はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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夢は、いつでも波乱万丈

物語のような夢を、よく見る。

神社を隔て、東に猫、西に人間が住んでるのだが、月がいい具合に欠けた夜、神社では、人も猫も堺なく、祭りが行われる。
わたしは旅の途中で、老夫婦の住む家に世話になっているのだが、祭りの夜に限り、眠ってしまう。翌朝、目覚めると老夫婦は何処にもいなくて、昨日までいなかった若夫婦が、朝食の支度をしてくれる。ふたりとも老夫婦と顔つきがよく似ていて、息子夫婦なのだと思い込むのだが、違和感はすでに生じていた。ふたりともが似ていることなど、ある訳もないのだ。ビールに眠剤を、もられたと気づくと同時に、若夫婦は、老夫婦が若返ったのだと判ってしまう。
尋常ではないと背筋が冷たくなり、慌てて逃げるが、追手は足が速い。高層マンション最上階の一室に忍び込み、鍵をかけるが、ふたりは外壁を垂直に登ってくる。獣のようである。わたしは箒でふたりを払い落とす。夢であるから、簡単に追手は落ち、胸を撫で下ろした。
そして、ベランダから部屋に戻ったわたしを迎えたのは、拍手喝采する猫達だった。人間達が祭りの夜、不老不死の薬として、猫を食べる習慣に悩まされていたという。そのリーダーが、すでに妖怪と化したあの夫婦だった訳だ。
わたしは、猫達に見送られて、ふたたび旅に出る。なついた子猫が一匹ついて来て、宙返りすると3歳くらいの女の子に変身し、笑顔を向けた。

朝起きて、開口一番、夫に発した言葉は、もちろん「疲れたー」だった。
何故に眠りながら、こんなにも波乱万丈。夢は選べないとは言え、眠っている時くらい、安らかでありたいと思い、できる限り心静かにベッドに入っているというのに。夢占いなどというものもあるらしいが、果てさて、この夢から、いったい何が判るのだろうか。

モデルロケ地(?)は、お隣、韮崎市『穂見神社』だと思われます。

狛犬さんも苔生す、雰囲気のある神社です。

背中に森を背負っています。東側ですね。

そして、西には田んぼが広がり、住宅が・・・。



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新しい風は、サラダ屋で

新宿から、ひとりであずさに乗る時、気が向くとサラダ屋でサラダを買う。
出来合いのサラダは、マンネリ化した我が家の食卓に、新しい風を吹かせる扇風機的役割りを担っているのだ。
焼き野菜に、酢が効いた玉葱ドレッシングがかかっていたのが美味しくて、以前は使わなかった黒酢玉葱ドレッシングを使うようになったり、オクラや山芋を頻繁にサラダに入れるようになったり。

先日も、ひとりランチにと、3種類のサラダを食べて、気がついた。
すべてに人参が入っていたのだ。もちろん、主役ではなく脇役に。色合いも綺麗だし、栄養価の高い人参だが、野菜スティックでガリガリかじるか、気合いを入れて極細千切りのキャロットラぺにする以外は、サラダには入れない。
学校給食を、懐かしく思い出しもした。ほとんど毎日、人参が入ってたっけ。栄養のバランスをとるためには、欠かせない食材だったのだろう。
「いいかも、これ」
という訳で、今回の新しい風は、人参だった。

しかし新しい風が吹いても、一時的なもので終わり忘れ去られることのなんと多いことか。料理って、どうしてこう、すぐにマンネリ化しちゃうんだろう。
「キッチン担当の奥様だからこそ、いつもいつでも、お外で美味しいものを召し上がってくださいね」ってこと、なのかな?

焼き茄子のサラダには、カリカリのちりめんじゃこと砕いた胡桃が、
かかっていました。ゴーヤと豆腐のサラダも、美味しかった!
手前は、もずくと春雨の酢の物です。人参の自己主張強かったです。

キャロットラペ。オレンジは、買い置きの甘夏缶で代用しました。
人参のいいところは、大抵、買い置きしてあることです。

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向日葵畑に消えた「my pleasure」

「my pleasure」という言葉が、好きだ。「thank you」と言われた時に返す「no problem」や「you are welcome」と同じく「どういたしまして」という時に使われるが、直訳すれば「わたしの喜びです」となる。「あなたが喜んでくれて嬉しい」という意味合いだろう。

以前、夫がイベントで講演をお願いしたアメリカの方に(その講演は素晴らしかったとのことだが)お礼を言うと、笑顔で「my pleasure」と返してくれたという。それを夫に聞き、知った言葉なのだが、電車で席を譲ったり、狭い通路で道を譲り合ったり、何ていうことのないシーンでも使われるらしい。
そんな英語の文化って、素敵だなと思う。

ところで、何年か前のこと。向日葵が咲くと思い出す、出来事がある。
買い物帰り、村道で信号待ちをしていると、前の車から70代前後の夫婦が降りて、わたしのところに来た。向日葵畑までの道を、教えてほしいという。
当然、道は知っているのだが、なにせ方向音痴のわたしである。道を教えるのは大の苦手。たいして遠回りでもないので、先に走って、ついて来てもらった。その方が、簡単だったからだ。
だが、ぶじ向日葵畑に着き「ここです」と言って帰ろうとすると、ご婦人が車から降りてきて、わたしに何かを手渡した。千円札だった。
「そんなつもりじゃ、ないですから!」戸惑うわたしに、ご婦人は無理やり千円札を押しつけるようにして頭を下げ、足早に車に戻って行った。
呆然自失。しばらく何が起こったのか、判らなかった。
わたしも、悪かったんだと思いはする。ただ道を教えられれば、気を使わせることもなかったのだ。しかし、それでもこれは違う、という気持ちばかりが膨らんでいった。「うちの村に、向日葵を見に来てくれて嬉しいです」そんなわたしの「my pleasure」は、千円札という形を拒み消えていったのだった。

我が家から車で走ること2分。朝9時。風が吹いて涼しかったです。

向日葵が揺れるほどの風では、ありませんでした。

平日でも夏休み。親子連れが、何組か、訪れていました。

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『小野寺の弟・小野寺の姉』

家族は、チームだと、以前『月の砂漠をさばさばと』を読み、感じた。
それは母親と小学生の娘との二人暮らしのチームだったが、今回読んだ、西田征史『小野寺の弟・小野寺の姉』(泰文堂)は、タイトルからも判るように、チームを組んでいるのが姉と弟だ。
40歳を過ぎた姉と30代半ばの弟。共に未婚、恋人なし。特別仲がいいという訳ではないが、ふたりのリズムで暮らしている。姉は、はっきりものを言い、じっとしていることが苦手。風水にハマり、未体験である朝寝坊をするのが夢。弟は、思ったことの半分も言葉にせず、時間通りに動くのが苦手。ご飯が炊ける匂いを何より愛し、なんだかんだ言っても姉には逆らえない。

家族って、面白いなぁと思ったのは、視点が弟、姉と交互になっていることで、同じ出来事に対するふたりの感じ方の違いや、たがいに内緒にし合っていることなどが、明らかになるところだ。

たとえば、姉、より子の章。
進は昔から迷子になりやすかった。そうなるたび、私はこうやって片手を上げ売り場の真ん中に立ってあげる。大柄な私がこうすると目立つのか、幼き日の進は、すぐにこちらを見つけて駆け寄って来た。おそらく自由の女神のように見えていたのだろう。

そして、弟、進の章。
大柄な姉ちゃんが手をあげる姿はとても目立つ。『自由の女神』みたいなポーズだが、まるでそうは見えない。おかっぱ頭で右手を突き上げているその姿は『選手宣誓をしているこけし』みたいだといつも思う。

こんな風に、ちょっとズレながらチームを組む姉弟。親子でも、兄弟でも、夫婦でも、家族はやっぱりチームなんだと、そして、ちょっとズレているのが当たり前なんだと、読み終えて温かい気持ちになった。

本屋でタイトルに魅かれて、衝動買いしました。
小野寺が中心にいて、その弟とその姉とも取れるタイトルですが、
それがふたりのことを指すというのが、面白くて。
秋には、映画公開予定だそうです。姉は片桐はいり、弟は向井理。

カバーをとると、なかには小説のキーワードになる絵が描かれていました。
特別なことをどちらかやるか、決める時にするオセロゲーム。
より子がハマっている風水によって、居間に置かれた赤べこ。
花が咲くと夢が叶うといわれる、ワイルドストロベリーの鉢。
スーパーの福引きで当てまくった、ポケットティッシュ。

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目から涼しく

日曜日。夫と諏訪湖まで、ドライブした。
エアコンのない我が家から、一番暑い時間だけでも抜け出そうと、北へ向かったのだ。高速を走っていると、土砂降りの雨が降り出した。
干したままの洗濯物が心配にもなったが、久しぶりの雨に目が涼む。ついこの間まで、じめじめした梅雨に嫌気がさしていたのに、人間とは我儘なものだ。

諏訪湖に到着すると、雨は上がっていた。車が表示する気温は30℃。
「暑いじゃん」「暑いね」と言いつつ、湖畔を散歩する。
だが、柳の枝に緑が揺れていて、その影に入れば、わりと涼しく、すぐそこに水が広がっているというだけで、目も涼む。不思議なものである。

「せっかくだから、諏訪湖の酒が、買いたいな」と、夫。
諏訪湖の周りを一周ドライブし、酒蔵の直営店を探すと、『麗人』と『眞澄』が見つかった。運転手は夫で、試飲はわたし。辛口の純米酒や、夫のリクエストに応え、にごり酒を味見した。いくつか飲んで、辛口でも辛いだけではなく味わいの深いものを選んだ。
店は当然、冷房が効いていたが、並べられた酒のたたずまいと、酒蔵の「蔵」眞澄の「澄」麗人の「麗」という文字に再び目が涼む。思わぬところで涼しいと感じることができ、人の感覚ってなかなか上手くできてるなぁと感心した。
「この夏は、目から涼しくを、テーマにしようかな」
日ごと暑さが増していく日に、いいこと見つけたドライブとなった。

湖畔には、蝉ではなくヤゴの抜け殻が、ありました。

気温は30℃近くありましたが、風が吹いて、涼しかったです。

日本酒好きの夫も、知らなかったという『麗人』

有名な『眞澄』は、門構えからして立派で、人も多かったです。

夕飯は刺し身で『麗人』で購入した、にごり酒を傾けました。

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向日葵畑と野に咲く花達

我が町、明野町では、夏の花と言えば、向日葵だ。
昨日から『サンフラワーフェス』も始まった。日照時間が日本一だということから何年か前に村おこし(当時は村だった)で始めた、向日葵畑で観光客を呼ぼうというイベントだ。そのイメージも、定着しているようで、この季節、向日葵を観に訪れる人も多い。

だが町内に住む人は、わざわざ観に行ったりはしない。車で通って「今年も、ようけ咲いたじゃんねぇ」とちらりと見るだけだ。
何しろ、村おこしで始めた当時と、日中の気温が違う。都心より涼しいからといっても、炎天下、花を愛でるような気持には、なかなかなれないというのが正直なところ。訪れる人達には、しっかり熱中症対策をしてほしいと、心配になるほどだ。

早朝、涼しいうちに散歩して、日影に咲く目立つこともない小さな花達を、静かに愛でる日々。向日葵畑より、こっちのほうが田舎である明野を満喫できると思うんだけどなぁ。まあ、そうはいかないよねぇ。野に咲く花は、何処でも見られるかも知れないけれど、向日葵畑となると、何処にでもある訳じゃない。涼しい時間は下を向いてしまう向日葵。太陽に向かって咲く、夏の象徴。みな、そんな一面に咲いた向日葵を、観に来る訳なんだから。
人が作ったものには、自然が作ったものとはまた違った美しさがあるけれど、変わりゆく地球に対応できるほど人の力は大きくないと、向日葵のこの季節、考えさせられてしまう。

ボタンヅルだそうです。実が生ると、仙人のように髭が
伸びるセンニンソウとそっくりの花。道端に咲いていました。
見分け方は、葉っぱの形。3つに割れているのがボタンヅルです。

紫式部の花。実は綺麗な紫で、そちらの方が注目されがちです。

ヘクソカズラ。こんな名前つけた人、誰~?

ノコギリソウ。隣の林で、花を咲かせていました。

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『蛇を踏む』

突然、訳もなく泣きたくなる時がある。
忙しい日が、続いたからか。暑さに、参っているからか。変な夢ばかり、見るからか。じゃが芋が、煮崩れたからか。夫との会話で、すれ違いがあったからか。キアゲハの幼虫が、忽然と姿を消したからか。
理由が何処にあるのか、自分でも判らない。
大人になったならば、こんな風に泣きたくなることなどないと、子どもの頃には思っていた。まだ、大人になりきれていないのかも知れないが、50歳を過ぎた今、そうであるなら、死ぬまでにきちんとした大人になれる確率は、かなり低いはずだ。

蛇を見たから、かも知れない。
朝一番にカブトムシが玄関をノックしたその日、同じく玄関の外を這う蛇を見た。薄茶色の細く小さい奴で、目が合ったが、不思議と恐いとも気味が悪いとも思わなかった。そして一瞬、踏んだらどうなるだろうかと考えた。
川上弘美の芥川賞受賞作『蛇を踏む』(文春文庫)を、思い出したのだ。
小説で蛇は「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間(50歳くらいの女)に姿を変えた。そしてひとり暮らす主人公、ヒワ子の部屋に住みつくのだ。

心が弱っている時には、蛇と暮らすのもいいかなと、思えたりするものだ。
しかし、と思い留まった。ウッドデッキにも庭にも、あちらこちらにアマガエル、けろじがいる。いくら人の姿になったからと言って蛇は蛇。蛇のままならば、人の暮らしに入り込むことはなくとも、共に暮らすとなれば、けろじとの共存は難しいだろう。

「弱肉強食かぁ」
キアゲハの幼虫、パセリ達は、何者かに食べられたのだろうか。それとも何処かで、サナギになっているのだろうか。
ウッドデッキで暮らすけろじ達は、案外試行錯誤の末、外敵の少なさから、この場所に住みついたのかも知れない。
蛇は踏むと女になり、蛙はキスすれば王子様になる。そのモノ達との暮らしもまた、にぎやかそうではある。
蛇には、わたしの弱さが、見えていただろうか。

朝、玄関に来ていたカブトムシ。大きくて立派でした。

翌朝は、メスの姿も。大きさは、同じくらいです。

ルリボシカミキリ。今年よく見かけます。美しいです。

色を変えていた、けろじ。ウッドデッキに置いた夫の靴の上で。

葉っぱの上のけろじは、綺麗な緑色です。

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憧れのひとり呑み

呑み屋でひとり、ゆったりと呑むのが憧れだった。
川上弘美の小説『センセイの鞄』(平凡社)を読んで以来、主人公ツキコのように、ただ美味い肴をつまみ、静かに酒を飲む。そういうことができる女性になりたいと、ずっと思っていたのだ。
だが、独身OLのツキコと違い、家族がいるわたしには、機会が巡ってこなかった。そして今、ようやくその時を迎えた。
東京や末娘がいる埼玉に行くことが増え、用事を済ませた後は、夫や娘、友人などを誘って一杯やっていたのだが、機会が増えるにつれ、今夜はひとりでのんびり呑もうと思う夜が、向こうからそっと、歩み寄って来たのだ。
ひとりで呑んでいても、周囲の目が気になるような自意識過剰さも、年齢を重ねると共に消えていった。いつの間にか、静かな時間を、心から楽しめるようにもなっている。

しかし、ひとりで呑んで気がついた。
「あ、福島の酒だ。呑んでみよう」そう思ったのは、東日本大震災以来、夫が呑み屋では東北の日本酒を呑むようになったからだ。
「あ、穴子入り揚げ出し豆腐、美味しそう」そう思ったのも、穴子好きな義母を思い出したから。
そして、ぼんやり考えていることと言えば、子ども達や友人のことばかり。ひとりで呑んでいても、全くひとりという訳ではないのである。
こうして呑んでみて、判る。ひとりでカウンターに座っている人もみな、誰かを思い、酒を傾けているのだと。

旬の岩牡蠣と、焼き茄子の南蛮漬け。岩牡蠣、サムとも食べたなぁ。

穴子入り揚げ出し豆腐。揚げ茄子も入っていました。嬉しい。

福島の酒『壺中春(こちゅうしゅん)』美味しかったです。

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新しいこと、始めよう

「何か、新しいこと、始めたら?」
この1年、様々な人に言われてきた。
末娘が大学に入り、ひとり暮らしを始めた。東京に住む息子は、もう3年も帰ってこない。真ん中の娘は「いつか帰ってくるよ」と、ヨーロッパに旅に出た。それを知っていたかのように、雄犬びっきーが死んだ。経理の仕事量は増えたが、自由な時間が、少し増えた。
そんなわたしを、みな心配して言ってくれているのだ。

「わたしがいなくなったからって、蛙なんか、可愛がってるんだね」
末娘には、憐れみの眼差しで言われる始末だ。

「これでもけっこう、毎日楽しいし、充実してるんだけどなぁ」
これを始めました、という宣言が必要なのかも知れない、と考えてみる。
「毎日のことをブログに、かいてます」と言ったところで「あ、ブログね。最近みんなやってるよね」で、終わる。
「人生、もうめっちゃ楽しんでます!」的な、誰もが納得してくれるような趣味を、見つけた方がいいのだろうかと、さらに深く考えてみる。

そんな訳で『スペイン語講座』に、通うことにした。
それじゃ、誰も納得しないって? はい、そうです。ただ、やってみたいだけです。まあね、いいんだよ。自分さえ納得していれば。という訳で、心配してくれる家族や友人には申し訳ないが、スペイン語を勉強することにした。

Oiga,Una cana.por favor.(オイガ ウナカーニャ ポルファボール)
「すいませーん。生ビール、くださーい!」
これだけは、忘れないで言えるんだけど「レモンは入れないでね、ワインでも割らないで。生ビールオンリーで飲みたいんだから」と、きちんと言えるようになるのが目指すところだ。

去年行った、スペインのバル。雰囲気あります。photo by my husband

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茗荷とお化け胡瓜の夏

いただいておいて、そう呼ぶのもなんだが、お化け胡瓜の季節になった。
「あっという間に大きくなっちゃって、食べきれないから食べて」
茄子もじゃが芋もいただくが、胡瓜もどんどんやってくる。家庭菜園ならではの無農薬野菜達。感謝して、ありがたくいただく。

しかし、サラダにしても、味噌をつけてかじっても美味しいが、巨大過ぎる胡瓜。なかなか食べきれない。
野菜を作っていないご近所に声をかけたところで、
「胡瓜」といった途端「たくさんあって困ってるの」と、逆に10本ほど増えてしまう可能性がある。口にはできない。
町内人口の需要数より、胡瓜数の方があきらかに上回っているのである。そして日々『ジャックと豆の木』の如く、目に見えてするすると伸び、大きく実っていくのだ。

そこで、浅漬けレシピの出番となる。塩、砂糖、酢などで浅漬けの素を作り、生姜と茗荷を刻んで漬ければ、簡単だが我が家の味だ。
庭での茗荷収穫も、始まった。
お化け胡瓜は水分が多く、じつはフルーティー。胡瓜ってメロンと同じ瓜なんだと、浅漬けを味わいつつ思い出す。料理するからこそ判る、素材の面白さが、そこにある。茗荷とお化け胡瓜の夏は、これからだ。

毎年拡大していく、茗荷畑。林の様相をおびてきて、嬉しいな ♪

まだ小さいけど、少しだけ収穫させてね。

茗荷は確かに小さいけど、胡瓜の巨大さには・・・。
だまし絵を観ているよう。錯覚を起こしたのかと、目をパチクリ。
南瓜も、いただきました。南瓜もおなじく、瓜でしたね。

こうしておけば、無駄にすることなく、びっくりするほど食べられます。

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とり損ねた電話

庭に出ていると、電話が鳴った。急いでとったが、耳元でプツリと切れた。
入浴中やトイレ、帰宅して鍵を開けようとしたその時などなど、電話をとり損ねた数は、数知れない。
しかし、留守電も設定しているし、親しい友人や家族なら、携帯電話の番号も知っている。急ぎじゃなければメールもある。とり損ねたまま音沙汰なしならば、保険か太陽光発電のセールスだろう。なので、こちらも慌てない。会社からの Fax がなければ、家電自体、必要かどうか検討するところだ。もちろん、ナンバーディスプレイも必要ない。

時代が変わったんだなと実感するのは、こういう些細な瞬間だ。
結婚する前は、夫とよく夜中まで長電話した。
子ども達が赤ん坊だった頃には、ようやく寝ついた途端、不要な電話のベルに起こされ、うんざりした。
上の娘が中学に入り反抗期だった頃には、風呂上りに学校から電話がかかり、冷たい洗面所でバスタオルを巻いたまま、長々とお説教を聞かされた。
電話の音は、遠慮がない。その遠慮のなさは、電話口から聞こえる人の人格と重なるよう錯覚してしまうほどだ。様々な手段で情報のやり取りが出来るようになった今、恋愛も子育ても、しやすくなっているのかも知れないと、考えてみる。道具が便利になった分、という意味では、だが。

そう言えば、と思い出した。ひとり暮らしの部屋で、床に置いた真っ白いプッシュホンが、誰からとも告げず、リンと鳴る瞬間が好きだったなぁと。

庭で、アマガエル、けろじを撮影中の出来事でした。
蕗の葉の上が、似合うね~。
けろ以外のアマガエルを、けろじと呼んでいます。

おしりを水につけて、気持ちよさそうにしている、けろじ。
夕方渇いていたので、お水をあげました。甘やかしてる~。

日影を確保できるこの場所が気に入ったらしき、けろじ。
日中は、もっと奥に入っていました。

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茄子の花

あちらこちらから、茄子をいただく季節になった。
大好きなので、とても嬉しい。どのくらい好きかと言うと、イタリア語でメランザーネ、スペイン語ではベレンヘーナと、空で言えるほど大好きなのである。イタリアやスペインを旅した時に、メニューを見て茄子と一目で判るように、覚えたのだ。

もちろん日本料理の茄子も、大好き。焼き茄子、浅漬け、揚げ茄子の煮びたし。うーん、並べてかいただけで、よだれが出る。自分でも作るし、飲みに行っても、ついオーダーしてしまう。

新メニュー開拓も、楽しんでいる。昨日は、朝とったばかりだという農家さんの茄子をニンニクたっぷりオリーブオイルで柔らかく焼き、トマトとマリネにした。よく冷やして夕食に並べたら、ワインにぴったりの一品となった。

子どもの頃、茄子の花を初めて見た時のことを、時々思い出す。
「茄子の花って、如何にも茄子の花らしい紫色なんだなぁ」と、植物の成り立ちに驚いた。驚いて思った。茄子の苗には、茄子の花しか咲かないし、茄子しか生らないんだよなぁ、と。それが、自然なことなのだと。

濃紺に、見とれます。野菜はどれも綺麗だけれど、茄子って本当に綺麗。

トマトの優しい酸味も手伝って、まろやかな味のマリネになりました。
白ワインビネガーとオリーブオイルは同量。あとは、塩胡椒だけ。
庭のバジルも、活躍中です。

茄子をいただいた農家さんの畑で、撮影した茄子の花です。

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興味の行方

連休を利用して、神戸にある夫の実家に、帰省した。
滞在時間は40時間ほどだったが、夫の両親とゆっくり食事をしながらしゃべり、久しぶりに墓参りに行くこともできた。
その他愛のないおしゃべりのなかで、義母から興味深い話を聞いた。

その話は「わたしは、全然覚えていないんだけど」との前置きで始まった。
「久しぶりに甥と食事をしたんだけど、そこで、聞いたの」
義母の甥子さんは、義母より10歳ほど年下で、子どもの頃遊んでもらったことなどを、懐かしく話したという。もちろん、そのことは義母も覚えていたのだが、記憶にないという出来事は、一緒に映画に出かけたことだそうだ。
「『風と共に去りぬ』に連れて行ってもらったことに感謝してるっていうの。そこで自分の人生を変えるシーンに出会ったんだって、話してくれたのよ」
前編ラスト、スカーレットが痩せた土から根菜を掘りだすシーンを観て、子どもながらに深く感動し、いずれ土に関係する仕事に着くのだとの予感を持ったそうだ。その予感通り、その後土木工学を学び、神戸の都市計画などに携わり、生涯土木関係の仕事をして生きてきたという。
「本当に、何が出会いになるか、判らないものよね」
義母は、とても嬉しそうに話してくれた。

話を聞き、考えた。同じ映画を観ても、興味を持つ部分は人によって全く違い、そのなかで、魅力的に映ったものや、興味を持った部分を、自分のなかに取り入れていくものなんだなと。

そう言えば、神戸までの長距離移動で電車のなか、誰かがブランドバッグのことなど話しているのが聞こえても、うるさいなぁと思うだけだが、美味しいカルパッチョのレシピなどを話していたら、自然と聞き耳を立てる。最近可愛がっているアマガエルの生態について、語っていたら「ちょっと、周りの人、静かにして!」と言いたくなる。(そんな話をしている人はいなかったが)
そうして、それぞれが興味のある情報を自然と選別し、より多く取り入れていく。それはごくごく普通のことであるのだが、義母の話を聞いた途端、ものすごく不思議な、そして大切なことに思えてきた。

夫の実家には、大きな蝉の抜け殻がたくさんありました。
「こんなに大きいの、明野じゃ見ないよねぇ」「ほんと、大きい!」

こちらは我が家のウッドデッキに滞在していたアマガエル、けろじ。
だいじそうに、ダンゴムシを抱えていました。
電車の中で、アマガエルとダンゴムシの関係を語っている人は、
残念ながら、いませんでした。

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『家日和』

奥田英朗『家日和』(集英社文庫)を、読んだ。
5日前に読んだ『我が家の問題』と対になる短編集で、テーマは家族だ。『家日和』の方が先に刊行されていて、1話のみ同じ家族の話も収録されている。
『家日和』では、全編通じて、ありふれた毎日のなかに「夢中になれるもの」を見つけた人物が滑稽に描かれていた。

『サニーデイ』では、ネットオークションにハマった妻を。
『ここが青山』では、会社倒産後、家事育児に夢中になる夫を。
『家においでよ』では、妻に出て行かれ、自分の部屋を住み心地よくすることに楽しみを見つけた夫を。
『グループフルーツ・モンスター』では、内職の仕事を持ってくる男性社員が夢に出てくることに癒しを求める妻を。
『夫とカーテン』では、新しい事業を求めて転職を繰り返す夫を。
『妻と玄米御飯』では、ロハスに凝りだした妻を描いている。

夢中になれる、新しいこと。それを見つけた喜びは、判る。しかし、わたしの場合、いつも自分に、ストップをかけてしまう。そんなに夢中になっていいのか? との疑問をぶら下げつつ、適当に夢中になる。冷めた奴だよなぁと、自分でも思う。この小説に共感できるのは、その冷めた視点が、要所要所に出てくるところだ。以下『妻と玄米御飯』から。

康夫には、若い頃から天邪鬼なところがあった。社交が嫌いで、建前を好まない。流行は大抵疑ってかかる。作家になったのも、会社勤めが神経症になるほど辛くなり、一人でやれる仕事はないものかとたどり着いた末である。強固な主義主張はないが、好き嫌いははっきりしていた。愛するものはおとぼけユーモアで、近寄りたくないのは、ナルシシズムと冗談が通じない人たちだ。

主人公、康夫は、妻を含め、ロハスに夢中になる人達を、皮肉を込めたユーモア小説に描いてしまうのだが。

わたしは、康夫ほどは、冷めていないかも知れない。ロハスな人達に、ナルシシズムは感じない。ただ羨望の眼差しを向けるのみだ。夢中になることに、ストップをかけずにいられる人ってすごいよなぁ、と思うのだ。

家族というものを、俯瞰したようなイメージの表紙です。

集英社文庫は、ブックカバーをプレゼント中。

リバーシブルになっています。あと2種類ありました。

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ミントソーダに、涼を求めて

エアコンのない我が家。在宅勤務が辛い季節に、突入した。
朝夕は涼しいとは言え、日中は、扇風機のぬるい風では、涼をとれない。そんな昼間に欠かせないのが、ミントソーダだ。

雑誌で見たのは、ミントと砂糖を煮詰めてシロップにしたレシピで、炭酸水やかき氷に使うとかかれていたが、甘いものが苦手なわたし。ミントだけでいいじゃん、と試してみた。
冷たい炭酸水に、庭のアップルミントを洗い、たっぷり浮かべる。浮かべる時に、茎を強くつまめば香りが広がり、ミントをじゅうぶんに味わえる。これが、けっこう甘い。植物の甘さなのだろう。シロップにしなくてよかった。
庭のアップルミントは、生命力が強すぎて、雑草扱いだ。こうして使えるものなら使ってあげたい。一石二鳥である。

子どもの頃読んだ漫画で、今も覚えているセリフがある。
「ソーダ水のなか、あの人がいる」初デートのシーン、だったと思う。
女の子が、うっとりと初恋の男の子を見ていた。
月日が経ち、甘いものを受けつけなくなったわたしがソーダ水のなかに見出だせるのは、請求書と電卓だ。淡々と自らの役目をこなす彼らには、砂糖抜きのクールなミントソーダがとてもよく似合っていて、仕事もはかどる気がする。
まだまだ夏はこれから。様々工夫をして、涼しく過ごしたいものである。

ミントは、節約無用。入れたいだけ入れています。
ミントには、眠気を覚まし、集中力を高める効用があるそうです。

最初は一株だったのに、いつのまにか広がって。

一応ここ、駐車場なんですが、歩くだけでミントの香りがします。

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心根にはびこる、きのこの魔力

夕方、林を挟んだ隣に住むご夫婦の、ご主人の方が嬉しそうに玄関に現れた。
「これが、見せたくてさ」
手に持っていたのは、40㎝ほどの大きな、きのこ。
「あー、それ!」「さっき、見たやつだ!」
夫とわたしは、散歩中、そのきのこを見ていた。
「どうせ毒があるよね」「堰の向こうだし、写真撮るのも難しいね」
そんな会話をして、通り過ぎていたのだ。
しかし、そのきのこは食べられると言う。

キイロスズメバチに一時に8カ所刺された経験を持ち、珈琲の焙煎もでき、日本野鳥の会所属の陶芸家であり、山菜にも蛇にも詳しいご近所さんを訪ね、聞いたというのだ。彼は、当然きのこにも詳しい。一つ進呈し、相談したところ三ツ星きのこである『オオイチョウタケ』または、中毒例がある『ムレオオイチョウタケ』である可能性が高いとのことだった。
「料理して、美味しかったら、持ってくるよ」
隣人は去り、その夜、連絡はなかった。
「だいじょうぶかな?」「奥さん、今夜いるのかな?」
心配しつつ朝を迎えると、メールがあった。
「生きています」ホッとした。
『ムレオオイチョウタケ』だったらしく、食べられたが匂いが鼻につき、美味しいとは言えなかったとの感想。中毒もなかったようだ。
ちなみに、ご近所さんの感想はこちら

しかしそこまでして、何故にきのこを食べるのか。そこに、きのこが在るからなのか。いや。きのこには、人を魅きつける何かがあるのかも知れない。多分、魔力のような何か。人の心根に、根づいてはびこる菌のような何かが。
「食べられるかも知れない」と思った途端「食べない」という目の前にある選択肢は無色透明無味無臭となり、すっかり見えなくなってしまうのだ。
それにしても、嬉しそうだったなぁ、お隣さん。巨大カブトムシを見つけた少年のような笑顔だった。

うちわより大きい! 強面ですが、とっても優しいお隣さんです。

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大人のポテトサラダ

わたしは、泣いていた。
何年か前のことである。居酒屋で生ビールと店長オススメ1品をオーダーして座ると、涙があふれてきたのだ。かっこ悪いし、店の人にも迷惑だろうと判ってはいたが、涙は止まらなかった。
幸いカウンター席が、窓に向けて設置してあり、窓からは公園が見えた。夕方で、客はもう一組しかいなかった。
「どうしたんですか?」と、聞いてくる人は、いない。
居酒屋で、泣きながら生ビールを飲む40代の女性に、声をかけるもの好きもいないだろうとは思うが。

生ビールを飲みながら、つまんだのは「大人のポテトサラダ」だった。
食べられなくても、ビールだけでは申し訳ないと思ったのだが、そのポテトサラダは妙に美味く、涙をこぼしつつも「おっ」と思ったのを覚えている。アンチョビとスモークの匂い豊かなベーコンが入っていた。塩味が効いていたのは、涙のせいか、アンチョビのせいか。

その後、涙の原因は、わたしのなかで浄化されていき「大人のポテトサラダ」だけが、残った。今やアンチョビとニンニクが効いたポテトサラダは、我が家の定番である。「大人の」と名づけられたポテトサラダを、居酒屋で見かけることも、最近多くなった。

ポテトサラダさえもが、大人になっていく。いくつになっても大人になりきれないわたしだって、少しずつまだもう少し、大人になれるかもしれない。そんなことを思い、旬のじゃが芋で作った「大人のポテトサラダ」を味わった。

種類は判りませんが、掘りたてのじゃが芋をごろごろいただきました。
数えたら、40個以上ありました。

アンチョビを刻んで入れて、ニンニクを炒めたオリーブオイルと、
白ワインビネガー、マヨネーズで和えた「大人のポテトサラダ」

こちらもいただいた、インカの目覚め。黄色い!

小粒なインカの目覚めですが、付け合せにしては、
大きな顔をしています。うーん。ホックホク!

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おにぎりの形

「うーん。美味しそう」
何度も前を通り過ぎ、気になりつつも機会に恵まれず、いつか食べたいなぁと思っていたおにぎり屋さんのおにぎり。ようやく食べることができた。
もちろん手作りで、スタンダードな鮭、梅、鰹節の他、玄米で握ったものや、炊きこみあさり飯、きのこご飯など、種類豊富である。
鮭玄米、あさり飯、葉わさびの3つを購入。帰って開いてみて、その形に好感を覚えた。三角でも丸でもない。つぶれた様にも見える。しかし、温かみと個性を感じる。それが戦略なのか、単なる握り手の癖なのかは、判らない。
「わたしだったら、もっと三角に握るよなぁ」
そう思って気づく。めったにおにぎりを、握らなくなったなぁと。

末娘が高2の冬に、わたしは左手の甲を骨折し、娘は自分でおにぎりを握って、学校に行くようになった。わたしの手が治っても、彼女はその習慣を変えなかった。自分で握った方が、食欲や授業の内容に合わせて、大きさ個数を調節しやすいから、というのが理由。お昼はおにぎりのみ、が彼女のポリシーだったので、わたしのお弁当作りは、左手骨折と共に呆気なく幕を閉じた。
まだまだ子どもだと思っていた末っ子が、突然大人びて見えた瞬間だった。
それからわたしは、おにぎりを握ることもなくなった。そして彼女は今も、おにぎりを握って大学に通っているらしい。彼女の握るおにぎりは、わたしが握ったものと少しだけ形が違っている。

おにぎり屋さんのおにぎりを食べながら、ひとり感傷にひたる。日本人なら、多分誰にでもあるだろう。おにぎりの思い出。

あさり飯は生姜が、玄米は胡麻が効いていました。
葉わさびは、辛くて嬉しかった! でも3つは、食べすぎでした。
 
娘が住む浦和にあります。『豊田』ネットの口コミでも人気でした。

値段も安い! 1個100円~140円。
採算とれるのかな? と、心配になってしまいます。

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『我が家の問題』

ほろりと、来た。6編収められている短編、すべてにだ。
「奥田英朗、なのに?」という独り言は、わたしの偏見である。
奥田英朗の小説のなかでも、『マドンナ』や『ガール』に分類されるハートウォーミング要素たっぷり。描いているのは、家族。『我が家の問題』(集英社文庫)を、読んだ。

全編に通じるのは、家族を心配する様子が描かれていることだ。
『甘い生活?』では、新婚の妻に、価値観の違いを伝えられずにいる夫の。
『ハズバンド』では、どうやら夫は、仕事ができないらしいと気づいた妻の。
『絵里のエイプリル』では、両親の離婚問題に直面した高校生の娘の。
『夫とUFO』では、夫の異変に戸惑う妻の。
『里帰り』は、夫婦が互いの実家への初めての里帰りに互いを気遣う様子が。
『妻とマラソン』では、マラソンに没頭する妻を心配する夫の。

家族のことは、そりゃあ心配だ。かくいうわたしも、娘達からは「全くもう! 心配性なんだから」と、半ば呆れて言われることも多い。自分でも滑稽だと思うくらい、些細なことで心配してしまう。でも心配なのだ。心配したっていいじゃないか。心配して何が悪い。思う存分心配してやる。と開き直る。
読み終えて、ホッとした。なぁんだ、わたしだけじゃないじゃん、と。誰だって家族のことは、心配なのだ。滑稽なほど心配するのが、当然なのだ。

そして思った。奥田英朗って、すごいなぁと。こんなにもユーモラスに、こんなにも温かく家族を描けるなんて。

末娘と、飲みに行きました。「最近、本読んでないんだよねぇ」と、彼女。
心配して聞くと「2日に1冊くらいしか」との返事。
なぁんだ。わたしより、ずいぶん読んでるじゃん。
そんな小さな変化から心配が生まれるのが、家族なのかも。

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美しいものを見よう

朝食前に、蓮を見に出かけた。
涼しいうちにとの散歩中、野の花を見て、夫が思い出したように言った。
「そう言えば、もう蓮の花、咲いてるよねぇ」
「ああ、もう7月も半ばなんだねぇ」
思い立ったが吉日。蓮は、昼には花を閉じてしまう。とるものもとりあえず、車を出した。15分ほど走ると蓮池に着く。
「すごい人だったら、どうする?」と、車中ジョークを飛ばすが、無人駅近くの穴場。貸切状態で、ふたり蓮の花を眺めた。濃いピンク色をした大輪の花を咲かせる大賀蓮の池。花は、やはり咲いていた。

大賀蓮の花の美しさは、どう形容しても追いつかない。凛と咲く蓮を見ていると、煩悩だらけのわたしでさえ、心洗われていくのを感じる。
美しいものを見て、心の汚い部分が洗われるのなら、美しいものをたくさん見たいものだよなぁと、しみじみ思った。
美しいものを日々みんなで見て暮らせば、世界から戦争だってなくなるかも知れないなどとも、ふと思ったりした。
蓮は、もちろん何も言わない。ただ凛と咲き、昼には花を閉じるのだ。

本当に、美しいです。深い深いため息が、出ます。

蕾がまだ、たくさんありました。しばらく楽しめそう。

開きかけも綺麗だし、開ききった花も素敵 ♪ 大輪のこの花を、
弥生時代の種から再生させた植物研究者、大賀さんの名をつけたとか。

花びらが落ちた後の姿です。
花を見ていると連想したりしませんが、地下茎は蓮根なんですよねぇ。

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「本当の真実」は、如何に

TBS×WOWWOWの共同制作ドラマ『MOZU』を、観ている。
原作は、逢坂剛の小説『百舌の叫ぶ夜』(集英社文庫)から始まるシリーズ。
主人公、公安警察官、倉木(西島秀俊)は、爆破事件で死んだ妻(同じく公安警察官だった)の真実を知ろうと、独自に捜査を進めていく。

そこで度々耳にする「本当の真実」という言葉に、違和感を覚えるのは、わたしだけではないだろう。真実 = 本当のこと なのだから、きっぱり重複している。倉木は真実だと伝えられてきた情報が嘘にまみれているのを知りつつ、放置してきた自分を責め「本当の真実」だけを求めることでしか、生きる意味を見いだせなくなっているのだ。ドラマを見すすめるうちに「本当の真実」という言葉は違和感をそぎ落とし、今ではもう、一つの単語となっている。

さて。6月にウッドデッキに滞在していたアマガエルのけろのこと。
しばらく見かけなかったので、引っ越ししたんだなと淋しく思っていた。それが今週、姿を見せた。
「けろ!」しかし呼びかけたが、それはけろではなかった。
色も大きさも似通ったアマガエル。だが、顔つきが全く違う。
それを facebook に、アップした。以前、けろを見てくれた人なら、きっと判るだろう。一目瞭然だ。確かにと、うなずいてくれるはずと思ったのだ。
なのに「けろにそっくり」との意見が大半をしめた。「けろじゃないんです!」と繰り返すうちに、だんだん自信がなくなってきた。
「や、やせたの? けろ?」と心細くなり、アマガエルに聞くも答えはない。
自分のなかの「真実」を見失う瞬間というのは、こうしてやって来るものなのだ。うーん。「本当の真実」は、如何に。

6月、ウッドデッキですごしていたアマガエルのけろ。

今週から滞在中の、けろじゃないアマガエルくん。

新人くん「ふぁーあ」と大あくび? いいえ。本当の真実は、違うんです。
何をしているのか判りませんでしたが、口をパクパクやっていました。

「写真は、ご遠慮願いたい」って、言ってる訳ないですね(笑)

日中は、日影に隠れています。昨日は、ウッドデッキに3匹。誰が誰やら。

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雨乞いを100%成功させるには

台風一過の昨日。朝、夫を駅まで送った帰り、運転しながら見る田んぼは、ぴかぴか光っていた。畦道や、道路沿いには、東京で過ごした子どもの頃から見慣れた野の花達が、咲いている。アザミ、ツユクサ、昼顔。
「子どもの頃、聞いたけど、あれ、ほんとかな?」と、考える。
昼顔を摘むと、雨が降る、と。
昼顔は、別名『雨降り花』と呼ばれているそうだ。梅雨時から咲き始める花だからなのか、摘むと雨が降るという言い伝えと関係があるのかは、判らない。

人間の力を持ってしても、天候までは変えられない。だからこそ、迷信と言われるものや備える知恵が、身近なところで伝えられるようになったのだろう。

『雨乞いを100%成功させるには』という、笑い話がある。
答えは『雨が降るまで、雨乞いを続けること』だ。
あきらめなければ、やがて雨は降る。あきらめずに続けていれば、願いはやがて、叶うということかも知れない。

台風一過の南アルプス連峰です。雲の流れ方が普段は見られない感じ。

ノアザミというのが、正式名称らしいです。
野草に詳しい方に、葉っぱの天麩羅、ご馳走になったことがあります。

ツユクサの青って、本当に綺麗。子どもの頃から、大好きでした。

昼顔は、強い日差しを浴びて、まぶしそうにしていました。

そんなところにすっぽり入っちゃって。冬眠するには早いよ~。
ウッドデッキにいたアマガエル。けろじゃないカエルくんです。

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『うさぎパン』

日々の生活が、いっぱいいっぱいになった時、地続きの小説が読みたくなる。
経理の仕事と、毎日の生活と、遊び、そして、イレギュラーな出来事。自分ではムリのない範囲でスケジュールを組んでいるつもりでも、このくらいはだいじょうぶと思っていたことが思いもよらず膨らみ、自分を追い詰めることが、ままある。自分の不器用さに落ち込み、逃げ場を探す。その逃げ場は、いつも地続きの小説だ。地続きと勝手に呼んでいるのは、つまり繋がっている場所。いつもは降りない駅で降りたら、そこには小説そのままの生活が、不思議でもなんでもなくある。そんな身近なストーリーのことだ。

瀧羽麻子『うさぎパン』(幻冬舎文庫)は、疲れきって手にとった一冊。
帯の「ほのぼのしてあったか~い毎日」を読み、初めて読む作家なのに、何も考えずレジに進み、購入していた。

主人公は、高校1年の優子。父親は単身赴任中で、血の繋がらない母親とふたりで暮らすが、ステレオタイプな関係ではなく、ごく普通に仲がいい。優子は、女子だけだった小中学校に別れを告げ、地元の共学校に入学し、気になる男子、富田くんとパン屋巡りを始める。クラスの自己紹介をきっかけに、仲よくなったふたりの会話が微笑ましい。以下、本文から。

「パンが好きってほんとだったんだ」
少し意外な気がした。あの気まずい沈黙を破るために、話を合わせてくれたのだとばかり思っていた。
「自己紹介で嘘ついたらだめでしょう」富田くんは屈託なく笑う。
「じゃあさ、バゲットとかくるみパンとか好き?」
「好き、大好き」勢い込んで言うと、
「パンが好きってほんとだったんだー」
わたしの口調をまねて、そのままくりかえす。思わずふきだしてしまった。
「自己紹介で嘘はちょっと」わたしはすっかりうちとけていた。

読み終えて、思い出した。
これだけ歳をとった今だって、自分が、どれだけ小さなことに思い悩んで暮らしているのか。どれだけ小さな毎日を、大切にしているのか。

ところがなんと、小さなファンタジー要素が含まれる物語でした。
表紙をじっと見ると、ファンタジックな一面をうかがわせる雰囲気も。
収録された書下ろし短編『はちみつ』も、同じ街での物語です。
優子の家庭教師で理系大学院生の、美和ちゃんが登場します。

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キアゲハの幼虫に見た個人差

「もっと食べた方が、いいと思うよ」
彼らに夏バテなどはないのかも知れないが、つい、去年の子と比較してしまう。あの子は、もっと大きかったのに、毎日ばりばり食べていた。外敵も心配だが、その前に蝶になるための準備は、ちゃんとできているのかと。

今年もイタリアンパセリに、キアゲハの幼虫を見つけた。
花を咲かせたパセリを剪定すべきだと、夫と話していた矢先だった。剪定は先延ばしにして見守ることにし、名前をつけた。去年の子と同じく「パセリ」
「可愛い~ ♪」
日に何度も、見に行ってしまう。去年は、サナギになるのを見届けられなかったが、今年は見たいなぁとの思いもある。
そんな思いも相まって出た言葉だが、自分で苦笑した。

我が家の3人の子ども達は、食が細かった。個人差だと判ってはいたが、やはり人並みにたくさん食べて健康に育ってほしいとの思いから、料理も日々工夫はしたが、体質とはそんなに簡単に変えられるものではなかった。
「えっ? それだけしか食べないの?」
多くの場面で、他意なく投げかけられる言葉は辛く、悩みもした。
しかし、3人とも細身ではあるが、人並みに健康に育った今となっては、他愛のない悩み事のように思える。そして同じ言葉を(相手がキアゲハの幼虫だとは言え)投げかけた自分に驚く。

「パセリ、ごめん。大きくなくてもいいから、がんばって蝶になってね」
花のつけ根にいるパセリは外敵から隠れているようにも見える。鳥などに見つからないよう祈りつつ、観察する日々である。

7月7日。そぼ降る雨に濡れ、雫をしたたらせるパセリ。

7月8日。晴れた夕方、木漏れ陽に揺れるパセリ。

7月9日。雨上がりの朝、花にのぼり、のんびり葉を食むパセリ。

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懐かしの大衆食堂

「思い出の場所」という訳でもないのに、懐かしさを感じる場所がある。
その一つが、大衆食堂だ。お隣は韮崎市にある『青竹食堂』も「レトロな」という形容が似合わない、懐かしい雰囲気を持った店。

日曜日、夫とホームセンターに買い物に行った帰り、お昼を食べた。
「目玉の定食があるって、聞いた気がする」と、夫。
「ジンギスカン定食じゃない? 暖簾にもかいてあった」と、わたし。
などと会話しつつも、夫は葱味噌ラーメン。わたしは、のぼりが立っていた夏の定番、冷やし中華にした。
ラーメン屋に行こうかとも話し合ったのだが、駅前やショッピングモールは、週末の昼時、並んで待つほど混んでいるはず。一度暖簾をくぐったことのある『青竹食堂』にもラーメンはある、と相談がまとまっていたのだ。

冷やし中華は、具がたっぷりで美味かった。それ以上に、真っ赤な紅生姜に、刻んだナルトに、たっぷりのシナチクに、チューブで出てきた辛子に、何処で入手したのかと嬉しくなるような古臭い丼ぶりに、目を魅かれた。
そして、半分食べてお腹も落ち着いた頃、店の様子に目をとめた。半分以上が、小学生以下の子ども連れなのである。
お店の人も慣れた様子で、子ども連れの家族に座敷をすすめ、冷やし中華や焼きそばの紅生姜は抜きにするかと聞いている。
子ども達は座敷で寝転んで、母親に注意されつつ笑っている。よちよち歩きの女の子が、父親と母親の膝を行き来している。無口な小学男子が、立ち上がる際テーブルに膝をぶつけて、照れ笑いしている。
壁には「小・中高校生、学割50円引き」と、あった。

『青竹食堂』をネット検索してみると「おやじに、よく連れて来てもらった。それから、ずっと食べに来ている」とのコメント。ここは、ずっとこういう店だったんだと納得する。
時間の流れに左右されずに、そこに留まっているものを、垣間見た気がした。

辛子がチューブで出てきたのが、嬉しかった。いつも足りなくて(笑)
家では買わない真っ赤な紅生姜も、雰囲気作りに一役かっています。

前回食べた、肉野菜炒め定食。もやしたっぷり♪

入口には、タヌキの信楽焼きが、でーん!と「いらっしゃい!」
タヌキの向かい側には「車いすの方は、このボタンを押してください」
日曜大工で、後から付けた感じのインターホンがありました。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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