はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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パリの夢追い人達

初日は曇り。モンマルトルの丘を歩いた。
映画『アメリ』の舞台となった場所だ。スタート地点のサクレ・クール寺院はミサの最中で、宗教を持たないわたしだが、しんとした心持ちになる。しかし歩き始めるとすぐに、調子の外れた日本語で声をかけられた。
「マジ可愛い」
通り行く観光客を絵に描こうという路上画家(?)だ。しかし、50歳を過ぎたわたしに「マジ可愛い」とは。まあ、そんなことを言われたのも初めてで悪い気はしなかったのだが、絵の押し売りだというのは見え見えだ。呼び止めながらすでに描き始めるような仕草をしていたし、いくらわたしがぼんやりしていても判る。
「ノン・メルスィ」
夫がすかさず言ったので、深追いはしてこなかったが「恥ずかしいの?」「何故だめなの?」と後ろ髪を引かれるようなことを日本語で言う。テルトル広場までの短い道のりで、何人もに同じように声をかけられた。だが呆れつつも、彼らは画家を目指しながらこうして稼いでいるんだよなあとも考えた。

たった一日で、他にも路上でパフォーマンスをしている人を何人も見た。
ギターやハープ、見たことのない打楽器と、音楽がほとんどだ。いや、路上どころか地下鉄の駅構内や、電車のなかで楽器をかきならし声を上げて歌う人もいる。見ている人がうるさいと文句を言うことはなかった。手拍子をしたり拍手をする人、チップを渡す人もいるし、その他の人達も、苦笑いしつつ温かく見守っている感じがした。
夢を追いがんばっている人を応援したい気持ちはあるが、心が動かされなければ絵を描いてもらったりメロディに聴き入り立ち止まることはしない。電車の中でも、ただ苦笑いしつつ温かく見守っている人達の仲間入りをした。

モンマルトルの丘というだけあって、坂道だらけ。石畳が素敵でした。

映画『アメリ』のなかで、アメリが働いていたカフェも坂の途中に。

アートギャラリー。気軽に入れる雰囲気でした。

小説の主人公を彫刻にした『壁抜けの男』
透明術を使って壁抜けしている途中、術が解けてしまうシーン。
アートが中心のモンマルトル。多くのアーティストが集う街です。

午後、凱旋門まで地下鉄に乗り、シャンゼリゼ通りを歩きセーヌ川へ。
セーヌ川のほとりでは何をするでもなく船着き場の階段に座る人が多く
若者達が座り込んで演奏していました。太鼓の音がリズミカルでした。

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サン・マルタン運河の風

夏休みをとって、パリに来た。
夫と相談し、今年はパリに、という話になったのだ。スペインに心酔しているわたし達だが、行ったことのない場所で、行ってみたい場所は果てしなくある。夫は機会あって何度か訪れているパリだが、わたしのなかでは行ってみたい場所のなかでもかなり上位。そのなかでも、何と言っても食を楽しめそう。そんな理由でセレクトした。
スペインやイタリアに比べると、物価が高いのかホテルも高価だ。なので、安価でアパルトメントを借り、そこを拠点にのんびりパリを歩きまわることにした。やたらと移動しなくとも歩きまわって楽しそうな場所なら果てしなくありそうなのも、パリである。

「初日は、何処に行く?」と、わたし。
「とりあえず、散歩だな」と、夫。
朝食がてら散歩に出たのは、アパルトメント近くのサン・マルタン運河。運河をなでていく風もことのほか冷たく、日本の夏から解放されたことを知る。
気持ちのいい風を吸い込み、橋を渡ろうと運河をのんびり眺め歩いているときのこと。橋の手前でいきなり踏切りが降りてきた。
「船が通るから、橋が上がるんだ」夫も驚いて見ている。
そこは運河の高低差を調節するために川を閉鎖して水位を上げていき、階段をのぼるようにして船が進んでいく場所だった。日本でも見かけるような上に開閉する形ではなく、橋は横にスライドしていく。何でもないことだが、その縦横の違いに、異国にいるのだということを実感した。

帰りにスーパーで粉に挽いた珈琲を買った。ホテルと違いアパルトメントは、清掃などしてくれる訳ではないが、珈琲メーカーもガスコンロも食器もある。洗濯機もある。自宅で暮らすような気ままさで、異国の風を感じることができるかも。そんなパリでの二人旅、はじまりはじまり。

橋が横にスライドしている様子です。踏切待ちも時間がかかります。

ようやく開いて、ゆっくりと船が進んでいきます。

橋の反対側。両方を閉鎖し、水位をあげているところです。

同じ水位になったところで、スタート。そしてもう一度同じことを
繰り返します。気が遠くなるような作業ですね。

その2キロほど先は、貯水池になっています。



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『サクリファイス』

近藤史恵『サクリファイス』(新潮文庫)を、読んだ。プロの自転車競技、ロードレースの物語。と言っても、スポ根とは色合いが違う。サスペンスとして楽しめる、ミステリー上手な近藤史恵ならではの小説だ。

「青春小説とサスペンスが奇跡的な融合を遂げた」とうたわれるこの小説は、近藤史恵の代表作と言える。近藤史恵の小説は、すでに十冊以上読んでいる。どの本を読んでも楽しめること受け合いと熱く信頼している作家の一人である。その代表作をここまで避けてきたのは、やはりスポ根モノへの偏見としか言えないだろう。個人的にただ「根性」という言葉が苦手なだけなのだが。でもねこれ、スポ根じゃない。だってわたしが大好きになった小説なんだから。

主人公、白石誓(しらいしちかう)通称チカは、チーム・オッジに所属している23歳の新人ロードレーサー。サイクルロードレースは、個人競技のように見えてじつは、団体競技の要素が強い。表彰台に上るには一人だが、チーム全体でそれを支えていく競技なのだ。チカはロードレースのそんなところに魅かれ、陸上から転身した。勝利のためにエースに尽くす。アシストとして走ることが本当に好きだったのだ。だが、チームメイトがみな同じ考えだとは限らない。いや、自分がトップに立ちたいと思う方が自然なのかも知れない。
ある日、チームのエース石尾が昔、期待された新人を故意の事故で再起不能にしたという話を聞かされる。石尾の勝利を願い走るチカだが心は揺れていく。
そんななか、ベルギー遠征で大きな事故が起こった。
「非情にアシストを使い捨て、彼らの思いや勝利への夢を喰らいながら、俺たちは走っているんだ」石尾のその言葉に込められた決意とは。

共感する。思えばアシスト人生だ。
夫の会社を手伝って二十年と少し経つ。仕事は経理だけではない。彼のアシスト全般が、わたしの仕事だと、そう思ってやって来た。主役になるより、その方が性に合っていると知っている。だから、チカの気持ちがよく判る。
そしてチカは、エースをアシストすることに懸命になりながらも、もちろん自分のために走っている。共感するからこそ実感することだ。

『サクリファイス』とは、犠牲の意味。大藪春彦賞受賞作品。
『エデン』は続編。チカがツール・ド・フランスに挑みます。
『サヴァイヴ』は、シリーズ秘話6編を収録した短編集です。
*今、ツール・ド・フランスのゴール地点、パリを旅行中です。
 明日から、パリ徒然、発信していきます*

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胡麻たっぷりレシピ

農家さんに茄子をいただいて、何を作ろうかなと考えた。
焼き茄子も揚げ茄子の煮びたしも、オリーブオイル焼きもラタトゥイユも食べた。何か違う料理をしたいと、ネットで検索した。そして、特別新しい感じはしなかったのだが、胡麻たっぷりレシピに目を留めた。
「そういえば最近、胡麻、食べてないな」
胡麻油は、毎日のように使っているが、買い置きしてある煎り胡麻の袋を開けたのはいつだったか。食べるときにはけっこう食べるのに、使うのを忘れてしまうと時はすぐに経つ。
「久しぶりに、胡麻たっぷりもいいかも」

じつを言うと、末娘が胡麻が嫌いなのである。何が嫌いかと問われれば、まず胡麻と答えるくらいの嫌いようだ。そこまで嫌わなくてもいいのにと思うが、食の好き嫌いは他人には判らないというし、苦手なものもなく何でも美味しく食べられるわたしなら、余計に判るまい。だから、そうかとただ受け入れてきた。我が家の食卓に胡麻登場頻度が低いのは、たぶんそのせいもあるだろう。
料理するのはわたしだが、家族の好みは食卓に影響する。今はもう別々に暮らす家族の好みさえもが、今なお影響し続けている。不思議なことである。

そんなことを思い出すつつ、炒めた胡麻たっぷりレシピの茄子炒めは、思いのほか美味しかった。胡麻の香りがこうばしい。久しぶりの食感も新鮮に感じた。これはこの先、我が家の定番になるやも知れない。

茄子と胡瓜、この夏もたくさんいただきました。感謝です。

もちろん、胡麻油で炒めました。新鮮だと火も通りやすい気がします。

熱々をいただきました。胡麻はプチプチ、茄子やわらかく。

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雨の日はよく眠れるpart2

雨の日はよく眠れるとかいたが、最近雨が降らずともよく眠れる。
夏の終わりの涼しさが、突然やって来たからか?
否。まあそれもあるかも知れないが、涼しくなってからもぱっちりと眼が冴えて眠れないことも多かった今日この頃。
「眠り方、忘れたー」と、ベッドでじたばたする日々だった。
突然眠れるようになったのは、久しぶりに指圧をしてもらってからだ。肩が凝っていたのは判っていたが、びりびりと痛みを感じるまで放っておいた。慢性的なものであるから、身体も慣れるだろうと他人事のように傍観し続け、悪化してしまったようだ。肩が痛くて眠れないという自覚は全くなかったのだが、指圧を受けたその日からぐっすり眠れるようになったのだ。
自分の身体は自分がいちばんよく知っている、などというのは過信である。
自覚のない症状だらけで、感じるのは「疲れたなあ」というだけ、ということも多々あるのだ。

それ以後、慢性的だからと言い訳し、肩凝りを放置するのをやめた。湯船でゆっくりマッサージしたり、頻繁に肩を回したりしている。
だけどそのうち、また忘れちゃうんだろうな。と、マッサージや体操どころか肩が凝っていることさえ忘れてしまう自分を、俯瞰もしている。いや、それどころか、今日眠れなかったということすら昼には忘れてしまう自分を。

雨に濡れながらも、ゆっくりと花開いていくムクゲです。

オキナワスズメウリは、雨がうれしそう。のびのび伸びていきます。

イチイの垣根には、今年も赤に近いピンク色の実が生っています。

けろじは、薪小屋で雨宿りしていました。何を見つめているの?

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ゴーヤチャンプルー・スタンダード

立派なゴーヤをいただいて、この夏何度目かのゴーヤチャンプルーにした。
新鮮なゴーヤの苦みが、口のなかに広がる。大好きな料理の一つだ。
我が家のスタンダードなゴーヤチャンプルーは、ゴーヤ、豚バラ肉、もやし、キクラゲ、豆腐、卵を炒め合わせ、オイスターソースと胡椒で味つけしたものだ。下ごしらえ時、煎り卵には少し塩も入れる。材料は、どれもないと物足りなくて、大抵きちんと揃えて料理する。しかし、新しい味をとネット検索していて気がついた。このすべてが入っているチャンプルーのレシピが見当たらなかったのだ。もやしが入っていなかったり、キクラゲがなかったり。
「我が家のチャンプルー、ちょっと贅沢な一品なのかも」

いつも食べているからと、スタンダードだと思っていた料理が、じつはそうではなかったという例も多い。特にいろいろ炒め合わせるチャンプルーなのだから、スタンダードなどないのかも知れない。
「我が家の味」も同じことで、何処かで食べて美味しいと思って作り続けていたり、子どもの頃の記憶からアレンジしたものが気に入ったり、たまたま料理本を見て作ったものにハマったりして、多くの偶然がチャンプルーされて、きっとできていくのだろう。

うれしくなるほどに、まるまる太っていました。

フライパンいっぱい作っても、夫婦ふたり、ぺろりと食べてしまいます。

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『カウント・プラン』

黒川博行の短編集『カウント・プラン』(文春文庫)を、読んだ。
裏表紙の紹介文を借りれば「現代社会が生み出しつづけるアブナイ性癖の人達。その密かな執着がいつしか妄想に変わる時、事件は起きる・・・」とある。表題作は、眼に入った物を数えずにはいられない強迫神経症の一種、計算症の男を描いている。以下本文から。

この日十三本目の煙草をくわえてライターをすったが、ガスが切れていた。カウンターの徳用マッチを引き寄せたら、箱の中にジクがぎっしり詰まっている。一本、二本、と眼で数えはじめた。赤い頭をめやすに五十五本まで数えたが、あとは中身を移し替えないと数えられない。眼の奥がじんじんして首筋が硬くなる。髪の中を毛虫が這いまわっているような焦燥感。
やめろ、これは店のマッチや。 ― 引き剥がすように視線を逸らして目をつむった。きな臭いにおいが鼻孔の奥に広がりだす。
「おあいそや。勘定して」
燗酒を残したまま、福島は逃げるように店を出た。

ストーリーは福島の生活描写と並行し、大型スーパーに脅迫状が届く事件を追っていく。商品に毒物を混入するとの脅しに対し、刑事達が未然に防ごうと動くが、テナントの一つペットショップの水槽に青酸ソーダを入れられ、公開捜査へと踏み切る。その脅迫状の切手から、福島の指紋が検出された。

登場する科捜研の心理鑑定官は、言う。
「人は誰でも、強迫と恐怖に囚われる傾向を持っている」
玄関の鍵を閉めたか、ガスの火を消したか、確認しても確認しても不安になるタイプの強迫神経症もあるという。わたしは普段、異常なほどに不安になったりはしないが、心配し始めると止まらなくなることもある。そういうときにはわたし自身も、狂気と正気の中間にいるのかも知れない。自分のなかにあるものが、いつしか狂気の粋に達してしまったら。そう思ったら寒気がした。
黒川は、決してそうした神経症なる状況にいる人を、犯罪予備軍として決めつけたりはしてはない。ただその特性により起こりうるであろう物語を、淡々と紡いでいた。

愛想のない表紙だったので、数字の小人くん達に手伝ってもらいました。
表紙の装幀は、脅迫状。郵便番号のような定規でかかれた字のものでした。
『カウント・プラン』は、日本推理作家協会賞受賞の短編です。

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秀逸なビールの描写

西加奈子の小説『窓の魚』(新潮文庫)の描写の素敵さは何度読んでもしびれるが、なかでも好きだったものの一つにビールの描写がある。以下本文から。

ビールの最初の一口! その苦味は、舌の上で、次に入ってくるものと交わるために、身構えしている。でも次から次へとビールばかり流し入れると、あきらめて、ただ舌の上に残ることだけを考え始める。時折食べ物を入れると、驚いたように喉の奥へ消え、でも新しいビールを注ぎこむと、口の中はまた、その味だけになる。コクがあって、キレがあって、なんて誰かは言うが、本当はとてもだらしがなくて、あきらめが悪い。だから私は、ビールが好きだ。平気だよ、なんて顔をしておいて、私をすぐに酔わせてくれるのもいい。

「そうなのよ」
読んで、ひとりごちた。コクがあるとか、キレがあるとか、何か違うと思ってたのよ、と。だらしがなくて、あきらめが悪い、か。なるほど。

ビールを愛するわたしとて、ビールが美味しくない夜もある。そんな時にこの文章を読むと、ビールって苦いよなあと思うのだが、いくらでも美味しく飲める夜に読むと、ビールの魅力を再確認できるように思う。
そう考えると、小説ってお酒と似ている。同じ文章を読んでも、美味しく読める時とそうでない時があるのだ。

娘の芝居を観る前に、夫とキリンシティで一杯やりました。
王子はにぎやかな呑み屋街でしたが、ここは落ち着いた雰囲気。
そして、キリンシティの生ビールは美味い!

夫を待つ間、駅前の飛鳥山公園を少し歩きました。
桜並木です。桜の頃は、きっと綺麗なんだろうな。

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『思 / 外』

人体色彩画廊I‘NNの夏公演『思 / 外』を、観に行った。
末娘が役者として参加しているのだ。アクリル絵の具を使った演出で、出演者も舞台も、様々な色に染まっていく。眼にも感覚的にも新鮮な芝居だった。

登場人物の男女7人全員が「わたし」のストーリーには、ひとりである「わたし」のなかでそれぞれの「わたし」が見え隠れする。
春。希望に満ち、新しい出会いに胸を膨らませる「わたし」
やがて巡ってくる別れの冬を思い、絶望する「わたし」
夏。夏祭りの思い出を、なつかしく回想する「わたし」
実際にそんなことがあったのだろうかと、問いかける「わたし」
秋。未来を求め旅に出る「わたし」
ただぐるぐると日常を回っているだけだと知っている「わたし」
汚れることを恐れ、自分のなかにこもる「わたし」は目をつぶり、なにも見ようとはしない。だが、否応なく外に触れ、次第に汚れていく。アクリル絵の具は、その汚れの役目を果たしつつ、あらゆる色に染まっていく「わたし」の可能性をも見せていた。

「思い」という言葉の持つ多種多様な方向性が、芝居を広げていく。
「思い描く」は、あることないこと自由に考えること、の他に「思いこみ」「思い入れ」「思い出」など、言葉遊びもリズミカルで楽しく創られていた。『思 / 外』は「オモイノホカ」と読む。
芝居を観ていて「思い出」という言葉が判らなくなりかけ、ゲシュタルト崩壊を始めたが、そうだ「思い出す」から「思い出」なのだ、「思い(記憶)を出してくる」ことが「思い出す」ことなのだと気づいた。

若者達は、いつの時代も葛藤を抱えて生きているのだなあとしみじみ思う芝居だった。そして歳をとるということは、その葛藤に慣れ親しんでいくことなのかも知れないとも考えたのだった。

9月7日まで、あと10回以上の公演があります。

公演後の風景は、写真撮影OKでした。
下には、たくさんのアクリル絵の具が落ちています。

「ぬいぐるみには、わたしの『わた』が入ってる」

JR王子駅すぐ近くの会場「pit北 / 区域」の外観です。

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運転しない日をつくる

最近、車を運転しない日を作っている。
末娘の送り迎えをしていた頃には、朝夕必ず乗らなくてはならなかったが、今では夫の送迎と、買い物その他だ。車じゃないと何処にも行けない場所に住んでいる訳だが、送迎がない日に買い物その他の用事ででかけることをやめるだけのこと。あれ買い忘れたとか、今すぐ図書館で調べたいものがある、などという時にも我慢する。環境のためにわたしができる、ほんの小さなことだ。

「今日は乗らない」と決めた日には、運転するときには必ずつけるコンタクトもお休みしている。眼鏡は度が弱めに作ってあるので、運転するには不安だが、十年以上前から老眼が入り、請求書を何枚も確認したり、読書したりする時には、眼鏡の方が楽なのだ。ワンデイの使い捨てコンタクトだということもあり、運転する日には一日じゅう外せない。それが眼球運動になり老眼が進まないという利点もあるが、わずかずつだが読みにくさは増している。目にも休みの日を作るのもいいかも知れないとも思い始めたのだ。

丸一日、運転をしない日を作り、感じたのは、老眼の進みぐあいだけではない。じつはちょっとそこまでドライブが、けっこうストレス解消になっていたらしいと判った。運転したいなあと、不意に思うことがあるのだ。
人のチカラでは絶対出せないスピードで移動している時間が、好きなのかも知れないと分析してみる。自分はじっとしているのが好きなのだと思っていたが、そんなところで静と動のバランスを取っていたとは。だからと言ってエンジンをかけてはいけないと、もちろん我慢している訳だが。

愛車、黒のフィットに映った夏の空。走行距離が減ったこともあるけど、
ハイブリッドに変えてから、ガソリンを入れる回数がかなり減りました。

眼鏡は二つ持っています。何年も前につくったものなので、度も弱め。
先日細い方のつるの部分が外れ、修理してもらいました。200円でした。

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ポケットをお忘れなく

新しい鞄を買った。ペットボトルが入るものが欲しかったのだ。
二つ隣りの市にあるショッピングモールで探した。気に入ったものは「あんよが始まったらマミールーミニ」という札がついていた。ペットボトルの他、哺乳瓶なども入れて使えるらしい。
「いや、赤ん坊はいないんだけど」
一瞬迷ったが、使いやすさを求めて作ってあり、軽くてコンパクト。しっかりした作りで、しかもリーズナブルな値段だった。何も迷うことはないのだ。
レジに持っていく時だけ「わたし、お婆ちゃんになった訳ではなくて」とか「最近太ったけど、妊娠してる訳でもなくて」と言い訳したい気持ちに駆られたが、もちろん何も言わなかった。

さて。赤ちゃん連れのママが使うために、ペットボトルコーナーの他にも、やたらとポケットがついている。最初にいいなと思ったのが、フラップを閉めたままでも中身が取り出せる斜めに着いたポケットだ。
「ここにハンカチを入れたら、鞄を開けなくてもすぐに出せるな」
さっそくタオルハンカチを入れた。
しかし、自分でも信じがたいのだが、フラップを閉めた瞬間、ハンカチの入ったポケットは見えなくなる訳で、そこにハンカチを入れたということを忘れてしまった。そして外出した際に、鞄のなかを探り「あー、ハンカチ忘れた」と嘆くこととなり、トイレでは、エコじゃないなと思いつつ、ペーパータオルを使ってしまった。
「ふつう、そこで思い出すだろ!」自らツッコミを入れるも空しい。

ポケットがいっぱいついているのは便利だが、忘れっぽいわたしに、使いこなせるだろうか。やっぱり若いお母さん用なのかな、とちょっと距離を置きつつ、新しい鞄を使っている。

これがフラップを閉めた状態です。両サイドにペットボトル入ります。

ここにハンカチを入れているのですが・・・。

ショルダーを外して、ファスナーを開け、取っ手で持つこともできます。

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16年目の煮貝

山梨に住み15年以上が過ぎたが、甲州名物、煮貝を初めて食べた。
煮貝は、鮑を醤油味で煮たもので、海のない山梨で何とか海の幸にあやかりたいと港で煮た鮑を醤油樽に漬け込んで馬の背に乗せ運んだのが始まりだそうだ。馬にゆらりゆらりと揺られ醤油の味が馴染み、やわらかく熟成した鮑の煮貝ができたのだという。
高価なものなので、あると知ってはいたがこれまで口にすることはなかった。16年目にして初めてのいただきものである。嬉しくいただくことにした。
武田信玄も激戦の栄養補給や、客人のもてなしに煮貝を使ったという。知る由もないそんな時代を想像しつつ楽しんだ。
想像していたよりもやわらかく、しっかり煮込んであるのに塩分が勝っていない。旨味が豊かだ。夫とふたり、日本酒を呑みながらの夕餉となった。

煮貝を食べ思い出したが、普段はここ山梨に海がないことなど忘れていることが多い。米も野菜も美味しいし、山や森が綺麗だ。その上、生で食べられる魚だって売っている。忘れてしまうのも、ムリはない。煮貝を作った人は、今の時代より切実に海の幸のありがたみを感じていたのだろう。便利な世の中に生きていても、ときには思い出し、海の恵み、山の恵みにありがたみを感じることも大切だ。16年目の煮貝に、大切なことを思い出させてもらった。

握りこぶし大です。封を切ると、ぷーんと磯の香りがしました。

いただいた方に教えていただいた通りに、胡瓜サンドな盛り付けで。

煮汁が美味しいとの説明書きを読み、久しぶりにうどんを作りました。
確かに旨味が濃い。薄味でも、しっかり海の味がしました。
ちょうどあった、青さ海苔をのせて、海の幸うどんの出来上がり。

煮汁で炊き込みご飯も炊きました。具は針生姜のみ。茗荷を散らして。
炊き上がる時が、何とも言えずいい匂い!

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『噂の女』

奥田英朗の連作短編集『噂の女』(新潮文庫)を、読んだ。
糸井美幸というひとりの女を軸に、様々な場所でのドラマが時系列に沿って展開していく。25歳で高級クラブのママになるまでに、彼女に何があったのか。田舎の町を舞台に、一つ一つの短編で繰り広げられるのは、何処にでもあるような人間模様。そこには、常に糸井美幸の影が見える。男達は、彼女の魅力に翻弄され、女達は、彼女に羨望の眼差しを向ける。女の魅力、そして人としての魅力を武器にしているのだ。以下本文から。

「こんなときになんやけど、わたし、糸井さんを尊敬するわ」
佳代子が妙なことを言った。
「なんで」
「だって、田舎の普通の女がやれることで一番どデカイことって保険金殺人やろ。それを糸井さんがやったんだもん。まだ仮定の話やけど」
「ああ、そうかもしれんね」
美里が感心する。なにやら妙な説得力があった。
「平凡な結婚をして、子供を二人産んで、小さな建売住宅を買って、家事と育児とローンに追われて、田舎の女はそういう人生の船にしか乗れんやん。でも、糸井さんは、女の細腕で自分の船を漕ぎ出し、大海原を航行しとるんやもん。金持ちの愛人を一人殺すぐらい、女には正当防衛やと思う」
「うん、そうやね」
美里も同意した。あの夜、柳ヶ瀬のクラブで見かけた糸井美幸は、妖艶なカマキリに見えた。ならば安易に近寄って殺されるオスが悪い。

この小説の魅力は、糸井美幸の周りで普通に生きる人達の、微妙な力関係を描いたところにある。気の弱い人間は、可笑しいと思いながらも強く言う人間に説き伏せられてしまう。強い方は、つけ入る隙あらば限りなくつけ入り、弱い方は、嫌なことを押しつけられたり、頼まれてやっていることに文句を言われたりしながらも我慢をする。糸井美幸は、そんな力関係のいちばん上にいて普通に生きる人達を微笑みを浮かべながら空から眺めているようなイメージだ。

わたしは、いや、すべての女達は、良くも悪くも糸井美幸にはなれないだろう。普通に生きていくだけだって、背負った荷物もしんどいことも、けっこう多いのだ。

新潮文庫の栞、最近黄色になりましたね。文庫に栞、うれしいです。

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テッポウユリの白

庭でテッポウユリが、咲き始めた。
細長い蕾が大きく長くなるにつれ、重たそうにしていたが、咲く時はあっという間だ。前日は青い蕾だったのにと、咲いているのを見て驚いた。春に花を植えていて根っこを傷つけてしまったものも、ちゃんと咲いている。うれしい。

白く大きな花は、ぱっと目を惹く。ずっとそこに蕾でいたことを知っているわたしでさえも、一瞬息を呑むほどに驚かされた。一面に降り積もった雪を目にしたときに感じる、心洗われる感覚。たった一輪の花が、その感覚を味わわせてくれるのだ。つくづく白って特別な色なのだなあと感心する。

人は白いものを、汚してはいけないという気持ちを無意識下で持っているそうだ。この季節、野山にたくさんの真っ白なテッポウユリが咲く。テッポウユリ達を見て、野山にごみを捨てていく人も減るだろうか。減るといいな。

可憐という言葉を連想する花です。なのに、とっても強いんです。

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パセリ可愛いや、可愛いやパセリ

今年も、庭のイタリアンパセリにキアゲハの幼虫が生まれた。3年目だ。
あまりに可愛いので、最初の年に名前をつけた。イタリアンパセリで生まれ、パセリを食べて育っていくので「パセリ」何とも単純である。単純であるが、一度呼び始めたら、もうそれが名前になってしまう。名前とはそういうものなのだ。それから此処で生まれたキアゲハは、すべて「パセリ」と呼んでいる。

最初の年には、突然いなくなったことにショックを受けサナギを探し回った。
「鳥に、食われたんだろ」
夫の心ない言葉に傷つき、パセリのいなくなったイタリアンパセリを眺めて過ごした。しかし昨年もパセリは、やってきた。3匹いた。
「去年のパセリが、卵を産んだんだ。絶対そうだ」
そう信じることにした。だからやはり昨年も丸まる太って来た頃に忽然と姿を消した彼らの捜索はしなかった。信じてしまえば、目をつぶるとイタリアンパセリから離れ、サナギになるためにこっそり移動して行くパセリの姿が容易にまぶたの裏に見えるようになったのだ。
そして今年も、パセリはやって来た。うれしい。じっとしているところも、草を食む様子も、なんて、なんて可愛いのだろう。本当に可愛い。

芋虫であるパセリ達を可愛いと思う自分は、何か可笑しいのかという疑問は、常に頭の隅にある。だが、可愛いものは可愛いのだ。
「前世、キアゲハだったのかな。わたし」
母の目で、日々パセリを観察している。マジ、可愛い~!

日に日に太って、ますます可愛くなっていきます。もちろん、
わたしの主観ですが(笑)今年は、孵化するところ、見たいなあ。
去年のパセリの様子は、こちら

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冷やし中華考

久しぶりに冷やし中華を食べ、子どもの頃から漠然と持っていた疑問がにわかに浮上した。冷やし中華って、何故に冷やし中華って呼ぶんだろう。冷やしたラーメンなのに。冷やした中華料理すべての名前みたいじゃん、という疑問だ。いい機会なので調べてみることにした。

発祥の地は仙台で、北海道では「冷やしラーメン」関西では「冷麺」と呼ぶ人が多いことが判ったが、語源は判らなかった。
マヨネーズをかける地域もあるらしい。昔ラジオ番組でサザンオールスターズが「メンバー全員、冷やし中華にはマヨネーズをかける」と言っているのを聞いて驚いたことを思い出した。
ウィキペディアによると「冬でも冷やし中華を!」と立ち上げた『全日本冷やし中華愛好会』なるものまであるそうだ。こういうことを真面目にやれる人って素敵だ。一つの料理でも、調べれば奥深いものだ。

最近では、具も盛り付けも多種多様だ。
ネットレシピで、さらに幅が広がっているように思う。生ハムやアボカドを入れたものまである。美味しく食べられればなんでもありでいい、という感覚なのだろう。基本形を残しつつ、様々なアイディアが出るのはいいことだと思う。あくまで基本形を大切にしつつ、というのがポイントなのだが。

我が家の冷やし中華は、基本形です。辛子と紅生姜はたっぷりめで。

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『漁港の肉子ちゃん』

西加奈子『漁港の肉子ちゃん』(幻冬舎文庫)を、読んだ。
丸々太った肉子ちゃん(38歳)と、母娘とは思えぬ可愛らしいキクりん(5年生)は、流れ着いた北国の漁港で暮らしている。新鮮な魚が美味しい港で、地元住民が食べにくる焼肉屋「うをがし」に住み込みで雇ってもらったのだ。店主は70歳過ぎのおじいちゃん、サッサン。店は、そこそこ繁盛している。
語り手であるキクりんは、母、肉子ちゃんのありのままの姿をさらけ出す様を見つめながらも、周囲に気を使う、空気を読む子どもに育っていた。
以下本文から。

「肉子ちゃん、外人って言ったらあかんねんで」
「外人? なんでっ?」「差別用語なんやって」
「嘘やんっ! ほんならなんて言うたらええのんなっ!」「外国人」
「・・・がい・・・。一緒やんっ! どう違うんっ!」
「外人って、どっか蔑んでるような・・・感じ?」「蔑んでる・・・っ!」
「馬鹿にしてるみたいに取られるねん」
「そんなんデブと肥満と一緒やんっ! 言われてる方の気持ちは一緒やっ!」

肉子ちゃんは、太ってて不細工で、着る服もセンスなどまるでなくて、男に騙されて金を貢がされてばかり。だけど、キクりんを愛する気持ちだけは限りなく大きい。キクりんは、肉子ちゃんみたいにださい大人はなるまいと思いつつも、客観的にすべてを見つめる賢さを持っていた。しかし、賢いといっても5年生。大人に教えられることもある。
「みんな、それぞれでいい」「ちゃんとした子どもも、ちゃんとした大人もいない」というサッサンの言葉は、キクりんの胸に沁みていった。

わたしは、自分が大人と呼ばれる年齢になってから、ずっと違和感を抱えていた。大人って、こういうものなの? 今の自分が大人なの? という感覚だ。サッサンの言葉は「大人」という認識を打ち砕き、長年の違和感を取り除いてくれた。わたしは大人じゃない。わたしはわたしなのだ。

漁港は架空の町ですが、宮城県石巻の漁港を旅した時に見かけた焼肉屋が
モデルになっていると、あとがきにありました。旅したのは東日本大震災の
前で、地震のあとに、ふたたび訪ねたとかかれていました。

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ペナンホワイトカリーヌードル

お盆に夫の友人が遊びに来て、マレーシア土産をもらった。ペナンホワイトカリーヌードルである。
「マレーシアで、いちばん美味いインスタント麺なんだ」
自信を持ってオススメしてくれた彼は、もう何年もマレーシアで働いている。インスタントラーメンと同様に作り、器に盛りつけてから最後に辛い調味料を入れて混ぜるのだと、何度も食べたことがあるらしく堂に入った感じで教えてくれた。

さっそく作り、夫と昼ご飯に食べた。
「辛い!」ひと口食べ、夫。そしてふた口目「美味い!」
わたしも同じことを言いつつ、食べた。かなりの辛さだ。しかし、辛いもの好きなわたし的には、ちょうどいい辛さだとも言える、美味しい辛さだった。
「ココナッツミルクカレーの味だね。暑い国の食べ物って感じ」と、わたし。
「でも、日本の夏の方がよっぽど暑いって言ってたよ」と、夫。
日本の夏は、赤道にほど近いマレーシアよりも暑いらしい。今年は猛暑日が2週間続いたとニュースになっていたが、マレーシアでは1年じゅう30℃は越えていても35℃にはならないのだという。やはり日本のこの異常なほどの暑さは、エアコンの室外機や、わたしも日々乗っている車の排気ガスその他人工的なモノが大きいのだろうかと考えさせられた。

知らない国、行ったことのない国の食べ物を食べると、その国に興味が湧く。そして、自分の生活を見直すきっかけになることもある。温暖化はしょうがないと、あきらめてばかりではいけないとあらためて考えたのだった。
*一人一人にできることをまとめてあるページです*
4袋入り。裏面には判りやすく、380ml水、煮3分との表示が。
Penangを一瞬「ぺヤング」と読んでしまい、一人静かに笑いました。
ネット検索するとインスタントラーメンランキングで世界一になったとか。
この美味しさは、世界中で好まれるものなんですね。

こうして見ると、日本のインスタントラーメンと変わらない感じ。
インスタントラーメンって日本発祥のものだから、世界共通なのかな。

粉末調味料2つを入れた状態は白。透明な袋が辛さと赤い色の素です。
具には、玉葱と小松菜、フランクフルトを炒めて入れました。

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茗荷畑で生まれた蝉達

毎朝の味噌汁の薬味に、庭の茗荷を入れている。
朝、食べる前に採ってくるので新鮮だし、味が濃い。嬉しい季節だ。

その茗荷畑で、最近、蝉の抜け殻を目にするようになった。孵化したところは、今年は見ていないが、たくさんある。地面に穴も開いているから、茗荷畑の土のなかで育ったのだろうと想像できる。アブラゼミで6年、土のなかで過ごすというから、たぶん茗荷を植える前からここにいたのだと思うと、不思議な気持ちになる。長くは17年も土のなかで過ごす蝉もいるらしい。15年前にわたし達が家を建てる前から、この土地にいた可能性もあるということになる。気が遠くなる話だ。

長く土のなかにいて、外の世界に出てきてからは2週間ほどしか生きられず、その寿命を知っているかのように鳴き続ける蝉達。若い頃には、何のために生まれ、何のために生きているのだろうと考えたこともある。しかし、50年以上生きた今思うのは、彼らは何のためになど問わず、ただ精一杯生きているということだ。今日も、いく種類もの蝉達が、うるさいほどに鳴いている。

登って来て、ここで孵化したんだね。今、鳴いている子かな。

ここにも。陽の光を浴びた茗荷の葉は、眩しく美しいです。

地面にも落ちていました。茗荷は毎日、花を咲かせています。

茗荷畑のすぐ脇には、吾亦紅が咲いています。控えめだけど大好きな花。

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正しい朝ご飯って?

夫の所望で、朝食にめざしを焼いた。
「なんか、めざしがあると正しい朝ごはんって感じがするね」
食卓に着いて、わたしが言うと、夫も満足げだ。
小松菜とシメジと油揚げの味噌汁には、朝、庭に出て摘んだ茗荷を刻み、ひとり1本分ずつ贅沢にのせている。それだけでも十分にしっかりとした朝食だが、いただきものの夏野菜や桃などもあり、ゆっくり食べられる夏休みならではの朝食タイムを満喫した。そして、めざし。栄養満点だし、適度に塩辛く、ご飯が美味しく食べられるのがいい。

ところで、自分で言っておきながらだが、ふと「正しい朝ごはん」って何だろうと考えた。朝食を抜く人も多いとか、朝ご飯をきちんと食べる子は成績がいいという統計があるとか、何年も前から聞く話だが、常識的な朝ご飯も変わってきているんだろうな。

我が家は基本ご飯派だが、たまにパンを食べると美味しいなとも思う。ご飯と味噌汁の朝ご飯が正しい、という訳ではもちろんないのだ。
自分が正しいと思える朝ご飯、自分と、そして家族が美味しく食べられる朝ご飯が、きっと「正しい朝ご飯」なんだろう。
かく言うわたしも、ひとりで朝ご飯のときには、冷凍しておいたおむすびをチンして食べてそれだけ、なんてこともある。そのときには無論、これは「正しくない朝ご飯」だと判ってやっているのだが。

採れたてのオクラをいただいて、柚子ポンかけていっぱい食べました。
食卓に緑があると、色味の鮮やかさに食欲も湧きますね。

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久しぶりの餃子

久しぶりに餃子を焼いた。
子ども達がいた頃には、よく大量に餃子を包み、ホットプレートで焼いたものだったが、夫婦ふたりになり、餃子を作ることもしなくなっていたのだ。ラーメン屋で食べるか、生協で注文した冷凍のものを焼くか茹でるか、というのが通常になっていた。
だが、お盆休みということもあり、イベント気分で餃子を焼こうという話になった。40個分の材料を仕入れ、夕方夫が草刈りをしている間に、ひとりのんびりと餃子を作る。刻んだ具材を混ぜていて、料理のなかでも混ぜることが何故か好きで、ああだからお菓子などをよく作っていたのだと思い出したりした。包むのは子ども達も大好きで、三人三様に奇抜な形にしようと四苦八苦していたのをまた思い出す。
「子ども達はいろんな形にしようとがんばっていたけど、餃子の形って、やっぱりこれがいちばん美味しい形なんだよね」と、わたし。
「中国三千年の歴史だね」と、夫。
包む作業もまた楽しい。淡々と単純作業をするしんとした時間が好きなのだ。

子ども達がいた頃のように、ホットプレートを出して焼いた。
「思いっきりたくさん食べたいね」と、夫。
「20個焼いちゃおうか」と、わたし。
四川風味のラー油の味は新しかったが、久しぶりに我が家の餃子を味わった。美味かった。キャベツを多めに入れたからか、優しい味だ。ふたりなのに、わいわいにぎやかな食卓にいるような気分を味わっているような気がした。
食卓には、様々な記憶がつきまとう。餃子は、思いもよらずたくさんのことを思い出させてくれた。とても楽しい夕餉になった。

残りの20個は、バラバラになるように冷凍した。もう1回分楽しめそうだ。
「ひとりのときに、食べようと思ってるでしょ?」
夫は、しっかりと牽制するのを忘れなかった。どうしようかな。

具は、豚挽肉とキャベツと葱、ニンニク、生姜、庭のニラも入れました。

太白の胡麻油をしいて、水を入れてフタをして蒸し焼きに。

5分後、フタを取って。かりっとさせるためには、もうちょっとかな。

かりっと焼けた! うれしい。美味しい。食べすぎた(笑)

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坂東太郎を眺めて

綺麗に湧いた雲を見るたびに、空の図鑑とも言える写真本『空の名前』(光琳出版社)を開く。8月も半ばを過ぎ、最近は秋を感じる鰯雲なども見かけるようになった。雲に対してなど薄っぺらな知識しかないが『空の名前』をめくることで、少しは知ることができ、楽しんでいる。
入道雲のページには、江戸では入道雲を「坂東太郎」と呼んでいたとかかれている。モノに名前をつけたり、擬人化したりするのはわたしも好きだが、遠い空の雲にたぶんその頃には親しみ深い名前であっただろう「太郎」と名づけ、呼んでいたとは洒落ている。
「坂東太郎」とは、本来、利根川をそう呼んでいたらしいが、その利根川の源流で育った雷雲が川に沿って下って来て、関東平野で暴れ回ったためにそう呼ばれるようになったとある。
そう言えば、アメリカでは竜巻に女性の名前をつけるらしいから、さほど変わったことではないのかも知れない。
京都では、丹波方面の入道雲を「丹波太郎」奈良方面のものを「奈良二郎」和泉の方角に出る雲を「和泉小次郎」と呼んでいたというから、芸が細かい。
インターネットなどない時代、雲を見て得る情報も多かったのだろう。それだけに、親しみを込めて人の名前で呼んでいたのだろうか。

流れる雲を見ていると、気持ちが晴々していく。きっと今見ている雲が、二度と見ることができないものだからだろう。地面から見上げる人の気持ちも、新しく変わっていくのだと思う。

入道雲って綺麗ですね。山と田んぼと青い空。

八ヶ岳の上にいた流れゆく鰯雲。秋の匂いを感じます。

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『火花』

今一番の話題作と言えるだろう。又吉直樹『火花』(文藝春秋)を、読んだ。
熱海で花火大会の夜、芸人、徳永は、師匠と慕うことになる神谷と出会った。徳永は二十歳、神谷は二十四歳。ふたりは、それぞれ芸人として活動しながら、飲んでは語り合った。以下本文、いくつかのシーンの神谷のセリフから。

「お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」

「自分が漫才師であることに気づかずに生まれてきて大人しく良質な野菜を売っている人間がいて、これがまず本物のボケやねん。ほんで、それに全部気づいている人間が一人で舞台に上がって、僕の相方ね自分が漫才師やいうこと忘れて生まれて来ましてね、阿呆やからいまだに気づかんと野菜売ってまんねん。なに野菜売ってんねん。っていうのが本物のツッコミやねん」

「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」

抜粋していて感じたのは、熱い芸人の物語なのだなあということだ。読んでいるときには、その熱さよりも、文章の新鮮さの方が勝ってしまっていた。

いちばん好きだったのは、神谷が失恋したと徳永に打ち明けたシーンだ。歩きながら、そして徳永は泣きながら、それでもふたりが話す言葉は、吹きだして笑ってしまうほどに漫才なのだ。「行動の全ては既に漫才の一部」との神谷の言葉を体現していて、ひどく切なくなった。笑うことと泣くことは、きっと何処かで繋がっているのだと感じる、とても素敵なシーンだった。

主人公、徳永と又吉を重ねてしまうことを、最後までやめられなかったが、今後も知ることのないだろう芸人の世界をのぞかせてもらったのだ。そこは、それもまたよしと納得するしかないだろう。いや、これ、駄洒落ではなく。

赤が印象的なカバーを外すと、黒地に金の模様が入っていました。
飛び散る火花のイメージかな。栞はエンジに近い色味の赤です。
タイトルは、漫才師達が競い合う世界の激しさを表したものでしょうか。
徳永が相方、山下と組むコンビ名は「スパークス」でした。

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蜘蛛の巣にかかって

毎年、陥る失敗だが、今年もやってしまった。
顔から、思いっきり蜘蛛の巣に突っこんだ。ウッドデッキでのことである。
洗濯物を干そうと洗面所からかごを持って出ると、そこに大きな蜘蛛の巣が張られていたのだ。まるで陽射しが意地悪でもしているかのように目隠しし、全く見えなかった。
「もう! どうして、ここに!」
文句を言うも、蜘蛛は蜘蛛で一晩かけて作った家を壊され、うらめしげだ。
ここは、うちの敷地内だよと言いたくなるが、虫達は、わたしなどよりもずっと前から先祖代々松林だったこの土地で暮らして来たのかも知れない。そう思うと、無下にもできない。できるなら殺さず共存していきたいと思ってる。
地獄に落ちた際には、蜘蛛の糸を垂らしてはもらえないだろうが、わたしとて好き好んで蜘蛛の巣に顔を突っ込んでいる訳ではないのだ。

しばらくは気をつけていてひっかからないだろうと思うが、今シーズンあと1回くらいはやりそうだ。蜘蛛も蜘蛛でわたしがひっかかった場所に2度巣を掛けることはない。なので余計に思わぬところで再びということが起こるのだ。
「しかしまあ、いいか。食べられるわけじゃなし」
蜘蛛の巣にかかった蝶は、もう次に注意を払う必要はないのだから。

裏庭の蜘蛛さん。家作り、精が出ますねえ。ほどほどにね。

夏トンボ、マイコアカネかな? たくさん飛び回っています。

もちろん、けろじもあちらこっちらで、跳ねまわっています。

カマキリは前肢で獲物をつかんで「み~た~な~」という顔。

家の外壁にからんで伸びてきたヘクソカズラ。今綺麗に咲いています。

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夏こそアームウォーマー

東京駅で友人と待ち合わせした際、少し早めに着いたので、駅ナカをぶらぶらした。新しくなった東京駅自体が観光名所となり、また多くの新幹線発着所となっているため、駅ナカの土産物屋風の店も、行く度に充実していく。夏休みだということも手伝って余計にぎやかだったのかも知れない。
和物の店がいくつか並んでいて、カラフルな手ぬぐいや扇子などを手に取っては、眺めた。北欧などのカラフルな食器にも目を魅かれたが、和の鮮やかさと落ち着きが心地よく、和物コーナーで立ち止まり、しばし心穏やかな時間を過ごした。そこでふと、手に取ったのが、アームカバーだった。
ガーゼのようなやわらかく軽い生地でできている。見本を広げると、親指を出す穴も開いていて、使い勝手もよさそうだった。
「奈良の靴下屋さんが、作ったものなんですよ」
若い女性の店員さんが、微笑む。
「靴下屋さんですか」
靴下屋さんが腕にはめるモノを作るというのが意外で、感心してしまう。
いやなに、考えてみれば、意外でもなんでもない。今まで、誰が作っているのかなど考えていなかっただけのことである。
運転中の日焼けが気になりつつも、何もせずに夏を迎え、迎えたばかりだと思っていた夏もいつしか暦では残暑と呼ぶ頃になってしまった。今ここでこれを手にとったのも、何かのご縁。今からでも遅くないよという、天からのメッセージか、と腕にはめてみる。
「UVカットももちろんですが、冷房対策にいかがですか?」
年若い彼女は、爽やかに言う。

そう言われ、リンパマッサージの仕事をする知人の言葉を思い出した。
「夏の方が身体は逆に冷えることが多いから、靴下履いてくださいね」
それでサンダルではなく靴を履き、東京に出てきたのだった。夏の方が冬よりも身体が冷えるのは、なにも冷房だけが原因ではない。暑いから少しでも涼しくと裸足になりがちだが、足首やふくらはぎを冷やすことで身体全体のリンパの流れが滞るのだという。暑い暑いとひどく疲れたりするのも、足を冷やしたために身体の芯の部分が冷えてしまっているから、ということも多いそうだ。
「夏は暑い」という常識的な意識を捨てることは難しいが「足は冷やさない」という意識をそれ以前に持つことならできそうだ。そして、それなら。
「腕だって、もちろん冷やさないない方がいいよね」
やわらかな風合いに魅かれたアームカバー。車中以外にも、ちょっと冷えそうな場面などでアームウォーマーとして活躍してもらおうと購入したのだった。

手染めのグッズがたくさん。見ているだけで楽しかったです。
東京駅駅ナカで日本土産を買っていく外国の方も、多いんじゃないかな。

『日本市』というのは、奈良の靴下屋さんが展開するブランド名のひとつ。
右側の藍色の部分に、親指が出るように穴が開いています。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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