀田四季を主人公としたものが春夏秋冬、4冊ある。
そのすべてを読み、心酔していた。彼女の話のなかには、まるで友人の話でもするかのように「犀川先生がね」「萌絵がね」と、二人の名が登場するので、ついにわたしも、シリーズ1冊目『すべてはFになる』を読んだのだった。娘と同じ本を読み、その話をするのは楽しいものだ。
主人公達は、工学部建築学科の助教授と、その学生。理系な二人である。
萌絵が16歳の時、彼女の両親は死んだ。飛行機が着陸寸前に墜落し、空港で待っていた萌絵は、目の前で両親を亡くしたのだ。そのせいか彼女は人の死に鈍感になっていて、様々な殺人事件に首を突っ込み、理系的な発想を効かせ、推理を重ねるという設定。その萌絵の推理も、犀川にはかなわないのだが。
末娘が特に気に入っていて、何度も話してくれたエピソードがある。
萌絵の父親が大学教授だった頃、犀川は学生で、その授業をとっていた。
初めて西之園教授の授業を受けた時「予習をしてきたか?」と聞かれ、犀川が代表する形で「していない」と答えた。すると「じゃあ、来週までに1章の予習をしてくること」と言って、教授は教室から出て行った。次の週、予習をしていくと「わからないところはなかったか」と聞かれたが、誰も質問をしなかった。教授は「わかっているのなら、私にできることはもうない」と、教室を出て行った。犀川は、必死に予習をして、次の週、質問した。すると教授は、4週分の授業をかけて、犀川に質問に答え、4週目に学生達に向け「次の質問はないか」と言ったのだという。
「こんな先生が、いたらいいのになぁ」
文系に進んだが、数学が得意であり好きだった彼女は、うっとりと言ったものだった。そんな彼女にしたら、売れ線俳優起用のドラマ化に、いい顔できる訳がない。しかし、1冊しか読んでいないわたしは、ドラマ化の恩恵に預かり、S&Mシリーズを楽しんでいる。娘と同じ本を読むのは楽しいが、何しろ、森博嗣の本は分厚い。文庫のくせして、どうしてこんなに重いの? と文句を言われる作家の一人だろう。それで、手が出せなかったのだ。もう一人の分厚い文庫代表である京極夏彦も、娘はやはり読んでいて、わたしはそれを遠くから眺め、まあこっちはドラマ化しないでやってくださいと、ただ祈っている。
ドラマ仕様のカバーが、上に被せてありました。
主演の二人は、わたし的には、適役だと思います。
レゴブロックの装幀、シンプルでかっこいいですね。
読み直してみて、あらためて人物描写の面白さに、気づきました。
むかごに感じる生命力
町の野菜直販所で、むかごを売っていた。
「なかなか、出てこないんですよ」
直販所のお兄さんが、ここで売るのも、珍しいのだと言う。
林のなかで蔓にくっついているむかごが、ひとつふたつ生っているのを見かけることはあるが、それだけでは料理もできない。袋入りを一つ買った。
POPには「塩茹で、ニンニクバター炒めなどで」とかいてある。
「ニンニクバター炒めにしようかな。茹でてから炒めるんですかねぇ?」
聞いてみるが、お兄さんも首を傾げるだけ。とにかく、やってみようと、楽しみに帰ってきた。
夕食の一品にと、洗ってそのまま、薄切りニンニクとバターを火にかけ、弱火で10分ほど炒めた。味見をすると、ほくほくとした味わいになっている。塩胡椒をすれば、ワインにもぴったり。のんびりとした晩酌になった。
ヤマイモ種の肉芽であり、地中ではなく葉と共に蔓に生るむかごは、そのまま種にもなり、山芋を収穫することもできるらしい。そこから生命が育つモノは大抵そうだが、栄養価も高く、高血圧などに効果があるそうだ。皮ごと食べるから、繊維もたくさん摂れる。
何より、ホクホクとした味わいのなかにワイルドさを感じるところが好きだ。植物の持つ生命力を分けてもらっている気がする。
そんな野性味あふれるむかごを味わいながら、いつも様々な野菜達に、生命力を分けてもらっているのだなぁと、再認識した。
ころころしてて、可愛いところも、魅力的!
直販所のPOPで、美味しいとかかれていたニンニクバター炒め。
翌日は、むかごご飯にしました。炊ける時の匂いが香ばしかったぁ。
「なかなか、出てこないんですよ」
直販所のお兄さんが、ここで売るのも、珍しいのだと言う。
林のなかで蔓にくっついているむかごが、ひとつふたつ生っているのを見かけることはあるが、それだけでは料理もできない。袋入りを一つ買った。
POPには「塩茹で、ニンニクバター炒めなどで」とかいてある。
「ニンニクバター炒めにしようかな。茹でてから炒めるんですかねぇ?」
聞いてみるが、お兄さんも首を傾げるだけ。とにかく、やってみようと、楽しみに帰ってきた。
夕食の一品にと、洗ってそのまま、薄切りニンニクとバターを火にかけ、弱火で10分ほど炒めた。味見をすると、ほくほくとした味わいになっている。塩胡椒をすれば、ワインにもぴったり。のんびりとした晩酌になった。
ヤマイモ種の肉芽であり、地中ではなく葉と共に蔓に生るむかごは、そのまま種にもなり、山芋を収穫することもできるらしい。そこから生命が育つモノは大抵そうだが、栄養価も高く、高血圧などに効果があるそうだ。皮ごと食べるから、繊維もたくさん摂れる。
何より、ホクホクとした味わいのなかにワイルドさを感じるところが好きだ。植物の持つ生命力を分けてもらっている気がする。
そんな野性味あふれるむかごを味わいながら、いつも様々な野菜達に、生命力を分けてもらっているのだなぁと、再認識した。
ころころしてて、可愛いところも、魅力的!
直販所のPOPで、美味しいとかかれていたニンニクバター炒め。
翌日は、むかごご飯にしました。炊ける時の匂いが香ばしかったぁ。
電気ストーブの罠
洗面所の暖房は、電気ストーブを使っている。
カーボンヒーターのスリムタイプと呼ばれる細長く背の高いもので、すぐに熱を発光してくれるので、使う時だけつけるようにし、省エネにもなる。風呂に入る前につけておけば、上がった時に暖かく、重宝している。
その電気ストーブを使うに当たり、今年は失敗を重ねた。
一度目。やはり風呂に入る前に、つけておこうとしたのだが、裸で上がると、洗面所は冷たいままだった。コンセントを差し込んだはいいけれど、スイッチを入れ忘れた。わたし的には、これはよくある失敗だ。一つ(コンセントを差し込む)を済ませた安心感から、次の手順(スイッチ)を忘れたのだ。
銀行の窓口で、通帳をカバーから外した安心感から、通帳ではなくカバーを渡してしまい、バツの悪い思いをしたことを思いだす。
二度目。今度こそと思っているので、もちろん、コンセントを差し込み、スイッチをオンにした。浮き浮きと風呂から上がると、しかし、電気ストーブは、冷たくしんとしていた。壊れたのか? 否。差し込んだコンセントを見ると、それは夫が使うドライヤーのコンセントだった。
冷蔵庫を開け、マヨネーズを出したとばかり思っていたら、食卓で手にしていたのはケチャップだった時の悲しさと似ている。
そして、三度目の正直で、ようやく電気ストーブのついた洗面所に風呂から上がることができたのだった。生きていると、様々なところにトラップは仕掛けてあるものなのだ。全くもって、信用ならない。電気ストーブが? 否。もちろん、自分が、である。被告、電気ストーブも言っている。
「罠など仕掛けていませんし、仕掛けようという気さえありませんでした」
「その点、薪ストーブは、いいなぁ」
薪を入れて、火をつける。そこにはコンセントもプラグもスイッチもない。いたってシンプルだ。
しかし、その作業は電気ストーブの数十倍もの労力を必要とする。薪を運ぶのもそうだが、機嫌が悪いとなかなか燃え始めてくれず、火を入れてから3時間は部屋も全く温まらない。常にご機嫌伺いをし、薪を入れ足さないと消えてしまう。そういう自己主張の強いたいへんさに、わたしさえもが忘れずに使える所以があるのかも知れない。
まあ、どちらにしても自分を過信せず(過信する要素は何処にもないのだが)、気をつけて使わせてもらい、暖かい冬をすごしたいと思っている。
機嫌がいい時の薪ストーブ。がんがん燃えています。上で回っているのは、
ストーブの熱で回るタイプの温風機。その熱を部屋に送ってくれています。
カーボンヒーターのスリムタイプと呼ばれる細長く背の高いもので、すぐに熱を発光してくれるので、使う時だけつけるようにし、省エネにもなる。風呂に入る前につけておけば、上がった時に暖かく、重宝している。
その電気ストーブを使うに当たり、今年は失敗を重ねた。
一度目。やはり風呂に入る前に、つけておこうとしたのだが、裸で上がると、洗面所は冷たいままだった。コンセントを差し込んだはいいけれど、スイッチを入れ忘れた。わたし的には、これはよくある失敗だ。一つ(コンセントを差し込む)を済ませた安心感から、次の手順(スイッチ)を忘れたのだ。
銀行の窓口で、通帳をカバーから外した安心感から、通帳ではなくカバーを渡してしまい、バツの悪い思いをしたことを思いだす。
二度目。今度こそと思っているので、もちろん、コンセントを差し込み、スイッチをオンにした。浮き浮きと風呂から上がると、しかし、電気ストーブは、冷たくしんとしていた。壊れたのか? 否。差し込んだコンセントを見ると、それは夫が使うドライヤーのコンセントだった。
冷蔵庫を開け、マヨネーズを出したとばかり思っていたら、食卓で手にしていたのはケチャップだった時の悲しさと似ている。
そして、三度目の正直で、ようやく電気ストーブのついた洗面所に風呂から上がることができたのだった。生きていると、様々なところにトラップは仕掛けてあるものなのだ。全くもって、信用ならない。電気ストーブが? 否。もちろん、自分が、である。被告、電気ストーブも言っている。
「罠など仕掛けていませんし、仕掛けようという気さえありませんでした」
「その点、薪ストーブは、いいなぁ」
薪を入れて、火をつける。そこにはコンセントもプラグもスイッチもない。いたってシンプルだ。
しかし、その作業は電気ストーブの数十倍もの労力を必要とする。薪を運ぶのもそうだが、機嫌が悪いとなかなか燃え始めてくれず、火を入れてから3時間は部屋も全く温まらない。常にご機嫌伺いをし、薪を入れ足さないと消えてしまう。そういう自己主張の強いたいへんさに、わたしさえもが忘れずに使える所以があるのかも知れない。
まあ、どちらにしても自分を過信せず(過信する要素は何処にもないのだが)、気をつけて使わせてもらい、暖かい冬をすごしたいと思っている。
機嫌がいい時の薪ストーブ。がんがん燃えています。上で回っているのは、
ストーブの熱で回るタイプの温風機。その熱を部屋に送ってくれています。
『イニシエーション・ラブ』
乾くるみの恋愛小説『イニシエーション・ラブ』(文春文庫)を、読んだ。
「最後の2行は、決して先に読まないでください」という注意書きに、まず注目。恋愛小説だが、ミステリーだという意見もあるとも聞き、どちらとも好きなわたしには、ずっと気になる存在だった。10年前に刊行された小説だが、ここまで読まずにきたのは、多分表紙の「若者の恋」色の強さからだと思う。
読み始めてみれば、時代設定は1986~7年。章のタイトルも、その頃の流行歌「木綿のハンカチーフ」「ルビーの指輪」などで構成され、それを集めたA面とB面とに分かれていてレコードの時代を懐かしく思い出させてくれた。
合コンで知り合った大学生、鈴木夕樹と歯科衛生士、成岡繭子。二人は、ごく自然に恋に落ちていく。A面は、本当に普通のラブストーリーを楽しめた。
だがB面、遠距離恋愛の二人に、胸を傷めることも多かった。わたし的には、これは恋愛小説だと言いたいが、ラスト2行に仕掛けられた罠には最後まで気づけなかった。ミステリーだと言われれば、否定はできない。その仕掛けは、読んで知るべきものなのでかかないが、テーマは、大人になる過程での恋。
以下本文、鈴木に恋した美弥子のセリフから。
「そう。子供から大人になるための儀式。私たちの恋愛なんてそんなもんだよって、彼は別れ際に私にそう言ったの。初めての恋愛を経験したときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間には、この世界には、絶対なんてことはないんだよって、いつかわかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな。それをわからせてくれる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの」
うーん。大人になるのって、難しいなぁ。
いただいたスノーマンクッキーと紅茶で、読書タイム。
でも、コージーミステリーだと高をくくっていると、やられます。
けっこうヘビーで、お酒飲みたくなるストーリーです。
「最後の2行は、決して先に読まないでください」という注意書きに、まず注目。恋愛小説だが、ミステリーだという意見もあるとも聞き、どちらとも好きなわたしには、ずっと気になる存在だった。10年前に刊行された小説だが、ここまで読まずにきたのは、多分表紙の「若者の恋」色の強さからだと思う。
読み始めてみれば、時代設定は1986~7年。章のタイトルも、その頃の流行歌「木綿のハンカチーフ」「ルビーの指輪」などで構成され、それを集めたA面とB面とに分かれていてレコードの時代を懐かしく思い出させてくれた。
合コンで知り合った大学生、鈴木夕樹と歯科衛生士、成岡繭子。二人は、ごく自然に恋に落ちていく。A面は、本当に普通のラブストーリーを楽しめた。
だがB面、遠距離恋愛の二人に、胸を傷めることも多かった。わたし的には、これは恋愛小説だと言いたいが、ラスト2行に仕掛けられた罠には最後まで気づけなかった。ミステリーだと言われれば、否定はできない。その仕掛けは、読んで知るべきものなのでかかないが、テーマは、大人になる過程での恋。
以下本文、鈴木に恋した美弥子のセリフから。
「そう。子供から大人になるための儀式。私たちの恋愛なんてそんなもんだよって、彼は別れ際に私にそう言ったの。初めての恋愛を経験したときには誰でも、この愛は絶対だって思い込む。絶対って言葉を使っちゃう。でも人間には、この世界には、絶対なんてことはないんだよって、いつかわかるときがくる。それがわかるようになって初めて大人になるっていうのかな。それをわからせてくれる恋愛のことを、彼はイニシエーションって言葉で表現してたの」
うーん。大人になるのって、難しいなぁ。
いただいたスノーマンクッキーと紅茶で、読書タイム。
でも、コージーミステリーだと高をくくっていると、やられます。
けっこうヘビーで、お酒飲みたくなるストーリーです。
わたし達のご飯でできている
友人宅で、忘年会をした。気心知れた女子5人、わいわいと飲んだ。
その何度かおじゃましたこともある素敵な家に住む友人は、気づかいの人。料理にもその性格がありありと見てとれて、一同感心した。
「すごーい!」「たいへんだったんじゃない?」
食べる前から、美味しさを感じるような盛りつけ術。それも少しずつ、いく種類もの料理を丁寧に並べてある。
また、ニンニクや香辛料の効いた豚のリエットを作って来てくれた友人もあり、作ったことのない料理に舌鼓を打ち、みな、うなずく。
「うわ、美味しい!」「ワインにぴったり!」「みんな、料理上手だねぇ」
すると、ひとりの友人が言った。
「そりゃあ、料理上手だよ。みんな、お母さんなんだもん。子ども達は、わたし達が作った料理で、大きくなったんだから。わたし達のご飯で、できてるみたいなもんじゃない」
「ほんとだ!」「その通りだねぇ」
「年を忘れる」とかく忘年会だが、今は別々に暮らす子ども達と、毎日一緒にご飯を食べたことを、しみじみと思い出した。幼い息子と一緒に味噌汁の出汁用にと煮干しの頭とハラをとったこと。ダイエットすると言う中学生の上の娘のために毎日オニオンスライスを刻んだこと。末娘が大好きで二人の夜によく食べた水菜のハリハリ鍋。大鍋に作ってそれぞれ好きなだけよそった親子丼。
もし、そんな風にわたしが作ったご飯で、子ども達ができているとしたら、これから先、様々なことがあるだろうけれど、なんとか生きていってくれるだろうと、根拠なく思えたのだった。
芸が細かい! 写真を撮った後、煮魚に針生姜をのせてくれました。
海鮮アボカドサラダ。中華とバジルのドレッシングが、
手作りで用意してあって、たくさんいただきました。
ジャンボロールキャベツを切り分けてくれました。チーズブロッコリーは、
別のお鍋で作ってあって、そんなひとつひとつに温かみを感じました。
その何度かおじゃましたこともある素敵な家に住む友人は、気づかいの人。料理にもその性格がありありと見てとれて、一同感心した。
「すごーい!」「たいへんだったんじゃない?」
食べる前から、美味しさを感じるような盛りつけ術。それも少しずつ、いく種類もの料理を丁寧に並べてある。
また、ニンニクや香辛料の効いた豚のリエットを作って来てくれた友人もあり、作ったことのない料理に舌鼓を打ち、みな、うなずく。
「うわ、美味しい!」「ワインにぴったり!」「みんな、料理上手だねぇ」
すると、ひとりの友人が言った。
「そりゃあ、料理上手だよ。みんな、お母さんなんだもん。子ども達は、わたし達が作った料理で、大きくなったんだから。わたし達のご飯で、できてるみたいなもんじゃない」
「ほんとだ!」「その通りだねぇ」
「年を忘れる」とかく忘年会だが、今は別々に暮らす子ども達と、毎日一緒にご飯を食べたことを、しみじみと思い出した。幼い息子と一緒に味噌汁の出汁用にと煮干しの頭とハラをとったこと。ダイエットすると言う中学生の上の娘のために毎日オニオンスライスを刻んだこと。末娘が大好きで二人の夜によく食べた水菜のハリハリ鍋。大鍋に作ってそれぞれ好きなだけよそった親子丼。
もし、そんな風にわたしが作ったご飯で、子ども達ができているとしたら、これから先、様々なことがあるだろうけれど、なんとか生きていってくれるだろうと、根拠なく思えたのだった。
芸が細かい! 写真を撮った後、煮魚に針生姜をのせてくれました。
海鮮アボカドサラダ。中華とバジルのドレッシングが、
手作りで用意してあって、たくさんいただきました。
ジャンボロールキャベツを切り分けてくれました。チーズブロッコリーは、
別のお鍋で作ってあって、そんなひとつひとつに温かみを感じました。
光揺らす枯れ葉
朝、カーテンを開けようとすると、いつもと違う光の揺れ方に気づいた。光が瞬きでもしているかのように、揺れている。
「何だろう?」
カーテンを開けてみると、蜘蛛の巣に、枯れ葉が一枚、捉われていた。それが、風に揺れながら朝陽を浴びて、キラキラと光の瞬きを作っていたのだ。
その蜘蛛は、もう長くそこに巣を張っていて、物干し竿のすぐ上なのだが、何度か払ってもまた朝には、元に戻っているという性根の座った奴で、こちらもさっさとあきらめ、共生していたのだ。
「よかったな。ムリに退治しなくて」
こんな光の瞬きをプレゼントしてくれるなんて、思いもよらなかった。
蜘蛛当人にしてみれば、枯れ葉は無用な客人かも知れないが、冷たい冬の朝、見過ごしがちな微かなきらめきを、蜘蛛と枯れ葉は気づかせてくれたのだ。
朝の蜘蛛は、縁起がいいというのも、まんざら迷信ではないかも知れない。
何かなぁと思う気持ちと、キラキラ眩しい瞬きを、
何処からか飛んできた枯れ葉くん、ありがとう。
冬の暖かな陽射しに輝いて。でも、蜘蛛くん、ちょっと迷惑顔?
空に向かって撮ると、影絵のようです。空中に浮く、蜘蛛と枯れ葉。
今にも空へ、飛んでいきそう。枯れ葉と蜘蛛の旅の物語、始まり~。
「何だろう?」
カーテンを開けてみると、蜘蛛の巣に、枯れ葉が一枚、捉われていた。それが、風に揺れながら朝陽を浴びて、キラキラと光の瞬きを作っていたのだ。
その蜘蛛は、もう長くそこに巣を張っていて、物干し竿のすぐ上なのだが、何度か払ってもまた朝には、元に戻っているという性根の座った奴で、こちらもさっさとあきらめ、共生していたのだ。
「よかったな。ムリに退治しなくて」
こんな光の瞬きをプレゼントしてくれるなんて、思いもよらなかった。
蜘蛛当人にしてみれば、枯れ葉は無用な客人かも知れないが、冷たい冬の朝、見過ごしがちな微かなきらめきを、蜘蛛と枯れ葉は気づかせてくれたのだ。
朝の蜘蛛は、縁起がいいというのも、まんざら迷信ではないかも知れない。
何かなぁと思う気持ちと、キラキラ眩しい瞬きを、
何処からか飛んできた枯れ葉くん、ありがとう。
冬の暖かな陽射しに輝いて。でも、蜘蛛くん、ちょっと迷惑顔?
空に向かって撮ると、影絵のようです。空中に浮く、蜘蛛と枯れ葉。
今にも空へ、飛んでいきそう。枯れ葉と蜘蛛の旅の物語、始まり~。
田舎のはりねずみ?
週末、芝居を観たり、友人達と忘年会をしたりと、東京で遊んできた。
「都会は、いいよなぁ」
たまに遊びに行くと、夜のネオンが呼んでいるぜ、なんてウキウキしてしまう。何がいいかって、帰りの運転を気にせず飲めるところがいい。
そんなことで週末は思いっきり遊び、昨日は思いっきり仕事をした。
そして夕方、一段落したところで、郵便局に会社の税金納付に行った。
郵便局では、プリント済みの年賀状も売り切れマークが多くなり、年の瀬を実感する。ふと、見るともなしに切手コーナーを見ると、ぐりとぐらの切手があり、思わず購入した。
「これ、人気で。都会じゃあ、もう売り切れみたいですよ」
郵便局長さんが、ちょっと自慢げに言う。
「ですよねぇ。あって、びっくりしました」と、わたし。
ネットで発売を知り、欲しいなぁと思っていたにもかかわらず、買いに行くのをすっかり忘れ、すでにあきらめていたのだ。
「田舎ならでは、ですね」と、局長さん。
「ほんとですね。得しちゃった感じです」と、わたし。
図書館でも、都会では何十人待ちだという新刊が、本棚に並んでいて、ラッキー! と思うことも多い。まさに、田舎ならでは。
「田舎は、いいよなぁ」帰りの車で、八ヶ岳を眺めつつ思う。
そして、夜のネオンと生ビールののどごしを思い「都会もまた、いいんだよなぁ」と思うのだった。
カステラの絵もいいけど、苺も素敵。使うのもったいないなぁ。
昨日の八ヶ岳です。ますます白くなり、美しくなっていきます。
庭の南天も、八ヶ岳に負けず、ますます実を赤くしていきます。
葉を落としたもみじから、隠していたかのように鳥の巣が出てきました。
もう使い終わったのかな? ビニールの紐も何処からか拾ってきたようです。
写真を撮っている最中も、キツツキが木をつつく音が響いていました。
「都会は、いいよなぁ」
たまに遊びに行くと、夜のネオンが呼んでいるぜ、なんてウキウキしてしまう。何がいいかって、帰りの運転を気にせず飲めるところがいい。
そんなことで週末は思いっきり遊び、昨日は思いっきり仕事をした。
そして夕方、一段落したところで、郵便局に会社の税金納付に行った。
郵便局では、プリント済みの年賀状も売り切れマークが多くなり、年の瀬を実感する。ふと、見るともなしに切手コーナーを見ると、ぐりとぐらの切手があり、思わず購入した。
「これ、人気で。都会じゃあ、もう売り切れみたいですよ」
郵便局長さんが、ちょっと自慢げに言う。
「ですよねぇ。あって、びっくりしました」と、わたし。
ネットで発売を知り、欲しいなぁと思っていたにもかかわらず、買いに行くのをすっかり忘れ、すでにあきらめていたのだ。
「田舎ならでは、ですね」と、局長さん。
「ほんとですね。得しちゃった感じです」と、わたし。
図書館でも、都会では何十人待ちだという新刊が、本棚に並んでいて、ラッキー! と思うことも多い。まさに、田舎ならでは。
「田舎は、いいよなぁ」帰りの車で、八ヶ岳を眺めつつ思う。
そして、夜のネオンと生ビールののどごしを思い「都会もまた、いいんだよなぁ」と思うのだった。
カステラの絵もいいけど、苺も素敵。使うのもったいないなぁ。
昨日の八ヶ岳です。ますます白くなり、美しくなっていきます。
庭の南天も、八ヶ岳に負けず、ますます実を赤くしていきます。
葉を落としたもみじから、隠していたかのように鳥の巣が出てきました。
もう使い終わったのかな? ビニールの紐も何処からか拾ってきたようです。
写真を撮っている最中も、キツツキが木をつつく音が響いていました。
おでんの卵の食べ方
銀座で、友人達と忘年会をした。
19の頃にバイトしていた喫茶店のバイト仲間と常連のお客さんという、異例とも思われるメンバーだが、ここ数年、毎年恒例になっている。若い頃からのつきあいでもあり、毎年会っていると、会った途端に話が弾む。家族構成やら、仕事やら、大抵判りあっているということもあり、気楽な女子会だ。
洒落たコリアン料理の店で、それぞれ最近のことなどを話し、飲み放題で盛り上がり、2次会に有楽町と新橋の間にある高架下の、入口にアジの干物が干してある店に入った。
何故だかそこで、おでんの話になった。
「昔さぁ、さえちゃんちで、おでん食べたよねぇ」
「食べた! 食べた!」「うん。食べたねぇ。いっぱい煮たの覚えてる」
あれはまだ、末娘が生まれる前だから、20年ほど前のことだ。
「その時にさぁ」と友人。
「ご主人に、おでんの卵の食べ方、伝授してもらったんだよね」
「ああ、あれ? ご飯にかけるやつ?」と、わたし。
夫は、おでんの最後の楽しみとして、必ず卵を食べずにおいておく。そして、器に卵のみをとり、半分に割って黄身を溶かし、白身を細かく箸で割り、汁をたっぷりとよそってご飯にかけて食べるのだ。
「わたし、今でも、あれ、やってるんだ。家族も一緒に」と、友人。
「へぇ、なんか、嬉しいねぇ」と、わたし。
すると、別の友人が「わたし、卵2個食べて、ご主人に叱られた!」
「あったねぇ! そんなこと。彼は卵に思い入れが強いから」爆笑である。
夫は今でも、もちろんそうやって、おでんの卵をご飯にかけ、食べている。
みんな大人になり、変わったことも多いけれど、変わらないこともたくさんある。おでんの卵の食べ方も、その一つだと思うと、そしてまた、友人が友人宅で我が家の食べ方をしていると思うと、嬉しくなった。
多分、来年も、こうして集まるんだろうな。変わらない友人達と、変わらないおでんの卵の食べ方に、乾杯!
コリアン料理、お洒落だったのに、撮れていた写真は1枚だけ。
2次会に入った店では、七輪でエイヒレを焼きました。
静岡名物抹茶コーラなるものがあり、友人が挑戦。普通にコーラの味だとか。
生牡蠣、今年初めて食べました。一度ジンマシンが出てからやめていたけど、
のど元過ぎれば熱さ忘れて、えいや!と食べました。美味しかった!
そして、ジンマシンもでなくて、よかったぁ。
店内には、巨大なテトラポットが2つ、飾ってありました。
19の頃にバイトしていた喫茶店のバイト仲間と常連のお客さんという、異例とも思われるメンバーだが、ここ数年、毎年恒例になっている。若い頃からのつきあいでもあり、毎年会っていると、会った途端に話が弾む。家族構成やら、仕事やら、大抵判りあっているということもあり、気楽な女子会だ。
洒落たコリアン料理の店で、それぞれ最近のことなどを話し、飲み放題で盛り上がり、2次会に有楽町と新橋の間にある高架下の、入口にアジの干物が干してある店に入った。
何故だかそこで、おでんの話になった。
「昔さぁ、さえちゃんちで、おでん食べたよねぇ」
「食べた! 食べた!」「うん。食べたねぇ。いっぱい煮たの覚えてる」
あれはまだ、末娘が生まれる前だから、20年ほど前のことだ。
「その時にさぁ」と友人。
「ご主人に、おでんの卵の食べ方、伝授してもらったんだよね」
「ああ、あれ? ご飯にかけるやつ?」と、わたし。
夫は、おでんの最後の楽しみとして、必ず卵を食べずにおいておく。そして、器に卵のみをとり、半分に割って黄身を溶かし、白身を細かく箸で割り、汁をたっぷりとよそってご飯にかけて食べるのだ。
「わたし、今でも、あれ、やってるんだ。家族も一緒に」と、友人。
「へぇ、なんか、嬉しいねぇ」と、わたし。
すると、別の友人が「わたし、卵2個食べて、ご主人に叱られた!」
「あったねぇ! そんなこと。彼は卵に思い入れが強いから」爆笑である。
夫は今でも、もちろんそうやって、おでんの卵をご飯にかけ、食べている。
みんな大人になり、変わったことも多いけれど、変わらないこともたくさんある。おでんの卵の食べ方も、その一つだと思うと、そしてまた、友人が友人宅で我が家の食べ方をしていると思うと、嬉しくなった。
多分、来年も、こうして集まるんだろうな。変わらない友人達と、変わらないおでんの卵の食べ方に、乾杯!
コリアン料理、お洒落だったのに、撮れていた写真は1枚だけ。
2次会に入った店では、七輪でエイヒレを焼きました。
静岡名物抹茶コーラなるものがあり、友人が挑戦。普通にコーラの味だとか。
生牡蠣、今年初めて食べました。一度ジンマシンが出てからやめていたけど、
のど元過ぎれば熱さ忘れて、えいや!と食べました。美味しかった!
そして、ジンマシンもでなくて、よかったぁ。
店内には、巨大なテトラポットが2つ、飾ってありました。
『水』
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間に誘われて、芝居を観に行った。前回と同じく『アマヤドリ』という劇団のもので、タイトルは『水』
ヒソップとシトロネラは、恋に落ちた。だが、すぐにシトロネラの奇病が発覚する。水を飲むと、身体じゅうが湖になり、溺れ死んでしまうという不思議な病だ。1日に口にしていい水は、スプーン2杯だけ。二人は、そんな闘病生活に疲弊していく。
シトロネラは、子どもの頃、湖で溺れかけたことがあり、水面を見上げる記憶を胸に持っていた。そして一緒にいた母親は、自分が娘に何もできず、ただ震えていたことを悔み続け、ひきこもる生活を送っている。
今、そして過去。身体のなかの湖、そして、見上げる水面。流れてしまった水は、決してもとには戻らない。
悲恋のストーリーは、まるで水の中で二人を祝福しているかのような、ゆったりとした踊りを交え、美しく幕を閉じた。
帰り。駅の喧騒を歩きつつ、早足に通り過ぎる人の波を、見るともなく見ていたら、感覚にずれが生じた。彼らも自分も、スローモーションで水の中を歩いているかのように思えてきたのだ。ひとりひとりの顔をそっと見てみる。無表情な若者。笑いながらしゃべり続ける少女達。疲れた顔の中年男性。幼子の手を引く母親。寄り添うお年寄りのカップル。
その誰もが、流れてしまった水を、もう戻らない過去を抱えている。
いい意味であれ、悪い意味であれ、その過去に影響されながら、みな生きていくのだなと思った。
水の流れのなかで、ひとり立ち止まる。
過去は、今や、これからのためにあるのだと、水面を見上げた。
西武池袋線の椎名町駅から徒歩8分。小さな劇場です。
椎名町は、手塚治虫が住んでいた『ときわ壮』があった町なんですね。
台本とチケット。雨天決行というフレーズには、こだわりがあるようです。
『アマヤドリ』という劇団名に、かけているのかな。
登場人物が、すべてハーブや植物の名前になっていて、お洒落です。
水がなければ枯れてしまうものに、したかったのかも知れません。
人も動物も、水がなければ生きていくことはできませんが。
ヒソップとシトロネラは、恋に落ちた。だが、すぐにシトロネラの奇病が発覚する。水を飲むと、身体じゅうが湖になり、溺れ死んでしまうという不思議な病だ。1日に口にしていい水は、スプーン2杯だけ。二人は、そんな闘病生活に疲弊していく。
シトロネラは、子どもの頃、湖で溺れかけたことがあり、水面を見上げる記憶を胸に持っていた。そして一緒にいた母親は、自分が娘に何もできず、ただ震えていたことを悔み続け、ひきこもる生活を送っている。
今、そして過去。身体のなかの湖、そして、見上げる水面。流れてしまった水は、決してもとには戻らない。
悲恋のストーリーは、まるで水の中で二人を祝福しているかのような、ゆったりとした踊りを交え、美しく幕を閉じた。
帰り。駅の喧騒を歩きつつ、早足に通り過ぎる人の波を、見るともなく見ていたら、感覚にずれが生じた。彼らも自分も、スローモーションで水の中を歩いているかのように思えてきたのだ。ひとりひとりの顔をそっと見てみる。無表情な若者。笑いながらしゃべり続ける少女達。疲れた顔の中年男性。幼子の手を引く母親。寄り添うお年寄りのカップル。
その誰もが、流れてしまった水を、もう戻らない過去を抱えている。
いい意味であれ、悪い意味であれ、その過去に影響されながら、みな生きていくのだなと思った。
水の流れのなかで、ひとり立ち止まる。
過去は、今や、これからのためにあるのだと、水面を見上げた。
西武池袋線の椎名町駅から徒歩8分。小さな劇場です。
椎名町は、手塚治虫が住んでいた『ときわ壮』があった町なんですね。
台本とチケット。雨天決行というフレーズには、こだわりがあるようです。
『アマヤドリ』という劇団名に、かけているのかな。
登場人物が、すべてハーブや植物の名前になっていて、お洒落です。
水がなければ枯れてしまうものに、したかったのかも知れません。
人も動物も、水がなければ生きていくことはできませんが。
春雨じゃ、スープで温まろう
最近のひとりご飯で、マイブームは、春雨スープだ。
生姜と白菜必須で、あとは、冷蔵庫にあるもの。きのこ類や青菜、鶏肉などがあれば、なおいい。味つけは、鶏がらスープのみ。生姜を薄切りにして、たっぷり入れるので、辛みも味わえ、温まる。
なかなか効果が表れないダイエットにも、期待できそうだ。
ハマったのは、立川に出る度に寄る、駅ナカのワンタン屋さんで春雨ワンタンを頼むようになってからだ。ワンタン麺にすると、ボリュームがあり過ぎて、食べきるのに苦労する。春雨なら、するりと食べられ、値段も安い。辛いもの好きのなかにも、これは辛すぎる! と言う人がいるであろう辛ーい『四川タンタン風』に、まずハマり、春雨のコシの強さにまた、ハマったのだった。
ところで、今年も流行語大賞が決まったらしいが、後世にまで残る名セリフとは言い難いというのが正直な感想だ。春雨といえば、歌舞伎でも有名な月形半平太のセリフ「春雨じゃ、濡れていこう」を思い出す。
春の雨のなか、傘を持っているにもかかわらず、あえて濡れていこうと言う。一瞬「えっ、何故に?」「わざわざ?」と思わせ、小さな驚きを演出し「雨のなか、濡れて歩くのもまたよし」「かっこいいかも」と再考させる。ここに粋と思わせるポイントがあるように思う。
だが、粋なだけの言葉かと思いきや、じつは春風に吹かれる霧雨は、傘をさしても濡れ方は、たいして変わらないからだという説もあるらしい。粋であり、また現実的でもあるという訳だ。
時代を超えて残る言葉というのは、何かしらポイントがあるようだ。
さて。春雨じゃ、スープで温まろう。
まあ全く、粋ではないけれど、この季節、現実的な欲求まっしぐらだ。
さっと茹でただけ。コシが強く残っている方が、美味しいです。
大きな薄切り生姜を、がりがりかじるの、大好き。
生姜と白菜必須で、あとは、冷蔵庫にあるもの。きのこ類や青菜、鶏肉などがあれば、なおいい。味つけは、鶏がらスープのみ。生姜を薄切りにして、たっぷり入れるので、辛みも味わえ、温まる。
なかなか効果が表れないダイエットにも、期待できそうだ。
ハマったのは、立川に出る度に寄る、駅ナカのワンタン屋さんで春雨ワンタンを頼むようになってからだ。ワンタン麺にすると、ボリュームがあり過ぎて、食べきるのに苦労する。春雨なら、するりと食べられ、値段も安い。辛いもの好きのなかにも、これは辛すぎる! と言う人がいるであろう辛ーい『四川タンタン風』に、まずハマり、春雨のコシの強さにまた、ハマったのだった。
ところで、今年も流行語大賞が決まったらしいが、後世にまで残る名セリフとは言い難いというのが正直な感想だ。春雨といえば、歌舞伎でも有名な月形半平太のセリフ「春雨じゃ、濡れていこう」を思い出す。
春の雨のなか、傘を持っているにもかかわらず、あえて濡れていこうと言う。一瞬「えっ、何故に?」「わざわざ?」と思わせ、小さな驚きを演出し「雨のなか、濡れて歩くのもまたよし」「かっこいいかも」と再考させる。ここに粋と思わせるポイントがあるように思う。
だが、粋なだけの言葉かと思いきや、じつは春風に吹かれる霧雨は、傘をさしても濡れ方は、たいして変わらないからだという説もあるらしい。粋であり、また現実的でもあるという訳だ。
時代を超えて残る言葉というのは、何かしらポイントがあるようだ。
さて。春雨じゃ、スープで温まろう。
まあ全く、粋ではないけれど、この季節、現実的な欲求まっしぐらだ。
さっと茹でただけ。コシが強く残っている方が、美味しいです。
大きな薄切り生姜を、がりがりかじるの、大好き。
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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