はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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常識に囚われず、推理すること

ずっと探していた軽トラのキーが見つかった。
スペアキーがあり、困らないがため、探すと言ってもなかなか本気になれず 「ないね」「何処に行ったんだろう」と夫と言い合うくらいで済ませていた。
ところが近所の友人に軽トラを貸すことになり、これは本腰を入れて探さねばということになったのだ。

マニュアル車である軽トラを運転できるのは、我が家では夫しかいない。息子が帰って来た時に運転していたが、彼ももう1年は帰っていない。夫が軽トラを動かす時は、薪を運ぶか、ゴミを出すかである。なので夫の作業用のズボンのポケットに入っているのではと、まず探した。だが、重めの金属のキーホルダーがついたキーである。洗濯する際、万が一見過ごしたとしても、洗濯機に落ちる可能性が高い。見過ごす可能性も低い。やはり見つからなかった。

所定の位置は、キッチンカウンターの上のキーフックだ。わたしは、カウンターの前に立ち、推理した。もしもキーが重力に従い落ちたとしたら?
そして、ふとカウンターに置かれたペン立てに手を突っ込んだ。
「あった!」見つかる時には、なんと呆気ないことか。
ペン立ては、そこから顔を出すものを入れることがお決まりだ。そんな常識がペン立てのなかに底なし沼をつくり、キーを沼深く落とし続けていたのだ。

片付けが苦手なわたしは、何かを探していることが多い。我が人生の時間、半分を占めているかもと考え込むことさえある。鞄のなかにも冷蔵庫にも、たびたびブラックホールが広がる。しかし今だけは不敵に微笑もう。
「大切なのは、常識に囚われず、推理することさ」
   
リラックマのキーホルダーの下にあるのが、ペン立てです。
キーフックと、リビングで使っている椅子4脚とベンチは、
ウイスキーの樽のリサイクル品。ペン立てもすべて、同じ北杜市の
家具工房『我楽舎』(がらくしゃ)で作られたものです。

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毎日は、小さな大切なことで満ちている

移行した。びっきーに引っ張られ、半年以上前に痛めた右腕と右肩。重いものを持つにはあまり不便を感じなくなったのだが、Tシャツを脱ぐ際や、右側の物を取ろうとした時、友人に手を振ろうと上にあげた時などに、酷く痛むようになったのだ。それは、腕を抱え、しばらく動けないほどの痛みである。もしやとは思っていたが、これぞ噂の五十肩。痛めた時には、左手をやった時と同じくテニス肘で、1年騙し騙し使えばよくなるだろうと高をくくっていた。まさか、五十肩に移行しようとは。

一番困るのが、風呂の水を替えて洗う作業だ。料理や洗濯は、気をつけてさえいれば、難なくこなせるが、手を伸ばしスポンジで風呂場から浴槽を洗うのは左手では上手くいかない。痛いなぁと思いつつやっていた。
ところが昨日、発見した。浴槽の中に入ってしゃがみつつ洗えば、左手でもしっかりと洗えるのだ。目から鱗である。

簡単なことだが、こういう工夫が大切なんだよなぁと、風呂を洗いつつ考えた。数年前にひざの手術をした義母も、毎日を工夫し生活しているのだろうと想像した。日々の生活は、少し見方を変えてみるだけで、小さな発見に満ちているのかも。小さなことだけど、大切なことだ。

先日ランチした友人に、どうも五十肩のようだと言うと、肩甲骨の内側の筋肉を鍛える体操を教えてくれた。
「こんな簡単なことで、こんなに楽になるなんてって驚くほど効いたのよ」
と、彼女。小さな工夫。小さな発見。簡単な体操。毎日とは、小さな大切なことで満ちているのかも。

ランチの後、友人が博物館で見つけたと言って、プレゼントしてくれました。
小さなはりねずみが、こんなに嬉しいなんてと自分でも驚くほど嬉しかった!
小さな発見にも、小さなプレゼントにも、
感じる心は、宇宙ほども大きくなったりするものです。

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ブルーベリーの柔らかい皮

所用で立川まで出たので、友人を訪ね、中央線は西国分寺駅に降り立った。
突然のメールにもかかわらず、彼女は、
「うちに来ない?」と、喜んで迎えてくれた。
(突然、家に呼べるというのが、わたし的には実に尊敬するところだ。常に家が片付いているということは、すごいの一言に尽きる)
待ち合わせた駅の改札を出ると、野菜が並べられた店が出ている。畑から抜いてきた泥付き大根を無造作に置いただけの我が町の産直野菜売り場とは違い、お洒落である。マルシェという名が似合う雰囲気だ。
面白いので写真を撮らせてもらい、彼女への手土産にブルーベリーを買った。

家に着くと「やっぱ、ビールだよね」と、友人。
「やっぱ、ビールだね」と遠慮もなく、わたし。
昼下がり、久しぶりに会う友人宅で飲むビールは格別だった。
子どものこと、家族のこと、とりとめもなく、おたがいに近況をしゃべり、楽しい時間を過ごした。おたがいに、笑いながらビールを空けつつも、それぞれに悩み事だって抱えている。
「外から見ると、毎日のいろいろは見えないから、悩み事なんかない家庭みたいに見えたりするんだよねぇ」と、わたし。
「そうそう。絵に描いたような幸せいっぱいの家庭に見えたり、しちゃうんだよねぇ」と、彼女。
「でも実はさ、絵に描いたような幸せな家庭なんて、ないのかも」
「うん。いつも笑顔の人だって、いろいろ抱えてるんだよねぇ」
ふたり、しみじみとビールを空けた。そして、ゼリーに添えて出してくれたマルシェのブルーベリーをスプーンですくって食べた。ブルーベリーは、よく熟れていて甘かった。友人とふたりゆっくりとしゃべると、ブルーベリーの柔らかい皮をひとつひとつ噛みつぶすかのように、胸のなかにたまった小さな泡がひとつずつ割れていくのを感じた。シャボン玉のように、いくつもの小さな泡が、飛んでは割れ、胸が軽くなっていった。

ロゴも可愛く、露店とは呼べない感じです。

茄子もいろいろ。トマトもいろいろ。

南瓜は、すでにハロウィンの雰囲気。と思いきや、コリンキー?
生で食べられる南瓜だそうです。

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葡萄とも檸檬とも違って

新しいトートバッグにパソコン入れて、東京に行った。
スペインの『Vaho』というブランドは、撥水性の布を使ったポスターをリサイクルしてバッグや財布、名刺入れ、リュックなどを作っている。丈夫でパソコンを持ち運ぶのにぴったりだ。
『Vaho』は、スペインに何店舗もあり、どこも小さめの店だが展示方法が斬新だった。店の白い壁には磁石がつくようになっていて、すべての鞄のなかに磁石を入れ、壁にペタペタ貼ってあり、鞄を手に取ってみて、またペタンと壁に貼り付ける。
ポスターのリサイクルだということもあり、色やデザインなど本当に様々で、同じものはひとつもない。世界に一つだけのバッグである。

「あ、これ素敵」わたしの目当ては、最初からトートバッグに絞られていた。
バッグを手に取ったその時、夫が呼んだ。「これ、どうかな?」
彼は、ショルダーバッグを見ている。わたしは、トートバッグをペタンと壁に戻し、夫が見ているショルダーのコーナーに行った。あれこれと言い合い、迷っていた彼は大きめのショルダーバッグをひとつ買うことに決めた。
さて。と、わたしはトートのコーナーに戻った。そこで衝撃的なものを目にした。素敵だと思ったトートバッグを腕にかけた女性だ。
「あ、あ、あ、あれ、いいなと思ったのに」夫に、こそこそと言いつけた。
「いいと思ったら、離しちゃだめだよ。同じものはないんだから」
後の祭りである。その女性は気の強そうな顔をして、強い口調でスペイン語を(たぶん)しゃべり、柔らかい色合いのトートを好みそうには見えなかった。トートが買われて店から出て行くまで、彼女の気が変わるのを祈りつつ、わたしは成すすべもなく見守った。
「悔しい!」「そりゃ、悔しいねぇ」
夫はショルダーバッグを買い、機嫌よく歌うように言う。
「悔しい! 悔しい! 悔しい!」「そりゃ、悔しいよねぇ」
などと言いつつ歩いていたら、もう一つの『Vaho』の店舗の前を通った。そこで、今持っているバッグに出会ったのだ。
「こっちの方が、さっきのバッグよりいいよ」と、夫。
「イソップの狐が取れない葡萄を酸っぱいって言って、手に入る檸檬を甘いってかじってるのと同じような気もする」と、ひねくれてわたし。
しかし今では、このトートがとても気に入っている。葡萄とも檸檬とも違うところは、バッグは使うほどに味が出て、自分の物になるということである。気の強そうな彼女のトートも、今頃何処かで彼女に馴染んでいることだろう。
   
表も裏もマチの部分もなかにも、様々なポスターが使われています。
  
展示しているのを見たり、手に取ったりするだけで楽しめました。

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夏野菜にとりとめもなく言葉の不思議を思う

家庭菜園をしている方々から、夏野菜をいただく季節になった。
胡瓜、茄子、モロッコインゲン。形は悪くとも、無農薬だし新鮮で野菜の味が濃い。なるべくそのままの味を生かして食べたい野菜達だ。
モロッコインゲンは、きっかり2分固めに茹で、マヨネーズで。
茄子と胡瓜に刻んだ茗荷と生姜を入れて浅漬けにし、茄子は焼き茄子にしたり、生姜焼きにしたり、胡瓜はサラダに入れたり、味噌をつけてかじったり。

そうそう。かじると言えば、山梨に越して来た頃、驚いたっけ。
「学校でさ、友達に『背中かじって』って言われてびっくりしちゃった」
小4で転入してきた娘の言葉だ。
甲州弁で、背中をかくことを「かじる」と言う。
わたしも、美容室で「背中かじったんですか?」と聞かれ、
「えっ? どうやってかじるんだ?」と考え込んだことがある。
今もわたしには馴染めないが、子ども達は、聞き取りはできるようだ。なにしろ、学校で騒いで叱られるのは、このセリフ。
「ちょびちょびしちょし!」(いい気になるな!or 調子に乗るな!)
先生も甲州弁なのだ。
しかし、この「ちょし」は曲者だ。甲州弁勘違いは、ほぼここから起こる。「するな」という意味なのだが「左いっちょし」などと言われると、つい左に行きたくなる。夫はサッカーの試合でこの言葉に何度も騙されていると言う。味方が「行くな」と言っているその方向に、つい向かってしまうのだとか。

言葉による勘違いと言えば、先日遊びに来たカナダ出身のクリスとマリーと一緒に、バーベキューをした時のこと。火起こしを頼み、肉や野菜を準備をしていると、「マリーが、ガソリン入れたいって」と、娘。
「ビールでいい?」と、わたしは3人分のビールをウッドデッキに運んだ。
ふうん。英語でもお酒が飲みたい時「ガソリン入れたい」って言うんだな、言葉って不思議だなと思いつつ。
だが数日後、娘に聞くとマリーは「火がなかなかつかないから、薪にガソリンをかけたい」と言ったのだそうだ。「thank you」とビールを受け取る表情に、何か違和感があったような気がしたのはそのせいだったのか。
そんな勘違いをする方が驚きだと、夫と娘は言うが、わたしは、洒落た(?)日本語を使いこなそうと努力しているだけなんだけどな。

茹でると緑が鮮やかになり、食卓が涼やかになるモロッコインゲン。

もぎたて胡瓜は、何もつけずにかじっても美味しい!

連休にも家族でバーベキューしました。椎茸には、庭のバジルを刻んで、
すりおろしたニンニクとオリーブオイル、塩で味付けしてみました。
ワインが似合う、大人のバーベキューでした。

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忘れていた記憶を思い起こして

連休中、虫捕り少年が4度訪れた。近所の小学3年生である。
「虫を捕らせてください」
律儀に挨拶に来たが、我が家の林ではなく隣の土地だ。しかし、大スズメバチが居ることだけは伝えなくてはと、一緒に林に入った。
「上の方に、大スズメバチがいるの、見えるでしょう? 虫捕り網を振り回したりすると、攻撃されたかと思って刺されるかもしれないから、気をつけて」
「うん」
わたしと一緒に探し、少年は、クヌギの木の下の方にいたコクワガタを2匹捕まえ、帰って行った。わたしは、久しぶりに手でクワガタを掴み、その感触を、なつかしく嬉しく思っている自分を感じた。

2度目は翌朝。
夫が出て行って、やはりコクワガタを2匹ゲットしていったという。
そして、3度目。暑さも一休みしたような午後、大スズメバチが飛び交う木の上の方に少年はノコギリクワガタを見つけた。
「コクワは、もういいや」少年の目は、ノコギリクワガタに釘付けだ。
「ハシゴとか、ないの?」と、少年。夫が脚立を出して来た。
「危ないよ」
わたしがハラハラしつつ言葉を掛けるが、彼のなかにはもう、クワガタを捕まえたいという気持ちしかない。だが、脚立に上っても、彼には届かなかった。
「捕って」と、遠慮がちに少年。
夫は「やだよ」と言いつつも、脚立に上った。大スズメバチは相変わらず警戒しているかのように羽根をバタつかせている。3匹ほどいて、交替で飛び回っては、威嚇しているようにも見える。
ノコギリクワガタは、ますます木の上の方に上って行き、クワガタ捕りは難航した。それでも、夫はじりじりとクワガタを追い詰めていく。そして少年とわたしが見守るなか、彼は見事ノコギリクワガタのつがいをゲットした。
「やった!」「すごい!」歓声を上げる夫とわたし。
少年は、静かに微笑み「ありがと」と礼を言い、帰って行った。

4度目は、そのあとすぐに。「木をください」
クワガタを飼うケースに入れるために、木を取りに来た。
「2日間で12匹捕った」と、夫に自慢していったらしい。
虫捕りって、楽しいよなぁ。少年は、夫とわたしに、そんな昔の忘れていた記憶を思い起こさせてくれた。わたし達は、彼が帰った後も、クワガタを探すでもないが、林をしばらく歩いていた。思いがけず楽しい連休になった。

「オオムラサキもたくさんいるよ」と、少年に言うと、
「オオムラサキね」とスル―されてしまいました。国蝶なんだけど。
捕ってはいけないと教わっているようです。

ルリボシカミキリを見つけました。ホッとする涼をくれるブルー。

キイロヤマトンボ。初夏に見かけるトンボです。
ノコギリクワガタの写真はありません。少年が持って行ってしまったので。

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本の神様のプレゼント

息子は小さな頃から本の虫だったが、3つ年下の真ん中の娘は、友達と遊ぶことの方が好きで、小学生時代あまり読書はしなかった。本を薦めたことはあったかと思うが、彼女は読まなかった。わたしもそんな彼女に、無理やり読書を薦めることはしなかった。
漠然とだが、彼女は本が好きじゃないタイプなのだと思い込んでいた。読書好きな子も嫌いな子もいてもいい、ひとりひとり違うのだからと思ったのだ。

だが、そんなわたしの思い込みをくつがえす出来事が起きた。娘が中2の夏休み。家族で佐渡を旅した。わたしはフェリーのなかで読もうと佐藤多佳子の『黄色い目の魚』(新潮文庫)を鞄に入れていた。16歳という季節を切なくもリアルに描いた青春小説だ。ところが、その本を開いたのは娘だった。中2女子には家族旅行など退屈なだけだったようで、単なる暇つぶしにと娘はページをめくっていったのだ。そして物語世界のなかへと深く深く入っていった。

わたしは思い知らされた。自分が娘のために選んでいた本が、全く彼女が読みたいものと違っていたことを。彼女は、中学生向けにかかれたものを読む年齢を、本を読まずして通り過ぎ、ファンタジーにも興味を持てず、面白いと思える本を見つけられず、迷子になっていたのだ。
旅行から帰り、わくわくしながら娘のために本を選んだ。確か、森絵都の『宇宙のみなしご』(講談社)や、瀬尾まいこ『卵の緒』(マガジンハウス)、江國香織の『つめたいよるに』(新潮文庫)や、山本文緒の『絶対泣かない』(角川文庫)などだったと思う。大人になる過程の揺れる気持ちや、恋、友達との確執や、自分を理解してもらえない淋しさ、もどかしさ。そういうものが宝物のように散りばめられた本達。
彼女は、乾いたスポンジが水を吸い込むかのように、本を読んでいった。

本当に本を嫌いな子などいないんじゃないかな、と今は思う。読みたい時期に読みたい本に出会えさえすれば、みんな本を好きになるんじゃないかなと。
『黄色い目の魚』は本の神様が娘にくれたプレゼントだったのかもしれない。

庭に隣の林にと、野生のホソバウンランが咲き始めました。
海外ではトードフラックス(ヒキガエルに似た1年草)と呼ばれています。
でもよく見ると、黄色い目の花?

わたしも末娘も何度も読んだので、文庫本はぼろぼろ。
「16歳だった、すべての人へ」とかかれた帯も失くしてしまいました。
400ページ以上ある、けっこう分厚い文庫です。

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花火に思う親子逆転の瞬間

親子が逆転したと感じる瞬間を、何度となく経験した。
25歳の息子と23歳、18歳の娘の3人の子ども達を持つ母親ならば、当然のことではある。
なかでも印象的だったのは、息子が高校に入った頃のこと。本の虫である彼がホラー作家と言われる乙一(おついち)の『ZOO』(集英社)を買って来た。熱中して読んでいたので、さぞや面白いのだろうと声をかけた。
「それ、面白そうだね。お母さんにも貸してくれる?」
すると彼は、戸惑いの表情を見せ、遠慮がちに言った。
「うーん。お母さんには、ちょっと」「ちょっと何?」
「いやー、刺激が強すぎるかなって。残酷な場面が多いから」
まさに親子逆転の瞬間である。あたかも親が読む残虐なホラーを子どもに薦めるのはどうかと考え込むかのような表情に、驚かされたものだった。そして、彼の思いやりに満ちた忠告に従い『ZOO』は読まないことにした。

この話には続きがある。息子と7歳離れた末娘がやはり高校に入った頃、乙一を読み始めた。わたしは、同い年だった頃の息子より余程大人びた彼女に、息子とのその時の会話を話して聞かせた。すると彼女は、
「乙一のなかでも、綺麗な話もあるよ」と言い1冊の本を差し出した。
『夏と花火と私の死体』(集英社文庫)乙一デビュー作だ。
「確かに、綺麗なタイトルだね」
わたしは彼女のおかげで、7年経ち、ようやく乙一の世界に足を踏み入れることができた。『夏と花火と私の死体』は、主人公である9歳の私が、冒頭であっけなく殺される。その死体となった私が、その後周囲で起きた出来事を、まるで見ているかのように一人称で綴っていくという、設定からして斬新な小説だ。また推理小説の趣きもあり、悲しい夏が花火の美しさと共に情緒たっぷりに描かれていて、楽しんで読むことができた。

ふたりとも、高校生になった頃には、本を薦めるも薦めないも、相手を見て、相手を思いやり、考えることができるようになっていたのだ。
乙一は、子ども達から母親であるわたしに、そんなプレゼントをくれるきっかけを作ってくれた作家である。
  
先週遊びに来たクリス&マリーと娘とで、花火アートに挑戦していました。
カナダには打ち上げ花火しかないのだとか。ずいぶんと楽しんでいました。

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(スペイン徒然後日談)女がミシンを出す時

中学の家庭科で初めてパジャマを縫った時、布を切るのが恐かった。切ったら元には戻らない。失敗は許されない。そんな緊張のなか、パジャマ作りをしたのを覚えている。
しかしそれから30年と少し経ち、その頃の緊張が微笑ましく思えるほど、難なくスカートの裾を切ることができた。
「自分で切って、自分で縫って、自分で着るんだから」
評価など遠いところに行っている。ちょっと裾が長いから、短くするだけ。そのシンプルさが久しぶりにミシンを出すきっかけのひとつとなった。

何年振りだろう。末娘の体操着の巾着袋を縫った、それ以来だろうか。
実は、切りっぱなしで縫わなくてもいいかなとも思っていた。
ユニクロの千円のサマードレス。ユニクロの隣のお直し屋さんに持って行くと「裾上げで3,800円です」と言われ驚いた。驚いて嫌にもなった。重い腰を上げるという言葉があるが、しばらくぶりに使うものを出すことは、思いのほかエネルギーがいるものだ。ミシンもしばらく使ってないし、もう切っただけでもいいかと思ったのだ。

だが旅行前、夫の言葉に縫わざるを得ないと覚悟を決めた。
「せっかくスペインに行くんだし、女性は旅行でお洒落も楽しまなくちゃね。荷物が多くなってもかまわないから気にしないで」
いつになく優しい言葉に、切りっぱなしのサマードレスは着られないなと覚悟を決め、ミシンを出した。
ミシンを出すきっかけは、いくつか必要だ。いくつかのきっかけがあって初めて必要に迫られ、女はミシンを出すのだ。

鋏を入れる瞬間が、今となっては何とも言えず快感です。ジョキ!

アイロン台の上で。なんとかちゃんと仕上がりました。
ミシンもコンパクトになりましたね。母の足踏みミシンが、なつかしい。
「そういう電気を使わないものを復活させればいいのに」と、娘。
「でもあれ、すごく大きくて場所取るんだよね」とわたし。節電も難しいな。
   
身長161cmでこの長さ。やっぱもとが長すぎたんだよね?
海辺に立つ像のコロンブスも「そうだそうだ」と言っているようです。
夕暮れのバルセロナ港で。夕暮れと言っても午後9時前。
photo by my husband

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重要なのは、たっぷりとタレがあること

この夏、初の冷やし中華を食べた。
冷やし中華が美味しい季節。それもそのはず。七夕でもある7日は『冷やし中華の日』だそうだ。何でも「冷やし中華が美味しくなる季節」だからだとか。暦で小暑(しょうしょ)に当たる日は7月7日が多いらしく、暑気が強まるその辺りにと『冷やし中華の日』を決めたという。

最近の冷やし中華は、スーパーで売っているものも美味しく、たっぷりとタレも付いている。タレがたっぷり付いているのが、とてもいい。タレは多すぎるくらいが丁度いいのだ。「タレがたっぷりある」からこそ、錦糸卵を焼くのも鼻歌混じり。胡瓜を刻む包丁の音も軽やかになる。重要なのは、たっぷりとタレがあることなのだ。
20年以上前は、こうはいかなかった。タレの袋自体もっと小さく、具なしでようやく麺を浸せるくらいしか入っていなかった。初めて夫に冷やし中華を作った時に彼が発した言葉の衝撃は、今も胸の奥深く沈んでいる。
「タレは、もうないの?」
ショックだった。あるよ、と差し出せるものならよかったのだが、ないのである。まだネットでレシピを検索することもできず、わたしはただただ「ない」と答えるしかなかった。
世の中、いい方向にばかり進んでいる訳ではないが、昔よりも、冷やし中華のタレはたっぷりとある。それはとてもいいことだと思う。一つの希望である。

ところで「ストレートスープ付き」などとかかれたものもよく見かけるが、冷やし中華に「スープ」とは、わたし的には馴染めない。タレの方が断然ぴったりくる。そこは譲れない。
紅生姜と辛子がない冷やし中華なんて、紅生姜と辛子だけの冷やし中華みたいなものだと断言するのと同じくらいに、譲れないところだ。

夫と二人のランチですが、刺し身用の皿を2枚使いました。
それだけで、ちょっと豪華な気分。
具もタレも、麺が茹で上がるまですべて冷蔵庫に入れておき、
ひんやり冷たいのを食べました。「できたよー」と呼んでも、夫は仕事中。
なかなか来ないのは承知しているので、麺投入の際に呼びます。

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海の家学習効果は、海より遠く

足の裏がヒリヒリする。軽い火傷だ。
ほんの3、4歩だからと思い、サンダルも履かずに裸足でウッドデッキに出た。2回目の洗濯物を干す頃には、これでもかというほどの強い陽射し。しかし、洗面所でハンガーに干したものをウッドデッキの物干しに掛ける一瞬の作業だ。まさか火傷などしないだろうと高をくくっていた。
ウッドデッキの表面はいったい何度まで上がっていたのだろう。
「全く、海の家じゃないんだから!」
シャワーで足の裏に水をかけつつ、独り言の声も大きくなる。どっちかというと山の家だが、このヒリヒリ感の記憶はどう考えても海。焼けた砂浜だろう。
「ほらほら、ビーサン履かないと火傷するよ!」
遠い昔、子ども達に、うるさく言っていたのは誰だったか。
だがわたしとて、何も考えずに取った行動ではない。熱を集める黒のビニールサンダルの方が熱そうに見えたのだ。それが2度目の挑戦(普通はしない気もするが)は、サンダルを履いてみた。すると、サンダルだと火傷しないことが判った。サンダルを履く一瞬は熱いが、2歩目が違う。裸足だと2歩目も同じく熱いが、サンダルには足の冷たさが伝わり徐々に緩和されていくのだ。
「おー、いいことを学習した。すごい!」
何がすごいんだかである。

手のひらがヒリヒリする。軽い火傷だ。
ほんの10分の距離だからとUVカット手袋をせずハンドルを握ったせいだ。
黒のフィットは、内装もすべて黒。太陽を思いっきり吸収する黒。
「俺に触ると火傷するぜ」と身体じゅうで言っているのに。
ついさっきの学習を活かせないのは、歳のせいで頭が固くなっているのだろうか。否。ほんの何とかだからと、サボれるものをみなサボろうとする癖を直さないと、学習も活かせないのさ。判っては、いるんだけどね。

ゆらゆらと熱気が見えるようです。
玄関から外出用のサンダルを持ってくれば?(天の声)

夏、熱くなるのが判っていても、どうしても黒の車に乗りたいわたし。

暑苦しいので、梅雨に撮ったアマガエルくんに登場してもらいました。
デッキのテーブルの下、涼んでいましたが、今いずこ?
夕立ち、降らせてねー。

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文月に見つけたレターセット

文房具店『インクポット』で、便箋と封筒のセットを買った。
『しあわせをはこぶ手紙』とタイトルまでつけられた本のような表紙をした便箋には、しあわせをはこぶ手紙をかくためのアドバイスや、ラッキーモチーフが描かれている。
「自分のコンディションの良い時にペンをとる」
「身構えないで、楽しみながら、自分の言葉でしたためる」
「相手のことを思い浮かべながらかく」などなど。なるほどと思う。
わたしの場合「コンディションの良い時に」というのに、まずうなずいた。これはもしかすると、手紙よりメールをかくときに、特に気をつけるべきことなのかもしれない。酔ってメールするのはやめようと思いつつ、翌朝ハッと気づいて確認し、ホッとするということがよくあるし、バイオリズム低下傾向にある時にも、友人に悩み事をかき連ねたりして、自己嫌悪に陥ることもある。
「手紙をかくためには、体調を整える必要があるってことかな」
誰かに手紙をかくために、自分のコンディションを整えようと考えることは、何か素敵なことのように思えた。

そう言えば、妹の誕生日にメールもせず、そのままになっている。ここはいつものようなメールではなく、手紙をかこう。
ラッキーモチーフは4つ。
『青い鳥』言うまでもなく幸せを運ぶ。
航海の道しるべであり希望の灯りをともす『灯台』
多くの国で郵便局マークになっている『ラッパ』
綿毛を一息で吹き飛ばすと恋が成就すると言われる『たんぽぽ』
迷うことなく音楽好きの妹には『ラッパ』を選んだ。

『青い鳥』と『灯台』と『たんぽぽ』で誰に手紙をかこうかな。
今月7月は、文月である。

まず、本のような装丁に目を留めました。
そして、シンプルさに魅かれました。

『ラッパ』を郵便屋局マークにしている国が多いとは、知らなかった。
ヨーロッパでは、その昔、郵便を乗せた馬車が広場に着くと、
『ポストホルン』を高らかに鳴らし、到着を知らせたのが由来だとか。

郵便局で見つけた、涼しげな星座の切手を貼りました。

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キックスクーターは、赤道を越えて

オーストラリアで娘と同じシェアハウスにいたカップルが、遊びに来た。
カナダはケベック出身のクリスとマリーだ。
バーベキューで歓迎した翌日、ふたりキッチンに立ち、ケベックの伝統料理だという『パテシノワ』を作ってくれた。
炒めた合挽き肉の上にコーンを敷き詰め、牛乳とバターでクリーミーに仕上げたマッシュポテト、チーズを乗せ、オーブンで焼く。肉、コーン、マッシュポテト、チーズの4層が綺麗で、それぞれが強くは主張せずにおたがいを尊重しているような優しい味に仕上がっている。夫と娘と5人、にぎやかにしゃべりながらおかわりし、お腹いっぱい食べた。

娘がオーストラリアで最後に住んでいた『バンブラ』と呼ばれるシェアハウスは、みんな仲がよくずいぶんと楽しかったらしい。
そこでシェアメイトだったふたりが「サプライズがある」と言い、出して来たものは、まさに驚きの品だった。バンブラ通りで、娘がバイト先まで毎日乗って通っていたというキックスクーターだったのだ。ハンドルには、シェアメイト達からのメッセージが、所狭しとかかれている。
「これ、分解して持ってきたの?」と、夫。
娘は「Oh! Great!」とか「thank you!」とか言っているが言葉少なだ。
クリスとマリーは、穏やかに微笑んでいる。
ふたりとも、登山用の大きなザックと小さなザックをそれぞれに持っていた。ずいぶん大荷物だなとは思ってはいたけれど、日本のまえにフィリピンにも寄って来たと言っていたし、京都にも行ったと言う。そんな長旅のザックのなかに、まさか娘のキックスクーターが入っていようとは。

浴衣を着て七夕祭りに行ったり、花火をしたりと、ふたりもずいぶん楽しんだとは思うが、なかでも娘が一番楽しそうな顔をしていた。

上手く描けなかったけど、スマイルのつもり。

アツアツ焼き立てを、マリーが取り分けてくれました。
「レディファースト」と、マリー。「イエス、レディファースト」と、娘。

玄関の前で。はい、ポーズ!
あんちょこを見ながら、なんとか着せられました。ふう。

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梅雨明けに生まれた蝉

朝、庭の石の上で羽化したばかりの蝉を見つけた。
梅雨明けと共に生まれるという『ニイニイゼミ』だ。土だらけの抜け殻が特徴的なその小型の蝉は、透明感が残る頼りなげな羽根がしっかりとするまで待つかのように、抜け殻の上でじっと動かずにいる。そっとしておくと、殻を置き去りにし、夕方にはいなくなっていた。

子どもの頃、蝉が恐かった。大きな声で鳴き、バタバタ音を立てて飛ぶ大きめの昆虫。飛べるということは、空を切り何処へでも自由に飛び、いつ自分のところに向かって来るかわからない。それが恐怖であると共に、薄い羽根を接触した時に傷つけてしまうのではないかと、それもまた恐怖だった。蝉に敵意があるとは思えないが、とにかく飛んで来て欲しくなかった。
事件があったのは高校の時だった。家族は何処に行ったのか誰もいない。そんな夜に限って、家の中に蝉が入ってきたのだ。大きな蝉だったように思うが大きく感じただけだったのかもしれない。それが蛍光灯を吊るしている紐にとまり、耳をふさぎたくなるほどの大きな声で鳴き始めた。
結局わたしはどうすることもできず、蝉に怯えたまま、まんじりともせず一晩過ごした。翌日学校から戻ると、蝉は畳の上で死んでいた。

何故あんなにも、蝉などが恐かったのか今ではわからない。幽霊などの類も以前より恐く感じなくなった。歳をとり子どもを育て、神経もずいぶんと太くなったのだろう。経験を積んだがために、想像力も減退しているのかもしれない。恐いシーンを想像する前に、まあ、だいじょうぶだろうと思うようになってしまった。
「想像力、ちょっと鍛えた方がいいかも」
梅雨明けしたというがすっきりしない空を見上げ、雲の向こうの青空と、飛んで行った『ニイニイゼミ』のその後を想像してみた。

木の幹にとまっていても見つからないほどにジミーな蝉くんです。
これは幹を真似た擬態だそうで、身を守るためのジミーさだとか。

土をかぶった抜け殻を見れば一目瞭然『ニイニイゼミ』だとわかります。

咲いてはすぐに散っていくハマナスは、蝉の短命を連想させますね。
食事中の『フミキリムシ』と。もとい『キイロトラカミキリ』が本名です。

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(スペイン徒然後日談)遺書を見つけて

パソコンの中に、遺書を発見した。推理小説の話ではない。旅行前のこと。マイパソコンを朝開くと、その中に子ども達宛ての遺書があったのだ。酒もほどほどにと思うのは、こういう時である。
特別に海外旅行に不安がある訳ではないと思っていたのだが、飛行機に乗るのはやはりそれなりの覚悟が必要なのだろうか。しかし、そんなものをかき残すこと自体縁起が悪いではないか。それなのにの遺書である。

読んで笑ってしまった。
「いいお母さんになれなくてごめんね」まずは謝っている。
「でも、いいお母さんになれる人なんかいるのかな?」謝った途端に言い訳。
「幸せになってね」終わり。
なんだよーと思う。遺書なんかじゃなくったって、今言えばいいじゃん。今言えることしかかいてないじゃん。
だから、言おう。今言おう。でも面と向かうと言葉は違ってきそうだ。
「きみが好きだよ」その辺りの言葉だろうか。
それを子ども達に伝えるには、言葉で足りるのか。いや、すでに何度も言っている気もする。他の言葉を考えようか。思いつかない。やっぱ、遺書かな。などと考えを巡らせつつ、かきかけの(?)遺書を削除した。

スペインでも飛行機雲は同じですね。『サグラダ・ファミリア』で。

バルセロナのカテドラルで。

こんな恐いシーンも。いえいえ、ポスターでした。
photo by my husband

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ネイルは『オーガニック・デザイン』で

これまで何度も挑戦してきたが、一度たりとも上手くいった試しがなかった。マニキュア、ペティキュアの類である。色を重ねたり模様を付けたりと込み入ったことをしようとしている訳ではない。一色を綺麗に塗ること、ただそれだけのことができないのだ。
何を大げさなと思われるかもしれないが、綺麗に出来なければ塗る意味はない。マニキュアを塗った自分の手の爪はあまり好まないが、問題は足の爪である。これまでにいく度となく過ごした夏、素足でサンダルを履くときに何も塗っていない爪が見えるだけで、切ない気持ちになることが何度もあった。
「ああ、わたしいったい何やってるんだろう。どうして、こんなことになっちゃったんだろう」
自分は此処にいるというのに、自分探しの旅始まり気分に陥り、抜け出せなくなるという夏の落とし穴。五月病の如く気持ちの夏バテの一種だろうか。ここさえ切り抜けられれば、楽しい夏になる。そう思うからこそ、性懲りもなくの挑戦となった。

きっかけはアジアン雑貨屋『チャイハネ』で見つけた貼るマニキュア。スカーフを持ってレジに行くとレジ横で420円で売っていた。店員さんの手にも綺麗に貼られている。
「かんたんですよー。切って貼るだけです」
「でもわたし、超不器用なんだよね。どうやって切るの?」
「いやー、てきとーですよ、てきとー。だいじょうぶです!」
「やってみようかな」「ぜひ、オススメです!」
薬局でブルーのマニキュアと、チャイハネ店員さんオススメ、ジェルタイプのネイルコートを買い、いざ挑戦!
格闘すること30分。しかしすでにあきらめムードが漂う。
「チャイハネ店員さんの嘘つき! 全然上手く切れないし、貼れないじゃん」
八つ当たりもしたくなる。だがそこで、最近聞きかじった言葉を思い出した。『オーガニック・デザイン』自然や生き物が持っている美しさなどからひらめきを得て作り上げるデザインなのだそうだが、難しいことはさて置き、とにかくバランスを取ろうとせずに作るのだとか。
どの爪も同様にしようとか、端っこまできっちり貼ろうとか、もともとわたしにはできない相談なのである。そういう考えすべてを頭の中から追い払おう。まず塗って、塗りムラに貼って、コートして。ふたたび格闘すること30分。
できた! 初めてペティキュアができた。わたし的『オーガニック・デザイン』作品できあがりだ。

帰ってきた夫に自慢すると、彼は一瞥し「足の爪、なんか汚れてるよ」とジョークにならないジョークを飛ばしたのだ。悔しい。

チャイハネらしい奇抜な模様ばかりで嬉しくなります。

ブルーで統一しました。カラフルなサンダルにもぴったり!
ペティキュアのいいところは、間近で見るシーンがないところです。

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びっきーと娘の蜜月

娘がびっきーに虫がついていると言うので、病院で薬を出してもらった。
外で飼っている犬につきやすい虫だと言う。13年もつかなかったのに何故と思うが、夏の暑さも虫の生態も変わっているのだろう。びっきーの体温なども寄る年波で変わっているのかもしれない。
「びっきーも13歳過ぎましたけど、大きな病気もせず健康ですね」
動物病院で言われ、ちょっと自慢する。
「ええ。朝夕、散歩しています」すると、驚きのリアクション。
「ええっ! 13歳で散歩できるんですか?」「えっ、ええ。普通に」
夫は長いと1時間。娘とわたしは、20分くらいだろうか。
「上り坂になると、びっきー、バテてぜいぜい言うんだよ」
夫は言うが、それも当然のことだったのである。

しかし娘に話すと、彼女は異論を唱えた。
「びっきーは散歩したいんだよ。散歩、散歩! って、毎朝催促するもん」
確かに、と思い嬉しくなった。娘が寝坊した時に「クウン、ワン! クウン」と甘えて吠えて散歩を催促するびっきーは、歳に似合わず元気なのだ。
それにしても彼女はよく、毛の根元に着いた小さな虫を見つけたなと思う。撫でたり散歩したりしていても、わたしには見つけられなかった。それだけで留守中、びっきーは飼い主である娘との蜜月を楽しんだのだろうと想像できた。
「びっきー、家のなかの様子がわかるのかな? わたしが起きたのがわかるみたいに、目が覚めると余計うるさく鳴くもん」
眠たそうに目をこすりながら、それでも朝食も食べず彼女は散歩に行くのだ。

今年も国蝶オオムラサキが舞う季節になりました。

すみませんが、国蝶さん。そこをどいていただけませんか?
昼寝も終わって、ちょっと外の空気を吸いに行きたいんですよ。
ほらほら、おかーさんも、写真撮ってないで何とか言ってくださいよ。
☆カテゴリーに「びっきー徒然」まとめました☆

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カマキリと庭の幸

時期を逸してしまった。それにめげず夫と摘み、調理した。大好きな山椒の実だ。少しくらい硬くても味わえるはずと長めに茹で、ちりめん山椒にした。
「これ、すごい!」「確かに、すごい!」
夫と顔を見合わせる。「山椒は小粒でもピリリと辛い」そのまんまである。山椒好きにはたまらないが、辛いもの苦手派にはオススメしない舌のしびれよう。中の種がもう黒くなっていて、簡単に噛みつぶせるのだが、かりっと音がする。やはりもう、時期が過ぎていたのだ。それも山椒好きのわたし達夫婦には無関係である。
ネットで検索したレシピには、冷蔵庫で2週間保存できるとかいてある。毎朝のご飯に楽しめそうだ。ひとりランチには、生姜と茗荷を刻み、酢飯に混ぜた。彩りにオクラを飾って「いただきます!」山椒の木の近くには、自然発生した木苺が生っている。山の幸ならぬ庭の幸? を楽しんだ。

ところで、木苺を摘む際に、今年生まれたであろうカマキリに出会った。もう生まれたての透明さはなく、如何にも成長中ですとアピールするかのように生命力にあふれていて、みるみる大きくなっているのだと判る。動きもしっかりしていた。
「誕生おめでとう! がんばれよ」
木苺を摘むと葉が揺れ、彼はバッタのようにぴょんと飛び跳ね、何処かへ行ってしまった。植物にも虫達にも生きる力が目に見えるほどにありありと感じられる。そのパワーを存分に分けてもらえる季節なのだと実感した。

14年目の夏を迎える、我が家の山椒の木です。

これくらいあれば、十分楽しめそう。

昨年は小女子でしたが、今年はなかったのでちりめんで。

生姜に茗荷。夏の味ですねー。木苺はすっぱくてわたし好みでした。

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(スペイン徒然後日談)時間を守る国

スペインに行き、驚いたことがある。
スペインの人は、時間にきっちりしているということだ。何年か前に夫と娘とイタリア旅行した時には、そのルーズさ、電車はいつ来るかわからないし、列に並んでいる時に割り込むのが平気な文化に驚いたものだった。だがイタリアとスペインでは全く正反対というほど、スペインの人は時間を守るし、割り込みしたりもしない。基本的に真面目なのだ。同じラテン系の国なのに、こうも違うとは。(真面目で割り込みしないイタリアの人、ごめんなさい)

「3ミニッツ」三本指を出して3分経ってから来いと言う。『サグラダ・ファミリア』のエレベーターに集合時間13分前に行った時のことだ。
「3分って」「細かいなー」ふたり苦笑した。
メトロでは、電車が来る時間を何分前と表示するし、新幹線AVEも時間ピッタリに発車した。バスではお年寄りに席を譲るのが当然という雰囲気も感じられた。ホテルのロビーに頼んでフラメンコを予約した時にも、9時半に予約が取れなくて10時半になったと、後でちゃんと教えてくれた。こういう普通のことが、嬉しい。
「日本と似てるかも」「確かに」
シーフードが好きなところも時間を守るのがマナーであるところも、日本と変わらないスペイン。わたし的には、もうすでに故郷の如く近親感いっぱいだ。

そう言えば、スペインを旅した時でさえ、夫は夜中にテレビを観ていた。コンフェデレーションカップ。イタリアVS日本。残念ながらイタリアが勝った。どうしてあの、ルーズな国の人が、こんなにサッカーが強いんだろう?
翌朝、寝不足顔で憮然とした表情の彼に結果を聞いて、ただ思うのだった。
(真面目で割り込みしないイタリアの人、ほんっとごめんなさい)

あと2分です。メトロの駅で。バルセロナでもマドリードでも、
10回分の回数券を買い、夫とふたりちょうど5回ずつ乗りました。
      
『サグラダ・ファミリア』は、    電車に自転車コーナーがある不思議。
130年以上建築中。        車内でのケータイはOKみたい。
たった3分待つくらい、何のその。  あちこちで着信音が鳴っていました。
    
親近感がわいても判らない雰囲気は街じゅうにありました。

ケーキ屋さんのショウウインドウで。photo by my husband

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タイムスリップな感じ

町に帰ると、車窓から眺める田んぼの緑が眩しかった。庭では紫陽花が咲いていた。姫シャラも花を咲かせていた。ホタルブクロもうつむいて咲いている。
「間に合って、よかった」
紫陽花もホタルブクロも、今年は見られないかと思っていたのだ。
梅雨。雨が結構降ったのだなと庭を見れば判る。バジルも枯れてないし、茗荷は背丈を伸ばしている。そして、雑草。庭は雑草だらけだ。
「タイムスリップしたね」と、わたし。「草刈りしなくちゃ」と、夫。
芝だったはずの場所も、クローバー畑になっている。
何だろう、この感じ。何かに似ている。そうだ。久しぶりに会った友人の赤ん坊が立ったりしゃべったりしていて、当たり前なのにびっくりさせられる、あの感じだ。自分だけが同じ場所に留まっていて、彼らはどんどん大きくなっていくんだと淋しいような眩しいような気持ちになる、あの感じと似ている。
そんなことを考えつつ、のびのびとした緑の庭に立つと気持ちが解放されていった。草むしりはたいへんそうだが。

「家はいいな」と、娘に言うと、
「お父さんとお母さんが居るのが、なんか変な感じ」と、彼女。そして
「アメリカ人とイギリス人と中国人と日本人(娘)の4人で飲みに行くんだ」
と、出かけて行った。
2週間、のびのびしていたのは、庭の草木ばかりではなさそうだ。

ひょろっと頼りなげに伸びていた稲が、しっかり緑濃くなっていました。

紫陽花は、今が一番綺麗かも。
何年か前にいただいて挿し木したものが立派に育ちました。

ホタルブクロは、植えていないのに毎年咲きます。
子ども達の誰かが摘んできて、庭に捨てたものでしょうか。

きみも植えてないけど?

姫シャラも咲き始めたばかり。これから楽しませてくれそう。

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カーニャとセルベサの謎

旅の終着点は、出発点と同じバルセロナだ。バルセロナの空港から朝一番の飛行機に乗るため、マドリードからスペイン版新幹線AVEに3時間揺られ、最後の夜はバルセロナで過ごした。

12泊13日。スペインにもずいぶんと慣れ親しんだ気がする。ビールの注文の仕方も、途中から気づいて変えた。「カーニャ」というのは「生ビール」の意味もあるが「小さい」という意味もあり、小さなコップのビールを何杯もおかわりすることになる。「セルベサ」と頼むとワイングラスや細長い大きめのグラスにたっぷり入れてくれる。
「ウナ・セルベサ・ポルファボール」(ビールください)
オーダーもスムーズだ。ところがである。バルセロナのバルで出て来たのは、なんとビールの炭酸割り檸檬風味だった。
「セルベサ?」と抗議の色も濃く、しかし言葉にできないわたし。
「スィ。セルベサ・コン・リモン」(ええ。檸檬ビールです)
夫とふたり、この出来事について推測した。
「バルセロナじゃセルベサって言えばこれがスタンダードなんじゃない?」
「マドリードでもコルドバでも、通じたのにぃ」
「カタルーニャ地方(バルセロナがある東側)は、カタルーニャ語だし」
「東京と大阪で、エスカレーターで立つのが左右違う感じ?」
「ちょっと違うけど、まあ、そんな感じなんじゃない」
「あーん。ビールが飲みたいよー!」「スペインは、まだまだ奥が深いな」

ということで最後の夜は、ふらふらと散歩しつつバルをハシゴし「ビア・プリーズ」と英語でビールを注文したのだった。

左端にある陶器の素敵なビールサーバー。なのに「コン・リモン」とは。
     
憎き『セルベサ・コン・リモン』 カタルーニャの旗を飾った窓も多いです。

こういうのが飲みたかったのに!

嬉しかったのは、最後の夜の散歩で、
オリーブの木にとまった小鳥と再会を果たしたことです。
photo by my husband

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市を歩く

マドリードの『サン・ミゲル市場』はバルセロナの『サン・ジョセップ市場』と違い、整然とした雰囲気だ。マドリード3日目は、市場で朝食を取り、蚤の市でも見てのんびりしようということになった。計画では近郊都市のトレドまで日帰りで行くという案もあったが、何しろよく歩いた旅だった。ふたりとも疲れていて、とにかくのんびりをテーマに始まった1日だ。

『サン・ミゲル』は、フードコート形式で真ん中にテーブルと椅子があり、何処の店で買ったものでも食べたり飲んだりできる。初めての朝のように注文を間違える心配もない。指をさして頼めばいい。わたし達は、ふたり珈琲を買いテーブルを確保し、交替で好きなものを買って来て食べることにした。
夫はパンに蟹サラダを乗せたタパスなどをふたつ。わたしはガスパッチョとコールスローサラダをパンに乗せたものとベリーの生ジュース。〆て約17ユーロ、ひとり1100円くらいだから高くついたようにも思うが、市場の面白さを味わえて元は取れた感いっぱいだ。

それから蚤の市を見に行った。のんびり見て歩く。しかし市は行けども行けども続いていて、結局メトロの駅3つくらいは歩いただろうか。
「なんでまた歩いてんの?」「こんなに大きな市だったとは」
「歩いて歩いて、歩き回る運命なのかも」と、夫。
そんな運命いやだ! というわたしの声は、疲れ切っていて言葉にならない。
もう一歩も歩けないと思った頃、ようやくメトロの駅を見つけ、ホテルに帰ってシエスタ(昼休み。昼寝をする人も多いらしい)を取ったのだった。

タパスもガスパッチョもパエリアも、美味しそうでした。

オリーブその他ピクルスを串に刺したもの1本から売ってます。
でもオリーブは何処の店でもお通し(?)で出てきて百個は食べました。

エイや蛸、牡蠣、海老、亀の手。何でもあります。
  
カクテル屋さん? アメリカン?       カプチーノは模様入り。

わっ楽しそう! と見て歩いた『カストロ・蚤の市』

しかし歩けど歩けど、市は延々と続いていました。
photo by my husband

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想像することの大切さを考える

ピカソの『ゲルニカ』を観た。マドリードには3万点以上の絵画や彫刻を所蔵する『プラド美術館』もあるが『ゲルニカ』を観ようとあえて規模の小さな『ソフィア王妃芸術センター』に足を運んだ。
スペインはバスク地方の小さな町ゲルニカをタイトルとしたその大きな絵は、2か月もかけずに描かれたものだという。ドイツ軍が、人口六千人足らずの町を空から襲撃し、一般市民約千五百人が負傷し五百人以上が亡くなった。それを知ったピカソが、パリ万博に間に合わせようと短期間で描きあげたものだ。
逃げ惑う人、死んだ子どもを抱いて泣き叫ぶ母親、落ちた首や手足。そのモノクロの絵のなかでも印象に残ったのは牛と馬の表情だ。何が起こったのかわからず、ぽかんとしている。それが、何もわからないままに死んでいった人の無念を代弁しているかのように、わたしには見えた。

行きの飛行機の中で期せずして、百田尚樹の『永遠の0(ゼロ)』(講談社文庫)を読んだ。途中でやめられなくなり一気に読んだ。26歳の主人公健太郎は、特攻で死んだ祖父の生き様を調べるため、戦友達に話を聴きに行く。フィクションだが事実を調べつくしてかかれた特攻隊の話だ。
そのなかに、初めて特攻のことを聞いた時にどう思ったかとの彼の質問に、元特攻隊員が、それほどの衝撃は感じなかったと答えるシーンがある。
「おそらくその頃は、人間の死に対して鈍感になっていたのでしょう。新聞でも『玉砕』という文字は珍しくありませんでした。玉砕の意味ですか? 全滅という意味です。ひとつの部隊総員が死ぬことです。全滅という言葉を『玉砕』という言葉に置き換えて、悲惨さを覆い隠そうとしたのです」

人は、人間の死に対してでさえ鈍感になれるんだ。そんなことを考えつつ観たピカソの『ゲルニカ』は、こう語りかけているかのように感じた。
「目の前で起こったことだと想像して、心の目でしっかり見てください」

『ソフィア王妃芸術センター』は、新幹線AVEが停まるアトーチャ駅近く。
巨大な顔は駅前にあるオブジェです。眠ってる子と起きてる子ふたりいます。

外にはこんなオブジェがありました。

なかにはこんなオブジェが。牛の上に豚その上には羊。
肉の部位がかいてあります。何故、角が?

これも芸術だそうです。ひとりずつゆっくり上っては降りていきます。
何を表現しているのか、よくわかりませんでした。

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マドリードでグラナダを知る

首都マドリードは、当然の如く都会だった。
ホテルの近くメトロの『ソル駅』の周りには『ムセオ・デル・ハモン』というスペイン名物生ハムの店がある。『ハモン・セラーノ博物館』という名前そのままに生ハムの塊が何本もつるされ、もちろん買って帰れるし、カウンターでは生ハムサンドウィッチを食べてビールや珈琲を飲める。『ガンバスー・アル・アヒージョ』(芝エビのにんにくオイル煮)が美味しい海老専門店もある。どちらも立ち飲みバーになっていて値段も手ごろ。料理が出てくるのも早い。客の回転が速いから、安くもできるのだろう。いつも人であふれている。

そんなマドリードで、ふたたびグラナダに出会った。陶器の老舗『カサ・タラベラ』のドアを開けるとたくさんの『グラナダ焼き』が目に入ってきたのだ。店主はこだわりが強く頑固親父を地でいくタイプとみた。店には鍵が掛けてあり、接客中に他の客が来ても開けようとしない。わたし達は運が良かったのだ。彼はとうとうと(多分あまり得意ではない英語で)話し始め、次の客がドア越しに覗くと、また鍵を閉めた。
ひとつひとつがハンドメイドであることや時代によっての違いがあること、色を重ねたものよりも白と青のグラナダ焼きの方が難しい故に高価であることなど。グラナダはいいところだったと夫が話すと、嬉しそうな顔をしてまたしゃべりだす。
「これ、ホテルの部屋にあった絵だね」「ほんとだ」
そこで初めてわたし達は、その絵が最もスタンダードなグラナダ焼きだと知った。グラナダでは、様々な絵のグラナダ焼きがありわからなかったのだ。マドリードに来て初めてグラナダ焼きのことを知る。不思議な体験だった。

フラメンコもマドリードで観に行った。発祥はアンダルシアだが、残念なことに発祥の地では観光客向けになってしまい昔ながらのフラメンコは観られないそうだ。シンプルで上質なフラメンコはマドリードでと聞き、ホテル近くのタブラオ(フラメンコショーをやる店)の老舗に出かけた。グラナダで歩いた『アルハンブラ宮殿』を模したという内装、舞台の背景も観たままの風景。ついこの間歩いた場所だが、懐かしくも感じる。
ショーは始まった途端、踊り手の表情が身体全体の動きや指先にまであふれでていて、目が離せなくなった。独特のリズムがてんでバラバラになったと思ったら、歌、手拍子、タップ、ギター、動きのすべてが重なり、止まる。その瞬間、時が止まったような錯覚に陥る。面白かった。
グラナダを旅して、その後訪ねたマドリードだからこそ味わえるグラナダ。こんな風にしてまた何処かでスペインに出会えるかも。フラメンコの踊りに圧倒されながら、身体じゅうでスペインを感じていた。

グラナダのホテルの部屋に大きく飾られていた、
グラナダ焼きスタンダードな花の模様。
     
陶器屋『カサ・タラベラ』     タブラオ『トーレス・ベルメハス』で。
     
マドリードは『マヨール広場』    海老専門店『カサ・デル・アブエロ』

『ムセオ・デル・ハモン』は、いつも人であふれていました。
photo by my husband

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言葉はなくとも

コルドバでは、イスラム教とキリスト教が混在した教会『メスキータ』やコロンブスが新大陸発見の資金を援助してもらうために王に謁見したという城『アルカサル』を観て歩いた。夫もわたしも宗教は持たないが、教会の空気に心がしんと澄み、歴史の重さを味わうこともできた。

そんな観光客も多いのだろう。わたしから見ると、スペイン国内旅行の家族なのかアメリカから観光に来たグループなのか、フランス人かイタリア人か、全く区別がつかない。そういう場所では覚えたてのスペイン語「ペルドン(失礼)」と道を通してもらうより「エクスキューズミー」と言った方が早く、英語をもっと勉強すべきだと実感した。

『アルカサル』の塔の上でも、英語圏の人なのかスペイン人なのかわからない女性が石のベンチで休んでいた。わたしも夫が写真を撮る間、日陰に入って休み、ぼーっと少し高い場所にとまる鳩を眺めていた。その時だった。鳩が飛んだと思ったら、空ではなくアーチ形の入口から塔の中へと入っていったのだ。
「オゥ!」と、休んでいた女性。
「わあっ!」と、わたし。
思わずふたり顔を見合わせ、笑った。ふたりとも一言も発することなく、同じ気持ちでただ笑った。
「鳩ったらなかに入ってどうするつもり?」「迷子にならないのかしら?」
言葉はなくとも一緒に笑うことで気持ちが通じ合った。不思議な一瞬だった。
ところで、その女性も然りだが海外では多くの人が年上に見える。彼女も年上だと思ったが、じつはわたしよりずいぶん年下だったりするのかもしれない。
だが「マダム」と呼ばれると、うろうろ歩き回りたいほど落ち着かない気持ちになるわたしは、海外では精神年齢もさらに下がるということで、年上に見える人はみんな年上ってことでいいかな。

真ん中の塔の上での出来事です。
   
塔のなかは迷路のよう。         水に美を求めたアラブ様式の
でも鳩の心配は無用でした。      『アルカサル』の庭園。
彼らは巣を作り、塔に住んでいたのです。

川越しに見たライトアップされた『メスキータ』
夜10時を回っても、橋はカップルやファミリーでいっぱいでした。
人形にバイオリンを弾かせる大道芸が素敵で、しばらく足を止めました。

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水月さえ
性別:
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自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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