はりねずみが眠るとき
春の匂い
「レモンバームは悲しみを追い出すハーブ」だというわたしのブログを読み、新芽を庭の落ち葉の下から探しだし送ってくれたのだ。
昨日も雪が舞った凍ったうちの庭には、まだ植えられないが嬉しく受け取った。しばらくは鉢に植え、少し暖かくなったら庭に植え替えて、ハーブティーが飲めるくらいに育つまで楽しみに育てようと思う。
レモンバームの葉は、指でこすると強く香った。厳しい冬の中、芽を出したばかりだからだろうか。檸檬の匂いと、ハーブならではの匂い、土の匂いも混じってるかな。それから、春の匂い。
もう少し暖かくなったら、うちの庭にもすぐに馴染みそうだ。そう。もう少し。春までもう少しだけ。
新聞紙に包んで、紙袋にそっと入れてありました。
この重たい荷物は何だろうと、不思議に思い開けてびっくり。
玉手箱から、レモンバームが葉を伸ばす季節が待ち遠しいです。
逆ソクラテスにならないために
伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間に言うと、
「今頃読んだの?」と、あきれられた。
彼女はエッセイまですべては読んでいないものの、伊坂小説作品は読破し本棚に並べてある。伊坂は文庫化の際、必ず手を入れるので文庫も揃っている。
「のんびり読むのもいいもんさ」と、わたし。
読んでいない作品があると言うことは、こうしてお宝を探り当てる感動にも、まだまだ巡り合えるということでもある。しかし彼女に言わせると、
「それで伊坂が好きって、よく言えるね」ということになる。
だがわたし的には、これくらいが丁度いい。夢中になりすぎるのは性に合わないのだ。村上春樹も、20代の頃から本が出るたびに買って読んでいた。小説はまあ、だいたい読んだと思う。
「でも、ハルキストじゃないからね」と断言する。村上春樹には盲目的なファンが大勢いて、ハルキストと呼ばれ、生活スタイルにまで影響を受けている人も多いと言う。フルマラソンに挑戦したり、ジャズにハマったり。
「夢中になりすぎるのは、みずがめ座っぽくないしね。でも『逆ソクラテス』はよかった。短編だけど小さな伏線きれいに張るとこなんか理系っぽくて」
「伊坂、法学部卒だけどね」「だよねー」
「法学部卒のエンジニアだった小説家」「わけわかんないよねー」
『あの日、君と Boys』(集英社文庫)に書き下ろした『逆ソクラテス』は、主人公が小6の時の数か月を思い出す形でかかれた小説だ。
転校生、安斎は、先入観が強く影響力もある担任教師の、その先入観を崩そうと主人公に持ちかけた。
ソクラテスの言葉「無知の知」自分はすべては知らないということを知っている、の逆が担任教師で「いつでも自分が正しいと思い込み、決めつけて生徒に押し付けようとする」タイプ。だから「先生にも、知らないことがあるんだとわからせよう」と作戦を立てる。優等生だが母親が自分の考えを押し付けることに辟易していた女子、佐久間と、担任教師ができない生徒だと決めつけ見下す男子、草壁と4人で計画を実行していく。
キーになるセリフは「僕は、そうは思わない」
安斎が、主人公や草壁に教えた言葉だ。決めつける奴らに負けない方法は、「僕は、そうは思わない」と表明する。または、絶対に受け入れないという強い心で念じるだけでも、全く違うと。
先入観。いつも持たずにと思ってはいるけれど、自分の中から、ふと顔をのぞかせているのに気づくことも多い。逆ソクラテスにはなりたくない。
村上春樹コーナー。『ノルウェイの森』は友人に20年の約束で貸し出し中。
ハルキストを否定しているわけではありません。
そこまで夢中になれる人って、すごいなぁと素直に思います。
夜明けの影絵
毎朝、見とれつつフィットにエンジンをかけ、娘を駅まで送る。その途中で朝日が顔を出す。毎日の繰り返しの中にも、キラリと光るものに出会うことがある。たとえ一瞬だけでもハッとさせられたり、嬉しくなったり、幸せ感じたり。毎朝見る木々の影絵も、見るたびにハッとさせられる。見るたびに胸の中に澄んだ風が吹いていく。
たとえば朝食の目玉焼き一つ取ってもそうだ。白身は柔らかく固まっていて黄身はとろり。満足のいく出来栄えだとちょっと嬉しくなる。
たとえば、運転中。道を譲った際、相手の女性が、にこやかに頭を下げてくれた時にも。たとえば、本屋で。シックで素敵な装丁の本に出会った時にも。たとえば、パソコンを開いて。久しく会っていなかった友人から元気そうなメールが届いた時にも。たとえば、風呂上りに。セーターの前と後ろを間違えないで着られた時にも。(何故かよく間違える)たとえば、夕食で。娘が「肉じゃがってほんとに美味しいね!」とおかわりした時にも。そして毎日変わらず、よく冷えたビールを飲む時にも。
何でもない毎日の中にも、小さな喜びは散りばめられている。見過ごしがちな小さな小さな出来事を一つ一つ心に留めて暮らしていけたら、何も特別なことなどしなくても、けっこうハッピーに暮らしていけるんじゃないかな。
夜明けの影絵に一日が始まる瞬間、わたしは少しずつ冬が好きになっていくのを感じつつ、凍った空気と共にその風景を日々胸に刻む。
写真を撮っているうちに、空はどんどん明るくなりました。
ヒヨドリが一羽、飛び立って行きました。
発見する人と実験する人と美味しく食べる人
様々な国から輸入した食材を置いているチェーン店だ。目当てはレモンジンジャーティーだけでも、いつも店内をゆっくり歩く。韓国海苔、サルサ、アボカドチップ、野菜スティックピクルスの瓶詰、甘そうなビスケットも種類豊富。袋や箱の絵柄も外国風でカラフル。それが楽しい。もともとは珈琲屋で、ここの珈琲が好きだと言う人もいる。店頭ではいつもオススメ珈琲を紙コップで無料配布していて、行列ができることもある。
「ランチの後は、ちょっと節約してカルディの珈琲、飲もうか」
なんて言いつつ、カルディに向かう人もいる。
『カルディ』その名の由来は、珈琲のいくつかの起源説のうちの一つ、「エチオピアのヤギ飼い少年カルディくんが、山で赤い実を食べたヤギが興奮することに気づいたことから発見」に基づくものだと言う。なので絵本に出てくるようなヤギの絵が、店にも紙袋にも描かれている。
カルディくんが珈琲を見つけてから(本当に見つけたのなら)、今のように珈琲を美味しく飲めるようになるまで、様々なドラマがあったことだろう。
映画『かもめ食堂』では、フィンランドで食堂を営む女店主が「コピ・ルアック」と唱えつつ珈琲を淹れるシーンがある。コピ・ルアックはインドネシア語。コピは珈琲、ルアックはジャコウネコ。アラミド珈琲の名で知られるジャコウネコの糞から取り出した珈琲豆のことだ。糞からわざわざ拾い集め洗浄焙煎した豆は、ジャコウネコの体内で消化されるまでに他の果実と混じりあい栄養などを吸収していて、何ともジューシーな珈琲になるらしい。
「人間って……」ここは呆れ返ってもいいところでしょう。
動物の糞から取り出した珈琲豆をわざわざ珈琲にして飲む。すごいなぁと思う。それが美味しいらしく希少価値があり、値段も高いとは。カルディくんが今の世にいたら、さぞやびっくりすることだろう。でもそういう思いもよらないようなことを試してみる人がいて、美味しく食べられるようになったものって、他にもけっこうあるのかもね。発見する人がいて、実験する人がいて、美味しく食べる人がいる。人間万歳?
お正月に「隣町で、かもめ食堂で有名なアラミド珈琲を飲んできた」と、
珈琲の焙煎もできる多趣味で日本野鳥の会所属のご近所さんから、
情報提供がありました。3000円のところを年始価格で1500円。
行こうかなと思っているうちに……もう、年始価格じゃないよね?
悲しみを追い出すハーブ
以前友人宅で出してもらって、とても美味しく身体が温まり、気持ちもすっとほどけたように感じた、レモンジンジャーティーだ。
ティーバッグでノンカロリーだが、生姜の甘みが檸檬の酸味と溶け合い、甘みの方を強く感じる。そして、ぴりっと生姜の辛さを舌に残すのが何とも言えずすっきりとする。酸味の強いローズヒップティーは常備してあるが、これからのお気に入りに加えられそうだ。
ハーブで思い出す物語は、イギリスの作家、アリソン・アトリーのタイムファンタジー『時の旅人』 主人公がタイムスリップした三百年前の農場のお屋敷にあるハーブガーデンが素敵なのだ。
なかでも印象的だったのは、若くして恋に落ち嫁いできた夫人が、他の女性に夢中になってしまった夫を待ち、毎夜ベッドの枕元にレモンバームを散らして眠っていたことだ。このハーブは沈静効果があると言われ、不安を取り除き、気持ちを落ち着かせてくれるらしい。そんな効用からか「悲しみを追い出すハーブ」と呼ばれている。しかし。
「そこまで我慢するなんて、悲し過ぎるよ」
夫人にそう言ってあげたい。でもまあ、言ったところで、
「だって、彼を愛してるんだもの」
と泣かれれば、三百年の時を超えて、恋する気持ちは変わらないのだと思うより他ないんだろうけれど。
残念ながら、レモンジンジャーティーには、レモングラス、レモンピールは入っていたがレモンバームの名はなかった。とりあえずは、風邪を追い出そう。
5分から10分、ゆっくり蒸らして、ハーブエキスを濃く出します。
原材料名を見ると、ペパーミント、ブラックペッパーなどもありました。
チゲ鍋と心のかたち
よく行くショッピングモールの中華料理屋で、ひとりランチをした。チゲ鍋が美味しそうだったのだ。
わたしには、チゲ鍋を食べると思い出すエピソードがある。
ある夜、チゲ鍋が原因で夫と喧嘩した。翌日、どうにも腹の虫がおさまらず、わたしは人目をはばからず思いっきり泣ける場所へと直行した。映画館だ。観たのは『おくりびと』いい映画だった。そのうえ、ぽろぽろ涙をこぼし泣いていても見咎める者もなく、泣くために観るには最適の映画だ。
その映画『おくりびと』のなかに、主人公が子ども時代、父親と過ごした時間を思い起こすシーンがある。川原で父に「石文」というものを教わったのだ。石のかたちや手触りが自分の心に近いものを相手にわたし、また相手も心に近いものを手渡してくれる。それで、おたがいの気持ちを理解しようとする。主人公は父親と心のかたちを交換した。そのシーンがとても好きだった。
「わたしの心も、この星の何処かにころがってるんだ」
そう思いながら、また泣いた。思う存分泣いた。そして、すっきりして家に帰った。それ以来、チゲ鍋を食べるたびに思い出す。心のかたちを。石文を。自分の心が今どんなかたちなのかを考え、手触りを考えるのだ。そんな風に食べ物や匂いで、連鎖反応のように何かを思い出すのって、よくあることなんじゃないかな。
ところで、いったいチゲ鍋の何処に夫婦喧嘩の種があるのかって? 夫婦喧嘩の種など、何処にだって埋まっているものだ。チゲ鍋にだって、ビーフストロガノフにだって、焼きそばパンにだって。うっかり水を注げば、勢いよく芽を出し大輪の花を咲かせ、大きな火花と共に散るものなのだ。
野菜たっぷりで身体じゅう温まりました。
もう一度雪が降ってもがんばれそうです。
音楽のある暮らし
仕事をする時にも、本を読むときにも、酒を飲むときにも、昼寝をする時でさえ、ステレオからは、いつも音楽が流れている。最近はスマートフォン用のスピーカーを買ったので、気分に合ったメロディを流しながら風呂に入ることもできる。もちろんドライブにCDは必須アイテムだ。
ジャンルは様々。エリック・クラプトンのギターが大好きで、来日するたびにふたりで聴きに行くが、リビングでは落ち着いたジャズピアノを聴くことが多い。中学でハマったというビートルズのLPレコードは宝物だ。それなども気が向いた時にレコードプレイヤーでかけている。
それはいいのだが、ずっと腑に落ちないことがあった。彼はけっこう節約節電に厳しくコードを抜いたりスイッチを切ったりとマメにするのだが、ことステレオに関しては、その節電意識が顕著に薄れるのだ。
思い切って聞いてみた。散歩に出るのにステレオを消そうとしない彼に、スイッチを切っていいかと。
「帰って来た時に、音楽が流れてるのが好きなんだ」
それが彼の答えだった。
なるほど、と腑に落ちた。彼は音楽を聴くことが好きというより、音楽のある暮らしを楽しんでいるのだと。夫が散歩から戻るまで、彼の流したメロディを楽しみつつ、ひとりのんびりと洗濯物をたたんだ。
リビングのステレオコーナー。
夫念願のレコードプレイヤーも、1年半前に購入しました。
デッキに出る窓の脇にある背の高いスピーカーの上には、
よく見ると野鳥のための向日葵の種が置いてあります。
義母からの手紙
まだ2週間ほど早いが、わたしの誕生日にと贈ってくれたものだ。嬉しい。
いつもこうして日にちが過ぎる前に、早め早めに手紙を贈ってくれる義母。素直に、すごいなぁ、真似できないなぁと思う。
これがほんとに、なかなかできないのだ。東京でひとり暮らす息子の誕生日だって、前日に慌ただしくプレゼントを買いに行き、直接そこから送った。日は前々からわかっている。なのに、ぎりぎりになって慌てる。あるいは、日にちが過ぎてしまってから慌てる。
「歳を取ると一日一日が、猛スピードで過ぎて行くなぁ」
などと義母には、言い訳にも聞こえぬだろう。
その手紙には、昔、恩師にいただいたという言葉が二つ、プレゼントのように並べられていた。
「疲れたら休みましょう」「足踏みも前進の一つですよ」
のんびり歩き過ぎているのかなと、折に触れ考えていただけに、ホッとした。お腹を空かせて凍った夜道を歩き、辿り着いた家で、思いがけず熱いスープを出してもらったように、心も身体もホッとして温まった。
「こういう手紙がかける人になりたいな」
人が好きで、楽しむことが好きで、ビールが大好きな義母は、憧れの女性だ。
薄いピンクと薄紫の便せんに綴ってありました。
折々区切りの時にと、プレゼントしてもらったアクセサリー達と。
サンキュー! ローバー
マイカー、フィットが1週間の休暇を取っている。積雪休暇だ。
町内の道は所々トラップのように凍っていて、二駆のフィットでは心許ない。なので夫の四駆、ランド・ローバーが活躍中だ。雪が降りしきる中も、翌日の凍った朝も、パワーのあるローバーだから安心して運転できた。
町内でも、家から歩いて15分下れば、もう凍った道はない。町道沿いに住む人には四駆は必要ないかもしれないが、標高600mの我が家には、なくてはならない存在だ。だが大きいだけにハンドルもアクセルも重く、雪道の運転という緊張感も加わり、比喩ではなく身体中が痛くなった。運転席から降りた時これってスケート靴を脱いだ時の感じと似ているなと思うほどに。そして江國香織『ぼくの小鳥ちゃん』(あかね書房)の大好きなシーンを思い出した。
「これこれ」彼女が笑いながら言う。
「私これも好き。すごくおかしいんだもの」
もちろん、ぼくにはこれというのがなんのことだかちゃんとわかった。スケートのあと、普通の靴で歩こうとするとぎくしゃくする、足が地につきすぎる、とでも言いたいような、あの妙なかんじのことだ。
ぼくたちは、そのへんなかんじをたのしみながらスケートリンクをあとにした。くらくなりかけた空に、かげのうすい三日月がはりついている。
そんなわたしだが、ローバーを運転するのは嫌いじゃない。目線が高くなり、運転席からの景色が広がる。それがとても心地いい。春が来るまでは、いく度となくローバーのお世話になりそうだ。
「サンキュー! ローバー。明日も頼むよ」わたしは、ボンネットに触れた。
「もちろん」ローバーは、力強く答えてくれた。
南アルプスの甲斐駒ケ岳を背にして。
まだまだ、路肩の雪は解けてくれません。
夢の名残りの中で
雪の中、庭の木々は芽をふくらませ始めている。
雪柳も、ハナミズキも、ヤマボウシも、ライラックも、紫陽花も。
雪柳は小さな丸い蕾をたくさん付け、紫陽花は緑の頭の下に、手足を伸ばしたくてしょうがないとでもいうように芽達が息づいている。
「やる気満々だなぁ」思わずつぶやいた。
冷たい北風の中、木々の春を待つ気持ちは、わくわくとふくらんでいく。
「冬の間、ぐっすり眠れた? それとも、夢見てたのかな?」
先日、児童文学研究会の『グリム童話を聞こう』(グリム童話と、シャルル・ペローの比較)に参加した。
読み比べてくれたのはグリムの『いばら姫』とペローの『眠れる森の美女』
違いはたくさんあり興味深かったが、眠りに落ちた百年という長い年月、素敵な夢を見ていたという『眠れる森の美女』と、眠っているのにも気づかないうちに目覚めた様子の『いばら姫』どっちが幸せな眠りなのだろうかと考えた。
物語として個人的に好きなのは断然グリムの『いばら姫』だったが、春を夢見つつ眠りから覚めるのを待つのもいいな、と思った。そんな夢の名残りの中で、木の芽達のわくわくと春を待つ気持ちが生まれるのかもと。
「とりあえず、おはよう!」
冬の太陽を浴びる、寝起きの木々に挨拶した。
濃いピンクの花を咲かせる紫陽花の芽です。
南天が雪に負けずに起き上がろうとしていました。
忘れていた気持ち
「明けましておめでとうございます」と彼。
「あ、そう言えば、赤ちゃん生まれたんだよね?」とわたし。
「あ、はい。ぶじパパになりました」
「おめでとう!」「ありがとうございます」
などと新年の挨拶だか何だかわからない会話を交わした。
マッサージをしてもらいつつ、彼の話を聞く。どのミルクがいいだの、赤ちゃんを入れる際の風呂場の温度のことで夫婦もめているだのを楽しそうに語る彼は、本当に2か月前とは、もう別人。すっかり立派なパパになっていた。
「外に出ても、子どもを見る目が変わりましたね。小さな子を見ると、にやにや笑っている自分に気づいてハッとしたり。まるで怪しいおじさんです」
「それは、怪しいかもねー」
笑いながら聞くほのぼのした話に、からだと一緒に心もほぐれていく。しかし次に続いた言葉には、感じ入るものがあった。
「ニュースを見ても、いじめだとか、子どもを取り巻く環境が、心配でたまらなくなりました」
ああ彼は、本当にお父さんになったんだなと思った。親になってみて、子どもがどんなに可愛いものか、愛おしいものか、そしてどんなに心配なものか、自分の視点でちゃんと見て、ちゃんと感じている。生まれたばかりの赤ちゃんの成長は目を見張るものがあるだろうが、同時にパパとママになったふたりも、急成長を遂げているのだ。
自分もこうだったのだろうか。親になったという実感が、確かに感じたものがあったのだろうか。まるで覚えていない。なにしろずいぶんと昔の話だ。とうに忘れてしまった気持ちだった。どれだけ記憶の糸を手繰り寄せても、どうにも思い出せないまま家に帰り、ベビードレスを出してみた。初めての赤ん坊が生まれてくるのを楽しみに25歳のわたしが編んだものだ。いまだ真っ白なベビードレスは手に取ると柔らかく、一つ一つの編み目には、いつか何処かで忘れてしまったものが確かに編みこまれていた。
編み物。ハマった時期が、あったなぁ。
手は付けるんだけど長続きしない性格のみ、長続きしてます。
おしゃれなかぎ針編みの本も今は出てるし、図書館で探してみようかな。
ことっとコーンスープ
缶詰のクリームコーンに同量の牛乳、味付けはバターとコンソメ少々。すべてを鍋に入れ、焦がさないようかき混ぜながら温め、沸騰寸前に火を止めて、出来上がり。簡単5分メニューだ。
「コーンスープって、じっくりことこと煮込みましたってイメージだったんだけど、簡単だよね」と娘。
「確かに自販機のコーンスープとかに、かいてあるね。じっくりことこと。でも美味しけりゃいいじゃん」と、わたし。
「うん。美味しくて簡単な方がいいよね。大学ひとり暮らし生活のために、覚えていかなくちゃ」
「伝授しましょう。ことっとコーンスープ」
実はこのレシピは母秘伝だ。子どもの頃、寒い冬によく作ってもらった。食事は、ただ手をかければ美味しくなるという訳じゃない。熱いものを熱く、冷たいものを冷たく食卓に出したり、新鮮な野菜を新鮮なうちに食べたりすることで、何でもないメニューが飛びきり美味しく感じられたりする。この簡単なコーンスープでさえ、缶詰にはこだわり、コーンの繊維が少なくなめらかなものを選び、これと決めて使っている。美味しく食べる工夫は、簡単料理にだって必要なのだ。
この冬は、流行りのスープ用魔法瓶に入れ、お弁当にも活躍中。缶詰は切らさないよう、たくさん買い置きしてある。
お好みで、胡椒を少々振っても美味しく食べられます。
こつは、焦がさないこと。
とっても焦げやすいので、火にかけたら混ぜ続けています。
窓の外は雪
「綺麗だねー。雪は窓から眺めるのが一番だね」とわたし。
「温かい部屋の中から、眺めて楽しむのが最高だね」と夫。
薪ストーブの温度は200℃まで上がり、リビングはとても温かだ。冷蔵庫には肉も野菜もあるし、パンもワインもある。雪が降ったら雪見酒だ。
夫はパンを切り、イタリアワインを開けた。
映画『アメリカン・グラフティ』をBGM代わりに流し、わたしはチキンを焼きトマトを切る。
美しく真っ白に染まる凍った外界と、別離した温かな室内。それを満喫するのは、我ら人間なのだ。
しかしああ、現実は甘くない。実際には夫に借りた四駆のハンドルを取られながら、雪道をたどたどしく走り、娘の送り迎えに必死だった。雪よ、もう降らないでくれ、頼むから。
朝起きてすぐ、北側の窓から撮りました。
その後、さらに積り枝の上で雪だるまが作れそうなくらいに積りました。
今朝は凍ってます。がんばります。
郵便屋さん、宅配便屋さん、雪のなかご苦労様。ありがとうございます。
珈琲ミステリー
『萩を揺らす雨』(文春文庫)吉永南央の物語の中で、素敵に描かれている珈琲屋だ。珈琲屋と言っても扱うのは豆のみで、試飲の珈琲は1杯に限り無料。珈琲豆の他にはあちこちの焼き物の里から仕入れた和食器を置いていて、珈琲好き&和食器大好きなわたしには、夢のような店だ。扉をくぐれないのが全く残念でしょうがない。
その珈琲屋「小蔵屋(こくらや)」を営むのは76歳の草(そう)さん。小粋なおばあちゃんだ。その草さんが日常の謎を解き明かす連作短編集だというので手に取った本だ。
なにしろ、珈琲、和食器、コージーミステリーと、好みのものが揃いも揃っている。お宝発掘! と浮き浮きしつつ文庫を衝動買いした。草さんは無料の珈琲目当てに来る客達の会話から街で起こっている事件に気づき、性分から放っておけなくなり様々な事件を追い始める。連作短編を追ううちに草さんのこれまで生きてきた道のりやドラマが見え隠れするのも面白い。面白く、また切なく胸を突かれたりもする。
コージーミステリーは、居心地のいい居間で紅茶と焼き菓子を味わいつつ読むのにぴったりした軽いミステリーだと言われている。しかし小蔵屋には、やはり珈琲が似合っている。草さんの生きてきた道のりが甘くはなかったように、苦みもたっぷり含んだ珈琲がお似合いだ。夫用に買った酸味系ではないブラジル産の豆を挽いてドリップし、またページをめくった。
春になったら、焼き物の里を訪ねる旅をしたいと思っています。
気に入った陶器をひとりゆっくり探して歩きたい。
そんな旅にずっと憧れていました。子離れの旅?
赤松の梁を見上げて
そのうちの13年近くはここで暮らしている訳だから、わたし達の暮らしてきた年数の半分近く、今の暮らしをしてきたことになる。ついこの間、越して来たばかりのような気もするが、時間は止まることなく流れ続けているのだ。
「不思議だ」
リビングの炬燵で、日課となった昼寝をしながら、うとうとと考えた。
隣では夫が高校サッカーの準決勝を観ながら「よしっ!」とか「おっしいなぁ」とか、声を上げている。
目を開けると、吹き抜けの2階の天井と梁が見えた。梁はこの土地に生えていた赤松だ。家を建てる1年前に切り倒し寝かせておいて、地元の大工さんに頼み、大黒柱や梁に使ってもらった。天井を見ながら、家を建てたばかりの頃を思い出した。赤松は1年で乾ききらず、柱や梁になってからも乾燥するたびにひびを入れたりねじれたりして、パキーン、パキーンとよく音を立てた。その音は何か切なく胸に響いたっけ。
隣の林では空に向かって伸びている赤松が、八ヶ岳から吹き降ろしてくる北風に揺れ、キー、キーと鳴いている。その音を家の中の赤松達は、何を思い聞いているのだろうか。今はもう柱も梁も鳴くことはない。時間はやはり、止まることなく音もなく流れ続けているのだ。
布を飾っている梁と、それにクロスしている梁が赤松です。
1階の天井は厚い赤松の一枚板で2階の娘達の部屋の床になっています。
吹き抜けの上には2つサーキュレーターを付けました。
2階に上がった暖気をリビングに下ろすためにものです。
小説「カフェ・ド・C」 23. 誰にでもあるいいところ
「明けましておめでとうございまーす」
カフェ・ド・C年明けの5日。ミカミさんは元気よくドアを開けた。
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
もちろんお客様を誠心誠意おもてなししようという気持ちに変わりはない。
「こちらこそ、よろしくね!」
年の頃はマダムと変わらないくらいだろうか。明るく気さくなタイプなのだが、気になるのは、誰彼構わず一方的に話し始め、自分の意見を絶対に曲げないところだ。暮れにはこんなことがあった。
「お雑煮はおすましが一番よね」と誰かが言った。ミカミさんは、それが自分に向けられた言葉ではないにもかかわらず、身を乗り出し主張し始めた。
「京都の白味噌に小芋や人参を入れた、コクと旨味のお雑煮を知らないの?」
「まあ、それも美味しいけど、わたしはおすまし派なのよ」
この時点で相手はもう、ミカミさんに捕まったも同然。ミカミさんは白味噌雑煮の美味さをひとり語り続け、周囲の人さえ呆れ果てるほどに自分を押し通した。今年もまた幕を開けるであろうミカミ節。もう聞きたくないなと正直、僕は思っていた。
そんなところに、初めてのお客様がひとり、カウンターに座った。若い女性だ。彼女は、ひとつ席を空けた隣に座るミカミさんと笑顔だけの挨拶をかわし、ブラジルの中煎りを注文した。
「あなた、お雑煮は、白味噌派? おすまし派?」
始まった。僕はうんざりした。初めてのお客様に申し訳ない気持ちにもなる。しかし彼女はきっぱりと答えた。
「断然、白味噌ですね」「そうよね!」
どうも風向きが違うようだ。今度は彼女がミカミさんに話しかけた。
「そのフェルトアクセサリー、素敵ですね」
「ありがとう。趣味でね、作ってるのよ」
「色合いがセーターとマッチしてて、すごくおしゃれ」「うれしいわぁ」
ミカミさんは、ひとしきりアクセサリー作りについてしゃべり、機嫌よくカプチーノを飲み、帰っていった。何か不思議な感じだ。するとブラジルを味わいつつ、カウンターの女性が言った。
「不思議だと、思ってますね?」いったい何者なんだ?
するとまた答えるように「わたし、占い師なんです」
「占いで、好きな雑煮がわかるんですか?」僕は思わず聞いた。
「いえ。好きな方を先に口に出すタイプだと思ったから」
「なるほど。フェルトアクセサリーは?」
「誰にでも、素敵なところ、いいところってあるでしょう? まずそれを見つけるのがわたしのやり方なんです。外見でも、内面でも、何でもいいの。お世辞じゃないから、言葉にすると相手にはちゃんと伝わるし」
「誰にでもある、いいところ、ですか」
「マスターも、きっとそういう仕事の仕方してますよね。だから此処、すごく居心地がいいもの」それだけ言うと、彼女は代金を置き帰っていった。
反省することしきり。今度ミカミさんが来た時には、僕なりに、彼女の素敵なところを探してみようと思う。
妻が作る白味噌の雑煮は美味い。だが、白味噌と言っても山吹味噌の白。
隠し味に味醂を入れるのがこつだそうだ。
ミカミさんに話したら、叱られそうだな。
小さな芽吹き
アジアン雑貨屋で目についた時には、もう欲しくなっていた。今持っているあれとこれと合わせて着て、義母にもらったグリーンのストールを巻いてと、アレンジまで考えてしばし眺め、色違いのものを見て、値札を見て、手触りを確認し、試着した。
新しい服を買うとわくわくする。高価なものなんかじゃなくていい。気に入ったものを手に入れるのは、とても贅沢で、最高に素敵なことだ。
なかでもチュニックは大好きなアイテムの一つ。ジーンズに合うし、またジーンズのように年齢関係なく着られる。その上腰回りが温かい。年齢不詳を目指す人にはオススメ普段着&お出掛けOKアレンジし放題の優れものだ。
いつ何処に着ていこうかな。庭の雪柳の硬く小さな蕾のように、胸の中に小さな春が芽吹いた。わくわくする気持ちは、春を感じる瞬間と似ている。木々達の小さなわくわくが集まって春は、きっとやって来るのだ。
チュニックは、古代ローマで着られていた服だそうです。
ギリシャ語「トゥニカ」が語源。ローマ、行きたいなぁ。
びっきーに届いた年賀状
1通目は、かかりつけの動物病院から。そして2通目は、遥々オーストラリアの娘から。アボリジニアートの絵ハガキだ。
「明けましておめでとう」から始まり、「写真見たよ。びっきーは元気そうだね。2月に帰ったら一緒に散歩に行こうね」とかかれている。
父でも母でも妹でもなく、びっきー宛てというところが何とも彼女らしい。びっきーに見せると、まさか娘の匂いがする訳はあるまいが、ひとしきり匂いを確認していた。
「きみの飼い主は、今頃、何してるんだろうねぇ」
びっきーの頭をなでたが、返事はない。
2月はすぐそこまで来ているんだなと、あらためて思う。1年など本当にあっと言う間だ。わたしが小さな毎日を変わりなく過ごしているあいだに、彼女は、日本ではできない様々な体験をしていたのだろう。もうすっかり、背中に羽根が生えているかもしれない。びっきーに届いたエアメールのように、世界中何処へでも飛んで行けそうなほどに、大きく成長した羽根が。
「それも、いいか」
ふたたび、びっきーの頭をなでたが、やはり返事は返ってこなかった。
「よくない」と彼が思ったかどうかは定かではない。
ややっ!? これは姫の匂いが! 姫、何処におられるのですか?
びっきーは、淋しいです。姫ぇぇぇぇぇ。
うっかり屋だからこその工夫
初詣に行った際、家族のお守りは買ったのに、自分のお守りは交通安全のものしか買わず、すっかり忘れていた。ふたつ返納したのに、家族の分を買い安心してしまったのだ。
所用で甲府まで出たので、せっかくだからと武田神社にお参りに行ってきた。正月には歩けないほどの人でにぎわうこの神社も、8日ともなると駐車場も空いていた。ゆっくりとお参りして、自分のためのお守りも並ぶことなく買えた。(お守りは買うと言わずに受けると言うんですね、ほんとは)
うっかりが多いのは、自分でよくわかっている。だから、出がけに火を消したか、鍵をかけたか、何度も確認する。そのために時間を前倒しして早めに出かける準備をする。会社の仕事で数字を入力する時も然り、家事も然り。料理で塩と砂糖を間違えないために、砂糖はブラウンのものを使っている。うっかり屋だからこそ、うっかり屋なりの工夫があるのだ。それでも工夫の甲斐なく、買い物に行き同じものを1週間忘れ続けたりもする。そういう時にはもう、それだけを目指して買いに行く。
でも今回のうっかりは、ちょっと得した気分だ。青空の下、にぎわいを終えた武田神社に、ひとりのんびりお参りするのは、ことのほか気持ちがよかった。うっかりも、悪いことばかりじゃないかな。と思うのは、わたしだけか。
三が日は鳥居が見えないほどの人で埋め尽くされます。
鳩も喧噪の後でホッとしたように、日向ぼっこしていました。
面白きかな、人間
推理物だし法廷ドラマだが、その主役は中学生達。わたし的には、推理小説としての面白さよりも、中学生ひとりひとりの人物設定、心理描写に魅かれた。
大雪のクリスマスイブ、夜中に中学の屋上から落下し死亡した柏木卓也。幼い頃から病弱で死との親和性が高く、突き詰めて考えることに囚われた小さな仙人。彼の死は自殺だったのか。
告発状により殺人の容疑をかけられた、札付きのワル大出俊次。カツアゲ、暴力、いじめ。深く考えず行動し、結果多くの生徒を傷つけ嫌われてきた問題児。裁判の被告人席に彼が座る。
刑事の父を持つ優等生にして美形、常に自分に完璧さを求める藤野涼子。真実を知りたいという気持ちから学校内裁判を提案し、検事を務める。
当たり障りのない学校生活を望み、自分の力量を隠してきた野田健一。家庭内のある事件をきっかけに変わろうとしていた彼は、弁護人助手に名乗り出た。
学校外の柏木卓也の友人で、幼くして両親を亡くした神原和彦。目元の涼しい整った顔立ち、小柄で女子のように色白な彼は、第一印象にそぐわず堂々と弁護人を務める。
登場する大人達も、ダメダメなキャラばかりではない。むしろ魅力的な人物も多く、自分にできる最善を尽くそうとする姿も印象的だ。しかし子どもの可能性は計り知れない。そういう意味では大人に勝る魅力を持ち得る存在だ。読み終えた後は、成長した中学生達ひとりひとりが、その後どんな人生を歩んだのだろうと想像が膨らみ、わくわくした。今その余韻に浸っている。
面白きかな、人間。と、再確認した小説だった。
写真を撮るために、本棚の整理をしました。これって偽証? いや、偽装?
上の段はまだぐちゃぐちゃです。良心に従い真実のみを証言しています。
白く凍った冬
「留守にする間、白菜が無くなったら、畑から持って行って」
年末、近所の農家さんに、嬉しい言葉をいただいていた。
仕事始めの前日、ふたたび生姜鍋で温まろうという話になり、
「白菜泥棒っぽいよね」とか言いながら、夫と畑に入った。
畑には、きちんと同じ間隔を空けて白菜が並んでいた。塔のようだ。冬の小人達が住む白い塔。たぶん、未明に小人達は挨拶を交わす。
「今朝も、気持ちよく凍っていますね」
「空には月も、白く凍って浮かんでますね。いい季節だ」
「いつまでも、この白い季節がつづいてくれるといいのにね」
「全くですね」
根に包丁を入れ、取った白菜をむくと、白い美味しそうな部分が顔を出した。むいた外側の葉っぱは畑に置いて行っていいとのことだったので、その場でむいて白菜を2つ袋に入れた。水分をたっぷり含んだ白菜は、外側のしおれた葉でさえ、根に近い部分はシャーベットのように凍っている。
中は凍らないのかと不思議だったが、キッチンで包丁を入れると、頭がちょっと凍っていたくらいでほとんどが無事だった。白菜たっぷりの生姜鍋で足の先まで温まり、小人達に礼を言った。
「ありがとう。凍った冬が鍋に溶け出して、いい味出してたよ」
いただいた白菜に住んでいた小人は、新しい住処を見つけただろうか。
夫の提案で生姜鍋に柚子の皮を刻んで入れてみたら、これがベストマッチ!
鶏がらスープのみの薄味なのでいろいろ試せて、アレンジが効きそうです。
小さな余計なもの達
「今夜は使おうかな」箸置き、いろいろ。並べてみた。
ケータイのストラップだってアクセサリーだって、無くたって困りはしないが楽しむために付けている。写真や花を飾ることも、アジアン雑貨を置くことも、どうしても必要ではないけれど、無いと淋しい。そんな淋しがり屋のわたしの周りは、小さな余計なもの達であふれている。
大きめの箸置きは、ちょい取り皿にも活躍するお気に入りです。
シンプルな藍の棒型の箸置きは、家族5人が揃ったら使おうかな。
夕暮れの八ヶ岳
びっきーの散歩から帰った夫が、上着も脱がずにカメラを持ち忙しく言った。夕暮れの八ヶ岳を撮りたいのだとすぐにわかったので、ダウンを羽織り、何も持たずにフィットを飛ばした。町の外れまで5分。夕暮れに間に合った。
「綺麗だねー」
わたしはしばし夕暮れの八ヶ岳を眺め、あとはインドア派らしく車からガラス越しに見ていた。アウトドア派の夫は、冷たい空気にもめげず望遠レンズを付けた一眼レフを構え、いく度もシャッターを切っている。その間に八ヶ岳は少しずつ少しずつ色を変えていく。ここ2日ほど雲隠れしていたヤツは、その間にたっぷりと雪化粧を施していて、夕焼けが映えた。
わたしがいる車内からは、南アルプスの山々も八ヶ岳も見渡せたが、彼は無心にヤツだけを捉えようとカメラを向けていた。
道行く車がスモールライトを点灯し始めた頃、夫は車に戻ってきた。
「色を変えていく姿が面白いね」と、わたし。
「すごいよね。どんどん変わっていくね」と夫。
毎日見ている八ヶ岳。だがこんな風に日が暮れていく様をじっくり見るのは初めてだった。
「いいもの見せてもらった。ありがとう」
そう言ったわたしの横で夫は、冷たくなった指先でカメラをいじり、撮った写真を無心に見ている。その彼を見て考えた。夫婦ってこういうものかもと。彼が見たいと言った風景を一緒に眺めたり、わたしが読んだ本を彼が読んだり、彼が聴く音楽をわたしが聴いたりして、毎日がほんの少しずつ豊かになっていく。それってけっこう素敵なことかもと。
夫の作品を1枚分けてもらいました。
左から阿弥陀、中岳、赤岳だそうです。わたしにはどうしても覚えられない。
叱られた夢
その途中、車線変更に失敗しそうになり、ヒヤッとした場面があった。ドライバーはわたしだ。ドライブは好きだが自分の運転技術に自信がないわたしは、いつも注意しすぎるくらいに注意を重ねて運転している。それで事無きを得たというところはあるにしても、全く呆れる。いつまでたっても車線変更がうまくならない自分にだ。
初夢はぐっすり眠ったせいか覚えていないが、昔見た夢を思い出した。末娘が小学校高学年の時に担任してもらった先生に、わたしが叱られている夢だ。
「いいですか、お母さん。苦手なことから逃げていては、いつまでたっても苦手なままなんですよ」
勉強も遊びもいつも一所懸命で、子ども達を丸ごと包むような懐の大きさも持った彼は、子ども達に「マルちゃん」と、ちゃん付けで呼ばれていた。マルちゃんはわたしよりもずいぶん年下だったが、臆さず淡々とわたしを叱った。もちろん夢の中でだ。
「やらなければ、できるようにはならないんです。挑戦してみることで初めて克服できるんですよ」
わたしはうなだれ、はい、はいと話を聞いている。
「失敗したっていいじゃないですか。やってみましょう、車線変更」
しかし、マルちゃん。車線変更、失敗して事故ったら洒落になんないよ。そう思いつつも、わたしは目が覚めるまで、ただただ叱られ続けていた。
山梨に越してきて、春には13年になる。バイパスに出ない限りは車線変更の機会さえない田舎だが、それにしても呆れる。苦手な車線変更から逃げ続けている自分にだ。
子ども達には、苦手なことにも挑戦して欲しいと思ったりもする。やりもせずに苦手だからと遠ざけていては、体験できるはずの楽しいことも体験できず、人生もったいないんじゃないかとも思ったりもする。ところが自分はと言えば、この有様。子ども達にあれこれ言う資格など持ち合わせていないのだ。
「今年こそ、上手く車線変更できるように練習しようかな」
買ったばかりの朱色も鮮やかな交通安全のお守りを、フィットに乗せた。
お隣の韮崎市は武田八幡宮に初詣に行きました。
御神木と鳥居の向こうに見えるのは我が町の茅が岳です。
雲は形を変えて
正月2日も正午。「たかねの湯」は、人もまばらでゆったりと身も心も芯から温まることができた。館内は温かく髪も乾かさずにマッサージチェアに座った。10分百円。マッサージチェアの前はガラス張りで山や木々や空が広がる。マッサージをしながら流れる雲を眺めた。テレビでは、箱根駅伝の中継が流れている。箱根は風が強いらしい。「たかねの湯」から眺める雲もすぐに形を変え、流れていく。
「行雲流水」(こううんりゅうすい)という四字熟語が頭に浮かんだ。
空を行く雲と流れる水。自然のまま、成り行きに任せて行動することをたとえて言う。物事に執着せず、他の力に逆らわないで、淡々と。好きな言葉だ。
「今年も、新しい年をぶじに迎えられたなぁ」
流れる雲を眺め、ようやく一息ついた心持ちになった。
空を行く雲のように、川を流れる石のように、流れて流されて、心も形を変えていくのかな。10分経ってマッサージチェアが動かなくなってからも、しばらくの間、形を変えていく雲を眺めていた。
温泉につかり、マッサージの後、食堂でランチをして帰ってきました。
夫は「チキン南蛮丼」わたしは「ベジ味噌ラーメン」
生ビールは、娘の迎えがあるので彼に譲りました。ポイント1取得!
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