はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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霧が作ったモノトーン

温度が急激に上がったり下がったりするこの季節、愛車フィットのフロントガラスが、よく曇るようになった。エアコンを調節し、曇らないようにするが、実は霧だったりする。目の前のガラスの曇りを、いくら取っても無駄である。温度の変化は、霧をも創るのだ。

しかしだ。「また、霧かぁ」とライトを低くし(フィットにはそういう機能がある)しばらく走ってから、フロントガラスが曇っていることに気づく。全く、目の前にことが見えていない自分に呆れつつ、ライトを上げ、エアコンを調節する。自然が作る温度変化に、ただただ遊ばれているわたしである。

『木を見て森を見ず』という諺があるが、木を見ていては森は見えず、森を見ていては木は見えないものなのかもしれない。

山梨は明野に越して来て面白く思ったのは、3分走ると霧は晴れる。そしてまた3分走ると霧の中に入る。たとえば最寄りの無人駅穴山に、朝夕末娘の送り迎えをしていた3年間。
標高600mの我が家からひたすら下る。その間に霧から抜け出る。そして国道を突っ切り、ひたすら上る。穴山というくらいだから、山である。また霧のなかに入る。逆に降りた国道の辺りが霧で、我が家も穴山の霧が晴れていることもある。

行く先が不透明になるのは恐い。霧の中に、誰にも見られてはいけない何かを隠してしまいたくなる。そして隠した途端、気づくのだ。霧は晴れている。単にフロントガラスが曇っていただけなのだと。

我が家の玄関にある、駐車場からの風景。

右の山桜の木は、13年前に隣の林から3㎝のチビくんをいただいたもの。
もっと背が伸びたけど、あまりにひょろひょろしていて夫が剪定しました。
(モノクロバージョンで撮った訳ではありません)

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落としたボタンの行方

ウッドデッキで、蛙が日向ぼっこしている。
「おっと!」洗濯物を干しつつ、踏みそうになり驚かされた。
「きみ、秋らしい、色になってきたねぇ」
どの程度、蛙が変色するのかは知らないが、最近見かける蛙は、見るからにアマガエルです、という綺麗な緑色ではなくなった。身体も太ったものが多く、すっかり冬眠の準備は出来ているかのようだ。
洗濯物を干し終える頃には、もういなくなっていた。ウッドデッキの下に、降りたのだろう。これだけ涼しくなっても、長い日向ぼっこは身体に応えるのかもしれない。約30㎡のウッドデッキの下は、冬眠するのに打って付けのような気もする。

13年前、越して来た年の夏、夫を手伝い、まだ中学生だった息子と3人で、炎天下、素人ながらに基礎を組み立て、水平を計り「そこ、右、右、いや左だ」などと言いながら、何日もかけて張ったウッドデッキだ。それからの年月に、半分ほどの板は傷み、張り替え、何年かごとに塗り替えもした。

この板張りのデッキの上で、いったい何度バーベキューをしたことだろう。
年に1度、デッキの下を夫が掃除しているが、スプーンや箸やハマグリの貝殻、ボタンやアクセサリーなどが出てきたりする。暗く見えないなかで、落ち葉を掃きだすための掃除なので、まだまだお宝も眠っていそうだ。
ふと、さっきの蛙が、ボタンやスプーンや貝殻で飾った、土のなかの家に住み、冬支度であれこれ調達に回っているかのような想像が膨らんだ。そしてこの間、高遠をドライブした時に、落としたワンピースのボタンを思った。あのボタンも、何処かで誰かが、大切に使ってくれているといいんだけれど。

眠たそうな気怠い感じが、目元に表れていますね。

けっこう広いです。10人でバーベキューOK!
木が痩せて、板と板の隙間もずいぶんと空きました。

高さも、1mほどあります。小さい子が来ると、落ちないかとハラハラ。

ウッドデッキから見上げた、隣の赤松の林です。

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夜の闇に呼ばれる時

「今夜は、闇が濃いね」「今夜は、けっこう痛むんだ? 眠れないんだね」
「うん。このところよかったんだけど、波があるみたいだ」
「眠れない時ってさ、夜の闇に呼ばれるって言うか、物事、悪い方へ悪い方へ考えちゃうよね」
「全く、その通りだよ。嫌なことばかりが、膨らんで大きくなっていく」
「そんな時にはね、小さな事実を思い浮かべるといいんだって」
「小さな事実?」「うん。実際に起こった、嘘のないほんの小さな出来事」
「羊じゃなく?」「そう。たとえば今日、前を走っている車のブレーキランプが切れてたよね? 教えてあげたいってじれったくなるじゃない、あれ」
「なるねぇ。教えてあげたいのは山々だけど、伝えられないもどかしさ」
「それで、自分はだいじょうぶかなと思っても、それがまた見えないんだよ」
「そうそう。車の姿見とかあるといいよね。美容室で、後ろ姿を確認するみたいにできるとさ」
「それは、大きく出たな、右手くん」「大きいかな? 左手くん」
「もっと小さくいこうよ。たとえば、こないだ電車でしゃっくりしてた女の子がいたじゃん。ワァッてびっくりさせてあげたい衝動に、駆られるよね」
「あれね。けっこう我慢するのたいへんかも。でもさ、電車中の人がいっぺんにワアッて驚かせたら、電車がびっくりして停まりそうだね」
「右手くん、また話が大きくなった」「ごめん。小さくだったね、左手くん」

frozen shoulder(五十肩)になった右手くんが痛まずとも、訳もなく眠れない時もある。子ども達が幼い頃「お母さん、眠れない」と甘えてくることがよくあった。「楽しいことを考えなさい」とか言ったように記憶しているが、今、自分がそう言われても「楽しいこと?」と悩んでしまう。返って眠れなくなりそうだ。それなら、左手くんの言うように、小さな事実を羊を数えるが如く、数えてみるのもいいかもしれない。事実は事実であり、闇に呼ばれ悪い方へと、大きく膨らんでいくこともない。真実の行方を追うこともない。

先週、真夜中に、地震で目覚めると、上の娘が寝室にやって来た。
「地震だね」と、声をかけると「恐い。恐い。恐い」と震えている。
山梨は震度2くらい。東北はどうだろうと心配にはなったが、娘の恐がり方が普通ではなかったので聞くと、
「明日の学祭で『お化け屋敷』やるんだけど、そのメイクとかさっきまで印刷してたら、地震まであって恐くなっちゃった。眠れないー」
自分で企画した『お化け屋敷』で、自分で考えたメイクを友達に教えて印刷し、夜中に恐がっている彼女に、思わず笑ってしまった。笑って「一緒に寝る?」と誘ったがさすがに23歳ともなると誘いにはノッてこなかった。
「楽しいことを考えなさい」とも、わたしも、もう言わず、すごすごと部屋に戻る娘の背中を見守りつつ、くつくつといつまでも笑っていた。

夫のベトナム出張土産は珈琲でした。7粒で1グラム。小さく軽い事実です。

見るからに深煎り珈琲だと思い、アメリカンに淹れました。
夜の闇の濃さも、アメリカンに出来たら、楽しめるかも。

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台風一家?

子どもの頃、ニュースから流れてくる「台風一過」という音(おん)を聞き、台風の家族を思い浮かべた。童話に出て来そうな、台風のお父さんとお母さん、そして子ども達。台風一家だ。
最初に描いたイメージというものは、強く残るものらしい。いまだに台風一過から、台風の家族を連想してしまう。本物の台風は、そんなに可愛らしいものではなく、恐いものだと見聞きし、知っているにもかかわらず。

昨日も午後になると、青空が見え、紫外線の強そうな秋の陽射しが眩しく降り注いだ。秋も深まったこの時期、台風が通り過ぎた風景は、何もかもが色鮮やかで、日に日に秋が深まっていることを、あらためて教えてくれる。

夫の1週間の出張も、今日でおしまい。
上の娘との攻防戦も、幕を閉じる。
「寒いなら、薪ストーブ、焚けば?」「お母さん、焚けば?」
そう言いつつ、薪も運ばずに厚着して、または毛布をかぶり、ふたり過ごした。そんなことを言っていられないほど、冷たい冬がもうそこまで来ている。娘との攻防も、今はプロローグで、本章に入るのはこれからかもしれない。
高く青い台風一過の空を見上げつつ、明日は薪運びかなと覚悟を決めた。

ススキが1本、背伸びしていました。

桜の葉は、紅葉の季節も楽しませてくれますね。

駐車場は、落ちてきた山栗でいっぱい。

またまた未確認キノコ発見。マッシュルームじゃ、ないよね?きみ達。

今年植えたばかりのハナミズキですが、実が真っ赤になりました。

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本の話題で、遊ぶ

末娘は『本の虫』である。わたしの十倍、いやそれ以上の本を日々読み続けている。空いた時間にボーっとするかの如く本を読む。ボーっとせずに生きていける人間がいるのだと、ボーっと眺めるわたしである。
そして、彼女は典型的な『おしゃべり』である。春からの大学に通うためのひとり暮らし、ひとりの部屋で、ひとりしゃべっているのではないかと、周囲に危惧されるほど、息継ぎはどうしてるのと心配になるほど、一緒にいる間じゅうしゃべり続けている。

そんな彼女との共通の話題は、本である。
読み終えたばかりの『アナザー エピソードS』を渡すと小躍りして喜び、
「この表紙は、ちょっとね」と渋い顔をするわたしに、
「アニメ化の影響でしょう。しょうがないね」と、受け入れる姿勢で笑う。

「映画『100回泣くこと』観たんだけど、あの映画化でハマった友達がいてさ。中村航ネタが通じるようになった」と彼女が言えば、
「なんか、きみ『円紫さんとわたし』シリーズ(『空飛ぶ馬』北村薫)の『わたし』(本好きな大学生)に、雰囲気似て来たね」とわたしが言う。
ふたりとも、同じ本を何冊も読んでいるので、ひと言で通じる話題があり、それが心地よく面白い。
思えば彼女が小学生の頃から、そうして来た。同じ本を読み、その本の話をする。決して感想を聞かないというのが、おたがいに楽しむコツだ。主人公が好んで食べる和菓子だったり、可笑しな癖だったり、印象的なセリフなどを、笑ったり、面白がったり、何かの際にふと思い出ししゃべったり。本の話題で、遊んできた。久しぶりに彼女と会い、それを体感した。

「ジンジャーエールって、男っぽい飲み物かな?」と、娘。
島本理生の小説『君が降る日』(幻冬舎文庫)に出て来たという。
「そう? そんなふうに思ったことないけど」と、ビールを飲みつつわたし。
「恋人を、事故で亡くした女の子の話」と、葡萄カルピスを飲みつつ、娘。
帰りに本屋で、娘に文庫を探してもらって、買った。旅の友、文庫本。
久しぶりに読む島本理生は、真っ直ぐ心に切り込んできた。胸にざくりと傷を作り、酒を注いだかのように痛く沁みた。

サンドイッチとジンジャーエールのランチ。
買ったばかりのカメラの設定を、トイカメラバージョンにしたものです。

モノクローム。バールのカウンターって雰囲気に変わりますね。

普通に撮ったものが、これ。カメラで遊んでいます。
型落ちで半額以下で買ったカメラだけど、こんなこともできるんですねぇ。

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おー! フラッシュ!

機を逸した。もう少し、もう少しだけ、と色づくのを待っていたノブドウの実が、綺麗に刈り取られていた。ノブドウを食べる人はいないので、ただ地元の人が草刈りしただけだろう。もちろん、わたしが日々観察していたことなど知る由もなく、邪魔な草を刈っただけのことだ。悪気などありはしない。

ブログをかき始めてから、夫にずっと言われていた。
「デジカメ、買ったら?」
うん。と言いつつ、1年半過ごしてきたのは、ガラケーの画像の精度がなかなかよかったことと、余分なものは持ちたくないという性格からだ。
しかし、5年も使っているガラケーは、フラッシュさえたけない。このたびようやくマイデジカメを購入し、試しに1枚撮ろうとした瞬間、自動でフラッシュが立ち上がり、驚かされた。
「おー! フラッシュ!」すごい。フラッシュだ。フラッシュがある。
フラッシュという言葉が、ゲシュタルト崩壊していくほど、フラッシュとは疎遠だった日々を思う。これからはフラッシュとも親しくなれそうだ。だが、自動でフラッシュが立ち上がらないようにするにはどうすればいいのか? さらに四苦八苦。先が思いやられるが、少しずつ仲良くなっていこう。

ノブドウは、デジカメを、待っていてはくれなかった。
たわわに実るノブドウは撮り損ねたが、小さく実るノブドウをカメラに収めた。植物の季節とはまた別に、そこに人が介入する難しさを感じる。それが自然だとも思う。人も草刈りも自然のうちなのだ。
写真なら、待たずともいくらでも撮れる。機を逸することなく、パシャパシャ撮ろうと、刈り取られたノブドウの痕を見て、カメラの電源をオフにした。

ノブドウの実は、不思議なグラデーションで楽しませてくれます。

蔓梅擬(つるうめもどき)は、まだ、これからかな?
オレンジ色のガクのような部分が割れると、なかには真っ赤な実が。

ひとつだけ開いて、赤い実をのぞかせていました。
赤とオレンジが、ドライフラワーにしても色あせないので人気。
うかうかしていると、また、失くなってしまいそうです。

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ストレス解消法は何ですか?

是枝裕和監督映画『そして父になる』を、観た。
映画を観て、こんなにもぽろぽろと涙をこぼしたのは久しぶりだ。
赤ん坊の取り違えを知った2つの家族の物語。子ども達は6歳になっている。6年間過ごしてきた我が子が、他人の子だと初めて知ったら。
描き過ぎないところが、観ていてとても心地よい映画だった。そして、女優、真木よう子がとてもよかった。それ以外のことは、伝えられる自信がない。観ないと判らない。まあ映画なんて、そういうものなんだけど。

子ども達が幼い頃、ひとりで夜中に、よくレンタルした映画を観た。観て泣いた。思いっきり泣いた。アイロンを掛けながらだったり、洗濯物をたたみながらだったり、ビールを飲みつつよく泣いた。今思えば、泣くことで子育てのストレスを、たとえばひとりでふらりと出かけられない状況とかに対するストレス? を、解消していたように思う。

末娘と久しぶりに会い、思いっきりしゃべり、食べ、飲み、笑った。夜にはひとりふらりと、バーにマティーニを飲みに出かけたりもした。マティーニの強さのせいか、熟睡した。右手くんが frozen してから、朝まで起きずに眠ったのは初めてだ。
何もかもがすっきりし、まるでリセットされたかのように感じつつ、浦和駅から新宿湘南ラインに乗った。

しゃべること。食べること。酒を呑むこと。笑うこと。眠ること。そして、泣くことも。人は必要としているんだと実感した。貪欲だなぁとも思うが、そのくらいのことなら、たまに思いっきりしたって、贅沢未満で許されるんじゃないかな。じつに判りやすい、わたしのストレス解消法である。

浦和シネコンの入口、飛行場みたいと思うのは、田舎者の発想?
水曜レディースディで、千円でした。
 
福山雅治、昔から好きです。夫は、真木よう子のファンです。
そう言えばこの二人、NHK大河ドラマ『龍馬伝』で共演してましたね。

帰りに寄った浦和名物の和菓子屋『花見』西口駅前にあります。

白鷺宝(はくろほう)という、丸っこく可愛い和菓子が有名。

たまには、ひとりマティーニ。リフレッシュしますよ。
ジンとドライベルモットとレモンピール。家でも作ってみようかな。
あ、忘れちゃいけないのが、オリーブでした。

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坂のない街

結婚してからというもの、坂のない街で暮らしたことがない。
引っ越しは3度した。最初に住んだ6畳一間のアパートも、坂の上だった。
自転車で買い物に行くも、帰りが坂道となるとあまり意味がない。マイカーなど、駐車場代だけでもバカにならない都心で持てるはずもなく、不便極まりない生活を、何とも思わず受け入れていた。若かったよなぁと思う。
今住む田舎町では、車がなければ何処にも行くことができない。しかしこれまで暮らしてきた街より、遥かに便利だ。車がある。ただそれだけの違いだが、マイカーを買い、車ってこんなにも便利なんだと、途方に暮れるほど驚いたのを覚えている。地球のことを考えると、その便利さに頼り、甘えすぎるのもどうかとは思うけれど。

末娘が春から暮らしている浦和には、田舎にないものが何でもある。
コンビニやヨーカドー(末娘は『イトヨさん』と呼ぶ)だけではなく、パルコも伊勢丹もある。シネコンも県立図書館もある。居酒屋も銀行もたくさんあるし、当然のようにスタバもある。なにしろ駅がある。西口駅前には、浦和レッズのメンバーの手形や足形、サインがある。小野伸二の足形だってある。
商店街もある。彼女は越して来た時に、コロッケを揚げて売っている肉屋が、物語世界のなか以外で実在することを確認し、感動していた。
あるあるだらけ。それなのに、坂はない。もうこれは便利すぎるぞと、実在する街なのか疑わしくなるほどの便利さだ。

だが今はもう、便利とか不便とかを越え、長い坂道を、のぼってそして、くだって。そうして歩いた生活がただ懐かしい。風情と言おうか、坂のある街が持つ味わいは、わたしのなかに、しっかりと息づいていて、わたしという人間の一部を形成しているようにさえ思える。

坂のない街で、彼女がつつましく暮らしている様子も、垣間見えた。
「最近、卵、食べてないんだよねぇ」と、娘。「なんで?」と、わたし。
「だって、イトヨさんで、安売りしないんだもん」
「卵って200円くらいでしょ? 安売りじゃなくても」
「安売りだと、98円なんだよ。その違いは大きい!」
ふたりゆっくりランチした後、イトヨさんで、198円の卵を買った。末娘はピンクのエコバッグを、ちゃんと持参していた。

末娘が、いつも前を通るだけで入ったことがないというイタリアンで。
ピザは、窯で焼いていました。ハロウィン一色のにぎやかな店内。

ピッツァ・マルゲリータは、フレッシュトマトでジューシーでした。

雑貨屋さんも、探さなくてもたくさんあります。

小野伸二の足形とサイン。伊勢丹前の歩道です。
「こないだ、ヴァンフォーレがレッズに、ロスタイムで追いついてさ」
「しぃっ!」と、娘。「非県民だって、白い目で見られるよ!」

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とれないペットボトルのフタ

新宿に向かう特急あずさのなかで、推定2歳の男の子がぐずっていた。
「だからね、これは、とれないの」と、必死に説得するお母さん。
「いやだ、とって! ふた、とって!」と、べそをかく男の子。
水を買ったはいいが、フタがとれないタイプのペットボトルだったのだ。確かに小さい子などでも、フタを落としたりせずに扱えるから、便利な部分もあるかもしれない。だが、個人差は大きいが、初めてのこと、初めてのものに対して、子どもは簡単に受け入れられないことが多い。
しばしの間、揉めた挙句、水飲みたさか、疑心暗鬼になりながらも彼は一口だけ飲み、眠ってしまった。

息子が、そうだったなぁと思い出した。同じ道を歩くことや、同じ服を着ることに、こだわった。そういえば、晴れの日も常に気に入った長靴ばかり履いて、買っておいた運動靴がほぼ履かずに小さくなってしまったこともあったっけ。パジャマが小さくなって着られなくなった時には、泣いてずいぶん抵抗した。新しいパジャマがあるのに、小さなパジャマを着続けた。

こだわりを持つことは、大切だ。それと同じく、新しいものを受け入れることも大切だ。大人になったって、その両方をバランスよく大切にしていける人は少ないんじゃないかな。
家族で言えば、わたしと息子と末娘は、こだわる方に傾き、夫と上の娘は、新しいものをどんどん受け入れる方に傾いている気がする。
だが、息子は東京で働き、ひとり暮らしている。末娘も、さいたまで大学に通い、ひとり暮らしている。新しい街を受け入れ、新しい職場や学生生活を受け入れ、暮らしているのだ。すごいことだよなぁと思う。息子は今、たぶんパジャマなど着て寝たりはしないのだろうと想像する。部屋ではコンビニにだって行ける格好で、過ごしているに違いない。

ペットボトルのフタがとれずぐずっていた男の子も、これから様々な新しいことを受け入れ、大人になっていくのだろうと当たり前のことを考えた。
春に大学生になった末娘のマシンガントークが聞きたくなって、さいたまは浦和に向かう途中のことである。
  
浦和までは約3時間。駅前には、うなこちゃんが立っています。
やなせたかしさんが作った、鰻の街、浦和のシンボルキャラです。

西口の仲町商店街。昭和の香りがするけれど、にぎわいはあります。

ちょっと歩くと、雰囲気のあるお寺『玉蔵院』が。
春には樹齢百年の古木、しだれ桜が綺麗だとか。

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答が出ない問いを読み解く

「もし、自分が、生きてはいない存在だったら?」
自分さえも疑わざるを得ない状況で、物語は進んでいく。そんな恐ろしさが『アナザー』(角川書店)にはあった。

26年前、事故死したクラスの人気者の死をクラスメイトは受け入れられず、まるで一緒に過ごしているかのように振る舞った。そして卒業を迎え、卒業写真に写った死んだ子の笑顔を見て愕然とする。その時から、夜見山中学3年3組は、死に近い場所となった。その翌年から、3年3組の生徒とその家族が事故や病気で何人も死ぬようになったのだ。
「災厄がある年」死が続けさまに起こる年は、最初のホームルームで机が一つ足りなくなるという。「アナザー」もう一人の誰か。生きてはいない誰かが、3組に入り込んでいる。それが誰なのか、記憶はすべて改ざんされ、誰にも判らない。紛れ込んだ本人にさえも。

読み終えたばかりの続編『アナザー エピソードS 』は、続編というよりは、エピローグまたは番外エピソードと言った方が似合う小説だった。
『アナザー』のように多数の死者が出る訳でもなく、ホラー的要素は薄い。
夜見山中学の災厄の生き残りのひとりが、垣間見た死をどう受け止めたのか、そこに焦点を当てて描かれている。綾辻行人、得意の『館シリーズ』の匂いや、どんでん返しは当たり前にあり、楽しんで読めたが。
エピソードS の「S」は、夏 summer、秘密 secret、海辺 seaside など、いくつもの S を散りばめた、とは作者。S を探しつつ読み進めていくのものもまた、面白いかもしれない。

『アナザー』はホラーといわれるが、悪者は誰一人いない。「死」を受け止めるってどういうことなのかと、答えが出ない問いを、漠然と投げかけている。

アニメっぽい表紙は、好みじゃないんだけど。
この少女がヒロイン『鳴(めい)』眼帯のなかは、死の色が見える義眼。

カバーをとると、装丁、凝ってるなーって感じの凝りよう。
『耳なし芳一』を思い出すのは、わたしだけ?

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木を見ず林を見ず、ただ秋の林で

松葉が絨毯のように敷きつめられた、我が家の隣の林を歩いた。
テーマは「木を見ず、林を見ず」
自然と目に入るもの以外は見ず、ただただ感じる。

しかし、足元は見て歩かないと、何がいるかわからないので不安である。
蛇などは音で判りそうだが、蛙を踏みつぶしても可哀想だ。冬眠の季節までのわずかな時間を楽しませてあげたい。

案の定、蛙に出会う。太っていて元気そうな目をしていた。冬眠する場所を探しているのだろうか。ゆっくりと跳ねていく。
漆は、赤く染まり始めた。まだ青いマツボックリや、素敵な茶色に成熟したドングリもたくさん落ちている。
芽を出したクヌギも、あちらこちらに見つけた。ドングリって種だったんだ、木に育っていくんだと、あらためて気づかせてくれる。
不思議な形のキノコを、見つけた。聞けば『エリマキツチグリ』と言うそうだ。確かに土のなかに生った栗のようにも見える。

松食い虫にやられ、命を落とした赤松が横たわっている。松食いは伝染するし、枯れて倒れても危ないしで、役場から依頼された業者が切っていく。越して来た頃の3分の1は切られただろうか。それでも、切り倒される赤松は後を絶たない。ここが松林ではなくなる日もいつか来るのだと、想像してみる。

眠るもの、実を落とすもの、日々彩りを変えていくもの、目を覚ますかのように土のなかから顔を出すもの、切られ朽ちていくもの。妖精も魔物も、見えないだけで棲んでいるのかもしれない。十年後、二十年後、この林には、どんな命が棲み、どんな風景を生み出しているのだろうか。
秋の林。「木を見ず、林を見ず」ただただ歩くことで、そこに息づく様々な命を思い、ふいに、空とも地面とも水平な場所に心を置いている瞬間を感じた。

蛙も、日向ぼっこするのかな?

漆の赤が、林を彩っていくのが楽しみです。
旧暦9月を『色取り月』と言うそうです。今の9月末から11月初めくらい?

倒した松は置きっぱなし。自然に朽ちていくのを待ちます。

「食べられるが、食べる意味なし」味に厳しい、きのこ図鑑より。
昔は、マツタケ(!)も生えていたそうですが、見たことはありません。

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たくさん、笑っていますか?

「たくさん、笑っていますか?」
facebookで友人が呼びかけてくれた。結婚式に新郎から新婦へのプレゼントの動画をシェアしていて、そのなかに「たくさん笑って、たまに泣いて、すてきな家族になろう!」というメッセージがかかれていたのだ。
「最近、笑顔足りないかも」
思いっきり笑ったのって、いつだっけ? と考える。

上の娘が、犬に噛まれた時に行く病院を調べていて、
「『がいか』ってとこで、いいみたい」
「それ、げか(外科)でしょ!」などと会話した時。

ヴァンフォーレ甲府が、首位レッズの本拠地浦和で、ロスタイムも終了1分前にゴールを決めて追いついた時。

伊坂幸太郎の小説で、何気ない文章が、笑いのツボにハマった時。

夫が寝言で、それはそれは嬉しそうに「餃子!」と言うのを聞いた時。

友人宅での女子会で、静かにたくさん飲む派の友人が、おしぼり入れに使っていた大きな器で「わたし、これで」と、ワインを飲もうとした時。

思い出したらそれだけで、気持ちがほっこりした。
小さなことで(ヴァンフォーレの1点は大きいけれど)けっこう笑ってるんだ。家族や友達やヴァンフォーレや伊坂に、笑顔をもらってるんだと思えた。
どうですか? たくさん、笑っていますか?
  
23歳の頃、ハマっていた人形作り。泣き寝入りした寝顔のよう。
いったいどんな気持ちで、この子を作ったんだろう。

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ピンクなパエリヤパーティ

「ピンクだねぇ」「ほんと、ピンクで統一されてるねぇ」
テーブルクロス、お皿、おしぼり、紙ナプキン、割りばしの袋までピンク。いつもそこにいるだけで場が華やぐ彼女だが、そんなにピンクが好きだったっけ? とちょっと意外に思いつつ、テーブルに着く。

「パエリヤを美味しく炊く秘訣を会得したから、ぜひ食べに来て」と言う友人宅に、友人達3人と共にお邪魔した。その整然としたリビングが綺麗にピンクだったものだから、友人達と顔を見合わせ彼女に問うてみたのだ。すると、
「ピンクは癒しの色なんだよ。優しい気持ちになれる色なんだって」
本当は緑が好きなんだけど、と言う彼女。家族が過ごすリビングをピンク系のもので囲んだ優しさに、一同ホッとした気持ちになる。
「そう言えば、歳をとってから、身の回りの小物は自然とピンク系を選ぶようになった」と、わたし。
「歳をとってからって、それなによ」と、いらぬ茶々を入れる友人のひとり。
「はいはい。まだ歳とってないね。40歳過ぎてからってこと」と、わたし。
「自分が求めている色を、自然と選ぶものなんだよ」と、家主の彼女。
全員が50代。気ままなでにぎやかなホームパーティ。パエリヤは海鮮の旨味たっぷりでカリッと焼けていて最高に美味しかった。

帰りに、ピンクの靴下を買った。友人の優しさをいっぱいに感じて、自分には優しい気持ちが足りないと、これは自然にではなく請うて手にしたものだ。
「優しい気持ち、優しい気持ち」唱えつつ、足を延ばし本屋に立ち寄った。
そこで見つけた本は、綾辻行人『アナザー エピソードS』(角川書店)バリバリのホラーだ。
「ホラーは、 優しい気持ちと相容れないものか?」
頭のなかで、ふたつをとっさに並べ比べてみる。何か方向が違っている気もしたが、夢中で読んだ『アナザー』の続編。ぜひぜひ読みたい。
「いったい、わたしは何を求めているんだろうか」
本屋の天井を仰ぎ見て、友人のように心優しい女性にはなれないのだと、判りきっていることを再確認する。
秋の夜長。「優しい気持ち」と唱えつつ、ピンクの靴下を温かく履き、思いっきりホラーを楽しむ。しかなさそうだ。

魚貝類は、鍋セットを使うのだと友人。その柔軟性! そしてこの出来栄え!

ピンク色が、本当に優しい。あ、盛り付けの途中で撮りました。
たくさんの美味しくてお洒落な料理を、用意してくれました。

温かい靴下が必需品の季節になりますね。活躍してもらおうっと。

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痛みは形を変えるのか

「時々、恐くなるんだ」「何が?」
「この痛みが、何か悪いものに変わるんじゃないかって」「悪いもの?」
「うん。たとえば、憎しみとか悪意とか。憎しみからは、何も生まれないって、よく言うけどさ、それなのに何故、憎しみが生まれるんだろう」
「だいじょうぶ。痛みを知っている人は、その分だけ優しくなれるって、言うじゃないか。痛みが何かに変わるとしたら、優しさだと思うよ」
「そうかなぁ。なんだか不安なんだよ」
「じゃ、森に行ってみない?」「森?」
「森林浴は、身体のなかのいろいろなものを浄化してくれるって、言うよ。都合がいいことに、森なら、そこらじゅうにあるしね」
「森林浴かぁ。うん、いいかも。森があるし。ところで『森がある』と『盛り上がる』って似てない? 左手くん」
「そのギャグ、『注意して』と『チューして』って似てるねって言うくらい、やばいよ。右手くん」

痛みは、左手くんが言うように、優しさに変わるのだろうか。ずっと痛みが続いていたら、それが何か悪いものに変わっていくんじゃないかと言う、frozen shoulder(五十肩)中の右手くんの不安も判る。
そんな不安と痛みを浄化するために、ただ森を歩いた。
右手くんと左手くんがハマった、くだらないギャグの応酬を聞き流しつつ。

野生のキウイが、たわわに実っていました。鳥が種を運んだのかな?

正体不明のキノコも。毒ありそう~。きのこ図鑑を見ると、
有毒のテングダケ科『タマシロオニタケ』によく似てます。
photo by my husband

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激辛唐辛子を甘くみるな!

同じ失敗に、よく陥る。失敗することで学習し、2度は繰り返さないというのがベストではあるが、失敗のツボというものが、人それぞれに違っていて、誰にでも「あー、またやっちゃった!」ということがある。(と、思いたい)
苦手なところでよく失敗するのかと思えば、一概にそうとも言えない。苦手な数字が飛び交う経理の仕事での失敗もあるが、苦手だという前提に立ち、何度も、もう本当にしつこいくらいに何度も確認する。苦手が故に同じ間違いはしないし、失敗の数も少なくなるものなのだ。
ということで、失敗のツボは、得意なところにあるんじゃないかと、わたしはにらんでいる。得意分野ほど、やはりどうしても甘くみてしまうのだろう。ふん、これくらいだいじょうぶさ。というおごりが失敗を招くのだ。

わたしの場合、その陥りやすいツボは、辛さである。
辛いものが大好きだ。七味唐辛子は、京都は一休堂のものをネットで買えるようになる前から取り寄せていたし、わさびも辛子も生のにんにくも生姜も、キムチだって、とかいていると、うっとりしてくるほどに好きなのだ。

スーパーの野菜売り場で『コールラビ』なる野菜を発見した。綺麗な色と、角が生えた子鬼のような面白い形。調理法をかいた紙も付いている。
「きんぴらかぁ。簡単そう。ふむふむ、唐辛子、にんにく、生姜ね」
調理法をサッと読むと、隣に『激辛唐辛子』がある。まだ柔らかく新鮮な緑色。わたしは、コールラビと激辛唐辛子を買い物かごに入れた。その時すでに、甘くみていた。どうせ、なんちゃって激辛でしょと。
唐辛子を刻んだ時に、咳が出た。あれ、風邪ひいてないのになぁと疑問に思うが、ここでもまだ、甘くみていた。そしてにんにくと生姜と唐辛子2本(!)を炒めて、さらに咳が。
風邪のひき始めかなと、まだまだ呑気だ。しかし出来上がったコールラビのきんぴらをひと口味見した途端、思いっきりむせた。辛いなんてもんじゃない。水を飲むが咳は止まらない。3分ほど止まらない咳に苦しみ、ようやく気づいた。これは、なんちゃって激辛じゃない。ほんまもんの激辛唐辛子だと。

辛い物好きな人には在りがちだ。自分に限って、このくらいの辛さなどビクともしやしないとの無駄な自信と、いらないプライド。きんぴらから綺麗な赤と緑の激辛唐辛子を取り除きつつ、忘れた頃にまたやるんだろうと確信した。

この色と、この形に魅かれました。唐辛子もうっとりするほど綺麗。
コール(キャベツ)+ラビ(カブ)というドイツ語だとか。

でも、むいてみたら、なーんだ、ただのカブ?

唐辛子、綺麗なんだけど、入っていると危険です。
でも取り除いて味が落ち着くと、やめられない、とまらない!

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ようやく晴れた高遠の空

高遠を訪ねたのは、2度目だ。十年ほど前に夫とふたり、桜の名所と歌われる高遠城址公園に花見に行った。

『薪ストーブ祭』を楽しみ、高遠蕎麦を食べ、それから今回も、城址公園を歩いた。桜の木はまだ紅葉には早く、3連休とは言え、人も出ていなかった。ずいぶんと前のことなので、ふたりともうろ覚えの部分が多く、ああだったね、こうだったかなと話しつつゆっくりと歩いた。
たしか春の高遠は、いちめんに桜が咲き、露店が出て人でにぎわっていた。だが、その桜を見ても、気持ちが晴れなかったことを覚えている。
多分子ども達のうちの誰かのことで悩み事を抱えていたのだと思う。今となってはすっかり忘れてしまったが、その時には胸の内の広くを占める悩みだったに違いない。通り過ぎてしまえば小事でも、渦中にいるとそうとは思えないことの方が多い。そんな悩みに違いなかった。満開の桜を見て泣きたくなったことだけが、記憶にある。

その時帰り道、集落のなかにある陶器の店に立ち寄った。そこで平たいぐい飲みを買った。淡い桜色が、本物の桜より心に沁みた。この十年ほど、夫と日本酒を呑む時に、わたしがいちばん気に入って使っているのがそのぐい飲みだ。
「あの店、あるかな?」と、わたし。「集落のなかだったよね」と、夫。
果たしてその陶器屋『凡窯(ぼんよう)』は、見つかった。雰囲気も変わらぬまま、タイムスリップして迷い込んだかのように、十年前のままだった。
わたし達は顔を見合わせて微笑み、店をゆっくりと見て回った。一人の作家が作ったとは思えぬ多様な器があったが、ここで買ったぐい飲みと対になるような、やはり淡い桜色した片口を選んだ。
店を出て見上げると、空は晴れていた。わたしのなかで、十年間曇ったままだった高遠には、今ようやく、高く青い空が広がっている。
  
迷って走った集落の一つにありました。『真澄』のひやおろしを買って。

柔らかな桜色と、ゆるいカーブが気に入っているぐい飲み。

片口は、見えないところにつけられた模様が、洒落ています。
「会えたね、兄弟。って感じ?」と、わたし。
「いや、兄弟っていうよりは、片口の方が後輩かな」と、夫。

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いつもと違う味を味わうことで得るもの

「お隣の県でも、やっぱ雰囲気、違うね」
高遠の町並みを、助手席で眺める。夫と『薪ストーブ祭』に行った後、城址公園近くのちょっと名の知れた蕎麦屋に行こうということになった。
蕎麦屋『壱刻(いっこく)』
「高遠蕎麦は、味噌で食べるんだよ」と夫からは聞いていた。
夫は先日、薪割り機の修理で高遠を訪れた際、高遠蕎麦は食べたからと、とろろ蕎麦を。わたしは、噂の高遠蕎麦を注文した。

蕎麦ちょこには、白い汁が入っていて、濃い色の味噌と大根おろしが添えてある。蕎麦つゆもある。
「大根おろしの汁に、味噌で味つけして、お召し上がりください」
店の女性は、お好みで蕎麦つゆでもと言い添えた。
「あ、美味しい」と、わたし。「不思議と美味しいよね」と、夫。
同じ蕎麦でも、地方によってはこんな食べ方もあったんだとの新たな発見に嬉しくなる。そして蕎麦つゆで食べてみて、また発見。
「鰹出汁の味が、濃いねぇ」
これは、高遠の味というよりは『壱刻』の味なのだろう。家で食べるいつも蕎麦つゆと違う味に、またも嬉しくなり舌鼓を打つ。

家で、と言っても、出汁をとったり手間を掛けて作る蕎麦つゆではない。生協のものを気に入って使っているだけだ。この春県外に出た末娘などは、スーパーで買った蕎麦つゆが美味しくないから送ってくれと頼んできた。それは本当に美味しくないのか、それとも慣れ親しんだ味を求めているのかと考えつつも、米を送るついでにつゆも送っている。

他の土地での味、違う人が美味しいと思って作った味を、味わうのは楽しい。料理の味付けを変えてみようかなと、考えるきっかけにもなる。長く守ってきた自分のやり方も、変えてみたらもっといいかもと疑うことだって必要なのだ。だが、そうして自分を疑ってみることは、意外と難しく忘れてしまいがちだ。だからこそ、機会在る度に思い出すようにしたい。
いつか末娘も、自分の蕎麦つゆを見つける日が来るのだろう。しみじみ考えつつ、熱い蕎麦湯をたっぷりとすすった。

手前にある蕎麦ちょこに入った白いのが、大根おろしの汁です。
蕎麦は3種類から選べます。二八のスタンダードなものにしました。

お洒落な入口は、田舎町では目を引きます。

でも隣の酒屋さんの年代物の看板には、もっと心魅かれるかも。

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当りか、外れか

カランカランカラン! と、高らかに鐘はなった。福引きである。
「おめでとうございます!」と、係の女の子。
「えっ、嘘、当たったの?」と、わたし。
「バーベキューセットだ!」と、何も聞かず置いて在る物を見て断定する夫。
「あ、違います。これです」差し出されたのは、着火剤だった。
「あ、これ?」「これか」と、わたし達。
手渡されて歩き出してから、ふたり笑った。
「だって、あの鐘の鳴らし方は、どう考えても1等だよねぇ」
「4等で、あれはないね。確かに」
人生初、福引きでの当たりは着火剤だった。

行楽日和の昨日、夫とふたり、高遠の『薪ストーブ祭り』に出かけたのだ。
「すごくいい、薪用のラックがあるんだよ」
夫の言葉に誘われ、蕎麦が美味い高遠ならと出かけた。
福引きは、来場者全員が、受付と同時に出来るようになっていた。

回して球が出るタイプの福引き『ガラポン』は、これまでも何度かやって来た。だが、これまで当たりと言われ手渡された外れは、ポケットティッシュか飴玉だった。今回初めての当ったと言ってもいい当たりは着火剤だったが、いい気分だった。ゆっくりと回して球が出た。あ、飴玉を貰った夫は黄色だったけど、わたしは黒? と思った途端、カランカランカラン! 大きく鐘が鳴った。それだけで、もう何とも言えないいい気分だ。

運を小出しするのはよくないとか、それじゃ大きな幸運には巡り合えないとか余計なことを言う人もいるが、福引きでカランカランカラン! と鐘を鳴らされた時の一瞬の高揚は、けっこう大きな幸運だよと、着火剤を手に考えた。

整然と並んでいるのは似合わない、居心地悪そうな薪ストーブ達。
  
薪割り用の斧も、お洒落な感じ。   えっ? これも薪ストーブ?

様々な小物も、並んでいました。

帰りにも聞きました。カランカランカラン!「おめでとうございます!」

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木はそこに立っている

束縛されるのは、苦手だ。もちろん束縛するのも、好きじゃない。
だが生きていれば、仕事があり、家庭があり、絡みついてくるものも多い。

この春まで、末娘が高校に通うため、朝夕駅まで送り迎えをしていた。無人の最寄駅まで歩けば1時間以上かかる田舎での暮らしでは、子どもの送迎は親の仕事の一つになる。所用で東京に出かけた時でさえ、娘を少し先の無人ではない駅で待たせ、待ち合わせて帰っていた。それを束縛だと思ったことは、1度もない。朝夕の彼女とのおしゃべりは楽しく、またしゃべらなくてもホッとする温かな時間だった。
娘が県外の大学に行った今、その送迎がなくなり、時間と心のスペースは、微妙にズレとひずみを生んでいる。

森を散歩していて、長く蔓に絡まれていたであろう木を見つけた。共に生きてきた蔓は朽ちてしまったのか、人の手で切られたのか。その木が自分に重なって見えた。淋しいとは思っていない。ただ、母と娘という関係で深く絡み合った時間を愛おしいと思うだけだ。

だが淋しいと思わずにいられたのは、思う暇もなかったからだとも言える。
上の娘がオーストラリアのワーキングホリデーから帰って来て、サム、マルコス、マリー、クリス。彼女を訪ねて4人の外国人がやって来た。娘はあれやこれや、にぎやかしく忙しくしていて、そんな彼女としゃべるのもまた楽しい。

絡んでいた蔓が失くなっても、木はそこに立っている。何年くらい絡み合っていたら、こんな風になるのだろうかと、木に深く刻まれた溝を撫でた。
  
北杜市は大泉町。ドライブの途中で車を降りて散歩した森で。

こちらは、びっきー側の隣の林です。

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どうしても譲れない部分

「虫、だいじょうぶなんだねぇ」
先日、久しぶりにランチした友人に、恐る恐るという口調で言われた。口に出すのもはばかられるほど、虫が苦手だそうだ。
「中学時代の愛校作業での草取りだけはねぇ、真面目にやろうといくら頑張ってもできなかった」と、真面目な彼女が告白した。
わたしが『パセリ』と名まで付け、可愛がっていたキアゲハの幼虫の写真を見て、もしかして触れるのかな? と思ったと言う。
「触るのは平気だけど、虫のためにならないから触らない」
と言うわたしの言葉にも、はーっとため息をつく。
「そうじゃないと、田舎暮らしはできないよねぇ」

彼女とは、価値観も感じ方も似通った部分が大きいと思っている。たぶん、彼女もそう思ってくれていると思う。それでも譲れない部分は、当然ある。人って、友達ってそれが面白いんだよなぁと、虫びいきのわたしに感心する彼女と一緒に、その違いを笑いつつ体感した。

よく晴れた昨日、ウッドデッキに洗濯物を干そうと出ると、カマキリが椅子に座っていた。
「ちょっとぉ、そこ、洗濯物置きたいんですけど」
声をかけたが、どうも威嚇している様子。面白いのでケータイで激写した。
ついには、攻撃を仕掛けるべきと判断したのか、ケータイに飛び乗り、わたしの肩まで上っていく。
「虫って、どうして上へ上へと、上って行くんだろう」
と考えつつ、親切にもデッキに下ろしてあげた。
友人が見ていたら、悲鳴を上げるのだろうか。
「ほらほら、カマキリ! よく見ると、可愛いいんだよ」
などと無理強いしようとは、無論思わない。うーん、ちょっとだけ思うかも。

堂々とした風格、感じませんか?
  
それ、威嚇してるの?      「洗濯物干すの手伝ってよ」by右手くん

今朝もウッドデッキに、別のカマキリが。カマキリ達の人気スポット?

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『反省を忘れるな』

一文に、ハッとさせられることがある。
毎日読んでいる友人とんぼちゃんの日記には、カレンダーの言葉から感じたひと言が冒頭に載せてあって、それが面白い。
先日も『反省を忘れるな』から、
「今日一日はどうだった? 誰かのために何かできた?」とあり、
「誰かのためにかぁ」としばし、パソコンを前に考え込んだ。『反省を忘れるな』から連想するものとして、わたし的には思いがけない一文だったのだ。
とんぼちゃんの、懐広く温かい人柄を思わせる素敵な反省の仕方に、わたし自身反省した。自分のことばかりで、周りに目が行かなくなっていることがよくある。よくあるどころかほとんどだ。その「自分のこと」には、家族のことも含まれてはいるが、それより広がっていくことは、何かが在った時などに限られていて、普段から考えたりはしない。

わたし自身『パーソナルスペース』の取り方が大きいこともあり、これをしてあげたら逆に負担かも知れないとか、お節介かなとか、押し付けになっちゃうかもとか、先回りして考えすぎるのだ。しかし、その一文が頭から離れない。
「今日一日はどうだった? 誰かのために何かできた?」
小さなことでいい。無論、大きなことなどできはしない。

考えに考えて、実家と神戸の義母に電話をした。実家からは、先週北海道のメークインが送られてきたにもかかわらず、実家だという甘えもあり電話もせずにいたのだ。冷たい娘である。久しぶりの電話に父と母は途中で電話を変わり、身体の調子やメークインの食べ方などを双方ゆっくりしゃべった。
義母とも最近メールばかりだったので、ドイツリートを歌ったコンサートの話や聴きに来てくれた親戚のことなど、その後疲れが出てはいないかなどを、たっぷり聞くことができた。
「たまには、お電話もいいわねぇ、声が聞けるし」と、とても喜んでくれた。

これも家族のことで「自分のこと」の内だろうって? 身の回りの小さなことから始め、少しずつでいいから自分らしく懐を広げていけばいいさ。などと思いつつも大きな疑問という球ががストレートで投げられもした。両親も義母も「そちらは、だいじょうぶ?」と、逆にわたしのことや夫、子ども達のことを心配してくれていたのだ。誰かのためにと電話したわたしの意図は、立場逆転サヨナラ負けって感じで、宙に浮いた。 
誰かのために何かをするのは難しい。目を留めた一文のおかげで実感したのは、そんな当たり前だけど、とてもとても大切なことだった。

段ボールいっぱいの十勝産メークイン。ほそおもての美人じゃがさんです。
北海道生まれの両親。親戚から送ってきた物とは言え、
重たい思いをして、わたしのために送ってくれたんだよねぇ。

野菜スープに入れると全体にしっとりした風味が出て、ほかほか温まります。

オリーブオイルと白ワインビネガーと塩で味付けしたポテトサラダ。
ケッパーと紫玉葱、イタリアンパセリ。
オレンジ色のパプリカが入ると、ハロウィンっぽくなりますね。

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犬も歩けば

「果報は寝て待て?」「それ、逆じゃない?」
「じゃ、棚からボタモチ?」「それも違う感じ」
「犬も歩けば棒にあたる?」「いや、それはマイナスイメージでしょう」
「そんなこともないよ。『犬も歩けば』は、外を出歩くことで、危険なことに会うってイメージがあるけど、幸運に出会うって意味もあるんだ」
「そうなんだ? 知らなかった。それはそうと、よかったね。右手くん」
「うん、なんだか信じられないけど、楽になったよ。ありがとう。左手くん」

先週、雨で迷いに迷った挙句観戦に行ったヴァンフォーレのホームゲームで、ばったり友人と会った。前回の観戦でも遠目に挨拶を交わしていたので、ばったりと言うのも変かもしれない。彼女のご主人は夫のチームメイトだ。ヴァンフォーレの試合で出会う確率は高い。その彼女に世間話ついでに言ったのだ。
「五十肩になっちゃって」すると病院は何処に行ったのかと真顔で聞かれた。
「わたしも何年か前にやったのよ。それが、注射ですぐ治ったの」
「マジ?」「マジマジ!」

昨日、紹介してもらった病院で注射を打ってもらった。
「注射した途端、上がらなかった手が上がるのよ」という彼女の言葉に、
「またまたー」と思っていたわたしだが、注射すると手は上がった。
全くの全快と言うわけには、もちろんいかない。まだまだ不便だし痛みはひいてない。しかし、風呂で髪を洗う時、また洗面所で髪をとかす時「おおー! ここまで届くの?」と感動する右手くんの歓声を聞いた。

外に出れば危険なこともあるかもしれないが、外に出ることで幸運にも巡り合えるかも知れない。右手くんと左手くんの会話に聞き耳を立てつつ、稲刈りの終わった田んぼが広がるいつもの道を散歩した。
インドア派のわたしだが、今度のことで痛感した。人間も歩かないと。
(注)治療の仕方は、人それぞれ。合う方法が見つかるといいですね。

稲刈り後の田んぼと秋の空。
農家さんは、すでに来年のために肥料を撒いていました。

畔、一面にヤクシソウが咲いています。可愛い。

猫じゃらしも、赤くなってきました。

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螺旋階段は、何処へ向かっていくのか

日曜、行楽日和ですよと言わんばかりの秋晴れに誘われて、夫と出かけた。
『ワイン&クラフトフェスタ』を、同じ北杜市は長坂町でやっていると、出店する鉄刻屋さんに聞いたのだ。ふたりなのでネットで調べることもせず、まあ行ってみようかとスーパーに買い物にでも行くような気軽さで出かけた。
山梨に越して来て、もう13年。何度か足を運んだ店も、いくつも出店している。余計にのんびりとした気分になり、ふらふら冷やかして歩いた。

一通りの店を見て、ランチにカレーを食べ、夫はワイン、わたしはアイス珈琲を飲み、誰かと会ってはしゃべったり、ぼんやり空を見たり、手に取ったものを買おうかと真剣に悩んだりした。
「あ、これ素敵」と思った途端、夫が言った。
「これ、いいねぇ」同じものである。
木製の一輪挿しで、作ってから川に浸しておき、流木風に仕上げたという。
小さなもので8千円。手が出ない値だが、夫は大きい方を持ち上げ、聞いた。
「これ、いくらですか?」
すると、遊び心で作ったもので値は付けていないという。要相談だそうだ。
「1万円ってことは、ないですよね?」と、探りを入れる夫。
「1万円じゃ、嫌です」と、きっぱり木工作家さん。
うーんと唸り「今度、工房にお邪魔します」と案内ハガキをもらい、すごすごとブースを出るしかなかった。

その一輪挿しは、階段をデザインしてあった。四角い木を削り、下から螺旋階段で上まで上れる。
「この階段を見ながら、酒を呑んだら美味いだろうな」と、夫。
うなずきつつ、わたしはフィッシャーのだまし絵を思い浮かべていた。何処まで上っても頂上に着かない階段だ。
いつも全力で真っ直ぐに階段を上っていく夫は、常にわたしのずいぶんと先を行っている。彼は、極度の方向音痴であるわたしと違い道に迷うことはない。これ、本当に上っているのだろうかと疑ったり、立ち止まったりはしないのだ。その彼が先に行っていることが、わたしの行く道を微かではあるが確かに照らしてくれている。そんなそれぞれの足元を、ふたり見据えつつ、階段の一輪挿しを前に酒を呑むのもいいなと、秋空を見上げ考えた。

18のブースに、個性豊かなお店が、出店してました。

ランチは、青空の下で『ぼんてんや』の盛りだくさんカレー。

『平山郁夫シルクロード美術館』の裏にある公園です。

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ジンクス追加事項

雨の土曜日。わたし達は迷っていた。
首位マリノスとの試合だということもあり、BSで全国放送する。甲府中銀スタジアムは、屋根はもちろんないのだが、傘をさすのは禁止。後ろの人の観戦の邪魔になるからだ。
「雨に濡れながらスタジアムで観るか、ワインでも飲みつつテレビで観るか」
それはもう、家で観る方が、断然魅力的である。

だが午後になると雨は上がり、どんよりとした雲は空を覆ってはいるが、明るくもなってきた。夫のチームメイト、サトリックからメールがある。
「行くんですか? 行かないんですか?」
「行くか」と、夫。「やっぱ、行くか」と、わたし。
サトリックを韮崎で拾い、高速を飛ばした。メインスタンドのアウェイ側に座ると、否が応でもマリノスの統率の取れた整然とした応援の声が、音が耳に入ってくる。首位争いをするチームは違うなと思わせる応援だ。

わたしはサトリックに生ビールを手渡し、ふたり深くうなずき乾杯した。わたしがスタジアムで生ビールを飲むと負けないという不敗神話は崩れたものの、新しく発見したジンクス「ヴァンフォーレの試合の日には、チキンは食べない」を守り続けて以来負けていなかったのだ。サトリックと観に行った鹿島戦は、ふたり生ビールを2杯ずつ飲み3-0で完勝。ここでわたし達がビールを飲まずに負けたら後悔も大きい。そんな思いを込めた乾杯だった。
しかし前節清水戦は、いいところなく負けている。その試合について、わたしは夫にも話していない、ある思いを抱いていた。

甲府は強かった。ニュースや新聞で、何と言われようとも、観た人にはマリノスを圧倒していたのがわかるはずだ。0-0で分けたが最後の最後まで目を離せない、ありきたりな表現を使えば手に汗握る試合だった。貴重な勝点1だ。
「新たな不敗神話だね」と、わたし。
「サトリックとふたりで、ビールを飲むと負けないってこと?」運転手の夫。
「清水戦は、前日に鶏たたき鍋を食べたのが敗因だよ。これからは金曜も、絶対チキンは食べない」
わたしの新たな誓いに苦笑するサトリックと、ひとりいつもビールなしで観戦する夫と共に、意気揚々と駐車場までの道のりを歩いたのだった。
(注)「サトリック」とは、わたしが勝手に付けたニックネームです。

鶏たたき鍋の作り方。濃いめに味付けした出汁に牛蒡を入れて煮ます。

鶏ひき肉には味付けせず、葱と卵を混ぜ、スプーンですくい落とします。
後の具材は、鍋に入れ煮えれば出来上がり。九条葱が美味でした。

日本酒が合いますね。これからの季節にピッタリの鍋始めでした。

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いつ咲いたってヤマツツジ

「燃ゆる思い」という花言葉を持つヤマツツジが、咲いている。
春咲いたその木が、季節外れにふたたび花を咲かせることを、狂い咲きと呼ぶのは知っていた。今年は山梨でも5月に咲いた藤が、8月またも綺麗に花を揺らし、ニュースにもなった。温暖化の影響、と一言では済ませられないが、そう思わずにはいられない。植物達も、悩み惑っているのだろうか。狂い咲きの季語は冬だというから、季節はもうごちゃごちゃだ。

試しにエキサイト翻訳で「狂い咲き」を英語にしてみたら
「It is out of order and blooms.」となった。
意地悪く再度日本語訳にしてみると「それはオーダーと花が不足しています」
その花、オーダーと違うじゃん、とも取れるような可笑しな日本語になる。
そう言われると(いや誰も言ってないのだが)いつ咲いたっていいじゃん、という気持ちになった。
確かなことは、どんなに環境が変わろうと科学技術が進歩しようともヤマツツジに薔薇は咲かない。自分の花を自分なりに咲かせるしかないのだ。どんなオーダーをされようと自分は自分。他の誰かにはなれないし、なる必要もない。

「燃ゆる思いで、咲いたんだね」
万人に微笑みかけるかのように咲いたヤマツツジに、思わず笑顔になる。彼らは知っているのかもしれないと、ふと考えた。自分の寿命どころか、この先、地球がどうなっていくのかも、人がどう変わっていくのかも。

火の色に近いこの色から、花言葉はイメージされたようです。

のびのびと陽を浴びて、大きく咲いたね。

赤い実をつけたハナミズキが、てっぺんにとまった赤トンボと秋の空と、
「華やかな朱色が素敵だね」と、ヤマツツジを眺めていました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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