はりねずみが眠るとき

昼寝をしながら本を読み、ビールを空けて料理する日々
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シャインマスカットと、ひと皮むけた父娘

頼んでいた葡萄が、届いた。夫が知人の葡萄農家さんに、毎年頼んでいるもので、両方の実家にも送っている。
山梨の良さを、少しだけお裾分けしたいという思いからの恒例行事だが、その味見として購入した我が家の分を食べるのが、また楽しみなのだ。

その名も『シャインマスカット』種なしで皮ごと食べられる品種だ。
実は硬くしまっていて、ガリッとかじる歯触りを楽しめるほど。程よい甘さと酸味は絶妙で、口に入れる度に、プロが創りだす味だよなぁと感嘆する。

その『シャインマスカット』の食べ方で、帰省中の末娘と夫が、もめた。
皮をむいて食べる娘に、夫は皮ごと食べる美味しさを味あわせたい。だが彼女は、一向に皮をむく手をとめようとはしないのだ。
「一回だけでいいから、食べてみなよ」と、夫が言えば、娘も負けていない。
「さっき、皮が残ってたとこ食べたら、むいた方が美味しいって判った」
「全く、頑固なんだから」「頑固は、そっちでしょう?」
そう言いながらも、何故か楽しそうなふたり。
夫は、久々に帰省し、以外にもよく食べる娘を見て、大いに喜んでいるのだ。もちろん、娘もそれを知っていて、楽しんでいる。
ぶつかっていた時代を超え、父として娘として、ようやくひと皮むけた感じかな、と微笑ましくふたりを見つめた。それをこんな風に感じられるのも、食卓で輝くシャインマスカットの成せる技かも、と。

そして「好きなように、食べればいいじゃん」と、わたしは皮ごと食べ、また、むいても食べてみた。どちらも、捨てがたい美味しさだった。

箱を開けてまず、美しさを目で味わいました。粒揃いで、綺麗な色~ ♪

洗って冷蔵庫に冷やしておくと、少しずつなくなっていきます。

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プチ旅 ― 初めて歩く道で

週末、夫と、お隣は須玉町の瑞牆山のふもとに、蕎麦を食べに行った。30分ほどのドライブである。
夫は、久しぶりに一眼レフを出し、寄り道して写真を撮ろうと、ゆっくりと走った。彼は、石仏を撮るのが好きで、瑞牆を登る道には、たくさんの石仏がいる。撮りだしたら止まらなくなるのは知っていたので、わたしは「先を、歩いてるね」と声をかけ、歩き始めた。

すぐ隣の町なのに、見かけない植物を見つけ、新鮮な気分になる。facebookで見たばかりの葛の花や、ミズヒキなども見ることができた。
「初めて歩く道って、いいな」
なだらかな登りだが、標高が高いせいか涼しく気持ちがいい。カメラを向ける植物にも事欠かず、退屈もしなかった。だが歩けど歩けど、夫の車は来ない。
「遅いなぁ。こんなに待たされたら、こっちが、石仏になっちゃうよ」
ぶつぶつ、言い始めてからも、写真を撮っては、歩いた。
「ん? ぶつぶつって、仏々ってかくんだっけ? いや、違うから」
冴えないひとりギャグを飛ばすようになった頃、ようやく夫の車が到着した。
「いやー、よく歩いたね。2キロくらい歩いたんじゃない? あんまりいないから、どっかの家に上がりこんでお茶でもご馳走になってるのかと思ったよ」
「んな訳、ないでしょ!」冷たく言い放つと、彼は言い訳を始めた。
「ごめん、ごめん。近所の人が出てきて、石仏さんの説明してくれてさ」
「おなか、すいたー」「俺も」
始めて歩く道。見たことのない植物。一体一体同じものはない石仏さん達。話し好きな土地の人。ゆったり流れていく時間。たった30分のドライブは1時間半に拡大され、プチ旅となった。そしてもちろん、予期せずしてウォーキングした後の蕎麦は、やたらと美味かったのだった。

ポインセチアの葉っぱのような、この植物は何でしょうか?
『ショウジョウソウ』だと、教えてもらいました。
別名で『サマーポインセチア』と呼ばれることもあるとか。

早くも、栗が落ちていました。中身がないのは動物の仕業かな。

バッタくん、こんにちは。ようやく涼しくなったね。
野葡萄の葉っぱの上は、居心地よさそう。

近所にもあるセンニンソウかと思いきや、葉の形が違うボタンヅル。
花達が、マラカス振ってるみたいに見えて可愛い ♪

生命力が強い葛の蔓。大きな葉っぱは、何処でも見かけますが、
花は、近所では見かけませんでした。よく見るとアーティスティック。
ミズヒキは何枚も撮ったのに、全くピンが合いませんでした。
細長い茎に、小さな赤い花がいくつもついていて、可愛らしいんです。残念。

蕎麦処『みずがき』の、おばちゃん達が打つ手打ち蕎麦は、素朴な味。

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プレゼント選びは難しい

プレゼントを選ぶのは、難しい。
昨年、スペイン旅行の際、娘達にと選んだ土産は、ことごとく外れた。
末娘には、Vaho のペンケース。彼女の好みに合わせ、地味な色合いのものを選んだ。そして、留守番全般を引き受けてくれた上の娘には、奮発してスペインブランドのバッグを買った。(と言っても、4千円くらい)
上の娘は「ありがとう」と、笑顔で手にしたが、全く使わない。末娘に至っては、一緒に送った緩衝剤のミルキーの方が嬉しかったらしく、ペンケースのことには触れず「わーい。ミルキーありがと」とのメールをよこした。
考えあぐねた末、上の娘が旅に出る前に聞いてみることにした。すると彼女は、言いにくそうに答えた。
「だって、派手なんだもん」「えーっ、可愛いのに!」
そして結局、わたしが使うことになったのだった。

末娘と会う際に、そのバッグを提げて行き、自慢した。
「いいでしょ? おねえがいらないって言うから、もらった」
すると彼女も、言いにくそうに言う。
「それは・・・、いらないかな。わたしも」「えーっ、何それ!」

プレゼント選びのコツとして、よく言われるのは「自分が欲しいと思うものを選ぶと喜ばれる」というものだが「わたしが欲しいんだけど、ちょっと派手かも。でも娘は若いんだからいいか」と選んだものだったのだ。
「全くもう。わたしのブーツやサンダルは、勝手に履いて出かける癖に」
もう土産は買わないと、すねて言うと、彼女達は口を揃えて言った。
「うん。いらない」
脱力し、贅沢はさせた覚えもないが、ふたりとも、子どもの頃から気に入ったものしか身に着けなかったことを、思い出した。

表側。開けると、外ポケットが2つ。ケータイやスイカ入れに便利です。
ヤモリくんのブローチは、最初からついていました。

裏側です。ファスナーつきのポケットがいっぱい。使いやすいんですよ~。
上の娘のヨーロッパ貧乏旅行の様子は、こちら『23歳旅人いぶき』

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夏と秋の狭間で

甲府からの帰り道、農道を走っていると、道路にふわふわと舞う白いものを見た。「雲?」あり得ない思いつきに、自分で笑う。
心ない誰かが捨てた、ティッシュペーパーだろう。それでも、動いていると生き物のようにも見え、轢いてしまうのも気が引けて、スピードを落とした。

「夏の雲。秋の雲。夏の雲。秋の雲」
季節の狭間に浮かぶ雲達を、ひとつひとつ、選別したくなる。
そんな空が広がっていたから、つい足元に舞うものまで、雲だなんて思ってしまったのだろう。運転の気が散らないよう、道路脇が広くなっているところまで走り、駐車して雲の写真を、心ゆくまで撮った。そこまで走っているうちにも、雲は形を変えていく。空の色も、少しずつ夕方の色へと変わっていった。

ふたたび、走り出してすぐだった。
今度は、真っ直ぐにフロントガラス目がけて飛んできた。あわや、正面衝突。急ブレーキをかけ、難を逃れた。いや。向こうが高度を上げなければ、ぶつかっていた。カーブで、たがいに見えなかったのだ。
反対車線の車が、のろのろと走りながら、飛んで行った猛禽類を物珍しそうに見て「こんなに間近で見られるなんて」とでも言うかのように嬉しそうな顔をしている。羽根を広げた大きさはフロントガラスの幅ほどあり、茶色が強かったことを考えると、多分トビだ。道路に餌でも見つけたのか。

いつも空で見ているからと言って、足元には絶対にないとは言い切れない。
「さっきの白いものは、夏の雲の切れ端だったんですよ」
もしかしたら、トビは、教えてくれたのかも知れない。

北側の夏らしい雲は、八ヶ岳をすっぽり覆っていました。

北側の高いところには、にぎやかに様々な雲が混じりあって。

東側には、夕方なのに真夏の青空が広がり、入道雲がどーん。

西側の南アルプス連峰は、ちょっと霞んで、夏を惜しんでいるようでした。

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青と黄と黒を、混ぜ合わせて

同じ北杜市で、ブルーのアマガエルが見つかったことは、テレビのニュースを観て知っていた。子どもが見つけたものを、長坂町にある『オオムラサキセンター』で、飼育しているそうだ。空のように綺麗な青。アマガエルも様々だなぁと、我が家のウッドデッキや庭に住むけろじ達に、思った。

昼間は酷暑が続く明野も、朝夕は涼しさが増して来た。けろじ達の動きが活発になる早朝のウッドデッキは、にぎやかだ。出て来ては、すぐにウッドデッキの下に隠れるもの。薪置場が、気に入っているもの。板と板の間から、空を見上げるもの。つややかな緑のもの。ベージュが斑になっているもの。ダークグリーンのもの。大きさも、それぞれ。それぞれに、可愛い。
性格も違うのだろう。昼間、みなが涼しい場所に移動するなか、誰もいないウッドデッキに影を見つけて入り込み、夕方まで過ごすけろじもいる。
「暑くないの? 干からびちゃうよ」
心配になり、声をかけるも、動こうとしないので、そっとしておくと、朝、鮮やかな緑だったのが、夕方には、すっかりダークグリーンに変色していた。

アマガエルは、青と黄と黒の色素を皮膚に持っていて、身を守るために周囲の色に合わせ変色する習性があるという。ブルーの子は、黄の色素を持たないそうだ。子どもの頃、絵の具で青と黄を混ぜ、緑色を作った時の驚きが甦った。
そして、けろじ達が筆を持ち、青と黄と黒を調節しながら、絵の具を混ぜ合わせている様子が見えた気がして、さらに可愛さが増していくのだった。
彼らの目には、いったいどんな世界が映っているのだろう。

涼しい朝のけろじ。鮮やかな緑色でした。むこうにベージュくんが見えます。

ずっと同じ場所にいたんですが、ダークグリーンに変わっていました。
心なしか、やせたようにも見えますが、よく見ると足の模様はおんなじ。

これはさらに、翌日の夕方。色はどんどんダークに。
朝になると、太っていました。夜の間に、たくさん食べたのかな?
ストレス感じてると変色しないそうなので、元気なんだと思います。

ウッドデッキの下に、ダイビングする瞬間を捉えました。
後ろ足を引っかけて、深呼吸してから、えいっ!

草にピンが合って綺麗に撮れませんでした。朝、緑になってるかな?
あ、雑草だらけなのが、バレバレだ(笑)

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『あまからカルテット』

柚木麻子『あまからカルテット』(文春文庫)を、読んだ。
帯には「『ランチのあっこちゃん』作者が描く、アラサ―女子四人組の美味しい謎解き!」とある。中高一貫の女子校、中学時代からの仲良し四人組は、恋に仕事に悩み尽きぬ日々だが、その友情は変わらない。

ピアノ講師でおっとりした咲子が出会った「稲荷寿司のきみ」を3人が探し出す『恋する稲荷寿司』
唯一家庭を持つ由香子は、料理本出版に当たり悩んでいた。それを助けるべく3人が、子どもの頃に彼女が食べたという甘食を探し出す『はにかむ甘食』
彼の浮気を疑う、デパートで美容部員をする美人の満里子。真相を確かめようと3人が乗り出した『胸さわぎのハイボール』
口は悪いが、何をやらせても優秀な大手出版社で編集をする薫子が結婚した。引っ越しの荷物もそのままに仕事に忙殺される彼女のもとに、何故かラー油が『てんてこ舞いにラー油』
4人で作ったおせちを持ち寄り、薫子が作ったと偽り姑に食べさせようと企むが、大晦日に想定外の大雪が降る『おせちでカルテット』

「女の友情って、いいよなぁ」読み終えて、素直に思った。
そして、友人の顔をいくつか思い浮かべた。
小説のなかの彼女達より20歳以上歳をとってなお、人生いろいろあると思い知らされる日々。友人達に助けられることもあるし、ほんの少しだけ、わたしが助けてあげられることもあるかも知れない。
解説は、『負け犬の遠吠え』をかいたエッセイスト、酒井順子。
「親子でも夫婦でも友人でも、他の相性が悪くとも、食のセンスが共通していると、その関係は長続きするもの」という言葉に、うなずいた。食べることって、人と人が生きていく上で欠かせない、大切な大切なことなのだ。

咲子は彼のほっそりした体やそげた頬をまじまじと見つめる。そうだった。どうして彼から離れたくなったのか思い出した。薫子達の意見に流されたからでも、住む世界が違うからでもない。見てくればかりを気にして、お米をちゃんと食べないところに付いていけなくなったのだ。『おせちでカルテット』より

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いつかマレーバクに会いに行こう

マレーバクについて、調べてみた。
白黒ツートンカラーで、ジャングルの湿地を好んで生息する草食動物だ。夜行性で、一見目立つツートンは、補色となっている。夜には白い部分しか見えず、天敵である虎などは、その身体を把握できないらしい。生息できる森の減少から、絶滅危惧種に指定されている。前足に4本、後ろ足には3本の指があり、もちろん、夢は食べない。

何故、マレーバクなのかというと、2か月ほど前に気に入って買ったフェルトのブローチが、それなのだ。
布製の夏用鞄につけてから、見る人見る人「可愛い!」と言う。その度に得意気に「マレーバクなんだよ」と説明しつつ、そう言えばマレーバクのこと、何も知らなかったなぁと思い当たったのだ。
モノとの出会いも、また不思議なものである。

体長は、約2m。体重、約300kg。じつは巨大だ。
「300kgって、毎年買う米1袋が30kgだから、あれ10袋分!?」
一袋だって一人で運べないのに、これはもう想像もできない。ちなみに、じゃ象は何kgよと調べると、約6000kg。米200袋分。米だわら1俵60kgだから100俵分だ。想像の範囲を軽く超え、マレーバクは重さを失くし、宙を飛んだ。ふわふわと漂うマレーバクを眺めつつ、思う。
「夢も食べる訳だよなぁ」
動物園でいい。いつか、マレーバクに会いに行こう。そう決めた。

一目惚れして購入したフェルトのブローチ。まわりの水色が効いています。
夢を食べるといわれているのは、中国に伝わる架空の動物だそうです。
鼻は象、目はサイ、尻尾は牛、足は虎、身体は熊だとか。
架空の麒麟がいるんだから、架空のバクがいても可笑しくないですよね。

日本人がデザインし、ラオスで作られたコットンバッグです。
リバーシブルでも使えて、なかにはポケットもあります。

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小さな仕掛け

最近、物忘れがひどい。何しろ、すぐに忘れる。
例えば、あずさの指定席券を取り、電車に乗る前に、確認する。
「えーっと、10号車の5番A席」
ところが乗ったら、すでに忘れている。目当ての席辺りで鞄を探り、ふたたび切符を出し確認するが、その間に「そこ、わたしの席なんですが」とか言われたりする。迷惑千万である。

お盆休みには、夫と庭に出ることが多く、熱中症対策抜かりなく、水分補給を何度もした。ポカリスエットが有効らしいが、日本人は、やはりお茶である。冷たいお茶を何度も飲むのだが、その度にコップを洗うのももったいないので、マイコップを何度も使う。違うコップを使えば問題ないのだが、ふたりで飲むのだからコップも揃えたい。
「こっちは夫の。こっちはわたしの」
リビングからキッチンに持っていき、お茶を入れた途端、これがまた判らなくなっている。そこまで注意を払い、がんばって覚えていたとしても、ウッドデッキのテーブルに運ぶ途中ですっかり忘れている。どっちでもいいって言えば、それまでなのだが。
しかし休み終盤には学習し、氷を変える様にした。冷蔵庫で作るのが追いつかず、ロックアイスを買ってあったのだ。夫のコップにはロックアイス。わたしのコップには、冷蔵庫で作った小さく四角い氷。小さな仕掛けに自分で嬉しくなりつつ、冷たいお茶を何度も美味しく飲んだ。

「最近、物忘れがひどくてさぁ」飲みに行き、友人にコップの話をした。
「えっ? もともと、何度も同じコップは使わないかなぁ」と、友人。
「えーっ、そこから違うの?」と、わたし。
ドイツビールの美味い店で、いく種類かのフランクフルトを公平に食べられるように切り分け、よく冷えた陶器入りのピルスナーをふたり美味しく飲んだ。
「あれ? どのフランク食べたか忘れた」「あーっ、わたしも!」
切り分けた時点で、すでに安心してしまうのだ。切符も然り。お茶も然り。もしかして、これ、最近ではなく、これまでもずっとこうだったのではないか。だが、そんなことを思い出せるような記憶力は、わたしにはないのだった。

左の夫のコップには、買ってきたロックアイスを入れました。
冷蔵庫で作った氷は、透明にならないから、すぐ判ります。

お盆休み最終日には、薪小屋の屋根の修理を終えた夫と、
夜、鮪のカマと目刺しに日本酒で、大人なバーベキューをしました。

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白いゴーヤ

心のなかにあるものが、消滅した時と似ている。
白いゴーヤを見て、そう感じた。
例えば、誰かを好きだった気持ち。例えば、何かに魅かれていた気持ち。
もともと抱えていた、その気持ちの色や形を思い出せぬほど、すっかり失くなっていることに気づいた時と、似ているように思った。

幸いわたしは、まだごく近しい人の死を、経験していない。だからそれは、誰かを失くすのとは違っているのだろうと思う。誰かを失くした後にも、気持ちは残るはずだ。それとは違い、気持ち自体が消えるのは、色を失うのと似ているのではないかと、ゴーヤを見て感じたのだ。

白いゴーヤは、反論するだろう。
「わたしは、もともと、こういうモノなのです」
だが、だからこそ、似ていると感じる。何かを失った心には、全く違うモノが存在していくように思うからだ。
白いゴーヤは、こうも言うだろう。
「色や形が違っていても、ゴーヤはゴーヤです」
いや、だからこそ、似ていると感じる。心は心のまま、色を失い、味も形も尖った部分を失くしていくように思うのだ。
それでも、白いゴーヤは納得しないだろう。
「わたしは、わたしです」微笑みつつ静かに、言うかも知れない。

いただいたゴーヤが、あまりに綺麗だったので、心の形を連想したのかも。

緑のゴーヤは、炒めものやチャーハンに、美味しくいただきました。
白いゴーヤは、これから。何にしようかな。

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童話なジョーク

庭の茗荷が花を咲かせ、ずいぶんと太ってきた。毎朝の味噌汁や、薬味、浅漬けのアクセントなどに大活躍だ。嬉しい。

嬉しいので、収穫時に、ついおどけてひとりジョークを飛ばす。
「ふふふ。ようやく太ってきたね、ヘンゼル」
ご存知、グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』お菓子の家に住む魔女が、ヘンゼルを太らせてから食べようと食事を与え、毎日指を握り、太っているか確かめるシーンだ。魔女は目が悪く、ヘンゼルは牢屋から指だと偽り小枝を差し出していたので「太ってきたね」と彼女が言うシーンはない訳だが。

こんな風に、子どもの頃に読んだ童話や昔話を使って、ジョークを飛ばすことがよくある。例えば、ご近所総出で行う道作りの時など、箒や熊手などを持ち寄り、そこにあるもので作業するうちに、何処の家の物か判らなくなったりする。そこで、わたしが必ず言って失笑を買うのは「金の箒と銀の箒、どちらがあなたの箒?」ご存知、イソップ童話『金の斧、銀の斧』である。

蛙にキスすれば王子様になるとか、12時の鐘が鳴ったら帰らなくちゃとか、眠っている間に何か出来上がっていたら小人の仕業だとか、そんな童話のワンシーンが、生活のなかに根づいていることを感じる瞬間である。

ところで、最近の子ども達にも、こういったジョークは通じるのだろうか? 何しろ、知っていることが前提。知らなければ、何を言っているのか、判らないし、面白くもない。(実際に面白いかは、別にしても)
上の娘がテレビのバラエティで、淀川長治の物真似を観て笑っていたが「淀川長治知ってるの?」と聞くと「誰それ?」と答えたのを思い出した。

宝探しのようで楽しい、茗荷の収穫。太ってる ♪

花も咲いています。お盆休みだった夫も収穫を楽しんでいました。

お花ものせて、食べちゃいます。奴が美味しい季節だなぁ。

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靴擦れ

履きなれたサンダルで、靴擦れした。
もともと靴擦れしやすい足で、かかとの高いサンダルなどは履かない。スリッパのように平坦な、かかとなどないサンダルだ。その上、今年も普段履きに毎日履いていて、突然のことに、ただただ驚くばかりである。
確かに、油断していた。1時間ほどの散歩に、裸足でサンダルは、油断としか言いようがないかも知れない。だが、その同じコースの散歩でさえ、昨日までは、靴擦れなど全く起こらなかったのだ。

昨日まで起こらなかったことでも、何も変わらないように見える今日、それが起こるかも知れないと、右足小指つけ根の小さな擦り傷が、語っている。
サンダルでも靴擦れとは、これ如何に、などと擦り傷よりも小さなことを考えつつ、何が起こるかもしれぬ日常を、しばし見つめた。

散歩コースの田んぼでは、すでに稲が実り、頭をもたげてきました。

田んぼが広がる道を、夏の涼しい朝に歩く幸せ、感じます。

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『at Home』

タイトルの通り、家族がテーマだ。本多孝好『at Home』(角川文庫)
帯には「父さんは泥棒 母さんは詐欺師 サイテーで、最高の僕の家族」とある。その表題作は、竹野内豊と松雪泰子で、映画化決定だそうだ。
文庫は、4編収録の短編集。
表題作の他、血の繋がらない父娘を襲う、不安『日曜日のヤドカリ』
借金を返す代わりに1年間、妊娠した見知らぬ外国女性と暮らすことになった男の戸惑い『リバイバル』
妹の子どもの身体じゅうに、虐待の痣を見つけた兄の衝撃『共犯者たち』
ごく普通とは言えないが、それでも何処かにいそうな家族が描かれている。

家族だから、甘える。頼る。わがままを言う。当たり前のそんなことが、暴力に繋がっていったら? 甘えから出る言葉だって、相手を傷つけるにはじゅうぶんで、頼られ過ぎて折れてしまう弱さも、誰だって持っていて、わがままを言い合うことで壊れることだってあることも忘れがちで。家族の近しさ故に心の弱さが表れ、相手が壊れても壊れても止められず、暴力をぶつけてしまう。

家庭とは、そんな落とし穴が、不意に現れる要素が隠された場所なのではないか。うたた寝したアリスがうさぎ穴に落ちていったように、ほんの小さなきっかけで、落とし穴は見え隠れしているのではないか。すぐそこに危うさを感じ、恐くなる小説だった。

文庫を購入した際には、帯で拳銃が見えなくて、料理本のように見えました。

我が家の朝ご飯には、拳銃は似合いそうにありません。

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ニホントカゲの子どもが選んだ二者択一

庭でトカゲを、見かけた。尻尾がメタリックブルーに光る、小さなやつ。ニホントカゲの子どもである。
ちょうどカメラを持っていたので、そっと構える。すぐに気づかれてしまい、逃げ出すトカゲを追った。石垣の間に入ってしまうかと見ていたが、予想に反し、トカゲの動きが止まった。羽虫を食わえている。逃げる動きのなかで、食料を調達できたらしい。
「そっちを、優先したか」
追う人間から逃げるか、目の前の羽虫を食べるか、二者択一。瞬時に判断し、食べる方を選んだのだ。おかげで何枚か、写真を撮らせてもらった。

その様を見て、日々必死に生きているのだなぁと感じた。
人は普段、生きるための二者択一など、考えることもない。特に、平和な今の日本では。そこまで考えて、大きな違和感に気づいた。二者択一は、今、わたし達に迫られているものなのではないだろうか。戦争は、絶対にしない。今後何が起こっても、強い気持ちで選んでいかなくては。

見回すと、庭に生息する小さな生き物達の吐息を、いつもより近くに感じた。

青く光る尻尾が、綺麗です。子どものうちだけブルーだそうです。
切らずに逃げてくれて、よかった。

ようやく咲いた吾亦紅に停まって、キョロキョロしていました。
トンボも、ヤゴのうちは、肉食なんですよね。

今年は、大雪の影響か、カマキリをあまり見かけません。
生まれてこられて、よかったね。

ニイニイゼミの抜け殻が、ハマナスのトゲトゲにいっぱい。
殻をかぶっている時には、棘も刺さらないんでしょうか?

ウッドデッキの下で、草の中を散歩するけろじ。雨が嬉しいね ♪

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カルパッチョさんに、敬意を表して

東京で、久しぶりにイタリアンを食べに行った。
イタリアは南、海の幸が豊富なシチリアの料理だ。海鮮イタリアンを楽しもうと、夫とふたり、浮き浮きとでかけた。
予期せず、大好きなカールスバーグの生ビールが置いてあり、嬉しくビールで喉を潤してから、夫が白ワインを注文した。シチリアでも火山のふもとでとれた葡萄を使ったという白ワインは、火山灰が含まれた土壌から、ほどよく酸味の効いたものができるという。
「美味しいねぇ」「シチリア、行ってみたいねぇ」
料理に舌鼓を打ちつつ、のんびりとした時間を楽しむ。

我が家でもよくカルパッチョにする真鯵のカルパッチョもオーダーした。
「これは、簡単カルパッチョじゃないねぇ」と、わたし。
「確かに。簡単じゃないね」と、夫もうなずく。
「オレンジ風味のソースに、刻んだ数種類の野菜。手がかけてある」
「たまには、簡単じゃないカルパッチョもいいよねぇ」
そんなことを話ながら、そう言えばカルパッチョって、人の名前だったよなぁと思い出した。ルネッサンス画家のヴィットーレ・カルパッチョ。画風が、ヴェネツィアで生まれた料理、牛肉の薄切りにマヨネーズソースをかけたものを連想させる赤と白に特徴があったことから、そう呼ばれるようになったらしい。ピッツァ・マルゲリータは、トマトの赤、モツァレラチーズの白、バジルの緑で国旗を表現してるし、さすがイタリア。料理と芸術が、自然な形で繋がっているんだなぁ。

カルパッチョさん、半世紀以上経ち、自分の名が簡単であるとか、簡単ではないだとかをくっつけて、呼ばれるようになるとは思いもよらなかったろうに。これからは、簡単カルパッチョさんと、敬意を表して呼ぼう。などなどと、ワインが回る頭のすみっこで考えたのである。

沼津朝取れシラスはオリーブオイルとレモン味。カリカリバゲットにのせて。
お皿にかいてあるのが店名です『カンティーナシチリアーナ』

真鯵の簡単じゃないカルパッチョ。刻んだ野菜が目にも綺麗です。

メイン料理は、魚と調理法を、選ばせてもらいました。
真鯛の香草焼きと迷いましたが、おススメは、ほうぼうでした。

ほうぼうの『アクア・ディ・マーレ』フレッシュトマトが爽やか ♪

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『ガウディ × 井上雄彦 ― シンクロする創造の源泉』

『ガウディ × 井上雄彦 ― シンクロする創造の源泉』を観に行った。
ガウディの建築物は、去年スペインを旅した際、3つほど、じっくりと観たので、懐かしい気持ちになる。
ただ、ガウディの人となりについては、初めて知ることも多く、新鮮な気持ちで会場を歩くことができた。子ども時代からのガウディの生涯を、井上雄彦が漫画に描き、展示するという試みだったからだ。

ガウディは、子どもの頃、リウマチで歩けないほどの痛みに襲われることが多かったという。だが、その痛みにより、自分の足に骨があることに気づく。それを描いたシーンには、ハッとさせられた。元気で走り回っている子どもなら、自分の身体の成り立ちなど、考えないのが普通だろう。ガウディは気づき、人間の身体や、植物や動物の姿を、深く深く見つめていくこととなる。そして、人の身体に寄り添った四角くない建築物を創っていく。「痛み」というマイナス要素が、建築家ガウディの出発点だったのだ。

人生、マイナス要素など、ない方がいい。だがもちろん、そうもいかない。しかしそこから生まれるものだってあるかも知れないのだと思うと、不意に道が開けるような気がしてくる。そう言えばわたしも、去年 frozen shoulder (五十肩)になり、痛みに苦しんだが、その分様々なことを考え、文章にしてきた。ガウディのように、壮大なプロジェクトではないが、わたしにとって、普段考えないことを、深く考える大きなきっかけになったことは確かだ。
これからもしマイナス要素にぶつかったら、ガウディを思い出そう。それを受け入れ、じっと見つめることで、プラスの要素が生まれるかも知れない。

カサ・バトリョの写真を集めてみました。海をイメージしているような
渦を巻いた天井と、ステンドグラスは、水泡や貝殻のよう。
 
ドアも階段も、四角くありません。取っ手は握りやすさを重視しています。

テラスに出る部屋。パーティ会場にもなったとか。
  
タイルに囲まれた、中庭。同じ色に見えるように、青の濃さが、
グラデーションになっています。配色も考え尽くされてるってことかな。
屋上のオブジェは、廃棄タイルのリサイクルだそうです。ガウディは、
すでにエコロジーに、こだわりがあったようです。photo by my husband
 



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嫌いではない「それ、嫌い」

末娘が大学生になり、埼玉でひとり暮らしを始めてから1年と少しが過ぎた。
時にはふたりで、飲みに行ったり、ランチしたりと、外で会うことが多くなり、気づいたことがある。彼女は、わたしの服装について、意外と厳しい目で見ている、ということだ。
「それ、嫌い」
先日も、アジアン雑貨屋で3年ほど前に見つけたお気に入りのサンダルを履いていると、彼女に言われた。
「スリッパっぽいんだもん」「そう?」
しかし、わたしは気にしない。彼女と服装の好みが違っていることは、重々承知だ。そして、わたしが気にしないことを知っているからこそ、彼女は正直な感想を口にするのだ。わたしは、彼女のそういうきっぱりとしたところが嫌いではない。彼女がもちろん、誰にでも言う訳ではないことも知っている。友人には気を使って、言わないことが多いらしい。
わたしは、意見を求められた時には、正直に答えるが、こちらから言うことはしない。どちらにせよ、家族なのだから「正直に」というところが大切だ。だからこそ互いに安心して、聞けるというものである。

先月、彼女がスマホを買うために au の手続きに、つきあった。その時にオレンジ色のカーディガンを着て、au オレンジの紙袋を提げた彼女に「それとそれ、おそろいだね」と、ジョークを飛ばし、嫌な顔をされた。
彼女はもちろん、気にしない。家族であるから、わたしのジョークには慣れっこになっているのだ。そして多分、彼女はわたしのジョークが嫌いではない。わたしだって誰彼かまわず、くだらないジョークを飛ばすわけではないのだ。

こんな風に服装の好みを正直に言い合えて、くだらないジョークを飛ばせる仲、というのは、けっこう理想的な家族だと思うのだが、どうだろうか。

軽くて足の負担がまるでありません。そういうところ、確かにスリッパ?
かかとを折り曲げて、スリッパのように履いても、OKです。

革のボタンに、革のひもをくるくる巻いて留めます。このゆるさも好き。

切り抜いてある模様も、靴下と合わせられるところも気に入っています。

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『マスカレード・ホテル』

久しぶりに、東野圭吾を読んだ。『マスカレード・ホテル』(集英社文庫)
「マスカレード」は、仮面舞踏会の意味があるが、ホテルでそういったパーティを行う物語ではない。ホテルという場所に集う人々が、様々な仮面をかぶり、本当の姿とは違った自分を演じている。そんな人間の2面性の面白さを描いたストーリーだ。

ヒロイン山岸尚美は、一流ホテル、コルシアのフロントクラーク。そこに警察から異例の捜査が持ち込まれた。連続殺人事件の次の犯行場所がコルシアである可能性が高く、刑事達をホテルマンに化けさせ、潜入捜査を行うというものだった。尚美は、フロントクラークに化ける若手刑事、新田の教育係となる。
こうして仮面をかぶった刑事達が入場し、仮面舞踏会は始まっていく。客も様々。視聴覚障害者を装う老婦人。ホテル内の備品を盗むカップル。この男を近づけるなと写真を持ち込む女性。新田を目の敵にし難癖をつけてくる男。ストーカー被害にあっていることを新郎に隠している花嫁。
仮面をかぶった怪しげな人々が集うなかで、捜査は行われていく。

この小説でとても魅かれたところは、尚美を初めとするホテルマン達のプロ意識である。以下、尚美が新田にホテルマンとしての心得を説くシーン。
「ルールはお客様が決めるものです。昔のプロ野球に、自分がルールブックだと宣言した審判がいたそうですが、まさにそれです。お客様がルールブックなのです。だからお客様がルール違反を犯すことなどありえないし、私たちはそのルールに従わなければなりません。絶対に」

また、尚美の上司、久我も、新田に言う。
「基本は、お客様を快適な気分にさせる、ということです。身だしなみや言葉遣いに気を配るのも、そのためです。自分の言ったことに反論されれば、殆どの人は不愉快になります。だからホテルマンはお客様には反論しません。しかし、何でもいいなりになるわけでもありません」

そして新田達刑事も、もちろんプロの仕事をする。そんなプロフェッショナルなぶつかり合いが、小気味よく描かれたサスペンスだった。

東野圭吾は、加賀恭一郎シリーズが好きで、よく読みました。
『マスカレード・ホテル』は、シリーズ第1弾だそうです。楽しみ~♪

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けろじに「似たもの」

久しぶりに雨が降り、ウッドデッキで、けろじと再会した。
嬉しくて、朝からパラつく雨のなか、けろじを観察する。這いつくばって写真を撮ったり「くわっくわっ」などと話しかけたりした。
「何をやってるんだか」ウッドデッキの傷んだ板を交換するため点検していた夫が、呆れて見ているが、気にならない。
けろじは、すっかり色を変え、そして、ずいぶん太っていた。カラカラに乾いたウッドデッキの何処かに、ずっといたのかと思うと、嬉しくも可哀想になるが、元気そうだったので、ホッとした。

その後、買い物や精米などの雑用に出かけたのだが、そこで「似たもの」を見かけてハッとした。丸っこい軽自動車が、狭い道路からゆっくり頭を出した姿が、けろじが板の下からこちらをうかがう様と重なったのだ。
「あっ、けろじ。あぶない」と言いそうになって、言葉を飲み込んだ。
運転席には、夫がいる。
わたしはただ「しかし、さっきの軽の顔つきと、そろそろと頭を出す仕草は、全くもってけろじに似ていたなぁ」と、ニヤニヤするのみである。

精米所に着き、砂利が敷かれた駐車場で、再び「似たもの」を、見つけた。
今度はじゃが芋である。毎日のようにじゃが芋を料理する日々。砂利の上の大きめの丸い石が、じゃが芋に見えたのだ。
「あ、じゃが芋」今度は口にして、夫の失笑を買う。
日々じっと見ていた映像は、自然と目に頭に焼きつき、全然違うものが「似たもの」に見えてくる。不思議なことだ。

ふと雨空を見上げ、考える。今見えている日本の平和は、本当のものだろうかと。見慣れて頭に焼きついている平和が、もしかしたら平和と「似たもの」に、重なって見えているだけなのではないだろうか、と。

この姿です! 目に焼きついて、車とダブりました。
この場所が以前から好きだった、けろじだと思われます。

アマガエルって、こんな風に色を変えていくんですね。

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じゃが芋ソムリエになれずとも

いただいたじゃが芋を、着々と食べている。
今年は豊作だったようで、農家さん2軒と、家庭菜園をしているご近所さんからいただいた。農家さんからは男爵を、ご近所さんからは、最近話題の「インカの目覚め」や「シャドークイーン」「ノーザンルビー」など、試しに作ってみたという珍しい種類のものをいただいた。男爵は、ポテトサラダ、肉じゃが、味噌汁など、スタンダードメニューに最適。「インカの目覚め」他は、まずバター焼き。または、ふかしてバターをのせる。
色はそれぞれでも、味はじゃが芋、というところが面白い。もちろん、じゃが芋ソムリエなら、どんな調理法だとしても、目をつぶって食べて、一口で種類が判るのだろうが、わたしは「うん、美味しい!」で完結している。

まあ、そんなもんだろうと考えて、息子が中学生の頃に、宮部みゆき『ステップファザーステップ』(講談社)を薦めた時のことを、思い出した。
「直木賞をとった作家だよ」わたしのひと言に、彼は噛みついてきた。
「何の賞をとったとか、そういうの、興味ないから。本は面白いか、面白くないか、どっちかだよ」思えば、反抗期だったのか。
わたしはもちろん、本のソムリエでもない。ただ、面白い本を、息子に読んでほしかっただけなのだ。それから、彼は宮部みゆきのファンである。その時の彼の真剣な表情が、不意にじゃが芋のなかに見えて、ちょっと嬉しくなった。

いただいたじゃが芋は、どの種類も美味しくて、じゃが芋ソムリエではないわたしは、ただ「うん、美味しい!」と食べるのみである。

一番白いのが、男爵。黄色が、インカの目覚め。赤紫が、ノーザンルビー。
花豆を連想させる黒っぽいのが、シャドークイーンです。

黄色、赤、紫。茹でて切ってみると、はっきり!

炒めて、にぎやか~ ♪ バターと塩胡椒のみですが、simple is the best!

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行動の意味を考える

スペイン語講座、2回目の授業で、先生のベガに言われた。
「勉強してきました。やってきました。それだけじゃ、ダメ。覚えないと」
まったくその通りなのだが、宿題をやったことで、すっかり安心してしまう自分がいる。だが、授業を受けると「覚えて来てね」と言われたことの半分も覚えていないことが判り、唖然とした。

ふと思い出すのは、以前同じマンションに住んでいた女性の話だ。
彼女の夫は、夜が遅い仕事で、毎日、彼女と子どもが眠ってから帰ってくる。彼女は夫のために夕食を作り、テーブルに並べて置く。帰ってきた彼がそれに手をつけることはあまりなく、朝、手つかずの食事がそのまま残っていることが多いのだという。彼女は、残された料理を捨てる。朝食はとらない習慣で、彼はまた出勤していく。そしてまた、彼女は夕食をテーブルに並べるのだ。
「作って並べておくことが、大切なのよ」
彼女は、笑って言った。その顔は、自分を笑うかのように見えた。本当にそれが大切なのだろうかと思いつつ、わたしは何も言えなかった。彼女は今も、食事を作り、捨て続けているのだろうか。
彼女に会うこともなくなった今ではもう、知る由もない。

「学びの先にあるものを、見なくっちゃなぁ」
よく冷えた生ビールとタパス(スペインバルで出すつまみ)を遠くに臨み、日々彼女に捨てられる料理を背中に思いつつ、考えた。

去年行った、バルセロナのサン・ジョセップ市場です。

なにしろいろいろが、大量に並べてありました。それが楽しい ♪

見ているだけでも、おもしろかった!  photo by my husband

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宵待草のやるせなさ

誰かを待たせるのは苦になるが、待つのは苦にならない。
山梨の田舎町、明野に越して来てからは、家族を待つ機会が増えた。夜の無人駅で年頃の娘を待たせる訳にはいかないので、早めに迎えに行く。中央線はよく遅れるので、駅で長い時間、待たされることもしばしば。
そんな時には、車のなかで、のんびり本を読む時間を楽しむ。または、ぼーっとする。考え事などというほどのこともない、考え事をする。
待つのが苦にならないのは、そんな時間が好きだからだ。そして、家族を待つことのいいところは、必ず帰ってくるというところである。
末娘がひとり暮らしを始めた今では、駅で夫を待つ。彼は待つのが苦手だから、早めに行ってわたしが待つのだ。

今、町じゅうに、宵待草が咲いている。
黄色い可憐な、花だ。夕暮れ時にならないと花を咲かせないところから、名づけられたという。月見草も似たような種類だとか。
竹久夢二は、歌っている。

♪ 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな ♪

「帰って来ない人を待つのは、さすがに嫌だな」
宵待草を見て、思う。いくら待つことが苦にならないわたしでも、帰ってくる人がいるからこそ、待つことができるのだなと。

太陽に向かって、咲かない花もあるんですね。

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千日紅と「ありがとう」

トイレの窓に、庭の千日紅を飾った。半日もすると、太陽に向かい始める。植物ってすごいなぁと、ハッとさせられる瞬間だ。
人のように目で見てこっちが明るいと判断するわけじゃなく、身体じゅうで明るい方へと向かって行く。
飾ったわたしとしては、こっち向いてよと言いたくもなるが、太陽に向かって精一杯、背伸びをしているような姿が可愛く、ただ見とれるばかりだ。

似た名前の「百日紅」の木は、庭にはないが、よく見かける。暑い夏に華やかなピンクの花を咲かせ、楽しませてくれる。
千日紅は、その百日紅よりも長く咲き続けるからと名づけたられたとか。もちろん千日咲くわけもなく、1年草なので翌年には咲かないが、好きで毎年植えている花の一つだ。

この「千」という言葉で思い出すのは、イタリア語の「グラッチェ・ミッレ」「ありがとう + 千」で「本当に感謝しています」となる。「千」は「たくさん」という意味で使われている訳だが「千回分ありがとう」みたいに思えて、それが素敵で覚えているのだ。

「ありがとう」ってよく使う言葉だけれど、最近、深く意味も考えず、使いすぎているようにも感じる。「ありがとう」をたくさん言うのはいいことだと思う。平和と繋がる言葉だとも思っている。でもちょっと意識して「千」を溶かして混ぜてみようかな。さらに素敵な言葉になっていく予感がする。

アップルミントと合わせて、飾りました。金属のお香立ての双葉も、
心なしか、太陽に向かっているかのように見えます。

次々と小さな花をつけていきます。今年は紫にしました。

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習慣の重み

伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮社)で「やばいってのは野に咲く梅のことだ。野梅だ」と、泥棒黒澤が言っているが、大辞林で「やばい」と引くと、やはり「野梅」だ。それとは全く関係なく、今非常に、やばい状態である。
体重が、2キロ増えた。3年ほど前、2キロ増えて戻らないと言い始めてから、さらに、である。

考えるに、これは、びっきーが死んだことに起因している。彼と歩いた、懐かしい朝夕20分ずつの散歩。30分を越えないと脂肪は燃焼しないとも言われるが、その20分のウォーキングがわたしの健康を、そして体重を維持してくれていたのである。
習慣というものは、こうして現実の重みとなって現れるのだとしみじみするが、しみじみしている場合ではない。半年で2キロの増加。1年で4キロ、2年経ったら8キロ増加などと計算すると、深刻さが増してくる。
これは本当に、やばい。野に咲く梅ではなく、やばい。ということで、毎日体操することに決め、プログラムを組んだ。どうせなら、ウエストや二の腕を細くしたい。ウォーキングとは違った角度で攻めよう。朝夕20分とまでは言わない。半分の10分からでいい。習慣化しよう。大切なのは、習慣なのだ。

ところで、人というものは、また女性であるなら尚更であるが、ダイエット成功の自慢話などというものは、聞きたくないものである。なので数か月後、スリムになるであろうわたしだが、事後報告はしないことに決めた。いやー、本音は、自慢話したいところなんだけどなぁ。まぁ、誰も聞きたくもないもんね。やっぱ、やめとこう。うん。ははは。(自虐的笑いです)

そう言いつつ、夫とふたり、週末簡単バーベキュー。
ステーキ食べて、がんばろう! おう!(自虐的掛け声です)

炭火で焼くと、アメリカンビーフも柔らかで、ワインが進みます。
「ダイエットするんなら、酒やめれば?」と、夫。
「知ってる? 正論を言うやつは、嫌われるんだよ」と、わたし。

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付随する感情があるからこそ

記憶というのは、不思議なものだ。
例えば「誰々さんから電話があった」と、夫に伝えなくてはと考える。その考えた時点で、自分のなかの記憶上で、伝えたことにしてしまうことが、最近よくある。「考えた = 伝えた」と記憶してしまうのだ。
だから、なるべくその場でメールするようにしている。単純に伝えるだけで済むことならば、余計に忘れやすい。逆にメールで伝えるのが、ややこしいようなことは、忘れてもいいことが割合多いものなのだ。

そして、忘れてもいいようなことに限って、覚えているものでもある。
野菜スティックを作ると、思い出すことがある。

夫と末娘と3人で、イタリアを旅した時のこと。フィレンツェからバスに乗り、シエナという街に行った。中心広場が帆立貝の形をした美しい街で、その広場に建ったマンジャ塔から街を眺めようと、長い列に並んだ。国内外から訪れた観光客のなかには、小さい子どもを連れた家族も多く、3歳くらいの男の子とその両親が、わたし達の前に並んでいた。ドイツ人だったように記憶しているが、その子がぐずり出した。真夏で、暑い日だった。その時、母親が小さなクーラーバッグから取り出したのが、人参スティックだったのだ。子どもは機嫌を直し、人参をうさぎのようにカリカリかじった。その光景がなんとも微笑ましく、ありありと記憶に残っている。

バッグから出てきたものの意外性に加え、その時、感じたこと。
「子ども達が小さい頃、こんな風に野菜スティックを使えばよかったな」
その微かな後悔が、記憶の部屋に、そのワンシーンを残して消し去らない所以なのだと思う。出来事にプラスして、付随する感情があるからこそ、記憶に残るというものなのだろう。

胡瓜と大根と人参の野菜スティック。他に、セロリも美味しいですね。
バーベキューなどのときに、ばーんと置いておくと、ぺろりとなくなります。
 
マンジャ塔と、塔から眺めた風景です。

シエナの青く抜ける空。        photo by my husband

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スイッチを切り替えて

知らず知らずのうちに、スイッチを切り替えている。
大きく分けると、ふたつ。『仕事モード』と、名づけて『嬉し楽しやモード』

在宅勤務であるから、経理の仕事をする時には『仕事モード』スイッチオン!は当然のことだが、苦手な掃除などは、仕事モードのスイッチが入らないと、なかなか手をつけられない。しかし、好きな料理は、スイッチを入れる必要もなく、やっている。それがどうも『嬉し楽しやモード』らしいのだ。創りだす楽しさが、そこにあるからかも知れない。いや、それは人それぞれなのだろう。主婦には2パターンあると聞いたことがある。料理好きと、掃除好き。どちらなのかは、考えるまでもないが。

ところで、苦手なこと、嫌いなことは、負担に感じるのはしょうがないが、好きなことでも、負担になる時がある。日々好きなことをやっている人なら判ると思うが、料理が好きでも、今日は面倒くさいなぁと思う日も当たり前にある訳で、好きを続けたいのならやりたい時だけにすれば本当はいいのだろうが、食べることはそうもいかない。適当にサボりつつも、自分のなかで「最低限これだけは」の線引きを守り、キッチンに立ち続ける。
そんな日には意識して『嬉し楽しやモード』をスイッチオンにする。すると気持ちが軽くなる。あきらめにも似た自己暗示とも言えるが、前向きにあきらめる、この姿勢がわたしは嫌いではない。

さて。今戸惑っているのは、この2パターンにない新しさと懐かしさを両手に下げてやってきた「勉強」だ。スペイン語講座に通い始めたのはいいが、思うように宿題が進まず、なかなか『勉強モード』がつかめない。
分析するに、好きで始めた苦手なこと。掃除とも料理とも違う、新しいパターンだ。って、分析しててどうする? Give upには早すぎるぞ!

『バルめし』のレシピ本が、紛れているところが、わたしらしさ(笑)

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HN:
水月さえ
性別:
女性
自己紹介:
本を読むのが好き。昼寝が好き。ドライブが好き。陶器屋や雑貨屋巡りが好き。アジアン雑貨ならなお好き。ビールはカールスバーグの生がいちばん好き。そして、スペインを旅して以来、スペイン大好き。何をするにも、のんびりゆっくりが、好き。
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