はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
[56]  [57]  [58]  [59]  [60]  [61]  [62]  [63

カワウソだね?

大江健三郎賞を受賞した『かわいそうだね?』綿矢りさ(文藝春秋)を読んだ。恋人、隆大がお金に困った元カノを自分のアパートに同居させてしまう。そんな主人公、樹理恵の葛藤が描かれている。かわいそうだからって元カノを同居させるなんてあり? だいたいかわいそうってなによ、みたいな話だ。
 
ちなみに我が家でわたしは「かわいそう」と言ってしまうとかわいそう度が増す時、ジョークにできる場合のみ「カワウソだね」と言うことにしている。
たとえば子どもが足をぶつけたけどケガというほどでもない時など「かわいそうだね、痛かったね、よしよし」と言えるのは小学校低学年までだ。それ以上になったらもうギャグにするしかない。
「いたいよー」という娘に「カワウソだねー」と言うと、
「なんかムカつく」と返ってくる。これが大事なのだ。
彼女は怒りの矛先をわたしに向け、痛みに対するやり場のない怒りを一瞬とは言え発散することができる。夫がサッカーで転んだ時なんかにも有効で「カワウソだったね」と言うわたしに彼は「なんかムカつく」という顔を向けてくる。その表情を見るにつけ家族をサポートする立場のわたしとしてはまあ成功してるんじゃないかなと思うというわけだ。
 
もちろん真剣に恋人とのことを悩んでいる樹理恵には言えっこないし、最近絶滅が確認されたニホンカワウソにだって「カワウソだったね」とは、ちょっと言えないな。

「余るくらい持っていた方が安心なのに、いつも必要なだけ持って出ていく人のほうが、自信ありげでたくましそうに見えるのはなぜだろう」
『かわいそうだね?』より


拍手

小説「カフェ・ド・C」 12. シエナのシエナ

シエナという同じ町のケーキ屋から、マドレーヌとクッキーを仕入れている。本当ならケーキも置きたいところだがリスクが大きい。売れ残れば処分しなくてはならない。その点、マドレーヌは五日、クッキーは一週間の賞味期限がついている。なにより大切なのは、シエナのマドレーヌがとても美味しいということだ。
「なにしろ世界一美味しいマドレーヌを焼く店にするって付けた名前だから」
マダムが今日は、女性四人でマドレーヌと珈琲とおしゃべりを楽しんでいる。
「シエナって、イタリアの街の名前よね」
「そう。そのシエナ! シエナの中心の広場がね、貝の形になってるのよ」
「マドレーヌの形ってわけね」
「何でも素晴らしく美しい街で、ヨーロッパでパティシエの修行中にシエナを旅して同じ名前の店を出そうって決めたそうなの」
「素敵ね」「美味しいはずだわ」
シエナはシングルマザーのレイさんがパティシエで、高校二年の娘さんがいる。彼女の名前もシエナだ。
「店と娘におんなじ名前付けるかよ」
さばさばと笑って言う彼女は、サッカー少女だ。少女は「へーちゃん、水ちょうだい」と、いまだに部活帰りに立ち寄ったりもする。小さい頃から僕になついてくれていた。
今そのシエナがカウンター席に座っていることをマダムは気づいていない。短髪と黒のジャージ上下。足元には四角いエナメルバッグ。後ろ姿は少年にしか見えないだろう。だいたいマダムが会ったのはたぶんシエナが小学生の時だ。
「最近ギャップがきついんだ」シエナは、ため息をついた。
「ケーキ屋さんの娘の上に、名前がシエナちゃんだよ。可愛らしい子だろうって思うじゃん」「だね」僕はうなずく。
「で、実物見たらこれだもん」「だね」僕はまたうなずく。
「そこでうなずくかな。へーちゃん」
シエナの言葉に笑って、僕はマダムを呼んだ。
「母さん、シエナが来てるんだ」
シエナが一瞬戸惑いを見せる。さっきのマダム達の話を聞いていたのだろう。
「シエナのシエナちゃん?」
マダムは、立ち上がったシエナを上から下まで点検するように見て言った。
「姿勢がいいね。ずいぶんカッコよくなったじゃない」
シエナの表情が変わった。
「まっすぐないい目してる。これだけ美味しいマドレーヌ焼くお母さんの子は、やっぱり違うね」マダムの友人達も眩しそうにシエナを見ていた。
「ありがとうございます」
シエナはサッカー場に礼をするように深く礼をして、小さな頃のように笑い「へーちゃん、水ちょうだい」と言った。

空も家並みも美しいシエナの街

拍手

金縛りにあうためには

三谷幸喜監督作品『ステキな金縛り』を観た。
深津絵里が主演でうれしい。昔から大好きな女優だ。相変わらずかわいいなと思いながら洗濯物をたたみつつ観た。WOWWOWで録画したものだ。オープニングの絵で表しているように全体に御伽噺的要素を含んでいる。内容は法廷サスペンスコメディで「唯一の証人は、落ち武者」がキャッチコピー。
深津演じる失敗ばかりの新米弁護士は、最後のチャンスだと言われアリバイが必要な時間に金縛りにあっていたと言う被告を弁護する。彼女は金縛りにあったという旅館を訪ね、被告のからだに馬乗りになって金縛りに合わせたという落ち武者(幽霊)に出会い、あろうことか彼を証人台に立たせることに決めた。落ち武者は、自分も無実の罪で打ち首になったことに無念を感じていて、その疑いも晴らしたいと言う。
深津も西田敏行演じる落ち武者も、みんな一所懸命だ。それが笑える。ありえない状況に必死になっている姿が滑稽で、それを三谷幸喜はきちんと面白おかしく表現していた。
わたし的にいちばん笑えたのは中井喜一だ。手品のシーンとラブちゃんのシーンで爆笑した。彼はすごい役者だ。
 
そういえば最近、金縛りにあってないな。一所懸命さとか必死さが足りないのかもしれないな。

これは金網 ススキが風に揺れていました

拍手

毎週セロリ

セロリを嫌う人は多いようだけど、わたしは大好き。
最近我が家で好評を得ているのは、千切りセロリと鶏ささ身のニンニク醤油焼きを和えたサラダ、わさびマヨネーズ風味。
ワインに合う栗原はるみのレシピだ。
セロリを千切りにするのはとてもたいへんだが、リクエストされると浮き浮きと作ってしまう。夏休み最後の夜も夫がバーベキューをしつつセロリのサラダを食べたいと言うのでご所望ならとセロリを刻み、1週間たったばかりの昨夜もまたセロリを刻んだ。毎週セロリだ。
小さい株ならふたりで一株ぺろりとたいらげてしまう。これまでセロリを株で買う人なんているのかと不思議に思っていたが、セロリは断然株で買うべきだ。切り売りのものとはまったく鮮度が違う。そのうえ中の方は筋も少なく柔らかく甘い。
 
SMAPが歌った『セロリ』は、自分はセロリが嫌いなんだけど、恋人はセロリが好きで、でも価値観違うのなんてしょうがないよね、みたいな可愛らしい歌だった。歌で価値観の違いなんかに置き換えられちゃうほど、日本ではセロリ嫌いさんが多いのかと驚いたっけ。でも、海外ではそうでもないらしい。だってミネストローネをセロリ抜きで作ったらなんか物足りないもんね。
一応ことわりを入れておくと、セロリ嫌いさんを嫌いなわけじゃない。価値観の違いも感じてない。ただとてもシンプルにセロリが好きなんです。

セロリ嫌いさんにも食べられそうなレシピだと思うのは
わたしがセロリ好きさんだからか

拍手

地面と平行でいる

夏バテした。昨日の午後、夫とふたり話していて言葉をついて出た。
「疲れたなぁ」
「小学生の時、プールに行った後みたいにだるいね」
なので今日は避暑に行くことにした。
隣町の川原だ。車で30分。高度600メートルの我が家より200メートルくらい高いだろうか。車のドアを開けると、肌寒かった。
「足を川に浸しながら読書する」という夫のプランは、水が冷たすぎてかなわなかったが、2時間ほど川を眺めたり読書をしたりしゃべったりして過ごした。いつも森の中にいるのに森林浴と言うのもおかしいが、深々と深呼吸し、森だなぁと実感しリフレッシュした。
 
水には不思議なパワーがある。わたしは平衡感覚がそのパワーの起源なのではないかと思っている。コップに入れた水は、傾けてもいつも地面と平行だ。
バランスが崩れた心に、いつでも地面と平行を保ちながら、水は問いかけているんじゃないかな。そのままで、元のままのあなたでいいんじゃないかって。

苔むす石、流れゆく水音、揺れる木漏れ日
夕立の後、大きな虹がかかりました

拍手

間食を欲する彩り豊かな人生のお裾分けを味わう

結婚祝いのお返しにと柿の種をいただいた。箱の色もカラフルなら中身も様々。梅にチーズ、山椒もあればメープルシュガーもある。組み合わせにも工夫があり梅には黒豆、チーズにはアーモンドとナッツもいろいろだ。しばらくは夫がスコッチウイスキーを飲む際のつまみには困らずに済むだろう。
 
ところでわたしは間食を欲しない残念な人生を歩んでいる。酒のつまみも必要ない。特に甘いものには拒否反応がある。嫌いなわけではなく、ただからだが欲していないのだ。どうしても食べなくてはならない場面では意を決して食べる。食べることはできる。
昔はこうではなかった。ケーキもクッキーも大好きで高校の頃お菓子作りにハマった。結婚してからも、子ども達の誕生日にはスポンジケーキを焼き一緒にデコレーションするのが恒例行事だった。
いったいいつから甘いものが食べられなくなったのか。不思議だ。一つ言えるのはその頃の記憶はごちゃごちゃとたくさんの色が混ざり合い、今の生活はシンプルでモノトーンのように落ち着いているということだ。
 
ちなみに夫は間食を欲する人生を歩んでいる。甘辛両党何でもござれ。味にもうるさい。食に関してだけではなく彼はいつも新しいもの、多様なものを求めて生きている。同じ時間を過ごし隣に座っていながら、彼の人生は彩り豊かだよなぁと、わたしはまぶしい気持ちで眺めている。
たとえばドライブすれば通ったことのない道をナビのない車で走りたがる。
「迷ったらどうするの?」重度の方向音痴であるわたしの心配をよそに、
「だって、いつもと同じじゃつまんないじゃん」軽くハンドルを握る彼はとても勘がいい。道に迷うこともなく見たことのない風景を見せてくれる。
そう考えると彼の隣に座っていることで風景が広がり、わたしも彩り豊かな人生のお裾分けを味わうことができているのかもしれない。
 
カラフルな柿の種は、甘くはない。大好きな山椒の味もある。せっかくだから夫のスコッチウイスキーにつきあってバーボンソーダでも飲みながら一粒ずつ食べてみようと思う。

新婚さんお二人が彩り豊かで甘く間食を欲する人生を歩めることを祈って


拍手

「月がきれいだね」

知らないことが発見につながるとかいたが、昨夜もまたひとつ利口になった。「月がきれいだね」と言うのは「I love you」の意味があると言うことを知ったのだ。
夏目漱石が英語教師をしていた頃には、愛してるという言葉は日本でメジャーではなく生徒達にそう訳し教えたそうだ。
 
常日頃、高3の娘は何かを誤魔化す時に斜め上を向き、
「空がきれいだ」と言う。「もう夜だよ」と突っ込むと、
「だって月がきれいだねとは言えないじゃん」と言う返事。
わたしの頭にはクエスチョンマークが飛び交った。そして、
「漱石の有名な言葉だよ」と教えてもらった。
 
ふうんと思い、すぐ使ってみたくなった。
「月がきれいだね」サッカーの練習から帰ってきた夫に言ってみた。
「最悪。若いのに蹴られちゃってさ」と言い、夫は風呂場に急ぐ。
「月がきれいだね」もう一回言ってみる。
「何? 酔っぱらってんの?」返ってきた言葉は、それだけだった。彼は漱石の言葉を知っているのかどうなのか。わたしは何も言わず3缶目のビールを開け、彼のためにオムレツを焼いた。
オムレツをつまみながらワインを飲み、夫が話すチームの誰それの話などを聞く。腕を掻きながら「あのさー」と言うので「はい。ムヒね」とかゆみ止めの薬を手渡すと「かあちゃん、すごい! 言う前によくわかるね。愛してるよ」
彼はムヒを塗りつつ無邪気に言った。
 
漱石さん。あなたのロマンティックな訳は、残念ながらムヒに負けました。
昨夜はとてもきれいな三日月でした

拍手

ゴーヤの神様

近所の農家の方にゴーヤをいただいた。真っ白いゴーヤだ。
「初めて見ました! きれいですね」と言うと、
「苦みは少ないらしいよ」と嬉しそうに手渡してくれた。
きくらげさんも切り取ったところがふたたび育っていたので、昨夜はこの夏2回目のゴーヤチャンプルーにした。少ないどころか苦みもしっかり味わえて、とても美味しいゴーヤだった。
 
白い猿や蛇などは神の化身だとの言い伝えもあるが、白いゴーヤも何か神々しく輝いていた。わたしは何も信仰してはいないが、苦しいときの神頼みはよくする。そんな時目をつぶると真っ白く輝いたゴーヤを思い描いてしまいそうなほどインパクトが強かった。
 
川上弘美の大好きな連作短編集に『神様』(中公文庫)がある。
「熊にさそわれて散歩に出る。川原に行くのである」という魅力的な出だしで始まるこの小説。主人公の女性は同じマンションに越してきた熊と親しくなる。熊だから人間の中での生活にはいろいろとあるのだろう。親しく接してくれる主人公に感謝し温かい気持ちを持つようになる。彼女も人の世の生きづらさを感じていたこともあり、友人として熊に誠意をもって接する。
「熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように」
初めての散歩の後熊は言った。ずっと覚えていた彼女は別れの間際に聞く。
「熊の神様ってどんな神様なの?」
「熊の神様はね、熊に似たものですよ。人の神様は人に似たものでしょう?」
優しく問いかけるように言う熊は、生きる世界が違うのだということを伝えたかったのだと思う。
 
ごつごつした白いゴーヤはわたしとは似ていないけれど、わたしの心のかたちと似ているかもしれない。

いただく農家さんによって大きさもかたちもいろいろ

拍手

キリンは食べないよね?

ふたたびオーストラリアの娘からメールが届いた。
「カンガルーには会ったし触ったし、食べたよ。美味しかった!」
末娘がそれを聞き、後ずさった。
「わたしがカンガルーだったら近寄りたくない。おねえ、超恐い!」
自分がカンガルーだったらと言う時点で、彼女はもうパニックに陥っている。しかし自由奔放な長女が、オーストラリアでたくましく生きていることは想像できた。
「そうか。カンガルーを食べるんだ」またも新しい発見だ。
 
発見で思い出すのは『フィッシュストーリー』(新潮社)に収められた短編『ポテチ』に登場する空き巣、今村忠司だ。彼は学校での授業や教科書とそりが合わなかったらしく知らないことが多かった。そして自ら発見した。「万有引力の法則」と「ピタゴラスの定理」を。
「知らないってことが発見につながるってことを、ユーモアたっぷりに表現してるよね」伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間に言うと、
「あのシーン大好き! さすが伊坂だよねー」と同意した。
「おまえはニュートンか? って言う黒澤もいいね」
黒澤は、今村が慕っている泥棒だ。
「うん。黒澤優しいよね。今村の発見を馬鹿にしないでちゃんと聞いてあげようとしたもんね」「実際すごいよ、今村」「うん。今村すごい」
映画にもなった『ポテチ』は、野球と赤ん坊取り違え事件と空き巣今村の心温まるストーリー。
今村は空き巣に入った家で「死ぬことにしたから。飛び降りちゃうから」という女性の留守電を聞いてしまいリダイヤルする。
「今から行くから。キリンに乗ってくから!」
知らない女性を必死に助けようとする今村は、伊坂の小説の中でも大好きな登場人物のひとりだ。
はたとそこで考えた。オーストラリアでも、まさかキリンは食べないよね?

「キリンだよ? キリンが空飛んじゃうんだよ?
 俺だったら見てから死ぬなぁ」
映画では濱田岳くんが愛すべき今村を好演した。

拍手

行き当たりばったり人生がもたらす発見の喜び

庭の茗荷を初めて収穫した。2年ほど前に植えてから株も増えていたが、収穫したのは今年が初めてだ。
この2年間、何度も夫に聞かれた。
「だいたい茗荷って、どうやって生るわけ?」
そのたびに「さあ?」と答え、
「どうしたらそんなにいい加減になれるの?」とあきれられていた。
結構背が伸びてきた茗荷の茎や葉を見て、何処に生るんだろうと不思議には思いつつも調べるまでには至らず、生ったらわかるだろうと高をくくっていたのだ。茎と葉の間に花でも咲かせるんだろうか、くらいの気持ちで。
しかし、茗荷は土の中から顔を出していた。ふきのとうと同じく蕾を土の中で育て顔を出すタイプなのだった。新しい発見だ。調べていたらこんな風に発見を発見として喜べない。行き当たりばったり人生万歳である。
 
ところで茗荷を食べると物忘れがひどくなると昔から言うらしいが信憑性のほどはどうなんだろうか。とにかくわたしは茗荷が大好きで、味噌汁にも奴にも素麺にも必ず薬味として用意する。バター炒めにも天麩羅にもするしサラダにも入れる。そしてわたしは威張るほどのことではないが忘れん坊だ。冷蔵庫を開けて、あれ? 何出そうと思ったんだっけ? とよくフリーズする。
この一例だけみて考えればまあ、わたしの物忘れは茗荷のせいにできるかもしれないな。

お水もあげてないのに、よく出てきたね!

拍手

熊目撃情報は実りの秋に

子どもの頃、熊に引っ掻かれたことがある。
両親の田舎、北海道に帰省した時のことだ。今では人道的にありえないが、わたしが小学生の頃にはまだ、木彫りの熊を置く土産屋の店先に小熊がつながれているのをよく目にした。客寄せだ。その熊に引っ掻かれた。
「あ、熊さんだー。かわいい!」と出した手をがりっとやられた。
不注意極まりない子どもである。幸いかすった程度だったらしく親に叱られただけで済んだと記憶している。もちろん痕も残っていない。
 
久しぶりに思い出したのは、このところ毎日のように流れている防災無線での熊目撃情報を聞いたからだ。
一週間前町の中心近くで目撃され、三日前にはこちら寄りの山の方で目撃されている。稲が重そうに頭をたれる頃、いつも熊さんは山を下りてくる。
「びっきーの散歩中に会ったらどう行動する?」と夫。
「逃げるしかないよね。びっきーのリードは離して」とわたし。
「猿に会った時、びっきー吠えた?」先週猿と遭遇した際、彼は寡黙だった。
「吠えなかった」「やっぱり。頼りにはできないな」
ちなみにびっきーはひどく臆病で、そのくせ自分より小さな犬には吠えるけっこうわかりやすい性格だ。
「びっきーは逃げ足は速いだろうから、まず自分の身を守るしかないね」
「熊は相当足速いらしいから、逃げきるのはむずかしいだろうな」
「とにかく出会いがしらがないように気をつけるしかないか」
熊は人間を襲うつもりはないと言う。ただ思いがけず出会ってしまい恐怖を感じると身を守るために襲うのだそうだ。
娘には言ってある。
「もしびっきーがリード付けたままひとりで帰ってきたら、日本野鳥の会所属のご近所さんに電話してね」
「やだなぁ、その状況」と娘は顔を曇らせ「目撃ってすごい言葉だよね。目で撃つだよ」と話を変えた。
 
ふたたび子どもの頃の記憶に戻るが、猿にも引っ掻かれたことがある。
「あ、お猿さんだー。かわいい!」がりっである。まったく不注意極まりない子どもだ。それから少しは成長しているはずだが、不安だ。

熊を近づけないように鳴らして歩く「熊鈴」と
熊を一時的にやっつける「熊スプレー」

拍手

誰かの希望になるって?

三浦しをんの『まほろ駅前多田便利軒』(文春文庫)を読んだ。三浦しをんは、本屋大賞を取った『舟を編む』(光文社)がとてもおもしろく『小暮壮物語』(祥伝社)でハマった。短編集『きみはポラリス』(新潮社)を合わせると4冊目。ちなみに直木賞受賞作だ。
彼女の小説のおもしろさは、何と言っても人間の滑稽さを描いたところにある。『まほろ……』では、主人公多田がひとり営む便利屋に、高校時代のクラスメイトの行天(ぎょうてん)が突然転がり込んで、便利屋業を手伝うかと思えば煙草をふかし酒ばかり飲んでいる。行天に小学生の女の子から預かったチワワの飼い主を探せと言うと駅前ロータリーでプラカードを持って立ち、いたずら電話が殺到。多田はあきれ果てる。その上、見に行くと行天がマフラー代わりに巻き付けていたのは多田のジャージだった。全然ストーリーとは関係ないが、その辺りのキャラ描写にもう爆笑だ。

そんな行天のセリフ「誰かに必要とされるってことは、誰かの希望になるってことだ」帯にもなっていたその言葉が、まさか行天のセリフだとは思わなかった。「希望か」読み終えて、本をゆっくりと閉じビールを開けた。

多田も行天もバツイチで家族がいない。そしてその離婚絡みで職を失っている。「希望か」もう一回言ってみる。
わたしには家族も仕事もある。わたしもまあ、そういう意味では誰かの希望ってことになるのかな。いや、そうじゃない。家族がいない多田と行天も、そしてわたしも、誰もが誰かの希望になるために生きてるんだよ。
玄関に飾ってある置物「沈思」 じっと見ていると落ち着く

拍手

小説「カフェ・ド・C」 11. 午後2時、デートの前に

僕はあまりおしゃべりな方じゃない。無愛想ではないと思うが、積極的にお客様に話しかけたりはしない。軽口が叩けるほど付き合いの長い常連客ならいざ知らず、初めてのお客様には美味しい珈琲を淹れ、落ち着いた時間を過ごしてもらうことに細心の注意を払っているつもりだ。そんなカフェ・ド・Cでも、お客様同士の小さなやりとりを目にすることはある。
学生だろうか、女の子がひとりで窓際の席に座った。午後二時。店はすいていて、カウンターでは僕の中学時代のクラスメイト、タエがひとり、マダムから貰い受けた黒猫がどんなに素敵に育っているかをしゃべっていた。
女の子のテーブルでは一度だけ口をつけた珈琲が冷めているし、開いた文庫本のページも進んでいない。頬杖を付き窓の外をぼんやりと眺めながら、考え事をしているのだなとわかった。ようやくふた口目の珈琲を口に運ぼうとしたその時、店の電話が鳴った。考え事から現実に引き戻されたのだろうか。女の子は珈琲を取り落しそうになり危ういところでソーサーに戻した。ソーサーにこぼれた珈琲がテーブルに少し飛び散る。僕が電話を取り珈琲豆の注文をメモしている間に、タエが勝手におしぼりを持って行った。
「あら、チュニックにも着いちゃったわね」「あっ、どうしよう」
女の子はおしぼりで薄いピンク色のチュニックの胸のあたりを拭き始めた。
「ちょっと目立っちゃうね。クリーニングすれば落ちると思うけど」
「目立ちますか?」
女の子は泣きそうな顔になる。僕はもう一本おしぼりを出した。
「これからデート?」とタエが聞く。
またまた立ち入ったことを、と思うがもう遅い。タエは中学時代から、ずうずうしいと言ってもいいくらい誰とでもフレンドリーにしゃべり、その上おせっかい焼きなのだ。
「あ、はい。三時に駅で待ち合わせてて」女の子は素直に答えた。
もうあまり時間がない。その時、するりと女の子の胸元に薄紫のスカーフが巻かれ、珈琲のしみは一瞬で見えなくなった。タエが巻いていたものだ。
「貸してあげる。その方が、顔が明るく見えるよ」
タエはカウンターに置いてあった手鏡を差し出した。女の子がそれを覗き込んでぱっと笑顔になる。
「ありがとうございます。じつは彼とケンカしてて。どうやって仲直りしようか考えてて、精一杯おしゃれしてきたのにどうしようって思って」
「じゃ、遅刻しないように走って行った方がいいよ」
女の子は、時計を見てあわてて会計を済ませたが、店を出る前に深く一礼した。考え事をしていた顔とは別人のような明るい表情になっていた。
「で、君もこれからデートじゃなかったっけ?」
「またまた立ち入ったことを」
タエは、おつりは今度でと千円札をカウンターに置きそそくさと出て行った。

栗の木のカウンターに置かれた手鏡とタエのスカーフ

拍手

それで、楽しかったの?

夏休みも毎朝娘を駅まで送っている。家でひとり勉強するよりは学校に行く方が集中できるらしい。親から見ても申し分のない受験生だ。わたしには送り迎えくらいしかできることもないので喜んで運転させてもらっている。
そんな朝の車中での会話だ。
「それで、夕べは楽しかったの?」と娘。
うっ、と言葉に詰まった。じつはその前日飲み会で軽く口論になり、しょげていたのだ。
「た、楽しかった、とは?」返事も重くなる。
「いや何ていうか、飲み会から帰ってきたら、いつも絡んでくるじゃない? それがなかったからどうかしたのかと思って」
なんと彼女は心配して聞いてきたのだ。
それも「楽しかった?」と探りを入れるのは親の所作である。いつから君はわたしのお母さんになったのか? そう思いながらもわたしは言葉少なに飲み会での話をし、娘は一言一言誠実に返答し感想を言った。とうとう逆転したと、もう認めざるを得ない。
 
駅からの帰り道、わたしは車を停め、八ヶ岳に話しかけるしかなかった。
「あんなにちっちゃかったのに」とわたし。
「初めて会った時にはまだ5歳だったね」と八ヶ岳。
「季節は移ろうものだよ」と八ヶ岳の肩に手をかけた入道雲が言う。「田んぼの稲だって日々色を変えてるじゃないか」
「夏も終わるね」八ヶ岳が反対側の空に広がるうろこ雲を眺めた。

朝晩の気温が下がるようになり、くっきりと姿を見せるようになった八ヶ岳

拍手

「ひとつの」出会い

山梨に越してきてからずっと、ひとりの美容師さんに髪を切ってもらっている。ふた月に1回くらいの割り合いでカラーとカットをしてもらう。考えてみると長い。ここに来てもう12年だ。
初めて会った時、彼女はまだ若く20代半ばくらいだった。若いのにとても落ち着いて話しをする女性だなというのが第一印象だった。だからといって若さがないわけじゃない。いつも前向きで明るく楽しいことが好きでチャレンジ精神にもあふれている。
人見知りをするわたしが、すぐに打ち解けて話せるようになり、髪を切ってもらうたびにホッとした楽しい時間を過ごせるのは、彼女が稀にみるすぐれたバランス感覚の持ち主だからだと思っている。
だからわたしは、彼女が違うお店に移った時にも彼女についていった。
そして今月。彼女、みなこさんはひとりでお店を出した。美容室『ETT』甲府市高畑の住宅街の中に自宅兼お店を建てオープンしたのだ。今日初めて行き、髪をゆっくりと洗ってもらいカラーとカットをしてもらった。
みなこさんらしい白い壁の内装に落ち着いた木を使った棚やチェスト、天窓から差す陽が明るくシンプルな空間を演出している。『ETT』(エット)は、スウェーデン語で「ひとつの」などの意味を持つと言う。英語で言うと「a」みたいな言葉かな。今度もっとちゃんと調べてみよう。
お店の名前としてはとてもいいと思う。シンプルがスタンスの彼女らしいし、わたしのように物忘れがひどくなっていても思い出しやすい。
「で、何ていう美容室?」「えっと」もう、口に出した時点で思い出せる。
そんなみなこさんを、わたしはずっと応援している。

植えたばかりの木々が白い壁に映えておしゃれ!
「成長して森みたいになればいいな」とみなこさん


拍手

蜂によるアンチエイジング効果

成長したきくらげさんは、弾力がありびっくりするほど美味しかった。
しかし軒下のスズメバチの巣の成長は、喜ばしいものではない。そこで蜂に詳しい多趣味で珈琲の焙煎もする日本野鳥の会所属のご近所さんに、見てもらうことにした。
蜂の種類はキイロスズメバチだということが判明。下から見るだけなら危険はないと観察を薦められ、夫はすぐには巣を駆除しないことに決めた。
ご近所さんお薦めの理由。他の蜂が襲いに来る様子は見ごたえがある。近くには世界最大の大スズメバチが生息している。キイロスズメバチの巣をバリバリ破っていくパワーはすごい。家賃もなしに軒下を貸しておいて観察しないのはもったいない。冬になる頃にはどうせ蜂も巣を捨てる。ということだ。
ということだが、その大スズメバチが襲いに来てからでは、駆除するのはさらに難航するのではないか? だいたいその大スズメバチが危険なのではないか? という疑問が残った。けれどそんな疑問などどうでもいいと言うように、ご近所さんはとてもうれしそうに目を輝かせていた。
「美味しいんですよ、大スズメバチは。蛋白質たっぷりです」
さらに「森の暮らしはいいなぁ」と、うらやましげにため息をつき、キイロスズメバチの巣を愛おしそうに見上げた。夫も同じような顔をして見上げている。ふたりとも夏休みに大きなカブトムシを目の前にした少年の顔だ。蜂蜜にはローヤルゼリーなどアンチエイジング効果が期待される栄養源が含まれているようだが、蜂蜜なしでもおじさん達は十分若返っていた。
「虫捕り少年、帰ってこないよ」お昼ご飯を待ちながら、娘に言うと、
「少年は放っといて食べよう」と、さっさとオムライスを口に運んだ。
 
好き嫌いはない方だが蜂は食べたくはない。昆虫酒場にやってくる大スズメバチはたいそう綺麗だが、それでも食す気持ちにはなれない。10歳若返ると言われても絶対食べないな。まあ30歳なら考えてもみるけど。

サッカーボールより大きく成長していたキイロスズメバチの巣

拍手

きくらげちゃん、大人になる

帰省で留守にした間に、成長していたのは稲穂だけじゃなかった。
庭では好き勝手に雑草が伸び、勝手に生えてきた百合は蕾を重そうにたらし、軒下には、これまた勝手に丸く大きく見事なスズメバチの巣が作られていた。
そして、きくらげちゃんが大人になっていた。もうきくらげちゃんと呼んではいけない。きくらげさんと呼ばなくては。
同時に近所の畑のゴーヤも立派に生っていて、昨日1本いただいた。当然きょうは、やったぜ! ゴーヤチャンプルー! ということになる。うれしい。
我が家のゴーヤチャンプルーはとても簡単で、味つけはオイスターソースと胡椒だけ。豚バラ肉、もやし、豆腐に卵、きくらげさんとゴーヤを油で炒めて、さっと味つけ、出来上がり。ゴーヤの苦さがたまらない。ビールとの相性もばっちりだ。
 
甘いものは苦手だが、苦いもの、辛いものは大好きだ。特に自然の苦さを持つゴーヤとかふきのとうには目がない。しかし食い意地を張ってはいけない。一度ふきのとうの天麩羅を食べ過ぎて、まぶたが腫れたことがある。自然の苦みを持つものは、アクも強いのだ。美味しいものは少しずつ、まぶたが腫れない程度に食べるべきと学んだ。
今年もゴーヤの季節がやってきたことに感謝しつつ、まぶたが腫れない程度に思いっきり食べたいと思う。

美味しそうに成長したきくらげさんとゴーヤ

拍手

内容が無いよう、でも読みたいよう

「嘘偽りなく」という言葉がかっこいいレイモンド・カーヴァ―『必要になったら電話をかけて』(中央公論新社)だが、娘はこう薦めてきた。
「内容が無いところが、いいんだよね。だらだら読める感じ?」
わたしは、いつもの通り言葉遊びを始めた。
「内容が無いよう、でも読みたいようって感じ?」
娘も応じる。「そうそう。内容が無いよう。でも読みたいよう」
さらにわたしがあおる。「たーいたーいのたいこさん」
そして、ふたりハモる。「レイモンド・カーヴァー、読みたーい!」
三つ子の魂百まで。(彼女はまだ17歳だが)長野ヒデ子の『せとうちたいこさん デパートいきタイ』(童心社)は、昔一緒に読んだ絵本だ。
「たーいたーいのたいこさん、デパートいきたーい!」というたいこさんのリズムやセリフがわたし達の中に残っていて、こうやって言葉遊びの中にいまだに使われている。
それはそれとして、カーヴァーを読み終えたわたしの感想は「内容が濃いよう」だった。アルコール中毒や長く連れ添った夫婦の別れなど、ディープな要素が中心に置かれている。娘に伝えると、ふーんと考えて言った。
「殺人もないし急展開もないからそう思うのかな?」
彼女はカーヴァ―を読むには若すぎるのかな、というのがわたしの感想だ。まあいい。彼女はもう少し大人になってからふたたびカーヴァ―を読む機会があるだろう。
 
ところで、今日日中は山梨も暑かった。わたし達の言葉遊びも、暑さにやられたのかうまく機能しなかった。というか崩壊していた。
「かけるもの持ってないの?」
運転中、足が日に焼けるという助手席の彼女にわたし。
「かける? Can write?」
「ライト?」懐中電灯を思うかべるわたし。
「かくだよ、かく。ペンとかで」ペンライトを思い浮かべるわたし。
「かくものなら持ってるよ」と彼女。そこでようやくわかる。
「ひざにかけるカーディガンとか持ってないの? って聞いたんだよ」
「あー。もう、日本語も英語も通じてない」

涼しくなってからのびっきーの散歩中、ご近所の畑でいただいた野菜達

拍手

ジモティ

嘘偽りなく、神戸は暑かった。
お盆の帰省ラッシュになる前にと、早めに帰省したのだ。
義母の新しく買ったプリンターの設定や、お供えのお花などの買い物をしたり、焼き茄子も焼いた。短い滞在だったが、ゆっくりおしゃべりもできた。一緒にビールも飲めた。買い物の際には、頼まれた写真用紙を買いがてら神戸らしいおしゃれな文房具を置いたお店もゆっくり見ることができた。暑かったが、楽しい帰省だった。

帰ってきたら、たった3日前まで青々としていた田んぼの色が変わっていた。稲が実り始めている。ウッドデッキには南瓜が3個。毎年1年分のお米を買っている田んぼのおばあちゃんが置いて行ったのだなとわかった。ここに置いていくのは、お米のおばあちゃんしかいない。苗字を呼ばないのは、この辺りには多すぎる苗字だからだ。同じ苗字できゅうりのとか、りんごのなどと、わたしと夫は呼んでいる。昔から住んでいる人達(わたし達は彼らを、地元の人ジモティと呼んでいる)は、ファーストネームで呼び合っているようだ。

夫は神戸に帰るとジモティだ。それが居心地を悪くし、またよくしているのが、東京という特殊な都市生まれのわたしにも最近分かるようになった。地域にもよるが東京にジモティはあまりいない。人も流れていく場所なのだ。わたしはこの先もずっと、何処ででもジモティにはなれないのかもしれないと思い、嘘偽りなく、淋しさを感じた。


神戸元町の昔からある建物を利用したショップ
港町ならではの雰囲気に神戸を感じた

拍手

嘘偽りなく

「嘘偽りなく」という言葉を使いたくてうずうずしている。
最近村上春樹を読み始めた娘に薦められ、レイモンド・カーヴァーの短編集『必要になったら電話をかけて』(中央公論新社)村上春樹訳を読み、その中の「嘘偽りなく」に反応してしまった。20代の頃夢中で読んだ村上春樹色を濃く感じたのだ。
「あんたたちがいなくなると淋しいね」とピートは言った。「嘘偽りなく、残念だよ。でもそれが人生だ」(短編『どれを見たい?』より)
かっこいい。わたしもかっこよく「嘘偽りなく」を使ってみたい。こういうのは慣れなのだと自分に言い聞かせ、使ってみよう。
「愛してるよ。嘘偽りなく」何故か嘘偽りがあるように聞こえるのは気のせいだろうか。
「気のせいさ。嘘偽りなく」と自分に言ってみる。
かっこよく使えるようになるまでには相当時間がかかりそうだ。マジで。いや、違った。嘘偽りなく。そう。嘘偽りなくだ。

拍手

太陽の恵みによる逆転劇

日本一日照時間が長い町なので、太陽のイメージである「ひまわり」の畑がたくさんある。7月後半からちょうど8月今の時期くらいまでは、どこかでひまわり畑を観られるように、時間差をつけて咲かせている。観光客に来てもらうためだ。
種まきの日には防災無線で「本日午前8時からひまわりの種まきをします。多くの方のご参加をお願いします」と早朝に町民の参加者を募る。わたしも何年か前に参加した。
 
町に住む人はもう、わざわざひまわり畑を観に行ったりはしない。夏になると他県ナンバーが多くなり、その渋滞に巻き込まれないように道を選ぶ基準のひとつがひまわり畑で、そこを避けて裏道を通ったりするくらいだ。
 個人的には緑が濃くなった田んぼや、小さな緑の宝石みたいな実を付けたワイン用の葡萄畑や、花をつけたままぶらさがっているみずみずしいきゅうりの畑の方に美しさを感じるが、もちろんそれらを観にやってくる人はいない。

なのでひまわりの恩恵にはさほど与っていないが、太陽の恵みはずいぶんといただいている。今朝も夫に褒められた。
「また逆転だ! よくがんばってるね」
いくつになっても褒められるとうれしい。えへへ、やったぜ! という気持ちになる。電気代のことだ。
太陽光発電の売電額が、電気料金より上回る逆転劇が3か月続いている。上の娘がオーストラリアに行き家族が減ったので食器洗い機の使用を辞め、こまめにコンセントも抜いて歩いている。エアコンはもともとない。
太陽の恵みと褒めてくれる夫に感謝して、今月もがんばろう。

そろそろひまわりの季節もおしまい
オニヤンマが飛んでいました

拍手

めざせ! 二桁

まだ夏だというのに、限りなく二桁に近づいている。
去年はたった3日だったというのに、今年はもう9日。3倍だ。骨折入院したしインフルエンザにもなった。健康診断もすませた。「生ビールたった5杯で愚痴言い放題の会」でフェイントでそれ以上飲んでしまい、10年ぶりにお酒を見たくないほどの二日酔いをしたのも効いている。
(過信していた。もう自分は二度と二日酔いはしないと。アルコールにも免疫があり、毎日飲んでいると二日酔いなどしないのだと)
9日、と言うのは今年に入ってからの休肝日のことだ。

 
そして昨夜。
「ジャック・スプラットの奥さんにならないために、少し体重落そうと思って」とダイエットビールを飲んでいると、娘に方向性が違うと指摘された。
「ダイエットするんなら、ビールをやめればいいじゃん」
「そうだね」
娘と話をするときには、まずは一応彼女の意見を肯定することにしている。でもね、と心の中でつぶやいた。
「ビールを飲むために、毎日がんばっているんだよ、母は。それにさ」
今度、彼女に教えてあげようと思う。
「正論を言うやつは嫌われる」世間にはそういう言葉があることを。
「人は大きなことのために生きているんじゃない。もっと小さなことのために生きているんだ」伊坂幸太郎の本の中には、そういうセリフがあることを。
(かなり小さなことなために生きているわたし……)
ということで娘の意見を肯定し、近いうちに(どこかの国のトップを真似ているわけではないが)今年10日目の休肝日を設定しようと思う。ぜひ、近いうちに。まあそのうちに。

午前0時を過ぎたら、もう明日……
飲んでも休肝日にカウントできるんだろうか

拍手

小説「カフェ・ド・C」 10. 幸せについての不本意な敗北

店の片隅に小さな本棚を置いている。
カフェ・ド・Cを始めた頃には、珈琲読本など僕自身の参考書のようなものが多かったが、七年もたつと様変わりしたのがわかる。常連のお客さんオススメの読み終えた推理小説。時間がたった忘れ物の分厚い純文学。妻が一時期ハマったイタリアンレシピの料理本。そしてマダムが置いていく猫の写真集。
そこに最近、絵本が加わった。バイトのユウちゃんが小学校の美術教師志望で、気に入った絵本を置いていく。生まれたばかりの僕の娘のためだと、わかりやすすぎる素直さが彼女の取り柄でもある。
「読んでもらいたい誰かがいるってことが、絵本選びにはものすごく重要だってわかりました。もしかしたら、絵を描くことにも通じてるかも」
その言い方に迷いがあるように感じて、僕は言った。
「先生じゃない道も考えてるの?」
ユウちゃんは、うれしそうにため息をついた。
「わかりますか? シュウちゃん見たら、何も極めていない自分が絵を教えられるとは思えなくなって」
娘には「集」と言う名をつけた。集う、と言う意味だ。笑顔を見せるようになった集は、本当にかわいい。
「大抵の大人だって、何も極めちゃいないさ。僕だって珈琲を極められるかなんてわからない」
不安なのは、大人も子供も若者も、みんな同じなのだと今ならわかる。集が生まれ、もし妻が仕事を辞めなくてはならなくなったら、この店だけで暮らしていけるのか考えた。珈琲を極めるどころか、利益重視の商売をしなくちゃならない。しかし、産休明けに仕事に復帰した妻は言った。
「珈琲の味が落ちたら、別れるから。集はわたしが育てます」
脅迫だ。その脅迫にはマダムも加担している。
「集のことはわたしに任せて、二人とも今まで通り仕事に専念してね」
妻は去年大きなプロジェクトを任されて成功し、今年もまたそのクライアントからの仕事が来たそうだ。育休を取るという選択肢さえ彼女にはなかった。
「何、弱気なこと言ってるんですか。心強い女性陣がついてるのに」
ユウちゃんの言う通りだ。
「ほんと、幸せだと思ってる」
口をついて出た言葉に、ユウちゃんがぱっと笑顔になった。
「やった!」「何?」
「マスター、幸せな時には幸せだって言わなくちゃ。幸せは口に出しても逃げてなんかいきませんよ」
ユウちゃんはICレコーダーを見せた。妻がいつも仕事で使っているものだ。
「ほんと、幸せだと思ってる」
僕の声がリピートした。不本意ながら本当に幸せそうな声だった。
カフェ・ド・Cの本棚に飾られた(?)フォトフレーム
常連客がイタリア旅行で撮ったイタリアの風景

拍手

失敗は大失敗に隠せるのか?

ギャングには続きがある。『陽気なギャングが地球を回す』(祥伝社文庫)のギャング達4人は失敗したままでは終わらなかった。
「ギャングの続き、読んでないの?」
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間が責めるように言い、文庫本『陽気なギャングの日常と襲撃』(祥伝社文庫)を差し出した。
「文庫にしかないボーナス短編付き」と威張る。
「映画には続編の中のエピソードも入ってるらしいね」
わたしも知っていることを言い応戦する。
「映画でも、やっぱ久遠が最高だったね」と彼女。
「松田翔太、二十歳くらいでかわいかったなぁ。それにしてもたびたび言うようだけど」とわたし。
「もう言わなくていいよ」とうんざりした様子で彼女。
「成瀬は大沢たかおにやってほしくなかった」「聞き飽きたから、それ」
大沢たかおさんには本当に申し訳ないけれど、わたしの脳は彼を拒絶する。「嫌い」なのではなく「受け付けない」のだ。まあわたしに受け付けてもらわなくても、大沢たかおさんには何も支障はないと思うが。
「でもさ、でもさ、成瀬が好きなのにぃ」とは言いたくなる。
響野は佐藤浩市、雪子は鈴木京香。ハマり役だ。
 
ところで続編は、外国の諺を使ったサブタイトルが人気。
『巨人に昇れば、巨人より遠くが見える』「自分より大きな人の力を借りて成長できるって意味だと思うんだけど」(成瀬の部下の彼女のセリフより)
『ガラスの家に住む者は、石を投げてはいけない』「弱みを持っている人間は相手を批判してはいけない。逆に批判される可能性があるぞ、という戒めなわけだ」(響野のセリフより)
『卵を割らなければ、オムレツを作ることはできない』「無傷で何かを得ることはできないってこと。オムレツが作りたければ卵の殻は割るしかない。意訳すれば恐れずに何でもやってみようってことじゃないの?」(雪子のセリフ)
『毛を刈った羊には、神も風をやわらげる』「ようするにさ、弱い者には優しくって意味だと思うんだ」(久遠のセリフより)
この4人別々の短編が「日常」で、その4つのストーリーが「襲撃」社長令嬢誘拐事件に連鎖する。そしてボーナス短編『海には逃がしたのと同じだけのよい魚がいる』には、さらに楽しい「日常」のおまけが待っている。
 
「シアターCのオーナーの口癖いいよね『四の五の言わずに勝負しろ』」
「響野の『わたしの言う通りにやれ。わたしのやる通りにではなく』も好き」
「でも響野と言えばこれだね。『木は森に隠せっていうだろ、失敗は大失敗に隠すんだ』」「うーん。まさに響野にしか言えないセリフ!」

木は森に隠せても、薪は森に隠せない
薪ストーブを使う我が家には3年分くらいの薪がストックしてある

拍手

お得に映画

久しぶりに映画館で映画を観た。映画はひとりふらりと観るのが好きだが、夫と観た。夫婦のどちらかが50歳以上だと一人千円になる。お得だ。お得なのは大好きだ。
夫は「身分証明書のご提示を」と言われるかと期待していたが、期待は裏切られた。軽くスルー。普通に50代の夫婦に見えるってことだ。
「まあさ、期待は裏切られるためにあるようなものだからね」と、わたし。
「なんで身分証明書の提示を求めないのかって文句言ってもいい?」と、夫。
「どうぞ」と言うわたしを、今度は夫がスルーした。
観たのは「ダークナイトライジング」クリストファー・ノーラン監督のバットマン3作目だ。アクション物はいい。観た後スカッとする。
それから、ふたりで遅いランチに同じモールの中でラーメンを食べた。会計をすませてラーメン屋ののれんをくぐると「あっ!」と夫が小さく声を上げた。入り口には「シネマチケットお持ちの方トッピング無料」のはり紙が。
「むむっ!」とわたしも小さく声を上げる。もっとお得に食べられたはずのラーメンをみすみす無料トッピング具材なしで食べることになってしまった。お得に過ごすためには注意力が必要なのだ。映画が終わったのが午後2時で、ふたりとも空腹だったのが敗因だと思われる。

帰ってきて涼しくなったウッドデッキで、それぞれのパソコンを開きながらビールを開ける。お得にはほんの少しケチがついたがいい日曜だった。

ホンダのマークってバットマンっぽくない?
夕方の雲がフィットに映り、流れていく

拍手

12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)
Template by repe