はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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初めての玄米リゾット

今更、と思われる人も多いかと思うが、初めて玄米ご飯を炊いた。
1年分の米は、近所の田んぼから玄米で購入して、玄関に置いてある。それを精米して、普段は食べているので、白米を手にするよりも、玄米の方が遥かに手がかからず、山と積んである訳だ。なので、白米に何割か混ぜたりして、玄米のぷちぷち感を楽しんだり、古代米を頂いた時などは、紫に染まる米も楽しく、やはり何割か玄米のまま白米に混ぜて食べていた。だが、白米の美味しさに勝てず、玄米のみのご飯を炊こうとは思わなかったのだ。

そしてまた、今更と思われる人も多いかと思うが、初めてリゾットを作った。
粥類は、夫が好まないこともあり、やはり手をかけて作ろうとは思わなかったのだ。まだまだ料理の世界で、足を踏み入れていない領域は、宇宙のように広いのだなぁとあらためて思う。これを機会に、宇宙へと旅立とう。

その『玄米のきのこリゾット』が、おっ、と言うほど美味しかったのだ。
常備している材料で、時間もかけずに、ひとりランチの出来上がり。玄米のぷちぷち感は、ほどよく、玄米のみとは思えない食べやすさ。これで食物繊維がばっちりとれるのかと思うと、それも嬉しい。
玄米は2合炊いて小分けにし、冷凍しておいたので、これからも材料や味を変え、楽しめそうだ。

新米が届くまで、あとわずか。黄金色に実った稲を見ると、その一粒一粒に、太陽の恵み、大地の恵み、水の恵み、そして人の力を感じる。今年の米を、わくわく待ちつつ、レシピも増やしていこうと思う。

ご飯100gって、意外に少ないんですね。シイタケ買い忘れた~。

でも作ってみたら、たっぷり一人前。お腹いっぱいになりました。
庭のイタリアンパセリは、まだまだ活躍中です。
レシピはこちら → 『セニョーラ・あ~の気ままな食卓』

近隣では、稲刈りの季節。稲の天日干しは、秋の風物詩ですね。

束ねたこれを干していくんですね。手間をかけ美味しいお米ができるんだ。

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蜜を吸いに集まる虫達

蝶を始め、様々な虫達が、花の蜜を吸いにやってくる。
この季節、一番人気は、アップルミント。見に行くと、大抵誰か彼か、夢中で蜜を吸っている。その姿は、微笑ましくもあるが、単に、生きていくための行動なのだとも思える。
明野の秋は、短い。すぐに冬が来る。それを知っているのかも知れない。小さな生き物達は敏感だ。だからこそ、今を、必死に生きているのだろう。

「ぼんやりしすぎかなぁ」我を、振り返る。
「もう50年も、ぼんやり生きて来ちゃったなぁ」
振り返るが、そこに新しい展望がある訳でもない。
しかし、いや、と考え直す。今こうして、ぼんやり庭を眺めるわたしだって、必死に生きている。そう。生きていくだけで、ものすごくたいへんなことなのだよ、と、虫達に語りたくなる。仕事でミスをして自分が嫌になったり、些細な人間関係の歪みに真剣に悩んだり。小さなことでも、その時その時は、周りから見れば滑稽なほど、必死になっているのだ。

さてと、がんばって生きていこう。蜜を吸う虫達に、しみじみ思った。

トラマルハナバチ。ガウラを転々と。足にも花粉がついていますね。

シジミチョウは、開くと淡い紫で、貝のシジミそっくりなんですが、
飛んでいる時しか、羽根を広げてはくれませんでした。

コアオハナムグリは、カナブンではなくコガネムシの種類だそうです。
アップルミントの白い花の下には、もう1匹いるようですね。

スジボソヤマキチョウは、優しいレモンイエロー。可愛いお顔。

ヒオドシチョウ。羽根を開くと鮮やかなオレンジ色がのぞきます。

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『八月の六日間』

北村薫『八月の六日間』(角川書店)を、読んだ。
帯には「滋養たっぷりのお仕事&山歩き小説」とある。北村薫らしからぬ帯だなぁと疑問を持ちつつも、また「元気をもらえる小説 №1!」に、騙されてみるかという気になった。いや、北村薫なら外れないだろう。安心の北村薫。そんな気持ちで手にとったのだ。

主人公は、と、かきかけて、気づいた。
「また、やられたかぁ」
主人公の一人称でかかれた、この小説には、主人公の名が記されていなかった。後輩の藤原ちゃんは、最初から苗字がニックネームだし、山で出会ったはつらつとした女子、宗形三千子さんなどは、フルネームで記されているにもかかわらず、主人公の名がない。そこに違和感を持たせず、最後まで読ませてしまう作家なのだ。
なにしろ、デビュー作『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)から始まるシリーズ5冊も、主人公の名を記さず、描いている。その時もまた、読み終えるまで気づかなかった。主人公と姉との確執など、込み入ったストーリーでさえ、ふたりの名を記さず淡々と描いてしまう。(その上、その時には覆面作家だった。大学生の主人公が実際に語っているようなイメージ創りだったとか)

ということで、出版社で副編集長を務める40歳の女性が、単独で山歩きをする小説だ。その時々の心の動きが、山を背景に描かれている。
以下、本文『八月の六日間』から。

暗い中でふと、小学校から高校まで、ずっと一緒だった友を思った。何でも話せる相手だった。彼女は故郷、わたしは東京と別れても、ずっと側にいるような気がしていた。そんな彼女が逝った時、わたしは、
― 一人になった。
と、打ちのめされた。共有する数々の思い出が消えるような気がした。だがやがて、まだ一人いる、わたしがいる ― と思えるようになった。それは「たけし君」から「敦」を見るような思いだ。あんなことが、こんなことがあったね ― と、ふと思う時、あの人はよみがえるのだ。

『九月の五日間』は槍ヶ岳『二月の三日間』は裏磐梯『十月の五日間』は常念岳『五月の三日間』は麦草峠、そして『八月の六日間』は穂高周辺。
読み終えて、胸がしんとする小説だ。だが、北村薫のセンスのいいユーモアが、そこ此処に散りばめられていて、くすりと笑えるシーンも多々あった。個人的には、それが、ものすごく好きなのだ。

この山は、穂高辺りなんでしょうか?南アルプスと八ヶ岳しか、判りません。

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『アゲハ蝶』と星のピアス

庭を、カラスアゲハが、舞っていた。
大きくゆったりと羽根を動かす、黒く光る姿に、そこだけ時間の流れが違っているかのように見える。そのスローなテンポとは裏腹に、頭のなかでスイッチが入ったみたいに、アップテンポのメロディが流れた。
ポルノグラフティの『アゲハ蝶』だ。上の娘が、中学生の頃、よく弾いていた。まるでピアノに喧嘩を挑むように、長い指を折れるまで叩きつけようと覚悟を決めているみたいに、強く強く鍵盤をたたいていたっけ。
反抗期。自分でもままならぬ怒りが、迷いが、悲しみが、彼女を襲っていたのだろう。そんなすべてをピアノにぶつけ、毎日何時間も鍵盤をたたき続けた。

村にひとつしかない中学で、髪を染め、ピアスを開けているのは、娘しかいなかった。学校から、何度も注意を受けた。先輩達からも、疎まれていたことだろう。それがまた、怒りに、自分を判ってもらえない悲しみにと変わる。わたしにさえ口をきこうともしなくなっていった。悪循環の日々だった。
ルールを守らない者がひとりいることで、クラス運営が立ち行かなくなる場合もあると、教師である友人に聞いた。だが、それでも、親として娘の気持ちを受け止めることを、最優先にするしかないと、決めていた。

娘のピアスは小さなシルバーの星ひとつで、大人になりかけた耳に、シンプルに光っていた。それは、あれこれ考えることなく真っ直ぐに見れば、彼女にぴたりと似合ってて、可愛かった。わたしは、そのままの感想を彼女に伝えた。
「可愛いね。その、ピアス」
すると娘は、驚いた表情を向け「お母さんは、怒るかと思ってた」と言う。
その日から、娘の弾く『アゲハ蝶』は、優しさを帯びるようになった。次第によくしゃべり、よく笑うようになり、大人になっていった。
子育てに正解はないだろうけれど、相手を思い、受け止める気持ちがあれば、なんとかなるのだと学んだ出来事だった。
「彼女は、今チェコで、楽しくやっているようだよ」
カラスアゲハは、そう伝えに来たのかも知れない。

ゆるりゆるりと舞う姿が、美しいですね~。
「アダムは林檎が欲しかったから食べたのではない。禁じられていたから食べたのだ」by マーク・トウェイン

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アカヤマドリのクリームパスタ

アカヤマドリという、きのこをいただいた。
キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち、珈琲を焙煎し、日本野鳥の会所属の陶芸家であり、山菜にも蛇にもきのこにも詳しいご近所さんが、林で見つけたと、持って来てくれたのだ。

じつは、今年はきのこの当たり年だと聞き、その日、夫と隣りの林を歩いたのだ。すると、あるわあるわ。様々なきのこ達。
だが、きのこに詳しくない夫とわたしが見たところで、食べられるかなど判るはずもなく、きのこ図鑑を見たところで「これに似てる」止まりで、食べようなどとは、つゆとも思っていなかった。
きのこ図鑑を見て、こりゃだめだとあきらめた一番の原因は、シイタケだ。
「あ、これなんか、美味しそう」と指差したきのこが、シイタケだったのだ。
ページをめくるうちシイタケのページが出てきたのだが、これが全くシイタケに見えなかった。見慣れたものも、こうして図鑑に写真で載ると、違って見えるものなのだ。シイタケでさえ判らないのだから、初めて見るきのこを判別するなど、無茶というものだ。それで、はなからあきらめていた。

そこにやってきたアカヤマドリ。クリームパスタにして、赤ワインを楽しんだ。それが、本当にびっくりするほど美味しかったのだ。初めて、きのこに夢中になる人の気持ちが判った気がした。それでも、まあ、シイタケが見分けられないうちは、きのこ狩りに出かけようとは思わないけどね。

大きい! ワインオープナーが、小さく見えますね。

一番大きいのを、洗って、刻みました。これだけで、じゅうぶんです。

写真よりずっと、クリームが黄色くなりました。食欲をそそる色でした。

これは、隣の林のきのこ。可愛いけど、食べられないでしょう、たぶん。

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新秋刀魚

連休、夫とふたり、バーベキューをした。
バーベキューと言っても、何のことはない。炭を起こして秋刀魚を焼こうというだけだ。新秋刀魚が、光を放ち、店頭に並ぶ季節である。秋刀魚は、網の上で、じゅうじゅうと音を立て、赤く焼ける炭に、脂を落としていく。

「秋刀魚には、何故か、赤が似合うね」と、夫が赤ワインを開ける。
「魚なのにねぇ。脂がのってるからかな」わたしも一緒にワインを傾ける。
それでも、大根おろしに醤油でいただく。日本人なのだなぁ。

せっかく炭を起こすのだから、鶏肉も焼こうと、準備をした。肉に塩をしていて、子どもの頃に読んだ童話を思い出した。
王である父が3人の娘達に問う。どのくらい自分を愛しているかと。長女は「ダイヤモンドのように」次女は「金銀のように」愛していると答える。だが三女の答え「肉に振る塩のように」に、王は怒り、娘を追い出してしまう。
その話を夫に聞かせると、ぽつりと言った。
「国のトップになって、自分が一番偉い、偉くなきゃいけないって思うと、周りが見えなくなるものなのかな」
ふうん。そこに視点を当てるのか、と焼けていく肉を見ながら思う。
「父親の感性に合わせて答えるだけの目を、娘が持っていなかったとも言えるね」とは、わたし。
会社経営をする夫と、経理を含め、それをサポートするわたし。童話に見た視点一つでも、それぞれの立ち位置が見えるようで、おもしろい。

夫が起こした炭で秋刀魚を焼き、わたしが大根をおろす。わたしが味つけした鶏肉を夫が焼き、わたしが切り分ける。
同じ火を見ても、見えているものは違うかも知れない。それでも、同じ火を見て、同じものを食べるのはいいものだ。この秋初めてフリースを着て、食後もしばらく、そんな風に火を見ていた。

秋刀魚って、本当に綺麗ですね。まさに刀って感じ。

炭火で焼くからか、いつも子ども達も、腹まで残さず食べていました。

鶏もも肉は、ニンニク塩胡椒で、simple に。

皮がパリパリで、中身はジューシー。さすが、炭焼き!

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どんぐりが落ちる音

庭に出ていると、どんぐりが落ちる音が、聞こえる。
かさり。こそっ。ぽとん。擬音に変換することは、難しい。どちらにしても、ひらがなが似合う、優しい音だ。

歩けば、足元でバッタが飛び、赤トンボが、葉や花の先など、てっぺんと言えるいたる所にとまっている。

昨日の朝は、前日のポットの冷めた湯を、起き掛けに飲んだ。温かな白湯が喉を通るのが、心地よい。これまで冷たい水を美味しいと飲んでいたのが、不思議にさえ感じた。
朝食を作りつつ、庭で茗荷を探したが、見つからなかった。毎朝薬味にしていた茗荷のない味噌汁は、いつもと全く違う味がした。

わたしが眠っているうちに、起き出して散歩に出た夫は、久しぶりにリスを見たと、嬉しそうに話してくれた。

先週、薪ストーブの煙突掃除を終え、冬支度は万全だ。薪が燃える暖かい部屋で過ごす時間を思うと、気持ちも温かくなる。
それでも、何故だろう。夏の終わりは、淋しい。

重力に従いつつ、空気抵抗に助けられ、ふわりと落ちてきます。

けろじ? それ、トンボくんの真似してるの?

道端には、コスモスが、秋の風に揺れています。

夫が撮った、リスの写真です。空飛ぶリスくん、何処へ行く?

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『マスカレード・イブ』

東野圭吾『マスカレード・イブ』(集英社文庫)を、読んだ。
『マスカレード・ホテル』から始まるシリーズ、2作目だ。シリーズ2作目といっても『イブ』は、物語序章の意味合いが強く『ホテル』で、主役の二人、山岸尚美と新田浩介が出会う以前の出来事を描く、短編集になっている。
シリーズのこれからを楽しみに、軽く流して読めるミステリー4編だ。

その表題作『マスカレード・イブ』のなかで、印象に残ったシーンがあった。
殺人現場は、大学の研究室。刑事である新田が、部屋に入るなり回想したのは、小学校での理科の実験だった。以下、本文から。

五円玉にメッキをし、銀色にする実験を行った。ただしこの実験のことは人にいいふらしてはいけない、と先生はいった。硬貨を加工するのは法律違反だかららしい。それを聞いて、余計に興味が湧いた。メッキした五円玉は、一見すると五十円玉のようだった。店で使ったらばれるだろうか。目の悪いお婆さんなら気づかないのではないか。想像すると、わくわくした。

してはいけないことを、してみたいという欲望。心の奥底に、しまい込んでいる感情が、ふと表に現れる瞬間。そういうものは、誰にでもあるのだろうか。

散歩道に、漆の葉が茂っている。見ていると、不意に強い感情が流れ、触ってみたくなる。触ればひどくかぶれ、後悔することは判っている。だが、してはいけないことを、してみたくなる瞬間を、漆に見てしまうのだ。

意味もなく非常ベルを押したくなったり、白いブラウスに赤ワインをこぼしてみたくなったり、開けてはいけない扉を開けたくなったり。多分、一生やることはないだろう、無意味な欲望達。
「触って、ごらん」と、林で漆が、呼んでいる。

マスカレードのテーマで何処まで行けるかなぁ。楽しみ!

生き生きと伸び、林じゅうに広がっている漆。青々としています。

色づいている葉も、ちらほら。紅葉の季節には、漆は主役になります。

トンボくんは、とまっても、かぶれないんだね~。

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終わりを告げる、茗荷の季節

茗荷の季節が、終わる。
最後の茗荷を、ピクルスに漬けた。淡くピンクに染まり、見た目も可愛い一品。ひと夏楽しんだ茗荷も、もうおしまいかと思うと、淋しい限りだ。

何年か前に植えた茗荷を、毎日楽しめるほどに収穫できたのは、今年が初めて。朝6時前に、味噌汁の薬味にと、茗荷をとりに庭に出るのが日課になった。頭をちょっとだけしか見せていない茗荷を探し、雨に濡れた日もある。夜、奴の薬味にしようと思っていたのにとり忘れ、懐中電灯で照らしながら、夫と、探したことも1度や2度ではない。
義母にも送り、喜ばれた。義父は、これまであまり美味しいと思ったことのなかった茗荷の香りのよさに、80歳を過ぎて初めて気づいたそうだ。
茗荷を堪能した夏だった。

先日、外での食事で、柴漬けが出てきた。全体がピンク色の柴漬けは、パッと見、素材が何か判りにくい。だが、夫が箸をつけるなり言った。
「あ、茗荷」わたしも同意した。「ほんと、茗荷だ」
ひと夏で、茗荷はわたし達に近しい存在となったのだった。

探しまわって、見つけた時の喜び! 太ってますね~。

ピクルスは、日本酒にも合います。もちろん、ワインにも。

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だんだん細くなっていく

夏の終わりの庭で、カマキリが自分の影に見とれていた。
祈りのポーズをするのは、捕食前のファイティングポーズだとも言われているが、獲物はいない。わたしを警戒しているのかとも思ったが、近づく前から、このポーズのまま動かなかった。
「影に見とれている」ようにしか、わたしには見えなかった。
影は、痩身のカマキリよりもずいぶん細く、じっと見ていると、ますます細くなっていくようだった。
「だんだん細くなっていく影を見ていると、自分がすっと消えていくような気がするんです」カマキリの声が、ふと聞こえた。
お腹が少し膨れているようにも見えるが、雌だろうか。交尾の後、やはり雄を食べたのだろうか。じっと見ていると、わたしもまた、いつ消えてしまっても可笑しくないような気持になってくる。
夏の終わりには、そんな危うさや、淋しさをまとった空気が流れている。

そして、日課である体重計に乗り、消えるはずもない現実を直視する。
「いつもいつも、正直に数字を表示しなくてもいいんだよ。夏の終わりの空気を感じてごらんなさい」との説得に、体重計が応じたことは今のところない。

影に見とれているようにも、淋しげなようにも、見えますね。

きみは、いったい何をしているの?

ふらふらと、飛んではとまる風来坊のアカトンボ。
「いい季節だねぇ」と、言い合いながら、大勢で飛び回っています。

コチャバネセセリチョウ。よく見ると cute なお顔。

いつも、引っ掛かってしまう、蜘蛛の巣。
「いい加減、ここに巣があること、覚えてほしいんだよね」と、蜘蛛さん。
地獄に落ちても、蜘蛛の糸は、垂らしてもらえそうにないな。

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忘れていた、うどんに大切なもの

様々なことを、記憶の袋からぼろぼろと落としている日々。ハッと気づく機会も、多くなっている。
特に料理は、正しかろうが間違っていようが、自分流になりがちだ。美味しさを追求する気持ちと、手抜きしたなかで美味しく食べたいという気持ちが交錯し「いつもの味」に、手抜き要素がばっちり組み込まれていたりする。そして手を抜いていることすら、都合よくも、忘れてしまっているのだ。

所用で東京に出た際、とても美味しいうどんを、食べた。ひと口食べて、まるで魔法でもかけられたかのように、忘れていたことを思い出した。
細いうどんが好きなわたしぴったりの細麺。しっかりコシのある、手打ちの麺だ。しかし、思い出させてくれたのは、麺ではなく、出汁だった。海の香りいっぱいの薄味の出汁の風味たるや。思いっきり感動した。そして、考えた。
「最近、出汁とってなかったよなぁ」
美味しい「和風だし」を見つけてから、出汁をとらなくなった。鰹や昆布、煮干しを使い、自分で出しをとるよりも、この出汁の素の方が美味しいとやめたのだ。息子が3歳くらいの頃には、ふたりよく煮干しの頭とワタをとったことを懐かしく思い出した。テーブルの上に広げて、遊び感覚で楽しんでたっけ。

うどんには、鰹だけではなく鯖やウルメ、メジカ、昆布などを使い「こだわりました!」と、大声で叫ぶ出汁の主張を、色濃く感じられた。うどんと言えば、細さとコシだろうと思っていたわたしに、出汁の存在を忘れるなと忠告してくれたようにも感じる。
「大きな袋の鰹節、買ってこようかな」
出汁の香りに酔いしれて、うどん屋を後にした。

かき揚げは、自分では作らないので、すごーく贅沢気分 ♪

汐留シティセンターの『つるつる』店名の簡潔さが simple な味の象徴。

食べ終わって外に出ると、ポスターが。入る時には、入口のメニューばかり
見ていて、その周囲には気づきませんでした。見過ごしているものの多さよ。

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イチイの実に見た先入観

今年も、庭のイチイの木が、赤い実をつけている。
クリスマスツリーのような鮮やかな緑と赤のコントラストに、目を魅かれる。何度も見ては微笑んでしまうような、可愛らしさだ。
イチイは2年前に植えた木で、大きくなっていく様も、また可愛く思え、しばらく見とれていたりする。大雪で枝が折れた時にはひどく胸が痛んだが、その部分も判らぬほどに、今は葉が生い茂り、植物の強さに、感心するばかりだ。

その濃いピンクとも赤とも言える実を、初めて見た時には、木がつけた実だとは思えず、じっと見つめてしまった。
それというのも、木の実のようには、見えなかったからだ。まるでクリスマスツリーに飾るプラスチックか、ゴムか何かで作ったモノのように見えた。いや、今だって、そんな風に見えてしまうのだ。
自然が創ったモノと、人間が作ったモノ。その違いを考えると、混乱する。人も自然の一部なのだから、その二つは対義語ではないという考え方もあるが、対極にあるものとして考えられることが多い。

先日夫が、稲を実らせた広がる田んぼを見つめ、ぽつりと言った。
「サッカー場みたいだな」「えっ? 田んぼのこと?」わたしは耳を疑った。
田んぼとサッカー場も、対極にあるもののように思えたからだ。
サッカー好きの夫の目には、田んぼもサッカー場に見えるのだと思うと、イチイの実を見て人工物のようだと感じる訳が、腑に落ちた。わたしのなかにある自然のモノと人工物に対する先入観が、そう思わせたのだと。案外単純にもクリスマスツリーの記憶が、わたしのなかにそれを創っていたのかも知れない。

そんなことを考えながら、信号待ちで、床屋の赤青白のくるくる回るサインポールを見るともなく見ていた。そしてふと考えた。ここは床屋だと先入観から思い込んでいる訳だが、じつはドアを開けてみたら、全く違う店なのかも知れない。バーかも知れないし、拳銃麻薬密売店だったりするのかも知れない。
イチイの可愛らしい実に、人の持つ先入観の不思議と、その先入観の危うさ、怖さが、見えた気がした。

イチイの木の実。何処か人工的に見えるのは、わたしだけでしょうか?

イチイだけじゃなく、この季節、庭はカラフルです。
ピンクのガウラは、夏の初めから花を咲かせていましたが、
今が一番、綺麗。ありったけの花を咲かせている感じです。

清楚なニラの花。田んぼの畦道でもよく見かけます。

ヤブランも、蕾が膨らんできました。もう、咲くね ♪

レンガの間からタンポポ。可愛い~って言ってられないんだけど(笑)

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桃クリームチーズと「アンケズッケロ」

桃の季節ももう、終わりだ。いただきものの桃も、すべて食べつくした。
そんな時、見つけたレシピが『桃クリームチーズ』
『桃モツァレラ』が流行ったことすら知らなかったが、レシピを見ただけでも、簡単で美味しいと評判になるのも、うなずけた。
地元、山梨産の桃が手に入る今なら、気軽に楽しめそうだと、さっそく桃を買って来た。桃を購入するのは、我が家ではとても珍しい。桃の季節になると、どこからか、どんぶらことやって来るからだ。毎年、いただきものを味わって、おしまい。だが『桃クリームチーズ』を試したくて、何年かぶりに、桃を買った。

白ワインに合うとの、レシピの記述を読み「アンケズッケロ」というフレーズを、懐かしく思い出した。7年前、夫とふたり、イタリアを旅した帰りの飛行機でのことだ。
夫がシチリア産の白ワインを選ぶと、スチュワードさんが嬉しそうに、自分はシチリア出身なのだと言った。そして、わたしの片言とすら言えない、にわかイタリア語をたいそう面白がってくれて、わたしたちふたりに、フレンドリーに接してくれた。その時教えてくれたのが、シチリアの桃の食べ方。白ワインに桃を浸けて、砂糖をかけ食べる。
「アンケズッケロ」と、彼はアドバイスするように、言った。
「アンケズッケロって、なに?」と、夫。
「えーっと、アンケは、~も、で、ズッケロは砂糖だから、砂糖つけて食べるってことかな」
そんな風に、シチリア風桃のワイン浸けを味わったのだった。
イタリアの桃は、山梨の桃とは全く違っていた。硬く酸っぱく甘くない。違うフルーツだとも言える。白ワインに沈んだ桃は、不思議な味がした。

桃と白ワインの記憶は、旅のエピローグ。「アンケズッケロ」は、しばらくふたりの間で、意味もなく流行った。他愛もないエピソードだが、スチュワードさんの人懐っこい笑顔と共に、忘れられないフレーズとなり、レモンの酸味も爽やかな『桃クリームチーズ』のなかにも、見え隠れすることとなったのだ。

「白ワインが合うねぇ」と、夫。レシピもとのページ
『セニョーラ・あ~の気ままな食卓』に「そうかいてあったよ」(笑)

色合いはジミーですが、とろける美味しさって、こういうこと!
刻んで、エクストラバージンオリーブオイルとバルサミコ酢、
レモン汁、塩、胡椒を混ぜるだけ。簡単美味しい ♪

イタリアからの帰り、空の上で食べた桃のワイン浸けです。

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『きりこについて』

「きりこは、ぶすである」から始まる、西加奈子の小説『きりこについて』(角川文庫)を読んだ。
きりこの顔の描写は、こんな具合だ。ぶわぶわと頼りない輪郭、がちゃがちゃと太い眉、点のような目、アフリカ大陸をひっくり返したような鼻、難解な歯並び。そして首は、見当たらない。

客観的に見るとぶすであるきりこだが、両親に愛され「可愛い」と言われ続けて育つ。自然と、自分がぶすであることに気づかず育つこととなる。小学5年で、初恋のこうたくんに「ぶす」と言い放たれるまでは。
鏡を見なくなり、学校に行くのをやめ、眠ってばかりいる十代のきりこと一緒にいたのは、賢い黒猫、その名もラムセス2世だ。きりこは、容姿がどうであれ、自分は自分以外の何ものでもないことを知っていた。そしてまたラムセス2世も、きりこがそれを知っているからこそ、彼女に寄り添っているのだった。以下本文から。

猫たちはすべてを受け入れ、拒否し、望み、手に入れ、手放し、感じていた。猫たちは、ただそこにいた。ただ、そこにいる、という、それだけのことの難しさを、きりこはよく分かっていた。人間たちが知っているのは、おのおのの心にある「鏡」だ。その鏡は、しばしば「他人の目」や「批判」や「評価」や「自己満足」という言葉に置き換えられた。それらは、猫たちにとって排泄物よりもないがしろにされるものであった。

読み終えて、「自分らしく」という言葉さえもが、中途半端に感じるほど、きりこの物語にのめり込んでいる自分に気づいた。自分そのままに生きることの難しさ、自分そのままに生きることの大切さを描いた小説。
きりことラムセス2世に、すぐにでも、会いに行きたくなった。
ラストに、どんでん返しとは言えなくとも、衝撃的なオチがある。すべてが腑に落ちる瞬間、心温かく笑う自分を感じた。

「うちは、入れ物も、中身も込みで、うち、なんやな」
「今まで、うちが経験してきたうちの人生のすべてで、うち、なんやな」
それでこそ、わが、きりこだ!! ラムセス2世は思うのだった。

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過ぎゆく茄子を惜しみつつ

「そろそろ、皮が硬くなってきちゃったんだけど、もらってくれる?」
家庭菜園に精を出すご近所さんから、声がかかった。茄子である。もちろん、喜んでいただいた。茄子なら、いくら食べても飽きない自信がある。

さっそく焼き茄子を、大量に作った。冷蔵庫に入れておけば、毎食楽しめる。一人ランチは、焼き茄子を胡麻油で炒めオイスターソースで味つけした茄子丼。ゴーヤをアクセントに加え、朝の具だくさん味噌汁と合せれば栄養満点。
このオイスターソースの味がまた、美味い。毎食食べたい味ではないが、たまに食べると、美味しくてびっくりする。魔法の調味料だ。過ぎゆく茄子、いや、夏を惜しみつつ、思いっきり食べよう。

ところで、もう何よりも、茄子が好きで好きでたまらない。そんなわたしのような人も多いと思うが、子どもが嫌う野菜の上位にも入っている。
何を隠そう、末娘も茄子が嫌いなひとりである。食は細いが、大抵の野菜は食べるのに、茄子だけはいまだ食べようとしない。もったいない限りだが、茄子を食べない人生を、否定しようとも思わない。彼女も日頃の野菜不足を自分なりに考えてはいて、帰省中、野菜中心の食事に、とても喜んでいた。その娘から、ちょっと許せない話を聞いた。
最近、茄子嫌いの友達と茄子の悪口で盛り上がるのだそうだ。そりゃ、誰かの悪口で盛り上がるより、茄子の悪口の方がいいとは思うけれど、それじゃあ、あまりにも茄子が可哀そうじゃないか。
まあ、大学生が集まって「茄子ってさぁ、食べる意味あんの?」「ないね。全くない」とか真剣に語り合う姿を想像すると、可愛くもあるんだけど。
「もっともっと精進して、アクが強い茄子になってやる」
冷蔵庫のなかから、つぶやく声が聞こえた気がした。

傷はあっても、味はよし。形も大きさもバラバラでしたが、
大きさを揃えて焼くと、当然ですが、火が通る時間も一緒です。

匂いと、この焼き色に、たまらなく食欲をそそられます。

見た目、肉のようにも見えますが、ゴーヤと茄子のみです。

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青にならない信号待ちをして

人は変われないとは思わないが、なかなか変われない部分を持つ、ということは知っている。わたしの場合、何度も失敗しているのに、度々陥る落とし穴は「答え待ち」だ。
何かを、質問する。その答えを、待つ。だがその答えは、永遠に返ってこないものだと気づく。時すでに遅し。そういった失敗を、繰り返してしまうのだ。

仕事では期限があり、答えが帰らない場合、何度も確認する。電話もする。
だが、プライベートであれば、期限が漠然としたものも多く、忙しいのだろうと勝手に判断することが増える。メールの弊害というものもあるだろう。
そしてそのまま、答えを待つ。信号待ちに例えれば、赤と黄を繰り返すのみの状態。陽がくれた頃に、その信号は、もともと青を持たない種類であることが判る。そこに至るまで気づかず、愚直にも青になるのを待ってしまう。やがて、自分が何処へ行こうとしていたのやらすっかり判らなくなっていることに気づくという有り様。
それもこれも自分のなかに、質問されれば答えることが自然なのだとの考えが根をはっているからだ。何度も同じ穴に落ち、繰り返される失敗。そこには、自分に根づいてしまったものがあり、その根を引き抜けずにいることに、原因がある。大人になってから知った「答えたくないこと、面倒なことには答えない」というやり方に、いまだ馴染むことができずいるのだ。不器用で、生真面目。質問には、答えを求める。全く、つき合いにくい人間である。

だが最近、自分自身、忘れることが多くなり「答え待ち」でのギャップに悩むことが少なくなった。返事がないのは「うっかり」なのだと、自分を見て思うこの頃。「忘れっぽいのも、いいかも知れない」と、如何にも気楽だ。はっていた根っこが、思わぬところでスポッと抜けた嬉しさがある。
まあ、果たして本当に「いいかも知れない」かは、誰にも問わずにいることにしよう。それが、答えを待たずに済む最善の方法なのだ。

何年か前に設置された、町内4つ目最新の信号「永井」
いまだに此処で信号待ちすると、やれやれと思うのは、
信号がなかった頃を、知っているからですね。人間の心理たるや。

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『鹿踊りのはじまり』

「そのとき西のぎらぎらのちぢれた雲のあいだから、夕陽は赤くななめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のようにゆれて光りました」
宮沢賢治『鹿踊りのはじまり』冒頭の文章だ。『注文の多い料理店』(新潮社)に収められている。

今、近所で見かけるすすきが、そんな具合に、白く光っている。すすきの花。何故、咲くとは言わないのだろう。そう、今花盛りなのだ。
そして『鹿踊りのはじまり』の語り手は、続ける。
「わたくしが疲れてそこに眠りますと、ざあざあ吹いていた風が、だんだん人の言葉に聞こえ、やがてそれは、今北上の山の方や、野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神を語りました」
鹿にと団子を置いたはいいが、手ぬぐいを忘れ戻った嘉十は、すでにやって来ていた鹿達の会話を覗くでもなく聞いてしまう。団子は食べたいが、手ぬぐいが何者か判らず、相談しているのだった。語り手は秋の風からその話を聞く。

すすきの在るところ、いつ不可思議な世界に足を踏み入れても可笑しくない。そんな風が吹いている。わたしも、すすき野原にたたずみ、耳を澄ませてみよう。いったい誰の話が聞けるだろうか。

伸びゆく最中のススキは、ぴんとして元気いっぱいに見えます。
すすきの「すす」は、まっすぐすくすくと「き」は芽が萌え出る萌(き)
からつけられた名だとの説もあるとか。すくすく、すすき ♪

我が町、明野町は、茅が岳のふもとにあります。
「茅」は、かやぶき屋根の材料で「すすき、ちがや、すげ」などのこと。
すすきが広がる地にそびえる山だから『茅が岳』と呼ばれているそうです。
緑の茅が岳には、青い空と白い雲が似合いますね~。

秋の風に揺れるすすき。向こうに誰か、見えますか?

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鏡のなかに

洗面所でコンタクトをつけた途端、不意に娘が見えた。ヨーロッパを旅している上の娘である。
もちろん、それは娘ではなかった。鏡に映った自分の姿だ。
キッチンに立っていると、夫にはよく間違えられたものだが、自分で似ていると思ったことはない。前髪が伸び、美容室に行かずただ伸ばすだけの娘の髪形に近くなっていたのが原因だろう。やはり輪郭が似ているのかも知れない。
前日に、メールのやり取りを何度かしたし、送ってくれと頼まれた郵便物を、チェコのステイ先に送ったばかりでもあった。

今の世は何処にいてもすぐに連絡が取れ、娘が遠い国いることが、実感として湧いていなかった。それが何故か、自分のなかに彼女を見たことで、突然、遠くにいるのだと感じるようになってしまった。不思議なものである。
中国からフランスに渡り、オランダ、ベルギー、ドイツ、ポーランド、そして今チェコにいるらしい。楽しむことにかけては、誰よりも長けている娘だ。何も心配はない。それでも、なんとなく気になって facebook を開くと、誰かの家で如何にも楽しそうに笑っている写真がアップされていた。

洗面所の鏡に映った、フクロウの時計です。新しいものが苦手な末娘は、
帰省中「なに、あいつ」と洗面所にいくたびにケンカしていました(笑)
上の娘のヨーロッパでの様子は、こちら『23歳、旅人いぶき』

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『ふたりの名前』(『1ポンドの悲しみ』より)

石田衣良の短編『ふたりの名前』を再読した。
伊坂目当てで買った短編アンソロジー『短編工場』(集英社文庫)に、収録されていたのだ。『1ポンドの悲しみ』(集英社)は、10年前に読んでいる。やはり、跡形もなく記憶からは抹消されていたので、これが再読と言えるかどうかは、悩むところだ。

『1ポンドの悲しみ』は、30代の女性視点で描かれた恋愛短編集。
『ふたりの名前』は、共に暮らし始めて1年弱のふたりを描いている。
朝世と俊樹の暮らしには、決め事があった。それぞれの持ち物に、自分のイニシャルをかき込んでおくことだ。卵一つ一つにもAとTの文字がかかれ、薄型テレビの裏側には巨大なTの文字が、ワイングラスの底には小さくAの文字がかかれている。そんなふたりが子猫を飼うことになった。以下、本文から。

「おでこのまんなかにAって書かないのか」
朝世はそんなことは考えもしなかった。憤然としていった。
「書くわけないじゃない。この子は家族の一員で、俊樹のテレビなんかとはくらべものにならないんだから」
しばらくのあいだ車内は静かになった。恵比寿に近づいてから、俊樹がようやく口を開いた。
「この一年でイニシャルを書かなくていいものがうちにきたのは、初めてだ。そういうのがだんだん増えていくと、ぼくたちの暮らしも変わっていくのかもしれないな」
いつになくまじめな口調にはっとして、朝世は運転中の横顔に目をやった。俊樹は口元を結んで、正面を見つめている。朝世は片手で子猫をなでながら、シフトレバーにのせられた俊樹の手にもう一方を重ねた。

そして、猫に名前をつけるまでの間に起こった出来事により、ふたりは気づいていく。名前とは、誰の所有物かを表すだけのものじゃなく、大切な誰かを思う時に、心のなかでそっと唱える呪文のようなものなのだと。

10年前にも、図書館で借りました。本屋で平積みされている新刊が、
カウンター向かい側に、無造作に置かれていたのが印象的で覚えています。
田舎の図書館を利用する上での、大きな利点です。
借りに行った図書館の前で、シオカラトンボを見かけました。
写真には撮れなかったけど、小さい秋、見つけた ♪
これも、田舎の図書館の利点?(笑)

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たくさんのなかの、一つ

今年も玄関の石垣に、キンミズヒキが咲いた。
金水引とかく、黄色い野の花だ。ひっつきむし種(?)なので、誰かについて、我が家の玄関先までやって来たのだろう。もう何年も前から、この季節、定位置で花を咲かせている。
昨日はそぼ降る雨に濡れ、黄色く小さな花がしずくを滴らせる様が、いつにも増して愛らしかった。花言葉は「感謝の気持ち」だそうだ。「運んで下さって、感謝しています」ということか。いや、人が後づけで作った花言葉などに左右されるはずもない。野の花達は、たくましく咲き続けるのみだ。

写真を撮って、初めて気づいたことがある。
1本にたくさんの花をつけていることは、もちろん知っていたが、その一つの花に、雄しべが何本も伸びていることだ。愛らしいとだけ思っていたキンミズヒキの強さを、垣間見た気がした。
まとまって咲く小さな花は、その一つが「一輪」と呼ばれることは、ほとんどない。キンミズヒキもそんな花の一つだ。
漠然と視覚で捉えたままに、そのまとまりを一つだと思いがちな自分を、雨に濡れ、美しく揺れるキンミズヒキの一輪のなかに見た気がした。

小さな花ですが、一つ一つをよく見ると、たくさんの雄しべが。
今年も咲いてくれて、ありがとう。

それが1本にいくつも咲くので、つい一つ一つを見落としがち。

この蕾が、長く伸びて、いくつもの花を咲かせていきます。

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5本の鍵

夢のなかで、わたしは、鍵を持っていた。
5本の鍵は、束ねられていたが、そっくりだ。だが、わたしには一目で判る。
誰かに狙われている鍵。いつ失くしても構わない鍵。自分の部屋の鍵。誰かの部屋の鍵。そして、エレベーターの鍵。

誰かに狙われている鍵は、もちろん誰かに狙われている訳で、夢のなかでも、わたしは鍵を守ることに最善を尽くした。鍵を狙うのは常に厳つい顔した大人なのだが、その周囲には子ども達が戯れている。守っているのは子どもなのだと、漠然と思うのだが、子どもはいつか大人になる訳で、考えれば、わたしの子どもも、みな大人になっている訳で、そのギャップが縮められずにいた。
そして、わたしは、束ねたリングから鍵を外して隠すことを、思いつく。しかし、鍵はリングから外した途端、するりと、いつ失くしても構わない鍵となる。そして狙われている鍵は、しっかりとリングのなかに収まっているのだ。

目覚めてからも、しばらく鍵のことを考えていた。
手放したくないもの。すでに失くしたもの。今この現実。知ることのない現実。未知なる場所へ続く道。5本の鍵は、そんなものを象徴していたのではないか。わたしはいったい、何に固執し、何を手放すまいとしていたのだろう。

何処のか判らなくなった鍵と、キーホルダー達です。
青いキーホルダーは、15年前に乗っていた青い車のキーをつけていたもの。
黒い車に買い替えた今、ついているのは、いったい何の鍵?

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『太陽のシール』(『週末のフール』より)

伊坂幸太郎の短編『太陽のシール』を、再読した。
『短編工場』(集英社文庫)という12人の作家から成るアンソロジーに収められていたのだ。その文庫紹介文は「読んだその日から、ずっと忘れられないあの一編」から始まる。それなのに、わたしは、すっかり忘れていたのだが。
「あ、読んだことない伊坂の短編! 嬉しい」と購入。
「『終末のフール』(集英社)の番外編なんだー」と、読み進めた。
途中、伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間に、自慢した。
「買っちゃったー!」すると彼女は「覚えてないの?」と冷たく言う。「えっ? これ、番外じゃないの? もしかして」「もしかしなくても、番外じゃなく『終末のフール』に入ってるよ」「えーっ! 半分読んだのに、全く思い出せない。1回しか読んでないからかな?」彼女は呆れつつも「わたしも5回は読んでないよ。いい話だから、最後まで読みなさい」とたしなめた。

『終末のフール』は、8年後に小惑星が地球にぶつかり崩壊することが判った人々の5年後の姿を描いた連作短編集だ。つまり、あと3年で何もかも終わり。尽くす手もないと思われる終末の世で、生きるということを描いている。
多くの人が働くことを辞め、強盗、殺人などの犯罪が横行し、取り締まるべき側の覇気もなく、街は荒れ、心を病み自殺する人が増えていく。
『太陽のシール』では、そんななか、不妊治療をやめた夫婦に子どもができる。あと3年でみんな死ぬのに、子どもを産んでいいのだろうかと、ふたりは悩むのだった。以下本文から。

「僕たちがここで子供を諦めたら、それは小惑星の衝突を受け入れたことになるんじゃないかな。どこかで誰かがそれを見ていてさ、それならば、衝突させてやろうって判断するのかもしれない」「どこかの誰か、って誰?」「知らないよ。ずっと遠くで、こっちを眺めている何かだよ」「神様とか?」「三丁目の山田さん、とかそういうんじゃないのだけは確かだ。とにかく、僕はそう思うんだ。で、逆に僕たちが、出産を選択すればさ」「小惑星がぶつからない?」「例えばね」

『終末のフール』は、偶然にも8年前に出版され、すぐに読んだ本。つまりは8年前に読んだ本。8年前の記憶ということだ。
「いやー、8年後のことなんか、誰にも判らないよ。ははは」
わたしなら、地球にぶつかる小惑星も記憶という海の外へ放り出し、消し去ることが出来るかも知れない。などと考えつつ『終末のフール』を再び開いた。

伊坂幸太郎は、言葉遊び全開でタイトルをつけるのが好き。短編連作は、
『終末のフール』『太陽のシール』『籠城のビール』『冬眠のガール』
『鋼鉄のウール』『天体のヨール』『演劇のオール』『深海のポール』
そして、本の初めに掲げられていた言葉がまた、素敵なんです。
「今日という日は残された日々の最初の一日」by Charles Dederich

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見る人の心持ち次第で

朝起きると、首に痛みを感じた。
右側の腕全体に、神経痛のような鈍い痛みも伴っており、
「もしや、 frozen shoulder(五十肩)再発か」と手を上げてみる。
と、するりと上がった。楽観はできないが、違うようである。
洗濯機を回すだけ回し、首にフェイタスを貼り、ベッドに横になった。右手のハンドマッサージをしているうちに、左手も硬くなっていることに気づき、両手をよく揉み解した。ひとつ気づくと、身体じゅうの痛みが気になり、左足のふくらはぎがずいぶんと張っていることにも、気づいた。
「冷えだな」結論を、出す。
洗濯機のなかでは、すぐにでも干してもらおうと、サッカー壮年である夫の練習着が待ちくたびれているのを知りつつも、2時間ほど起き上がれなかった。

ようやく洗濯物を干そうと、ウッドデッキに出ると、庭で百合が、綺麗に咲いている。前日の夕暮れ、咲き始めたねと、夫と話していた。飛んできた種が勝手に芽を出し、何年か前から咲くようになったものだ。こうして、庭で野の花が咲くのは嬉しい。
だが、わたしの心持ちは、前日とは違っていた。
「なんだか、頭、重たそうだねぇ」
見る人の心持ちしだいで、すべてのものが違って見えるのだと、ひとつ気づいて、多くに気づいたのだった。
(夕方には、だいぶ楽になりました。どうぞ、ご心配なく)

この子は、小さめの蕾でしたが、大きく花開きました。

コアオハナムグリくん、うまく蜜のある場所に、たどりつけるかな?
まだまだ、蕾がいっぱい。楽しみです ♪

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あっさり塩唐揚げ

久しぶりに、唐揚げを揚げた。
揚げ物自体が久しぶりで、天麩羅鍋に、新しい油を入れる。
「塩唐揚げに、してね」と、末娘。
塩胡椒して、片栗粉をまぶして揚げるだけの、シンプルな味つけの唐揚げ。色も白っぽく、あっさりした印象だ。

揚げながら、この味つけは義母の味だったと思い出した。
料理に興味を持ち始めた高校の頃、土井勝の料理本が師匠だった。唐揚げといえば醤油味。日本料理が専門の料理家だけに、和の色が濃い。その後、友人と飲みに行ったりするようになり、呑み屋で食べたのはキムチ味。辛いもの好きのわたしは、すぐにハマった。
そして、結婚して覚えたのが、この塩唐揚げだった。実家の母は、セーターなどを編んでくれたりはしたが、料理に対するこだわりが薄く、自分の味というものを持たない人だったので、新鮮に感じたことを覚えている。
「唐揚げは、塩味に、してね」
夫もよく言ったものだった。彼は、これにケチャップをたっぷりかけて食べるのが、多分、今でも好きだ。

だが、食卓でのリクエストに「唐揚げ」の名が出ることは、いつの間にかなくなった。魚や煮物、歳を重ねると共に、自然とあっさりしたものを好むようになったのだ。教えてくれた義母も、もう唐揚げは揚げないという。
しかし、その味は、子ども達に受け継がれている。思えば、義母は、どうやってこの味を知ったのだろうか。

自分で揚げておいて言うのも難だが、久しぶりに食べた揚げたての塩唐揚げは、とても美味しかった。やはり唐揚げは、揚げ立てが命だ。娘のおかげで、美味しいものが食べられて、感謝である。
すると夫が、遠慮がちに言った。
「唐揚げもだけど、茶碗蒸しなんか、ずっと作ってくれなかったよなぁ」
どうやら気づかずに1週間、久しく作っていなかった、娘が喜ぶものばかりを食卓に出していたらしい。

マヨネーズのベタなポテトサラダを作ったのも、久しぶりでした。

胡椒は粗挽きブラックペッパー。塩は天日塩を使っています。

ハンバーグも焼きました。ミニサイズをたくさん焼いて好きなだけ食べるのが
我が家風です。娘は10個中4個食べました。ソースは作らず、ケチャップや
お好みソース、大根おろしに醤油など、好きなように味つけて食べます。

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汗をかきかき熱いうどんをすする

リビングで仕事をしていたら、突然、身体が冷え切っていることに気づいた。
温度計を見ると、24℃。半袖でも、全く問題はないが、足が冷たくなっている。お昼は温かいものを食べようと、久しぶりにうどんを茹でた。
「庭の茗荷を入れたいし、生姜たっぷりうどんにして、温まろう」

冷蔵庫のなかをごそごそ探すと、半分使ったオクラと、しめじ、葱の切れ端が出てきた。卵もある。うどんは、6分茹でるだけの夏用の細麺が好きで、1年中常備している。蛋白質は卵のみだが、野菜たっぷり贅沢うどんの出来上がり。ひとりゆっくり食べて、汗をかきつつ、温まった。

まだ8月だというのに、昼間から、こんな風に感じること、あったっけ? と、考える。身体が冷えに対して敏感になっているのかな、と。
肩こり、腰痛、肌の荒れ。年齢を重ねていることは、否が応でも感じる毎日だが、冷房以外で、夏に身体が冷えやすくなったと感じるようになったのは、何年か前から。寒がりではあるが、冷え性という訳でもない。
変化しているのは、地球の方かも知れないが。

しかし、考え込むほどのことではない。温かいものが食べたくなったら食べればいい。そして身体のなかから、しっかり温まればいい。周囲や身体の変化に、あらがうほど、もう若くもないのだ。
身体のなかから、しっかり温まれば、夏の疲れも早くとれそうだ。8月に、汗をかきかき熱いうどんをすするのも、またよし、である。

オクラは、さっと火を通したくらいが好きです。卵はレアで。
茗荷は咲いていた花も一緒に飾って、いただきました。

夕飯は末娘のリクエストに応え、茶碗蒸しに。熱々美味しい ♪
夜は、いつにも増して、ゆったりお風呂につかりました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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