はりねずみが眠るとき
小説「カフェ・ド・C」 20. いい夫婦の日に
11月22日は、いい夫婦の日だそうだ。その日、久しぶりにムッシュがカフェ・ド・Cのドアをくぐった。カウンターのいつもの席に座るが元気がない。そういえば母と結婚してからひとりで珈琲を飲みに来るのは初めてだ。
「お義父さん。何にしますか?」
「ああ。たまにはカプチーノにしようかな。温まりたい気分なんだ」
ムッシュは一言も口をきかずに、カプチーノを一口飲んではため息をついた。
「あの、」と僕が声をかけたのと、
「マスター」ムッシュが、深刻な顔で言ったのとが重なった。
「聞いてほしいことがあるんだ」「何でしょうか」その真剣さに緊張する。
「彼女が、その、ちょっとおかしいんだ」「おかしい、と言うと?」
「昨日からなんだが、その」言いあぐねるムッシュに促す。
「何でも相談してくださいよ」ムッシュがうなずく。
「キスをね、してくれないんだよ」「キス、ですか」
「おはようとおやすみの挨拶に、毎日キスするんだが、急に」
「そ、それは……。風邪でもひいたんじゃないですか?」
「いや。風邪はひいてない。彼女は風邪気味だと思ったら、いつも蜂蜜入りのレモネードを飲むんだよ。わたしにも予防だと言って入れてくれてね」
「今日は母は?」「何も言わずに出かけてしまって。もう何が何だか」
マスターから聞いてくれないかと頼まれたが、いくら親子でも聞きにくい。僕はタエに電話した。タエとは中学時代からの腐れ縁で、彼女はマダムとも仲がいい。ほどなくふたり連れだって店にやって来た。
マダムはカウンターに座り、ムッシュの方を向く。
「何も、へーすけに相談しなくても」怒ったような照れたような顔だ。
「いや、すまない。しかし、どうにも心配で」
「心配って?」「君の気持ちが離れてしまったんじゃないかと」
そこでマダムは、タエと顔を見合わせて笑った。
「笑うことじゃないだろ」僕はムッシュの気持ちになって言った。
「だって」とタエ。「ただの口内炎なのに」
「口内炎?」ムッシュがマダムの顔を見る。
「広がっちゃって、すごく痛くて、皮膚科に行ってたのよ」
「言ってくれればよかったのに」確かに、と僕も思う。
しかし、マダムも真剣だ。「唇の裏が腫れてるのが、恥ずかしかったの」
女心だねぇとタエが冷やかし、マダムに睨まれた。
「小春日和だし、散歩でもしながら帰るか」「いいわね」
女心。母にそんなものがあったとは。ふたりの背中を見送りながら考えた。いくら歳をとっても、いくら仲のいい夫婦でも、気持ちがすれ違い思い悩むことはあるのだ。それでも話をすればわかりあえることも多いのかもしれないと。
「まったく、素敵なふたりだねぇ」カウンターでタエがつぶやいた。
「暖かな日差しで、ゆりかもめも幸せそうに見えるね」とムッシュ
「わたし達ほどじゃないけどね」とマダム
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