はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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パソコンに映った空

田んぼに水が入り、お田植えする姿を見かける季節。
この季節に限り見られるものがある。それは、車のサイドミラーに映った空だ。坂道が多く棚田広がる明野町では、曲がりくねった上り坂で、ふと覗いたサイドミラーに、5月の空がすこんと抜けて広がっていたり、雲がのんびり流れていたりするのだ。そんな風景にも、ずいぶんと慣れ、驚かなくなった。

それが昨日、対面式キッチンで洗い物をしていて、こんな場所にも? と、思わず微笑んでしまうようなところに、空を見つけた。
居間のテーブルの上に開いたまま置いてあるノートパソコンの画面に、空が映り、雲が流れていたのである。

パソコンのなかの空は青く、白い雲がどんどん表情を変え、すーっと移動していく。地上何千メートルにいるのだか判らないが、きっとずいぶん速く進んでいるのだろうな、などと手を動かしつつ考えていた。そのとき不意に雲が表情を変え、こちらを見たような気がした。それは鏡越しに誰かと眼があったときの感覚と似ていた。鏡越しに相手が見えるということは、その相手にも自分が見えるということなのだと、子どもの頃に知り不思議に感じたのを思い出す。
あの雲にも、パソコンに映るキッチンに立ったわたしのことが見えていたのだろうか。もし見えていたとしたら、どんなふうに見えていたのだろうか。

映っているのは、北側の窓から見える空。置き方が絶妙だったかも。

定点観測している八ヶ岳スポットも、空が青く、白い雲が綺麗でした。
昨日は強風で、水田は波打ち濁り、残念ながら何も映ってはいませんが。

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迷路のなかへ

ストーリー性を感じる夢を、よく見る。例えば、先週見た夢。

廃墟の高層ビル。最上階の窓には、ガラスもない。打ちっぱなしのコンクリ。そこに監禁された少年。その周辺には彼を見張っている人々。そこには、悪意はないが、夢は、悪意のある人々の場所へと移動する。彼らは笑っている。誰かを監禁し続けられる立場にいることに、心から喜びを感じている。百年ぶっ続けで笑っていても、物足りないくらいの大きな喜びだ。だが、その笑いのなかには、悪意によって生まれた鋭い無数の棘が存在し、笑っている彼らをも刺し続けている。彼らは、そのことには全く気づかない。日々繰り返される自らが生んだ鈍痛に、身体は慣れていく。心も然り。そして、彼らの慣れは、他人にも同じことを求めていく。
「おまえも、刺されろ! おまえも! おまえも! おまえも!」

それは、大きなモノが、小さなモノを支配しようとするそのイメージととても似ていた。例えば、戦争に向かっていく国と、子ども達とか。

「大きなものに飲み込まれそうになった時には、逃げるしかない」
最上階のコンクリに囲まれた部屋にいた少年は、心に芽生え始めた棘を残らず抜き捨て、裸足のまま全速力で走り出した。
「走れ!」そう言ったのは、わたしだろうか。いや。そこにいた、誰かだったのだろうか。
「空耳でも、いいさ」少年は走り出す。そして、迷路のなかに消えていった。

目覚めて、何か気になって、夢占いをしてみた。ネットでキーワードから検索する簡単なものだ。
「廃墟」→ 思い出。変化の前兆。虚しさ。価値観を変える必要性。
「少年」→ 無防備。好奇心。子どもっぽさ。明日への希望。
「笑う」→ 緊張の解放。エネルギーの高揚。自らを嘲笑する気持ち。
「これって、いい夢ってこと? 悪い夢ってこと? どっちなんだ?」
うーん。よく判らないが、夢に何かしらの意味を探し求めようとすること自体、違うのだということは判ったかも。考えるに、戦争に向かっていこうとする今の日本の不穏さを感じていて、夢に表れたというのが妥当な線だろう。

それにしても、続きはどうなるのだろうか。そして、これからの日本も。

「蛙」→ 目覚め。新たな気づき。無意識と意識の二つの世界を繋ぐ。
カエルくん、今晩、夢に出てきてくれない? 出演依頼OK?
よーく見ると、首を傾げて、うっすら微笑んでいるのが判ります。
蕗の葉の上で、気持ちよさそう。カメラを向けると、少し顔を上げました。

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初、親子カラオケ

二十歳の末娘が住む浦和に行き、ふたりで食事をした。
イタリアンに舌鼓を打ち、その後、カラオケに。カラオケには、ちょっと苦手意識があり(音痴である)自分から行くことはないのだが、彼女が歌いたいだけだと判っていたので、気楽に同行したのだ。
カラオケで歌うのは、何年ぶりだっただろう。娘達が好きでよく聴いていたバンド『GO!GO!7188』の歌を何曲か、一緒に歌った。
「初、親子カラオケ?」と、末娘。「お初、だねぇ」と、わたし。
そして思い出したように「母の日、おめでとう」と、彼女。
「そこは、おめでとうって言うところじゃない」と、わたし。
もちろん、末娘はジョークを飛ばしたのだと判っていたのだが。

母の日。父の日。よくよく考えると、照れ臭くてプレゼントをすることなどできなくなるような記念日である。だから、何事もなかったかのようにやり過ごしたいと考えるタイプ。それが、わたしと娘達に共通する、ちょっとひねくれたとも言える性格だ。それを判っているのでプレゼントなど求める気持ちはない。そもそも母の日ってなんだ? と考えたときに、わたし的に一番ぴたりとくるのは「子ども達が生まれてきたからこそ母親になったのだ、ということを思い出す日」という解釈だ。それ以上でもそれ以下でもない、ただそのことを静かに思い出す日でいいと思っている。文章にすると更にひねくれ度が増す気がするが。そして毎年義母にはトマトを贈り、喜んでもらっているのだが。

『GO!GO!』の歌が、頭のなかでリピートしている。
♪ 雨上がり アスファルト 新しい靴で 
 どこまでも行けそうさ どこまで行こう?
 泣きたいときだって 笑うときだって 何でもないときだって 
 自分のままでいたいだけ ♪ 『雨上がり アスファルト 新しい靴で』より

娘と『GO!GO!』を歌ったら、そんなひねくれた母娘がいたっていいじゃんと、すっきりした気分で思えたのだった。

娘が発掘したイタリアンの店は、とにかく料理が美味しい! 店でした。
粗挽きポークウィンナーは、熱い鉄を焼いた上にローズマリーをのせて、
香りを出していました。「大変お熱いので、触らないようお願いします」
「そう言われると、触りたくなるんだよなぁ」とは、娘。

ピッツァ・マルゲリータは、ナポリ風。娘が誘った店で、娘がオーダーしたピッツァなのに「パリパリしたやつの方が、好き」と、娘。美味しかったよ?

わたしは生ビール。彼女はブルー・ウォーターをオーダー。
「ブルーとか言いながら、赤いのが出てきたらどうする?」と、わたし。
「黄色かも知れないじゃん」と、娘。残念。青い瓶に入った透明な水でした。
「ある意味、黄色い。勝った!」と檸檬を見てガッツポーズをした娘です。

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小さな出来事が変えていく日々の明度

旅先で必要な洗面用具などを、よく忘れる。
その代表格が、髪を整えるムースだったのだが、最近は忘れることが少なくなった。と言うのも、普段使いでミニサイズのものを見つけたからだ。
『oilim(オイリム)』というヘアオイルミストで、80mlのものをほんの少しだけ使う。持ち運びにも軽く、オイルと名がつくのにべたつかず、香りも気に入っていて、出会いに感謝している化粧品の一つだ。
近所の薬局では見つけられなかったのでネット注文し、旅行用と、普段使いの2本を並行して使うようになり、忘れることも減ったのだ。

『オイリム』との出会いは、末娘が住む浦和に出かけたときのことだった。
忘れること自体は、そう珍しくもないので、ただ自分に呆れ、薬局でミニサイズのものを探した。そして勧められたのが『オイリム』だったのだ。
「Look at the bright side」という友人にもらった言葉は、ふと思い出すことも多いのだが、やはりそれを思い出した。直訳すると「明るい方を見なさい」かな。マイナスである失敗のなかにも「プラス」の要素がある。旅先で忘れ物をしたことが、その出会いにつながったのだから、そんな失敗も、そう悪くはないかも知れないと思えてくる。
そして、毎朝『オイリム』を使う度に、どんよりと曇った朝でも明るい気持ちになることに気づいた。『オイリム』と bright side は、いつのまにか同時に連想されるモノになっているらしい。それってもしや、とハッとした。「Look at the bright side」を思い出す度に、同時連想するものが増えていけば、さらに明るい気持ちがもたらされる瞬間は、日々のなかに増えていく。そして小さな毎日の放つ明度は、日々増していくのだ。

ブラシも、my ブラシを持ち歩くようにしているのですが、よく忘れます。
ブラシは、買い求めたりはせず、ホテルのアメニティを使い、持ち帰ります。

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バーベキュー、次の朝

「夕べは盛り上がってたねぇ」「いやしかし、よく食べてたよね」
「そのうえ、よっく飲んでた」「ビール、ワイン、さらに日本酒」
「みんな、ほとんど、しゃべったこと覚えてないんじゃないかな」
しゃべっている5人(?)は、アウトドア用の折りたたみ椅子達である。人間5人でバーベキューした翌朝、午前5時のこと。彼らはまるで、会議でもしているかの如くこじんまりと丸くなり、声を発していた。最初はぼそぼそと世間話風だったが、そのうち、会話は熱をおびていった。例えば、こんな感じ。

「イスってさ、座る人の人格に寄り添うところ、あるよねぇ?」
「そう? 寄りかかってるのは、人間の方だと思うけど?」
「ぼく、わかる。自分がイスだか人だか、わかんなんくなるとき、あるもん」
「座ってくれる人の体温が嬉しくて、気持ちも温かくなって寄り添うのかも」
「人格? 人間にイスほどの人格、あんの?」

「ときにはイスであることを、忘れてみたいと思わない?」
「そもそも折りたたみ椅子は、忘れてる時間が長いと思うけど?」
「頭にのせてくれる人がいたら、一瞬忘れるかも」
「イスであることが好きだから、ないかな」
「忘れる? それ自分から逃げてるだけじゃね?」

「じゃあさ、正面から見た自分と後姿の自分、どっちが好き?」
「座れること。イスに一番求められているのは、そこだと思うけど?」
「足元を歩くアリさんに、見上げられる瞬間が、僕は好き」
「前と後ろ。うーん、どっちも捨てがたいなぁ」
「前と後ろ? 横からとか、上からはどうすんだよ?」

十人十色ならぬ、5脚5色。
仕切り屋さん、現実直視さん、天然不思議ちゃん、前向きさん、皮肉屋さんの会話は、朝の気持ちのいい空気のなか、続いたのだった。

椅子達の会議、露が降りたウッドデッキで白熱していました。

庭では、クローバー・ティントブロンズが、花を咲かせています。

ツルニチニチソウは、庭いっぱいに咲いて。うれしいな。

アイビーは、新緑から濃い緑へと日々変化中。

雪柳は、星形の種を房いっぱいにつけています。

紫陽花の葉っぱの上には、アマガエルくん。地上から1m ほどの高さ。
どうしてそこまで登るのか、理由を聞きたいです。

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相容れない部分、薪割り編

ゴールデンウィークは、薪割りと庭の草取りでほぼ終わった。
薪割りと言っても、割るのは夫で、わたしは運ぶのみ。手を痛めてからは、それも両手で1本ずつしか持つことができなくなった。山から切り出して来たばかりの薪は、重い。3年ほど乾燥してから燃やすために運ぶ薪とは、まるで重さが違う。だから、1本ずつゆっくりと運ぶ。冬はまだ先なのだ。

その薪運び用の通路とも言える庭の道に、軽トラを停めている。薪割りもそこでするので、軽トラは、道沿いの駐車スペースに移動し、薪割り仲間で共同購入した油圧式の薪割り機を運び入れ、薪を散らかしながら割っていく。
その軽トラでゴミだしをした後(ゴミ捨て場までは、遠くて歩けない)まだ薪が散らかる通路に軽トラを入れようとするので、わたしは不思議に思った。どう見ても軽トラ分のスペースはなかったのだ。
「道沿いに、停めておけばいいじゃん。駐車スペースなんだから」
しかし夫は、どうしても所定の位置に停めたいようだ。
「どうして、そこにこだわるの?」わたしは、心から疑問に思って聞いた。
「だって、ちゃんとしたいじゃん」と、夫。
「それだけ?」と怪訝な顔をして、わたし。
「ちゃんと、いつもの場所に停めたいと思わない?」と、夫。
「全く、思わない。道路に停めてるんならまだしも」と、わたし。
それを聞き、今度は夫が怪訝な顔をした。

夫は、スローペースなわたしの薪運びの姿勢にも、相容れないところがあるようだ。1本1本運ぶなど、例え腕を痛めていようがあり得ないらしい。わたしとしては、ぼんやりしながらゆっくりと単純作業をするのは嫌いではないので、何をそんなに急く必要があるんだろう、と逆に思う。千本ある薪だって、1本ずつ運べば、いずれ運び終わるのだ。
薪割りに関して、相容れない部分の多いふたりだが、たがいにそれ以上は何も言わず、ただ黙々と作業をした。そして相容れない部分は置いておき、夕方には共に美味しくビールを飲んだのだ。夫は「スーパードライプレミアム」で、わたしは「のどごし生」と、そこもまあ、相容れない部分な訳なんだけど。

このままでも、何も問題ないのに。しかし、夫にはそう思えないのですね。

薪をどかし、きっちりとまっすぐ、車庫入れしていました。
右側には、わたしが1本ずつ運んで積んだ薪が写っています。

割った薪は、こんな感じ。まだまだ、いっぱいあります。

「全く人間ってややこしい生き物だなぁ。もちろん水道の蛇口を創った人は、
尊敬するけど。ああ、このひんやり感がたまらない」とは、アマガエルくん。

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森を見て木を見ず

今、隣りの林では、コバノガマズミが白い花を揺らしている。
東側、西側、そして北側の傾斜地にも。小さな花を集めて咲かせる低木だ。
林には、いろいろな木があり、花を咲かせていないときには何の木か判らないものも多い。そしてこの季節、コバノガマズミが思いもよらずたくさん生えていることに気づかせられる。
「木を見て森を見ず」は英訳の諺で「一つのものを見ていると、全体が見えなくなる」ことだが、その逆に、いつもただ漠然と「林」あるいは「そこに生えている木」としてしか、コバノガマズミの木も見ていなかったことに、毎年のことなのに、咲いてようやくハッと気づくのだ。ぼんやりとモノを捉える性質(たち)というものは、そう簡単に変えられないのだと実感する。

だが。いや、だからこそこの季節、そのことに気づき、様々なモノをじっくりと見る機会が、わたしに与えられるのだとも言える。例えば、キッチンのタイル一枚が、また例えば、転がっているじゃが芋一つが、くっきりと見えてくるのだ。それはただ、新緑のまぶしさから見えてくるだけなのかも知れないが。

遠目に見るとジミーな花ですが、一輪一輪が、綺麗に咲いています。
秋になると、赤い実をつけて、またアピールしてくれます。

木洩れ陽が、きらきら揺れていました。新緑の林は気持ちがいいなぁ。

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スズランを花束にして

今日、5月1日は「スズランの日」だそうだ。
フランスでは、この日にスズランの花束を贈られた人に幸せが訪れると言われているのだとか。なので、多くの人が、家族や恋人など、大切な人にプレゼントするそうだ。この日に限り、森から摘んできたスズランを花束にして、誰でも売っていいことになっているという。日本にはない、お洒落な風習である。

その日に合せた訳ではないだろうが、庭のスズランが咲いた。可愛らしいという形容がぴったりの小さな花だ。
そして、香りがいい。香水のような強い香りが苦手なわたしも、スズランの匂いは好きだ。庭仕事をしていて、ふっと花をかすめる香りに、つい手をとめて深呼吸したくなる。

そんなスズランを、誰かにプレゼントしたいなぁと思うが、今日は家族もみな不在。そう考えた瞬間、不意に胸に温かいものを感じた。幸せを贈りたいと思える誰かがいる。これ以上の幸せがあるだろうか。
スズラン達は、何を言うこともなく、ただ、凛と咲いている。

まだ先の方は、蕾のものが多いです。下から順番に咲いていきます。

鈴の名をつけた人のイマジネーションの豊かさを感じます。
「スズラン」と発音したときの響きまで、計算していたのかなぁ。

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とても簡単なこと

最近運転しながら、竹内まりやの『元気を出して』を、よく聴く。
♪ 幸せになりたい気持ちがあるなら 明日を見つけることはとても簡単 ♪

そのとても簡単なことが、簡単だと思えない時、この曲を聴く。
そして、ちょっといいことを数えてみる。

煎りたての豆で珈琲をドリップした時、ドリッパーのなかで細かく挽いた豆達がお湯をゆっくり吸い込んで膨らんでいく様を、見つめていられること。
可愛らしい雑草だなと抜かずにおいた野の花が、一度見てみたいと思っていたキュウリグサだと判明したこと。
いつもの何でもない道が、新緑でまぶしく光っていること。
道を譲った知らない顔のドライバーが、笑顔で挨拶してくれたこと。

数えてみると、ちょっといいことは、数えきれないほどあった。それなのに「とても簡単」なことは案外難しく、気がつけば小さな不満を数えてしまっている。だけど「幸せになりたい気持ち」は、きっとある。眼をつぶって心をflat にしてから心の眼を開けて、今日も、ちょっといいこと、数えよう。

庭に咲いていたキュウリグサ。花の直径が5㎜に満たない本当に小さな花
ですが、見つけたときの喜びは、とても大きかったです。

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花びらとモンシロチョウ

庭で、カエルの写真を撮っていて、ふと眼の先にひっかかったものがあった。
「あ、モンシロチョウ」
しかし、ひらひらと舞い降りたそれは、山桜の花びらだった。
「ああ、桜がまだ、咲いていたんだっけ」
山桜は、ソメイヨシノなどの主役級の桜より遅く咲き始める。先週、その花びらをやわらかい風のなか落とし始めた。山の高いほうではまだ、満開の木もあるが、我が家の隣りの林で咲いたものは、東側も西側も、この週末にすっかり散っていった。
ソメイヨシノが咲き始めた時には、桜に注目していた気持ちも、満たされたのだろうか。山桜の時期になると咲いているのが自然すぎて、空気のような存在となり、ふらりふらりと舞い始めた蝶の方に目を奪われるようになっていた。

求めているモノが満たされれば、それを求めなくなり、欲求は、次のモノへと移っていく。当然のことのようだが、人の心の移りゆくさまは、なんと自分本位なのだろうかと、散りゆく山桜を眺め、思わずにはいられなかった。

山桜の花の根元には、ピンク色した花びらのようなものがありました。

同じ木から舞い落ちても、違う色。落ちた時の色、そのままなのかな。

雪柳の枝にしがみついた、体操選手のようなアマガエルくんでした。

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桔梗の芽の形

庭の雑草を抜いていて、桔梗が芽を伸ばしているのを見つけた。
十センチほどに伸びたその芽は、葉が四方八方に開き、まるですでに花が咲いているかのように見えた。桔梗の花は紫で、風船のように蕾を膨らませてから咲くのだと知っているから花だとは思わない訳だが、知らなかったらこれが蕾だと思っても不思議ではない。
「桔梗って、蕾をつける前から花のように整った形をしているんだな」
しかし、よく見てみると、それは桔梗だけではなかった。他の植物達も同じく、中心から円を創るように、花を開くように、葉を伸ばしている。
「植物の形って、左右上下対称に創られているんだ」
いつも花にばかり注目していて、気づかなかった。様々、見落として生きていることにも、ついでに気づいた。まあ、これはたびたび気づくことなのだが。

人間は、丸や四角が好きである。
時計や室内灯の丸。写真立てやテレビの四角。それらは、あたかも計算され尽くして作られた形のように思えるが、じつは人工物ではなく、植物に得た感覚からできた形なのかも知れない。ぐにゃぐにゃした形のライトや菱形に伸びたのテレビを思い浮かべ、くすくす笑いつつ、整った植物達を愛でた。

桔梗です。蕾をつける前から、花が咲いているように見えました。

イタリアンパセリも、四方八方に伸びて。

ホソバウンランは、扇風機の羽根のように旋回しているみたい。

雑草代表トウダイグサ。これは、花なんでしょうか?

ガク紫陽花は、四方に葉を広げている感じです。

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ツルニチニチソウ忘れちゃだめよ

リビングの掃除をしていて、花を飾ろうと庭に出た。
雪柳も山桜も山吹も、もう終わりだし、さて、ちょうどいい花はあるかなと庭を歩く。歩いていて、薪小屋前の砂利にスミレを見つけた。こんな場所では、踏まれるばかりなので玄関側に移動してあげることにした。

スミレを3つほど移動し、やれやれと、一息つく。何か忘れているような気がして、ハッと気づいた。そうだ。花を飾るんだった。切ろうと思って持っていた鋏は、シャベルの置いてあった場所に置きっぱなしだ。さて、何の花を。
そのとき、アマガエルが跳ねた。

「あっ、待ってて」と声をかけ、シャベルを置いてカメラをとりに走る。
素直なカエルくんは、ちゃんと待っていてくれた。様々なポーズを披露もしてくれて、撮影会は終了。ふたたび、やれやれと、一息つく。何か忘れているような気がして、ハッと気づいた。そうだ。花を飾るんだった。

庭を一周し、どんどん咲き始めたツルニチニチソウを飾ることにした。花瓶に挿し窓際に置き、ふたたび三度やれやれと、一息つく。

これって、買い物をしていて買おうと思っていたものを忘れるのと似ているなぁと思った。他のものに目がいくと、やろうと思っていたことをつい忘れてしまうのだ。末娘が好きだった絵本に『ベーコン わすれちゃだめよ!』(偕成社)というのがあった。男の子がおつかいに行く途中、様々な出来事に気をとられ、歩きながら唱えていた買い物リストが微妙に変化していく話だ。末娘は、それがベーコンではなくても、買い忘れてほしくないものがある時には「ベーコン、忘れちゃだめよ」と、わたしに言ったものだったと懐かしく思い出す。こういうことは不思議と忘れない。
だが、その後、リビングの掃除の続きは、すっかりと忘れ去られたのだった。
えっ、それは確信犯だろうって? ふふふ。

北側の庭にはスミレだけじゃなく、今、木苺の花がたくさん咲いています。

植え替えてあげたスミレです。新しい場所で、気持ちよさそう。

そこにカエルくんが。土いっぱいつけちゃって、冬眠明けですか?

ようやくゴール!日本酒『佐久の花』が入っていたブルーの瓶に。
窓の外には倒れた松も見えますが、新緑が綺麗です。

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スノーフレークと雪解けの八ヶ岳

写真でしか見たことのなかった花「スノーフレーク」に初めてお目にかかった。徒歩3分の田んぼの畔である。
そこは、いつも八ヶ岳を撮っている定点観測地で、田んぼや森の向こうに八ヶ岳全容が綺麗に見えるスポットだ。これまでそこで見かけたことはなかったから、田んぼの持ち主さんが昨年秋にでも球根を植えたのだろう。可憐に咲き、春風に揺れていた。

最近、八ヶ岳を撮っていなかった。というのも、冬の凍った空気のなかでは山が浮き出るようにくっきりと見えていたのに、このところ、霞んだようにしか見えなくなったからだ。春が来たことに、文句を言うつもりは毛頭ないが、冷たい冬の山の美しさは、来冬までお預けかと思うと、淋しい気もする。

そんなときに見つけたスノーフレークは、その名の通り雪のように白くまぶしく、久しぶりに立ち止まった定点観測地でわたしにため息をつかせてくれた。
八ヶ岳は、雪解けが進んでいて、残りもあとわずかだ。雪がすべて解けると、川の水も凍ったような冷たさはなくなり、釣り人も増えるのだそうだ。

八ヶ岳の雪が解けて、川に流れて、春が来る。
そんなことを考えつつ眺めたスノーフレークは、八ヶ岳を飾っていた雪が流れて此処にやって来たようにしか、もう思えなかった。

自然の創りだす色や形って、不思議だな。

ほとんど雪が解け、吹き降ろす北風の冷たさも、やわらかくなりました。

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ビルの森の陽だまりで

森を歩いていて、突然陽だまりに出た。見たこともない花が咲いている。
場所は新宿、ビルの森でのことである。そこには、カラフルな小物達が陽だまりに咲いた花のように、いきいきと並べられていた。
友人かよちゃんがオーナーをするネット販売中心の雑貨屋さん『マッシュノート』が、昨日から新宿伊勢丹に出店してるのだ。

新宿の地下道は、いつも出口のない湿った深い森のように思え、そのうえ何度も迷子になっていることもあり、好きになれないのだが、行く先に陽だまりに咲いた明るい色の花々があるかと思うと、歩くのも楽しいのだということを知った。それが夢物語のなかにいるような小物達なら、尚更だ。

しかし、そこで会ったオーナーかよちゃんのきりりとした顔を見ると、彼女にとっては夢物語を感じるだけの場所でも、小物達でもないのだということが判った。そして並べられた様々なモノ達も、かよちゃん含め、人に並べられていた訳だが、みんな意思を持ってそこにいるのが、はっきりと判った。
それを、ひとつひとつ手にとり見ていて思った。まるで森林浴しているみたいに、気持ちがいいなぁと。陽だまりに咲く花達には、夢物語ではなく、夢のつぼみがいっぱい混じっているのかも知れないなぁと。

クッションの刺繍猫が、ちょっと気どった表情で迎えてくれます。
ナタリー・レテの絵を、刺繍にしたものです。

オーナーかよちゃんとナタリー・レテの絵本『たぶん ほんと』も。
女の子の玩具はドイツのブリキ製で、ねじを回すとごしごし洗濯を始めます。
見ていて、のんびりした気分になりました。

木製のおうちは、ブックエンド。日よけ用手袋、ポーチやバッグ。
西洋と東洋を半分ずつ持ったお皿も、とってもお洒落です。

ホームページのURLカードは、4種類の絵が選べます。
こういうところにも、遊び心がいっぱい。
新宿伊勢丹本館5階にて、5月10日まで。

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物真似スギナ

庭のスズランが、地面からいっせいに芽を伸ばして来た。花の蕾を抱えた姿が、何とも可愛らしい。
しかしこれまたいっせいに、庭じゅうでスギナが伸びてきた。

「こいつ、わざと花の近くに生えてるんじゃないか?」と、夫。
「人が育てる花の間なら、抜かれる確率が低いとかいう計算?」と、わたし。
そうなのだ。スギナは、育てている植物の脇や間に、ぬっと姿を現し、すっと馴染む。スズラン畑のなかにも、よく見るとたくさんのスギナがまじっていて、その様はまるで、スズランの真似をしてすっかりなりすましているようにも見えるのだ。スミレの間にも、芝桜の間にも、今年植えたばかりのヒナソウの間にも顔を出し「ちょっと形が違うけど、突然変異のスミレです」なんて言っているかのよう。スギナを見ていると、ずうずうしく立ち回れるのも、生き残れる素質かも知れないと思えてくる。

そして、ちょっと楽しそうだなとも思う。
もしも、自分じゃない誰かになれるなら、何になろうか。

スギナさん、蕾を抱えたスズランのフリ? 似てなくもないけど。
写真の真ん中、上部に見えているのが、本物のスズランの蕾です。

こちらは、アスパラガスと寄り添ってるスギナ。

きみは、スミレのなかで、スミレの気持ちになっているのかな?

物真似得意な、色を変えられるアマガエルくん。
その緑、枯れ葉のなかじゃ目立つよ。おひさま浴びて、気持ちよさそう。

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山椒の新芽

庭の山椒の木に、つやつや光る新芽が出てきた。まだ「木の芽」と呼ぶには幼い、成熟する前の美しさを放っている。ほんとうに、小さい。
その小さな若い緑を見ていると、不意に疑問が湧いた。冷たい風に吹かれ強く握っていた手のひらを、春の陽射しのなかやわらかく開くまでに、意を決する瞬間があったのだろうか、と。

日常の小さなことに悩み、小さな疲れを溜めていく自分にへとへとになるのも、春である。必要なことも不要なことも多々考え、数えきれないほどのことを決め、生きていくのが人間である。
そんなわたしに、小さな小さな山椒の新芽がつぶやいた。
「決心は、いらないよ。ただ、太陽を浴びて、ぐーんと身体じゅうを伸ばすと気持ちがいいのさ」
それぐらいなら、できるかな。庭に出て、思いっきり伸びをしてみた。
うん。何も考えず、太陽に向かって伸びていくのも、いいかも知れない。

十年以上前に植えたものです。ここ何年かでようやく、
棘に貫録を感じる、ちゃんとした「木」になってきました。

蕾も、たくさんついています。実が生るのが、また楽しみです。

地面から顔を出したばかりのおチビさんも、2つほど見つけました。

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柚子の石鹸と小豆のアイピロー

「自然系のものが好きそうだから」と、友人にプレゼントをもらった。
白い包装紙に『北麓草水』のロゴ。ナチュラルな雰囲気をまとったモノ達は、柚子の香りの石鹸と、柚子の香りのハンドクリーム。そして、小豆が詰まったアイピローだった。石鹸の包装を開くとツンとした匂いが心地よく、すぐにでも使いたくて迷ったが、しばらく枕元に置いて匂いを楽しむことにした。
柚子はリラックスできる香りだとアロマでも注目されているようだし、冬至に柚子湯につかるのは邪気を払うためだという。アイピローはレンジで温めて眼の上にのせると深い眠りに誘ってくれるとか。小豆は、豆のなかでも水分を多く含んでいて、保湿効果も期待できるそうだ。

歳をとると早起きになる、とは聞いていたが、何年か前から夜中の2時や3時に目覚めて眠れないことが多くなった。とは言え、不眠と思い悩むほどのことではない。夜眠れないなら昼寝てもいいと割り切り、ベッドで考え事をしたり、読書したり、時には起き出してひとり酒を楽しんだり、パソコンに向かったりと自由に過ごすようにしている。

それでもやはり、ぐっすり眠れた朝は、気分爽快だ。
温めた小豆は、使い捨てカイロのような強い熱ではなく、じんわり優しく眼を温めてくれる。加えて鼻腔をくすぐる柚子の匂い。心のなかの邪気も払ってくれるのだろうか。うん。ものすごーくよく眠れるような気がしてきた。
これを機会に、睡眠、見直してみようかな。

ハンドクリームは、石鹸ほど匂いを主張していませんが、しっとりいい感じ。
さらっとしていて、何度も塗りたくなります。

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自分を解放する

「春雨じゃ、濡れていこう」というには、ずいぶんと派手に降っている。
月形半平太の言うところの「春雨」は霧雨であるらしいから、この雨のなか傘をささずに歩くのは粋でも何でもない訳で、普通に傘が必要なしっかりとした雨である。

庭の植物達も、春だぁと思いっきり伸びをしたかと思ったら、この冷たい雨。タラの芽も伸びるのをあきらめ足踏みしている。
人間も然り。重いコート脱いで出かけたいのは山々だけど、ウルトラ軽量ダウンだし、しばらく着ておこうと、ふたたび着込んでいる人も多いだろう。
それでも一度解放感を味わってしまうと、これまで着ていた同じコートが何故か重くなったように感じるから不思議だ。

以前、1年ほど通ったヨガ教室で聞いた「自分を解放する」という言葉を思い出した。何のことはない、仰向けに寝転がっただけの基本ポーズで、足は肩幅に開き、腕も脇から少し離して掌は天井に向けてだらっと開くのだが、その掌を上に向けて開くことで、身体じゅうを解放するのだと教わった。
掌を上に向けて開くことが効果的なのか、そう聞いたから思い込んでいるのかは判らないが、今でも意識してリラックスしようという時には、ベッドの上で掌を上に向けて身体じゅうの力を抜く。すると何処からか解放されていくような気がするのだ。

寒い季節から解放されるのは、まだ少し先になりそうだが、そんなふうに心だけでも力を抜き、自分を解放して、コートを脱げる日を待とうと思う。

スミレ達は、今満開。雨粒が当る度に揺れていました。

ライラックは、雫を抱えて、咲くのをためらっているかのようです。

ぐっしょり濡れていますが、どんどん咲いていくのは、芝桜。

白いハナミズキの蕾は、コップのように雨を溜めています。

新しいつやつやの葉が伸びてきたばかりのアイビーも、すっかり濡れて。

駐車場脇に、夫が根気よく株分けして並べた雪柳と、足もとには芝桜。
柳のという名にふさわしいカーブで枝を伸ばし、雫をしたたらせていました。

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小さな幸せ

庭の花達が咲き始め、少しずつにぎやかになってきた。
ミントやイタリアンパセリも伸びてきたし、山吹はたくさんの蕾をつけている。薪置場の向こうではプラムも白い花を咲かせているし、足もとではスミレ達が揺れている。同じ北杜市も標高が高いところでは、雪が降ったばかりだが、我が家の庭は春らしく彩られ、それが嬉しくて、庭に出る。庭に出ると、あっと言う間に時間が過ぎてしまう。冬の間、家に閉じこもっていたのが自分でも嘘のようだ。少しは運動にもなっているかも知れない。

在宅勤務ではあるが、経理の仕事にストレスがない訳ではない。
何十件もある振り込みの1件が何百万円になることも多く、ミスは許されないが、それでも失敗することもある。仕事が立て込んでいるときには、他の予定は入れず集中するが「完璧だ!」と思っているときに限ってミスが発覚したりして、果てしなく落ち込んだりもする。

そんなときに庭に出ると、ホッとする。
スミレの花言葉の一つに「小さな幸せ」というのがあるそうだが、花言葉というより、スミレそのものが「小さな幸せ」だと思える。
雪柳も、プラムも、山吹も、濃いピンクをした芝桜も、花言葉は違っても、みんな「小さな幸せ」だ。小さいけれど確かにそこにある幸せに、心癒される春。そういえば、うーむ。冬の間、いったいどうやって過ごしていたのか、すでに忘れ、思い出すこともできなくなっていた。

あちこちに咲き始めたスミレ。可愛いけど、たくましく咲いています。

プラムも八分咲き。真っ白な花に、心洗われるなぁ。

山吹はこれから咲いていこうとしています。濃い山吹色が、目をひきます。

南側の駐車スペース全体に根を張り巡らせているアップルミントも、元気!

この春初めて会った、緑色のアマガエルくん。がんばって、登ったんだね。
もちろん、君も立派な「小さな幸せ」くんだよ。

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雪柳の匂い

咲き始めた庭の雪柳を、一枝切って飾った。
トイレの窓際に置いた銅製の一輪挿しに、ずっとドライフラワー化した南天の赤い実を挿していて、そろそろ生花を活けたくなったのだ。

「一枝、貰ってもいいよね」雪柳に聞き、鋏を入れた。
その瞬間、これまで数えたことはなかったが、いったい庭に何株の雪柳があるのだろうかと数えてみたい気持ちになった。一枝でも鋏を入れるとなると、その命というものに思いを馳せてしまうものなのかと、普段、自分がモノを考えていないことをあらためて知った瞬間でもあった。

数えてみると、ほぼ30株ある。ほぼ、と言うのは、株が繋がっているものも多く、だいたいのところで数えたからだ。今は太陽光のパネルが広がる向かいの土地に、植物園を作っていたおじいちゃんに分けていただいたもので、それを夫が株分けしては植え、広げていったのだ。その他にも種が飛び自生したものもあり、それも丈1mほどに伸びている。
雪柳は、とにかく強い。株分けしてからしばらくの間、水さえ足りていれば根づき、病気もしない。そして翌年には、雪のように真っ白な花を約束でもしたかのようにきっちり咲かせてくれるのだ。

トイレに飾ったついでに、たまにはお香を焚こうかともう一度ドアを開けて、ハッとした。木の匂いというか草の匂いというか、そんな匂いが立ちこめていたのだ。庭では淡々と咲くのみで、匂いなど放っていることなど気づきもしなかったが、小さな一輪の雪柳にまた、その命というものを感じたのだった。

銅製の一輪挿しはお気に入り。優しい陽射しを浴びていました。

アップで撮ってみました。小さな一つ一つの花が可愛いんです。

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洗濯機はナショナル

十年使った洗濯機が、壊れた。壊れたと言っても、動かなくなった訳ではない。運転時間が次第に長くなり、見ていたら、まるで物忘れでもして「あれ? すすいだっけ?」とでも言うかのように、すすぎを繰り返したりしているのだ。節電節水を考え、買い替え時期が来たと判断した。

購入したのは、大きさの変わらないプチドラムで、乾燥まで出来るタイプだが、普段は洗濯のみにして、乾燥は困った時に使おうと思っている。
購入の際、あまりやらないのだが、値切ってみた。この4月に新型が出た型落ちで展示品だったのだ。すると、あっさり1万円ほど値引いてくれた。言ってみるものである。家電量販店でもけっこう融通が利くのだと目から鱗だった。

「で、何処のメーカーにしたの?」と夫に聞かれ、
「ナショナル」と、迷わず答えた。
「あのさ、今、ナショナルってないから。パナソニックじゃない?」
彼は呆れたように言う。「あれ?」と考え、うーんと唸る。
領収書を見ると「パナ」とかいてあった。それを見て今更だが、ナショナルはなくなったのだと気づく。そして「パナソニック」のロゴを見て「ナショナル」と読んだ自分に呆れ、チカラなく笑う。
「テレビはナショナル」と、つぶやいてみる。
その看板は、息子がよく遊びに行った電気屋さんの友人宅にあった。送り迎えした頃には、というか、彼が1歳の時には平成になった訳だが、看板は、昭和の雰囲気をそのままにしていたっけ。
「パナソニック」を「ナショナル」と読んでしまい、文字というものについて新たな感覚が芽生えた。ひとつひとつの記号としてではなく、感覚で捉えているものなのだと。

夫の行きつけのワインバーで、酔いがまわった人に珍しいワインがあるとフランス人の店主が出す酒があるという話を思い出した。ワイングラスに注がれたその白ワインは、じつは日本酒なのだそうだ。白ワインだという先入観と、それまで飲んだフランスワインの酔いに騙される人もいるのだとか。
酒がまわるように、昭和が身体じゅうに沁み込んでいるわたしには「パナソニック」が「ナショナル」に読めても、当然なのだという気がした。

新しい洗濯機さん、これからよろしくね。シャイで寡黙なタイプの子です。
2008年に、ナショナルはパナソニックにブランド名を変更したそうです。

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土のなかは、びっくり箱

花を植えようと、土を掘っていて、またも掘り当ててしまった。
今度は、百合根ではない。顔を出す前のツクシだ。
「わっ、びっくりした」
形や色が何かの幼虫のようにも見え、生き物を掘り当ててしまったのかと驚いたが、それはほんの一瞬。すぐにツクシだと判った。見えない土のなかにも、確実に春はやって来ているのである。
金子みすずの詩『星とたんぽぽ』を思い出し、つぶやいてみる。
「見えぬけれども、あるんだよ。見えぬものでも、あるんだよ」
土のなかは、まるでびっくり箱だ。掘っているうちに、クワガタか何かの幼虫も顔を見せた。

嫌な知らせでなければ、驚かされるのは嫌いではない。小説を好んで読むのも驚きを求めているところがある。日々の生活のなかでの小さな驚きは大歓迎だ。歓迎されないとは知りつつ、ドアの前に立ち「わっ!」と如何にも単純な驚きを家族に与えるのも好きで、嫌がられてもいる。

花を植え終えて、ただ土を掘り花を植えるだけの作業のなかにも、小さな驚きがあり、こうして楽しませてもらっているのだなぁと空を見上げた。
季節に目を向けずにいる時間も多い毎日のなか、めくり忘れた日めくりのように意識が止まっていても、季節はきちんと進んでいる。そして、時々ドアの前に立ち「わっ!」とこちらを驚かせては「びっくりした?」とでもいうかのように、得意げに笑うのだ。

ポストの横に、サザンクロスを植えました。蕾が丸くて可愛いんです。

ツクシも小さいけど、もっと赤ちゃんの頃があったんだね。

お水をあげていて、ぴょんと飛び跳ねたのは今年初めて会ったカエルくん。

庭では、4年ほど前に植えた1mほどの背丈の桜が、咲き始めました。

ちらほらとしか咲いていないので、余計に1輪の美しさを感じます。

いつのまにか、春蘭も、静かに花開いていました。

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枯れ葉を集めて

日曜日。雨の予報が先延ばしになったようなので、夫とふたり庭仕事をした。隣の林から舞い落ちた枯れ葉の片づけである。
「都会だと、隣りの木の落ち葉がトラブルのもとになったりするんだよな」
夫の言葉に、笑って返す。「ここじゃ、文句の言いようがないもんね」
もともと林だった土地に建てた家なのである。両側は、それぞれ違う人の土地だが、見に来る様子もなく顔も知らない。落ちてきた枯れ葉は、ただ林に戻すのみ。例え持ち主を知っていたとしても、文句を言うどころか、林にあずかっている恩恵の方が多いくらいなのだ。

東側の林には、隣接した場所に山桜があり、我が家の土地に張り出したその枝は、13年と少し生きたびっきーに、素敵な木陰を作ってくれていた。寒さにめっぽう強かった彼も、夏の暑さにはバテ気味だったが、鎖は長く繋いでおいたので行動範囲は広く、よく桜の木の下で涼んでいた姿を思い出す。東側の林では、多分、もうすぐミツバツツジが咲き始めるはずだ。

西側の林は、西陽をかなり和らげてくれている。越して来た15年前よりも、確実に夏の暑さが厳しくなった今、これには本当に助けられている。それでもマツクイムシにやられ、赤松が何本も切り倒された林を、末娘は淋しそうに眺めていた。5歳で越して来た彼女には、この林が隠れ家のような存在で、まるで自分の部屋のように落ち着いて遊んでいたっけ。夏、カブトムシやクワガタが蜜を求めてやってくるのは、西側の林だ。

そんなことを思いつつ、枯れ葉を林に戻した。枯れ葉の下に眠っていたスミレや芝桜が「あ、春ですか」というかのように、伸びをした。

庭の花達の様子です。雪柳は、なかなか蕾を開こうとしませんが、
一番陽のあたるところのアスファルト側から咲き始めました。
太陽の熱を吸収したアスファルトが、温かいからでしょうか。

雪柳の足元には、芝桜がやはり少しずつ、咲き始めています。

水仙は、今まさに満開。ようやく上を向き、太陽と会話しています。

クリスマスローズはうつむいたまま、静かに順番に咲いている途中です。

ハコベの小さな花は、清楚で可愛らしく、ハッとさせられます。
雑草ですが、しばらく楽しもうと思います。
おひたしやみそ汁に入れて、食べてもいいし(笑)

あちこちに葉を広げ始めたスミレ達には、小さな蕾が揺れ始めました。
昨日は、この後雨が降り、植物達は嬉しそうでした。

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ぽっかり浮かんだ雲を眺めて

青い空に浮かんだ真っ白い雲を眺めていると、ゆったりとした気持ちになるものだが、ふと考えた。雲が浮いているのは、何百メートルも何千メートルもの高さなのだから、凍った風が吹きつけているのかも知れないなぁと。

この間、東京で女子ばかり楽しく飲んだ時、真面目な話ももちろんする訳だが、友人が繰り返し言っていた言葉が雲の上を流れていく。
「誰かの身に起こったことを、判ったつもりになることも多いけど、本当のところは、自分の身に起きてみないと判らないんだよ」

夫が、海外で仕事をする知人から聞いた言葉をもまた、旋回していく。
「海外で暮らすコツは、その国の人達を理解できないってことを、知ることだ。判らないってことを、判っていなくちゃダメなんだ」

わたしは、雲の気持ちは判らない。八ヶ岳の気持ちも判らない。そして、友人の気持ちも判らない部分が多いのだろうと思う。夫の気持ちも、子ども達の気持ちも、親達の気持ちも。
雲を見上げて、考えた。判らないということを、判っていようと。そうすることで、誰かの気持ちに近づけることもあるんじゃないかと。

昨日は地上にも冷たく強い風が吹いていましたが、八ヶ岳や雲を眺めるのは、
運転中が多いんです。車のなかは適温で、風も吹きません。
だからか、こんなことを考えつつ、運転していました。

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テッポウユリの百合根

暖かい日が続いたので、ホームセンターに行ったついでに花の苗を買った。
『ヒナソウ』という名の多年草で、小さな花をたくさんつけている。まだ花が咲かない庭を明るくしてくれると、意識下で考えたのかも知れない。雪柳や水仙、ライラックの蕾が、日に日に膨らんでいく様は見ていて飽きないのだが。

陽当たりのいい花壇に植えようと、土を掘った。すると、土のなかから白いものが出てきた。百合根だった。
何処からか種が飛んで来たテッポウユリが咲くようになり、十年ほどになるだろうか。定位置を持たず毎年咲くと思っていたのだが、その百合根はゴルフボールよりは大きく、毎年そこを定位置にして咲いていたのだと判った。
一瞬、時間の流れが止まった。そして、15年の時が瞬く間に駆け巡った。この百合根が育つほどの時間、此処にいたんだと実感する。これまで何度も、越して来て15年だと言っていたにもかかわらず、その言葉には実感が伴ってなかったことに気づいたのだ。
「傷つけちゃって、ごめんね」
何枚かはがれてしまった百合根の花びらも含め、丁寧に土をかけた。美味しそうだったが、テッポウユリは食用には向かないらしい。

ヒナソウは、少しずらして隣に植えた。庭をよく見回してみると、いくつかテッポウユリの芽らしきものが見つかる。ヒナソウを植え終えて水をあげる時、傷つけてしまった百合根にも、たっぷりと水をかけた。

これが植えたばかりの『ヒナソウ』です。多年草。根づくかな。

食用の百合根にそっくり。可愛そうなことをしました。

庭には、ドライフラワー化したテッポウユリの種が、
そのまま何本か置いてあります。

よく見ると、あちらこちらから、新しい芽を出していました。
花を咲かせる日が、今から楽しみです。

ライラックは、蕾を膨らませています。

クリスマスローズが、ようやく咲き始めました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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