はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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春霞立つ富士山

春霞。はるがすみ。何とも美しい日本語だ。
日々、見るともなしに眺めている山々が、霞んできた。山を眺めるには、やはり冬がいちばんだ。しかし春の山もまたよし。緑が芽吹き、山桜の淡いピンクが目に眩しい。

ところで春霞は「立つ」と表現される。春霞立つ、と。
違和感を覚えたのは、山って春も夏も秋も霞んでいるよなあと思ったからだ。だが、霞んだ富士山を見ていて、ああ、と腑に落ちた。
雪が解けて蒸気を上げていくさまが見えたような気がしたのだ。地面から立ち上る雪。それが春霞となるさまが。
「春霞立つ」と最初に表現した人もたぶんこんなふうに、いや、もっともっと身近に、山や雪や木々や季節を感じていたのだろう。

春霞立つ富士山。その上を、ゆっくりと雲が流れていく。それを見て、やわらかくほどけた空気を、その空気の粒ひとつひとつを肌に感じた。

山桜って、こうして遠くから眺めるのがいいんだよな~。

ここにも、ここにも、って数えながら、眺めたり。

春霞立つ富士山と雲達。富士山に祈らずにはいられませんでした。
九州で困っている方々が、そしてエクアドルで地震にあった方々が、
少しでも早く、安心して暮らせる日が来ますように。

真後ろを振り返れば、八ヶ岳。雪もずいぶん解けました。

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芽吹きの季節に

芽吹きの季節である。早々に花を咲かせたモノ達のあとを追い、眠っていた木々が次々と目を覚ましていく。
タラの芽も摘んで食べたし、すぐに木の芽も味わえそうだ。名も知らぬ林の木々達も、赤ん坊の手のように葉を開きあぐねている。その姿が、何とも可愛らしい。土のなかからは、ドクダミやワレモコウも芽を出している。山桜は待ちかねていたかのように咲き始め、スズランも蕾を抱え芽を伸ばしていく。
「新緑の季節も、すぐそこまで来ているね」と、わたし。
「ほんとに、すぐだね」夫も目を細め、林を眺めている。

何も考えずに過ごしていたら、芽吹きの季節も、新緑の頃も、足早に過ぎ去ってしまうだろう。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をし、もう一度目を開ける。
今しかないこの季節。その空気を味わおう。肌に感じよう。やわらかな緑を愛で、土や草の匂いを吸い込み、風や鳥達が木々と戯れる音に耳を澄まそう。

びっきーが眠っている上では、山桜が咲き始めました。

タラの芽も順番に芽吹き、順番にいただいています。

いつのまにか増えた木苺も、蕾をたくさんつけています。

木の芽、山椒の葉は、陽の光にぴかぴか光っていました。

もみじ。葉を開く前の頼りない様子が可愛い。

2年まえにいただいたドクダミさんも、顔を出しました。

スズランは、植えた場所からはみ出して石段で蕾を抱いています。

クリスマスローズは、ゆっくりゆっくり新しい花を咲かせて。

雑草代表で、オオイヌノフグリさん。

けろじは、おんなじような色の葉っぱのなかにかくれんぼかな。

☆熊本の方々へ、何かできることはないものかともどかしい気持ちです。
 わずかでも寄付することくらいしか、できません。
 義援金をすぐさま必要な物に替え、届けてくれるところはないか、
 届けられないものかと、探しています。

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鏡のなかの自分

鏡を見て、びっくりする日が続いている。
久しぶりに、パーマをかけたのだ。緩いウエーブなのだが、ずっとストレートだったので、ぼわんと膨らんだ感じになった。こういうのは、かれこれ5年ぶりくらいの感覚。
そして5年まえには起こらなかったことだが、パーマをかけたと判っているはずなのに、それをすっかり忘れている自分がいる。鏡を見ていないときには、きれいさっぱり忘れてストレートのつもりでいるらしい。鏡のまえに立つたびに、驚いてしまうのだ。全くいったい何回見れば慣れるのやらと自分ながらに呆れるほど、毎回毎回びっくりしている。

パーマをかけて気づいた訳だが、自分自身、自分のイメージというものを作り上げているのだと知った。たぶん多少は美化して、ぼかして? だから写真を見て、何か変だなとか、写りが悪いとか(笑)思ったりするのだろう。鏡は左右逆さだということも、影響しているのだろうか。

「違う、ってことなんだろうな」
鏡のなかの自分を見て驚くたびに、漠然と思う。こうして見える自分の姿と、自分がイメージしているものとは、違うのだろう、と。髪型ではなく、顔かたちでもなく、「存在」みたいなもの、言い替えれば「魂」みたいなものが。
鏡に映った自分の顔。それは、何もかも知っているようでじつは、全く知らない顔なのかも知れない。そう考えると、何か空恐ろしいような気がした。

庭のスミレ達。雨上がり、水鏡を見て何を思っているのかな?

去年、いろいろな場所に散らばっていたのを石垣に移植しました。

玄関がある東側の石垣は、今、スミレ達が花盛りです。

蕾には、うつむいたフラミンゴを連想させられます。

雪柳の影にも、静かに咲いています。可愛いな~。

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色と色の間に広がる宇宙

「春色」といえば、桜色を思い浮かべる人が多いのだろうか。しかし、わたしがいちばんに連想するのは、菜の花の黄色だ。

薄い黄色のセーターに合わせて、黄色いバッグを買った。
軽くていろいろ簡単に入って、なかにはポケットも3つついている。使い勝手がいいところが気に入った。白と黄の組み合わせに取っ手がベージュ。ショルダーバッグ用の紐は、取り外しできる。うららかな春の日に、用がなくても出かけたくなるようなバッグだ。

ところでセーターと合わせてみて、コーディネートに違和感はないのだが、ふたつは異なる色なのだなと漠然と感じた。調べてみると、セーターは淡黄蘗色(うすきはだいろ)、バッグは淡黄色(たんこういろ)に近い。
ネットで色見本を見比べてみたのだが、見比べるほどに、その色の種類の多さに驚いた。黄色と呼ばれる色にも、たくさんの種類がある。それは、赤も青も緑も同じ。聞いたこともないような名の色が並んでいる。

セーターとバッグ。異なるふたつの色。
その名前がついた色と色の間にも、名前がついていない色があるのだろうか。円周率の小数点以下の数字のように永遠に続く宇宙が、色と色の間にもあるのだろうか。セーターの黄色とバッグの黄色の間に広がる宇宙。それは、何処までも何処までも、ずっとずっと続いていくのだろうか。

皇居のお堀をバックに。後ろ姿で失礼します。
太陽の光の下で見ると、バッグ、黄蘗色(きはだいろ)の方が近い?

セーターとバッグの色の違い、こんな感じ。判るかな?

東京から帰ってきたら、庭では山吹が咲いていました。
濃い黄色。山吹色。好きな色です。

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皇居東御苑を歩いて

夫の会社が四谷から、移転することになった。新天地は、神田錦町。窓から皇居のお堀が見えるビルだ。その新しい事務所を、見に行った。広々としたスペース。窓の面積も広く明るい。4年前よりも人数が増え、手狭になった会社の雰囲気にも、ここならゆとりが生まれるだろうと思えた。

事務所を見てから、夫とふたり皇居を歩いた。
東御苑は一般公開されていて、まだ桜も残っていた。気持ちよく晴れた午後。ふらふらと歩きながら、考えた。

人は誰しも、慣れ親しんだ場所、今いる場所に、居心地の良さを感じているものなんじゃないだろうか、と。そしてそれ以上に、何かを始めたり、新たな環境に飛び込んだりするのは、とてもパワーがいることだ。だから、そこから動くことをためらってしまうのだろう。だがそれゆえにいつまでも同じ場所にとどまっていたら、新しい場所へは行くことができない。
そこで動ける人は、たぶんこう考えてるんじゃないかな。新しい場所へ行ったら行ったで、さらに居心地のいい場所をこれから作っていけばいい、と。

春。新天地でスタートした人も多かろう。
息子と、上の娘も、それぞれ就職した。新しい場所、新たに出会った人、初めての仕事に、戸惑いを覚えつつもがんばっているのだろうと思う。

『大手門』から入りました。外国人観光客も、いっぱい。
皇居東御苑一般公開日は → こちら 参観案内図は → こちら

『百人番所』江戸城最大の検問所。昼夜百人で警護していたそうです。
後ろに見えるビルに、時代のギャップを感じます。

石垣は修復しながら、保存しているそうです。

日陰に咲いていたヒカゲツツジ。可憐です。

モミジの花も、静かに咲いていました。

見上げると、木漏れ日がまぶしい。
大都会東京に、こんなところがあるなんて。

あ、竹林。と思ったら、足もとには・・・。

大きな筍! モグラのように土を持ち上げていました。

『本丸』に近づくと、大きな木の向こうに芝生が広がっています。
のんびり昼寝をする人や、ぼんやり休憩する人も。

そして『本丸』から眺めた風景。緑の向こうにビル、ビル、ビル。

『本丸』を降りると、梅の実が青く生っていました。

帰りは『平川門』から、出ました。
死者や罪人を運び出したことから『不浄門』とも呼ばれたとか。



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小さな小さな花

キュウリグサをじっと見ていると、自分が巨大化したように思えてくる。
その花の、あまりの小ささに感覚が可笑しくなるのだ。

淡いブルーのその花びらは1mmほど。ほんとうに小さい。花の大きさはそれぞれだとは思っていたが、何年か前に存在を知るまで、こんなに小さな花が身近にあるとは思っていなかった。花とは、じっと見つめずとも目につくくらいの大きさだと知らず知らずのうちに考えるようになっていたのだ。

じっと見つめないと、目に入ってこない小さな小さなキュウリグサの花。朝な夕なにしゃがみ込み、じっと見つめている。自分が持つ大きさの概念だとかバランスだとかを失い、周りのモノが拡大したり縮小したりする危うさを感じながら。何にしろ、正しい大きさなんてないのかも知れないとか思いながら。

生えているのは駐車場だが、今年は去年の倍に増えている。抜かずにおけば、強く生き残る草なのだろう。若い葉や茎は、食用にもできるらしいが、今のところ、小さすぎて食べようという気持ちにはならない。

やさしいブルーに、ほっこりします。
アップにすると、葉は肉厚で裏に毛が生えているのが判ります。
胡瓜の匂いがするから、キュウリグサと名づけられたそうです。
もっと可愛い名前つけたいな~。

開いていく途中。かたまっている蕾が根元から咲いていきます。

あどけなさを感じるのは、小ささの魔法?

石の脇で強く伸びていく姿にもまた、魅かれます。

たくさん咲いてる~。蕾もいっぱい~。

巨大リップクリームではありません。小ささ判るかな?

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雪解けの季節

雨が上がり、雲間から顔を出した八ヶ岳は、青かった。
冬の間は、雲から顔を出すたびに白く白くなっていった八ヶ岳だが、雪解けの季節を迎えたのである。最高峰の赤岳には、さすがにまだ白い部分が残っているが、もうしばらくすればすっかり解けてしまうだろう。

遠目に眺めていると、ただ白から青へと変化していくようにしか見えないが、雪という固体が水という液体に姿を変え、流れていくのだと知ってはいる。
川へ、そして土のなかへ。春、芽吹いていく木々や、花を咲かせる植物達へ。

もしかしたら八ヶ岳の、あの白かった雪は、ここに咲いている花達のなかにも小さく存在しているのかも知れない。白い花にも、青い花にも。

定点観測地点から。白い部分が少なくなった八ヶ岳。

定点観測地点には、スノーフレークが、まだ咲いていました。

ホトケノザも、群生していました。透明な紫が素敵。

ムスカリも咲いていました。この色、目を魅きます。

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春の庭で

庭で、いろいろな花が咲き始めた。
花も可愛いが、咲いていく途中の姿がまた、可愛い。冬の間、こんなに可愛らしいものを隠していたんだなと、木の枝や土を眺め、感心する。そうして作り上げた蕾を、何日もかけて膨らませていき、ゆっくりゆっくり開いていく。

勝手に種が飛んできて芽を出したものや、いただいた苗などがほとんど。手のかからないツワモノばかりが生き残っているような庭だが、植物は律儀だ。
「約束通り、咲きましたよ」
そんなふうに、花を揺らしているかのように見える。
「冬の間も、約束、ずっと忘れていませんでしたよ」
春を夢見て、眠っていたのだろうか。
だからこそ、ゆっくりと時間をかけて咲くのだろう。

花の命は短くて、というが、それは人に例えた言葉。花は花の時間を、じっくりと生きているのだなあと庭に出て思うのだ。

収穫しそこねたふきのとう。苔に埋もれ花を咲かせました。

スミレも、あちこちに芽を出し花を咲かせています。

春蘭も、株が大きく育っていっぱい花をつけました。

雪柳は20株以上。夫が根気よく株を分けていった成果です。
満開になるのも楽しみだけど、一つ一つの蕾も可愛い。

芝桜は、白い雪柳の下で濃いピンクの花を咲かせています。

八重の水仙は遅咲きで、ようやく蕾を開きました。

ツルニチニチソウ。バッサリ切ったけれど強く咲いています。

プラムの花。少しずつ少しずつ、まさに咲いていく途中です。

何年か前にいただいた苗木の桜も、ちらほら花をつけています。

この春お初、お目にかかったけろじ。やさしい土色してるねえ。
野鳥達に捕まるなよ。綺麗な緑になるのを楽しみにしてるよ。

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旅立ちの季節に

チャイムが鳴ったので出てみると、斜向かいの娘ちゃんが笑顔で立っていた。
斜向かいに住む 5人家族は、お父さん、お母さん、娘ちゃんとその弟くんがふたり。我が家より歳若い家族だ。
「明日、家を離れることになったので」
娘ちゃんは、隣りの県の大学に進学するのだと言った。希望、という言葉を感じさせる笑顔だ。
「父と母を、よろしくお願いします」
しっかりした口調で言う。
「まだ、弟くん達がいるじゃない」
「そうなんですけどね」
心配そうな顔を見て、やっぱり女の子がいなくなると花が一つ消えたみたいに家は淋しくなるんだろうなと思う。我が家は、3年前に末娘が同じように大学進学と同時に家を離れ、子ども達はみな県外に出た。気持ちは判るつもりだ。
「おめでとう。わざわざ、挨拶に来てくれて、うれしかった」
そう言うと、彼女はちょっと困ったように言う。
「父が挨拶して来いって。わたしは、こういうことするの返って迷惑なんじゃないかと思ったんですけど」
「そんなことないよ。来てくれて、ほんとにうれしかった。顔を見られてよかったよ。がんばってね。Let‘senjoy!」
「ありがとうございます」

本当は、何かお祝いを渡したいくらいの気持ちだった。でも何かを渡すより、今言葉を交わすことの方が大切なのだと思った。こういうときに何かあげたいなと思う気持ちって、ごく普通に湧いてくるものだと思うけれど、モノに替えたりせずに「おめでとう」のひと言に気持ちを込めることにした。こうして来てくれて、おめでとうと言わせてくれた。それでじゅうぶんだ。

帰り際に、プレゼントのつもりでひと言だけ言った。
「中学校の桜、半分くらい咲いてたよ。明日、出がけに寄ってもらったら?」
「ほんとですか? はい。そうします」
彼女が通う大学の辺りでも、桜は咲いているだろう。それでも、通った中学の桜を見るのもまた、よかろう。
春。旅立ちの季節なのだなあ。

明野中学校の桜です。入学式に合わせたように、咲きました。

何本あるんだろう。明野町の桜の名所は小中学校の通りです。

近づいて見ると、蕾のピンクが可愛らしいな。

濃いピンクの桜も、咲いていました。

中学校の向かいにある、学童保育所の桜です。

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テデスキ・トラックス・バンド in 武道館

夫に誘われ、日本武道館へライブを聴きに行った。
テデスキ・トラックス・バンドだ。
エリック・クラプトンのライブで、デレク・トラックスのギターは聴いたことがある。そのデレクと、彼の妻でブルースシンガー&ギタリストのスーザン・テデスキが組んだバンドで、その名の通りふたりが中心だが、バンドのメンバーは総勢12 人。ドラム、パーカッション、キーボード、フルート、サックス、トランペット、トロンボーン、ハーモニー・ヴォーカルとにぎやかだ。
始まるや否や、夫の顔を見てわたしは言った。
「かっこいい!」
12人の作り上げる音が一つになったと感じる瞬間がいくつもあって、それがたまらなくかっこよかった。今この瞬間が楽しくてたまらないというオーラが、ステージ全体から伝わってくる。多種多様な音が作り上げる音楽は、知らない国の民族音楽のようにも感じ、国境とか、そういう境とか壁みたいなものがほどけていき、自然に魅き込まれていった。

わたしのなかに、デレクとスーザンが夫婦だという意識があったからなのかも知れない。異なるものが発するそれぞれの音は、初めは不協和音しか奏でられないだろうけれど、そんな時間を経て一つになる瞬間を捉えていくものなんだよな。メロディに身体を預け、そんなふうに感じていた。人と人も、そうやって心を通わせていくものなのかも知れないと。LIVEって、いいな。

千鳥ヶ渕への花見客で込み合うなか、武道館へ。

夫が持っていたアルバム。右がLIVEアルバム。
左が、最新アルバム『LET ME GET BY』
最新アルバム収録曲『 Laugh About It 』の動画は → こちら

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夜桜と小さなツキ

夜10時。東京の会社から帰宅する夫を迎えに、駅まで車を走らせた。
信号は全部で7つ。すべて青で通り抜けられることはないが、赤待ちの長い信号を青で通り抜けられると、うん、今日はついてるな、と思う。
そういう日には、小さなことの一つ一つが、あ、ついてる、と思えてくる。

譲り合った車の挨拶代わりのクラクションは朗らかに聞こえるし、あと何km走れるか表示された数字が「117」だと「いいな」と思える。
そして5分早く着いた駅では、満開の桜がライトアップされていた。この季節、何も珍しいことではないのだけれど、それでも、ああ、やっぱりついてるなあ、と思ってしまう。

小さなツキは、心の隙間を伝染していくのかも知れない。これからもつかまえそこねないように、あ、ついてる、とそれぞれのツキをちゃんとつかまえて、心の温度を上げていこう。
「おかえり。おつかれさま」
夫にかけた言葉の温度も、もしかしたら1℃くらい温かいものになったかも。

こういうときに目にすると、24時間パーキングの看板でさえ、
「好きなだけ休んでいっていいんだよ」と語りかけているよう。
なーんて思ってしまうのも、夜桜の魔法かな。

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ままならない気持ち

馴染みの道でさえ、見知らぬ道へと迷い込んでしまうほどの方向音痴。
昨日、そうかいて思い出したことがある。40年以上前、東京は板橋でのこと。わたしが小学校に入学したばかりの頃、下校した道でのことだ。

今とは違い、下校時に大人が付き添うこともなく、上級生達とも下校時間が合わず、ひとりで20分ほどの道程を歩いて帰っていた。その頃から、たぶん方向音痴ではあったが、生まれ育った辺りの道を間違えることもなく、迷うことはなかった。あの頃は、就学前であっても近所の子ども達とつるみ、けっこう遠くまで遊びに出かけていたのだ。
そんなこともあり、周辺のスポットは把握していた。川沿いの下校ルートを左に迂回したところには「アベック山」(!)があったし、右手の先へ行けば「お化け山」や「鬼ばば山」へと続いていた。

下校ルートは川沿いの道と決められていたが、わたしは入学後しばらくの間、決められたルートを歩くことができなかった。それがある日、大人達に知られてしまう。その後、大人の目が届かないルート以外の場所に潜む危険などを説かれ、何度も叱られることとなる。大人になった今では理解できる。しかし、その頃のわたしは「だいじょうぶなのに」と根拠なく思っただけだった。
逸れて歩いた道に魅力的なものがあった訳でもない。ましてや、決められたルートに不満があった訳ではない。いくつかの分かれ道で、どうしても足が違う方へと向いてしまうのだ。今考えても、謎である。ただふらっと歩きたい方へ歩く。そんな魅力に抗えなかった、としか言いようがない。
「どうして、言うことが聞けないの?」
大人は問いただし、子どもに言い聞かせる。だがそんなことを言われても、自分の気持ちでさえもままならず、原因など説明できるものではないのだ。
そのとき、初めて気づいた。
「そうかあ。自分の気持ちって、自分でも判らないことがあるんだ」

大人になった今でもふと、ふらりと道を逸れてしまいそうになると、あのとき下校した道を思い出す。蹴りながら歩いた石ころや、勝手にパンをあげた飼い犬や、急な坂のアスファルトのつんとした匂いなんかを。

明野小学校の桜は、まだ硬い蕾でした。
こちらは、いつも通る道で、少し早めに咲く枝垂れ桜です。

三分咲きくらいでしょうか。蕾の濃いピンクが可愛いです。

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新しい道を開拓する人と

人は、歩きなれた道を好んで歩くタイプと、歩いたことがない新しい道を好んで歩くタイプとに分かれるように思う。
夫は、明らかに後者である。常に新しい道を開拓することに余念がない。
義母の手術入院での帰省もまた、例外ではなかった。突然、リハビリ病院への転院日が決まり帰省することになったその前日、彼からメールが来た。
「飛行機で行こう!」
義母が入院する病院は、神戸空港からポートライナーで2駅。飛行機の方が乗り継ぎがいい時間帯に乗れたら、一度乗ってみようと話していたのだ。羽田まで行くことを考えると、どちらがいいとは言えないが、乗っている時間だけ考えれば、新幹線は東京から3時間。飛行機だと1時間。この違いは、気分的にとても楽だった。

歩きなれた道には、靴底から伝わる感触でさえ馴染みである安心があり、新しい道には、冒険心が満たされ、思いがけない発見があったり、見知らぬ風景を眺める心地よさがある。まあ、わたしは新しい道を開拓せずとも、馴染みの道でさえ見知らぬ道へ迷い込んでしまうほどの方向音痴。冒険は、右へ行こうが左へ向かおうが常に潜んでいるのだが。

病院に行くと、義母が言った。
「文字通り、飛んできてくれたのねえ」

羽田空港第一ターミナル、展望台から見た風景です。

展望台の柵向こうでは、人なつっこい雀が日向ぼっこをしていました。

乗ったのはスカイマークの飛行機。1日前でも早割値段で買えました。

翌夕刻の神戸港。夕焼けが綺麗でした。

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炬燵と薪と

おこたでまったりしていると、ホッとする。暑さ寒さも彼岸まで。だいぶ暖かくなってきたが、冷え込んだ朝などには、まだまだ炬燵っていいなあと思う。
その炬燵の好さの一つに、電気だから、というのがある。まったりするために必要なのは、コンセントを刺し込んでスイッチを入れるだけ。何とも楽ちんだ。その上、電気は補充しなくてもいい。使えば使うだけ、電力会社が送ってくれる。これって、本当にすごいなあと思う。

そんなふうに思うようになったのも、薪ストーブを燃やす生活にすっかり慣れたからなのだろう。薪は、電気のようにはいかない。まず火をつけるのに時間がかかるしコツも必要だ。薪によっては、摑んだと思っていたコツも何処へやら。いまだ悪戦苦闘することもある。そして、燃やすためには運ばなくてはならない。その前には、割って積んでの作業。乾燥させるために2年ほど置く。夫は、チェーンソーを持って山に切り出しにも行く。
割って、運んで、燃やして。薪は三度温まると、昔から言われている所以だ。

このあいだNHKの大河ドラマ『真田丸』を観ていて、笑ってしまった。
信繁が梅に「薪は三度温まると言ってね」とストーリーとは関係のないうんちくを聞かせているシーンがあったのだ。戦国の時代から、いやたぶんもっと以前から、そう言いながら薪を燃やし暖を取り、食事を作っていたのだろう。あのセリフもまた、薪を燃やしているから聴こえたのだと思う。

電気は、無限にあるわけじゃない。
おこたでまったりしながらも、薪を燃やしていることで、そのありがたみを思い知らされる。取り返しのつかない危険を伴う原発再稼働には反対だ。泉のように湧いてくることのない電気を大切に使おうと、日々節電に励んでいる。

これは今年、夫が山で切ってきた薪です。薪割りは、これから。

家の軒下、北側には薪がいっぱい。ここで2年ほど乾燥させます。

庭の東側にも、薪小屋があります。

その庭では、ようやく水仙が咲き始めました。

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朝焼けとスノーフレーク

「わ、朝焼けの八ヶ岳。綺麗だなあ」
早朝6時。新聞を取りに郵便受けまで行くと、八ヶ岳が赤く染まっていた。
「久しぶりに、定点観測地点から、八ヶ岳を撮ろうかな」
たぶん、この赤く染まった姿は撮れないだろうけれど、冬の八ヶ岳を観られるのももうあと少しだと気づいたのだ。

夫を駅まで送った帰りに、定点観測地点に着いたのは、7時20分。八ヶ岳は青く白く清閑な、いつもの冬の顔に戻っていた。
と、ふと見ると、足もとにスノーフレークが咲いている。
「咲き始めたばかリなの」
そう言って、うれしそうに揺れている。何とも可愛らしい。こうなるともう、八ヶ岳よりも、スノーフレークにばかり目がいってしまう。

朝焼けは、きっとこのことを教えてくれたのだなと思った。定点観測地点に行ってごらん、いいものが見られるよ、と。そろそろ春だからね、と。

清楚な白に、グリーンの模様が可愛らしい花です。

田んぼの畔に、無造作に咲いていました。

肩よせあって、内緒話でもしているかのよう。

八ヶ岳は、それを静かに見下ろしているような顔をしていました。

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坂の途中

運転中、久しぶりに聴きたくなって、スガシカオを聴いた。
『sugarless』というアルバムだ。そのなかの『坂の途中』という曲がかかったとき、ちょうど坂道を下っていた。
「そのまんまだなあ」
独りごちるが、曲の歌詞では、坂を上っている。
「真逆とも言えるなあ」
ソロドライブでは、独り言が多くなる。
「同じ場所に立っていても、振り向けば、下り坂が上り坂。風景も何もかも、全く違うものになるんだよなあ」
くねくねと長い長い坂道を下りながら、ふと、神話などで「坂の途中、絶対に振り向かない」という約束をさせられる話があったと思い出した。誰かを助けるためにとか、この先の道へ進むためにとか、いろいろなケースがあったように思うが、ラストはたいてい誰もが振り向いてしまう。好奇心や不安や欲や、はたまた愛などが、彼らを振り向かせてしまうのだ。

絶対に振り向いてはいけない坂の途中で、振り返って見た風景は、どんなものだったのだろうか。神話のなかでは 360℃ の視野を相手に与えることが、ただ怖かっただけなのかも知れない、と考えてみる。
少なくともわたしは今、坂の途中で、振り向いて後ろを見渡す自由を持っている。そう考えてから眺めるいつもの坂道は、また少し違って見えた。

帰って来て、見たら、うちの前も坂でした。坂の途中でした。
こちらは、西側に下る坂。右手が、我が家です。

こちらは、東側、赤松林沿いを抜ける上り坂です。
結婚後ずっと、東京でも川崎でも、坂のある町に住んでいました。

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運を転がす

運気が落ちている。自ら、そう感じることがある。
運気の何たるかも、よくは判っていないのだが、心や身体のリズムの波から発生するバイオリズムと似たようなものなのかな、と捉えてはいる。

そんなときに、さらに落ち込んだりしないようにする効果があるのは、片づけ。とはよく言われる。すっきりすることで、低迷の波から抜け出すきっかけを作るらしい。残念ながら、これ最悪に苦手分野である。片づけられない女オリンピックのメダリスト有力候補とうたわれた(?)実力の持ち主なのだ。

だが、片づけ以外にできそうなことがあると聞いた。
運気が落ちていると感じるときには、運を転がすのが大切。運転。移動すること。広い意味で外に出ることだそうだ。おお! 運転大好き! 片づけられない女は、得てして、移動好きなのである。

ということで甲府まで1時間、車を転がし、ネイルを新しくしてもらった。
伸びた爪が綺麗になると、気分もすっきり。苦手な片づけを、さて、やろうかな。という気持ちにもなったのだった。

ベージュ一色に、ラメやストーン、シルバーを散らしてもらいました。
来週は、結婚式に出席する予定なので、シック + 華やかに。

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明るい色合いを大切にして

今年に入り、義母が体調を崩してからというもの、いつもバタバタと帰省することになる。予定を立てている暇がないといった感じなのだ。だがそれでも、そのときどきに何か小さなものを義母に持っていきたいと思っている。
手術入院の前には、パステルカラーのお雛様の落雁を持っていき、とても喜ばれた。入院してからは、食事制限もあるようだったので、夫が撮った昨年旅したパリの写真などを持っていったりした。
一昨日もまたバタバタと帰省したのだが、病院の外に出た際に花束を買うことができた。黄色いチューリップとかすみ草。お花屋さんが、黄色いリボンを結んでくれた。病室に飾ると空気が変わったように華やかになった。

義母のベッドには、薄いピンク色のバスタオルが敷かれ、枕カバー代わりに、少し濃い目のピンク色のタオルが巻いてある。
入院している間のこととは言え、心地よく過ごせる空間を作ることには余念がない。特に明るい色のものを置くことを大切にしているのが判る。明るい黄色のチューリップを見て、とてもうれしそうに微笑んでくれた。
「うわあ、綺麗ねえ」
その義母。ICUで看護士さんに代筆を頼み、短歌を8首かきあげたそうだ。
「集中治療室って題をつけて、短歌の会に送ったのよ」
明るい色合いを大切にする義母ならではの、生きる力を感じた。

これも小さなプレゼントとして持っていった、手紙にしのばせる文香。
優しい香りです。ご祝儀袋などにそっとしのばせるのも、素敵ですね。

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春の道で

いつもの道をいつものように車で走り、あ、と気づく。すれ違う車が多い。それも、軽トラと耕運機だ。
すれ違うと言っても、すれ違えないほどの細い田舎道。前から耕運機が走ってくると、しょうがない曲がろうか、といつもは通らぬ抜け道に入ったりする。
いつもから、少しだけ逸れた道を走り、春なのだな、と思う。
農作業の車が、始動しているのだ。

今日は、3月11日。5年前、東日本大震災が起こった日だ。
あの日も、東北でも、きっと農作業の車が始動していたことだろう。
いつもの道をいつものように走り、春なのだなと思える幸せをかみしめる。
こういう何でもない小さな幸せが、震災で傷ついた心を抱えがんばっている方々にも届きますように。いまだ苦しんでいる人の心の片隅にでも、春が届きますように。そう、祈らずにはいられない。

我が家を下った村道近く、石碑と石仏さんの並んだ道にも緑がちらほら。

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キイロスズメバチの巣の最期

我が家の北側の軒下に、キイロスズメバチが作った巣が最期を迎えた。
3年半ほど前の夏。キイロスズメバチは、そこに巣を作った。彼らはそのとても労力のかかる作業を毎年行うのだそうだ。その巣で生まれた出身者でも、同じ巣を 2度使うことはないという。

1年目は、夫がおもしろがって観察するのを、呆れて見ていた。幸い誰かが刺されることはなく、キイロスズメバチの季節は終わった。
2年目以降は、鳥達が巣として利用していた。それもまた傍観していたのだが、昨年とうとう巣の近くの外板にアオゲラが穴をあけた。そのまま雪の季節に突入し、先週末、頼んでいた大工さんにようやくその穴をふさいでもらい、ついでに巣も落としてもらったのだ。

遠目には何度も眺めた巣だったが、目の前で手にとってみると、その精巧さに驚かされた。こんなに手の込んだものを、今年も来年も、それからもずっとキイロスズメバチ達は作っていくのだ。時代は巡っていくのだと、落とされ崩れた巣は言っているかのようだ。日々、何かが終わり、何かが始まっていく。

粉々になってしまいましたが、キイロスズメバチが生活したあと、
鳥の巣として使われたときの藁も、残っていました。

美しい模様の名残りが、まだ見られます。
どうしてこんなに、美しい模様を作っていくのでしょう。
現役で活躍していた頃のキイロスズメバチの巣は、こちら

ここに、ありました。高さ7mほど。
梯子を掛けて、登ってくださった大工さん、ありがとうございました。

そのすぐ足もとには、ふきのとう。新しい命の息吹き、感じます。

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下から見上げて

庭のクリスマスローズが、咲いている。
可愛い。可愛いが、うつむいて咲くので、咲いた花を正面から見ることができない。まるで地面と何やら親密に話し込んでいるかのように、顔を上げようとしないのだ。顔を上げるのは、花も終わりに近づいた頃。うつむいた姿がまた可愛いのだが、美しい姿をしっかり見ておきたいとも思う。しかし、例え地面に頭をくっつけたとしても、その姿を正面からは見られない。しょうがないので、カメラに地面に頭をくっつけてもらった。

撮った写真を見て、ああ、と思う。
クリスマスローズを地面から見上げると、空が見えるんだ、と。
その瞬間、クリスマスローズの下にたたずむ小人になったような気がした。

昨年植えた白い花。空の薄いブルーが似合います。

何年か前にいただいて、たくさん花をつけるようになったピンクさん。

黄緑と濃いピンクを組み合わせた種類もあります。

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カレンダーに春を感じて

カレンダーが 3月になり、おっ、と思うことがあった。
トイレで、てんとう虫が 2匹、会話していたのだ。
「久しぶりに、仲間に会えたよ」
「この辺じゃあ、まだみんな何処かの隙間に固まって眠ってるんだろうねえ」
何のことはない。お香立ての陶器のてんとう虫と、カレンダーのクローバーの葉と描かれたてんとう虫が、出会っただけのことである。その偶然に、2匹はとてもうれしそうで、トイレに入るたびに微笑ましく見つめてしまうのだ。
「春なんだなあ」
他の場所にかけてあるカレンダーも、桃の花やスズランを咲かせている。スズランはまだ早いだろうと思いつつも、見れば優しい気持ちになる。
「もしかしたら、クローバー、顔出してるかも」
庭に出ると、赤茶色のクローバー・ティントブロンズが、遠慮がちに葉を開いていた。寒さに硬く握っていたこぶしを恐る恐る開いてみた、という感じだ。

カレンダーを見て、春を感じ、庭に出て、また春を感じる。そこ此処に春は、やって来ているのだ。

てんとう虫のお香立て、とっても気に入っています。
サボテンくんの蝋燭は、もったいなくて使えません。非常用?

落ち葉の隙間から顔をのぞかせていたクローバー・ティントブロンズ。

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カメラが壊れて

カメラが、壊れた。
愛用していた、ニコンのコンパクトデジタルカメラだ。
何かが壊れかけているときに、電化製品が壊れる。むかし、そんな話を聞いた。例えば、夫婦。結婚し、何かうまくいかないなあと思っていると、炊飯器が、冷蔵庫が、洗濯機が、電子レンジが次々と壊れていく。そして、炊飯器が壊れ、ご飯が炊けなかったというようなちっぽけなことでケンカになり、夫婦も破局を迎えるということがままあるのだと。
考えれば、7~8年も経てば、家電はガタが来るものが多いのは当然のこと。夫婦というものも、そのくらいの年数が経った頃、ネジを締めなおさなくてはならないということなのだろう。

そんな話を聞いてからか、電化製品が壊れると、胸がひやりとする。
夫婦といわずとも、何かが、壊れていく前触れなのではないかと。
そう言えば、最近疲れている。身体も心も壊れないうちに、じっくりゆっくり休もうか。50代。電化製品一つ壊れるたびに、休養をとることを心がけるくらいが、ちょうどいいのかも知れない。

「八ヶ岳、ますます白くなったなあ」と、カメラを向けると、
あれ? うーん。レンズ部分が全開にならないだけじゃなく・・・。
修理に出すことにして、さらにコンパクトなものを1台購入しました。

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やわらかな関西弁の空間

神戸で暮らす義母の心臓弁膜症の手術が、ぶじ終わった。
手術室の待合室で待つ10時間。役所での手続きや、入院中の衣類の洗濯や、わたしにはやることも多かったから時間は思ったより長くなかったけれど、夫はずっとそこで待っていたのだから、ずいぶんと長く感じたことだろう。

そこには何組かの家族がいて、小さな子どもからお年寄りまで、静かに座っていた。ふと、前日義母が、看護士さんに話していたことを思い出す。
「息子もねえ、この病院で生まれたんですよ」
向かい側の椅子に座る身体の大きな男性、その隣には、男性の半分くらいの小さなおばあちゃん。たぶん母息子なのだろう。
「このおばあちゃんから、この大きな男性が生まれたってことだよなあ」
人間の命って、そのつながりって、本当に不思議だ。

翌日、ICUに顔を見に行くと、
「あっちこっちに機械つけられて、えらいわあ」
と言いながらも、義母はしっかりICUの看護士さんにしゃべり始める。
「この子ねえ、この病院で生まれたんですよ」
夫と顔を見合わせ、苦笑する。思っていたよりずっと、元気そうだ。

どやろなあ そら、えらいわあ かまへんかまへん ちゃうねんで
まあ、ええやろ どないですか ようしませんわ いややわあ

病院で聞く神戸言葉の関西弁は、静かでやわらかい。それが穏やかな空間を作り上げているかのように感じた。
病院の先生方はじめ、かかわってくださったすべての方に感謝します。

病院に向かうポートライナーから見た、朝日と港です。

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八ヶ岳と一体になった雲

八ヶ岳の真上に、雲がかかっていた。
「天使のわっかみたい」
運転しながら、つぶやく。ちょうど天使の頭とわっかくらいの間隔を空けて、雲が浮いていたのだ。
「天使のわっかは天使とセットだけど、あの雲も八ヶ岳とセットなのかな?」
天使が飛んでも歩いても、わっかはついて回る。じゃあ八ヶ岳が歩いたら、あの雲もついてくるのかと、うっかり想像してしまう。そんな想像をしたのも、雲がなんとも居心地よさそうに山の上に浮いていたからだ。まるで自分の意思で、そこに居るみたいに。

雲だけではなく、八ヶ岳に居るモノ達を思い浮かべる。棲んでいる動物達。根を張った木々、花々。そして雲のように、ときに現れ、自分の意思で八ヶ岳を歩き、登る人達。
「八ヶ岳は、そんなものものと一体なんだな」
その雲は、どうやら雪を降らせていたらしい。日が暮れてから、夫を迎えに出ると、静かに雪が舞っていた。

一昨日の八ヶ岳。天使のわっかのように丸くはありませんが、
八ヶ岳の真上に、ふわふわの雲がかかっていました。

雲一つない翌朝の八ヶ岳です。赤岳が白く凍っています。

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水月さえ
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自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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