はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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物真似カケス

庭に、カケスが飛んできた。
「あの大きい鳥、何だろう?」と、夫。北側の窓から外を見ている。
「カケスじゃない?」ブルーの羽根を見て、わたし。
大きさは、30㎝以上ある。
「つがいだね」「ほんとだ、2羽いる」
カケスは、オスメス、色や模様も同じだという。
ふたりでカメラを出し、しばし撮影した。家のなかからの撮影で、カケスは元気よく動き回るので、上手くは撮れなかったが、なんとかカメラに収めた。
土をつついていたから、虫を探していたのだろう。それからも、2度飛んできたので、我が家の北側は、食材が豊富なのかも知れない。

カケスは、百の舌があるとかく百舌(モズ)よりも、さらに物真似が上手いといわれる野鳥だ。
ある地方では、赤ん坊をカケスがさらっていくとの言い伝えがあり、子どもがあんまり泣くと「カケスに連れて行かれるよ」と大人に言われたという。カケスが赤ん坊の泣き声を真似しながら飛んでいく様子が、まるで赤ん坊をさらっていくかのように聞こえたらしく、そんな言い伝えが生まれたそうだ。

本来の鳴き声は「ジェージェー」
「最近聞こえるあれは、カケスだったのか」と、夫。
いやしかし、これからは何が聞こえても、カケスの仕業かと疑ってしまいそうだ。静かな林のなかにある我が家だけに、耳を澄ませば様々な音が聞こえてくる。まだ姿を見ただけだが、カケスの会話が聞こえてきそうな気配を感じた。

ブルーの羽根で、すぐにカケスだと判りました。

ぎょろりとした丸い目で、何を見て、

ごま塩頭で小首を傾げて、何を考えているのかなぁ。

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ツルウメモドキに笑う門

庭の北側の石垣を歩いていて、ツルウメモドキを見つけた。
昨年までは、なかったものだが、満開と言いたくなるほど、たくさんの赤い実をつけ、花のようなオレンジ色のガクを開いている。ハッとするほど綺麗だ。
「鳥が、運んできたのかな」
暖色のコントラストを嬉しく眺める。ツルウメモドキは、散歩道で見かけても立ち止まるほど、その実が可愛らしく好きなのだ。それが庭で見られるとは。

花言葉のひとつに「開運」とある。実が生ってから、ガクが開く様に「運を開く」と連想したのだろう。
「いいこと、あるかな」そう思うと、自然と笑顔になる。

その後、夫とふたり、今年初めて、渡り鳥ジョウビタキを見た。羽根にぽつんとついた白い模様が、目に眩しく、ふたたび笑顔になる。
笑顔になると、心もほっこりし、久しぶりに、この諺を思い出した。
『笑う門には、福来たる』

赤とオレンジに、自然が創った美しさを感じます。

冬の野に、この色。太陽の暖かさが、いっぱい。

散歩道でも、こんなにたくさん実が生ってるところは珍しいです。
嬉しいな。種を撒いたのは、ジョウビタキくん?

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今夜は『鍋』にしよう

夕べは、寄せ鍋にした。子ども達はいないが、鍋好きの夫婦ふたり。今年も鍋の夜が多くなりそうだ。
ところで、ずっと不思議に思っていたことがある。
「どうして『鍋』って名前なの?」
寄せ鍋、チゲ鍋、牡蠣鍋、豆乳鍋、最近ではトマト鍋やカレー鍋の素も、売っている。そういった食材や味つけの名前が入ると、料理らしくなるのだが、ただ『鍋』というと、それは調理器具ではないか、と思ってしまうのだ。
だが、普通に会話で「今夜は鍋にしよう」などと言う。何処かでひっかかる違和感を覚えつつも、自分でも使っている言葉だ。

ところが、調べてみると、全く簡単なことだった。『鍋料理』の略。ザッツオール。これまでひっかかっていたのは、いったい何だったんだろうと、がっくりするほど単純な答えだった。
クイズやパズルなどでは、解けない人にはもう何時間かけても解けず、逆に一瞬で答えが判ってしまう人もいるという。
『鍋』に関しては、わたしは前者だった訳だ。他にもいるのかなぁ。『鍋』って名前、変だよなぁって思っていた人。いや、いる。絶対にいる。そう信じよう。信じる者は、救われるのだ。

牡蠣も白菜も、美味しい季節になっていきますねぇ。

春菊を最後にたっぷりと入れて、ひと煮立ちすれば、出来上がり。

味つけは、夫の担当。薄口醤油と味醂、酒のみです。
薄味で美味しかった~。あったまった~。食べすぎた~。

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冬の訪れを前に

一度、木枯らしが吹いてから、静かに温かな日々が続いている。小春日和。11月にしか使えないその言葉がぴったりの暖かな陽射しが降り注いでいる。
多少の気温差はあれど、薪ストーブを焚くほどではなく、部屋のなかでもフリースを着込み、野菜スープなど温かいものを煮たりして、冬が訪れる前の時間を楽しんでいる。

「小春日和」という言葉が好きだ。11月にしか使えないというところに特別さを感じるし、英語で言う「インディアンサマー」は「神様が冬眠前にキセルで煙草を吸い、その煙が暖かな日を作る」ので、その日に冬支度をするというのものらしく「あ、神様、キセルふかしてるなぁ」と空を見上げるのも楽しい。11月を「春」や「夏」と呼ぶのも素敵だ。

昨日は、八ヶ岳に雲が乗っていた。八ヶ岳の上にかぶさるようにかかる雲は、八ヶ岳おろしが吹く前兆だとも言われるが、雲の感じが、それとは違っている。柔らかく優しい秋の雲だ。北風は吹かないかも知れないと思っていると、やはりそうだった。八ヶ岳おろしの雲かどうか、見て判るほどには、長く暮らして来たと言うことらしい。

「北風のなか、薪運びをする日々が始まるねぇ」
「これだけ晴れてると、今夜は冷えるかも知れないよ」
昨日、出張から帰って来たばかりの夫と、薪を運んだ。薪を運びながら、夫が北側の軒下を見上げて言う。
「あの穴、埋めなくちゃなぁ」「ああ、キツツキがつついた穴ね」
我が家は、よくアカゲラやコゲラなどのキツツキ達に、つつかれるのだ。
「新聞の冬前家診断チェック表に、かいてあったんだ」
そのままにしておくと、蜂などが巣を作るらしい。
「外板が、はがれかかってる所もあるしね」「あ、ほんとだ」
「でもまあ、とりあえず、今夜は薪ストーブ燃やそうか」「いいね」
霜月の春を楽しみつつも、冬を迎える準備として、やっておくことは、まだまだありそうだ。神様は、あと何回キセルをふかしてくれるだろうか。

八ヶ岳は、雲を嫌がらず、おしゃべりしているような感じでした。

上の方には、こまかいうろこ雲の子ども達。

東の空にも、大きなうろこぐもが広がっていました。

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大根に冬を感じて

埼玉の末娘を訪ね、東京で友人達と飲み、帰ってくると、ポストには銀杏、ウッドデッキには大根が置いてあった。
「笠地蔵さん、ありがとう」
地蔵に笠をかけた覚えはないが、ありがたくいただく。銀杏は、近所の年下の友人から。多分、大根は、毎年お米を買っている田んぼのお婆ちゃんからだ。
これは、熱燗だな。と、ひとり晩酌のメニューを考える。夫は留守だが、買ったばかりの甲斐男山を開けて、くいっと呑んで温まろう。

大根は、いつも入れる鶏肉は省き、白だしでことこと煮た。大根の葉は、軽く茹でて胡麻油で炒め、みりんと醤油をさっと煮たて、銀杏は、レンジでチンして、五島列島の塩を添える。冷凍庫には、京都の生麩がある。バター焼きにし、晩酌の準備は整った。
薄味で煮た大根は、しっとりやわらかかった。

「大根の季節に、なったんだな」冬が来るのだと、不意に実感する。
そう言えば、と、留守にしている間に『明野ふるさと大根祭り』が、やっていたことに気づいた。何年か前までは、子ども達を連れて出かけた、明野で一番盛大なお祭りだ。大根抜き体験もでき、大根の形のアドバルーンが上がる。
子どもが大人になっていくと、こういう場所に行くこともなくなり、祭りがあることさえも忘れるようになったかと、少し淋しいような気持ちで考えた。
時間の流れって、不思議だ。じつは不思議でもなんでもないことなのだが、ある時ふと立ち止まって考えると、自分の忘れていた部分、見ていなかった部分も、知らぬ間に時を経ている。それが不思議に思えてしまう。だから、見過ごした車窓の風景を惜しむように、振り返ってみたりするのだ。
それでも明野は、変わらず「大根の村」で、わたしは今年も、ウッドデッキに置いてあった大根を煮て、温かな冬を感じている。

掘りたてだったようで、土がまだ湿っていました。

イチョウももう、銀杏を落とす季節なんですね。

甲斐男山は、熱燗にぴったりの日本酒。身体の芯から温まります。

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方向音痴からの方向転換案

東京駅前の丸ビルで、友人達と待ち合わせた。ランラララン、女子会だ。
温かな陽が射す秋の終わり。幸い時間に余裕があったので、ちょっと歩くのも気持ちがいいかなと、よせばいいのに、東京駅周辺を散策することにした。
そして、わたしのことだから、当然迷子になった。

日本橋口の方へ行ってみようと、駅ナカを歩き始めたのだが、日本橋口が見つからない。駅ナカは同じような店がいくつも並び、歩けど歩けど、日本橋口には、たどりつかないのだ。
山で道に迷った時に、必死に下山しているつもりが、2時間も歩き、ふと、ここはさっき通った道だということに気づいて、パニックになり遭難するという話を聞いたことがある。それと同じ体験も、してしまった。
「あ、この店、さっきあった。なんで、ぐるぐる回ってんの?」
わたしは、山には絶対に登らない方がいいと、確信した。

ようやく外に出て、日本橋川を眺め、わたしが授かった方向音痴という人より秀でた能力について、考えた。
スローライフ、スローフードなどに、注目が集まる時代。ゆっくり迷いながら歩くことにも、注目してみてはどうか。人としての経験値が、道に迷えば迷うほど、上がっていく。そんな風に考えたら?
「あ、また迷子になったんですか? すごい! うらやましい」
「どうしたら、道に迷えるのか、コツを教えていただけませんか?」
「ナビがあっても、迷うんですってね? 上級なテクニックですね」
「きみ、遅刻は困るなぁ。なに、迷った? 迷子遅刻申請の書類出しといて」
世の中自体が、そんな風な基準になったら?まあ、なんてことには、ならないだろうな。だいたい、何回迷えば気がすむんだよ。経験値、上げろ、自分。

もうすっかり見慣れた、レンガ色の東京駅。

もと郵便局KITTEには、丸ビルなどが映っていました。

八重洲北口には、こんな場所も。石垣の上には、緑が。

丁寧に管理された植物たちもまた、綺麗です。

「しはくこちい」? いえ「一石橋(いちこくばし)」です。

日本橋川沿いには、同じような橋が、並んでいます。トラップなのか?

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『誰かが足りない』

「あ、シンクロ、してる?」
以下の文章を読んだ時に、真っ先にそう思った。昨日ブログにかいたこと、それは一昨日聞いた話でもある。

しあわせな記憶がこの人を支える。思い出せるしあわせだけではない。思い出せない無数の記憶によっても人は成り立っているみたいだ。しあわせだったり、そうでなかったり、うれしい思い出も、悲しい欠片も。
美しい記憶がそのままその人の美しさを支えるわけではないように、悲しい記憶が人のやさしさを支えることがあるように、いいことも、悪いことも、いったん人の中に深く沈んで、あるとき思いもかけない形で発露する。

宮下奈都の連作短編集『誰かが足りない』(双葉文庫)のなかにでてきた、小説の一部。ブログをかいたあとに衝動買いした文庫本だ。
しかし、こういうことは、ままある。テレビを観ながらしゃべっていて、突然ドラマの登場人物と同じ言葉をハモってしまった経験はないだろうか。
ただ、そういう時にふと、思うのだ。
「何かが作用しているのか? これは、メッセージなのか? 宗教は持たないけれど、神様っているのかも。何処かで、笑って観ているのか?」
などなど。その答えが、出たためしはないけれど。

小説のキーになるのは「ハライ」という名のレストラン。初めて扉をくぐった人にも懐かしく感じられ、一度料理を食べたら生涯その味は、忘れられない。特別な時に、特別な人と、食事を共にしなくてはいられなくなる場所だ。
この物語は、秋も終わりの夜、そこに偶然居合わせる6組の客達の、その時に至るまでのドラマを描いた6編の短編集である。

『予約1』会社が倒産し田舎に帰ることもできずコンビニで働く若者は、副業で偽のパワーストーンを売るうちに、自分自身が偽物のような気がしてくる。
『予約2』夫が死んだことを何度も忘れてしまう認知症の老女は、料理をするうちに、昔夫から聞いた「ハライ」のことを思い出す。
『予約3』係長になり仕事とストレスが増えるだけの生活に疲弊する女性は、これまで幼馴染みの男の子を、理解しようとしなかった自分に気づく。
『予約4』母親が急死してから、部屋に引きこもるようになった男子高校生は、ビデオを回すことでしか、外界を見られなくなってしまう。
『予約5』忙し過ぎるブッフェレストランで、硬くなったオムレツを温め直す日々に、頭痛や腹痛を起こしながら働くコック見習いは、ひとりとても美味しそうに食事する女性を見て、ハッとする。
『予約6』他人の失敗を知る嗅覚を持った女性は、古書市で、匂いを感じた知らない男性に声をかける。失踪した叔父のことが頭から離れなかったからだ。

夫の出張中、ひとりで食事をしていると、確かに思う。
「誰かが、足りないなぁ」食卓とは、そういう場所なのかもしれない。
この小説は、そんなわたしへの本の神様からの贈り物だったのだろうか。

末娘が二十歳になったので、お好み焼き屋へ飲みに行きました。
でも、おしゃべりに夢中で、写真を撮るのを忘れてしまいました。
これは、ひとり二次会の様子です。淋しくはないんだけど、
やっぱ『誰かが足りない』?

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夫の茶碗

「お茶碗、そろそろ、買い換えたら? 買ってこようか?」
わたしの言葉に、夫はずっと「うん」とか「あー」とか、生返事をするのみで、うなずかずにいた。そのご飯茶碗には、いくつか欠けた場所はあったが、気に入って使っていたのだ。だからわたしも、強くは言わなかった。
それが、ある朝彼は、茶碗を持つなり、言ったのだ。
「そろそろかな」と。
わたしには、昨日と変わらぬように見えたが、手に持った感覚が、潮時を伝えたのかも知れない。
「茶碗、探しておいて」と言い置き、夫は出張に出かけた。

わたしは考えた挙句、その茶碗を焼いた陶芸家、森下真吾さんの工房に、行ってみることにした。彼の器は、様々なギャラリーなどで購入し、いくつも愛用しているが、工房まで出向くのは初めてのことである。
電話すると、欠けた物なら直せるかもしれないから、持ってきてくださいとのこと。茶碗をくるんで鞄に入れ、車で走ること40分。『陶・SHINGO』は、同じ北杜市は、小淵沢にある。
森下さんは、とても気さくな方で、珈琲を淹れてもらい、おしゃべりしながらゆっくりと作品を見せてもらった。
彼は夫の茶碗を見て、目を細めた。「懐かしいなぁ。嬉しいなぁ」
その茶碗も、簡単な形の金接ぎで直せるという。安心して、違うタイプの茶碗を選ぶことにした。

たがいに東京出身だと判り、しゃべっているうちに小学生の頃の話となり、ご両親の仕事の都合で何年かイランで過ごしたのだと話してくれた。
「やっぱり、ずいぶん影響を受けたんじゃないですか?」と聞くと、
彼は、うなずいた。作風が無国籍なイメージを与えるので、そう聞かれることも多いのだそうだ。
「だけど、もちろん、それだけじゃなく、今まで生きてきたすべての時間が、今の自分を作り、作品に影響を与えているんだと思うんですけどね」
それは、そうだよなぁと納得する。自らを振り返っても、これまでの何十年かもそうだし、昨日も今日も、そうだ。昨日の小さなこの出会いだって、これからのわたしを作っていく一つのピースとなっていくのだろう。そしてこうして話ができたのも、わたし達夫婦が、茶碗を大切にしてきたからだ。それもきっと、わたし達のこれまでが、関係しているはすだ。
そう思うと、何でもない毎日や小さなひとつひとつの時間の積み重ねが、使い込んだ茶碗と同じく、急に愛おしく感じられた。

『陶・SHINGO』の外、入口には、たくさんの人形達が。
独特な不思議世界を、創りだしているよう。

大きな器に珊瑚礁。たまった雨に、木々の影が映っていました。
 
おもしろいお面、お面、お面。龍のやかん or 鍋は、薪ストーブに。
口から湯気が出てくるという、遊び心いっぱいの作品です。

珈琲カップも欲しくなりましたが、がまんしました。

欠けてしまった、夫の茶碗です。大きくて、分厚くて、
柄もダイナミック。男の茶碗! って感じですね。

新しく購入したお茶碗。全く違った感じですが、大きさは近いです。
欠けたお茶碗が戻ってきたら、わたしが使おうかな。

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『雨』(『いくつもの終末』より)

秋の雨が、しっとりと降っている。
音もなく降るものだから、一昨日は洗濯物を濡らしてしまったが、大きな被害はなかった。静かな秋の雨は温かく、気持ちが落ち着く。

作家、江國香織は、雨が降り始めると、窓を開けて雨を見るそうだ。エッセイ集『いくつもの週末』(世界文化社)で、かいている。以下本文から。

雨が好きで、雨が降ると雨をみる。窓を開けて眺めるのだ。雨の音をきいて、雨の匂いをかぐ。うちでは母も妹もそうだった。小さな庭やお向かいの屋根、みなれた風景が濡れるのをみる。光るアスファルト、低い空、たっぷりと水を吸い、葉っぱの一枚一枚をふるわせている木。私たちはみんな雨が好きで、雨が降れば窓を開けた。

このエッセイ集は、江國香織が、自らの夫婦生活を描いたものである。
彼女が、雨に興味を示さない夫を不思議に思うように、彼もまた、雨が降る度に窓を開けて眺める妻を不思議に思っていたらしい。

わたしには、雨を見る習慣はないが、雨の庭を歩く度、このエッセイを思い出す。庭に降る雨は、土の匂いを感じさせてくれる。雪のように一瞬にして世界を変えるような魔法を、雨は持たないが、感じようとする人にだけ、小さなプレゼントをする用意は、いつでもできているようだ。

マツボックリは笠をぎゅっと閉じ、ドングリと寄り添っています。
白いお花のようなきのこが、あちらこちらに生えていました。

ホソバウンランは、春からずっと種を落としては咲いています。
花を咲かせつつ、種もしっかり作っているようです。

ツユクサは、すっかり花を終わらせて、種を落としています。

最後のシロツメクサかな。ひとつだけ、ひっそりと咲いていました。

葉には、たくさんの雨粒が、キラキラ光っています。

薔薇の若い棘って綺麗。雨粒がちょこんとのっていました。

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『アイネクライネナハトムジーク』

伊坂幸太郎の新刊『アイネクライネナハトムジーク』(幻冬舎)を、読んだ。
モーツァルトの小夜曲をタイトルにした、6編からなる連作短編集だ。
モーツァルトは1曲しか出てこないが、音楽と深く繋がっている小説である。と言うのも、ミュージシャン、斉藤和義から恋愛をテーマにした作詞の依頼があり、斉藤ファンである伊坂は、作詞はできないけど小説なら、とかいたというのだ。それが1話目『アイネクライネ』で、2話目『ライトヘビー』は、斉藤和義のシングル初回版特典のためにかかれたもの。百円で今の気持ちにあった曲の一部を流すという斉藤さんなる人物も登場し、歌詞も引用されている。
本人もあとがきにかいているが、伊坂作品にしては珍しく、泥棒も殺し屋も超能力者も出てこない、恋愛テイストの小説集だ。

じつは、読み終えてから一週間が経っている。
夜10時に読み終えて興奮し朝まで眠れなかったほど、かっこよかったのだ。時間を置かずには冷静にかけないと判断し、一週間待った。伊坂ファン故に、こんなにわくわくするのだと自分に言い聞かせる。しかし、ままならない。
「わ、ここ伊坂っぽい! あー、伊坂の文章、かっこいい!やばい。 にやにや笑いがとまらない。全く、伏線回収いったいいくつやるつもりなんだ!」
伊坂の伏線回収には、定評がある。様々なところに伏線を仕掛けておき、それを丁寧に回収していくのだ。小さな驚きから、大きな驚きまで、きちんと用意し楽しませてくれる。すごい作家だなぁと思わずにはいられない。
わたしに、恋は盲目的な部分があるとしても、やはりすごい。伊坂を読んだことがない人に読んでもらって、感想を聞きたいくらいだ。

引用したい部分は数々あれど、雰囲気重視のシーンを選んだ。出会い恋に落ちることについて、主人公佐藤が友人と話しているシーンだ。以下本文から。

「さっきの出会いの話だけど、結局そういうものかもなあって今思ったんだ」
「そういうものって、どういうもの」
「その時はなんだか分からなくて、ただの風かなあ、と思ってたんだけど、後になって、分かるもの。ああ、思えば、あれがそもそもの出会いだったんだなあ、って。これが出会いだ、ってその瞬間に感じるんじゃなくて、後でね、思い出して、分かるもの」
「小さく聞こえてくる、夜の音楽みたいに?」「そうそう」
織田由美には、気の利いたことを言おう、という気負いのようなものはまるでなくて、だからなのか、すっと僕の耳に言葉が入ってくる。
「そういえば、小夜曲ってなかったっけ? モーツァルトの」

ストーリーは、過去に現在に行き来し、様々な登場人物達が交錯する。
「ごく普通の人たちが巻き起こす、小さな奇跡の物語。」と、帯にはある。

表紙をアップにしてみました。何処からか流れてくるメロディ。

ボクサーも、登場人物の一人です。何処かで観戦している人達も。

自転車をこぐ、この少女も、登場人物の一人をイメージしています。
「誰も彼もが自分を避けていくように見える。群れるペンギンのように
 たくさんいるにもかかわらず誰も彼もが素通りだ」
 
カバーをとると、simple な雰囲気に変わります。オレンジの栞が素敵。

王様ペンギンのロゴが、お洒落です。
「悲観的な中で楽観的な話をしたい」著者あとがきより

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左手くんと右手くんと肩書き

「久しぶりで、緊張するね」「ほんと、ずいぶん久しぶり」
「すっかりよくなったもんね」「体操だってできるしね」
「体操始めたはいいけど、サボりがちなのが、気になるけど」と、左手くん。
「うん。僕らは、やる気満々なんだけどねぇ」と、右手くん。
久々に frozen shoulder (五十肩)を患った右手くんと、そのサポート役だった左手くんの登場だ。
患ったのは1年前。その痛みの記憶も、遠くなってきた。自分の痛みでさえ忘れてしまうのだから、人の痛みを理解するのは、難しいはずである。

「でも、僕、もう frozen shoulder じゃないよ。元 frozen shoulder って、言ってほしいな」
「そうだよね。ん? でも僕は、治ったには治ったけど、骨折した手の甲に、まだビスが入ってるから、現在進行形でもあるなぁ」
「じゃあ肩書きをつけるとしたら、左手(元小指中手骨部分骨折、現在チタンのビス2本入り)って、感じかな?」
「五十肩だけに『肩』書き?」「あ、この駄洒落、判ってくれた?」
「でもさ、辞書によると『肩書き』って、職業をかくみたいだよ」
「そうなの? 職業かぁ。僕ら手には、手に余るほど多いなぁ」
「はいはい。また、駄洒落ね。ちょっと意味がずれてるような気もするけど。僕はねぇ、自分の仕事は、けっこうはっきりしてるんだ」
「へぇ、 何?」「君のサポートだよ」「そっか。なんだか、嬉しいなぁ」
「だからもし犯罪を犯して新聞に載るとしたら、左手(右手さんサポート業)かな」「いや、犯罪に手を染める必要はないけどさ、今朝未明、左手(右手さんサポート業)の身柄を捕獲、とか?」
「そうそう。あ、でも職業の他に、前科も肩書きって言うらしいよ」
「ああ、前科何犯ってやつ」「何か声のトーンが落ちたけど、どうかした?」
「だってさ、子ども達が小さかった頃、いたずらした手をペチッてたたいたの、僕だもん。前科百犯くらいかも」
「そんなことないよ。君のペチッはペチッ以上の音には、ならなかったし。それに、頭をなでたのも背中をとんとんしたのも、君の方が圧倒的に多いしね」
「懐かしいなぁ。なでなで、とんとん」
「うん。懐かしい。あれは、僕ら手にとっては、素敵な仕事だったねぇ」
「でもあの頃、僕らたいへんだったよね」「抱っこし過ぎて、ふたりして腱鞘炎になってさ」「なでなでするのさえ、ヘロヘロだったよね」「今朝未明、右手(ヘロヘロなでなで)の身柄を確保」「もう! しみじみしてたのにぃ」

しみじみする左手くんと右手くんの会話を聞きながら、左手くんに倣い、わたしが新聞に載るとしたら、自分から果てしなく遠いと思われる「会社役員」って肩書きがつくんだろうなぁと考えた。
そう考えると、新聞で読む肩書きは、まるっきり別人のイメージを創り上げることもあるのだと判る。他愛ない、左手くんと右手くんの駄洒落攻撃だったが、同じ肩書きでも、ひとりひとり違う。そのことを覚えておこうと思った。

カナダにいる娘に送る手袋を、買いました。
「シーです。よろしく」「プーだよ。よろしく!」

「口のなかは、ピンクだよ」「あ、プー、はずかしいったら!」

「なになに、新入りくん?」「あー、黒ヒツジくん達、可愛い!」
「シーです。よろしく」「プーだよ。よろしく!」
「ネリーよ、よろしく」「ハリーだよーん。仲良くやろーぜ!」

「そっかぁ。すぐにカナダに行っちゃうんだね」
「向こうは寒いらしいから、手を温める仕事も、やりがいあるよねぇ」
「はい! がんばります」「またいつか、会えるよね」

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潜在意識と葱味噌ラーメン

夜中にふと目が覚め、ハッとした。
前日作成した書類の不備に、気づいたのだ。その不備は、取り返しのつかないことではなく、修正し再送すれば、何も問題はなかった。
「なのに、何故こんな真夜中に?」
だがじつは、このパターン、よくあるのだ。
これに助けられたことも、数えきれないと、言ってもいい。また、ミスではなくとも、こうすればもっとよくなるという方法を、思いついたりもする。

昼間、いい加減な仕事をしたつもりはない。経理事務である。月末で、失敗は許されない仕事は数々あれど、ひとつひとつ丁寧にこなしていったはずだった。それに、その書類が、特別気になっていた訳でもない。それなのに。
ただ今月は、修正個所がいつもの3倍にもなり(厚生年金の比率って、じわじわと増えているって知っていますか? または、健康保険料も、ニュースにならずに毎年どんどん増えているってこと、知ってる? 会社が給与下げてる訳じゃなく負担は増えているのに、手取給与が減ってるんだって事実、知ってる?)緊張感が半端じゃなかった。

それで、夜中にハッ! と気づく破目に陥ったのだろう。
更に、脈絡もなく思った。だいたい書類の不備に気づいたことさえ、脈略がないのだから、夢のなかで場面が飛ぶのと等しい感じで、ひらめいたのだ。
「ああ『NARU-TO』の葱味噌ラーメン、食べたいなぁ」
特別気にしていなかったと思われることが、浮き彫りになる不思議を感じざるを得ない。気になる度で順位をつければ、5番目以降、7位や8位の快進撃。青天の霹靂的な上位進出。うーん。理解しようにも、その枠を超えている。

朝起きてすぐ、書類は修正し再送した。そしてもちろん、甲斐市まで車を飛ばし『NARU-TO』に、葱味噌ラーメンを食べに行った。
あまりに美味しそうな匂いに、ことんと丼ぶりを置いた店主の前で、ごくんと唾を飲み込んでしまい、あ、これ絶対聞こえた!と恥ずかしい思いをしつつ、ああ、わたし『NARU-TO』に葱味噌ラーメン、こんなに食べたかったんだ、と、ただただ熱いラーメンをすすったのだった。
潜在意識とは、実に恐ろしいものである。

夢にまで見たラーメンとは、このことかな?
こってり味噌スープに、しこしこ太麺。なるとの色が反対なのがいい感じ。
朴訥な印象の店主が、ひとりでやっています。

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セイタカアワダチソウと小さかった頃

今、明野ではセイタカアワダチソウが、そこ此処に、咲き乱れている。
アキノキリンソウ属だが、別名アワダチソウと呼ばれるアキノキリンソウより大きくなるという理由で「セイタカ」と、つけられたそうだ。

「小学生の頃は、背が高い方だったのよ」義母が、言った。
「えっ、わたし、6年間ずっとクラスで一番、小さかったんです」
大人になってから初めて会った義母は、自分より背の高いわたししか知らない。驚くのも当然のことである。
今では161㎝ あるのだが、当時は、背が低いことに、けっこう強いコンプレックスを感じていたのだ。
今はどうだか知らないが、あの頃は背の順で並ぶのが常で、わたしはいつも一番前。何かの際に「一番前、しっかりしろ!」と叱られる回数が増え、損しているよなぁとの思いもあった。何しろ、ぼーっとしている性格は、今も当時も変わらないのだから。

6年生の頃、特別仲良しだった子は、クラスで一番背が高かった。大人びて見える彼女に憧れてもいた。『少女コミック』と『マーガレット』を片方ずつ買って、交換しようと言い出したのは彼女で、そんな発想もまた、大人っぽく感じられた。中学は違ったのだが、その後高校に入ってから、バイト先が一緒になった。わたしはすでに、今の身長。彼女とも、そう変わらなくなっていた。だから、という訳ではないのだろうが、再会した時に驚いた。
「こんなに可愛らしい、子どもっぽいところがあったんだ」と。

そう考えると、ずっと会っていない小学校の頃の友人達からしたら、わたしはきっと、一番小さい子のままなのだろう。
セイタカアワダチソウを見上げつつ、小さかった頃の自分に思いを馳せた。

空に向かって、ぐんぐん伸びていくセイタカアワダチソウ。

それを見下ろす、南アルプス連峰は、甲斐駒ケ岳。

散歩コースにあるワイン用の葡萄畑の脇にも、咲いていました。
葡萄は、そろそろ、収穫なのかな。重たそうに実を揺らしていました。

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この秋初めての北風

この秋初めて、北風が吹いた。
「松を倒してもらっておいて、よかったな」
乾いた冷たい風を感じつつ、洗濯物を取り込みながら、隣の林を眺めた。
松が3本、倒れている。マツクイムシに幹の内部を蝕まれ、立ち枯れした赤松だ。ひと月ほど前に役場に相談し、切り倒してもらった。
隣の土地の持ち主も、よく判っているようで、了解は得てある。松が倒れて、家が壊れてしまってからでは遅いのだ。

立ち枯れした木と言っても、なかが空洞になっている訳ではない。ずっしりと重い。道路に倒れ、しばらく通行止めとなる風景も、何度か見てきた。枯れかけた松の脇を通る時には、いつも気をつけている。
これからは、もっと気をつけなくなくてはならない。倒木があるのは、圧倒的に冬が多いのだ。幹が乾いて折れやすくなるのか、八ヶ岳おろしと呼ばれる北風の強さに負けてのことか、雪の重みに耐えかねてか。そのどれもが重なって起こる現象なのか。

我が家も、家を建てる前には、赤松の林だった。その松を切り倒し、製材してもらって建てた家である。大黒柱も梁も、軸になっている木材は、この土地の赤松。なので、東側にも西側にも、赤松林がある。もとは続きだった林だ。
マツクイムシは、松が枯れると次の松へと移っていく。この辺りの赤松は、今では、越してきた頃の半分もなくなった。

月日が過ぎていくのと同様に、どうしようもないことではあるのだけれど、
「淋しい気持ちが湧くのは、わたしだけだろうか」などと思ってしまう。
居間の大黒柱からも、梁からも、切り倒された赤松が、見えている。
いや。切り倒されて柱となった赤松がどう思っているかなど、人間であるわたしには、知る由もないことなのだが。

我が家の赤松は、樹齢80年ほどでしたが、この木は60年ほど。

松はヤニが強く、煙突が詰まるので、薪にはできません。
このままここで、朽ちていくのかな。

林のなかには、あちらこちらに漆が。美しく紅葉しています。
まだ緑のもの、黄色くなったものもありました。

足元には、きのこもたくさん生えていました。

これ、何の実でしょう? 綺麗なうえに、美味しそうなんだけど?

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秋晴れの週末に

この週末、こんなに晴れたウィークエンドは、過去に類を見ないというほどの秋晴れだった。
「こんなにサービスせんで、ええんとちゃう?」関西弁で、空に向かって夫。
『秋の明野へようこそ』ツアーと題して、神戸に住む、夫の両親を招いていたのだ。とは言え、毎日八ヶ岳を見ているわたしでさえ、こんな八ヶ岳は見たことない! というほど、ヤツは秋空の下、のびやかにしている。それは、
「八ヶ岳さん、何か、はりきっちゃってる?」と、聞きたくなるほどだった。

いつにする? あの週はダメ、ここは出張、など、相談した上、バタバタと決まった予定だった。それが、こんなご褒美をもらったような週末となるとは。

まあそれは、そうかも知れない。わたし達夫婦の倍ほど、もう60年近く夫婦をやってきているのだから、天のサービスだって、よくもなるだろう。
「がんばってますね! お義母さんのために八ヶ岳、微笑んでいますよ」
わたしは夫君にはなったことがないから、よく判らないので、同じ女性として義母に、ぜひエールを贈りたい。たがいの立場を理解しようとする想像力がないことには、長く一緒にいるのは難しいことだよなぁと自分を振り返りつつ。

1週間ほど、ウッドデッキには姿を見せなかったアマガエルのけろじも、枯れかけた蕗の葉の上で、見てみて! というかのように、じっとしていた。
「あ、けろじ、いた!」わたしの言葉に、義母も歓声を上げた。
「ほんと! 可愛い。じっとして動かないけど、目はきょろきょろしてる」
もみじの葉には、カマキリ。ウッドデッキの階段には、赤とんぼ。
「本当に赤いのねぇ。こんなに近くに赤とんぼを見られるなんて!」と義母。
『秋の明野へようこそ』ツアーは、予想以上に喜んでもらえたようだった。

そして、ふたりを見送った帰りの車中、ぽつりぽつりと雨は降ってきたのだ。

またとないほどの秋晴れ。「普段の行いが、いいからや」と夫と義父。
ふたりとも、自分のことをさして、言っているようでした(笑)

両親が到着した金曜日の八ヶ岳です。うーん。晴れ晴れとした表情!

昨日、中央高速を走り、塩尻駅まで、ふたりを送っていきました。
紅葉の季節だけに、諏訪湖サービスエリアは、車がいっぱいでした。

諏訪湖を眺めつつ、ソフトクリームを食べながら、休憩。
どちらを向いても、紅葉が綺麗でした。でも、雲が少しずつ出てきて。

遠くには、諏訪湖のスワンが、ゆったりと泳いでいました。

けろじ、鳴いた? ぽつぽつと降りだした雨は、そのせい?
頭のてっぺんだけ冠をかぶったように緑の、白っぽい子でした。

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あるものラタトゥイーユ

「きみは、本当にラタトゥイーユが、好きだね」
この夏は、夫にそう呆れられるほど、ラタトゥイーユを作った。
こんなにラタトゥイーユ三昧の夏は、これまでになかったというほどだ。
今週末も、夫の両親を神戸から招くに当たり、前日にたっぷりと煮ておいた。野菜大好きな両親は、とても喜んでくれた。

ところで、何故これまでにないラタトゥイーユな日々を送ったかと言えば、理由がある。意識変革をしたのだ。いや、大そうなことを言うには、恥ずかしいような小さなことなのだが。

これまで、ラタトゥイーユを煮る時には、いつも気を張っていた。何しろ、材料の種類が多い。調味料も、普段あまり使わない白ワインビネガーがキーになる。用意し忘れてはいけないと、それで気を張っていたのだ。
だが、今年は大量に茄子を頂いたこともあり、それをやめた。
その1。ラタトゥイーユに必要なものは、オリーブオイル、にんにく、茄子、トマト缶。それだけあれば、いいと考えることにした。白ワインビネガーさえ、バルサミコ酢や酢を混ぜたり、代用品で可。あるものラタトゥイーユなら、気を張ることもなく、出来上がる。
その2。冷やして食卓に出すことに、こだわっていたのだが、それをやめた。熱々もまたオツなもの、と考えることにした。時間がない時に、熱いものを冷やすのは、けっこう手間なのだ。
という訳で、ラタトゥイーユ比率は、ぐんぐん上がった。家計にも、身体にもいいんじゃないかなと、自分では満足している。

さて。夫の両親のためにと、気を張って作ったラタトゥイーユだが、まず長葱を買い忘れた。長葱って、どうしてこう知らないうちに失くなっているんだろう。そして、白ワインビネガーが少しだけ足りなかった。全然気を張ってないんじゃないか? と、自分で突っ込みたくなる。だが、それもよしと考える。バルサミコ酢をほんの少し加えたラタトゥイーユは、酸味が抑えられコクが出た。なんと、いつもより美味しいくらいだったのだ。料理って不思議だ。
という訳で、冬になっても、熱々あるものラタトゥイーユ、楽しもう!

野菜って、何度写真にとっても思うけど、綺麗だよなぁ。

このくたくたに煮た感じが、たまらなーい!

我が家の定番、簡単カルパッチョとセロリサラダもたっぷり作って。

パエリアも、スペインのスーパーで買ったパエリアの素で作りました。
料理上手な友人まりりんに教わった作り方をアレンジして、大成功!

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枕元の靴下

夜中にふと目覚めて、あれ? と思うことが、最近よくある。靴下だ。
秋も深まり、風呂で温まってベッドに入っても、足が冷たくなることが多く、靴下を履いて眠る季節になった。
その靴下が、ふと目覚めると片方だけ、脱いである。

それは、脱げたのではなく、確実に意思を持って脱いでいるのだ。というのも、わざわざ枕元に置いてあることから、容易に推測できる。脱げたのなら、足元にあるはずであろう。
不審に思っていたので、気をつけて見ていると、脱いでいるのは左足に限られている。
「左足くんだけ、暑がりなのかな?」
考えるも、答えは出ない。目覚めた時には、右足くんも、程よく温まっていて、左足くんに倣って靴下を脱ぐ訳だが、うとうとしつつ考える。
「右足くんは、脱ぎたくなかったのかな?」
しかし、靴下の窮屈さから解放された足達に、眠気は加速し、うとうとしている間に、すっと眠りに入ってしまう。

さらに考察するに、わたしは、右横を向いて眠ることが多いと判明した。
右横を向いた状態では、左手くんと左足くんが、当然近くなる。靴下を脱ぐのも容易だ。しかし、右手くんと右足くんは、遠く離れている。靴下には手が届かない。
「ただ、それだけのことかぁ」
そう思いつつも、毎日同じ方向で眠るのは、骨格や筋肉に片寄りが出るのではないかと心配にもなる。今更ではあるのだが。
「夜中に目覚めた時に、右足くんの靴下だけ脱いでいる状態を目指そう!」
左横を向いて眠る、挑戦は始まった。

ベッドの枕元に大抵あるのは、今読んでいる本とハンドクリーム、ケータイ。
寿命が来たケータイを買い換えました。ガラケーからガラケーに。
今どきめずらしい! と言われますが、月々けっこう大きな節約になります。

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テーブルの上の林檎

我が町、明野町は、昔から大根と林檎の村と呼ばれていたらしい。合併し北杜市に統合され、明野町と名をあらためたが、越して来た頃にはまだ村だった。

テーブルの上の林檎を見ると、思い出すことがある。
結婚した頃、東京は大田区に住んでいたのだが、子どもができ、近場のアパートを探して引っ越した。何しろ、住んでいたのは6畳一間で、さすがに子どもと3人では、暮らせないだろうということになったのだ。
そこで生まれたのが、今年27歳になる息子で、ちょうど隣の部屋でも、同い年の女の子が生まれ、仲よく遊ばせてもらった。アパートの前の通路は、車が入れない行き止まりで、そこでこぢんまりと遊ぶことも多く、お隣の奥さんと立ち話をしたりしながら、のんびりとした時間を過ごした。

息子が2歳くらいだっただろうか。日も暮れて、友達とバイバイした彼をひょいと抱き上げ、アパートの階段を上った。忙しくキッチンに立つと、息子は居間でおもちゃを出し始めたが、そのテーブルに、見覚えのない林檎があった。朝、夫を送り出す時には、なかったものだ。
林檎を買ったのなんていつだったのか思い出せないくらい前のこと。これは、いったい?と首を傾げるが、息子は言葉が遅く、彼に聞いても埒はあかない。
「ああ、林檎。抱っこした時に、おててに持たせたのよ。おすそわけ」
何のことはない。翌日、隣に住む彼女の種あかしを聞き、謎は解けたのだが。

その時に、思ったのだ。
「家族が増えるって、こういうことなのかも知れないなぁ」と。
ひとり暮らしをしていた頃は、小さな部屋の隅々まで、すべてを把握することができた。荷物も少なかった。結婚してふたりになり、荷物はそう多くはなかったが、すべてを把握することはできなくなった。そして、子どもが生まれ、こうして部屋のなかに自分の知らないことが、ひとつ、またひとつと増えていくのだと。それが、家族になるっていうことなのだ。

林檎の村の、もぎたての林檎は、甘酸っぱく瑞々しかった。

購入したのは『陽光』日本一日照時間が長い、明野に似合う名前ですね。
他に『王林』や『千秋(せんしゅう)』もありました。

もうすぐ出荷される『ふじ』冬の間、楽しめる品種です。

赤が濃いのは『新世界』という品種だそうです。たわわに実っていました。

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『もう二度と食べたくないあまいもの』

井上荒野の短編集『もう二度と食べたくないあまいもの』(祥伝社文庫)を、読んだ。
タイトルに魅かれ衝動買いしたのは、自分が甘いものが食べられない体質になってから、もう長く、それがコンプレックスになっているからだ。
しかし、小説のなかには甘いものは登場しなかった。このタイトルは、一つの短編を表題作としてつけらえたものでさえなかった。
ここでいう「甘いもの」とは「恋」なのである。それを二度と食べたくないというのだから、描かれているのは「甘いもの」ではなくなった男女の関係だ。

『奥さん』では、移動販売でカレーを売る男が、団地で集まる気に入った奥さんと、とっかえひっかえ情事を繰り返す。挙句、奥さんの一人に告発されることになるのだが。以下本文から。

四号棟の奥さんの仕業であることは、火を見るよりもあきらかだった。いやなことをさせてしまったな。彼は心から気の毒に思った。こんなことをするほど傷ついているなんて思わなかった。どうせビラを持ってきたのなら俺がいるときに来ればよかったのに。そうすれば気がすむまで怒鳴られてやったし、あらためて打たれてやってもよかったし、そのあと慰めてやることもできたのに。

『朗読会』では、朗読会で出会った男との関係を続ける美紗と、それに気づいていながら黙認している隆との夫婦関係を、美紗の語りで描かれている。
以下本文から。

裏切っていた? その言いかたは、でもじつは、あまりしっくりこない。道を間違えた、というほうが正確に思える。悪い道にいる。善悪の悪ではなくて、wrong wayにいると感じている。選択を誤ったという意識はなくて、いつの間にかその道を歩いていた。

全編通しての共通項は、答えを示さないこと。その突き放したとも言えるラストには、びっくりするようなどんでん返しはなくとも、小説は、静かに広がるような驚きを感じさせることができるのだという発見があった。

カラフルな明るい表紙が、読み終えた後、悲しく見えてきます。

目次です。どれも、シンプルなタイトル。その潔さにも魅かれました。

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野葡萄のグラデーション

散歩道の野葡萄も色づき、綺麗なグラデーションを、見せてくれている。
同じ蔓に、青や紫や水色の実をつける、野葡萄。不思議だ。

いや。果たして、不思議なことなのだろうか。不思議だと思うことこそが先入観なのかも知れない。同じ植物には、同じ色の実が同じように生ると思い込んでいる自分が、不意に見えた。
「野葡萄から見たら、同じように色づく他の実達の方が、よっぽど不思議に見えていたりして」
じっと、そのグラデーションを見ていると、美しさに心洗われてく。

隣の林の山桜も、赤く紅葉し始めた。
木の下に立ち、見上げると、その赤は陽の光で色を変えたが、落ちた葉には、ハッとする赤が多く見られ、身近な秋を楽しんでいる。

その陽に透かして見た葉は、虫食いだらけで、ふと何やら暗号か、知らぬ国の文字のようにも見える。虫達のいたずらがき。メッセージがある訳でもないが、ないとも言いきれないぞと考えたりした。
感じる心次第。植物や虫達のメッセージは、受けとる気持ちがあればこそ、降ってくるものなのかも知れない、と。

野葡萄の色は、日々変わっていきます。

宝石のようです。ペンダントにするなら、どの色にしようかな。

文字のようにも見えるのは、文字に慣れている人間だからですね。

落ち葉の赤は、今だけの宝物。たくさん見ておかなくっちゃ。

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丹波篠山の黒大豆枝豆

神戸に住む夫方の叔父から、丹波篠山の黒大豆枝豆が、届いた。
お世話になっているお礼にと送ったささやかな品の、これまたお礼にと、送ってくれたものだ。夫が電話をして「お礼に送ったのに」と言うと、ただにこやかに「そうか」と笑っていたという。無口だが、電話口の向こうから笑顔を見せるという特技を持つ、叔父なのである。

独特の甘さを味わうには、鮮度が命だという黒大豆枝豆。さっそく塩茹でし、夫とビールで楽しんだ。金曜に届いたので、週末の3日間、毎晩いただいた。
「茹でたての熱々より、冷蔵庫で冷やした方が、美味いな」
夫の考察により、茹でたものを冷蔵庫で冷やしておき、夕方にはビールを飲む。いい週末となった。

季節も折。日曜の朝、テレビでその枝豆の特集をやっていた。旬である今しか食べられない逸品なのだそうだ。黒大豆枝豆を食べ続けて60年という女性が登場し、様々な料理法を紹介した。
「ほくほく」「甘い!」「栗ご飯みたい」「いや、違う」
出演者達が、それぞれに感想を述べていた。

「あ、これ、美味そう」「いいね。明日の朝、炊こうか」
すぐさま相談がまとまったのは「黒枝豆ご飯」これが、美味かった。新米と炊くことで、さらにほくほく感と甘みが増しているように思えた。
その作業のなかで知ったのは、生豆は黒くないということだ。茹でると薄皮が黒っぽくなる。薄皮のなかは緑色。成熟した黒豆は、この緑の薄皮が、生豆のまま、すっかり黒くなるのだそうだ。
「黒って、綺麗な色だよなぁ」
黒大豆枝豆を食べつつ、心はお正月の黒豆に飛んでいた。来年の話をしても、鬼が笑わない季節になったと、黒大豆枝豆は、教えてくれた。

受け取ると、ずっしり重みがありました。

さっそく茹でて。わ、ほんとに黒いんですねぇ。

でも、生豆をむくと、黒くない。不思議です。

やっぱり火を通すと、薄皮が黒く変色するんですね。ご飯ほっくり。

ふむふむ。300年もの間、受け継がれてきたんだぁ。

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千日紅と毛糸のボンボン

春に植えた千日紅(せんにちこう)が、まだまだ咲いている。
好きで、毎年植えている一年草。丸く花を集めた形が可愛らしく、今年植えた濃い紫色は、目にも鮮やかだ。

その形に、よく毛糸の帽子についている、ボンボンを思い出した。
小学生の頃、そのボンボン作りにハマったことがあった。束ねた毛糸をきつく縛り、周りを切りそろえて、綺麗に整えていく。何に使う訳でもなく、ただただ、その作業が楽しかった。なかなか、綺麗に長さを揃えられず、どんどん小さなボンボンになっていったっけ。
そんなことを思い出し、毛糸の帽子を出して、陽にあてた。
チェコを出て、カナダに渡ったばかりの娘の帽子も、干した。
びっきーと歩く時に、よくかぶった帽子も、干した。
遠い昔、友人が編んでくれた帽子も、干した。
干しながら、記憶の束は、ボンボンのように、綺麗に切りそろえる訳にはいかないものだよなぁと、しみじみとした。

ところで、春から夏を過ごし秋までずっと見てきた千日紅だが、アップで写真を撮り、またもや(!)初めて気づいたことがあった。
千日紅は、ただ丸いだけではなく、よくよく見ると渦巻くように花びらを開いていて、そのなかには白も混じっており、けっこう「花」然としているのだ。遠くで見て、また近づいて見て、可愛い花だなと再認識した。

毎日見ていたのに、白い花が規則的に入っていることも知らずにいました。

まだこれから、開いていく花達もいます。

秋の陽の光が強くて、そのままの色には撮れませんでした。

左は上の娘の帽子、真ん中は若い頃友人が編んでくれた帽子、
右は、びっきーとの散歩で一番よくかぶった帽子です。

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コップのなかの空

久しぶりに、歯医者に行った。
歯医者に行くと、いつもそうだが、いつにも増して、さらにぼーっとしてしまう。待ち時間が、こまごまと多いせいだろうか。
治療用の椅子に座り、待つ。エプロンをかけてもらい、待つ。歯科衛生士の女性に、様子を診てもらい、待つ。
その時、何の気なしに読んだ。
「コップのなかの水を、空(そら)にしてから、置いてください」
もちろん「から」と読むのが正解だ。
だが、待っている間、観葉植物の向こう、窓の外には秋の空が広がっていた。
つい「そら」と読んでしまっただけだが、白い紙コップのなかに、空が広がっているのを連想してしまう。

そう言えば、最近、ブルー・ソーラー・ウォーターを飲んでいないと、思い出した。青い入れ物に入れ、太陽の光を15分ほど浴びせるだけでできる、不思議なパワーを持つ水。

歯医者の帰りに寄ったいつもと違うスーパーには、いつもと違う水が置いてあり、奇しくもブルーの瓶だった。
買って帰って、さっそく作った。と言っても、窓ぎわに水の瓶を置くだけ。
しばらく置いて飲むと、秋空に染まっていく自分を感じた。

太陽の光って、ものすごく強いんだなぁと、あらためて感じます。
  
そして、綺麗。炭酸水だったので、しゅわしゅわ、光も揺れています。
これから毎日、水を入れて飲もうっと。

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『ガーデン』

近藤史恵『ガーデン』(創元推理文庫)を、読んだ。
主人公は、二十歳を過ぎたふたりの女性。真波(まなみ)と火夜(かや)
生きることへの苛立ちは、純粋な若い心を容赦なく削り取り、痛みはやがて絶望へと変わり、ふたりを引き合わせる。赤髪の火夜は、大学に通う真波の部屋に居つき、蜜月とも呼べる静かな時間を過ごした後、何も言わず出て行った。
そして2週間後、真波のもとへと小箱が届く。そこには、切り取った小指が1本、入っていた。火夜と同じ鮮やかな珊瑚色のマニキュアを塗った、女の指だった。真波は、同じマンションに住む「今泉文吾探偵事務所」を訪ねる。
一方、真波から離れた火夜は、一丁の拳銃とともに、死をまとい、死を見つめ、生きていた。

章立てが、語り手別になっている。真波、火夜、今泉と、一度だけ諏訪。
以下、真波を思う「火夜の章」から。

わたしの刃は外へ向き、彼女の刃は内に向いていた。
たしかなのは、彼女がわたしのようにめちゃめちゃに破壊されてこなかった、ということだ。だから、わたしは彼女がうらやましかった。
でも、冷静に考えてみると、本当に彼女の方が恵まれていたのだろうか。
憎むものを持っているだけ、わたしのほうがましだったのかもしれない。

生きていると、不意に、底なし沼に足をとられそうになる瞬間がある。
そんな底なし沼を、あてもなくさまよう季節もある。
そんな季節を過ごした若い頃を、心痛く思い出しつつ、読み進めるうちに、大人と呼ばれるようになった今でも、いつ足もとがぬかるむか判らない危うさが、すぐ目の前にあるのではないかという思いに捉われていた。

殺人の舞台に選ばれたのは、誰もが息をのむほど美しい庭、ガーデン。
近藤史恵が20代半ばでかいたというこの小説には、若さゆえの揺らぎや、美しい物へのこだわりが散りばめられている。

「ガーデン」とは間違っても言えない我が家の「庭」で撮影しました。

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季節の狭間に

「あんまり、変わってないねぇ」
スペインから帰って来て、夫と庭を歩いた。
花が咲く季節でもなく、雑草が一気に伸びることもなく、紅葉にもまだ早い。
「そういう季節、なんだろうね」と、夫。
季節に狭間があるとしたら、ちょうどその時期だったのだろうか。

もう会えないかも知れないと、半分あきらめていたけろじ達も、3匹ほど顔を出した。ウッドデッキで日向ぼっこをする彼らを眺める。
赤とんぼが群れを成して飛びまわっていて、けろじにとまろうと何度か挑戦していた。迷惑そうにしているが、けろじも意地でも張っているかのように、動こうとしない。赤とんぼが背中にとまった途端、けろじは、くるりと方向転換をした。赤とんぼは、あきらめて飛んで行った。

季節は、スローモーションで流れていたのだろうか。
いや。と、考える。変わらないように見える季節だからこそ、じっと見つめると見えてくるものが、より多くあったのではないか。
夕焼けさえも、一期一会。同じ風景はない。
今、見えるものを見て、感じて、暮らしていこう。あらためてそう思った。

南アルプスの、夕暮れ前のワンシーン。飛行機雲が流れ星のよう。

庭のフジバカマの蕾達。すぐにでも、ほころび始めそうです。

イチイの木の先にとまった、赤とんぼ。

南天の実にとまった、赤とんぼ。色にシンパシーを感じているのかな?

ナナカマドのてっぺんには、いつも誰かがとまっています。

けろじ、太ったねぇ。口をパクパクしてるのは脱皮中かな。
まだ大きくなるんだね。もう少しの間、一緒に遊ぼうね~。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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