はりねずみが眠るとき
昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
蕗とクリスマスローズ
「クリスマスローズって、こんな時期まで咲いてるんだな」
庭に、蕗が葉を広げだした。蕗は、その茎を煮て食べることができる食材だが、もちろんクリスマスローズは違う。だが、その茎は、太さだけではなくたたずまいが似ていて、煮物にしようと蕗の茎を切っていると、つい隣りのクリスマスローズまで切ってしまいそうになる。その過ちは、まだ犯したことはないが想像するに恐ろしくなる。とり返しがつかぬ過ちが、手の届く所にある恐怖を感じるのだ。
似ていたから間違えた。うっかりしていた。そんなつもりはなかった。
そんな悪意のないところで起こる事故や犯罪を思いつつ、丁寧に、葉を広げた蕗の根元を探り、一つ一つ鋏を入れた。
蕗の葉が広がる隙間に、クリスマスローズ。なんとか、間違えなかった。
ツルニチニチソウの紫の花が咲き乱れる向こうには、茗荷が伸び始めました。
和洋折衷、というより、まるで無頓着な風景です。
蕗と油揚げを一緒に、煮ました。美味しかったです。
庭に、蕗が葉を広げだした。蕗は、その茎を煮て食べることができる食材だが、もちろんクリスマスローズは違う。だが、その茎は、太さだけではなくたたずまいが似ていて、煮物にしようと蕗の茎を切っていると、つい隣りのクリスマスローズまで切ってしまいそうになる。その過ちは、まだ犯したことはないが想像するに恐ろしくなる。とり返しがつかぬ過ちが、手の届く所にある恐怖を感じるのだ。
似ていたから間違えた。うっかりしていた。そんなつもりはなかった。
そんな悪意のないところで起こる事故や犯罪を思いつつ、丁寧に、葉を広げた蕗の根元を探り、一つ一つ鋏を入れた。
蕗の葉が広がる隙間に、クリスマスローズ。なんとか、間違えなかった。
ツルニチニチソウの紫の花が咲き乱れる向こうには、茗荷が伸び始めました。
和洋折衷、というより、まるで無頓着な風景です。
蕗と油揚げを一緒に、煮ました。美味しかったです。
森を見て木を見ず
今、隣りの林では、コバノガマズミが白い花を揺らしている。
東側、西側、そして北側の傾斜地にも。小さな花を集めて咲かせる低木だ。
林には、いろいろな木があり、花を咲かせていないときには何の木か判らないものも多い。そしてこの季節、コバノガマズミが思いもよらずたくさん生えていることに気づかせられる。
「木を見て森を見ず」は英訳の諺で「一つのものを見ていると、全体が見えなくなる」ことだが、その逆に、いつもただ漠然と「林」あるいは「そこに生えている木」としてしか、コバノガマズミの木も見ていなかったことに、毎年のことなのに、咲いてようやくハッと気づくのだ。ぼんやりとモノを捉える性質(たち)というものは、そう簡単に変えられないのだと実感する。
だが。いや、だからこそこの季節、そのことに気づき、様々なモノをじっくりと見る機会が、わたしに与えられるのだとも言える。例えば、キッチンのタイル一枚が、また例えば、転がっているじゃが芋一つが、くっきりと見えてくるのだ。それはただ、新緑のまぶしさから見えてくるだけなのかも知れないが。
遠目に見るとジミーな花ですが、一輪一輪が、綺麗に咲いています。
秋になると、赤い実をつけて、またアピールしてくれます。
木洩れ陽が、きらきら揺れていました。新緑の林は気持ちがいいなぁ。
東側、西側、そして北側の傾斜地にも。小さな花を集めて咲かせる低木だ。
林には、いろいろな木があり、花を咲かせていないときには何の木か判らないものも多い。そしてこの季節、コバノガマズミが思いもよらずたくさん生えていることに気づかせられる。
「木を見て森を見ず」は英訳の諺で「一つのものを見ていると、全体が見えなくなる」ことだが、その逆に、いつもただ漠然と「林」あるいは「そこに生えている木」としてしか、コバノガマズミの木も見ていなかったことに、毎年のことなのに、咲いてようやくハッと気づくのだ。ぼんやりとモノを捉える性質(たち)というものは、そう簡単に変えられないのだと実感する。
だが。いや、だからこそこの季節、そのことに気づき、様々なモノをじっくりと見る機会が、わたしに与えられるのだとも言える。例えば、キッチンのタイル一枚が、また例えば、転がっているじゃが芋一つが、くっきりと見えてくるのだ。それはただ、新緑のまぶしさから見えてくるだけなのかも知れないが。
遠目に見るとジミーな花ですが、一輪一輪が、綺麗に咲いています。
秋になると、赤い実をつけて、またアピールしてくれます。
木洩れ陽が、きらきら揺れていました。新緑の林は気持ちがいいなぁ。
『サラバ!』予告編
『鹿の王』を読み終えてから、面白い本に集中しすぎたときに起こる脱力感が身体じゅうを支配し、しばらく本を手にとれなかった。
気分転換に「このミス大賞」をとったミステリーを読むには読んだが楽しめず、脱力感は深まるばかり。これはもう、どーんと大物に挑むしかないと『サラバ!』(小学館)を読むことに決めた。
分厚い上下2冊。直木賞受賞作にして、本屋大賞第2位をとった小説だ。西加奈子は5冊ほど読んでいるので、相性が悪くないことも知っている。
しかし、読もうと決めた途端『サラバ!』は、わたしから逃げていった。
ベストセラーが並んだ新宿駅ナカの本屋では、売り切れ。あずさに乗り帰って来た甲府駅ビルの本屋で、やれやれと手にしてレジに並ぶも、前に並んでいた男性がややこしいことを店員に言っていて、電車の時間となりあきらめた。その夜、夫を迎えに出たついでに寄った隣町の本屋は、タッチの差で閉店時間。翌日買いに走るも、ふたたび売り切れていた。
『サラバ!』は「サラバー」と駄洒落でも言っているかの如く、するりとわたしをかわしていく。「縁」というものの不思議は、人とだけではなく、モノとの間にもあるのだということを思わずにはいられなかった。
という訳で、そこであきらめることも考えたが、考えるほどにあきらめきれず、昨日ようやく『サラバ!』は、わたしの手もとにやって来た。お隣の、そのまた隣りの市にあるショッピングモールの本屋まで車を走らせて買ったのだ。本屋で見つけ、手にした時には震えた。このチャンスを逃したら一生読めないかもしれないと、本気で考えている自分がいた。
普段は(?)フラれた相手をしつこく追いかけるようなことはしないのだが、今回に限り、見逃してほしい。追いかければ、手にすることができる「縁」もまた、存在するのである。
「僕はこの世界に、左足から登場した。母の体外にそっと、本当にそっと左足を突き出して、ついでおずおずと、右足を出したそうだ。両足を出してから、速やかに全身を現すことはなかった。しばらくその状態でいたのは、おそらく、新しい空気との距離を、測っていたのだろう」冒頭文です。わくわく。
気分転換に「このミス大賞」をとったミステリーを読むには読んだが楽しめず、脱力感は深まるばかり。これはもう、どーんと大物に挑むしかないと『サラバ!』(小学館)を読むことに決めた。
分厚い上下2冊。直木賞受賞作にして、本屋大賞第2位をとった小説だ。西加奈子は5冊ほど読んでいるので、相性が悪くないことも知っている。
しかし、読もうと決めた途端『サラバ!』は、わたしから逃げていった。
ベストセラーが並んだ新宿駅ナカの本屋では、売り切れ。あずさに乗り帰って来た甲府駅ビルの本屋で、やれやれと手にしてレジに並ぶも、前に並んでいた男性がややこしいことを店員に言っていて、電車の時間となりあきらめた。その夜、夫を迎えに出たついでに寄った隣町の本屋は、タッチの差で閉店時間。翌日買いに走るも、ふたたび売り切れていた。
『サラバ!』は「サラバー」と駄洒落でも言っているかの如く、するりとわたしをかわしていく。「縁」というものの不思議は、人とだけではなく、モノとの間にもあるのだということを思わずにはいられなかった。
という訳で、そこであきらめることも考えたが、考えるほどにあきらめきれず、昨日ようやく『サラバ!』は、わたしの手もとにやって来た。お隣の、そのまた隣りの市にあるショッピングモールの本屋まで車を走らせて買ったのだ。本屋で見つけ、手にした時には震えた。このチャンスを逃したら一生読めないかもしれないと、本気で考えている自分がいた。
普段は(?)フラれた相手をしつこく追いかけるようなことはしないのだが、今回に限り、見逃してほしい。追いかければ、手にすることができる「縁」もまた、存在するのである。
「僕はこの世界に、左足から登場した。母の体外にそっと、本当にそっと左足を突き出して、ついでおずおずと、右足を出したそうだ。両足を出してから、速やかに全身を現すことはなかった。しばらくその状態でいたのは、おそらく、新しい空気との距離を、測っていたのだろう」冒頭文です。わくわく。
スズランを花束にして
今日、5月1日は「スズランの日」だそうだ。
フランスでは、この日にスズランの花束を贈られた人に幸せが訪れると言われているのだとか。なので、多くの人が、家族や恋人など、大切な人にプレゼントするそうだ。この日に限り、森から摘んできたスズランを花束にして、誰でも売っていいことになっているという。日本にはない、お洒落な風習である。
その日に合せた訳ではないだろうが、庭のスズランが咲いた。可愛らしいという形容がぴったりの小さな花だ。
そして、香りがいい。香水のような強い香りが苦手なわたしも、スズランの匂いは好きだ。庭仕事をしていて、ふっと花をかすめる香りに、つい手をとめて深呼吸したくなる。
そんなスズランを、誰かにプレゼントしたいなぁと思うが、今日は家族もみな不在。そう考えた瞬間、不意に胸に温かいものを感じた。幸せを贈りたいと思える誰かがいる。これ以上の幸せがあるだろうか。
スズラン達は、何を言うこともなく、ただ、凛と咲いている。
まだ先の方は、蕾のものが多いです。下から順番に咲いていきます。
鈴の名をつけた人のイマジネーションの豊かさを感じます。
「スズラン」と発音したときの響きまで、計算していたのかなぁ。
フランスでは、この日にスズランの花束を贈られた人に幸せが訪れると言われているのだとか。なので、多くの人が、家族や恋人など、大切な人にプレゼントするそうだ。この日に限り、森から摘んできたスズランを花束にして、誰でも売っていいことになっているという。日本にはない、お洒落な風習である。
その日に合せた訳ではないだろうが、庭のスズランが咲いた。可愛らしいという形容がぴったりの小さな花だ。
そして、香りがいい。香水のような強い香りが苦手なわたしも、スズランの匂いは好きだ。庭仕事をしていて、ふっと花をかすめる香りに、つい手をとめて深呼吸したくなる。
そんなスズランを、誰かにプレゼントしたいなぁと思うが、今日は家族もみな不在。そう考えた瞬間、不意に胸に温かいものを感じた。幸せを贈りたいと思える誰かがいる。これ以上の幸せがあるだろうか。
スズラン達は、何を言うこともなく、ただ、凛と咲いている。
まだ先の方は、蕾のものが多いです。下から順番に咲いていきます。
鈴の名をつけた人のイマジネーションの豊かさを感じます。
「スズラン」と発音したときの響きまで、計算していたのかなぁ。
縦野菜アスパラガス
薪ストーブを燃やしていると、当然のことだが、灰が出る。肥料になるので庭に撒いたりもするが、撒ききれない分は、家庭菜園をしているご近所さんなどに貰っていただいている。今シーズン最後の灰は、農家さんが分けてほしいと申し出てくれたので、バケツ一杯差し上げた。
「バケツは、ついでのときに玄関にでも置いておいてください」
そう言って渡したのだが、留守中に返ってきたそのバケツには、採りたてのアスパラガスがいっぱい立っていた。よく太ったアスパラだ。
「おーっ」と、夫とふたり、思わず歓声をあげる。
わらしべ長者ならぬ、灰でアスパラ長者。嬉しいお返しだ。
我が家の庭でもアスパラは採れるが、1本採っては食べるくらいの量。今夜は思いっきりアスパラを食べようと、きっかり1分硬めに茹で、味見した。うーん。口に広がる春の味。複雑な味つけは不要と、アスパラが言っている。マヨネーズと共に食卓に出し堪能した。
ところでアスパラガスは「縦野菜」なのだと最近知った。
縦に伸びるものだけに、横に寝かせて保存すると起き上がろうと消耗し、味が落ちるらしい。それがアスパラの性(さが)なのだとしても、冷蔵庫のなかで必死に起き上がろうと消耗しているアスパラを思うと、不憫である。今回は保存する暇もなく食べてしまったが、これからは冷蔵庫に入れるときにも縦にして入れようと誓った。
そして、もしかすると人にも、縦人間、横人間があるのだろうかと考えた。
あるとすればわたしは・・・と考えて、それ以上考えるのはやめた。消耗するだけだというのが目に見えていることは、しない性質なのだ。
そう考えるとアスパラは、ずいぶんと偉い野菜のように思えてきた。
これは、我が家の庭で少しだけ収穫しているアスパラガス。
にょきっと出てくる様子に、生命力の強さを感じます。
ぽりっというくらい硬めに茹でて、素材の味を楽しみました。
「バケツは、ついでのときに玄関にでも置いておいてください」
そう言って渡したのだが、留守中に返ってきたそのバケツには、採りたてのアスパラガスがいっぱい立っていた。よく太ったアスパラだ。
「おーっ」と、夫とふたり、思わず歓声をあげる。
わらしべ長者ならぬ、灰でアスパラ長者。嬉しいお返しだ。
我が家の庭でもアスパラは採れるが、1本採っては食べるくらいの量。今夜は思いっきりアスパラを食べようと、きっかり1分硬めに茹で、味見した。うーん。口に広がる春の味。複雑な味つけは不要と、アスパラが言っている。マヨネーズと共に食卓に出し堪能した。
ところでアスパラガスは「縦野菜」なのだと最近知った。
縦に伸びるものだけに、横に寝かせて保存すると起き上がろうと消耗し、味が落ちるらしい。それがアスパラの性(さが)なのだとしても、冷蔵庫のなかで必死に起き上がろうと消耗しているアスパラを思うと、不憫である。今回は保存する暇もなく食べてしまったが、これからは冷蔵庫に入れるときにも縦にして入れようと誓った。
そして、もしかすると人にも、縦人間、横人間があるのだろうかと考えた。
あるとすればわたしは・・・と考えて、それ以上考えるのはやめた。消耗するだけだというのが目に見えていることは、しない性質なのだ。
そう考えるとアスパラは、ずいぶんと偉い野菜のように思えてきた。
これは、我が家の庭で少しだけ収穫しているアスパラガス。
にょきっと出てくる様子に、生命力の強さを感じます。
ぽりっというくらい硬めに茹でて、素材の味を楽しみました。
ポールと仮想時空の旅
ポール・マッカートニーの東京ドームライブを聴きに行った。
昨年冬にも行ったのだが、相変わらずパワーのあるおじいちゃんだ。1年半前よりも、更に若返っていた。日本語のレパートリーも増え、約束通り再来日したことを「有言実行」ノリノリの観客を褒め称えるのに「すんばらしい!」などと言い、楽しませてくれた。根っからのお祭り男なのだろう。
身体に馴染んだ歌に酔いしれつつ、様々なことが頭をよぎる。中盤で透明感のあるメロディラインが好きな『ブラックバード』が流れたときには、あ、嬉しいと思いつつ、そういえばビートルズファンの伊坂もきっと聴きに来ているのだろうなと、ぼんやり考えた。伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)に所属しているわたしならではの発想だが、彼の小説『バイバイ・ブラックバード』は、この曲からイメージを膨らませてかかれたものなのだ。
そして、アンコールでは『ゴールデンスランバー』これも、伊坂のベストセラーだ。映画化もされている。
もしもビートルズの音楽がなかったら『ゴールデンスランバー』は生まれなかったのだろうか。そう考えて、不思議な気分になった。伊坂だけじゃない。世界中の人が、影響を受けているのだ。きっと、ありとあらゆるものが変わっていたことだろう。
ポールの歌は、そんな仮想時空の旅を、わたしのなかに静かに広げていった。いや。静かにというには、がんがんにロックンロールだったんだけど。
会場はケータイでの写真はOKでした。ライブも様変わりするなぁ。
昨年冬にも行ったのだが、相変わらずパワーのあるおじいちゃんだ。1年半前よりも、更に若返っていた。日本語のレパートリーも増え、約束通り再来日したことを「有言実行」ノリノリの観客を褒め称えるのに「すんばらしい!」などと言い、楽しませてくれた。根っからのお祭り男なのだろう。
身体に馴染んだ歌に酔いしれつつ、様々なことが頭をよぎる。中盤で透明感のあるメロディラインが好きな『ブラックバード』が流れたときには、あ、嬉しいと思いつつ、そういえばビートルズファンの伊坂もきっと聴きに来ているのだろうなと、ぼんやり考えた。伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)に所属しているわたしならではの発想だが、彼の小説『バイバイ・ブラックバード』は、この曲からイメージを膨らませてかかれたものなのだ。
そして、アンコールでは『ゴールデンスランバー』これも、伊坂のベストセラーだ。映画化もされている。
もしもビートルズの音楽がなかったら『ゴールデンスランバー』は生まれなかったのだろうか。そう考えて、不思議な気分になった。伊坂だけじゃない。世界中の人が、影響を受けているのだ。きっと、ありとあらゆるものが変わっていたことだろう。
ポールの歌は、そんな仮想時空の旅を、わたしのなかに静かに広げていった。いや。静かにというには、がんがんにロックンロールだったんだけど。
会場はケータイでの写真はOKでした。ライブも様変わりするなぁ。
とても簡単なこと
最近運転しながら、竹内まりやの『元気を出して』を、よく聴く。
♪ 幸せになりたい気持ちがあるなら 明日を見つけることはとても簡単 ♪
そのとても簡単なことが、簡単だと思えない時、この曲を聴く。
そして、ちょっといいことを数えてみる。
煎りたての豆で珈琲をドリップした時、ドリッパーのなかで細かく挽いた豆達がお湯をゆっくり吸い込んで膨らんでいく様を、見つめていられること。
可愛らしい雑草だなと抜かずにおいた野の花が、一度見てみたいと思っていたキュウリグサだと判明したこと。
いつもの何でもない道が、新緑でまぶしく光っていること。
道を譲った知らない顔のドライバーが、笑顔で挨拶してくれたこと。
数えてみると、ちょっといいことは、数えきれないほどあった。それなのに「とても簡単」なことは案外難しく、気がつけば小さな不満を数えてしまっている。だけど「幸せになりたい気持ち」は、きっとある。眼をつぶって心をflat にしてから心の眼を開けて、今日も、ちょっといいこと、数えよう。
庭に咲いていたキュウリグサ。花の直径が5㎜に満たない本当に小さな花
ですが、見つけたときの喜びは、とても大きかったです。
♪ 幸せになりたい気持ちがあるなら 明日を見つけることはとても簡単 ♪
そのとても簡単なことが、簡単だと思えない時、この曲を聴く。
そして、ちょっといいことを数えてみる。
煎りたての豆で珈琲をドリップした時、ドリッパーのなかで細かく挽いた豆達がお湯をゆっくり吸い込んで膨らんでいく様を、見つめていられること。
可愛らしい雑草だなと抜かずにおいた野の花が、一度見てみたいと思っていたキュウリグサだと判明したこと。
いつもの何でもない道が、新緑でまぶしく光っていること。
道を譲った知らない顔のドライバーが、笑顔で挨拶してくれたこと。
数えてみると、ちょっといいことは、数えきれないほどあった。それなのに「とても簡単」なことは案外難しく、気がつけば小さな不満を数えてしまっている。だけど「幸せになりたい気持ち」は、きっとある。眼をつぶって心をflat にしてから心の眼を開けて、今日も、ちょっといいこと、数えよう。
庭に咲いていたキュウリグサ。花の直径が5㎜に満たない本当に小さな花
ですが、見つけたときの喜びは、とても大きかったです。
花びらとモンシロチョウ
庭で、カエルの写真を撮っていて、ふと眼の先にひっかかったものがあった。
「あ、モンシロチョウ」
しかし、ひらひらと舞い降りたそれは、山桜の花びらだった。
「ああ、桜がまだ、咲いていたんだっけ」
山桜は、ソメイヨシノなどの主役級の桜より遅く咲き始める。先週、その花びらをやわらかい風のなか落とし始めた。山の高いほうではまだ、満開の木もあるが、我が家の隣りの林で咲いたものは、東側も西側も、この週末にすっかり散っていった。
ソメイヨシノが咲き始めた時には、桜に注目していた気持ちも、満たされたのだろうか。山桜の時期になると咲いているのが自然すぎて、空気のような存在となり、ふらりふらりと舞い始めた蝶の方に目を奪われるようになっていた。
求めているモノが満たされれば、それを求めなくなり、欲求は、次のモノへと移っていく。当然のことのようだが、人の心の移りゆくさまは、なんと自分本位なのだろうかと、散りゆく山桜を眺め、思わずにはいられなかった。
山桜の花の根元には、ピンク色した花びらのようなものがありました。
同じ木から舞い落ちても、違う色。落ちた時の色、そのままなのかな。
雪柳の枝にしがみついた、体操選手のようなアマガエルくんでした。
「あ、モンシロチョウ」
しかし、ひらひらと舞い降りたそれは、山桜の花びらだった。
「ああ、桜がまだ、咲いていたんだっけ」
山桜は、ソメイヨシノなどの主役級の桜より遅く咲き始める。先週、その花びらをやわらかい風のなか落とし始めた。山の高いほうではまだ、満開の木もあるが、我が家の隣りの林で咲いたものは、東側も西側も、この週末にすっかり散っていった。
ソメイヨシノが咲き始めた時には、桜に注目していた気持ちも、満たされたのだろうか。山桜の時期になると咲いているのが自然すぎて、空気のような存在となり、ふらりふらりと舞い始めた蝶の方に目を奪われるようになっていた。
求めているモノが満たされれば、それを求めなくなり、欲求は、次のモノへと移っていく。当然のことのようだが、人の心の移りゆくさまは、なんと自分本位なのだろうかと、散りゆく山桜を眺め、思わずにはいられなかった。
山桜の花の根元には、ピンク色した花びらのようなものがありました。
同じ木から舞い落ちても、違う色。落ちた時の色、そのままなのかな。
雪柳の枝にしがみついた、体操選手のようなアマガエルくんでした。
桔梗の芽の形
庭の雑草を抜いていて、桔梗が芽を伸ばしているのを見つけた。
十センチほどに伸びたその芽は、葉が四方八方に開き、まるですでに花が咲いているかのように見えた。桔梗の花は紫で、風船のように蕾を膨らませてから咲くのだと知っているから花だとは思わない訳だが、知らなかったらこれが蕾だと思っても不思議ではない。
「桔梗って、蕾をつける前から花のように整った形をしているんだな」
しかし、よく見てみると、それは桔梗だけではなかった。他の植物達も同じく、中心から円を創るように、花を開くように、葉を伸ばしている。
「植物の形って、左右上下対称に創られているんだ」
いつも花にばかり注目していて、気づかなかった。様々、見落として生きていることにも、ついでに気づいた。まあ、これはたびたび気づくことなのだが。
人間は、丸や四角が好きである。
時計や室内灯の丸。写真立てやテレビの四角。それらは、あたかも計算され尽くして作られた形のように思えるが、じつは人工物ではなく、植物に得た感覚からできた形なのかも知れない。ぐにゃぐにゃした形のライトや菱形に伸びたのテレビを思い浮かべ、くすくす笑いつつ、整った植物達を愛でた。
桔梗です。蕾をつける前から、花が咲いているように見えました。
イタリアンパセリも、四方八方に伸びて。
ホソバウンランは、扇風機の羽根のように旋回しているみたい。
雑草代表トウダイグサ。これは、花なんでしょうか?
ガク紫陽花は、四方に葉を広げている感じです。
十センチほどに伸びたその芽は、葉が四方八方に開き、まるですでに花が咲いているかのように見えた。桔梗の花は紫で、風船のように蕾を膨らませてから咲くのだと知っているから花だとは思わない訳だが、知らなかったらこれが蕾だと思っても不思議ではない。
「桔梗って、蕾をつける前から花のように整った形をしているんだな」
しかし、よく見てみると、それは桔梗だけではなかった。他の植物達も同じく、中心から円を創るように、花を開くように、葉を伸ばしている。
「植物の形って、左右上下対称に創られているんだ」
いつも花にばかり注目していて、気づかなかった。様々、見落として生きていることにも、ついでに気づいた。まあ、これはたびたび気づくことなのだが。
人間は、丸や四角が好きである。
時計や室内灯の丸。写真立てやテレビの四角。それらは、あたかも計算され尽くして作られた形のように思えるが、じつは人工物ではなく、植物に得た感覚からできた形なのかも知れない。ぐにゃぐにゃした形のライトや菱形に伸びたのテレビを思い浮かべ、くすくす笑いつつ、整った植物達を愛でた。
桔梗です。蕾をつける前から、花が咲いているように見えました。
イタリアンパセリも、四方八方に伸びて。
ホソバウンランは、扇風機の羽根のように旋回しているみたい。
雑草代表トウダイグサ。これは、花なんでしょうか?
ガク紫陽花は、四方に葉を広げている感じです。
ツルニチニチソウ忘れちゃだめよ
リビングの掃除をしていて、花を飾ろうと庭に出た。
雪柳も山桜も山吹も、もう終わりだし、さて、ちょうどいい花はあるかなと庭を歩く。歩いていて、薪小屋前の砂利にスミレを見つけた。こんな場所では、踏まれるばかりなので玄関側に移動してあげることにした。
スミレを3つほど移動し、やれやれと、一息つく。何か忘れているような気がして、ハッと気づいた。そうだ。花を飾るんだった。切ろうと思って持っていた鋏は、シャベルの置いてあった場所に置きっぱなしだ。さて、何の花を。
そのとき、アマガエルが跳ねた。
「あっ、待ってて」と声をかけ、シャベルを置いてカメラをとりに走る。
素直なカエルくんは、ちゃんと待っていてくれた。様々なポーズを披露もしてくれて、撮影会は終了。ふたたび、やれやれと、一息つく。何か忘れているような気がして、ハッと気づいた。そうだ。花を飾るんだった。
庭を一周し、どんどん咲き始めたツルニチニチソウを飾ることにした。花瓶に挿し窓際に置き、ふたたび三度やれやれと、一息つく。
これって、買い物をしていて買おうと思っていたものを忘れるのと似ているなぁと思った。他のものに目がいくと、やろうと思っていたことをつい忘れてしまうのだ。末娘が好きだった絵本に『ベーコン わすれちゃだめよ!』(偕成社)というのがあった。男の子がおつかいに行く途中、様々な出来事に気をとられ、歩きながら唱えていた買い物リストが微妙に変化していく話だ。末娘は、それがベーコンではなくても、買い忘れてほしくないものがある時には「ベーコン、忘れちゃだめよ」と、わたしに言ったものだったと懐かしく思い出す。こういうことは不思議と忘れない。
だが、その後、リビングの掃除の続きは、すっかりと忘れ去られたのだった。
えっ、それは確信犯だろうって? ふふふ。
北側の庭にはスミレだけじゃなく、今、木苺の花がたくさん咲いています。
植え替えてあげたスミレです。新しい場所で、気持ちよさそう。
そこにカエルくんが。土いっぱいつけちゃって、冬眠明けですか?
ようやくゴール!日本酒『佐久の花』が入っていたブルーの瓶に。
窓の外には倒れた松も見えますが、新緑が綺麗です。
雪柳も山桜も山吹も、もう終わりだし、さて、ちょうどいい花はあるかなと庭を歩く。歩いていて、薪小屋前の砂利にスミレを見つけた。こんな場所では、踏まれるばかりなので玄関側に移動してあげることにした。
スミレを3つほど移動し、やれやれと、一息つく。何か忘れているような気がして、ハッと気づいた。そうだ。花を飾るんだった。切ろうと思って持っていた鋏は、シャベルの置いてあった場所に置きっぱなしだ。さて、何の花を。
そのとき、アマガエルが跳ねた。
「あっ、待ってて」と声をかけ、シャベルを置いてカメラをとりに走る。
素直なカエルくんは、ちゃんと待っていてくれた。様々なポーズを披露もしてくれて、撮影会は終了。ふたたび、やれやれと、一息つく。何か忘れているような気がして、ハッと気づいた。そうだ。花を飾るんだった。
庭を一周し、どんどん咲き始めたツルニチニチソウを飾ることにした。花瓶に挿し窓際に置き、ふたたび三度やれやれと、一息つく。
これって、買い物をしていて買おうと思っていたものを忘れるのと似ているなぁと思った。他のものに目がいくと、やろうと思っていたことをつい忘れてしまうのだ。末娘が好きだった絵本に『ベーコン わすれちゃだめよ!』(偕成社)というのがあった。男の子がおつかいに行く途中、様々な出来事に気をとられ、歩きながら唱えていた買い物リストが微妙に変化していく話だ。末娘は、それがベーコンではなくても、買い忘れてほしくないものがある時には「ベーコン、忘れちゃだめよ」と、わたしに言ったものだったと懐かしく思い出す。こういうことは不思議と忘れない。
だが、その後、リビングの掃除の続きは、すっかりと忘れ去られたのだった。
えっ、それは確信犯だろうって? ふふふ。
北側の庭にはスミレだけじゃなく、今、木苺の花がたくさん咲いています。
植え替えてあげたスミレです。新しい場所で、気持ちよさそう。
そこにカエルくんが。土いっぱいつけちゃって、冬眠明けですか?
ようやくゴール!日本酒『佐久の花』が入っていたブルーの瓶に。
窓の外には倒れた松も見えますが、新緑が綺麗です。
スノーフレークと雪解けの八ヶ岳
写真でしか見たことのなかった花「スノーフレーク」に初めてお目にかかった。徒歩3分の田んぼの畔である。
そこは、いつも八ヶ岳を撮っている定点観測地で、田んぼや森の向こうに八ヶ岳全容が綺麗に見えるスポットだ。これまでそこで見かけたことはなかったから、田んぼの持ち主さんが昨年秋にでも球根を植えたのだろう。可憐に咲き、春風に揺れていた。
最近、八ヶ岳を撮っていなかった。というのも、冬の凍った空気のなかでは山が浮き出るようにくっきりと見えていたのに、このところ、霞んだようにしか見えなくなったからだ。春が来たことに、文句を言うつもりは毛頭ないが、冷たい冬の山の美しさは、来冬までお預けかと思うと、淋しい気もする。
そんなときに見つけたスノーフレークは、その名の通り雪のように白くまぶしく、久しぶりに立ち止まった定点観測地でわたしにため息をつかせてくれた。
八ヶ岳は、雪解けが進んでいて、残りもあとわずかだ。雪がすべて解けると、川の水も凍ったような冷たさはなくなり、釣り人も増えるのだそうだ。
八ヶ岳の雪が解けて、川に流れて、春が来る。
そんなことを考えつつ眺めたスノーフレークは、八ヶ岳を飾っていた雪が流れて此処にやって来たようにしか、もう思えなかった。
自然の創りだす色や形って、不思議だな。
ほとんど雪が解け、吹き降ろす北風の冷たさも、やわらかくなりました。
そこは、いつも八ヶ岳を撮っている定点観測地で、田んぼや森の向こうに八ヶ岳全容が綺麗に見えるスポットだ。これまでそこで見かけたことはなかったから、田んぼの持ち主さんが昨年秋にでも球根を植えたのだろう。可憐に咲き、春風に揺れていた。
最近、八ヶ岳を撮っていなかった。というのも、冬の凍った空気のなかでは山が浮き出るようにくっきりと見えていたのに、このところ、霞んだようにしか見えなくなったからだ。春が来たことに、文句を言うつもりは毛頭ないが、冷たい冬の山の美しさは、来冬までお預けかと思うと、淋しい気もする。
そんなときに見つけたスノーフレークは、その名の通り雪のように白くまぶしく、久しぶりに立ち止まった定点観測地でわたしにため息をつかせてくれた。
八ヶ岳は、雪解けが進んでいて、残りもあとわずかだ。雪がすべて解けると、川の水も凍ったような冷たさはなくなり、釣り人も増えるのだそうだ。
八ヶ岳の雪が解けて、川に流れて、春が来る。
そんなことを考えつつ眺めたスノーフレークは、八ヶ岳を飾っていた雪が流れて此処にやって来たようにしか、もう思えなかった。
自然の創りだす色や形って、不思議だな。
ほとんど雪が解け、吹き降ろす北風の冷たさも、やわらかくなりました。
ビルの森の陽だまりで
森を歩いていて、突然陽だまりに出た。見たこともない花が咲いている。
場所は新宿、ビルの森でのことである。そこには、カラフルな小物達が陽だまりに咲いた花のように、いきいきと並べられていた。
友人かよちゃんがオーナーをするネット販売中心の雑貨屋さん『マッシュノート』が、昨日から新宿伊勢丹に出店してるのだ。
新宿の地下道は、いつも出口のない湿った深い森のように思え、そのうえ何度も迷子になっていることもあり、好きになれないのだが、行く先に陽だまりに咲いた明るい色の花々があるかと思うと、歩くのも楽しいのだということを知った。それが夢物語のなかにいるような小物達なら、尚更だ。
しかし、そこで会ったオーナーかよちゃんのきりりとした顔を見ると、彼女にとっては夢物語を感じるだけの場所でも、小物達でもないのだということが判った。そして並べられた様々なモノ達も、かよちゃん含め、人に並べられていた訳だが、みんな意思を持ってそこにいるのが、はっきりと判った。
それを、ひとつひとつ手にとり見ていて思った。まるで森林浴しているみたいに、気持ちがいいなぁと。陽だまりに咲く花達には、夢物語ではなく、夢のつぼみがいっぱい混じっているのかも知れないなぁと。
クッションの刺繍猫が、ちょっと気どった表情で迎えてくれます。
ナタリー・レテの絵を、刺繍にしたものです。
オーナーかよちゃんとナタリー・レテの絵本『たぶん ほんと』も。
女の子の玩具はドイツのブリキ製で、ねじを回すとごしごし洗濯を始めます。
見ていて、のんびりした気分になりました。
木製のおうちは、ブックエンド。日よけ用手袋、ポーチやバッグ。
西洋と東洋を半分ずつ持ったお皿も、とってもお洒落です。
ホームページのURLカードは、4種類の絵が選べます。
こういうところにも、遊び心がいっぱい。
新宿伊勢丹本館5階にて、5月10日まで。
場所は新宿、ビルの森でのことである。そこには、カラフルな小物達が陽だまりに咲いた花のように、いきいきと並べられていた。
友人かよちゃんがオーナーをするネット販売中心の雑貨屋さん『マッシュノート』が、昨日から新宿伊勢丹に出店してるのだ。
新宿の地下道は、いつも出口のない湿った深い森のように思え、そのうえ何度も迷子になっていることもあり、好きになれないのだが、行く先に陽だまりに咲いた明るい色の花々があるかと思うと、歩くのも楽しいのだということを知った。それが夢物語のなかにいるような小物達なら、尚更だ。
しかし、そこで会ったオーナーかよちゃんのきりりとした顔を見ると、彼女にとっては夢物語を感じるだけの場所でも、小物達でもないのだということが判った。そして並べられた様々なモノ達も、かよちゃん含め、人に並べられていた訳だが、みんな意思を持ってそこにいるのが、はっきりと判った。
それを、ひとつひとつ手にとり見ていて思った。まるで森林浴しているみたいに、気持ちがいいなぁと。陽だまりに咲く花達には、夢物語ではなく、夢のつぼみがいっぱい混じっているのかも知れないなぁと。
クッションの刺繍猫が、ちょっと気どった表情で迎えてくれます。
ナタリー・レテの絵を、刺繍にしたものです。
オーナーかよちゃんとナタリー・レテの絵本『たぶん ほんと』も。
女の子の玩具はドイツのブリキ製で、ねじを回すとごしごし洗濯を始めます。
見ていて、のんびりした気分になりました。
木製のおうちは、ブックエンド。日よけ用手袋、ポーチやバッグ。
西洋と東洋を半分ずつ持ったお皿も、とってもお洒落です。
ホームページのURLカードは、4種類の絵が選べます。
こういうところにも、遊び心がいっぱい。
新宿伊勢丹本館5階にて、5月10日まで。
『鹿の王』
今年2015年の本屋大賞を取った上橋菜穂子の『鹿の王』(角川書店)を読んだ。ノミネートされた時から読みたいと思っていた。彼女の本はほとんど読んでいて、楽しい読書タイムになることは判っていたからだ。読み始めてすぐに、ぐいっと物語世界のなかへひき込んでくれる。それが上橋菜穂子なのだ。
物語は、架空の世界が舞台。畑を耕し狩りをして、釜戸で料理をし、刀や弓で戦う人々が生きる時代。
主人公は、闘い破れて奴隷となり岩塩鉱で働かされているもと戦士、ヴァンと、帝国支配下で働く若き優秀な医師、ホッサル。ふたりを交互に追いつつ、ストーリーは進んでいく。
突然、山犬のような獣に襲われ、岩塩鉱は奴隷も見張りの兵士も全滅した。そのなかで生き残ったのがヴァンと1歳の女の子、ユナだった。ヴァンはユナを連れ、逃亡する。一方、ホッサルは、岩塩鉱で死んだ人々の死因を探る。獣に噛まれ死病に感染した疑いが強く、ホッサルの祖先が国を捨てた原因となる「伝説の病」再発かと考えたのだ。しかし、逃亡したヴァンもユナも獣に噛まれていた。生き残った者と死んだ者。その違いは何か。ヴァンとホッサル。会ったことのないふたりだったが、離れた場所で、同じ疑問を抱えていた。
ヴァンの故郷トガ山地では、馬でも牛でもなく飛鹿(ピュイカ)に乗る。
以下、下巻、ヴァンが初対面のホッサルに、故郷のしきたりを語るシーン。
「飛鹿の群れの中には、群れが危機に陥ったとき、己の命を張って群れを逃がす鹿が現れるのです。長でもなく、仔も持たぬ鹿であっても、危機に逸早く気づき、我が身を賭して群れをたすける鹿が。
たいていは、かつて頑健であった牡で、いまはもう盛りを過ぎ、しかしなお敵と戦う力を充分に残しているようなものが、そういうことをします。
私たちは、こういう鹿を尊び<鹿の王>と呼んでいます。群れを支配する者、という意味ではなく、本当の意味で群れの存続を支える尊むべき者として」
ヴァンは、妻と息子を病で亡くしていて、戦士になったのも死ぬためだった。そんな彼の心に灯りを燈したのは、ユナだ。ユナがいることで物語の色が全く違うものになっている。以下、下巻、さらわれたユナを追い野宿するシーン。
「ユナが、な」ヴァンは口を開いた。
「木割れの音を聞くたびに、ぴょん、と跳ねるんだ」
初めて木割れの音を聞いたとき、驚いて飛びあがったのを見たオゥマたちが、大笑いしたのがうれしかったらしい。木割れの音がするたびに、驚いたふりをして、兎のように跳び上がるようになったのだ。それがまた、毎回毎回、様々工夫を凝らした迫真の演技なので、今度はどんな風に跳び上がるかと、見ている方も結構楽しみだった。
そんなことを話すと、サエは小さく声をたてて笑った。物静かなこの人が笑うと、なんとなく、小さな褒美をもらったような気分になる。
ユナが微笑ましく、それを思い口元を緩めるヴァンの愛が伝わって来て、こちらも思わず笑顔になった。
重苦しい悩み事を抱えながら、長い人生、時間を積み重ねていけるのも、そんな一瞬があるからこそだ。小さな瞬間に光を見出だすことの大切さは、ファンタジーと呼ばれる架空世界でも、今立っている現実でも変わらないのだということを、ページをめくりつつ指先に感じた。
飛鹿の駆ける世界を、堪能した夜だった。
上巻には、飛鹿。下巻には、キンマの犬が描かれています。
カバーをとった装幀です。やわらかなブルーとオレンジ。
中表紙も、お見せしましょう。栞の色も、もちろん同系色。
物語は、架空の世界が舞台。畑を耕し狩りをして、釜戸で料理をし、刀や弓で戦う人々が生きる時代。
主人公は、闘い破れて奴隷となり岩塩鉱で働かされているもと戦士、ヴァンと、帝国支配下で働く若き優秀な医師、ホッサル。ふたりを交互に追いつつ、ストーリーは進んでいく。
突然、山犬のような獣に襲われ、岩塩鉱は奴隷も見張りの兵士も全滅した。そのなかで生き残ったのがヴァンと1歳の女の子、ユナだった。ヴァンはユナを連れ、逃亡する。一方、ホッサルは、岩塩鉱で死んだ人々の死因を探る。獣に噛まれ死病に感染した疑いが強く、ホッサルの祖先が国を捨てた原因となる「伝説の病」再発かと考えたのだ。しかし、逃亡したヴァンもユナも獣に噛まれていた。生き残った者と死んだ者。その違いは何か。ヴァンとホッサル。会ったことのないふたりだったが、離れた場所で、同じ疑問を抱えていた。
ヴァンの故郷トガ山地では、馬でも牛でもなく飛鹿(ピュイカ)に乗る。
以下、下巻、ヴァンが初対面のホッサルに、故郷のしきたりを語るシーン。
「飛鹿の群れの中には、群れが危機に陥ったとき、己の命を張って群れを逃がす鹿が現れるのです。長でもなく、仔も持たぬ鹿であっても、危機に逸早く気づき、我が身を賭して群れをたすける鹿が。
たいていは、かつて頑健であった牡で、いまはもう盛りを過ぎ、しかしなお敵と戦う力を充分に残しているようなものが、そういうことをします。
私たちは、こういう鹿を尊び<鹿の王>と呼んでいます。群れを支配する者、という意味ではなく、本当の意味で群れの存続を支える尊むべき者として」
ヴァンは、妻と息子を病で亡くしていて、戦士になったのも死ぬためだった。そんな彼の心に灯りを燈したのは、ユナだ。ユナがいることで物語の色が全く違うものになっている。以下、下巻、さらわれたユナを追い野宿するシーン。
「ユナが、な」ヴァンは口を開いた。
「木割れの音を聞くたびに、ぴょん、と跳ねるんだ」
初めて木割れの音を聞いたとき、驚いて飛びあがったのを見たオゥマたちが、大笑いしたのがうれしかったらしい。木割れの音がするたびに、驚いたふりをして、兎のように跳び上がるようになったのだ。それがまた、毎回毎回、様々工夫を凝らした迫真の演技なので、今度はどんな風に跳び上がるかと、見ている方も結構楽しみだった。
そんなことを話すと、サエは小さく声をたてて笑った。物静かなこの人が笑うと、なんとなく、小さな褒美をもらったような気分になる。
ユナが微笑ましく、それを思い口元を緩めるヴァンの愛が伝わって来て、こちらも思わず笑顔になった。
重苦しい悩み事を抱えながら、長い人生、時間を積み重ねていけるのも、そんな一瞬があるからこそだ。小さな瞬間に光を見出だすことの大切さは、ファンタジーと呼ばれる架空世界でも、今立っている現実でも変わらないのだということを、ページをめくりつつ指先に感じた。
飛鹿の駆ける世界を、堪能した夜だった。
上巻には、飛鹿。下巻には、キンマの犬が描かれています。
カバーをとった装幀です。やわらかなブルーとオレンジ。
中表紙も、お見せしましょう。栞の色も、もちろん同系色。
箸と「断捨離」
最近、夫と顔を合わせる度に口にする言葉がある。「断捨離」だ。
先日も、十年使ったマットを捨てようと、予備のマットを入れてある棚を奥まで見たら、更に十年以上前に使っていたマットが仕舞いこんであったので、捨てた。着ない服、履かない靴、使わない調理器具。家のなかは、いらないものであふれている。
「けど、必要なモノは買ってもいいよね。消耗品とか」と、わたし。
「そりゃ、そうだね」と、夫。
買った時に、捨てることが大切なのだろうか。わたしのなかの「断捨離」は、まだまだ確定していない。
そんななか、新しい箸を買った。いくつかある夫婦箸のなかの一つの塗りが剥がれてきたのを気になりつつも使っていたのだ。
購入したのはごつごつした雰囲気の箸で「本うるし」とかかれていた。帰宅して袋を開けると、紙が入っている。「和へのこだわり」そこには、漆器作りをする会社のコンセプトがかかれていた。
「毎日使うお箸・お椀だからこそ、こだわってください。そして、使い込んでください。いずれ、艶もなくなり、漆も剥がれてくることもあります。でもそれも、生活の一部として使い込んでいただいたからこそ。お箸ならつかめなくなるまで、お椀なら汁が漏れるまでお使いください」
もちろん、すぐに塗りが剥げた箸を捨てるつもりはなかった。なかったが、新しい箸を使い、古い箸を使う機会は減るだろう。
「贅沢な、暮らしをしているのかも知れないな」
確定していない「断捨離」は、更に入り組んだ迷路のなかへ。そのうえ「着ない服」は「着ない福」に、「履かない靴」は「儚い靴」に変換されるし、ああ「断捨離」への道、シンプルライフへの道は、遥か遠い。
手に持った感じが、しっくりきました。とても軽いです。
先日も、十年使ったマットを捨てようと、予備のマットを入れてある棚を奥まで見たら、更に十年以上前に使っていたマットが仕舞いこんであったので、捨てた。着ない服、履かない靴、使わない調理器具。家のなかは、いらないものであふれている。
「けど、必要なモノは買ってもいいよね。消耗品とか」と、わたし。
「そりゃ、そうだね」と、夫。
買った時に、捨てることが大切なのだろうか。わたしのなかの「断捨離」は、まだまだ確定していない。
そんななか、新しい箸を買った。いくつかある夫婦箸のなかの一つの塗りが剥がれてきたのを気になりつつも使っていたのだ。
購入したのはごつごつした雰囲気の箸で「本うるし」とかかれていた。帰宅して袋を開けると、紙が入っている。「和へのこだわり」そこには、漆器作りをする会社のコンセプトがかかれていた。
「毎日使うお箸・お椀だからこそ、こだわってください。そして、使い込んでください。いずれ、艶もなくなり、漆も剥がれてくることもあります。でもそれも、生活の一部として使い込んでいただいたからこそ。お箸ならつかめなくなるまで、お椀なら汁が漏れるまでお使いください」
もちろん、すぐに塗りが剥げた箸を捨てるつもりはなかった。なかったが、新しい箸を使い、古い箸を使う機会は減るだろう。
「贅沢な、暮らしをしているのかも知れないな」
確定していない「断捨離」は、更に入り組んだ迷路のなかへ。そのうえ「着ない服」は「着ない福」に、「履かない靴」は「儚い靴」に変換されるし、ああ「断捨離」への道、シンプルライフへの道は、遥か遠い。
手に持った感じが、しっくりきました。とても軽いです。
新大阪駅のけつねうろん
先週末、夫の両親の顔を見に、ばたばたと神戸に帰省した。
ここ、山梨の田舎から神戸の家まで、約5時間かかる。長野県の塩尻経由で電車を乗り継ぎ、名古屋へ出て新幹線、そして新大阪から在来線に乗る。東京周りで行っても、はたまた飛行機に乗ったところで、または車を走らせても、かかる時間は大差ない。
そのゴール地点に近い新大阪駅での楽しみが「けつねうろん」である。
「ビールと駅弁、買う?」「いや、けつねうろん、でしょう」
「だね。新大阪のけつねうろん、まで我慢しよう」
「けつねうろん」とは、無論「きつねうどん」のことである。大阪弁ではそう発音するのだそうだ。出汁の旨味が濃く、醤油の味も色も薄めのうどんで、細麺讃岐うどんにこだわるわたしも、新大阪の駅ナカにあるうどん屋さんの「けつねうろん」は大好きなのだ。お揚げの味も、あっさりしていながらコクを感じさせる。たぬき派のわたしも、ここではきつねを注文する。これを食べると「あ、神戸に近づいたな」と思うほど。変わらぬ味って、大切だ。それが、その土地でしか食べられない味なら、尚更だ。
以前かいた、汐留のうどん屋さんのことを読んで、義母は驚いていた。
「最近じゃ、東京にも、美味しいうどん屋さんが、あるのねぇ」
昔、東京に出てうどんを食べた時、出汁つゆの醤油が濃く、同じうどんとは思えなかったそうだ。
今では、様々な地域で関西風の出汁が効いた薄味のうどんが楽しめるようにはなっているが、山梨では、いまだお目にかかったことがない。「ほうとう」があり「吉田のうどん」があり、好まれる味もそちら寄りなのかも知れない。
帰りには「いかなごの釘煮」を買って来た。「新物」とシールを貼られたそれは、ご飯にぴったりの山椒が効いた神戸名物の佃煮だ。
「やっぱり、その土地でしか味わえないモノって、いいな」
新大阪駅の「けつねうろん」は、汐留で食べるうどんとももちろん違い、きちんと浪速の「けつねうろん」の味がした。鰹や昆布の旨味が詰まった何とも言えない、いい匂いがした。
食べログを見ていたら「出汁を味わうには、七味をかけすぎない」と
ありました。これでも少な目にかけて、じゅうぶん味わったつもりです。
ここ、山梨の田舎から神戸の家まで、約5時間かかる。長野県の塩尻経由で電車を乗り継ぎ、名古屋へ出て新幹線、そして新大阪から在来線に乗る。東京周りで行っても、はたまた飛行機に乗ったところで、または車を走らせても、かかる時間は大差ない。
そのゴール地点に近い新大阪駅での楽しみが「けつねうろん」である。
「ビールと駅弁、買う?」「いや、けつねうろん、でしょう」
「だね。新大阪のけつねうろん、まで我慢しよう」
「けつねうろん」とは、無論「きつねうどん」のことである。大阪弁ではそう発音するのだそうだ。出汁の旨味が濃く、醤油の味も色も薄めのうどんで、細麺讃岐うどんにこだわるわたしも、新大阪の駅ナカにあるうどん屋さんの「けつねうろん」は大好きなのだ。お揚げの味も、あっさりしていながらコクを感じさせる。たぬき派のわたしも、ここではきつねを注文する。これを食べると「あ、神戸に近づいたな」と思うほど。変わらぬ味って、大切だ。それが、その土地でしか食べられない味なら、尚更だ。
以前かいた、汐留のうどん屋さんのことを読んで、義母は驚いていた。
「最近じゃ、東京にも、美味しいうどん屋さんが、あるのねぇ」
昔、東京に出てうどんを食べた時、出汁つゆの醤油が濃く、同じうどんとは思えなかったそうだ。
今では、様々な地域で関西風の出汁が効いた薄味のうどんが楽しめるようにはなっているが、山梨では、いまだお目にかかったことがない。「ほうとう」があり「吉田のうどん」があり、好まれる味もそちら寄りなのかも知れない。
帰りには「いかなごの釘煮」を買って来た。「新物」とシールを貼られたそれは、ご飯にぴったりの山椒が効いた神戸名物の佃煮だ。
「やっぱり、その土地でしか味わえないモノって、いいな」
新大阪駅の「けつねうろん」は、汐留で食べるうどんとももちろん違い、きちんと浪速の「けつねうろん」の味がした。鰹や昆布の旨味が詰まった何とも言えない、いい匂いがした。
食べログを見ていたら「出汁を味わうには、七味をかけすぎない」と
ありました。これでも少な目にかけて、じゅうぶん味わったつもりです。
物真似スギナ
庭のスズランが、地面からいっせいに芽を伸ばして来た。花の蕾を抱えた姿が、何とも可愛らしい。
しかしこれまたいっせいに、庭じゅうでスギナが伸びてきた。
「こいつ、わざと花の近くに生えてるんじゃないか?」と、夫。
「人が育てる花の間なら、抜かれる確率が低いとかいう計算?」と、わたし。
そうなのだ。スギナは、育てている植物の脇や間に、ぬっと姿を現し、すっと馴染む。スズラン畑のなかにも、よく見るとたくさんのスギナがまじっていて、その様はまるで、スズランの真似をしてすっかりなりすましているようにも見えるのだ。スミレの間にも、芝桜の間にも、今年植えたばかりのヒナソウの間にも顔を出し「ちょっと形が違うけど、突然変異のスミレです」なんて言っているかのよう。スギナを見ていると、ずうずうしく立ち回れるのも、生き残れる素質かも知れないと思えてくる。
そして、ちょっと楽しそうだなとも思う。
もしも、自分じゃない誰かになれるなら、何になろうか。
スギナさん、蕾を抱えたスズランのフリ? 似てなくもないけど。
写真の真ん中、上部に見えているのが、本物のスズランの蕾です。
こちらは、アスパラガスと寄り添ってるスギナ。
きみは、スミレのなかで、スミレの気持ちになっているのかな?
物真似得意な、色を変えられるアマガエルくん。
その緑、枯れ葉のなかじゃ目立つよ。おひさま浴びて、気持ちよさそう。
しかしこれまたいっせいに、庭じゅうでスギナが伸びてきた。
「こいつ、わざと花の近くに生えてるんじゃないか?」と、夫。
「人が育てる花の間なら、抜かれる確率が低いとかいう計算?」と、わたし。
そうなのだ。スギナは、育てている植物の脇や間に、ぬっと姿を現し、すっと馴染む。スズラン畑のなかにも、よく見るとたくさんのスギナがまじっていて、その様はまるで、スズランの真似をしてすっかりなりすましているようにも見えるのだ。スミレの間にも、芝桜の間にも、今年植えたばかりのヒナソウの間にも顔を出し「ちょっと形が違うけど、突然変異のスミレです」なんて言っているかのよう。スギナを見ていると、ずうずうしく立ち回れるのも、生き残れる素質かも知れないと思えてくる。
そして、ちょっと楽しそうだなとも思う。
もしも、自分じゃない誰かになれるなら、何になろうか。
スギナさん、蕾を抱えたスズランのフリ? 似てなくもないけど。
写真の真ん中、上部に見えているのが、本物のスズランの蕾です。
こちらは、アスパラガスと寄り添ってるスギナ。
きみは、スミレのなかで、スミレの気持ちになっているのかな?
物真似得意な、色を変えられるアマガエルくん。
その緑、枯れ葉のなかじゃ目立つよ。おひさま浴びて、気持ちよさそう。
山椒の新芽
庭の山椒の木に、つやつや光る新芽が出てきた。まだ「木の芽」と呼ぶには幼い、成熟する前の美しさを放っている。ほんとうに、小さい。
その小さな若い緑を見ていると、不意に疑問が湧いた。冷たい風に吹かれ強く握っていた手のひらを、春の陽射しのなかやわらかく開くまでに、意を決する瞬間があったのだろうか、と。
日常の小さなことに悩み、小さな疲れを溜めていく自分にへとへとになるのも、春である。必要なことも不要なことも多々考え、数えきれないほどのことを決め、生きていくのが人間である。
そんなわたしに、小さな小さな山椒の新芽がつぶやいた。
「決心は、いらないよ。ただ、太陽を浴びて、ぐーんと身体じゅうを伸ばすと気持ちがいいのさ」
それぐらいなら、できるかな。庭に出て、思いっきり伸びをしてみた。
うん。何も考えず、太陽に向かって伸びていくのも、いいかも知れない。
十年以上前に植えたものです。ここ何年かでようやく、
棘に貫録を感じる、ちゃんとした「木」になってきました。
蕾も、たくさんついています。実が生るのが、また楽しみです。
地面から顔を出したばかりのおチビさんも、2つほど見つけました。
その小さな若い緑を見ていると、不意に疑問が湧いた。冷たい風に吹かれ強く握っていた手のひらを、春の陽射しのなかやわらかく開くまでに、意を決する瞬間があったのだろうか、と。
日常の小さなことに悩み、小さな疲れを溜めていく自分にへとへとになるのも、春である。必要なことも不要なことも多々考え、数えきれないほどのことを決め、生きていくのが人間である。
そんなわたしに、小さな小さな山椒の新芽がつぶやいた。
「決心は、いらないよ。ただ、太陽を浴びて、ぐーんと身体じゅうを伸ばすと気持ちがいいのさ」
それぐらいなら、できるかな。庭に出て、思いっきり伸びをしてみた。
うん。何も考えず、太陽に向かって伸びていくのも、いいかも知れない。
十年以上前に植えたものです。ここ何年かでようやく、
棘に貫録を感じる、ちゃんとした「木」になってきました。
蕾も、たくさんついています。実が生るのが、また楽しみです。
地面から顔を出したばかりのおチビさんも、2つほど見つけました。
『白河夜船』
睡眠を見直そうかなと、昨日かいたばかりだが、偶然にも読み始めた小説が「眠り三部作」と呼ばれる短編集だった。
吉本ばなな『白河夜船』(新潮文庫)は、表題作の他『夜と夜の旅人』『ある体験』の3つの短編が収められた薄い文庫で、どれも「眠り」と「死」のかかわりを描いている。『白河夜船』は、眠りに憑りつかれた女性の物語だ。
寺子は親友だったしおりの死後、仕事も辞め、眠ってばかりの生活を送っていた。恋人には、事故で植物人間になった妻がいて、彼女は寺子よりも深く眠っている。しかし寺子は、眠りをストレートに受け入れている訳ではなく、抗う気持ちも強く持っていた。以下、本文から。
「今って、朝の五時なんだわ」と口に出した自分の声が乾いていた。
私は心底、恐かった。いったい、時計は幾回りしたのか。今は、何月何日なのか。夢中で部屋を出て階段を降りて行って、ポストに入っている新聞を広げてみた。大丈夫。一晩眠っただけだった、と私は安心した。しかし、それにしても尋常ではない時間を眠り続けたのは確かだった。体中が少し調子を狂わせているのがわかる。なんだか目まいがした。夜明けの青が街中に蔓延して、街灯の光が透明だった。私は部屋に戻るのが本当にこわくて仕方がなかった。きっとまた、眠ってしまう ― いっそ、やけくそになって眠ってしまおうかとも思った。もう、行き場がないような気さえした。
私は、なんとなくそのまま外へ歩いて行った。
寺子が、うつらうつらしながら歩き座り込んだ公園のベンチで会った少女のなかには、しおりがいた。少女の身体を借り、寺子に忠告しにきたのだ。
「私にとても近いところにいるから、会えてしまったのかもしれない」と。
眠っている間、意識が何処へ行っているのか。「死」と近い場所へ行っているのではないか。「死」とは、深く深く眠ることなのだろうか。
眠りも死後も、解明できないものだからこそ、そんな風に考えるのかも知れないが、もしそれが真実だったらと、読み終えてぼんやりと、考えた。
久々にジャケ買いした、新潮社のお洒落な文庫です。
「白河夜船(しらかわよふね)」とは、何も気づかないほどぐっすり眠ることを言うのだとか。映画『白河夜船』は、4月25日公開。
吉本ばなな『白河夜船』(新潮文庫)は、表題作の他『夜と夜の旅人』『ある体験』の3つの短編が収められた薄い文庫で、どれも「眠り」と「死」のかかわりを描いている。『白河夜船』は、眠りに憑りつかれた女性の物語だ。
寺子は親友だったしおりの死後、仕事も辞め、眠ってばかりの生活を送っていた。恋人には、事故で植物人間になった妻がいて、彼女は寺子よりも深く眠っている。しかし寺子は、眠りをストレートに受け入れている訳ではなく、抗う気持ちも強く持っていた。以下、本文から。
「今って、朝の五時なんだわ」と口に出した自分の声が乾いていた。
私は心底、恐かった。いったい、時計は幾回りしたのか。今は、何月何日なのか。夢中で部屋を出て階段を降りて行って、ポストに入っている新聞を広げてみた。大丈夫。一晩眠っただけだった、と私は安心した。しかし、それにしても尋常ではない時間を眠り続けたのは確かだった。体中が少し調子を狂わせているのがわかる。なんだか目まいがした。夜明けの青が街中に蔓延して、街灯の光が透明だった。私は部屋に戻るのが本当にこわくて仕方がなかった。きっとまた、眠ってしまう ― いっそ、やけくそになって眠ってしまおうかとも思った。もう、行き場がないような気さえした。
私は、なんとなくそのまま外へ歩いて行った。
寺子が、うつらうつらしながら歩き座り込んだ公園のベンチで会った少女のなかには、しおりがいた。少女の身体を借り、寺子に忠告しにきたのだ。
「私にとても近いところにいるから、会えてしまったのかもしれない」と。
眠っている間、意識が何処へ行っているのか。「死」と近い場所へ行っているのではないか。「死」とは、深く深く眠ることなのだろうか。
眠りも死後も、解明できないものだからこそ、そんな風に考えるのかも知れないが、もしそれが真実だったらと、読み終えてぼんやりと、考えた。
久々にジャケ買いした、新潮社のお洒落な文庫です。
「白河夜船(しらかわよふね)」とは、何も気づかないほどぐっすり眠ることを言うのだとか。映画『白河夜船』は、4月25日公開。
柚子の石鹸と小豆のアイピロー
「自然系のものが好きそうだから」と、友人にプレゼントをもらった。
白い包装紙に『北麓草水』のロゴ。ナチュラルな雰囲気をまとったモノ達は、柚子の香りの石鹸と、柚子の香りのハンドクリーム。そして、小豆が詰まったアイピローだった。石鹸の包装を開くとツンとした匂いが心地よく、すぐにでも使いたくて迷ったが、しばらく枕元に置いて匂いを楽しむことにした。
柚子はリラックスできる香りだとアロマでも注目されているようだし、冬至に柚子湯につかるのは邪気を払うためだという。アイピローはレンジで温めて眼の上にのせると深い眠りに誘ってくれるとか。小豆は、豆のなかでも水分を多く含んでいて、保湿効果も期待できるそうだ。
歳をとると早起きになる、とは聞いていたが、何年か前から夜中の2時や3時に目覚めて眠れないことが多くなった。とは言え、不眠と思い悩むほどのことではない。夜眠れないなら昼寝てもいいと割り切り、ベッドで考え事をしたり、読書したり、時には起き出してひとり酒を楽しんだり、パソコンに向かったりと自由に過ごすようにしている。
それでもやはり、ぐっすり眠れた朝は、気分爽快だ。
温めた小豆は、使い捨てカイロのような強い熱ではなく、じんわり優しく眼を温めてくれる。加えて鼻腔をくすぐる柚子の匂い。心のなかの邪気も払ってくれるのだろうか。うん。ものすごーくよく眠れるような気がしてきた。
これを機会に、睡眠、見直してみようかな。
ハンドクリームは、石鹸ほど匂いを主張していませんが、しっとりいい感じ。
さらっとしていて、何度も塗りたくなります。
白い包装紙に『北麓草水』のロゴ。ナチュラルな雰囲気をまとったモノ達は、柚子の香りの石鹸と、柚子の香りのハンドクリーム。そして、小豆が詰まったアイピローだった。石鹸の包装を開くとツンとした匂いが心地よく、すぐにでも使いたくて迷ったが、しばらく枕元に置いて匂いを楽しむことにした。
柚子はリラックスできる香りだとアロマでも注目されているようだし、冬至に柚子湯につかるのは邪気を払うためだという。アイピローはレンジで温めて眼の上にのせると深い眠りに誘ってくれるとか。小豆は、豆のなかでも水分を多く含んでいて、保湿効果も期待できるそうだ。
歳をとると早起きになる、とは聞いていたが、何年か前から夜中の2時や3時に目覚めて眠れないことが多くなった。とは言え、不眠と思い悩むほどのことではない。夜眠れないなら昼寝てもいいと割り切り、ベッドで考え事をしたり、読書したり、時には起き出してひとり酒を楽しんだり、パソコンに向かったりと自由に過ごすようにしている。
それでもやはり、ぐっすり眠れた朝は、気分爽快だ。
温めた小豆は、使い捨てカイロのような強い熱ではなく、じんわり優しく眼を温めてくれる。加えて鼻腔をくすぐる柚子の匂い。心のなかの邪気も払ってくれるのだろうか。うん。ものすごーくよく眠れるような気がしてきた。
これを機会に、睡眠、見直してみようかな。
ハンドクリームは、石鹸ほど匂いを主張していませんが、しっとりいい感じ。
さらっとしていて、何度も塗りたくなります。
自分を解放する
「春雨じゃ、濡れていこう」というには、ずいぶんと派手に降っている。
月形半平太の言うところの「春雨」は霧雨であるらしいから、この雨のなか傘をささずに歩くのは粋でも何でもない訳で、普通に傘が必要なしっかりとした雨である。
庭の植物達も、春だぁと思いっきり伸びをしたかと思ったら、この冷たい雨。タラの芽も伸びるのをあきらめ足踏みしている。
人間も然り。重いコート脱いで出かけたいのは山々だけど、ウルトラ軽量ダウンだし、しばらく着ておこうと、ふたたび着込んでいる人も多いだろう。
それでも一度解放感を味わってしまうと、これまで着ていた同じコートが何故か重くなったように感じるから不思議だ。
以前、1年ほど通ったヨガ教室で聞いた「自分を解放する」という言葉を思い出した。何のことはない、仰向けに寝転がっただけの基本ポーズで、足は肩幅に開き、腕も脇から少し離して掌は天井に向けてだらっと開くのだが、その掌を上に向けて開くことで、身体じゅうを解放するのだと教わった。
掌を上に向けて開くことが効果的なのか、そう聞いたから思い込んでいるのかは判らないが、今でも意識してリラックスしようという時には、ベッドの上で掌を上に向けて身体じゅうの力を抜く。すると何処からか解放されていくような気がするのだ。
寒い季節から解放されるのは、まだ少し先になりそうだが、そんなふうに心だけでも力を抜き、自分を解放して、コートを脱げる日を待とうと思う。
スミレ達は、今満開。雨粒が当る度に揺れていました。
ライラックは、雫を抱えて、咲くのをためらっているかのようです。
ぐっしょり濡れていますが、どんどん咲いていくのは、芝桜。
白いハナミズキの蕾は、コップのように雨を溜めています。
新しいつやつやの葉が伸びてきたばかりのアイビーも、すっかり濡れて。
駐車場脇に、夫が根気よく株分けして並べた雪柳と、足もとには芝桜。
柳のという名にふさわしいカーブで枝を伸ばし、雫をしたたらせていました。
月形半平太の言うところの「春雨」は霧雨であるらしいから、この雨のなか傘をささずに歩くのは粋でも何でもない訳で、普通に傘が必要なしっかりとした雨である。
庭の植物達も、春だぁと思いっきり伸びをしたかと思ったら、この冷たい雨。タラの芽も伸びるのをあきらめ足踏みしている。
人間も然り。重いコート脱いで出かけたいのは山々だけど、ウルトラ軽量ダウンだし、しばらく着ておこうと、ふたたび着込んでいる人も多いだろう。
それでも一度解放感を味わってしまうと、これまで着ていた同じコートが何故か重くなったように感じるから不思議だ。
以前、1年ほど通ったヨガ教室で聞いた「自分を解放する」という言葉を思い出した。何のことはない、仰向けに寝転がっただけの基本ポーズで、足は肩幅に開き、腕も脇から少し離して掌は天井に向けてだらっと開くのだが、その掌を上に向けて開くことで、身体じゅうを解放するのだと教わった。
掌を上に向けて開くことが効果的なのか、そう聞いたから思い込んでいるのかは判らないが、今でも意識してリラックスしようという時には、ベッドの上で掌を上に向けて身体じゅうの力を抜く。すると何処からか解放されていくような気がするのだ。
寒い季節から解放されるのは、まだ少し先になりそうだが、そんなふうに心だけでも力を抜き、自分を解放して、コートを脱げる日を待とうと思う。
スミレ達は、今満開。雨粒が当る度に揺れていました。
ライラックは、雫を抱えて、咲くのをためらっているかのようです。
ぐっしょり濡れていますが、どんどん咲いていくのは、芝桜。
白いハナミズキの蕾は、コップのように雨を溜めています。
新しいつやつやの葉が伸びてきたばかりのアイビーも、すっかり濡れて。
駐車場脇に、夫が根気よく株分けして並べた雪柳と、足もとには芝桜。
柳のという名にふさわしいカーブで枝を伸ばし、雫をしたたらせていました。
『ボクの町』
引き続き、乃南アサを読んでいる。昨日『ボクの町』(新潮文庫)を、読み終えた。交番で巡査見習いをする青年の物語である。
名は、高木聖大(せいだい)23歳。警察官を目指したのは、フラれた彼女を見返してやりたかったから。耳にはピアス、警察手帳にはその彼女と撮ったプリクラ。汗水たらして働くのなんか、柄じゃないと自分では思っている。先輩警官達にも、物怖じしないどころか生意気な態度さえとってしまうのは、じつは馬鹿正直で気が短く、思っていることがすぐに顔に出てしまうからだ。
以下、110番マニアの度重なる通報に爆発するシーン。
「ふざけんな!」思わず班長を押しのけて怒鳴っていた。瞬間、宮永班長が肩を掴んだが、もう止められなかった。
「俺らはなあ、ソバや寿司の出前じゃねぇんだよ!」
真っ白かった北川の顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。腫れぼったい瞼の下の細い目が、落ち着きなく左右に揺れた。
「てめえの暇つぶしの相手なんか、してられるか! 淋しいんだったら、友達でも彼女でも、自分で探せ! それも出来ねえんだったら、お前なんか田舎に帰れ!」
「い、いいのかよ、善良な市民に、そんなこと言って。いいと思ってるのか」
「てめえなんか、善良でも何でもねえよ。生っちろい、ウジ虫野郎じゃねぇか。こっちは毎日汗だくになってかけずり回ってるっていうのに、てめえは働きもしねえで、何様のつもりなんだ!」
そんな聖大も、いや、そんな聖大だからこそ、自分がこのまま警察官を目指すべきなのか迷い、失敗に落ち込み、優秀な同期の三浦をやっかみ、やってられねぇと自棄になり、見習い期間のあいだ、悩み続けていた。
そんなとき、連続放火犯と対峙した三浦が大怪我を負う。聖大は、気持ちに迷いを抱えたまま、ひたすら犯人を追うしかなかった。
印象に残ったのは「人間なんて、汚いのが当たり前だ」という先輩刑事の言葉だった。人間誰もが持っている、その汚い部分を目の当たりにし、人間が嫌いになったり、人が信じられなくなったりしながら、それでも続けていこうと思えるのは「人間って、まんざら捨てたものじゃない」と思える瞬間があるからだと、まだ年若き、ほんの少しだけ先輩の刑事が、迷い悩む聖大に語るのだ。
新米巡査高木聖大シリーズは、今のところ2冊。次は『駆けこみ交番』です。
少し成長した聖大くんが登場する『いつか陽のあたる場所で』もおススメ。
名は、高木聖大(せいだい)23歳。警察官を目指したのは、フラれた彼女を見返してやりたかったから。耳にはピアス、警察手帳にはその彼女と撮ったプリクラ。汗水たらして働くのなんか、柄じゃないと自分では思っている。先輩警官達にも、物怖じしないどころか生意気な態度さえとってしまうのは、じつは馬鹿正直で気が短く、思っていることがすぐに顔に出てしまうからだ。
以下、110番マニアの度重なる通報に爆発するシーン。
「ふざけんな!」思わず班長を押しのけて怒鳴っていた。瞬間、宮永班長が肩を掴んだが、もう止められなかった。
「俺らはなあ、ソバや寿司の出前じゃねぇんだよ!」
真っ白かった北川の顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。腫れぼったい瞼の下の細い目が、落ち着きなく左右に揺れた。
「てめえの暇つぶしの相手なんか、してられるか! 淋しいんだったら、友達でも彼女でも、自分で探せ! それも出来ねえんだったら、お前なんか田舎に帰れ!」
「い、いいのかよ、善良な市民に、そんなこと言って。いいと思ってるのか」
「てめえなんか、善良でも何でもねえよ。生っちろい、ウジ虫野郎じゃねぇか。こっちは毎日汗だくになってかけずり回ってるっていうのに、てめえは働きもしねえで、何様のつもりなんだ!」
そんな聖大も、いや、そんな聖大だからこそ、自分がこのまま警察官を目指すべきなのか迷い、失敗に落ち込み、優秀な同期の三浦をやっかみ、やってられねぇと自棄になり、見習い期間のあいだ、悩み続けていた。
そんなとき、連続放火犯と対峙した三浦が大怪我を負う。聖大は、気持ちに迷いを抱えたまま、ひたすら犯人を追うしかなかった。
印象に残ったのは「人間なんて、汚いのが当たり前だ」という先輩刑事の言葉だった。人間誰もが持っている、その汚い部分を目の当たりにし、人間が嫌いになったり、人が信じられなくなったりしながら、それでも続けていこうと思えるのは「人間って、まんざら捨てたものじゃない」と思える瞬間があるからだと、まだ年若き、ほんの少しだけ先輩の刑事が、迷い悩む聖大に語るのだ。
新米巡査高木聖大シリーズは、今のところ2冊。次は『駆けこみ交番』です。
少し成長した聖大くんが登場する『いつか陽のあたる場所で』もおススメ。
タラの芽伸びる春
庭のタラの芽を採って、天麩羅にした。山菜の王様ともいわれるタラの芽、さすがに美味い。春の楽しみのひとつだ。
収穫したのは3つのみ。まだそれしか収穫できるものはなく、迷い、夫とふたり相談した末、とりあえず食べてみようということになった。来週は、彼が週末まで帰れない。それまでに、食べごろが過ぎてしまうのではないかとの心配が大きかったからだ。先週のような寒さのままなら、来週末が食べごろになるだろうが「しばらく寒いままで」とリクエストしたところで、季節が足踏みしてくれるとは思えなかった。早く暖かくならないかなぁと、ずっと思っていたし、口にもしていたのに、人間というものは勝手なものである。そして、植物は日々気温だけではなく様々なことで判断し、芽吹いたり、伸びたり、咲いたりしていくのだから、全くもって不思議だ。タラの芽も然り。このところ、伸びゆく様をじっと観察していたから余計に感じるのだろうか。根づいたこの土地で、懸命に生きている姿は美しく輝いている。その命を分けてもらうのだから、美味しいはずだよ、と思ってると、夫がナイフで切り取った。
タラの芽3つを丁寧に揚げ、夫が2つ、わたしがひとつ、じっくりと味わう。「美味い!」と言わずにはいられない味に、笑顔になる。毎年食べているにもかかわらず、この山菜は、こうしてその年の春きちんと驚かせてくれるのだ。
芽を出したと思ったら、あっという間に伸びていました。
上のは、左側のタラの芽です。わたしがいただきました。
「うまっ!」「根元が何とも言えず、美味しいねぇ」
いただきものの五島列島のこだわり塩で、シンプルに味わいました。
収穫したのは3つのみ。まだそれしか収穫できるものはなく、迷い、夫とふたり相談した末、とりあえず食べてみようということになった。来週は、彼が週末まで帰れない。それまでに、食べごろが過ぎてしまうのではないかとの心配が大きかったからだ。先週のような寒さのままなら、来週末が食べごろになるだろうが「しばらく寒いままで」とリクエストしたところで、季節が足踏みしてくれるとは思えなかった。早く暖かくならないかなぁと、ずっと思っていたし、口にもしていたのに、人間というものは勝手なものである。そして、植物は日々気温だけではなく様々なことで判断し、芽吹いたり、伸びたり、咲いたりしていくのだから、全くもって不思議だ。タラの芽も然り。このところ、伸びゆく様をじっと観察していたから余計に感じるのだろうか。根づいたこの土地で、懸命に生きている姿は美しく輝いている。その命を分けてもらうのだから、美味しいはずだよ、と思ってると、夫がナイフで切り取った。
タラの芽3つを丁寧に揚げ、夫が2つ、わたしがひとつ、じっくりと味わう。「美味い!」と言わずにはいられない味に、笑顔になる。毎年食べているにもかかわらず、この山菜は、こうしてその年の春きちんと驚かせてくれるのだ。
芽を出したと思ったら、あっという間に伸びていました。
上のは、左側のタラの芽です。わたしがいただきました。
「うまっ!」「根元が何とも言えず、美味しいねぇ」
いただきものの五島列島のこだわり塩で、シンプルに味わいました。
ポストに入っていた椎茸
郵便受けを開けると、ビニール袋に入った椎茸が入っていた。見るからに椎茸だが、わたしには判別できない。キノコは、判らないから恐いのだ。
郵便受けには、もちろん郵便も入っていた。スーパーからのポイント優待券やら、酒屋からのDMやら。そして、それと一緒に林を隔てたお隣のご主人の展覧会の案内が入っていた。ステンレスアートを創っているのだ。切手が貼られていないところを見ると、わざわざ来て投函していったのだと判る。だとすると、椎茸もお隣りからかと電話してみた。
「この季節、次から次へと出てくるんだよ」
やはり、お隣りからだった。
バター焼きがオススメということだったので、肉厚の味わいを損ねぬよう、どのくらいの大きさに切るかまな板の上に置き、しばし考えた。シンプルな料理だけに、大きさはポイントだ。以前、フランス料理店で、ジャンボマッシュルームのオーブン焼きを食べたことを思い出す。大きいままに焼けばいいってものじゃない。切らずに焼くのと、半分に切って焼くのとそのまた半分に切って焼くのでは、それぞれ味わいが違うはずだ。ジャンボマッシュルームの大きさをイメージして、細長く4つに切った。大正解だった。
新鮮な椎茸をいただいて、料理の奥の深さを、あらためて感じた。いや。じつのところ、本当にそうなのか? という疑問もある。どうやって焼いても、ため息が出るほどの美味しさは変わらなかったかも知れないのだ。
立派な椎茸です。美しいです。
大きさが判るように、檸檬と一緒に撮りました。大きいです。
この美味しさは、わたしの腕では、写真に撮れません!
☆お隣さん、小林泰彦さんのグループ展はこちら → カンヴァセーションズ
南青山のスパイラルガーデンで、4月13日から22日まで。
郵便受けには、もちろん郵便も入っていた。スーパーからのポイント優待券やら、酒屋からのDMやら。そして、それと一緒に林を隔てたお隣のご主人の展覧会の案内が入っていた。ステンレスアートを創っているのだ。切手が貼られていないところを見ると、わざわざ来て投函していったのだと判る。だとすると、椎茸もお隣りからかと電話してみた。
「この季節、次から次へと出てくるんだよ」
やはり、お隣りからだった。
バター焼きがオススメということだったので、肉厚の味わいを損ねぬよう、どのくらいの大きさに切るかまな板の上に置き、しばし考えた。シンプルな料理だけに、大きさはポイントだ。以前、フランス料理店で、ジャンボマッシュルームのオーブン焼きを食べたことを思い出す。大きいままに焼けばいいってものじゃない。切らずに焼くのと、半分に切って焼くのとそのまた半分に切って焼くのでは、それぞれ味わいが違うはずだ。ジャンボマッシュルームの大きさをイメージして、細長く4つに切った。大正解だった。
新鮮な椎茸をいただいて、料理の奥の深さを、あらためて感じた。いや。じつのところ、本当にそうなのか? という疑問もある。どうやって焼いても、ため息が出るほどの美味しさは変わらなかったかも知れないのだ。
立派な椎茸です。美しいです。
大きさが判るように、檸檬と一緒に撮りました。大きいです。
この美味しさは、わたしの腕では、写真に撮れません!
☆お隣さん、小林泰彦さんのグループ展はこちら → カンヴァセーションズ
南青山のスパイラルガーデンで、4月13日から22日まで。
「おじさん」のラーメン屋
美容室の帰りに、ラーメン屋に寄った。オススメの店を聞いたのだ。
「チェーン店なんだけど、アットホームな雰囲気なんですよ」
店主の、彼女が言うところの「おじさん」が、いい味出しているのだそうだ。ラーメンの味も、奇をてらったものではないが、普通に美味しいのだそうだ。なんとなく、よくいく店と聞き、それっていいかも、と寄ってみた。
昼時だったが平日のこと。「おじさん」と店員の女性とふたりで切り盛りしている小さな店だった。カウンターに座り、メニューをさっと見て「葱味噌ラーメン」を注文。店は、いっぱいというほどではなかったが、3つあるテーブル席は空くと、またすぐに客が入り、繁盛しているのだと判った。あとから来た常連らしき男性が、ぽんぽんと挨拶代わりのジョークを言い合ってから注文すると「じゃ、いきますか」とおじさんが言う。ラーメンをすすりながら、様子をうかがっていると、ふたりはじゃんけんを始めた。おじさん勝利の場合、ラーメンはチャーシュー抜き。常連客勝利の場合、チャーシューは倍になるらしい。結果、おじさんは勝利の雄叫びをあげ「チャーシュー抜きで」と店員の女性に支持した。男性は、がっくりと肩を落としていたが、多分ポーズだろう。チャーシューは入っていたに違いない。
一杯のラーメンを食べ終えるまでに、美容室の彼女が言っていた「雰囲気」は、十二分に味わうことができた。
ラジオからは、よく知っている昔の歌ばかりが流れている。あれ? と箸を持つ手を止めて聴き入ると、竹内まりやの『元気をだして』が流れていた。こういう偶然はよくあることなのだが、さっきまでカーステレオで繰り返しリピートし聞いていた曲だった。縁というものを感じる。
「また、来ちゃうかも。ここ」
ラーメンは、ニンニクが優しいコクを生み出していて、いつもスープは全部飲まないようにしているのだが、気がつくとすっかりたいらげていた。
「写真、撮っていいですか」と聞くと「あ、忘れた」とおじさん。
ぶつ切りチャーシューをカウンター越しに入れてくれました。
ざくっと切った白葱たっぷり、こまかく切った青葱たっぷり入っていました。
甲府の昭和通り沿いにある『ちりめん亭』です。
「チェーン店なんだけど、アットホームな雰囲気なんですよ」
店主の、彼女が言うところの「おじさん」が、いい味出しているのだそうだ。ラーメンの味も、奇をてらったものではないが、普通に美味しいのだそうだ。なんとなく、よくいく店と聞き、それっていいかも、と寄ってみた。
昼時だったが平日のこと。「おじさん」と店員の女性とふたりで切り盛りしている小さな店だった。カウンターに座り、メニューをさっと見て「葱味噌ラーメン」を注文。店は、いっぱいというほどではなかったが、3つあるテーブル席は空くと、またすぐに客が入り、繁盛しているのだと判った。あとから来た常連らしき男性が、ぽんぽんと挨拶代わりのジョークを言い合ってから注文すると「じゃ、いきますか」とおじさんが言う。ラーメンをすすりながら、様子をうかがっていると、ふたりはじゃんけんを始めた。おじさん勝利の場合、ラーメンはチャーシュー抜き。常連客勝利の場合、チャーシューは倍になるらしい。結果、おじさんは勝利の雄叫びをあげ「チャーシュー抜きで」と店員の女性に支持した。男性は、がっくりと肩を落としていたが、多分ポーズだろう。チャーシューは入っていたに違いない。
一杯のラーメンを食べ終えるまでに、美容室の彼女が言っていた「雰囲気」は、十二分に味わうことができた。
ラジオからは、よく知っている昔の歌ばかりが流れている。あれ? と箸を持つ手を止めて聴き入ると、竹内まりやの『元気をだして』が流れていた。こういう偶然はよくあることなのだが、さっきまでカーステレオで繰り返しリピートし聞いていた曲だった。縁というものを感じる。
「また、来ちゃうかも。ここ」
ラーメンは、ニンニクが優しいコクを生み出していて、いつもスープは全部飲まないようにしているのだが、気がつくとすっかりたいらげていた。
「写真、撮っていいですか」と聞くと「あ、忘れた」とおじさん。
ぶつ切りチャーシューをカウンター越しに入れてくれました。
ざくっと切った白葱たっぷり、こまかく切った青葱たっぷり入っていました。
甲府の昭和通り沿いにある『ちりめん亭』です。
小さな幸せ
庭の花達が咲き始め、少しずつにぎやかになってきた。
ミントやイタリアンパセリも伸びてきたし、山吹はたくさんの蕾をつけている。薪置場の向こうではプラムも白い花を咲かせているし、足もとではスミレ達が揺れている。同じ北杜市も標高が高いところでは、雪が降ったばかりだが、我が家の庭は春らしく彩られ、それが嬉しくて、庭に出る。庭に出ると、あっと言う間に時間が過ぎてしまう。冬の間、家に閉じこもっていたのが自分でも嘘のようだ。少しは運動にもなっているかも知れない。
在宅勤務ではあるが、経理の仕事にストレスがない訳ではない。
何十件もある振り込みの1件が何百万円になることも多く、ミスは許されないが、それでも失敗することもある。仕事が立て込んでいるときには、他の予定は入れず集中するが「完璧だ!」と思っているときに限ってミスが発覚したりして、果てしなく落ち込んだりもする。
そんなときに庭に出ると、ホッとする。
スミレの花言葉の一つに「小さな幸せ」というのがあるそうだが、花言葉というより、スミレそのものが「小さな幸せ」だと思える。
雪柳も、プラムも、山吹も、濃いピンクをした芝桜も、花言葉は違っても、みんな「小さな幸せ」だ。小さいけれど確かにそこにある幸せに、心癒される春。そういえば、うーむ。冬の間、いったいどうやって過ごしていたのか、すでに忘れ、思い出すこともできなくなっていた。
あちこちに咲き始めたスミレ。可愛いけど、たくましく咲いています。
プラムも八分咲き。真っ白な花に、心洗われるなぁ。
山吹はこれから咲いていこうとしています。濃い山吹色が、目をひきます。
南側の駐車スペース全体に根を張り巡らせているアップルミントも、元気!
この春初めて会った、緑色のアマガエルくん。がんばって、登ったんだね。
もちろん、君も立派な「小さな幸せ」くんだよ。
ミントやイタリアンパセリも伸びてきたし、山吹はたくさんの蕾をつけている。薪置場の向こうではプラムも白い花を咲かせているし、足もとではスミレ達が揺れている。同じ北杜市も標高が高いところでは、雪が降ったばかりだが、我が家の庭は春らしく彩られ、それが嬉しくて、庭に出る。庭に出ると、あっと言う間に時間が過ぎてしまう。冬の間、家に閉じこもっていたのが自分でも嘘のようだ。少しは運動にもなっているかも知れない。
在宅勤務ではあるが、経理の仕事にストレスがない訳ではない。
何十件もある振り込みの1件が何百万円になることも多く、ミスは許されないが、それでも失敗することもある。仕事が立て込んでいるときには、他の予定は入れず集中するが「完璧だ!」と思っているときに限ってミスが発覚したりして、果てしなく落ち込んだりもする。
そんなときに庭に出ると、ホッとする。
スミレの花言葉の一つに「小さな幸せ」というのがあるそうだが、花言葉というより、スミレそのものが「小さな幸せ」だと思える。
雪柳も、プラムも、山吹も、濃いピンクをした芝桜も、花言葉は違っても、みんな「小さな幸せ」だ。小さいけれど確かにそこにある幸せに、心癒される春。そういえば、うーむ。冬の間、いったいどうやって過ごしていたのか、すでに忘れ、思い出すこともできなくなっていた。
あちこちに咲き始めたスミレ。可愛いけど、たくましく咲いています。
プラムも八分咲き。真っ白な花に、心洗われるなぁ。
山吹はこれから咲いていこうとしています。濃い山吹色が、目をひきます。
南側の駐車スペース全体に根を張り巡らせているアップルミントも、元気!
この春初めて会った、緑色のアマガエルくん。がんばって、登ったんだね。
もちろん、君も立派な「小さな幸せ」くんだよ。
HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)
ご意見などのメールはこちらに midukisae☆gmail.com
(☆を@に変えてください)