はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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『いちばん長い夜に』

乃南アサの小説、マエ持ち女二人組シリーズを読んでいた。全3冊で文庫化しており、短編を重ねていく連作短編集だったこともあり、一話読んではベッドに置いったままにしたり、銀行の待ち時間に開いたりと、のんびり読書に最適なエンタメ小説だと思っていた。前科持ちの女性達のストーリーだということに、現実世界から切り離されたファンタジーのような気楽さを感じていたのかも知れない。『いつか陽のあたる場所で』『すれ違う背中を』の2冊を読み終えても、そういう感覚は変わらなかった。ところが3冊目『いちばん長い夜に』の途中から、思いもよらぬ方向へと物語は進んでいったのだ。

主人公、芭子(はこ)は、綾香の生き別れた息子を探しに仙台を訪れた。まさにその日、東日本大震災が起こったのである。現実世界から切り離されたファンタジーの様相は、一変した。

作者、乃南アサは、綾香の故郷に設定した仙台の街を、日帰り取材にあてたその日に震災を体験している。芭子が体験したことは、そのまま自分が体験したことだと、あとがきにかかれていた。だからこそ、小説もこういうカタチになったのだろう。

罪を犯し、償い、それを背負って生きていく。そんなことは考えたこともなく、気軽に読み始めたシリーズだが、これはファンタジーではないのだと、読み終えて息苦しくなった。殺人を犯した綾香の心の闇を奥深くまで描き切った乃南アサは、もしも震災を交えなかったとしても、そこをぼかすことなく違うカタチでかいたのだろうと読み終えて確信を持った。

「過去のない人はいない」芭子が好きになった、南くんの言葉だ。
「わたしの失敗は、簡単に片づけられるものじゃない」
芭子は返すが、南くんの言葉だけが、心にいつまでもひっかかっていた。

『ボクの町』は、マエ持ち女二人組シリーズに登場する警官が主人公。
芭子に気があるみたいだけど、元気すぎてちょっとずうずうしくも感じられ、
嫌がられていました。今風のドジな若者と裏表紙には、かいてあります。
関係ないけど、紐栞がついてる文庫本っていいな。

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財布を忘れて

♪ お魚くわえたドラ猫 追っかけて 裸足でかけてく 陽気なサザエさん ♪
言うまでもないが、アニメ『サザエさん』の主題歌である。

「まったく、サザエさんじゃあるまいし」
自分で自分をチカラなく笑うわたしは、無論、裸足でドラ猫を追いかけた訳ではない。週末、夫と立ち寄った蕎麦屋で、会計を済ませようとしたレジで、財布を忘れたことに気づいたのだ。
「あ、お財布、忘れちゃった」
驚きと共に、苦笑するわたしに呆れた顔をし、夫は財布をとり出した。
「信じられないことするねぇ、きみは」
しょうがないので「ご馳走様です」と、笑うと、
「あ、それ、いいですねぇ。わたしもやろうっと」
レジに立つ若い女性が、笑って話にノッてくれた。
客商売だからというのはあるかも知れないが、こういうときに、すっと話にノッて笑いを共有できる人って、素敵だなと思う。

そんなこともあり、久々に『サザエさん』の歌をくちずさんでみた訳だが、あれ?ドラ猫だったっけ、野良猫だったっけ? と、記憶があいまいなことに気づき、調べてみた。正解は、ドラ猫。
興味が湧いて、ドラ猫の「ドラ」って何だろうかと、ふたたび調べる。お寺の鐘、銅鑼が語源で「鐘をつく」と「金を尽くす」を重ねて、遊び好きの金ばかりかかる息子をドラ息子と呼ぶようになり、盗み食いする野良猫をも、そう呼ぶようになったとかかれているものが多かった。
「パラサイト」とか「ニート」とか呼ぶ以前にも「ドラ息子」は居たのだなぁと考えた。昔はそれさえも、のどかな空気を漂わせる言葉で語られていたのだろう。それがカタカナ言葉になると、途端にピリピリとした空気に一変してしまうから不思議だ。東京でひとり暮らす我が息子は、フリーターではあるが、金のかかるドラ息子ではなく、経済的には自立している。それでも心配なのに、遊び呆けているドラ息子がいたら、親もさぞ心配だっただろうに。
深刻な雰囲気を持たないのは、ドラ息子という言葉に、愛情がこもっているように感じるからかも知れない。

♪ 買い物しようと町まで 出かけたが 財布を忘れて 愉快なサザエさん ♪
「ぜんぜん、愉快じゃないんだけどなぁ。財布忘れたら」
それを愉快と笑って済ませる時代は、終わりに近づいているのだと、財布のなかのクレジットカードや電子マネーを見て、しみじみ考えたのだった。

小淵沢の蕎麦屋『そばきり祥香』でのことでした。
蕎麦屋っぽくないピンクのペンション風の建物ですが、美味しかったです。

手びねりの焼き物に盛られた、自家製のお漬物に、温もりを感じました。

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林檎のように剥く日向夏

ご近所さんに、日向夏をいただいた。
宮崎産で、檸檬とグレープフルーツを合わせたよう、とも言われる瑞々しさが売りの蜜柑。「ひゅうがなつ」と読むそうだ。
「林檎を剥くみたいに、剥いてくださいね」とのこと。
蜜柑なのに、包丁でくるくると皮を剥くのだそうだ。

剥いていて、小説のワンシーンを思い出した。川上弘美の『センセイの鞄』。何度も読み返した大好きな恋愛小説だ。以下、本文から。

林檎を、かつての恋人に剥いたことがあった。もともと料理は得意ではないし、たとえ得意だったとしても、恋人に弁当を作ってあげたり部屋まで行ってこまめに料理を作ったり手料理の夕に招いたりするのは、趣味にあわなかった。そういうことをすると、ぬきさしならぬようになってしまうのではないかと、恐れた。ぬきさしならぬように運ばれていると相手が思うのも、いやだった。ぬきさしならなくなってもかまわないようなものだったが、かまわないとかんたんに思うことができなかった。
林檎を剥いたとき、恋人は驚いた。あなたも、林檎の皮なんか剥くんだね。そんなふうに言った。皮くらい剥くわよ。そりゃそうだね。そりゃそうよ。そんな会話を交わしてしばらくしてから、恋人とは疎遠になった。どちらからか言いだしたのではない。なんとなく電話をかけあわなくなった。嫌ったのでもない。会わなければ会わないなりに、日は過ぎていった。

日向夏をくるくると剥きつつ、考えた。
林檎の皮を剥く指先にだけではなく、毎日のなかにあるほんの些細なことの一つ一つに、人の心の小さな揺れは、見え隠れしているんだよなぁ、と。

檸檬よりも、もう少し優しい黄色をしています。

剥き方などがかかれた取扱説明書(?)を真似て、
むいた皮を飾って、そのなかに入れてみました。

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雪柳の匂い

咲き始めた庭の雪柳を、一枝切って飾った。
トイレの窓際に置いた銅製の一輪挿しに、ずっとドライフラワー化した南天の赤い実を挿していて、そろそろ生花を活けたくなったのだ。

「一枝、貰ってもいいよね」雪柳に聞き、鋏を入れた。
その瞬間、これまで数えたことはなかったが、いったい庭に何株の雪柳があるのだろうかと数えてみたい気持ちになった。一枝でも鋏を入れるとなると、その命というものに思いを馳せてしまうものなのかと、普段、自分がモノを考えていないことをあらためて知った瞬間でもあった。

数えてみると、ほぼ30株ある。ほぼ、と言うのは、株が繋がっているものも多く、だいたいのところで数えたからだ。今は太陽光のパネルが広がる向かいの土地に、植物園を作っていたおじいちゃんに分けていただいたもので、それを夫が株分けしては植え、広げていったのだ。その他にも種が飛び自生したものもあり、それも丈1mほどに伸びている。
雪柳は、とにかく強い。株分けしてからしばらくの間、水さえ足りていれば根づき、病気もしない。そして翌年には、雪のように真っ白な花を約束でもしたかのようにきっちり咲かせてくれるのだ。

トイレに飾ったついでに、たまにはお香を焚こうかともう一度ドアを開けて、ハッとした。木の匂いというか草の匂いというか、そんな匂いが立ちこめていたのだ。庭では淡々と咲くのみで、匂いなど放っていることなど気づきもしなかったが、小さな一輪の雪柳にまた、その命というものを感じたのだった。

銅製の一輪挿しはお気に入り。優しい陽射しを浴びていました。

アップで撮ってみました。小さな一つ一つの花が可愛いんです。

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洗濯機はナショナル

十年使った洗濯機が、壊れた。壊れたと言っても、動かなくなった訳ではない。運転時間が次第に長くなり、見ていたら、まるで物忘れでもして「あれ? すすいだっけ?」とでも言うかのように、すすぎを繰り返したりしているのだ。節電節水を考え、買い替え時期が来たと判断した。

購入したのは、大きさの変わらないプチドラムで、乾燥まで出来るタイプだが、普段は洗濯のみにして、乾燥は困った時に使おうと思っている。
購入の際、あまりやらないのだが、値切ってみた。この4月に新型が出た型落ちで展示品だったのだ。すると、あっさり1万円ほど値引いてくれた。言ってみるものである。家電量販店でもけっこう融通が利くのだと目から鱗だった。

「で、何処のメーカーにしたの?」と夫に聞かれ、
「ナショナル」と、迷わず答えた。
「あのさ、今、ナショナルってないから。パナソニックじゃない?」
彼は呆れたように言う。「あれ?」と考え、うーんと唸る。
領収書を見ると「パナ」とかいてあった。それを見て今更だが、ナショナルはなくなったのだと気づく。そして「パナソニック」のロゴを見て「ナショナル」と読んだ自分に呆れ、チカラなく笑う。
「テレビはナショナル」と、つぶやいてみる。
その看板は、息子がよく遊びに行った電気屋さんの友人宅にあった。送り迎えした頃には、というか、彼が1歳の時には平成になった訳だが、看板は、昭和の雰囲気をそのままにしていたっけ。
「パナソニック」を「ナショナル」と読んでしまい、文字というものについて新たな感覚が芽生えた。ひとつひとつの記号としてではなく、感覚で捉えているものなのだと。

夫の行きつけのワインバーで、酔いがまわった人に珍しいワインがあるとフランス人の店主が出す酒があるという話を思い出した。ワイングラスに注がれたその白ワインは、じつは日本酒なのだそうだ。白ワインだという先入観と、それまで飲んだフランスワインの酔いに騙される人もいるのだとか。
酒がまわるように、昭和が身体じゅうに沁み込んでいるわたしには「パナソニック」が「ナショナル」に読めても、当然なのだという気がした。

新しい洗濯機さん、これからよろしくね。シャイで寡黙なタイプの子です。
2008年に、ナショナルはパナソニックにブランド名を変更したそうです。

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アトリは花鶏

「庭に、アトリが来るんだよ」と、末娘に言うと、
「ああ、花ニワトリって、漢字の野鳥ね」と返された。
花鶏とかいて、アトリと読むそうだ。美しい言葉や難しい漢字などに興味を持つ彼女は、大学で日本語を学んでいる。だが、種明かしを聞けば、好きな物語に鳥の名を地名に使っているネーミングに凝ったモノがあり、そのなかに「花鶏」という村があったそうだ。

庭に来ている野鳥達の名が、漢字でかかれているなどとは、考えても見なかった。調べてみると常連さんのシジュウカラは四十雀。ヤマガラは山雀。カワラヒワは河原鶸。ツグミは鶫、とみな漢字がある。アカゲラは赤啄木鳥。啄木鳥という漢字は、キツツキと入力すると出てきた。赤キツツキという名だ。
漢字は苦手だが、知ればまた面白い。末娘が、好むのも判らないでもない。

野鳥達のために庭に撒いている向日葵も、太陽の方を向く葵なんだなと漢字を見ただけで語源が判るようで面白い。ところで、この向日葵、音読みでは「こうじつき」と読むらしい。漢字検定で音読みと指定され「ひまわり」とかいたらバツだそうだ。
「そこまで、知らなくてもいいか」
わたしの漢字への興味は、面白いと思うラインでストップした。
そして、ストップしたと言っていられない小中高の子ども達は、日々そのラインより先まで勉強しているんだろうなと、明野小学校や中学校の方向をちらりと向いてみたが、その瞬間、さっき考えたことはすっかり忘れて「あ、学校の桜、観に行かなくっちゃ」と浮き浮きと考えたのだった。

アトリです。動きが速くて、なかなかうまく撮れませんでした。

雨のなか飛んできたカワラヒワ達。
大きめのクチバシで、種をしっかりくわえています。

鳥さん達、きっちり食べてくださいな。毎年、こうして向日葵が芽吹きます。

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『いつか陽のあたる場所で』

乃南アサは、すれ違ってきた作家だ。
背表紙を見て、ふと立ち止まったまま手にとらなかったり、平積みになった文庫を手にとってパラパラめくり、戻したり。だが、いつか読むのだろうとの予感はあった。その予感は的中し、ようやく会えたねと読み始めたのが『いつか陽のあたる場所で』(新潮文庫)だ。読み始めたらノンストップ。展開の面白さというよりは、人物描写に魅かれるタイプの小説だ。

芭子(はこ)は29歳。下町は、亡き祖母の古い家に越して来て1年ほど。それまでは、刑務所にいた。ホストに入れあげ、貢ぐ金欲しさに男達を騙しては薬を飲ませ眠らせて金を盗む常習犯だった。友人は一人だけ。ムショ仲間だった綾香、41歳だ。彼女はDVを受け続けた末、子どもを助けるために夫を殺した殺人犯。ふたりとも、周囲には前科持ちだということを隠して暮らしている。無論、繰り返し犯罪を犯そうなどというつもりはない。逆に真面目に必死に生きようとしているからこそ、人の目が恐いのである。以下、本文から。

私のこれから。これからの、私。来年の私。再来年の私。十年後の私 ― 。
しばらくの間ぼんやりと考えていたが、それから大した時間もたたない間に、芭子は、頭を殴られたような衝撃を感じた。まるで、分からないのだ。先の自分が見えてこないというだけでなく、自分の未来に思いを馳せる、その方法そのものが、まったく分からない。夢を思い描く方法を忘れてしまった。たとえば誰かと笑っている自分、幸福に包まれている、または華やかさをまとう自分 ― 、そういった情景が、まるで浮かんでこない。ただ虚ろな、白々とした空間ばかりが広がっている様子しか思い描くことができない。

芭子の視点で、語られていくのは、未来が見えないなかで過ごす「今」である。「今」をひとつ「今」をふたつと、人は、積み木のように「今」を積み重ねて生きていくのかも知れない。過去も、環境も、心持ちも違う芭子と綾香に心を重ねる時、ふと、そう思った。

シリーズは全3冊。『すれ違う背中を』『いちばん長い夜に』と続きます。
NHKでドラマ化されました。芭子は上戸彩、綾香は飯島直子です。
2冊目の解説の堀井憲一郎は、かいています。「乃南アサが描いているのは、前科者という表面的な部分を超え『人として生きている姿』を見せてくれるばかりだ。静かに暮らす日常が描かれているだけである」

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土のなかは、びっくり箱

花を植えようと、土を掘っていて、またも掘り当ててしまった。
今度は、百合根ではない。顔を出す前のツクシだ。
「わっ、びっくりした」
形や色が何かの幼虫のようにも見え、生き物を掘り当ててしまったのかと驚いたが、それはほんの一瞬。すぐにツクシだと判った。見えない土のなかにも、確実に春はやって来ているのである。
金子みすずの詩『星とたんぽぽ』を思い出し、つぶやいてみる。
「見えぬけれども、あるんだよ。見えぬものでも、あるんだよ」
土のなかは、まるでびっくり箱だ。掘っているうちに、クワガタか何かの幼虫も顔を見せた。

嫌な知らせでなければ、驚かされるのは嫌いではない。小説を好んで読むのも驚きを求めているところがある。日々の生活のなかでの小さな驚きは大歓迎だ。歓迎されないとは知りつつ、ドアの前に立ち「わっ!」と如何にも単純な驚きを家族に与えるのも好きで、嫌がられてもいる。

花を植え終えて、ただ土を掘り花を植えるだけの作業のなかにも、小さな驚きがあり、こうして楽しませてもらっているのだなぁと空を見上げた。
季節に目を向けずにいる時間も多い毎日のなか、めくり忘れた日めくりのように意識が止まっていても、季節はきちんと進んでいる。そして、時々ドアの前に立ち「わっ!」とこちらを驚かせては「びっくりした?」とでもいうかのように、得意げに笑うのだ。

ポストの横に、サザンクロスを植えました。蕾が丸くて可愛いんです。

ツクシも小さいけど、もっと赤ちゃんの頃があったんだね。

お水をあげていて、ぴょんと飛び跳ねたのは今年初めて会ったカエルくん。

庭では、4年ほど前に植えた1mほどの背丈の桜が、咲き始めました。

ちらほらとしか咲いていないので、余計に1輪の美しさを感じます。

いつのまにか、春蘭も、静かに花開いていました。

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口から出まかせの日?

「今日は、エイプリールフールだねぇ」「ふふふ、ちょっとわくわく」
「いやいやいや。きみは普段から嘘つくの好きだからなぁ」
「いやいやいや。きみこそ、しれっとした顔で嘘つくよねぇ」
牽制し合っているのは、もちろん左手くんと右手くんだ。薪運びの季節もほぼ終わり、左手くんの腱鞘炎もよくなったようだ。
「ところでさ、耳の日は、その形から3月3日じゃない?」
「うん。目の日は、眉もセットのその形で10月10日だよねぇ」
「そうそう。鼻の日は、語呂合わせで8月7日。は、な、の日」
「で、11月11日が、ポッキーの日」
「それなんか、関係ある?」「いやいやいや」
「そういえばさ、手の日って聞いたことないよね?」と、右手くん。
「そうくると思って、調べました」と、左手くん。
「『いい手の日』を11月10日に決めたのは、ユースキン。手荒れが始まる時季なんだって。そして『手と手の日』を10月10日に決めたのが、ニベア。『てとて』『テンとテン』という発想だとか」
「おー、ハンドクリーム会社的には決裂した2つの日にしちゃった訳なんだ」
「まあ、手の日が増えることには異論はないけどね」
「確かに。普段気にしていないことを、ちょっとでも気に掛ける日が2つあるってことだもんねぇ」
「きっかけって、大事だよね。どうでもいいようなきっかけから生まれる大切なことだってある訳だしさ」
「まあ、何とかの日っていうのは、そういう意味合いが強いのかもね」
「ポッキーの日も?」「いやいやいや」

そこで、ハタと右手くんが動きをとめた。
「手の日が2つあるって、さっきの話、ほんと?」
左手くんは、いじわるそうに笑う。
「今日は、口の日とも言えるね。口から出まかせの日」
「それって、口のことを気に掛ける日とは、違うような・・・」
口ごもった右手くんは、しばし考え、ない口を開いた。
「そういえば、口の日ってないもんね。4月18日が『よい歯の日』だけど『よい口の日』って聞かないし」
「えーっ、それ、ほんと? 虫歯予防デーは6月4日じゃん」
「ふふ、ふふふふふ」今度は、右手くんが不敵に笑うのだった。
*文中に出てくる何とかの日はすべて本当です。嘘がつけないふたりだなぁ*
*楽しいエイプリールフールになりますように*

残念ながら、ユースキンもニベアも使っていません(笑)
ハンドクリームはアベンヌが肌に合うみたいで、愛用。
ときどき、ロクシタンのフットクリーム塗ってます。
リップクリームはDHC。最近、普段、化粧しなくなりました。

ある春の日の洗濯物です。
「春風さんの悪戯?」と右手くん。左手くんが、笑って返していました。
「おんなじユニクロ同士ね。お茶しなーい?」洗濯物世界でも、女性強し?

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とりたての赤葱

日曜日。庭仕事をしていると、車が止まった。斜向かいのお隣りさんだ。
「葱、いっぱいもらったから、よかったらどうぞ」
どさりと30本ほどのお裾分けを置き、しばし世間話をしてからまた、走って行く。その車を見送りつつ、夫と顔を見合わせ「葱鍋」との方向で夕飯の献立を決めた。

買い物に行くのをやめ、冷凍庫にあった豚ばら肉と合わせることにする。このところハマっているナンプラーを使ったベトナム風鍋だ。レモンも青唐辛子もある。白ワインも冷えている。そして、何しろ新鮮な葱がたっぷりある。
葱は、根元の白い部分が綺麗な紫色で、調べると赤葱という種類らしく、加熱するととろりとした食感になり、鍋が定番とのこと。その通りに、とろとろ葱のベトナム風鍋ができた。
「生の葱も美味しいけど、とろっとろの葱は、また格別」
などど言いつつ、鍋をつついた翌朝。ふと、声が戻っていることに気づいた。風邪はいつのまにか、すっかり治っている。
「葱のおかげ、かも」
生でもよし、煮てもよし、焼いてまたよし。葱の万能さと、鍋の美味しい春浅い寒さに感謝しつつ、たっぷりと葱をいただく日々である。

とりたての葱は、つんとした匂いを、強く放っていました。

渇いた部分の皮をむいても、紫色が残っています。

でも、やわらかく煮た葱は、その紫が消えて白くなっていました。
豚ばら肉の脂と、ナンプラーがよく沁みていました。

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枯れ葉を集めて

日曜日。雨の予報が先延ばしになったようなので、夫とふたり庭仕事をした。隣の林から舞い落ちた枯れ葉の片づけである。
「都会だと、隣りの木の落ち葉がトラブルのもとになったりするんだよな」
夫の言葉に、笑って返す。「ここじゃ、文句の言いようがないもんね」
もともと林だった土地に建てた家なのである。両側は、それぞれ違う人の土地だが、見に来る様子もなく顔も知らない。落ちてきた枯れ葉は、ただ林に戻すのみ。例え持ち主を知っていたとしても、文句を言うどころか、林にあずかっている恩恵の方が多いくらいなのだ。

東側の林には、隣接した場所に山桜があり、我が家の土地に張り出したその枝は、13年と少し生きたびっきーに、素敵な木陰を作ってくれていた。寒さにめっぽう強かった彼も、夏の暑さにはバテ気味だったが、鎖は長く繋いでおいたので行動範囲は広く、よく桜の木の下で涼んでいた姿を思い出す。東側の林では、多分、もうすぐミツバツツジが咲き始めるはずだ。

西側の林は、西陽をかなり和らげてくれている。越して来た15年前よりも、確実に夏の暑さが厳しくなった今、これには本当に助けられている。それでもマツクイムシにやられ、赤松が何本も切り倒された林を、末娘は淋しそうに眺めていた。5歳で越して来た彼女には、この林が隠れ家のような存在で、まるで自分の部屋のように落ち着いて遊んでいたっけ。夏、カブトムシやクワガタが蜜を求めてやってくるのは、西側の林だ。

そんなことを思いつつ、枯れ葉を林に戻した。枯れ葉の下に眠っていたスミレや芝桜が「あ、春ですか」というかのように、伸びをした。

庭の花達の様子です。雪柳は、なかなか蕾を開こうとしませんが、
一番陽のあたるところのアスファルト側から咲き始めました。
太陽の熱を吸収したアスファルトが、温かいからでしょうか。

雪柳の足元には、芝桜がやはり少しずつ、咲き始めています。

水仙は、今まさに満開。ようやく上を向き、太陽と会話しています。

クリスマスローズはうつむいたまま、静かに順番に咲いている途中です。

ハコベの小さな花は、清楚で可愛らしく、ハッとさせられます。
雑草ですが、しばらく楽しもうと思います。
おひたしやみそ汁に入れて、食べてもいいし(笑)

あちこちに葉を広げ始めたスミレ達には、小さな蕾が揺れ始めました。
昨日は、この後雨が降り、植物達は嬉しそうでした。

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白い葱、白い時間

久しぶりに、思いっきり白髪葱を刻んだ。
夫が、薪割り仲間と持ち寄りで打上げをすると言う。ワインではなく、日本酒を好む年上の二人は70代だが、まだまだ薪ストーブ現役選手だ。チェーンソーで木を伐り倒し、丸太を運ぶ力仕事は、並大抵の労力ではないはずだが、淡々とこなす頼もしい老人達である。夫とふたり内緒でこっそり、尊敬の念を込め「年寄りの冷や水ペア」と呼ばせてもらっている。

「最近食べてないねぇ、葱鶏。味忘れちゃったよ」と、夫。
「最近作ってないもん、葱鶏。ワインには辛すぎて合わないかなって」
茹でた鶏肉の上に、たっぷりと白髪葱をのせて、醤油と酢、豆板醤のタレをかけて混ぜながら食べるこのレシピは、小林カツ代の料理本で覚え、アレンジしながら何度も作った味。何年か前に亡くなった我が家の設計士さんにも褒められ、レシピを聞かれたことを懐かしく思い出す。

太くしまった長葱を選び、白い部分を3本~4本千切りにする。切った先から水に放つと、水分を吸いくるんと丸まっていく。白い葱。白いまな板。トントンと刻む包丁の音。何も考えず湖の底にでもいるような白い時間。
久しぶりに白髪葱を刻み、思い出した。ああ、この白い時間が好きだったなぁ、と。白は無ではないけれど、無と似ている。そして、くるんと丸まった瑞々しい葱は、やはり無に似た透明な光を放っている。

わたしは、白い時間を欲しいていたのか。無を求めていたのかと、考えてみる。そして、子ども達と過ごした喧噪とも言える時間のなかに、しんと静まった時を求めていたのかも知れないと、思い当たる。
今はもう、時問わずキッチンはしんと静まっている。水に放ち、くるんと丸まった白い葱に問うてみても、もちろん何も言わない。

鶏が見えないくらいたっぷりの白髪葱。でも最後に残るのはいつも鶏です。

くるんと丸まっていく不思議。繊維と水分の戦いが見えます。

タレをかけると「美しい」から「美味しそう」に変身します。
*レシピメモ*
茹でた鶏もも肉を適当に刻み、胡麻油を絡めておく。
白髪葱をたっぷりとのせ、醤油大さじ2、酢大さじ1と豆板醤少々を混ぜて、
食卓に出す前にかける。混ぜ合わせながら、いただく。

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『悪い冗談』

末娘と、芝居を観に行った。すでに2度足を運んだ劇団アマヤドリの「悪と自由」の三部作と銘打ったその第三作『悪い冗談』だ。
第一作『ぬれぎぬ』では、犯罪者は刑を処する前に必ず更生させなくてはならないとの法律を施行される世界で、殺人犯と厚生員とのやりとりが描かれた。
第二作『非常の階段』は、なんとなく入った詐欺集団で人を騙すうち、抜け出せなくなり、自分自身を見失っていく男を描いた。

第三作である『悪い冗談』は、様々な視点が交錯していく。
東京大空襲で、逃げ惑う人々。命令通り、爆弾を投下するアメリカ兵達。
別れ話を切り出そうとするが、自分が悪者になりたくないがあまり選択肢を並べ立て、恋人に選ばせようとする男。その恋人。
妹を殺された女は、殺人犯に繰り返し面会し憎しみをぶつけ続け、花見に来た集団は、韓国人と日本人とで互いの意識の違いを語り合い、研究者達は、人はどんな時、どんな相手に服従するのか実験を行う。
空襲で亡くなったであろう女の子が、ケンケンパを繰り返し、世の中に疑問を抱く男は、舞台上をただ走り続ける。

悪って何? 命令に従い爆弾を落とすことは悪なの? 悪者は誰なの? えっ、わたし? わたし達、みんな? そんな叫びが聞こえるような舞台だった。

舞台には、仮想の川が流れていた。
「川向う、対岸の火事ならぬ対岸の悪を、多くの人は眺めているのかも知れないな」そのまた傍観者であるわたしは、考えた。
だが、こちら側にいるのだとばかり思っていたら、向こうからも同じように眺める人がいて、いずれ立場は一転するのだ。わたしと彼、こちら側と向こう側の間の川面には、悪というものの不確かさが、ゆらゆらと流れていく。
戦争を始めた国のトップと、爆弾のスイッチを押す兵士と、国のトップを選び受け入れた国民。誰が悪なの?
つんつるてんの着物を着た女の子の「ケンケンパ」が、木霊していく。

池袋駅西口にある『東京芸術劇場』シアターイーストで、29日まで。

チケットとチラシと台本。チラシには「テーマパークになった、ニッポン」
とありましたが、わたしには、そのはっきりとした意味は判りませんでした。

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『やぶへび』

いやー、面白かった。さすが、大沢在昌。ハードボイルドならこの人、という作家だが、小説『やぶへび』(講談社文庫)は、強くもなければかっこよくもない四十男が主人公のエンターテイメントだ。以下、本文から。

「ノーマネー、ノーハニー」とはよくいったものだ。懐がここまで寒ければ、女など作れる筈がない。
もっとも考えてみれば、人生の曲がり角にはたいてい女がからんでいて、結果必ずといってもいいほど悪いほうに向かっていったような気がする。
それはつまり、甲賀悟朗(こうがごろう)が女好きだからに他ならない。

甲賀は、金のために中国人の女と偽装結婚していた。その会ったこともない妻、青珠(ちんじゅ)が警察に保護され迎えに行くと、なんと記憶を失っていた。とりあえずのつもりで一緒に帰ったのだが、彼女には追手がいて、ふたり追われる羽目に陥る。

この小説のキーになるのは、記憶をなくした青珠のキャラクターだ。甲賀は元刑事だが、特別腕がたつ方じゃない。ピンチを切り抜ける際、発覚したのは、彼女が武術の達人だということだった。美しく優しく、強い女性。これで、俄然面白くなっていく。そして、甲賀は自分が助かる算段をしつつも、結局は青珠を見捨てられないのだ。

「オオサワアリマサは、いいな」ひとりごちる。
彼の小説に登場する主人公達は、強く賢くかっこいい人物であろうと、甲賀のようにその真逆をいく人物であろうと、決して仲間を裏切らない真っ直ぐさを持っている。数字で言うと1のような真っ直ぐさ。だからわたしは、心が数字の2や3やメビウスの輪のようにねじれてしまった時に、大抵、彼の小説を読む。読めない時には「オオサワアリマサ」と唱えたりもする。世界中で彼の小説が読まれれば、世界平和も夢じゃないような気がするけど、ハードボイルド小説を読んでそんな風に考えるのは、わたしだけなんだろうな。多分。

お洒落なタイトルも多い大沢小説。『やぶへび』は異質かも。でも、
このタイトルは、中身に深くかかわっていて、ピタリとハマっています。

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ぽっかり浮かんだ雲を眺めて

青い空に浮かんだ真っ白い雲を眺めていると、ゆったりとした気持ちになるものだが、ふと考えた。雲が浮いているのは、何百メートルも何千メートルもの高さなのだから、凍った風が吹きつけているのかも知れないなぁと。

この間、東京で女子ばかり楽しく飲んだ時、真面目な話ももちろんする訳だが、友人が繰り返し言っていた言葉が雲の上を流れていく。
「誰かの身に起こったことを、判ったつもりになることも多いけど、本当のところは、自分の身に起きてみないと判らないんだよ」

夫が、海外で仕事をする知人から聞いた言葉をもまた、旋回していく。
「海外で暮らすコツは、その国の人達を理解できないってことを、知ることだ。判らないってことを、判っていなくちゃダメなんだ」

わたしは、雲の気持ちは判らない。八ヶ岳の気持ちも判らない。そして、友人の気持ちも判らない部分が多いのだろうと思う。夫の気持ちも、子ども達の気持ちも、親達の気持ちも。
雲を見上げて、考えた。判らないということを、判っていようと。そうすることで、誰かの気持ちに近づけることもあるんじゃないかと。

昨日は地上にも冷たく強い風が吹いていましたが、八ヶ岳や雲を眺めるのは、
運転中が多いんです。車のなかは適温で、風も吹きません。
だからか、こんなことを考えつつ、運転していました。

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備えあれば、うれしい?

風邪をひいて、買い物に出るのも億劫なので、買い置きの根菜で野菜スープを煮た。と言っても、人参、玉葱、じゃが芋の皮をむき、ごろごろと鍋に入れ、コンソメスープとウインナーとを火にかけただけである。簡単だが、寒い季節に温かいものが食べられるのは、幸せだ。
人参と玉葱には、免疫力を高める効能があるそうだ。マスタードも然りで、優しい味のスープには、いつもマスタードを添えている。
風邪をひいてから免疫力を高めても遅い気もするが、普段きちんと食べていても、風邪をひく時は風邪をひくものなのだ。悔しい。「備えあれば憂いなし」というが、傘を持っていても濡れることだってあるのだ。

ところで、カナダでワーキングホリデー中の上の娘の部屋で、突然時計が鳴りだした。もう8ヶ月も留守にしているというのに、どうしたのだろうと連絡すると、何事もないらしい。何事もない日々のために様々備えていたところで、人知の及ばぬことだって多々ある。
ちなみに、彼女が好きなリラックマは、言っている。
「備えあれば、うれしい」
雨の日にお菓子などを買い置きしてあると、うれしいの意味。
「に、似てる。その、天然さ加減が」ひとり、娘を思い出し、爆笑した。

今年購入したスープ皿は、大活躍中。熱が逃げにくいんです。

娘の部屋で留守を守る、百匹のリラックマとコリラックマ達。

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娘の置き土産と春の声

滅多にないことに、風邪をひいた。末娘の置き土産である。急に暖かくなって、上着も着ずに浮き浮きと庭仕事をしたのも一因かも知れない。

喉が痛み、身体が怠い。普段は忘れているが、喉と耳とは繋がっているのだと実感する。唾を飲むたびに、喉の痛みが耳に響くのである。
そのぼんやりとした耳に、今年初めての鶯の声が響いた。
「あ、鶯。今年初めて聞きました」荷物を出しに行った郵便局で、わたし。
「あ、わたしも、初めてです」と、郵便局員の女性。
今朝は冷え込み、寒かったと話していた矢先だった。
「まだ、下手ですね」「ホーホケキョには、なっていませんね」
ふたり顔を見合わせ、微笑む。
鶯の声だとはっきり判ったが「ケキョケキョケキョ」を繰り返すのみ。上手に鳴けるようになった頃、本当の春が来るのだ。多分。

怠くて外出したい気分じゃなかったが、郵便局に行ってよかった。郵便局で送った荷物もまた、末娘のモノだった。洗濯物やら本やらお菓子やら。風邪を置いていったおしゃべりな娘だが、春の声も届けてくれたらしい。
彼女の風邪は、治っただろうか。「あいうえあおあお」などと、発声の練習をしていると喋っていた声が、鶯のたどたどしい鳴き声と重なった。

郵便局からコンビニに向かう途中の道沿いにある枝垂桜が、
よくやく、ほころび始めました。

濃いピンクの蕾が開くと、淡いピンク色。魔法のようです。

ほとんどが、まだかたい蕾でした。今週、咲くかな。

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おひとりさまランチのススメ

出先で、ひとり昼食をとる時には、圧倒的にラーメンが多い。
好きだということ以外に、リーズナブルで量的にも丁度よく、食べ切ることができるのがいい。待ち時間も少ないし、混んでいてもカウンター席に座れば、ひとりでテーブル席を占領してしまう気まずさもない。
ひとりで外食することに抵抗があるという人も、気軽に暖簾をくぐれる店の一つがラーメン屋だと思っている。

読んだことはないが『おひとりさまの老後』(文春文庫)がベストセラーになって以来「おひとりさま」という言葉が独り歩きし、ひとりで外食を楽しめる人が増えたように思う。「ひとりで食事 = わびしい」というイメージが逆転したのだ。もともと、一人で食事を楽しめるのって素敵なことだよなぁと思っていたので、嬉しい変化である。
「ひとりで外食は、できない」と、公言する人を、何度か目にしたことがある。理由はそれぞれあるのだろうが、その度にもったいないなぁと思っていた。何がもったいないって、楽しめる可能性を、自ら「できない」と決めてかかり、失くしてしまっていることが、もったいない。
たまに、ひとりでゆっくり好きなものを食べることは、食いしん坊のわたしにとってはリフレッシュできる瞬間でもある。料理の幅も、広がる。

大げさかもしれないが、ひとりを楽しむ時間が、誰かと一緒の時間を楽しむベースを作ってくれているとわたしは思うんだけど、どうでしょうか。

前回、東京に出た際に行った、新宿駅の南口方面にあるラーメン屋さんで。
券売機でチケットを買うタイプのお店でしたが、メニュー豊富。
鶏塩白湯麺は、優しい味で葱が効いていて美味でした。

素朴だけれど、何処かお洒落な店構えに魅かれて、暖簾をくぐりました。

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『平成大家族』

中島京子『平成大家族』(集英社文庫)を、読んだ。
タイトルから判る通り、大人数の家族の物語である。龍太郎(72歳)は、穏やかな生活が何より好ましいと思っていた。問題がないとは言えないが、それでも穏やかに暮らしていたのだ。妻、春子と、ひきこもり歴十年の長男(30歳)と、認知症が進む義母(92歳)と。なのに様々な問題が、まるで鴨が葱じゃなく雷雲でも背負ってやってきたみたいに訪れた。破産した長女夫婦が、中学生の孫を連れて戻ってきただけではなく、次女は離婚し、お腹に赤ん坊のいる身体で戻ってきた。季節を経て順々に膨らんでいく家族の形とはまるで違う、いきなり倍以上の人数になった「予期せぬ大家族」の物語なのだ。

面白かった。ひきこもりの息子、親の介護、中学生のいじめ、会社の倒産、不妊治療や離婚、深刻な問題に深く切り込んでいるのに、読後感がいい。何故なら、問題山積みの家族だが、一人ひとりの目線で語られた人物は、それぞれ「いい人」なのである。人を思いやり、正しく生きようとし、自分に正直にいようとする。だがそれが、家族からしたら「いい人」で済まされない。そういう問題ではない。「いい人」なら十年間ひきこもっていていいのかという問題になってしまうのだ。以下本文、春子が、娘が作った味噌汁の嫌いなはずの椎茸を、夫が食べたところを目にしたシーンから。

自分は四十年間、好きな椎茸も我慢して、夫の好物を、作り続けてきた。椎茸は、夫の、不在の、ときにしか、料理しなかった。食べられるなんて、知らなかった。四十年も私は、騙されていたのよ!
ここよ、ここがキモなのよ、と、春子は銀座線の優先席で二つの拳をぎゅっと握り締めた。もちろん、些細なことである。つまらないことである。しかし、日常は、些細なことでできている。今まで別々暮らしていた人間がいっしょにいるとなると、いろんなところで調子が狂うのだ。

判る、判るよ。ずいぶんと年上である春子の、肩を抱いてあげたい気持ちに駆られた。生きていく上で大切なことは、実際、実に些細なことなのだ。つまらないことに、人は右往左往されるのが常なのだ。

「核家族小説が増える中で生まれた、現代の家族小説」であると、解説、
北上次郎はかいています。日本茶が似合いそうでいて、そうでもないのかな。

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テッポウユリの百合根

暖かい日が続いたので、ホームセンターに行ったついでに花の苗を買った。
『ヒナソウ』という名の多年草で、小さな花をたくさんつけている。まだ花が咲かない庭を明るくしてくれると、意識下で考えたのかも知れない。雪柳や水仙、ライラックの蕾が、日に日に膨らんでいく様は見ていて飽きないのだが。

陽当たりのいい花壇に植えようと、土を掘った。すると、土のなかから白いものが出てきた。百合根だった。
何処からか種が飛んで来たテッポウユリが咲くようになり、十年ほどになるだろうか。定位置を持たず毎年咲くと思っていたのだが、その百合根はゴルフボールよりは大きく、毎年そこを定位置にして咲いていたのだと判った。
一瞬、時間の流れが止まった。そして、15年の時が瞬く間に駆け巡った。この百合根が育つほどの時間、此処にいたんだと実感する。これまで何度も、越して来て15年だと言っていたにもかかわらず、その言葉には実感が伴ってなかったことに気づいたのだ。
「傷つけちゃって、ごめんね」
何枚かはがれてしまった百合根の花びらも含め、丁寧に土をかけた。美味しそうだったが、テッポウユリは食用には向かないらしい。

ヒナソウは、少しずらして隣に植えた。庭をよく見回してみると、いくつかテッポウユリの芽らしきものが見つかる。ヒナソウを植え終えて水をあげる時、傷つけてしまった百合根にも、たっぷりと水をかけた。

これが植えたばかりの『ヒナソウ』です。多年草。根づくかな。

食用の百合根にそっくり。可愛そうなことをしました。

庭には、ドライフラワー化したテッポウユリの種が、
そのまま何本か置いてあります。

よく見ると、あちらこちらから、新しい芽を出していました。
花を咲かせる日が、今から楽しみです。

ライラックは、蕾を膨らませています。

クリスマスローズが、ようやく咲き始めました。

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淋しい相槌技術の衰え

「びっくりした?」とは、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』に登場する殺し屋キルオの決めゼリフだが、それとは全く関係なく、びっくりした。

末娘が、帰省している。
夫婦二人となった暮らしに慣れた今、判っていたことではあったが、びっくりした。彼女は、ノンストップで喋り続けるのだ。
帰って来た日は、5時間ノンストップだった。夫が帰らない日だったこともあり、その間に二人お昼を食べ、夕食を食べた。
喋ることがよくなくならないものだと思いつつ相槌を挟み、娘の話を聞く。久しぶりに会ったということ、またサークル以外での芝居を経験し話したいことが山ほどあったということを差し引いても、その若さとパワーに驚かずにはいられなかった。二十歳になった彼女を子どもと呼ぶのははばかられるが、知っていたはずの我が子の持つパワーは、親などには計り知れないものなのだ。

「こういう生活をしていたんだ。何年か前までは」
呆然としつつ、なんとなく思い出す。毎朝、毎夕、送り迎えの車中で、学校のことや読んだ本のことをしゃべり続けた彼女。だからか、今でも彼女の友人達の名や好きだったアニメや本のストーリーは、わたしも覚えている。
そして、もう一つ発覚したことにも驚いた。2年前までは、掛け合い漫才のように打てた相槌が上手く打てず、なめらかな会話ができなくなっていたのだ。これまで知らず知らずのうちに、彼女に鍛えられていたことを知った。それが、ひとりの時間が多くなった今、夫や友人達との会話に支障はないものの、彼女のノンストップお喋りに対する相槌技術は衰えてしまっていた。
「こうして、歳をとっていくのかな」
若さあふれる娘を眩しく感じつつ、淋しくも思ったのだった。

親子丼を作ったのは、久しぶりでした。末娘の大好物です。

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グーチー、パクチー

先月、ベトナム風海老団子鍋を作ってから、季節は早送りで春に近づいた。
その時に、ここ山梨は北杜市周辺のスーパーでは生のパクチーは見つからず、乾燥パクチーでの鍋となったのだが、いつか生パクチーでとの思いで『パクチー栽培キット』を購入した。水やりをするだけで育つというものだ。

「3日で発芽するんだって」と、わたし。
しかし夫は、一笑に付す。「そんな訳ないじゃん」
それを、水を含み目覚めたばかりのパクチーの種は聞いていたのだろうか、3日どころか10日経っても芽を出す気配さえ見せなかった。
「寒いのかな。発芽に必要な温度20℃ってかいてある」
「いくら薪ストーブ燃やしても、20℃は難しいもんな」
2階の一番温かい場所に置き、うんともすんとも言わない土に水やりをする日々。簡単栽培キットだというのに「苦労」という言葉さえ思い浮かぶ。野菜や米を作る苦労は、こんなに簡単な訳はないのだが。

そのパクチーが、3週間経ち、ようやく芽を出し双葉を開いた。可愛い。朝顔などの双葉とは違い、じゃんけんでいうとチョキのような細長い双葉だ。
「そういえば、パクチーって名前『グーチーパー』と似てる」
言葉遊びが好きなわたしは、こっそり考える。じゃんけんは、それぞれが勝つ相手と負ける相手を持っているメビウスの輪。音だけではなく、植物の形もそれに似ているかも、と。種(グー)から芽が出て双葉が開き(チー)花が咲く(パー)そしてまた種を落とす、メビウスの輪。永遠を表すメビウスの輪だ。
「グーチー、パクチー」とパクチーを応援しながら、毎朝水をあげている。

パクチーって、コリアンダーなんですね。

毎日、霧吹きして乾燥しないように、とかいてありますが、
とりあえずは、たっぷり水をあげました。

2本ずつ、4本芽を出しています。日に日に、葉が膨らんでいきます。

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甘いモノ苦手症候群

スーパーで「甘いキャベツ」というPOPを見つけた。静岡産のキャンディ・キャベツ、とある。278円と高価だが、美味しいのかなと興味が湧き、買ってみた。キャンディの名を持つが、もちろん砂糖のような甘みとは違う。だが、やわらかく野菜本来の甘みを感じるキャベツだった。

甘いモノが苦手だ。なので、甘いキャベツのPOPを見た時にも、一瞬ひいた。しかし、この甘いは、あの甘いとは違うと、自分に言い聞かせた。それほどまで甘さに拒否反応を起こしてしまうことに、今更ながら気づき、驚く。
十年前には、普通に食べられたケーキ、クッキー、チョコレートなどを拒むようになって何年経つのだろうか。無理をすれば、食べられないことはない。身体が拒否している訳ではないのだ。だが、無理をして食べる理由が見当たらないのである。そこに甘いモノ苦手症候群が加速する原因があったように思う。
子ども達に作る機会がなくなったことも、原因の一つかも知れない。高校時代にハマったお菓子作りは、母親になってからも続けた。娘達に教えたりもしていたのだ。何年か前までは。

最近では、コンプレックスにさえ感じている。自分の弱みのような感覚、といったらいいだろうか。好き嫌いなく何でも食べられ、家族や友人と共に食を楽しめる人でありたいとの目指す生き方に反している。実際、甘いモノ以外なら、何でもござれだ。いくら辛くとも、香料がきつくとも平気だし、お酒だって美味しく飲める。それなのに。

「甘いキャベツなら、食べられるでしょう?」
キャンディ・キャベツは、わたしのコンプレックスを刺激しつつも、やさしい甘みでささやいたのだった。

キャンディ・キャベツのロゴシールです。

芯に近い黄色い部分の甘みが、一番強いんだとか。

豚肉の生姜焼きをのせて、ばりばり食べました。やわらかい!

夜は、冷しゃぶに。柚子ポンやマヨネーズでキャベツを味わって。

翌朝は、バター炒めにしました。生より炒めた方が、甘かった!

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ふきのとう採りの極意

寒さが和らいだ日曜の夕方、夫と、ふきのとう採りに出かけた。
この春、二度目の挑戦。一度目は、十個ほどしか採れなかった。まだ、春が浅いのだと、夫とふたり、天麩羅にして楽しんだ。
だが、もうそろそろ頭を出す頃だろうと、出かけたのだ。今度はたくさん採って、酢味噌和えにと相談はまとまっていた。

前回、採った場所は覚えている。誰かに先を越されなければ、だいじょうぶだと浮き浮きと歩いた。
「ふきのとう、出てきたかな」
呑気なわたしの言葉に「しっ!」と、夫が声を潜める。
「大きな声で、ふきのとうって言っちゃだめだよ。誰が聞いてるか判らないからね。ビニール袋も、ポケットに隠して、隠して」
彼は、いつもの場所にふきのとうがあるということを、できるだけ内緒にしておこうと必死な様子だ。仕方なく無言で歩く。程なくして、ふきのとうスポットに到着。無言のまま、探し始める。花が咲いているのが、すぐに見つかったが、それから苦戦した。
「ないねぇ」「誰かが、枯れ葉を散らした後がある」
採れたふきのとうは、たったの5個。うつむいて歩く、帰り道も無言だ。しかし、ふきのとう採りの神様は、その時、微笑んだのだった。
「あ、これ、何? もしかしたら」と、わたし。
歩く足元に、ごく普通に蕾があったのだ。砂利道だが、硬い土だ。こんな場所に? と思うようなところで、蕾を膨らませていたのである。
その時、わたし達は気づいた。自分達が抱いているふきのとうのイメージが違っていたことに。やわらかい黄緑色は、背を伸ばし花を咲かせたもので、土に埋もれた蕾は、土の色に近い紫がかった茶色をしている。そして、人が歩いた道端にも、アスファルトの隙間にも、花を咲かせる強さを持っているのだ。

それからは、わたし達の勝ち試合だった。さっき見過ごして歩いた道に、そんなに無防備でいいの? と言いたくなるほど、呆気なく見つかっていく。
「あった!」「ここにも!」「あ、そこにも、ある」
「ふきのとう採りの極意は、会得したね」と、わたし。
「これだけ採れれば、酢味噌和えじゃなくて、蕗味噌作れるな」と、夫。
帰宅後、逆転サヨナラ大ホームランを飾った今年のふきのとう採りに、缶ビールで乾杯したことは言うまでもない。いやはや。あのまま惨敗していたら、夕食タイムまでもが無言となるところだった。

こういうのを見つけようと思っていては、見つからないんです。

これが本来の姿。もっと紫っぽく土に紛れているのもあります。

カンゾウは、見つけやすくあちこちに生えているのになぁ。

こんなに採れたのは、何年ぶりかのことでした。

胡麻油で炒めて煮詰めるタイプの蕗味噌。ほろ苦さが、たまりません。

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心の温度上昇中

庭で、クローバーを見つけた。
と言うと、ごく当たり前の風景のように思えるが、普通のクローバーではない。『クローバー・ティントブロンズ』という種類の葉が赤紫色のものだ。ティントは赤の意味を持ち、ブロンズは言うまでもなく銅。赤銅色という名なのだろうが、赤紫という方がぴったりくる色である。
まあ、見つけたと言っても、去年わたしが植えたものなのだ。ホームセンターで一目惚れし、クローバーなら強いだろうと庭に植えたのだ。夏の終わりだったかと思う。それが、すぐに枯れてしまい、がっかりした。水やりをサボった訳もないし、理由も判らず、ただただがっかりした。そして、そのまま忘れてしまった。

それが、今頃になって芽を出し葉を開き、陽の光を浴びている。全く、植物にはびっくりさせられることばかり。まるで、トラップにかけられたような気分だ。それでも、開いた葉の可愛らしさに見とれ、胸のなかに春が来たようにぽかぽかと温かい気持ちになる。心に温度があるとしたら、確実に上昇していると思われる。植物にハッとして春を感じ心の温度が上がるとしたら、たぶんこの季節、日本じゅうでたくさんの人の心の温度が上がっているはずだ。植物と人のそんな連動が春を呼ぶのかも知れないな、と仮説を立ててみる。
「眠っていたんだね。おはよう」
クローバー・ティントブロンズに、小さくしゃがんで挨拶をした。

何と言っても、葉っぱの形が、可愛いんですよね。

暑いより、寒さに強いのかな? 陽があたって、嬉しそうです。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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