はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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倒れ続けていくドミノ

塩尻で帳尻が合った。言葉尻で遊び、目尻を下げて喜んでいる訳ではない。

お盆の帰省にトラブルは付き物だが、出発地点韮崎駅に着くと中央線は事故の影響で上下線共に運休状態。そうなると1か月前に取った指定は、すべてがオジャン。中央線の先、塩尻から乗るはずの特急しなのも、名古屋から乗るはずの新幹線も、ドミノ倒しのように予定は崩れ、すべて払い戻しした。
だが中央高速をフィットで飛ばし、塩尻に着いたのは予定していた特急しなの出発5分前。慌てて切符を買い直し、ホームに走った。運良く特急しなのも5分ほど遅れていたのだ。夫の実家には予定通りの時間に到着できた。

恩田陸の小説に『ドミノ』(角川書店)がある。
舞台は真夏の東京駅。27人と1匹の登場人物は、それぞれに自覚はなくとも、ひとりとして欠かすことはできない運命のドミノのピース。ドミノが倒れる瞬間を見ているような、スピード感あふれる痛快パニックコメディだ。

「もしもあの時、右ではなく左に曲がっていたら?」
そう思ったことは、ないだろうか。電車が遅れ、到着が遅れること自体はたいしたことじゃないかもしれない。だが、東京経由で行くか、塩尻まで車で行くか、それによってドミノが倒れる道筋が違ってきたら? 更にそれによって、誰かのドミノが倒れる方向まで違ってきたとしたら? ふと考える瞬間が、これまでにも何度もあった。しかし、行く手にいくつもの道が広がっていようと、歩くことのできる道はたったひとつだ。ときにこうして振り返り、分岐点で倒れたピースを眺めたりしつつ、前に進んでいくしかない。今この瞬間も、運命のドミノは倒れ続けていく。

帰りは東京経由。塩尻まで中央線に乗りフィットを取りに行きました。
鈍行に乗り換えた上諏訪駅には、ホームに足湯がありました。
時間がなくて浸かれなかったけど、電車遅延で知ったスポットです。

京都の友人に連れて行ってもらった『香本舗・松榮堂』の香り袋とお香。
「車に乗せてもいいのよ」と聞き、購入した香り袋は「上品」という名。
ふたりで同じものを買いました。わたし達にぴったり?
今、フィットは上品な香り。運転も上品に出来そう。
起こるかもしれない事故も、香り効果で、ドミノが違う方向に倒れ、
防げるかもと考えたりしました。

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埋められない穴を、埋めるために

石井岳龍監督の映画『シャニダールの花』を観た。
女性の胸から肩にかかる辺りに芽を出し根を張り、花を咲かせる「シャニダールの花」を巡る人々を描いた、不思議な雰囲気を持つ映画だった。
イラクのシャニダール遺跡で、埋葬されたネアンデルタール人の骨と共に花の化石が発掘されたという実話が「シャニダール」の名の由来。
死者に花を手向けたという行動から、人をいつくしみ、人を悼む「心」が、人間に生まれた瞬間なのではないかという説があるそうだ。

女性の胸に寄生した花は、「シャニダール」という研究施設で新薬開発の目的で育てられていた。映画は、花を宿した女性のケアを担当するセラピスト響子が赴任してくるところから始まる。
響子自身、心に傷を抱え、それでもセラピストの道を歩んでいた。そんな響子に、シャニダールを育てる植物学者、大滝は魅かれていく。花を宿した女性達も、それぞれ個性的だ。親に見捨てられ心を閉ざしたミク。大滝にかなわぬ恋をするユリエ。自分のことよりも周囲の人々を気にかけてしまうハルカ。
印象に残ったのは、黒木華演じる響子の静かな言葉だった。
「心に空いた穴を埋めるために、花を咲かせるの」
花を宿した女性達の心に広がった穴は、しかし花で埋められたのだろうか。映画館を出ても、もやもやとしたものが胸に残っていた。

だが映画を観た帰り、夕暮れの田んぼに囲まれた農道を車で走っていて、ふとこれから広がっていくであろう夜の闇に思った。
「人の心に空いた穴は、どうやっても埋められないものなんだ」
それがストンと腑に落ち、しんとした心持ちになった。
「だからこそ、その穴を埋めようと、みんな必死に生きているんだ」
しんとした心持ちのまま、闇を抱え始めた田んぼを眺め、アクセルを踏んだ。
  
映画館入口には、まだ七夕飾りがありました。
シャニダールの花をイメージした、炭酸ドリンクを飲みながら。
小さな映画館で、ひとりのんびりと映画を観るのが好きです。

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魔法のおまじない「自分に内緒で」

神戸の夫の実家に帰ると、義母が焼き茄子を冷やしてくれていた。他にもいろいろ用意してくれていて、義父と夫と4人、ビールを飲みつつおしゃべりし、焼き茄子などをつまんだ。
「お茄子は、焼き立ての熱いうちに皮をむいた方が美味しいんだけど、最近はそこまでこだわらなくてもいいか、と思うようになったのよ」
そう話す義母に、わたしは何年か前に茄子の焼き方を教わっている。

料理本を見て作ったことはあったのだが、義母が言うように焼き立ての茄子の皮をむくのはしんどい。指先の熱さを我慢しながらの作業になる。焼き茄子は好きでも、作る過程がしんどいと自然と作る回数も減り、レシピの中から忘れ去られていた。教わったのはそんな頃だ。
「熱いまま皮をむくの、たいへんじゃないですか?」
義母に聞くと肩をすくめ笑い、いたずらっ子が内緒話をするかのように言う。
「そういう時には、自分に内緒で、こうするのよ」
水を入れたボールに焼き立ての茄子を浸し、義母は見る間に熱々の茄子を冷やしてしまった。それから一緒にゆっくりと皮をむいた。
そうか、と納得した。多少水っぽくなったとしても、冷やした焼き茄子は美味しい。しんどいところは省いて自己流に作ればいいのだ。それから、我が家の食卓に焼き茄子が登場する機会が増えた。若い頃には杓子定規にやっていた料理も、ずいぶんと手抜きが上手くもなり、以前より料理が楽しくもなった。
この「自分に内緒で」という言葉には魔法の力があるとひとりうなずき、義母に感謝したものだ。

そんな話をすると、義母は「そうだったかしらねぇ」と首を傾げた。
もちろん覚えていなくとも当然だ。何しろ義母は、すっかり自分に内緒にしたままだったのだ。もともと知らなかったことを、覚えているはずもない。
これから茄子が美味しい季節。焼き茄子もたくさん焼いて楽しもう。

夕べ帰って来て、また茄子を焼きました。水につけてからむいても、

焼いた色はそのまま。香ばしさも残っています。

たっぷりの鰹節をかけて、さっぱり柚子ぽんで。
茄子ならいくら食べても飽きないわたしは、茄子ホリック?



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よそ見することに必要性を感じる時

名古屋は暑かった。いや。名古屋に行った訳ではない。夫の実家、神戸にふたり帰省していたのだ。
山梨から神戸に行くには、一度長野の塩尻まで出て、特急しなのに乗り名古屋まで行く。そのしなのを降り、夫とわたしは顔を見合わせた。
「なに、これ?」「この暑さは、ないよね?」
サウナ顔負けの熱気に、身体じゅうの汗が流れ落ちるのが判る。乗り換えの時間は10分しかないが、十二分に汗をしぼり出せるサウナ効果。
名古屋が日本一の暑さという訳ではないことは知っている。だが、あの駅のホームは、もしかすると日本一、いや、世界一の暑さかもと疑ってしまうほど暑かった。駅のホームでの暑さ比べオリンピックをしたら、名古屋がダントツ金メダル決定なんじゃないかと、顔を見合わせたのだ。
(このオリンピックネタは、作家、伊坂幸太郎がよく使うものです)

しかし、その名古屋のお陰で、わたし達はその後の時間を、ほんの少し楽に過ごすことができた。たとえば新大阪で。
「涼しいね、名古屋より」「ほんと、涼しい。名古屋に比べたら」
新大阪も十分暑かったのに、の会話だ。また、神戸の実家のある駅で。
「涼しい、名古屋よりは」「だね。名古屋じゃなくてよかった」
今自分が立っている場所よりも暑い名古屋を経由してきたことで、ここはまだマシだという意識が生まれていた。

そうやって上を見たり下を見たりとよそ見することで、少しでも楽に生きられるのなら、それでよしとしてやり過ごす時も、また必要なのだ。

塩尻で買って、しなので食べたお弁当。最後の一つだったので夫と半分こ。
しなのはかなり揺れるので、酔わないように食べてすぐに爆睡しました。

マジ暑かった新大阪駅。それでも新大阪が名古屋じゃない幸せ、感じました。

神戸、三ノ宮『生田神社』も、真夏日。
汗だくになった夫に頼まれ、ユニクロにポロシャツと短パンを買いに行き、
三ノ宮をさまよい歩きました。ケータイの地図には在るのに、
在るはずの場所に、ユニクロが見当たらない(涙)
もう、方向音痴オリンピックで、金メダルを目指すしか道はないかも。

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一歩近づいて、人の温かさを知る

人との距離の取り方は難しい。
『パーソナルスペース』という言葉は、実際の距離を表しつつ、人と人との心の距離感をも指摘している。

文化人類学者エドワード・ホールはその距離感を4つに分類した。
○ごく親しい人に許されるのは、0㎝~45㎝。
○手を伸ばせば指先が触れ合うことができる45㎝~120㎝。
○手は届かなくとも容易に会話ができる1.2m~3.5m。
○複数の相手が見渡せる3.5m以上。

この分類がどうのという訳ではないが、人ごみに出ると実感する。自分は普通の人よりも『パーソナルスペース』が広いのだと。
電車に乗る際並んでいると、気づかぬうちにわたしの前に見えない道が出来ている。みながわたしの前を横切るのだ。気づいて後ろの人に迷惑かと前に詰めようかとも思うが、獣道のように出来てしまった道を無きものとするのは容易ではなく、人の波は絶えずわたしの前を横切って行くのだ。
人ごみを歩いていても同じことを感じる。自分では判らないほどの微妙な距離だが他の人より広く空いているのだろう。前を歩く人との間に入る人がいる。またその人とも距離を空けるので、そこにもまた誰かが入る。そうしてついさっき前を歩いていたはずの人は遥か彼方手の届かない場所に行っているのだ。
歩くのは速い方だ。それなのに起こる不可思議な現象。これは個性で片づけていいものなのかと、ふいに不安になる。

そして考えは及ぶ。同じく『パーソナルスペース』という言葉に含まれるもので、実際に一番難しいのは、人と関わる時の距離の取り方である。
家族や友人に対してもまた、自分は距離を取りすぎているのではないか。そんな不安を、いつも胸の奥に抱えてはいる。

夫の実家、神戸に帰省する際、迷いに迷って京都在住の尊敬する年上の友人にメールした。
「ランチしませんか? 京都まで行きますよ」
わたし的には『パーソナルスペース』を一歩踏み込んでみる挑戦だったのだが、友人は、そんなわたしの不安を笑い飛ばすかのように笑顔で迎えてくれたばかりか、心を尽くして京都を案内してくれた。短い時間だったが様々な意味でファイトをもらうことができた。一歩、踏み込んでみて感じたのは、人の温かさ。酔っ払ってハグした時とはまた違う、縮まる距離感が嬉しかった。

予約してくれていた京懐石『一の傳』の前菜。
大文字焼を描いた薩摩芋を見ても一つ一つ丁寧に作っているのがわかります。
細長い皿は『一の傳』の一の字形だそうで、そんな遊び心も楽しい!

西京漬けのお店だけあって、季節の魚キングサーモンが何とも美味でした。

暑いなか、案内してもらった生け花の池坊、発祥の地『六角堂』
「隣のビルから見ると六角の屋根がよく見えるの」ふたり上から眺めました。

いろいろ歩いてお茶屋さん『一保堂茶舗』へ。
ここでも大文字焼を模した和菓子が。コクのある冷茶を味わいました。

寺町通りや錦通りを歩き、最後はわたしの五十肩を気づかって、
なんと、おススメのマッサージ師さんの予約までして下さいました。
右手くん、だいぶ楽になったと喜んでいます。
神戸からの日帰り京都旅。とびきり素敵な旅になりました。

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右手くん「ちょっといいこと」を数える

「今日は『ちょっといいなと思ったこと』を数えてみない?」と、左手くん。
「負のスパイラルから、抜け出すために?」とは、右手くん。
「うん。ちょっとだけってとこが大切なんだ。大きないいことじゃなくてさ」
何もかも上手くいかないと落ち込んでいた右手くんは、少し考えて言った。
「トマトを切ったんだ」「うん。包丁は、きみの担当だもんね」
「トマトを半分に切ると、両側にひらく感じで割れるだろう?」
「割れるねぇ。桃太郎の桃みたいに、パカッとね」
「そうそう。桃太郎の桃! あの瞬間が、たまらなく好きなんだよ」
「うん。確かにあれ、面白い」
「今日は、皮がささくれることなくスパッと切れて、まな板からも落ちなかった。熟しすぎてもいなくて固くもない、綺麗なトマトだったよ」
「いいね! それ、完璧な『ちょっといいこと』だ」
「なんだか元気が湧いてきたよ、左手くん」「うん。よかった、右手くん」

いまだ右手くんは、負のスパイラルから抜け出せないでいる。五十肩は、出口が見えないだけに、彼のダメージは相当なものであったと考えられる。
夢の中で何かを拾おうと、つい現実世界で手を伸ばしてしまった右手くんの悲鳴に、目が覚める夜もある。
しかし人生いつもいつも順風満帆のはずもない。追い風はなくとも、嵐の波に飲まれたというほどの出来事でもなく、どちらかと言えばこれは、凪なのだと考える。帆に風を受け前に進むことはないが、広がっているのは静かな海だ。
心配した義母が、メールをくれた。
「気づかずにムリをしてる時には、身体がストライキを起こすものだ」と。

凪は「和ぎ」とも、かき、気持ちが和むという意味も持つ。
ストライキ中(?)の右手くんには、ゆっくりと休んでもらい、わたしはわたしで、凪の時間を楽しもうと思う。

「おぎゃあ!」いやいや。トマト太郎は、さすがに生まれませんでした。

トマトとインゲンの雑炊は、夏の味。
とろっとした卵を、軽く混ぜて食べるのが好きです。
玄米を混ぜたので、ぷちぷち食感も楽しめました。

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青い尻尾のブルース・ジュニア

真夏日の昼間、郵便を取りに行くと、びっきーはよく眠っていた。
しかし彼がいつでも飲めるようにと置いてある水の中に、昼寝をしていない動くものがいた。まだ幼いトカゲだ。半身浴よろしく身体の下半分を水につけ、青い尻尾を揺らし、見るからに気持ちよさげだ。
「いい湯だなって、感じですか。(もちろん水だけど)」
わたしは、すぐに逃げるだろうと思いつつも、ケータイをカメラモードにし、シャッターを切った。
すると彼(?)は慌てた。するりと水桶から脱出するものとばかり思ったが、何枚か写真を撮るうちに出られないのだと判る。プラスチックの水桶を、登っては滑り、また登っては滑る。
「出られないのかぁ。いつ入ったんだよ?」
娘に聞くと、朝散歩に行った時にはいなかったと言う。
命綱になるかと草を垂らしたが、慌てていて逃げ惑うばかりだ。あまり触らない方が彼のためかと思ったが手で外に出した。すると慌てふためいている彼はわたしの手を登り肩まで行く。
「おいおい。何処まで行くんだよ」そっと地面に降ろした。
降ろしながら考える。自分の身長の2倍もある高さの桶にいて、這い上がろうと頑張っても出られないとしたら? 自分だったらどうするだろうか。
生きていれば、たとえ極々普通に生きていようとも、そんな古井戸のような深い穴に落ち、這い上がろうともがくことだってあるのだ。

14年ほど前に住んでいた川崎で、ヤモリをよく見かけた。そのなかの喉が赤いやつに、夫は名前を付けた。
「ロバート・レッドフォード」(赤いから)
それを真似て、わたしもチビトカゲに命名した。
「ブルース・ジュニア」(青いから)
映画『ダイ・ハード』以来、ブルース・ウィリスのファンなのだ。
「タフに、生きろよ!」
尻尾を揺らして石の影に消えたブルース・ジュニアに、小さく声をかけた。
  
身体半分、水につけて気持ちよさそう。 と思ったら、ツルン!
  
人間だぁ! 恐いよ! 恐いよ!    逃げようとしたけどまた、ツルン!
  
やっと外に出られた。     助かったぁ。暗いところはホッとするなぁ。
『ニホントカゲ』は、幼少期だけ尻尾が綺麗な青をしているそうです。
 美しい尻尾を切らずに、成長してほしいですね。

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隣の席の人の逡巡

世の中、夏休みだ。
この季節、特急あずさやかいじに乗ると、いつもと違った雰囲気に、否が応でも「そうか、夏休みか」と再確認させられる。酒を飲み大声でしゃべる宴会組が多くいる。小学生や幼児を連れた家族連れがまた多くいる。
わたしは、この移動時間を睡眠に当てるので、できればマナーモードでお願いしたいところだが、様々な人が乗る公共の電車での移動。当然我慢もする。
しかし、堪忍袋の緒が切れる直前までいくこともまた、けっこうある。先日も登山帰りだろうか。推定60代70代の男女4人が、シートを向い合せにして酒を飲み、競い合うかのように大声でしゃべり、高らかに笑い続けていた。
「もう少し、声を小さくしていただけませんか?」
と、何度言おうと思ったことか。

そんなわたしを止めたのは、前のシートに座る推定2歳の女の子だった。母親とふたり旅のようだ。その彼女が「まだ着かないの? まーだ? まーだ?」とぐずり出した。母親は静かな声で彼女をなだめている。
「もし、彼らに注意したら」と考えた。今は、ぐずり出した女の子の声は彼らの大声でかき消されているが、母親は、うるさいなぁと思っているであろうわたしが後ろに座っていることを負担に感じ、必要以上に子どもが静かにするようにと注意を払わなければならないだろう。
わたしは、彼女達の夏休みの旅が楽しいものになるようにと考え、大騒ぎする人生の先輩方に注意するのを止めた。自分のために我慢するよりは、誰かのために我慢する方が、自分を納得させるのがたやすい時もある。

袖すりあうも多生の縁。何も言わない隣の席の人だって、そういった逡巡をしているかもしれないのだ。

甲府駅にて、かいじ号の前顔。なんか、怒った表情してる?

横顔アップ。甲府の最高気温は、37℃ありました。

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いつも寿司屋で、気になる木

夫と、麹町の寿司屋『てる也』に行った。
「今の季節が、一番いいネタを仕入れられるんです」
親方が自信を持って言うだけのことはあり「美味い」の一言で完結してしまう贅沢な時間を過ごした。

魚も大好きだが、夫婦で寿司屋に行くと必ず話題になるのは、木である。
(このカウンター、何の木だろう?)
白くすべすべの綺麗な木肌を矯めつ眇めつしていると、案の定、最初の生ビールを飲んでいた夫が口を開いた。
「このカウンター、綺麗ですね。何の木ですか?」
「ヒノキです。30年は経ってます」
店舗をそこに決める際、20年以上使われていたカウンターはそのまま使おうと、磨き直してもらったという。惚れ惚れするほど綺麗なのは、毎日の手入れが行き届いているからだろう。

そういう話題になるのも、赤松の林を開き、切った赤松を使って建てた木の家に住んでいるからだ。大黒柱や梁、二階の床は一階の天井でもあり、それらが赤松。床はヒノキ。中も外も壁は杉。カウンターと玄関の柱は栗。テーブルは米松。薪ストーブで燃やす際にも、桜、梅、林檎、クヌギ、楢と様々な木に触れる。歌にもあるが「この木、何の木?」といちいち気になってしまうのだ。
「木は動くから、カウンター選びには気を使うものなんですよ」と、親方。
「家を建てて5年ほどは、パキーンと割れる音がよく聞こえましたね」と夫。
そう、木は動くのだ。柱になってからも赤松は悲鳴を上げ、ねじれ、亀裂が入り、松やにを流した。他の木達も雨が降れば膨らみ、乾燥が続けば縮む。それが住んでいくうえでややこしい時もあり、また面白くもある。

美味い寿司を出す店は、カウンターの木が美しい。美しく保つための手入れにもこだわりがあるのだろう。そんな一つ一つにこだわりがあればこそ、その日にしか食べられない素材にこだわった料理を出せるのだと、ヒノキの木肌を楽しみつつ、ゆったりペースで出される新鮮な魚に舌鼓を打った。

コハダの稚魚、新子(しんこ)初めて食べました。

北海道のばふんうに。薄味の出汁で。

鰹には、茗荷、葱、浅葱、生姜、大葉を刻んだ薬味がたっぷり。
重たい鈴のぐい飲みで、日本酒を何種類か飲みました。

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浮力でウキウキ

伊坂幸太郎ファンクラブ(在籍2名)の仲間から、久々にメールがあった。
この春から県外に出た彼女は、忙しくも楽しい日々を送っているらしく、メールもあまりしてこない。それが写メ付き。
何かと思って開くと「買った(*^。^*)」と、ひとこと。
添付された写真には、伊坂の新刊が写っていた。
『死神の浮力』(文藝春秋)だ。
「出たんだ!?」「本日発売」
短いメールのやり取りをし、わたしもさっそく購入した。

『死神の精度』という短編連作の続編だとは、装丁とタイトルを見れば一目瞭然。『浮力』の方は、長編だ。帯にはこうかかれている。
「娘を殺された。相手は25人に一人の、良心を持たない人間。
                犯人を追う夫婦と、千葉の7日間」
千葉は、死神だ。死神の仕事は、7日間担当した人間の「可」または「見送り」かを判断する。「可」と判断された人間は8日目に死ぬ。

この小説の面白みは、千葉の突飛なキャラクターにある。死神であるから人間の常識が理解できないところも多く、千年は仕事をしていると自分でも言っているが「大名行列みたいだ」とのたとえに「ああ、参勤交代か。懐かしいな」と、ふと言ってしまったりする。
「あの男は、良心がない人間なんですよ」
娘を殺された山野辺の言葉にも、千葉は至って真面目に返す。
「クローンというやつか」
「良い心の良心のほう。両親はいるに決まってるから」
山野辺も、妻、美樹も、苦笑しつつも、千葉を憎めない。

テーマは重い。何しろ、死だ。だが笑いの要素もきちんと組み込まれている。引用がやたら多いところにも伊坂テイストを感じ、ウキウキしながら読んだ。
古代ローマの詩人ホラティウスの「その日を摘みなさい」(今この瞬間を楽しみなさい)や、ギタリスト、ジミ・ヘンドリックスが歌った「僕は今日を生きられない 今日は全然楽しくない」という歌詞や、パスカルの「もし一週間の生涯なら捧げるというのなら、百年でも捧げるべきである」などなど。
千葉は山野辺に、何度も言う。
「おまえもいつかは死ぬ」「人間はいつか死ぬ」
死ぬことについては、わたしは素人だが、けっこう長く生きては来た。生きることについて考えさせられる、エンターテイメント小説である。

庭でワイルドマジョラムの花を摘んでいて、石の上に蝉を見つけました。

エゾゼミ。美しい蝉ですね。半透明な羽に儚さを感じます。
張り上げるように鳴く声は、精一杯「その日を摘んでいる」かのよう。

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我が家の味保守的思考

近所の農家さんに、とても綺麗なゴーヤをいただいた。さっそくチャンプルーにしようと、レシピ検索。我が家の味はオイスターソースと塩、白胡椒のみと決まってはいるが、いろいろ見てみた。
そのなかでレシピではなく「8月5日はゴーヤの日」というのが目についた。確か語呂合わせで5月8日がゴーヤの日だと、スーパーは野菜売り場でウタっていたような。

よくよく読んでみると、5月ではまだゴーヤが生っていない地域も多く、それでゴーヤの日はないんじゃないかと「美味い」を「まいうー」などという時代、ゴーヤも「ヤーゴ」と呼んじゃおう。8月5日もゴーヤの日にしちゃおう。旬のゴーヤを夏に楽しもうというゴーヤファンの意見だった。
「ほんと、日本人って何とかの日を作るのが好きだよなぁ」
呆れつつも自分こそ語呂合わせの面白さは大好き。運転中、前の車のナンバー「2525」を見てニコニコ笑ったりしている。(怪しい人だ!)

結局レシピはさらっと見て、いつもの通りオイスターソースで味付けした。
「わたしって、保守的なのかな?」
疑問を残しつつも「美味しい!」ともりもり食べる夫と娘を見ると嬉しくなる。沖縄居酒屋などで食べる機会があっても、我が家の味に勝るチャンプルーを食べたことがないのだから、挑戦する気持ちも湧いてこない。新しい味を開拓するには、まずは飽きるほどオイスターソース味のゴーヤチャンプルーを食べるしかないかも。それってやっぱ、ゴーヤだけに58日ぶっ続けかな。いやいや。その頃には、ゴーヤの季節も終わっちゃうって。
まあ、我が家の味なんてものは、得てして保守的なものなのかも。

美しいですね。見とれてしまいます。
ごつごつの理由は、繁殖していくためだとか。
熟れるとへこんでいる皮が薄い部分から裂け、赤くなった種をアピール。
鳥達に見つけてもらい、食べて運んでもらうのだという説があるそうです。

チャンプルーは、緑のゴーヤの方が色味がきれい。

白いゴーヤは、苦味も少し優しい感じです。
白いもやしや豆腐は入れず、緑に、にんにくの芽を入れました。

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茗荷が思い出させてくれた忘れていたこと

毎朝、茗荷を摘みに庭に出る。味噌汁の薬味に、大切に一つだけ摘んで、あとは明日にとっておく。まだ小さいものも多く、大きくなるのを待ちつつ、少しずつ楽しませてもらっている。嬉しく瑞々しい朝の収穫だ。
土から頭を出した茗荷には、無限に伸びていこうとする力強さが、パワーが感じられる。採りたての茗荷にもまだまだそのパワーが詰まっている気がする。そのパワーもありがたくいただく。毎朝一つずつ、茗荷に元気をもらう。

ずぼらなわたしだが、何もせずとも茗荷は強く伸びてくれる。その茗荷に毎朝土に触れ収穫する機会をもらい、野菜達に詰まったパワーや、土や水や太陽の恵みを感じることを、日々思い出すようになった。
野菜が育つ過程や、また、動物や魚に命を分けてもらっていることなどを思い出し、日々、美味しく食べられる幸せを感じられるようにもなった。

「食べると物忘れする」と言い伝えられてきた茗荷が、そんな多くを思い出させてくれることが、不思議であり面白くもある。
しかしわたしの忘れっぽさは、昨日も絶好調だった。買い物に出かけた際、反対車線が混んでいたので、帰りは別の道で帰ろうと思っていたのに、買い物を終えるとすっかり忘れ、渋滞に巻き込まれてしまった。
「あー、茗荷効果!」
などと言いがかりをつけつつ、始まったばかりの茗荷の季節を楽しんでいる。

収穫した茗荷と、花が咲きそうな茗荷。

庭のなかでも、ひときわ生命力に満ちているよう。葉もピンと伸びています。

茗荷をのせると、同じ味噌汁が倍美味しい!

夕方には蕾だった花がひらき、その茗荷を摘んで浅漬けに入れました。
真ん中にあるのが花です。柔らかい味でした。

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ラーメン食べたい

『ラーメン食べたい』という歌が好きだ。
ちょっとだけもの悲しいような、雰囲気のある矢野顕子の歌だ。

「ラーメンたべたい ひとりでたべたい 熱いのたべたい」
と始まって、サビと言えるのかわからないが失恋っぽい歌詞へと流れていく。
「男もつらいけど女もつらいのよ 友達になれたらいいのに
 あきらめたくないの 泣きたくなるけれど」

メロディや雰囲気も好きだけど、何と言っても「ラーメンたべたい」と始まる歌詞のインパクトにやられる。「ラーメン食べたい」というフレーズはそれひとつで詩として完結している。すごい。
プラスして、ラーメン屋でひとりラーメン食べてる人にだって、それぞれドラマがあるんだよなと再確認する歌でもある。
失恋した女だったり、ダイエットはもうやめた宣言だったり、ラーメン通の男だったり、一仕事終えたら丸一日何も食べていないことに気がついてだったり、または、そんなラーメン食べる人を観察しているわたしだったり。
もっと言えば、ふたりだって、5人だって、10人で食べてたって、ひとりひとりにドラマがあるのだ。

「あー、ラーメン食べたい」
失恋などしていなくとも、定期的にそう思うのは、わたしだけじゃないよね? 日本人の半数以上が「定期的にどうしようもなく、ラーメン食べたいとつぶやく」派だと、わたしは踏んでいるのだが。もちろん、夏でも。

甲府昭和『来来亭』迫力の葱たっぷりラーメン。1日30食限定!

韮崎『幸楽苑』の葱塩ラーメン。やっぱ白髪葱の方が辛さが増して好みです。

中央市開国橋近く『めん丸』の辛味噌葱ラーメン。わたし的には、M辛。
「チャーシューはいらない なるともいらない ぜいたくいわない
 いわない けどけど ねぎはいれてね にんにくもいれて」
 うーん、矢野顕子はすごいなぁ。名曲ですね。
(注)3杯たて続けに食べた訳ではありません!

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それぞれに違う、時計の針の進み方

ウッドデッキで、オニヤンマを見かけた。
「トンボが、へんなとまり方してる」と、わたし。
「トンボの懸垂だね」と、娘。
ふたり、物干しにぶら下がるトンボを見て笑った。
大きいからオニヤンマだろうと調べてみると、やはりそうだった。ぶら下がる小休止の仕方もオニヤンマ独特のものだそうだ。8月に見られることが多いらしいと調べて気づく。暦は早、8月だ。ありふれた昨日と似たような今日を過ごしているうちに、季節は移っていく。

「時間の使い方、なのかなぁ」
わたしの時間はのんびり流れているけれど、1日24時間なのは、みな平等。のんびりいこう派のわたしは、同じ時間を過ごしても、人よりたくさんのことはできない。夫などを見ていると、わたしの倍の持ち時間があるんじゃないかと思うほど、あれもこれもと忙しくしている。性質(たち)なのだろうと思うが、ふと疑ってみたりもする。同じ1日のなかに居ても、実はひとりひとり持ち時間が違うんじゃないかと。

だが、たとえそうだとしても、それで損をしているような気分になるかといえば、そんなこともない。これだけ生きていれば、それぞれが持つ時計の針の進み方が丁度いいのだと判っている。ぼーっとしてる間に世界中の秒針が光の速さで回っているとしても、それさえわたしにとって必要な時間だと思える。

オニヤンマは、あまり休憩しないそうだ。すぐに空へと向かって行った姿は、少ない持ち時間を惜しんでいるようにも見えた。
トンボは前にしか進まない。トンボと同じく、針の進み方はそれぞれでも、時間が後戻りしないことだけは、みな同じだ。

腕を曲げてしっかりつかまっていましたが、懸垂はしていませんでした。
つい声を掛けたくなります。「五十肩になるなよー」
    
この季節、庭にはアップルミントの白い花や、桔梗が咲いています。

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ハードルを越え、食したことがないものを作ってみる

木曜は、夫とランチすることが多い。東京は四ツ谷の会社に通う彼は、木曜は山梨支社、つまり自宅で仕事をすることにしているのだ。
「お昼、なんにするー?」と、わたし。「うーん」と、夫。
山梨も標高600mある我が家でさえこう暑くては、ない冷房が欲しくなる。昼食時、食欲がわかず、メニューを考えるのも億劫にもなる。

ところが昨日は、夫が食べたいものがあると所望した。先日会った知人から聞いたという。
「胡瓜とかさ、いろいろ刻んで冷やすんだよね」
「それって、山形のだしかな?」
「山形のだしなのかは知らないけど、ご飯にかけて食べるらしいよ。暑い時にも食がすすむんだって」
「わたしも食べたことはないけど、噂には聞いてる」

食したことがないものを作るのは、ハードルが高い。出来上がっても、その物の味に仕上がってるのかどうか確認しようがないからだ。なので、こういう勢いで作ってみようという機会でもないと、なかなか手が出せない。急なリクエストだしダメもとだという気楽さもある。とにかくあるものでやってみようとネットレシピをいくつか検索し、冷蔵庫の中の使えそうなものを並べてみた。胡瓜、茄子、オクラ、納豆、めかぶ、生姜、生きくらげ、茗荷の甘酢漬け。これだけあればできそうだ。胡瓜と茄子はあく抜きし、きくらげは茹で、とにかくすべて刻んで麺つゆ+α の調味料を入れ、粘りが出るまで混ぜた。あとは冷蔵庫で冷やせば出来上がりの簡単タイプだ。

「美味しい!」と、わたし。「これは、美味い」と、夫も大満足。
しかし、彼はその後に言葉を付け加えた。
「でも聞いたのはもっと薄味だったと思う。ほぼ素材の味的な」
「それって、もしかして冷やし汁のことかな?」
ふたりとも、だしも冷やし汁も食したことがない。考え込みつつも「まっ、これだけ美味けりゃいいじゃん」「だね」と、もりもりご飯を食べたのだ。

薄いピンク色は茗荷の甘酢漬けです。茄子の紫も綺麗なうちに食べました。
ねばねばするものを混ぜるのって、何故か楽しいんだよね。

ご飯がすすむなぁ。すすみすぎないよう、要注意!
夫ご所望の鶏のから揚げも、もりもり食べました。

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便利だからこそ、まだスマホには変えられない

いまだガラパゴスケータイを使っている。
周囲でのスマホ率が上がり、みんながみんなスマホを使っているように思っていたが、現在丁度半々というところなのだそうだ。
ちなみに我が家ではスマホは夫のみなので、80%がガラケー。周囲というのはだいだいが友人で、久しぶりに会ってケータイを見たら「スマホにしたんだぁ」というパターン。普及が進んでいるのは確かなようだ。

食わず嫌いで、スマホに変えない訳ではない。しいて言えば、スマホが便利だからこそ、変えることができないのだ。
わたしの場合、これ以上ない大きな節約の味方がガラケーだ。今、月4千円に満たない料金。これがスマホに変えたら倍になるだろう。もともとの使い方にもよるのだろうが、なんと1年で5万円近く上がることになる。
パケ放題が必要のない使い方をしているわたしだって、スマホに変えたら便利なだけに、パソコンでやっているブログもfacebookも気軽に見たりかいたりするようになるはずだ。便利であれば使ってしまうのが人の性。というか、それを使わなければスマホにする意味はない。
大抵は、便利だからとスマホに変える人が多いなか、しかし、便利だからこそ変えられないという、わたしのような人もまた、いるのではないかと思う。

「まだまだ、よろしくね!」
いきなり電源が入らなくなり、修理から戻ったばかりの5年目のガラケーに挨拶しつつ、色を合わせたストラップを丁寧に取り付けた。

長生きするように、フクロウ達に応援してもらいました。
ブルーのフクロウは、新婚旅行で行ったバリ島で買った長生きくん。

「おーっ! ひらいた!」と、驚くフクロウ達。

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右手くん、負のスパイラルに陥る

「負のスパイラルに陥っている。何もかもが上手くいかないんだ」
「だいじょうぶだよ。僕がついてるじゃないか」
「自分のダメさ加減が身に沁みるよ。僕の役割まで、きみに負担させてしまって、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ」
「いいんだよ。おたがい様じゃないか。今まできみがどれだけしんどい思いをして働いて来たのか、僕にとっても考えることの多い日々だよ」
「すまない、左手くん」「ほんと、いいって、右手くん」

整形外科で右肩を診てもらい、五十肩と診断された。判ってはいたが、はっきり言われると応える。
「痛いのって切ないよねぇ」とお医者様。
「切ないですねぇ」と、わたし。切ないのだ、本当に。Tシャツを脱ぐだけで、シートベルトを締めるだけで、寝返りを打つだけで痛さに顔をゆがめる。
冷やさない。使わない。治療法はそれだけだそうだ。サポーターと温湿布を買い、ノースリーブをやめた。風呂で温め、料理には生姜を使うようにした。それで少ーし楽になった。左手くんが、がんばってくれている。不器用に浴槽をこすり、不器用に食器棚の皿に手を伸ばし、不器用に、不器用に。

ハハハと笑えば8×8=64。シクシク泣けば4×9=36で、足すと100になると言った人が居たそうな。笑うのが64%泣くのが36%。それが人生だと思うとだいぶ楽になる。
五十肩なんか、ハハハと笑って乗り切る64%のうちかな。
   
スパイラル=螺旋ということで、
ガウディが手掛けた『バトリョ邸』の螺旋階段。
何処までも上って行きたいような、何処までも落ちていきたいような。
でも五十肩って、ひねると痛いんだよね。
螺旋階段見てるだけで、ズキズキと痛むような。

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緑黄色のズッキーニ

町の産直野菜売り場で、綺麗なズッキーニを見つけた。
「味は、緑色のズッキーニと変わらないんですか?」
聞いてみると丁度、生産者の若者がいて、丁寧に教えてくれた。
「同じです。緑と黄色のズッキーニを作っているんですが、畑と畑との間で蜂が交配させてしまったらしく、マーブル模様のようなものが出来ました」
「綺麗ですねぇ」「綺麗ですよね」
味も値段も同じなら、いつもとは違った面白いものの方がいい。それに加え、彼の柔軟な対応が好ましくも思われた。変わり種のズッキーニを面白いと思うか、失敗作と思うかで、売り方も変わってくるだろう。彼の堂々と自分が作った野菜を薦める態度に、嬉しくなり是非買って帰ろうと思ったのだ。

我が家でのスタンダードな調理法は、オリーブオイルでスライスしたにんにくをカリッと炒めて取り出し、そこで輪切りのズッキーニを焼く。味付けは塩胡椒。大抵、肉の付けあわせに皿に盛り、カリカリにんにくを散らす。お好みでバルサミコ酢をかけて、召し上がれ。
「うーん。緑の野菜を食べてるって感じ」
とは、いつも、ズッキーニを食べて感じることだが、あえて言おう。
「うーん。緑黄色野菜を食べてるって感じ!」

ズッキーニは、正しくは淡色野菜ですね。中が白っぽいので。
判っていても、緑黄色野菜と呼びたくなる色です。

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時間のバランスが崩れる不思議に出会って

明野サンフラワーフェスが始まった。
富士山、南アルプス、八ヶ岳を見渡せる町の北側の農道沿い、約20か所に向日葵を咲かせ、畑を開放する。町おこしにと始め、毎年行っている祭りだ。
自由に歩いたり写真を撮ったりと、家族連れやカップルなど観光客がにわかに増え、観光地周辺に住んでいるのだと実感する季節でもある。

週末、我が家のウッドデッキで10人程でのバーベキューをすることになり、向日葵咲く北側の農道沿いにある産直野菜売り場に出かけた。採れたてのトウモロコシや枝豆、トマト、茄子など、美味しい野菜で都会から来る客人達をもてなそうという訳だ。
車で5分の野菜売り場に行き、買って帰るだけなので、当然普段着の上、化粧も日焼け止め程度。びっきーとの散歩と何ら変わらぬ格好だ。早足で野菜を買い、バタバタと車に乗り、いつものスピードで坂を下る。
その間、何人もの観光客とすれ違い、または追い抜いた。

ふと、時間のバランスが突如として崩れたような不思議な感覚に陥った。早足で買い物をする通常モードのわたし。ゆっくりと向日葵を愛で、一歩一歩を大切にあるく人々。
せかせかしているつもりはなかっただけに、その微妙なスピードの違いは、わたしを驚かせた。気づかぬうちに早足になっている時には「のんびりいこう」と誰かが教えてくれるものなのだろうか。そんな不思議を感じ、また町の向日葵が、彼らの時間をゆったりと進めていることを嬉しくも感じた。

フェスに合わせて、綺麗に咲きました。
向日葵畑のホームページはこちら→北杜市明野サンフラワーフェス

大輪の向日葵もあれば、小さく咲いた向日葵もあり。

うっすらと八ヶ岳が見えています。
雲と八ヶ岳が、向日葵畑を眺めているかのようです。

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風鈴ひとり

涼しげな音色だと思ったら、末娘の部屋の風鈴だった。
「主はいなくとも、風鈴は鳴るんだな」と、夫。
彼女はこの春、大学入学とともに県外でひとり暮らしているのだが、学生生活は思いの他楽しいらしく、夏休みの帰省もいまだ日にちすら決まっていない。
だがこう暑くては、エアコンのない我が家では窓を開け放つしかなく、末娘の部屋も例外ではない。玄関でも、彼女が小学生だった頃に家族旅行した佐渡の無名異焼き(むみょういやき)の風鈴が音を鳴らしているが、焼き物らしい割りと落ち着いた音だ。
何処で買ったんだか、誰かに貰ったんだかわからないが、末娘の部屋の風鈴はガラスで、風が吹く度に高音の綺麗な音色を奏でてくれる。
音で涼を感じ、ガラスで作られた風鈴の揺れる姿にまた涼を感じる。日本の素晴らしい文化だ。

20年と少し前、東京は大田区に住んでいた。東京といっても隅っこで、都会という趣きではなかった。その町で上ふたりの子ども達は生まれた訳で、思い出せば様々な出来事が果てしもなく浮かんでは消え頭をよぎるのだが、風鈴売りの屋台が通って行くのを見かけた時のことは鮮明に覚えている。

風鈴は、ひとつふたつだと涼しげな音を鳴らすが、30や40の風鈴が、風が吹く度にカラカラカランと鳴り、屋台を引く振動でまたカラカラカランと鳴る音は、涼しげというよりはにぎやかで祭りのようだった。
様々な色形の風鈴が揺れる姿には涼を感じたが、またまるで祭りの人ごみのようだなとも思った。風鈴の人ごみ。人ごみを歩く人も、それぞれひとりの人であるように、たくさんのなかに置かれても風鈴でさえ個なのだと思えた。
売れて行った風鈴達は、末娘の部屋で揺れる風鈴の如く風に揺れ、何処かでひとり、凛と涼しげな音色を奏でているのだろう。
風鈴に涼をもらいつつ、遠い昔に見た風鈴売りと、家族から離れて個となり暮らす娘を思った。
   
末娘の部屋の風鈴には、昔ながらの金魚の絵が描かれています。
玄関の無名異焼きの風鈴は、金属が混じっているような音色。
風よ、吹け吹け!

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幸せのバーバー・カモカモ

朝倉かすみ『とうへんぼくで、ばかったれ』(新潮社)を読んでいる。
23歳女子、吉田は、好きな男を追いかけて、札幌から東京に出た。問題は、男が吉田の存在すら知らないってこと。帯には大きく「恋はそもそも、ひとりずもう」とかかれている。ユーモラスな恋愛小説だ。
家を出るまでには吉田にも葛藤がある訳だが、その過程での彼女がもんもんと考えた言葉に共感した。
「もとより『ささやかなしあわせ』という言い回しがどうにも気に入らない質である。しあわせは大きいものだ。ささやかなものでは決してない。たとえ、はたのひとたちから見ればちっぽけでつまらぬものでも、当人にとっては巨大であるはずだ」だから、東京に行くのだ。行くべきだと。

ちっぽけでつまらなく、ささやかであり、また巨大でもある幸せ。
それを読み、連想したのは床屋の鴨だった。
肉じゃがや焼き魚で食卓を囲む家族団らんのひとときでもなければ、風呂上りに喉を潤すよく冷えた1杯のビールでもなく、鴨だ。

たまに買い物に行く道沿いの床屋に鴨がいる。庭で鴨4羽を飼っているのだ。夫とそこを通る度、鴨の話題になる。
「鴨、いるかな?」と、夫。「この暑さは、鴨にも応えるかも」と、わたし。
車で通るだけなので、見えるのは一瞬のこと。
「鴨、いたかも!」騒ぐのは、いつもわたしだ。
「水浴びしてたかも。涼しいかも。よかったかも」と、わたし。
「かもね」夫は、呆れモードの姿勢だが、しっかり鴨を見ている。
特別にわざわざその道を通ることはないが、通った時には、ふたりで鴨を見て鴨の話をする。車のなかでのそんな瞬間を、わたしは連想したのだ。
巨大な幸せとは、そんなちっぽけでつまらない瞬間にあるものかも、と。

床屋さんの鴨は勝手に撮影できないかも。池の鴨かも。

子鴨も、いるかも。可愛いかも。

種類もいろいろかも。
「他の夫婦もこんな風にしゃべってるかも」「ありえないかも」

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ぶらりと絵を観に

峠のギャラリー『歩゛ら里(ぶらり)』に行った。
近所に住むペーパークラフトのイラストレーター、小林さちこさんの個展を観に出かけたのだ。
『天使のプレゼント』と題された展示の作品約30点は、すべてが天使。
「世界の負のエネルギーを良い方向に変えていきたい。そんな思いを込めてライフワークとして創作している心の天使たち」だという。

絵を観るって、いいなとあらためて感じた。
作品の作り手は、様々な思いや意図を表現しようと創り上げているものも多いが、観る人によって受け取り方はそれぞれだ。
性別や年齢、好み、感じ方の違いや、また同じ人でも気持ちのバランスなどで、1枚の絵が全く違うものとして見えたり、心の違う場所に入ったりする。
絵にしろ彫刻にしろ、写真にしても映画にしても、詩だって小説だって、人が観て、あるいは読み、何かを感じる。それでようやく、作品は完成するのではないかと、わたしは勝手に考えている。

『歩゛ら里』で観た、天使たちの持つふわふわとした何かや、穏やかな微笑みは、わたしの心のかさかさしたしたところに、すっと馴染んで沁みていった。

北杜市は長坂町にあるギャラリー。夏の昼間でも涼しい天井の高い建物です。

絵ハガキでちょっと紹介。実物はもっと立体的で柔らかい感じです。
さちこさんのホームページはこちら→SACHIKO KOBAYASHI

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自分の口癖、知ってる?

自分の癖には、案外気づかないものである。指摘され、初めて気づくことの方が多いのではないだろうか。
こと口癖となると、口から出てしまった後は残らない。家族や友人など親しい間柄では、聞く方にさえも残らないことも多いようだ。

そのわたしの口癖を教えてくれたのは、4月に2週間ステイしていったオーストラリア男子、サムだった。娘が1年間のワーキングホリデーで知り合ったサムは、日本語を勉強中。英語がしゃべれないわたしとも、ずいぶんとコミュニケーションをとることができた。だが、口癖と言って面と向かい彼から指摘されたわけではない。

たとえば娘と日本の友人達とサムとで飲みに行った際。またたとえば、娘とサム、共通の友人達でスカイプする際。またたとえば……のそのなかには常にわたしは入っていない。サムはわたしのいないところで、それも多くは酒の席で「さはさんの真似!」と、わたしが酔っぱらった姿を口癖と共に披露していたのである。真似する時には大抵サムも酔っぱらっている訳で、酔っ払いが酔っ払いの真似をするのだから、それはもう臨場感が出るそうだ。その口癖とは。
「ナンダッケ? ナンダッケ?」「ナンダッケ? ナンダッケ?」

自分の口から「何だっけ?」と出る度に憮然とし「サム! 憶えてろよぉ」と遠く南半球に向かって吠え、オーストラリア男子との再会を誓うのだ。

これ、ナンだっけ? 韮崎のパン屋さん『cornerpocket』で買ったお昼ご飯。
スパイシーで美味しかった!
サムはわたしを「さはさん」と呼びます。由来は→ニックネームは「さは」

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95%の嘘と、大賀蓮

鵜呑みにしがちな性質(たち)である。
一緒にテレビを観ていて、よく夫が言う。
「あ、○○さんだ! わぁ、今こんなことやってるんだ」
たとえば彼の出身地、神戸の人だったり、彼がいまだ続けているサッカー関連の人だったり、仕事関係で如何にも知り合いそうな人だったり。
「へぇ、知り合いなんだ?」その度に、わたしは感心し、声を上げる。
だが、彼の次の言葉は「そんな訳ないじゃん」または「うそー」が95%。他愛もない嘘なのだ。95%というところに無意識下ではあっても彼の計算が伺える。本当を混ぜることで、妻を騙すことを楽しんでいる。それもこれも、わたしの鵜呑みにしがちな性格が深く関係しているように思えるから腹が立つ。

昨日、夫を駅まで送った帰り。回り道して蓮池に行った。
午前7時過ぎ。客人のいない蓮池は、しんと静まり返っていて花が咲く音が聞こえそうなほどだ。だが、花の咲く音は聞こえない。
花が咲く時に音がするとは、昔から言われていたそうだ。本当に音がするのか調べてみると、蓮池には鯉が跳ねる音や波立つ音などしか録音されなかったという。それを調べてみた人が、この大賀蓮(おおがはす)と呼ばれるピンクの大輪の蓮を、弥生時代の種から再生させた植物研究者、大賀一郎さんだ。
言い伝えられたことを鵜呑みにするのではなく、真実を知ろうとするのが、彼の科学者としてのやり方だった。

だが判ってはいても、わたしは鵜呑みにしがちな性質である。
「今度、飲みに行こうね!」とは、額面通りの言葉ではないことも多いと知ってはいるが「行こう行こう!」とその気になり、飲み会を企画したりもする。額面通りではない言葉が、苦手なのだ。
ひっそりとした朝、大賀蓮をひとり静かに眺めても、人の性質というものは、そう簡単には変わってくれそうもないと、蓮のピンクに、葉の緑に思う。人の心の真実は、科学では量れないところにあるのだ。

春まで末娘を毎日送っていた無人駅、中央線穴山近くにある蓮池。
池は4つあります。春には桜。梅雨時には紫陽花が楽しめるところです。

池の泥が汚ければ汚いほど、きれいな花が咲くとか。
日の出前に花開くという蓮。朝、涼しいうちしか観られないようです。

蓮が散った後は、まさに蓮根の趣。植物の不思議を感じます。

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リラックマをめぐる攻防

娘と夫との間で、リラックマをめぐる攻防が続いている。
もう10日ほどになるだろうか。我が家の階段で、リラックマがくるくると回っているのだ。

始まりは、いつもふとしたことだ。娘はクリスとマリーを迎える際、客用の和室に4匹のリラックマを並べた。歓迎しようという彼女なりの心配りのつもりらしい。と、そこまではいい。その心配りが心配りと言えるのかどうかも、この際目をつぶろう。問題はその後、ふたりの客人が帰った後だ。
「和室のリラックマ、片づけるように言っといてよ」と言い置き、夫は会社に行った。そしてわたしは、暗に娘に片づけるように言った。
「リラックマ達、部屋に帰りたがってるよ」
「うん。わかった」と、素直に娘。
しかしこの素直さが曲者なのだ。素直に聞き過ぎて、すぐに忘れる。「うん」と言った後「わかった」と言う前にはすでに忘れていることも多いくらい素直過ぎる性格だ。その上リラックマは彼女のなかでは何処にいても違和感のない空気的存在。リラックマ4匹は、しばらく和室で過ごすこととなった。

数日後、会社から戻った夫は、しびれを切らしリラックマを階段に運んだ。2階が子ども部屋になっている我が家では、洗濯物や郵便物などは階段に置いておき自分の物を持って行く決まりだ。しかしリラックマはいまだ階段にいる。
「きれいに並べたのが、まずかった」と、夫。
考えた彼は、娘に片づけさせようと、リラックマ1匹を逆立ちさせた。しかし、翌朝もリラックマはいなくなっているどころか、逆さにしておいた1匹も、元に戻っていたのである。夫は憮然とし、またリラックマを逆立ちさせた。だが、リラックマはふたたび元に戻る。いたちごっことはこのことだ。
その後、娘とはリラックマの話はしていないが、普通に学校やバイトのことなどは、しゃべっている。彼女は、夫ともにこやかに挨拶を交している。
果てさて、この攻防。いつまで続くことやらである。
     
実は、リラックマ達。勝手に動いているのかもと思える不思議。

姫は、僕が1番だと言ってくれます。2番はリラックマなのかな。
百匹いようが二百匹いようが、僕にとっては可愛い子分的存在ですよ。
ムキになるほどのことじゃ、ありませんね。まあ、僕も大人ですから。

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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